ズームアップとネーミングされた写真で訴える紙面が読売(富田大介記者)の夕刊にある。その9月8日はロシアの軍事侵略で苦境に立たされているウクライナのキーウで活動するフォトジャーナリストアンナ・ドネツさん(18)。
「何が起きているのか、その真実を伝えるのが私の使命」だといい、大学でジャーナリズムを学びながら撮影を続ける日々だという姿がアップで被写体となって紙面の半分を占める。
自分が切り取った現実は,SNSやオンライン媒体であっという間に世界をかけめぐる。
「この国の未来は私たちの世代にかかっている』写真の力を信じ、理不尽な日常を記録し続ける。
1991年の独立後に生まれ、自由と民主主義の下で育った若者たちが今、自国の未来を思い、行動を起こしている。
ウクライナの伝統楽器バンドゥ―ラを奏でる二人の若き女性も被写体となっていた。
ロシアの軍事侵略で都市を強奪され、街を破壊され、女性は性的暴行され、子どもたちは拉致されたというニュースが流れている中で、戦災がれきを無人重機で安全・迅速に撤去する技術を日本政府国土交通省が支援に乗り出す。と9月9日の読売が夕刊で伝えている。
戦後80年、この間何とか戦争に巻き込まれず、平和が保てたのは、日本国憲法第9条のお陰である。
ところが、平和な日々を過ごしていたであろうウクライナの人々が2022年2月24日、さぞや驚いたであろうロシアの軍事侵略が始まり、ウクライナの人たちは国土を防衛し、独立以降せっかく手に入れた自由を守り抜くため武器を持って立ち上がった。
第二次世界大戦後ソビエト連邦共和国の一つとされ、1991年、ようやく自由と民主主義を手に入れたかと思えば、独立された側のロシアはウクライナが自由と民主主義の陣営に行くことを認めたくなかったのか、クリミア半島を強奪し、やがては、軍事侵略を始めた。
1941年12月8日、日本が米国との戦争に突入してから、1945年8月15日、玉音放送で無条件降伏を受け入れるまで3年8か月である。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵略してから3年7か月になろうかという2025年9月、よくウクライナは持ちこたえた。
米国と欧州の支援がなければ、とても、今日まで持ちこたえることはできなかったであろうが、ウクライナで、学生ジャーナリストが軍事侵略を続けるロシアの悪業を写真に撮影し、SNSで発信していることを高く評価したい。
イスラエルがパレスチナのハマスの皆殺しを企図し、滅茶苦茶な攻撃をしているが、『ノー・アザー・ランド故郷は他にない』でパレスチナの青年がイスラエルの青年と交流する中で、イスラエルがパレスチナでやっている非人道的な仕打ちを撮影し、世界に発信しているのを観て、ユダヤ人が大嫌いになりそうだ。
文章でも石牟礼道子『苦界浄土』(講談社文庫)で水俣病でも胎児性水俣病患者の様子を知り、心が激しく揺さぶられた。
写真になるとユージン・スミス『入浴する智子と母親』では圧倒的な力で胎児性水俣病に苦しめられる人々への支援を国がしないことに怒りを覚える。
ウクライナの窮状を写真で撮影することで、世界の心ある人たちにウクライナへの支援に目を向けさせることができるはずだ。
日本政府が戦争の支援はできなくとも、復興の支援ならいくらでもできるので、できることから、ウクライナの支援を進めてもらうことを大いに支持する。
満州や朝鮮半島での日本人女性に対するソ連兵の性的暴行、シベリア抑留とソ連、ロシアはどうしても好きになれない国であり、世界陸上にもロシアが参加できないように、何とかロシアが衰退することを祈るばかりだ。
2025年09月18日
2025年09月17日
供養されていない英霊に「忘れていない」と伝える
「戦後」の終止符 まだ遠く」という見出しで9月13日の読売(鈴木雄一論説委員)が夕刊のとれんどというコラムに「全国ソロモン会」36人がガダルカナル島、通称餓島で行われた慰霊法要に列席したことと遺骨収集の遅れについて書いている。
一行を率いたのは同会常任理事の崎津寛光さん(53)。東京は浅草の日蓮宗の壽仙院の住職でもある。
崎津さんは餓島の関係者ではない。「戦死者の慰霊供養こそが仏教の勤めではないか」。と島を訪れるようになった。同会入会後ボランティアの派遣隊を結成し、現地の協力を得ながら600柱以上を収容した。訪問は30回近くになり、現地村落との親善にも努めてきた。
16年遺骨収容を国の責務と定めた法律が成立した。
収容可能とされる約59万柱のうち、法施行後の実績は4000柱に満たない。身元を特定するためのDNA鑑定に時間がかかることなどが理由だという。
餓島にも6000余柱が残されている。
仏教者でもある崎津さんは「供養されていない英霊に『忘れていない』と伝える意味もあるんです」と語る。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のために行脚を続けてきたのは戦没者、死没者に『忘れていない』という心持からである。
各地の慰霊碑を訪ね歩いていた時、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養もしてきた。
遊女、女郎と呼ばれし女性たちには生きた証しさえない女性が少なくないが、数少ない慰霊碑、供養塔に残されている女性たちにも『忘れていないよ』という自分の想いがある。
医師はアフガンで殺された中村哲さんのような世のため、人のために身を犠牲にして尽くす高邁な心を持った人が少なくない。
ところが、人が死んだとき、あの世への旅立ちを見届ける仏教者にも本来立派な僧侶がいるはずだが、知る限り少ない。
浅草壽仙院の崎津寛光住職は「戦没者の慰霊供養こそが仏教者の勤めではないか」と自分と同じ考えに辿り着いたというので、嬉しくなって書いている。
「日蓮宗のお題目は『南無妙法蓮華経』と唱えます。南無とは帰依することで、法華経の教えに心から従いますという意味です。
日蓮聖人は、このお題目を口で唱えることによって私たちの身体そのものが仏となり、この世がそのまま浄土の世界になるという教えを説いています」とは寺の㏋で住職が説いていることだ。
浄土宗の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽浄土に行かれると説く。
戦争で戦没した人たちの慰霊をする。遺骨を収集する。
すべからく、感謝の気持ちと忘れていないという意思表示とその実践である。
一行を率いたのは同会常任理事の崎津寛光さん(53)。東京は浅草の日蓮宗の壽仙院の住職でもある。
崎津さんは餓島の関係者ではない。「戦死者の慰霊供養こそが仏教の勤めではないか」。と島を訪れるようになった。同会入会後ボランティアの派遣隊を結成し、現地の協力を得ながら600柱以上を収容した。訪問は30回近くになり、現地村落との親善にも努めてきた。
16年遺骨収容を国の責務と定めた法律が成立した。
収容可能とされる約59万柱のうち、法施行後の実績は4000柱に満たない。身元を特定するためのDNA鑑定に時間がかかることなどが理由だという。
餓島にも6000余柱が残されている。
仏教者でもある崎津さんは「供養されていない英霊に『忘れていない』と伝える意味もあるんです」と語る。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のために行脚を続けてきたのは戦没者、死没者に『忘れていない』という心持からである。
各地の慰霊碑を訪ね歩いていた時、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養もしてきた。
遊女、女郎と呼ばれし女性たちには生きた証しさえない女性が少なくないが、数少ない慰霊碑、供養塔に残されている女性たちにも『忘れていないよ』という自分の想いがある。
医師はアフガンで殺された中村哲さんのような世のため、人のために身を犠牲にして尽くす高邁な心を持った人が少なくない。
ところが、人が死んだとき、あの世への旅立ちを見届ける仏教者にも本来立派な僧侶がいるはずだが、知る限り少ない。
浅草壽仙院の崎津寛光住職は「戦没者の慰霊供養こそが仏教者の勤めではないか」と自分と同じ考えに辿り着いたというので、嬉しくなって書いている。
「日蓮宗のお題目は『南無妙法蓮華経』と唱えます。南無とは帰依することで、法華経の教えに心から従いますという意味です。
日蓮聖人は、このお題目を口で唱えることによって私たちの身体そのものが仏となり、この世がそのまま浄土の世界になるという教えを説いています」とは寺の㏋で住職が説いていることだ。
浄土宗の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽浄土に行かれると説く。
戦争で戦没した人たちの慰霊をする。遺骨を収集する。
すべからく、感謝の気持ちと忘れていないという意思表示とその実践である。
2025年09月16日
遊郭にいた女性たちの被爆体験が語られず
戦争や原爆をジェンダーの視点から考える市民講座「ジェンダーの視点でみる語られない『原爆』」が、広島市中区で6日にあった。広島市立大学広島平和研究所の四條知恵准教授が講演し、被爆当時、遊郭にいた女性たちの体験が語られていないことに触れ、「いまだに語られない被害があり、それは現在私たちが生きる社会にもつながっている」と説いた。9月15日の朝日新聞(遠藤花記者)のWEBで見つけた。
四條准教授は原爆被害の記憶研究が専門。四條准教授によると、市内で遊郭を経営していた男性の体験記は残っているものの、働いていた女性の体験記は見つかっていないという。
四條准教授は、市が編集した「広島原爆戦災誌」にも遊郭の女性たちに関する記述が少ないと指摘。1956年の売春防止法制定以降、差別的な視線が強まったため、体験が積極的に語られず記録も残らなかったのではないかと分析した。
遊郭と言うところは吉原を例にすれば、お歯黒どぶで囲われ、遊女、女郎と呼ばれた女性たちが逃亡できないように囲われていた。
大阪の飛田新地では嘆きの壁という名で今も一部残っている。
死ぬまで搾取され続けた女性たちが梅毒その他で死ねば、吉原なら投げ込み寺と呼ばれている浄閑寺に投げ捨てられた。
原爆も含めた日本の街への空爆で、ために女性たちの多くが逃げ遅れ焼け死んだ。
「B29空爆 歯止めなく」という見出しで北は青森から南は鹿児島までの空爆を受けた都市名、犠牲者数を戦後77年の語り継ぐ戦争で2022年月8月13日の読売が伝えている。
一方、日本全国にあった遊郭と空爆を受けた都市との関連は調べないと書けないが、木造建築で住宅が密集していたことを考慮すると空爆されれば、火災が発生してしまうことは容易に想像できる。
吉原の女性たちの手記などは、新吉原女子保険組合・関根弘編『赤線従業婦の手記 明るい谷間』(土曜美術社)を買い求めているので手許にあるが、詩、短歌、俳句そして作文などが綴られている。
谷川健一編『近代民衆の記録 3 娼婦』(新人物往来社)が手許にあるが、和田芳子『遊女日記』、森光子『光明に芽ぐむ日』住谷悦治編『街娼の記録』に街娼の手記がある。
遊女日記では梅毒の検査、梅毒に罹患して入院治療の様子などを書いているし、光明に芽ぐむ日では、吉原に売られ、やがて逃亡して、柳原白蓮宅に駆け込んだことなどが綴られている。
原爆では生き残ることが難しいので、遊郭にいた女性たちが語るのは難しいと思うが、空爆では籠の鳥のよう境遇から逃げ遅れて焼け死んだ可能性が高いことと、生き残ったとしても、自らの職業を明かすには勇気がいたであろうと思われる。
自分のことを綴った和田芳子さん、森光子さんにしても書くことで気持ちを奮い立たせていたのかなと思えば、勇気だけでなく、境遇と社会に対しての不満みたいなものがあったのかと推察する。
名古屋の中村遊郭にある中村観音は名古屋空襲、空爆で焼死した遊女、女郎の遺灰も塗りこめられている。
言葉では語れなくとも、観音様の体に彼女たちの無念の思いが込められていると考えているのは自分だけか。
四條准教授は原爆被害の記憶研究が専門。四條准教授によると、市内で遊郭を経営していた男性の体験記は残っているものの、働いていた女性の体験記は見つかっていないという。
四條准教授は、市が編集した「広島原爆戦災誌」にも遊郭の女性たちに関する記述が少ないと指摘。1956年の売春防止法制定以降、差別的な視線が強まったため、体験が積極的に語られず記録も残らなかったのではないかと分析した。
遊郭と言うところは吉原を例にすれば、お歯黒どぶで囲われ、遊女、女郎と呼ばれた女性たちが逃亡できないように囲われていた。
大阪の飛田新地では嘆きの壁という名で今も一部残っている。
死ぬまで搾取され続けた女性たちが梅毒その他で死ねば、吉原なら投げ込み寺と呼ばれている浄閑寺に投げ捨てられた。
原爆も含めた日本の街への空爆で、ために女性たちの多くが逃げ遅れ焼け死んだ。
「B29空爆 歯止めなく」という見出しで北は青森から南は鹿児島までの空爆を受けた都市名、犠牲者数を戦後77年の語り継ぐ戦争で2022年月8月13日の読売が伝えている。
一方、日本全国にあった遊郭と空爆を受けた都市との関連は調べないと書けないが、木造建築で住宅が密集していたことを考慮すると空爆されれば、火災が発生してしまうことは容易に想像できる。
吉原の女性たちの手記などは、新吉原女子保険組合・関根弘編『赤線従業婦の手記 明るい谷間』(土曜美術社)を買い求めているので手許にあるが、詩、短歌、俳句そして作文などが綴られている。
谷川健一編『近代民衆の記録 3 娼婦』(新人物往来社)が手許にあるが、和田芳子『遊女日記』、森光子『光明に芽ぐむ日』住谷悦治編『街娼の記録』に街娼の手記がある。
遊女日記では梅毒の検査、梅毒に罹患して入院治療の様子などを書いているし、光明に芽ぐむ日では、吉原に売られ、やがて逃亡して、柳原白蓮宅に駆け込んだことなどが綴られている。
原爆では生き残ることが難しいので、遊郭にいた女性たちが語るのは難しいと思うが、空爆では籠の鳥のよう境遇から逃げ遅れて焼け死んだ可能性が高いことと、生き残ったとしても、自らの職業を明かすには勇気がいたであろうと思われる。
自分のことを綴った和田芳子さん、森光子さんにしても書くことで気持ちを奮い立たせていたのかなと思えば、勇気だけでなく、境遇と社会に対しての不満みたいなものがあったのかと推察する。
名古屋の中村遊郭にある中村観音は名古屋空襲、空爆で焼死した遊女、女郎の遺灰も塗りこめられている。
言葉では語れなくとも、観音様の体に彼女たちの無念の思いが込められていると考えているのは自分だけか。
2025年09月15日
「書き残しておかないと『なかったことに』されてしまう」
「戦禍の記憶 書いて残す」という見出しで、江原桂都記者のコラムが「東京春秋」というタイトルのコラム328回ということで9月7日の読売で見つけた。
「書き残しておかないと『なかったことに』なってしまうでしょ」と記者の心を揺さぶった一言を発したのは『戦争孤児と戦後児童保護の歴史―台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち』(明石書店)の著者藤井常文さんだ。
取材で出会い、啓発された江原記者は戦禍の記憶を書いて残すことを大切にしていくと誓う。
都の児童福祉施設などで約40年間働いてきた藤井さんはこの本を自費出版した。
自らが働いてきた施設のルーツとなる戦争孤児施設に関心を持ったのは30代の頃で、児童福祉施設の果たしている役割や歴史を深く掘り下げたいと思ったそうな。
生きていくことさえ難しかった子どもたちを受け入れ、育ててきた人々がいた事実の数々が埋もれていることを残念に思ったとも話す。
上坪隆『水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録』(現代史出版会、徳間書店)を買い求めて読んだのは80年代の頃だったか。
「聖福寮の孤児たち」では身寄りの無い引揚孤児達と保育にあたる人々の記録。「水子の譜うた」ではソ連兵などからの性的暴行により妊娠、あるいは梅毒に罹患したた引揚女性たちを救済する二日市保養所のことを伝える。
語り継ぐ戦争の立場に立つ自分を導いたのは五味川純平『人間の條件』(三一書房)の主人公梶で、TVドラマで演じた加藤剛の影響大であることは何回となく書いている。
満蒙開拓団とシベリア抑留に関心が向いたのは、梶だけでなく、二日市保養所で妊娠中絶手術や梅毒の治療を受けた女性とスタッフの影響が何と言っても大きい。
二日市保養所跡を訪れたのは2009年の8月のことだった。
羽田から博多に着いたのだから、引揚孤児の聖福寮が境内にあった聖福寺に立ち寄るべきだったが、当時は引揚孤児のことより妊娠中絶手術をした二日市保養所のことしか目が向かなかった。
博多には福岡市市民福祉プラザ1階で『資料展「引揚港・博多」が大いに参考になるにもかかわらず、このことを知らなかったのは不覚である。
横浜に住む親族、もう亡くなってしまったが、戦災孤児の面倒を見ていたことを知ったのはご当人が亡くなってからのことで、生きているうちに知っていれば、いろいろ教えてもらえたはずで心残りである。
悔いることはいくらでもあるが、学校を卒業して、社会人になって、シベリア抑留から引き揚げてきた大正生まれの地域の実力者と仕事で知り合った。
今なら、いろいろ教えてもらえただろうに、当時はこちらが勉強不足で、質問することさえできなかった。
江原記者ではないが、書き残してもらえば、読むことで知ることもできるが、なければ、事実関係を確かめることもできなくなってしまう。
書き残すことの大事さがよくわかる出来事ではある。
「書き残しておかないと『なかったことに』なってしまうでしょ」と記者の心を揺さぶった一言を発したのは『戦争孤児と戦後児童保護の歴史―台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち』(明石書店)の著者藤井常文さんだ。
取材で出会い、啓発された江原記者は戦禍の記憶を書いて残すことを大切にしていくと誓う。
都の児童福祉施設などで約40年間働いてきた藤井さんはこの本を自費出版した。
自らが働いてきた施設のルーツとなる戦争孤児施設に関心を持ったのは30代の頃で、児童福祉施設の果たしている役割や歴史を深く掘り下げたいと思ったそうな。
生きていくことさえ難しかった子どもたちを受け入れ、育ててきた人々がいた事実の数々が埋もれていることを残念に思ったとも話す。
上坪隆『水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録』(現代史出版会、徳間書店)を買い求めて読んだのは80年代の頃だったか。
「聖福寮の孤児たち」では身寄りの無い引揚孤児達と保育にあたる人々の記録。「水子の譜うた」ではソ連兵などからの性的暴行により妊娠、あるいは梅毒に罹患したた引揚女性たちを救済する二日市保養所のことを伝える。
語り継ぐ戦争の立場に立つ自分を導いたのは五味川純平『人間の條件』(三一書房)の主人公梶で、TVドラマで演じた加藤剛の影響大であることは何回となく書いている。
満蒙開拓団とシベリア抑留に関心が向いたのは、梶だけでなく、二日市保養所で妊娠中絶手術や梅毒の治療を受けた女性とスタッフの影響が何と言っても大きい。
二日市保養所跡を訪れたのは2009年の8月のことだった。
羽田から博多に着いたのだから、引揚孤児の聖福寮が境内にあった聖福寺に立ち寄るべきだったが、当時は引揚孤児のことより妊娠中絶手術をした二日市保養所のことしか目が向かなかった。
博多には福岡市市民福祉プラザ1階で『資料展「引揚港・博多」が大いに参考になるにもかかわらず、このことを知らなかったのは不覚である。
横浜に住む親族、もう亡くなってしまったが、戦災孤児の面倒を見ていたことを知ったのはご当人が亡くなってからのことで、生きているうちに知っていれば、いろいろ教えてもらえたはずで心残りである。
悔いることはいくらでもあるが、学校を卒業して、社会人になって、シベリア抑留から引き揚げてきた大正生まれの地域の実力者と仕事で知り合った。
今なら、いろいろ教えてもらえただろうに、当時はこちらが勉強不足で、質問することさえできなかった。
江原記者ではないが、書き残してもらえば、読むことで知ることもできるが、なければ、事実関係を確かめることもできなくなってしまう。
書き残すことの大事さがよくわかる出来事ではある。
2025年09月14日
「食料への権利」を認めよ!
「TPP交渉差止・違憲訴訟の会」から「TPP新聞」VOl.25 2025年8月が手許に届いている。
有機無農薬での野菜作りを実践してきたので、食の安全には大いに関心があり、原告団にも加わったことがあるくらいだが、結果的に地裁で敗訴した段階で、勝ち目がないと判断し原告団からは外れた。それでも、会を支援するサポーターとして残っているため、会報である「TPP新聞」が届く。
その間、国が種子法を廃止したため、「TPP交渉差止・違憲訴訟の会」は、「種子法廃止違憲確認訴訟」を始めたが、一審で敗訴したため、控訴するも、「食料への権利」は認められなかったため、3月4日、最高裁に上告した。
弁護団共同代表の田井勝弁護士が最高裁に上告したのは「誤った憲法解釈、法解釈を正す。それが最高裁の役割」だからと紙面の1面で訴えている。
1952年に主要農作物種子法の制定で、戦後の食糧難を克服し、国民に安定した食を保障することを目指した。
1999年には食料・農業・農村基本法で良質な食料が安定的に供給されることは国民の権利であり、国の義務であると明記されていると上告理由に加えている。
種子法が廃止されて以降、民間品種「みつひかり」の不正事件やコメ不足、食品表示の厳格化などが起こっていることで原告団にも不安が共有されている。
国家権力の力は強く、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)はすでに動き出しているが、それでも、生協など食の安全と安定供給に関心を持つ団体や個人は日本の食料自給率の低さなどから、食料の安定供給について心配していたところに、令和の米騒動で、コメ不足を補うためと称して政府は備蓄米の放出に踏み切った。
TPP違憲訴訟と種子法廃止違憲確認訴訟については、オールドメディアとされている新聞やテレビではほとんど取り上げられることがないから、一人でも多くの人に知ってもらいたいと、こうして発信している。
とかく、人は自分に直接かかわりがないと判断すれば、他人事にしてしまう傾向がある。
しかしである。
冷静に考えてみれば、食の安全、安定供給の問題であることを理解すれば、他人事だなどと言っている場合ではない。
後期高齢者になってしまった自分はともかく、子どもや孫の世代の食料のことを考えれば他人事だなどと言ってられない。
種子法廃止は多くの人たちに関わりのある問題だから、少なくとも社会問題としての意識を高めてもらいたい。
有機無農薬での野菜作りを実践してきたので、食の安全には大いに関心があり、原告団にも加わったことがあるくらいだが、結果的に地裁で敗訴した段階で、勝ち目がないと判断し原告団からは外れた。それでも、会を支援するサポーターとして残っているため、会報である「TPP新聞」が届く。
その間、国が種子法を廃止したため、「TPP交渉差止・違憲訴訟の会」は、「種子法廃止違憲確認訴訟」を始めたが、一審で敗訴したため、控訴するも、「食料への権利」は認められなかったため、3月4日、最高裁に上告した。
弁護団共同代表の田井勝弁護士が最高裁に上告したのは「誤った憲法解釈、法解釈を正す。それが最高裁の役割」だからと紙面の1面で訴えている。
1952年に主要農作物種子法の制定で、戦後の食糧難を克服し、国民に安定した食を保障することを目指した。
1999年には食料・農業・農村基本法で良質な食料が安定的に供給されることは国民の権利であり、国の義務であると明記されていると上告理由に加えている。
種子法が廃止されて以降、民間品種「みつひかり」の不正事件やコメ不足、食品表示の厳格化などが起こっていることで原告団にも不安が共有されている。
国家権力の力は強く、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)はすでに動き出しているが、それでも、生協など食の安全と安定供給に関心を持つ団体や個人は日本の食料自給率の低さなどから、食料の安定供給について心配していたところに、令和の米騒動で、コメ不足を補うためと称して政府は備蓄米の放出に踏み切った。
TPP違憲訴訟と種子法廃止違憲確認訴訟については、オールドメディアとされている新聞やテレビではほとんど取り上げられることがないから、一人でも多くの人に知ってもらいたいと、こうして発信している。
とかく、人は自分に直接かかわりがないと判断すれば、他人事にしてしまう傾向がある。
しかしである。
冷静に考えてみれば、食の安全、安定供給の問題であることを理解すれば、他人事だなどと言っている場合ではない。
後期高齢者になってしまった自分はともかく、子どもや孫の世代の食料のことを考えれば他人事だなどと言ってられない。
種子法廃止は多くの人たちに関わりのある問題だから、少なくとも社会問題としての意識を高めてもらいたい。
2025年09月13日
民具生活用品を50万点収集
70年以上かけ民具・生活用品を50万点収集した秋田県横手市の油谷満夫さん(91)のことを「古い道具の中に未来がある」という見出しで9月7日の読売(小杉千尋記者)が「顔 Sunday」というコラムで紹介している。
農具など日常で使用されていた民具や家庭の生活用品を江戸時代から現代まで、総数は約50万点。「苦しい時代を生き抜いてきた人たちの工夫と知恵が詰まっている。苦労して使われてきた道具ほど、いい格好をしているものです」と収集してきた思いを話す油谷さん。
米穀商だった生家は経済的に苦しかったため、食べるためになんでもやったが、心の支えとなったのが物の収集だった。
切手の収集から始まった収集癖はやがて、関心は民具へと移った。
「庶民の暮らしを残したい」と民家を訪ね歩いては、使われなくなった道具を譲ってもらって回った。
収集品は自宅に収まりきらず、複数の倉庫で保管してきた。
このことを聞きつけた東京芸大の准教授らが現代の生活やアートへの活用を検討しようと2025年春調査が始まった。
「先のことがわからないからこそ、人は歴史に学ぶしかない。古きものの中に未来がある」と民具収集の面白さを語る。
アジア太平洋戦争に召集され、南方のスマトラ島から無事帰国した父親は偶々わが家にあった農地で陸稲や野菜を作っていたのを小学生の時から手伝わされた。
16歳になったばかりの夏にその父親が病死したため、畑に行くことはなくなったが、20代半ばの頃、荒れ地と化した畑で枯草火災が起こり、消防署に管理不行き届きで怒られた。
仕方なく、開墾から始めて、栗や梅の木を植えた。
もう陸稲を作ることなど考えられなくなったので、物置にあった昭和30年代製の脱穀機とモーター、唐箕などを知人に処分してもらったことがある。
知人は農耕具として、収蔵してくれるような話をしていたが、その後どうなったことか不明である。
秋田で個人が農具や生活用品を50万点も収集している人がいたとは驚きである。
わが家では、祖父が建てた土蔵、所謂蔵を先年解体し、中にあったものをアンテイックの店の人に引き取ってもらったことがある。
油谷さんが近くにいることを知っていたら、何点かでも、持って行ってもらいたかった。
古い道具の価値を知っている人から見れば、わが家のようないい加減な家の主は何もわかっていないと思ったかもしれないが、要らないものは要らないのだから仕方ない。
秋田の横手といえば、、水神様をまつる小正月の伝統行事、かまくらでよく知られている雪の多い街だが、女郎や娼婦と呼ばれし女性たちの供養をしてきた立場としては、伊達一行『みちのく女郎屋蜃気楼 : アネさんたちの「昭和史」』(学芸書林)を買い求めて読んでいるので、馬口労町に遊郭があったことを知っている。
油谷さんの民具、生活用品の収集とは関係ないが、歴史に学ぶという視点で見れば、横手のような街でなぜ、遊郭があったのか。ということも知っておいた方がいいかもしれない。
豪雪地帯だろうが、働く場がない東北の田舎では、性を商うことも一つの仕事になるということか。
生きるとはこういう人々の営みも含まれるのだろう。
農具など日常で使用されていた民具や家庭の生活用品を江戸時代から現代まで、総数は約50万点。「苦しい時代を生き抜いてきた人たちの工夫と知恵が詰まっている。苦労して使われてきた道具ほど、いい格好をしているものです」と収集してきた思いを話す油谷さん。
米穀商だった生家は経済的に苦しかったため、食べるためになんでもやったが、心の支えとなったのが物の収集だった。
切手の収集から始まった収集癖はやがて、関心は民具へと移った。
「庶民の暮らしを残したい」と民家を訪ね歩いては、使われなくなった道具を譲ってもらって回った。
収集品は自宅に収まりきらず、複数の倉庫で保管してきた。
このことを聞きつけた東京芸大の准教授らが現代の生活やアートへの活用を検討しようと2025年春調査が始まった。
「先のことがわからないからこそ、人は歴史に学ぶしかない。古きものの中に未来がある」と民具収集の面白さを語る。
アジア太平洋戦争に召集され、南方のスマトラ島から無事帰国した父親は偶々わが家にあった農地で陸稲や野菜を作っていたのを小学生の時から手伝わされた。
16歳になったばかりの夏にその父親が病死したため、畑に行くことはなくなったが、20代半ばの頃、荒れ地と化した畑で枯草火災が起こり、消防署に管理不行き届きで怒られた。
仕方なく、開墾から始めて、栗や梅の木を植えた。
もう陸稲を作ることなど考えられなくなったので、物置にあった昭和30年代製の脱穀機とモーター、唐箕などを知人に処分してもらったことがある。
知人は農耕具として、収蔵してくれるような話をしていたが、その後どうなったことか不明である。
秋田で個人が農具や生活用品を50万点も収集している人がいたとは驚きである。
わが家では、祖父が建てた土蔵、所謂蔵を先年解体し、中にあったものをアンテイックの店の人に引き取ってもらったことがある。
油谷さんが近くにいることを知っていたら、何点かでも、持って行ってもらいたかった。
古い道具の価値を知っている人から見れば、わが家のようないい加減な家の主は何もわかっていないと思ったかもしれないが、要らないものは要らないのだから仕方ない。
秋田の横手といえば、、水神様をまつる小正月の伝統行事、かまくらでよく知られている雪の多い街だが、女郎や娼婦と呼ばれし女性たちの供養をしてきた立場としては、伊達一行『みちのく女郎屋蜃気楼 : アネさんたちの「昭和史」』(学芸書林)を買い求めて読んでいるので、馬口労町に遊郭があったことを知っている。
油谷さんの民具、生活用品の収集とは関係ないが、歴史に学ぶという視点で見れば、横手のような街でなぜ、遊郭があったのか。ということも知っておいた方がいいかもしれない。
豪雪地帯だろうが、働く場がない東北の田舎では、性を商うことも一つの仕事になるということか。
生きるとはこういう人々の営みも含まれるのだろう。
2025年09月12日
募る望郷 ソ連占領国後 暗夜の脱出
戦後80年 昭和百年で読売が力を入れて伝える語り継ぐ戦争。9月9日(波多江一郎記者)はアジア太平洋戦争で日本が降伏した後も侵攻を続け、北海道の半分を強奪しようと目論んだ強盗、捕虜の抑留、強制労働国家スターリンのソ連軍によって1945年9月上旬までに占領された北方領土。約1万7000人が暮らしていた。
千島歯舞諸島居住者連盟によると、7月末時点の元島民は4897人で、平均年齢は89・6歳に達する。
国後島から根室に引き揚げた佐々木タエさん(88)。4歳の時、漁船の転覆事故で父親を亡くしている。
記憶をたどると、1945年7月中旬、空襲で約400人が犠牲となった対岸の根室が炎に包まれたのを目撃している。
45年9月下旬の夜、島から60`先の対岸の根室を目指し、祖父母や母たち8人で小舟に乗り込み、沖で漁船と落ち合うと、はしごをよじ登ろうとした時、小舟が波で上下に揺れ、「海に落ちる」と身が縮んだが、手をひっぱられ漁船に転がり込んだ。
空襲で市街地の8割が焼けた根室から知人を頼って釧路方面に行き、物置小屋や納屋を転々とした。
戦争で母親の弟が戦死し、息子を亡くした祖母は心を病み、川に身を投げた。
18歳で銀行員になり、結婚して2人の娘にも恵まれた佐々木さん。
北方4島の返還運動に加わり、日露自由訪問で2014年と2016年に国後島を訪れた。
語り部をしながら、ロシアが2022年2月24日、ウクライナに侵攻、侵略したことが国後島の占領と重なる。
ウクライナに平和が訪れるように願っている。
人間あきらめてはダメだ。とは古来から言い伝えられていることである。
日本とロシアの間では日露戦争があったくらいで、ロシアの前身ソ連のスターリンは日露戦争で日本が手にした権益をすべて奪い返すという目的があったとされている。
その上で、北海道の半分を強奪し、不凍港を手に入れ、シベリアから、日本海太平洋に出ることを考えていたという説がある。
1945年8月9日未明、樺太や千島列島に侵攻侵略してきたソ連軍が玉音放送後も攻撃の手を緩めなかったことに対し、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官・樋口季一郎陸軍中将の命令で千島列島の占守島の守備隊戦車11聯隊が懸命に戦い、ソ連軍の南下を引き延ばしたため、北海道には米軍が先に進駐できたことから、北海道は無事日本の領土だった。
日露間には、過去の歴史で対立関係にあったにもかかわらず。、愚か者たちがソ連に和平交渉の仲介を恃もうとしたことがあった。
戦後になって数十年、強盗国家が奪った領土を還すはずがないにもかかわらず、またしても愚か者が2島返還だなどと交渉した云々と伝えられ怒り心頭だった。
ウクライナのクリミア半島を強奪したロシア。元はといえば、北海道の強奪を目論んだように海に出ることが優先課題だった。
21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナ侵略で占領した土地をまたしても強奪した。
あきらめてはいけないというのは、ロシアに強奪された北方領土を返還せよとことあるごとに訴え続けることが大事だということ。
自分たちの領土だったということで、長い歴史をみれば、ロシアが衰退したり、疫病が流行ったりすることだってあるかもしれない。
怨念という言葉は好きではないが、満州などでのソ連兵による性暴力、シベリア抑留、ウクライナ侵略という事実に対し、天罰が下ることを祈り続けることはできるはずだ。
千島歯舞諸島居住者連盟によると、7月末時点の元島民は4897人で、平均年齢は89・6歳に達する。
国後島から根室に引き揚げた佐々木タエさん(88)。4歳の時、漁船の転覆事故で父親を亡くしている。
記憶をたどると、1945年7月中旬、空襲で約400人が犠牲となった対岸の根室が炎に包まれたのを目撃している。
45年9月下旬の夜、島から60`先の対岸の根室を目指し、祖父母や母たち8人で小舟に乗り込み、沖で漁船と落ち合うと、はしごをよじ登ろうとした時、小舟が波で上下に揺れ、「海に落ちる」と身が縮んだが、手をひっぱられ漁船に転がり込んだ。
空襲で市街地の8割が焼けた根室から知人を頼って釧路方面に行き、物置小屋や納屋を転々とした。
戦争で母親の弟が戦死し、息子を亡くした祖母は心を病み、川に身を投げた。
18歳で銀行員になり、結婚して2人の娘にも恵まれた佐々木さん。
北方4島の返還運動に加わり、日露自由訪問で2014年と2016年に国後島を訪れた。
語り部をしながら、ロシアが2022年2月24日、ウクライナに侵攻、侵略したことが国後島の占領と重なる。
ウクライナに平和が訪れるように願っている。
人間あきらめてはダメだ。とは古来から言い伝えられていることである。
日本とロシアの間では日露戦争があったくらいで、ロシアの前身ソ連のスターリンは日露戦争で日本が手にした権益をすべて奪い返すという目的があったとされている。
その上で、北海道の半分を強奪し、不凍港を手に入れ、シベリアから、日本海太平洋に出ることを考えていたという説がある。
1945年8月9日未明、樺太や千島列島に侵攻侵略してきたソ連軍が玉音放送後も攻撃の手を緩めなかったことに対し、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官・樋口季一郎陸軍中将の命令で千島列島の占守島の守備隊戦車11聯隊が懸命に戦い、ソ連軍の南下を引き延ばしたため、北海道には米軍が先に進駐できたことから、北海道は無事日本の領土だった。
日露間には、過去の歴史で対立関係にあったにもかかわらず。、愚か者たちがソ連に和平交渉の仲介を恃もうとしたことがあった。
戦後になって数十年、強盗国家が奪った領土を還すはずがないにもかかわらず、またしても愚か者が2島返還だなどと交渉した云々と伝えられ怒り心頭だった。
ウクライナのクリミア半島を強奪したロシア。元はといえば、北海道の強奪を目論んだように海に出ることが優先課題だった。
21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナ侵略で占領した土地をまたしても強奪した。
あきらめてはいけないというのは、ロシアに強奪された北方領土を返還せよとことあるごとに訴え続けることが大事だということ。
自分たちの領土だったということで、長い歴史をみれば、ロシアが衰退したり、疫病が流行ったりすることだってあるかもしれない。
怨念という言葉は好きではないが、満州などでのソ連兵による性暴力、シベリア抑留、ウクライナ侵略という事実に対し、天罰が下ることを祈り続けることはできるはずだ。
2025年09月11日
海洋プラごみ 溶ける素材に注目、廃棄漁網 服やバッグに
日本で最も深刻な海洋プラスチックごみ問題の一つが、漁網や釣り糸などが海に流出して漂う「ゴーストギア(幽霊漁具)による被害だこの問題の解決策として、海で溶けるプラスチックの研究が注目されている。と8月4日の読売(鬼頭朋子記者)がくらしサイエンスの紙面で伝えている。
解決策の切り札として注目されているのが海中にいる微生物の働きで水と二酸化炭素に分解する「海洋生分解性プラスチック」だ。
東京大学や愛媛大学などのチームは高分子化合物「ナイロン」の一部は海水に長期間つければ分解できるとする研究成果を2025年発表した。
環境省の調査によれば、海岸に漂着したごみのうち、約7割(重量比)はプラスチックで、漁網などの漁具が約6割を占めた。
15年度から、回収に取り組む自治体には補助金を出す制度を設け、2025年度は約37億円を投じた。
一方で、廃棄漁網を再利用した素材を使い、服やバックに商品化した気仙沼の元地域おこし協力隊員、加藤広大さん(28)の取り組みについて8月30日の読売(浅井望記者)が夕刊で伝えている。
お勤めをしていた頃、半世紀も前の時代は職場で旅行したりしたことがあった。
伊豆の熱川だったか、土産物店で漂着した流木を使ったものいれが気に入り、買い求めて大事にしている。
古いタイプ、時代遅れの後期高齢者の一員としてはプラスチック製品は便利だから使うけれど、好みではない。竹や木工製品が好きだ。
プラスチックは地中の微生物でも分解させられず、早く言えば、腐らないから、畑ではごみとなるだけである。
ところが、近年驚くべきことが起きた。
ほとんどの農家が使っているだろう草除け、保温などに効果がある黒いマルチングシート(通称マルチ)が微生物によって堆肥化できることになったというのだ。
有機無農薬での野菜作りを実践している立場としては、マルチを使ったことがなかった。実際に使っていないわけだから、マルチが堆肥化できても直接的には関係がないが、ごみを減量できるのは佳いことである。
畑則ち地中の微生物には大いに関心があるが、海に行くことは少ないし、釣りもしないから漁具のプラスチックの微生物による分解を意識することは少なかった。
ペットボトルが海に漂流中、マイクロチップス化して、環境問題で騒がれている。
海は広いし、大きいから目立たないが、海を汚すのは人間であり、プラスチックの便利さを知ってしまったのも人間だから結果的に自分で自分の首を絞めることになる。
プラスチック系の品物が微生物によって、分解されることは環境問題で大きな進展である。
再利用した素材を使った服やバックとして商品化することもプラスチック製品をただ捨てないという意味においては大変佳いことだ。
解決策の切り札として注目されているのが海中にいる微生物の働きで水と二酸化炭素に分解する「海洋生分解性プラスチック」だ。
東京大学や愛媛大学などのチームは高分子化合物「ナイロン」の一部は海水に長期間つければ分解できるとする研究成果を2025年発表した。
環境省の調査によれば、海岸に漂着したごみのうち、約7割(重量比)はプラスチックで、漁網などの漁具が約6割を占めた。
15年度から、回収に取り組む自治体には補助金を出す制度を設け、2025年度は約37億円を投じた。
一方で、廃棄漁網を再利用した素材を使い、服やバックに商品化した気仙沼の元地域おこし協力隊員、加藤広大さん(28)の取り組みについて8月30日の読売(浅井望記者)が夕刊で伝えている。
お勤めをしていた頃、半世紀も前の時代は職場で旅行したりしたことがあった。
伊豆の熱川だったか、土産物店で漂着した流木を使ったものいれが気に入り、買い求めて大事にしている。
古いタイプ、時代遅れの後期高齢者の一員としてはプラスチック製品は便利だから使うけれど、好みではない。竹や木工製品が好きだ。
プラスチックは地中の微生物でも分解させられず、早く言えば、腐らないから、畑ではごみとなるだけである。
ところが、近年驚くべきことが起きた。
ほとんどの農家が使っているだろう草除け、保温などに効果がある黒いマルチングシート(通称マルチ)が微生物によって堆肥化できることになったというのだ。
有機無農薬での野菜作りを実践している立場としては、マルチを使ったことがなかった。実際に使っていないわけだから、マルチが堆肥化できても直接的には関係がないが、ごみを減量できるのは佳いことである。
畑則ち地中の微生物には大いに関心があるが、海に行くことは少ないし、釣りもしないから漁具のプラスチックの微生物による分解を意識することは少なかった。
ペットボトルが海に漂流中、マイクロチップス化して、環境問題で騒がれている。
海は広いし、大きいから目立たないが、海を汚すのは人間であり、プラスチックの便利さを知ってしまったのも人間だから結果的に自分で自分の首を絞めることになる。
プラスチック系の品物が微生物によって、分解されることは環境問題で大きな進展である。
再利用した素材を使った服やバックとして商品化することもプラスチック製品をただ捨てないという意味においては大変佳いことだ。
2025年09月10日
乗り合わせた飛行機で人命救助。医師に感謝のエール
「お客様の中にお医者様はいませんか」…NY行きANA機で乗客救命、ためらう医師の脳裏に「訴訟リスク」というタイトルで、9月10日の読売(岡絃哉記者)WEBの記事に興味を惹かれて読んだ。
羽田空港から米ニューヨークに向かう飛行機内で急患の命を救ったとして、札幌市中央区の医療法人社団「土田病院」理事長の医師・土田茂さん(56)が東京消防庁の「消防総監賞」を受賞した。同様の場面に居合わせても、十分な設備がない中での対応に二の足を踏む医師は少なくないというが、土田さんは「自分にやれるだけのことをやっただけ」と振り返る。
「軽い頭痛くらいかな」。そう考えて名乗り出た土田さんだが、CAの案内で乗客男性(69)と向き合った瞬間に血の気が引いた。男性は呼吸ができず、心肺停止直前の状態だった。
男性は機内食を喉に詰まらせたという。土田さんは慌てることなく、自動体外式除細動器(AED)を使用しながら胸骨の圧迫を繰り返す。数分が過ぎて男性の呼吸が戻った瞬間、「何が起きてもいいように」と常に持ち歩いている医療用の手袋を装着し、喉を塞いでいた肉片を取り除いた。
8月23日の朝、連れ合いが庭で転んで膝が痛いと足を引きずって、この日、約束していた津軽三味線のお稽古には臨んだ。
お師匠さんが心配してくれて、すぐにお医者に行った方がいいと少し早めにお稽古を切り上げてくれたので、かかりつけの整形外科に車で連れて行った。
膝のお皿が割れているので手術が必要だからということで、紹介状を書いてもらい街の公立病院に行きたかったが、生憎土曜日で休みだったため、患部を固定してもらい、月曜日に行くと、手術することになった。
手術日の前日でないと入院できないと言われ、結果的に29日に手術ということになり、28日から入院となった。
普段から自分の命より大事な存在だと公言してはばからないほど大事な連れ合いが入院してしまうとたちまち生活が一変してしまった。
連れ合いがやってくれていたことを自分がやらなければならないということになるから、買い物、食事の支度、洗濯とその上で、この時期は畑が超多忙で自分で食事の支度する時間がないので、出来合いのお惣菜をスーパーで買い求めて食べるということで本当に大変だった。
大事な大事な存在だから、手術後ほぼ毎日面会に行った。面会に行かなかったのは1日だけということで、同室の女性が「毎日、面会に来てくれるなんて、やさしい旦那様ね」と誉めてくれたらしい。
連れ合いは「自分が困っていることを訴えたいんでしょ」と照れ隠しに応じたらしい。
昨、9月9日に退院して佳いということに一昨日医師から許可が出たので、迎えに行った。
連れ合いの愛車はパジェロだが、自分は運転が下手なので、愛車の軽トラで迎えに行った。
以上が、連れ合いの転倒による膝の手術のための入院の顛末である。
さて、40代早々から炎症性腸疾患クローン病で3か月入院し、その後も腸閉塞で2回、尿路感染症が悪化し腎盂腎炎になってしまい入院しということで、検査入院は抜きにしてもいつもお医者の先生にはお世話になっている。
腹痛がずっと続いていたので、8月26日、腹痛の原因を調べるためにCT検査をしたが、結果ははっきりした原因は不明のままだった。
今も、腹痛が続き、気持ちが弱気になっているところに大事な連れ合いが入院ということで参っている。
私事を披歴して、恐縮であるが、事程左様に医師の先生方にはお世話になりっぱなしである。感謝してもしきれないほどの存在が医師の先生方である。
飛行機は怖いから乗りたくないが、家族サービスと語り継ぐ戦争で数えるほどだが乗っている。
飛行機で具合が悪くなったら嫌だなと思ったことは何回となくあるが、偶然とは言いながら、医師が搭乗していることもまた珍しくないということなのか。喉に肉を詰まらせた男性はラッキーだった。
誤嚥性肺炎の恐怖は他人事ではない。
高齢になると、あちこちガタガタである。
最後に医師の先生には感謝の言葉「お陰さまで」とお礼を申し上げたい。
羽田空港から米ニューヨークに向かう飛行機内で急患の命を救ったとして、札幌市中央区の医療法人社団「土田病院」理事長の医師・土田茂さん(56)が東京消防庁の「消防総監賞」を受賞した。同様の場面に居合わせても、十分な設備がない中での対応に二の足を踏む医師は少なくないというが、土田さんは「自分にやれるだけのことをやっただけ」と振り返る。
「軽い頭痛くらいかな」。そう考えて名乗り出た土田さんだが、CAの案内で乗客男性(69)と向き合った瞬間に血の気が引いた。男性は呼吸ができず、心肺停止直前の状態だった。
男性は機内食を喉に詰まらせたという。土田さんは慌てることなく、自動体外式除細動器(AED)を使用しながら胸骨の圧迫を繰り返す。数分が過ぎて男性の呼吸が戻った瞬間、「何が起きてもいいように」と常に持ち歩いている医療用の手袋を装着し、喉を塞いでいた肉片を取り除いた。
8月23日の朝、連れ合いが庭で転んで膝が痛いと足を引きずって、この日、約束していた津軽三味線のお稽古には臨んだ。
お師匠さんが心配してくれて、すぐにお医者に行った方がいいと少し早めにお稽古を切り上げてくれたので、かかりつけの整形外科に車で連れて行った。
膝のお皿が割れているので手術が必要だからということで、紹介状を書いてもらい街の公立病院に行きたかったが、生憎土曜日で休みだったため、患部を固定してもらい、月曜日に行くと、手術することになった。
手術日の前日でないと入院できないと言われ、結果的に29日に手術ということになり、28日から入院となった。
普段から自分の命より大事な存在だと公言してはばからないほど大事な連れ合いが入院してしまうとたちまち生活が一変してしまった。
連れ合いがやってくれていたことを自分がやらなければならないということになるから、買い物、食事の支度、洗濯とその上で、この時期は畑が超多忙で自分で食事の支度する時間がないので、出来合いのお惣菜をスーパーで買い求めて食べるということで本当に大変だった。
大事な大事な存在だから、手術後ほぼ毎日面会に行った。面会に行かなかったのは1日だけということで、同室の女性が「毎日、面会に来てくれるなんて、やさしい旦那様ね」と誉めてくれたらしい。
連れ合いは「自分が困っていることを訴えたいんでしょ」と照れ隠しに応じたらしい。
昨、9月9日に退院して佳いということに一昨日医師から許可が出たので、迎えに行った。
連れ合いの愛車はパジェロだが、自分は運転が下手なので、愛車の軽トラで迎えに行った。
以上が、連れ合いの転倒による膝の手術のための入院の顛末である。
さて、40代早々から炎症性腸疾患クローン病で3か月入院し、その後も腸閉塞で2回、尿路感染症が悪化し腎盂腎炎になってしまい入院しということで、検査入院は抜きにしてもいつもお医者の先生にはお世話になっている。
腹痛がずっと続いていたので、8月26日、腹痛の原因を調べるためにCT検査をしたが、結果ははっきりした原因は不明のままだった。
今も、腹痛が続き、気持ちが弱気になっているところに大事な連れ合いが入院ということで参っている。
私事を披歴して、恐縮であるが、事程左様に医師の先生方にはお世話になりっぱなしである。感謝してもしきれないほどの存在が医師の先生方である。
飛行機は怖いから乗りたくないが、家族サービスと語り継ぐ戦争で数えるほどだが乗っている。
飛行機で具合が悪くなったら嫌だなと思ったことは何回となくあるが、偶然とは言いながら、医師が搭乗していることもまた珍しくないということなのか。喉に肉を詰まらせた男性はラッキーだった。
誤嚥性肺炎の恐怖は他人事ではない。
高齢になると、あちこちガタガタである。
最後に医師の先生には感謝の言葉「お陰さまで」とお礼を申し上げたい。
2025年09月09日
「人は変われる」元暴力団男性が更生支援
戦後80年の夏だったから、語り継ぐ戦争に関してメディアも熱心に取り組み、語り継ぐ戦争の立場から積極的に取り上げてきた。
アジア太平洋戦争に関しては書きたいことはまだまだあるが、追々書いていくこととして、吹く風に秋を感じる9月初旬が終わる頃だから、「人は変われる」話を書いておきたい。
初めに断っておきたいのは、基本的に人間がやることはいつの時代になっても変わらない。
戦争になれば、兵士は女性に性的暴行するし、普段だって、性暴力がなかなかなくならない。
しかし、本人が気持ちを改め、変わろうとすれば、初めて人は変われるということは興味深いことなので書かないわけにはいかない。
元暴力団員の男性が更生支援の一般社団法人を設立し、出身地の栃木県栃木市で自立準備ホームを運営している。と8月23日の読売(脇上怜大記者)が夕刊で伝えている。
非行に走り、行き場をなくした人を受け入れ、二人三脚で再犯防止に取り組む。
「人は変われることを自分の背中で伝えたい」というのは一般社団法人「希望への道」代表理事の遊佐学さん(50)だ。元暴力団員で服役経験を持つ。薬物依存に苦しんできた。
自立準備ホームは民家を活用し「俺ん家」と名付けた。入居者と寝食を共にし、早朝、仕事に向かう10歳代の少年1人を見送った後、掃除や夕飯作りをこなす。
自立準備ホームは4月1日現在、全国562の事業者が登録されている。
遊佐さんは暴走族から暴力団員となった。24歳のときだった。
覚せい剤を乱用して、30歳の時、自宅マンションの5階から飛んだ。右足に後遺症が残ったが組織は破門になった。
栃木に帰り、定職に就こうとはしたが、就けず、覚せい剤の売人になり、摘発され服役している。
開設資金は約530万円。貯金やクラウドファンディングで集めた。2024年12月に準備ホームをオープンさせた。
今秋、新たに2人を迎える。
先の参議院議員選挙でれいわ新選組の東京選挙区から立候補した元衆議院議員の山本ジョージさんが自身の服役体験から、刑務所に収容されている障がい者や高齢者など社会的弱者のために活動されているということで、更生支援こそ、最大の犯罪被害者支援だという日頃の自分の考えから、山本ジョージさんを応援したが、残念ながら当選はできなかった。
世の中のほとんどの人がわかっていないことがある。
それは、強者、弱者、普通の人それぞれ紙一重の位置にいるということ。
今回の選挙で落選した自民党裏金議員かつ、差別発言で物議を醸していた女性だって、負傷したり、病気になったりすれば、己の態度を改めるに違いない。
他人に対する思いやりがないのは想像力がないことが一番の理由である。
聞いた話で、恐縮であるが、生活保護のケースワーカーを指導していたことがある男性は、ワーカーと相談者は紙一重だということを口癖のように話していたそうな。
持病を抱えながら、後期高齢者になるまで生きられるとは信じられないことだが、この年齢まで生きられたのは生かされたからだと自覚している。
しかし、長い人生で一つも他人から後ろ指をさされることがなかったかといえば、そんなことはありえない。
確かに、刑務所に収容されたことはないが、恥ずべきことの一つや二つがないわけがない。
運が佳かったことと、自分には他者より想像力が豊かであるという長所があったからだ。
だから、山本ジョージさん、遊佐学さんにエールをおくりたくなるのだ。
人は変わろうとする意志があれば、変わることができるのだ。
アジア太平洋戦争に関しては書きたいことはまだまだあるが、追々書いていくこととして、吹く風に秋を感じる9月初旬が終わる頃だから、「人は変われる」話を書いておきたい。
初めに断っておきたいのは、基本的に人間がやることはいつの時代になっても変わらない。
戦争になれば、兵士は女性に性的暴行するし、普段だって、性暴力がなかなかなくならない。
しかし、本人が気持ちを改め、変わろうとすれば、初めて人は変われるということは興味深いことなので書かないわけにはいかない。
元暴力団員の男性が更生支援の一般社団法人を設立し、出身地の栃木県栃木市で自立準備ホームを運営している。と8月23日の読売(脇上怜大記者)が夕刊で伝えている。
非行に走り、行き場をなくした人を受け入れ、二人三脚で再犯防止に取り組む。
「人は変われることを自分の背中で伝えたい」というのは一般社団法人「希望への道」代表理事の遊佐学さん(50)だ。元暴力団員で服役経験を持つ。薬物依存に苦しんできた。
自立準備ホームは民家を活用し「俺ん家」と名付けた。入居者と寝食を共にし、早朝、仕事に向かう10歳代の少年1人を見送った後、掃除や夕飯作りをこなす。
自立準備ホームは4月1日現在、全国562の事業者が登録されている。
遊佐さんは暴走族から暴力団員となった。24歳のときだった。
覚せい剤を乱用して、30歳の時、自宅マンションの5階から飛んだ。右足に後遺症が残ったが組織は破門になった。
栃木に帰り、定職に就こうとはしたが、就けず、覚せい剤の売人になり、摘発され服役している。
開設資金は約530万円。貯金やクラウドファンディングで集めた。2024年12月に準備ホームをオープンさせた。
今秋、新たに2人を迎える。
先の参議院議員選挙でれいわ新選組の東京選挙区から立候補した元衆議院議員の山本ジョージさんが自身の服役体験から、刑務所に収容されている障がい者や高齢者など社会的弱者のために活動されているということで、更生支援こそ、最大の犯罪被害者支援だという日頃の自分の考えから、山本ジョージさんを応援したが、残念ながら当選はできなかった。
世の中のほとんどの人がわかっていないことがある。
それは、強者、弱者、普通の人それぞれ紙一重の位置にいるということ。
今回の選挙で落選した自民党裏金議員かつ、差別発言で物議を醸していた女性だって、負傷したり、病気になったりすれば、己の態度を改めるに違いない。
他人に対する思いやりがないのは想像力がないことが一番の理由である。
聞いた話で、恐縮であるが、生活保護のケースワーカーを指導していたことがある男性は、ワーカーと相談者は紙一重だということを口癖のように話していたそうな。
持病を抱えながら、後期高齢者になるまで生きられるとは信じられないことだが、この年齢まで生きられたのは生かされたからだと自覚している。
しかし、長い人生で一つも他人から後ろ指をさされることがなかったかといえば、そんなことはありえない。
確かに、刑務所に収容されたことはないが、恥ずべきことの一つや二つがないわけがない。
運が佳かったことと、自分には他者より想像力が豊かであるという長所があったからだ。
だから、山本ジョージさん、遊佐学さんにエールをおくりたくなるのだ。
人は変わろうとする意志があれば、変わることができるのだ。