2026年07月04日

「裁判所にこびたら絶対にアカン」

 「手錠・腰縄」不合理を追及」という見出しで、4月に亡くなった弁護士山下潔さん(享年93歳)の業績を称える読売(小松大騎記者)夕刊の「追悼抄」の7月2日に心を揺さぶられたので書いておく。

 60年間の弁護士人生で、公害・薬害訴訟や冤罪事件を数多く担当。弱者に寄り添い、「裁判所にこびたら絶対にアカン」が口癖で、社会の不合理を変えようと法廷に立ち続けた。
 富山県出身。弁護士を志したのは太平洋戦争で戦死した兄の存在がある。国家権力に抵抗するのが困難だった時代。弁護士は「平和と人権」を守ることができる職業だと直感した。

 水俣病第1次訴訟(1969〜73年)で、汚染物質を生成させたとされるチッソ水俣工場内で、裁判官や訴訟関係者が集まり、現地を確認する「証拠保全」の手続きが行われたときのこと。
 一行が工場内を見て回る中、ツルハシを振るい始め、他の弁護士らも加勢し、約1b掘り下げた所で多数の水銀粒がごろごろと見つかった。
 裁判官は呆然と立ち尽くし、裁判の趨勢はこれで決まった。

 ライフワークとして取り組んだのが「手錠・腰縄」の運用改善だった。
 2017年に大阪弁護士会、18年に日本弁護士連合会でプロジェクトチームが発足。
 活動が実り、最高裁が2026年1月、手錠・腰縄が傍聴人の目に触れないようにする運用に改めるよう、全国の裁判所に通知を出した。


 法律の学習をしたことがあれば、裁判官や検事、そして弁護士という法曹に生きる人たちの国家資格を得る司法試験がいかに難しいことか誰でも知っている。
 
 ところが、日本の国家試験で最難関かもしれないとされている試験に合格している割に、尊敬される人物が少ないのは、裁判官、検事、そして弁護士と市民から尊敬される人物が極めて少ないからだ。

 冤罪を訴えていた日野町事件が再審無罪へと伝えられているが、同じく冤罪を訴え、再審請求審を続けている名張毒ぶどう酒事件。その東京の会の一員として支援をしてきた。
 会のニュース(会報)の6月25日発行が手許に届いている。
 4月20日号に引き続き、第11次再審請求審ひと言請願書の記入を要請された。
 実は、4月20日号で、すでに書いて提出済みであるが、せっかくの機会だから、書いた内容を明らかにしておく。
「祈るべき天とおもえど天の病む」水俣病の被害者の苦しみを伝えた石牟礼道子さんの俳句。
 水俣病が公式確認されてから70年。名張事件の一審判決で無罪判決が出てから60有余年。未だ解決をみない公害病と冤罪事件。
 裁判官を頼りに約1500人が係争中の水俣病。裁判官に裏切られ続けてきた名張事件の奥西勝さんと妹の岡美代子さん。
 縋りたい天は病むだままなのか。
 以上が、裁判官に届けられると連絡があった請願書に自分が書いた一言である。

 奇しくも、山下潔さんが水俣病第1次訴訟に関わっていたことを知ったが、弱者に寄り添いたいと願い発信している立場としては、裁判官が目を覚ましてほしいの一言である。

 「手錠・腰縄」に天蓋で顔を隠すという見るから罪人といういでたちは、まだ裁判が終わるまでは被告であることからしても、天蓋は外しても、人権を考えていない時代の名残ではないか。

 もっと、人権が尊重されるように法曹の関係者は意識を変えてもらいたい。
 数は少ないが、人権派の弁護士がいてくれると心強い。
 権力が戦前みたいに取り調べで暴走しだした今の時代は特に。
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2026年07月03日

教育で人づくり 「米百俵之碑」

 「碑を巡る」というタイトルで、6月23日の読売(小林直貴記者)が新潟県長岡市にある米百俵の碑のことを伝えている。
 「教育で人づくり 国栄える礎」という見出しで、北越戊辰戦争で新政府軍と対峙した長岡藩が敗北し、減封されて窮乏したとき、藩の要職大参事に抜擢された小林虎三郎のもとに支藩から救援米が届く。
 赤貧にあえぐ藩士からは分配を強要されるも、「その日暮らしでは長岡は立ち直らない。こういう時こそ、何よりも教育に力を注がなければならない」と切々と諭した―。小林虎三郎は「国漢学校」を開いたというのだ。

 この米百俵の故事は、小泉純一郎首相就任所信表明演説で、改革を進めるため「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ必要だ」と取り上げたことから、自分も知ることになった。


 歴史の皮肉なのは、その小泉、竹中平蔵ラインが派遣労働を広げ、労働者の非正規雇用化を進め、貧富の格差が拡大し、日本をダメにした張本人だから嫌になってしまう。

 教育の大事さをわが身に振り返ってみれば、母方の祖父は教育者だったし、その先祖は、近所で寺子屋を開き、近在の教え子たちからその業績を称える石碑を建立されている。
 そういえば、戦争から無事帰ってきた父親も教育者で、在職中に病死してから、10数年経ってからも、教え子たちが墓参りに来てくれた時は驚いた。
 自分がお世話になった先生の墓参りなどしていないにもかかわらず、教え子が墓参りに来てくれるというのは、子どもたちにとっては佳い先生だったのかもしれない。

 父親は貧しい家庭で育ったから、多分、人の痛みが分かり、教育の大事さについて痛いほど理解していたのではないか。
 召集されて、軍隊で革のスリッパで殴られ、耳がよく聞こえない後遺症を持ち、戦地からは運よく無事帰国できたけれど、反戦という立場だったから、五味川純平『人間の條件』(三一書房)が本箱にあったのだろう。

 父親の長男である自分は、期待されていたような気がするが、3人姉弟の中で、一番出来が悪く、失望したに違いない。それでも、祖父に子どもがなかったことから、長男は家の跡継ぎという意識が強く3人姉弟の中で特別扱いだったと今でも、ひんしゅくを買っている。

 というようなわけで、教育には力を入れるというのが、わが家のご先祖からの教えにあったような気がする。

 きちんとした教育を受け、人間としてのレベルが向上すれば、人を差別したりしなくなるだろうし、弱いものいじめをしたりしなくなるだろうと考えている。

 人は石垣、人は城というくらいだから、人は大事である。その人を育てるのが教育だから、いかに教育が大事か小林虎三郎ならずともわかるはずだ。
posted by 遥か at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2026年07月02日

「人の役に立ってナンボ」TOTOにエール

 「『トイレ』から健康寄り添う」TOTO社長田村信也さん(59)が6月30日の読売(川口尚樹聞き手、冨田大介写真)の「LEADERS経営者に聞く」に登場し、「人の役に立ってナンボ」っちゅうTOTOの理念と共にあの名作ウォシュレットが米国で人気の贈り物になっているというので、大いにエールをおくりたい。


 自分でも信じられないことだが、まだ死なないで生きている。そう世間では喜寿とか言われているこの齢まで生きているのだから人生わからないものである。

 1980年代が終わりそうな頃だと思う、ある日、尻に激痛が走り、座ってもいられず、その方面の専門の病院に行き、痔ろうだと診断され、手術をしたのだが、ここから、自分の人生最大のピンチが始まるとは思いもよらないことだった。
 何と、明らかな手術ミスだろう。3回も手術を受ける不運に遭った。
 ところが、それでも尻の具合がよくならず、術後、オムツ、女性のアレを尻に当て、昼食は職場で食べたふりをするという信じられない苦難の日々を石の上にも3年と耐えた。
 食べるとトイレに直行ということだから、自宅以外で食べるわけには行かず、やがて、衰弱してとうとう、都内の病院の副院長をしていた身内に頼み込んで入院させてもらった。
 そこでも、入院してすぐに手術し、尻の具合はよくなり、絶飲食で3月から5月までおよそ3か月入院した。
 診断名は炎症性腸疾患クローン病で、難病だとされているとのことであった。

 TOTOの優れモノウオシュレットに出合ったのは最初に入院したクリニックで、退院してすぐに買い求めて愛用するようになる。
 今から、37年くらい前のことだから、まだかなり高価だったが、そんなことは気にしていられないほどの必需品で、ウオシュレットを作ってくれたTOTOのスタッフに感謝したことを覚えている。
 因みに、歳月の経過とともに病気とは上手くつきあえるようになり、家族サービスで旅行にも出かけられるようになったが、宿泊施設にウオッシュレットがあるか、確認してから宿泊を決めるほど、頼りにする存在だった。

 尻の病気でなくとも、この快適さは、日本初の人類が共通に喜ぶ商品として、世界のシェアを制覇するだろうとみていたら、観光で日本にやってきた旅行者が快適さを覚え、本国に土産にするということを耳にするようになっていく。

 「毎朝、顔を洗うように尻も洗う」だったか、宣伝コピーがあったような気がするが、日本では普及率が80%を超え、賃貸マンションや賃貸住宅でも温水洗浄便座を設置しているオーナーがいると耳にしたことがあるくらい普及している。

 社長の田村さんは米国でクリスマスなどのギフトシーズンにウオッシュレットをプレゼントする動きが広がったこと。「アマゾン」では、人気商品のランク入りもした。
 贈り物という購入動機が生まれるとは想像していなかったと驚いたそうな。

 ソーシャルファームとかソーシャルビジネス企業ということで、社会的課題に取り組む企業がある。
 TOTOの田村社長が明かす「役に立ってナンボ」というのは企業にとって一番存在価値があることではないか。

 人間究極は、食べて、出し、眠る。これが生きるということになるわけで、食べることがいかに大事であるかといっても、食べたら出るものが出なければ生きていかれないことを考えれば、入口と出口がいかに大事な場所かわかるというものではないか。

 健康な人にはもうひとつわかりにくいかもしれないが、田村社長が明かしてくれた話を最後に書いておく。

 事故で四肢麻痺になった20代女性にモニターになってもらい、ウオシュレットの身体障がい者向けリモコンの改良に取り組んだときのこと。
 「流す」「洗う」「ビデ」「止める」の4つのボタンだけにして、しかも大きくしたところ、「ビデ」は要らないから「乾燥」ボタンをつけてほしいと注文された。
 乾燥機能を使っても時間がかかると説明したところ、介助している方から「全然わかっていない」とお叱りをいただいた。
 時間がどれだけかかっても、一人で用を足せることに意味があったのだ。
 試してもらうと、「事故後、初めて誰かに面倒を見てもらわずに済ませられた」と女性の喜んだ顔。介助の方も泣いて喜んでいた。
 これが「一人のため」生まれたロングセラーのリモコン誕生秘話である。

 「『トイレ』から健康に寄り添う」まさにウオッシュレットは世界を制覇する逸品である。
 手が使えなくなった時のことを想像してみてほしい。
 有難みがわかるはずだ。
posted by 遥か at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 住宅

2026年07月01日

旧統一教会の解散命令確定

 文部科学省による世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への解散命令請求について、最高裁第3小法廷(渡辺恵理子裁判長)は22日付で教団の解散命令を支持する決定を出した。解散を命じた東京高裁の決定に対する教団側の特別抗告を棄却した。解散を命じた司法判断が確定した。と6月24日の読売が伝えている。

 決定は裁判官4人全員一致の意見。法令違反による宗教法人の解散命令は過去に、教団トップが刑事責任を問われたオウム真理教と明覚寺の2例があるが、今回は最高裁が民法上の不法行為を理由に初めて解散を命じた。

 
 世の中わからないものである。
 反日、反社のカルト教団を保守だとされている自民党、その補完勢力などがズブズブの関係で、警察、検察も手が出せないまさにアンタッチャブル状態だった。
 とろこがである。
 22年の安倍晋三・元首相銃撃事件を機に高額献金被害が社会問題化し、文科省が23年10月に解散命令を請求。東京地裁は25年3月の決定で解散命令を出し、2026年3月の高裁決定も支持したため、教団側が特別抗告し、最高裁が棄却し、解散命令が確定した。

 普通に考えれば、旧統一教会とズブズブの関係かつ後ろ盾だった安倍晋三元首相が銃撃され、死亡したからメディアが旧統一教会の高額献金被害を報道するようになり、高額献金被害が社会問題化したのである。
 そうだとするなら、旧統一教会を解散に追い込んだお手柄は母親が旧統一教会に洗脳され、高額献金したため、一家が貧乏に苦しんだあの人にあるということになる。

 旧統一教会に洗脳され、韓国で集団結婚させられた日本の若い女性がいて、パスポートを取り上げられ帰国したくとも帰国できない人がいる事を書いておきたい。

 語り継ぐ戦争では、満蒙開拓団の女性が1945(昭和20)年8月9日未明のソ連の侵攻で、満州(現中国東北部)を彷徨し、手放した子どもたちが働き手として中国人家庭に引き取られ、中国残留孤児と呼ばれ80年代に帰国するようになった。
 開拓団の女性で生きるため、中国人の嫁となった女性は、貧しくて結婚できない男に買われたも同然の性奴隷かつ労働力にされた。
 朝鮮半島に渡り、集団結婚した日本人女性の相手である韓国人男性も貧しい家庭で嫁のなりてがなかった男たちが旧統一教会にカネを渡し、日本人女性を買ったも同然の人身売買でもあった。
 朝鮮半島では、脱北女性が中国で悪質なブローカーに人身売買同然で中国の貧しい家庭の男の性奴隷同然の嫁に売られるか、都市部での人身売買である売春婦に売られている。

 日本人を洗脳し、高額な献金をさせ、家庭を崩壊し、娘たちは洗脳し、韓国の貧しい家庭の男と結婚させた旧統一教会が反日であることは明らかである。
 反日であるばかりか、やっていることは反社である。
 反日、反社の旧統一教会とズブズブの関係だった自民党安倍派と近しかった高市首相も旧統一教会とズブズブの関係だったことから反旧統一教会という立場で旧統一教会を批判してきた自分からみれば同じ穴の何とかである。

 旧統一教会とズブズブな関係だった保守派だとされる自民党の人たちよりも、自分の方がよほど民族派ではないか。

 本来、国がもっと早くに旧統一教会を日本から排除すべきであった。
 しかし、岸信介元首相の頃から保守とされている人たちによって、庇護されてきた歴史から、日本の保守派とされている人たちこそ、売国奴同然だと批判されても反論できまい。

2026年06月30日

水俣でタコを獲る漁師の姿から学ぶ

 Dearにっぽん「それでも、この海で 〜熊本・水俣〜」を視聴することができたので書いておく。

 「94歳の鴨川強己さんは週3回ほど漁に出る現役の漁師だ。その海はかつて、工場が排出したメチル水銀によって汚染された。魚介類を食べた人が次々に倒れた水俣病。「魚(いお)湧く海」と呼ばれた豊かな漁場は、長く漁の自粛に追い込まれ、漁獲量は最盛期の1割以下になっている。今やタコ一本で漁を続ける最後の漁師となった鴨川さん。水俣病が公式確認されて70年となる今年、誰にも話さなかった、この海と生きる理由を語った。」と熊本放送局の㏋にある。


 ETV特集「患者さんの痛み写真家の葛藤」をNHK熊本放送局が放送してくれたので昨日、書いたばかりであるが、水俣湾の漁師として生きてきた男性のことも水俣病に関して学習を続ける立場から興味深かかった。

 94歳の鴨川強己さんはタコを獲る現役の漁師である。
 漁師以外に生きる術を知らないと言ったら失礼になるかもしれないが、漁師を続けられているからお元気なのか、お元気だから漁師が続けられるのか。そんなどうでもよいことを頭に浮かべながら生きるとはどういうことなのか考えさせられた。

 水俣病公式確認70年で、4月28日の読売が文化の紙面で、水俣病の悲劇をどう受け止め、二度と繰り返さないために何を伝えるのか。写真、演劇、教育を通して水俣病と関わってきた3人に話を聞いたという記事についても書いた。
 写真では、環境ジャーナリスト アイリーン・美緒子・スミスさん。演劇では、劇作家詩森ろばさんの二人のことが取り上げられていたことを書いた。
 もう一人、教育では、都留文科大学准教授小川輝光さんが「学び、伝え続ける重要性」を訴えていた(江口武志記者)ことについてこれから書いておく。
 横浜の中高一貫校で指導していたときのこと。認定患者で水俣病の語り部として知られている杉本栄子さんの語りに衝撃を受けたというのだ。
 
 一家で罹患した杉本家は病が伝染するという誤解によって、村八分にされ集落で孤立。杉本さんは症状や差別に苦しみながらも、水俣病を「のさり」(天からの授かりもの)と表現するまでに変化した。「そう変化した経緯に学ぶべきことがある」と小川さんは思ったそうな。
 2011年の東日本大震災での東京電力福島第一原子力発電所の事故が、子どもたちに遠い出来事だった水俣病を自分たちの問題として引き寄せる契機となった。
 水俣病と似た構造が繰り返されていたからだ。

 「人々が利益を追求する社会で、犠牲や矛盾が生じるのは普遍的な問題。水俣病を学ぶ中で、なぜ杉本さんのような苦しみを抱える人が発生するのか、という視点が身についていく」と思う。
 「社会が人々の記憶を受け止め、伝え続けなければならない」と結ぶ。

 杉本栄子さんの語りをラジオで聴いて激しく心を揺さぶられた自分と小川さんが全く同じ経験をされていたことに驚かされた。

 94歳の鴨川強己さんはタコを獲る漁師で、手足のしびれなど水俣病の症状はありながらも、何とか生きられている。
 深く刻まれた皺、日に焼けた顔で獲ってきたタコを調理し、タコをつまみにビールを飲む姿を映させていた。

 チッソの工場が排出したメチル水銀で汚染された海を攫い、埋め立て、今では安全な海になっているとはいうものの、魚湧く海とまで呼ばれた水俣湾で漁獲量は最盛期の1割以下だというが、鴨川さんは水俣病のことは話したがらないのだ。
 漁師だから、生きていくためには魚を獲るしかないといいながらである。

 小川さんが学び、伝え続ける重要性を訴えているように、語り継ぐ戦争では戦争を企図する者は自らは安全地帯にいて、若者たちを戦場に送り、死なせても敗戦後も平然と生き残っていることに抗議するため、戦没者の声に耳を傾けようとしてきた。
 水俣病では、チッソとその後ろ盾の政府が補償金を支払いたくないから、患者を認定しないようにしてきたことを学んできた。
 まさに、学習しなければ、患者の痛みを想像することもなかったかもしれない。
 戦争と水俣病は過去の出来事ではないぞ。と声高に訴えたい。
posted by 遥か at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題

2026年06月29日

写真が伝える水俣病患者の痛みと写真家の葛藤

 【ETV特集】「患者さんの痛み 写真家の葛藤〜水俣病 公式確認から70年〜」を視聴することができたので書いておく。

 「水俣に向き合う写真家たちがいる。桑原史成さん(89)は水俣病があまり知られていない時代に最初に水俣を訪れ、初期の重症患者を撮った。故・塩田武史さんは14年間、水俣に住み写真を撮るが、やがて撮れなくなった。アイリーン・美緒子・スミスさん(76)は、夫の故・ユージン・スミスさんとともに、世界に水俣を伝えたが、「封印」される写真も。芥川仁さん(78)のテーマは「見えない水俣病を撮る」。いまも撮り続ける。」と㏋にある。

 水俣病に医療面で功績のあった4人として、細川一さん、原田正純さん、小嶋照和さん、武内忠男さんの名前がWEBに紹介されている。
 水俣病を世間に周知させた4人として、作家石牟礼道子さん、(1927〜2018)、医師原田正純さん(1934〜2012)、写真家桑原史成さん(1936〜)、環境科学者宇井純さん(1932〜2006)の4人が同じく紹介されている。
 他に、映画の世界では土本典昭さんがいる。

 水俣病患者を撮った写真家としては、桑原史成さん、塩田武史さん、ユージン・スミスさんとアイリーン・美緒子・スミスさんそして芥川仁さんにスポットが当てられているが、石川武志、北原秀郎、小柴一良、田中史子、宮本成美の9人いる。

 戦場における被写体が訴える効果は、想像力に働きかける文章とは異なり、視覚に訴える分インパクトがある。
 アジア太平洋戦争における沖縄戦やヒロシマ、ナガサキの被爆者然りで、被写体が訴える力は視る者の心を激しく揺さぶり、戦争をやってはいけない気持ちにさせてくれる。

 「水俣病患者の痛みと撮った写真家の葛藤」というタイトルですぐに頭に浮かんだのは、ユージン・スミスさんが撮った上村智子さんの入浴する母子の写真について、ご本人やご家族にしてみれば、「見世物ではない」との拒否反応があって当然のことである。
 しかし、胎児性水俣病の悲惨さを訴えるにこれほどインパクトを与え、水俣病患者の実相が伝えられた機会はなかったようにも思えるので、写真家が患者の痛みを理解しているか、想像しているかで患者側の受け止め方が異なるのではないか。

 チッソの企業城下町水俣で、チッソと対峙するのは並大抵のことではなく、当初、患者はほぼ四面楚歌の状態であっただろうと想像する。

 そこに、桑原史成さんが水俣病を被写体にしたことで、企業城下町以外の人たちに水俣病の悲惨さを伝え、『苦界浄土』で石牟礼道子さんが文章で、原田正純医師が母親の胎盤がメチル水銀の猛毒から守ってくれるということはなく、胎児性水俣病の子どもが生まれたことを明らかにし、東大の宇井純さんが環境科学者として、水俣病とメチル水銀の関係、企業責任を明らかにしてというように水俣病が認知され、患者が訴訟をするケースが増えていく。

 それでも、補償金を支払いたくない企業チッソとその後ろ盾となっている国、自民党政権は患者として認めることをずっとさせないようにしてきた。

 4月28日の読売(今岡竜弥、北川洋平記者)が水俣病公式確認70年ということで、アイリーン・美緒子・スミスさんが環境ジャーナリストとして水俣病は解決しておらず、「現在進行形の問題」だとし、次代へ写真集をを刊行したこと。
 劇作家の詩森ろばさんが水俣病は「社会を深く考える原点」だとし、演劇で表現すると伝えていた。

 今回の放送はジョニー・デップさんがユージンスミスを演じた『MINAMATA』を観たとき、以来、再び上村智子さんや坂本しのぶさんたち胎児性水俣病患者たちが声に出せない心の思いを想像させる機会を与えてくれた。

 水俣病を学習させてもらうに佳い機会を与えてくれたことを感謝したい。
posted by 遥か at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題

2026年06月28日

最低賃金引上げ取りやめの高市政権最貧困増やす

 「自由のために」毎日飽きもせずというか、書かずにはいられないという半ば心の病みたいになってしまったのは、小泉、安部、高市と自民党の政権が党名とは異なり自由を奪う政治をしてきたからである。

 書き始めてからもう15年以上になる。結構続いているが、毎日書くときのヒントは、新聞、TV、ラジオ、本、映画そしてSNSというのかYouTubeなどの配信などから得てきた。

 書くには物事を見る視点というか、立場があり、一度でも立ち寄っていただいた方なら、ご理解いただいていると思うが、自由を虐げられし人たちに寄り添うという立場である。平たく言えば、社会的弱者ということになろうか。

 団塊の世代の一員で、いつお迎えが来てもいい齢であり、旅立ちの覚悟もしているが、過去、仕事を含め、いろいろな人と接したことがあり、自分の価値観が明らかに変わっていく経験をしたことが、弱者の味方になったのではないかと思料する。


 語り継ぐ戦争のための学習にYouTubeをよく視聴している。戦争とは関係なかったが、週刊誌的な面白さがあって時々見ていた「街録ch」。畑の草むしりで忙しいので最後までみたことはないが、格差と貧困問題を取り上げていて、大いに学習させてもらったものを見つけたので書いておく。

「街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜」「アンダークラス最貧困増やす高市政権/最低賃金引き上げ取り止め超格差社会へ/社会学者 橋本健二」

 早稲田大学教授で階級社会。格差社会、貧富の格差などを研究されている橋本健二先生がご自身の出自から研究テーマまで誰にでもわかるように解説してくれた優れものだった。
 「能登はいらんかいね」で知られる能登半島。大地震で自民党政権から「能登は要らん」とばかりに切り捨てられ、未だに断水が続く半島の先端、焼き物で名前を知っていた珠洲市の出身で、貧しい街で育ったことから小中学生ですでに貧困問題に目覚め、金沢の高校に進学し、医者の子どもとか経済的に恵まれている階層に出会い、貧富の格差を意識するようになっていく。
 学業優秀で、東京大学で学び、貧富の格差を研究すること40年という筋金入りの格差貧困問題研究者として知られる。

 戦後、70年代は1億総中流みたいに言われていたが、貧富の格差は存在していた。
 貧富の格差が顕著になったのは財界からの求めで自民党が派遣労働を導入し、労働者の非正規雇用化が進められたことが要因である。
 さらに失われた30年で、最低賃金が上がらず、低賃金で簡単に首を切られてしまう非正規雇用者がアンダークラス化し、低収入で結婚できず、子どもを産み育てることができなくなったことから、少子化が進み、財界が目論む外国人労働者を低賃金で働かせるために受け入れることをどんどん進めたことで、貧富の格差はどんどん広がっている。

 石破政権が最低賃金の引上げを約束したが、高市政権はその約束を就任するやすぐに差し止めたことから、これからは最低賃金すら引上げられなくなる。さらに、貧富の格差が広がり、貧困層は自殺、拡大自殺などが増えてしまう可能性が高くなっている。

 貧富の格差をなくすことはできないし、そんなことをする必要もない。平等になれば、社会が活性化しなくなるからだ。
 それでも、ここまで貧富の格差が広がっているのは行き過ぎである。何とか是正しなければならない。しかも、その是正には、ちょうど良い塩梅という落としどころみたいな地点があるはずだ。

 しかし、現在はそこを目指すというよりも、拡大する一方の格差を是正することが先決であるというのだ。

 貧富の格差をさらに拡大させようとするのが高市政権であることは最低賃金を引き上げをさせないという姿勢に表れている。

 メディアが最低賃金引上げを差し止めると表明した高市政権を批判しないのは、高市首相が総務大臣の時、自民党を批判するTV局には免許を取り消すと恫喝し、TV局が委縮し、事実上の放送統制が始まったからだと指摘する。

 TVではとても放送できないような政権批判の放送統制のことを指摘されるなど、自由を奪われつつあるメディアに対し、街録chは研究者が教えてくれることをそのまま伝えてくれるから信用できる内容になっている。

 残念でならないのは、橋本先生が登場してくれたこの回を含め、アンダークラスは見ないだろうし、何も考えない有権者が少なくないことである。

 世の中を変える唯一のチャンスが選挙にもかかわらず、何も考えず投票してしまう。世の中を変えることは無理だとあきらめ、投票に行かない人たちがいることが残念でならない。
 せっかく、きちんとしたことを教えてもらっても、聴く耳を持たなければどうにもならないからだ。
posted by 遥か at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 貧困問題

2026年06月27日

全戦没者慰霊式の前に「沖縄平和祈願慰霊大行進」

 6月23日の沖縄慰霊の日は過ぎてしまったが、語り継ぐ戦争の立場からはまだ書いていなかったことが見つかったので書いておく。
 慰霊の日に開催される「沖縄全戦没者慰霊式」の前、沖縄県遺族連合会主催「沖縄平和祈願慰霊大行進」の第65回が行われた。
 糸満市のひめゆり平和祈念資料館前から慰霊式会場の摩文仁の平和祈念公園までの約4キロの道のりを戦没者に思いを寄せながら歩くというイベントである。


 1985年に初めて訪れた沖縄。その後、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れること3回、計4回も訪れていながら、地図が頭に入っていなくて今頃反省してもどうにもならないが、平和祈願慰霊大行進でスタート地点となったひめゆり平和祈念資料館から約4`だという平和祈念公園までの道のりが頭に浮かばず、やむを得ず、地図で検索せざるをえなかった。
 すると国道331号を歩けば平和祈念公園にたどりつけることがわかった。
 タクシーで周っているつけが回ってのことだが、さりとて、交通アクセスの点でタクシー以外考えられなかった。4`ならば、若ければ歩いてみるという選択肢もないではなかったかもしれない。

 佐賀県の遺族会が平和祈願慰霊大行進に参加したルポをWEBで伝えてくれているのを見たら、遍路みたいに白装束で横断幕をもって歩いていた。
 そこに、平和祈念公園内にある沖縄戦の佐賀県戦没者の碑「はがくれの碑」にもお参りしたことが記してあった。

 佐賀県戦没者の碑「はがくれの碑」で思い出したことがある。
 平和祈念公園内には、沖縄戦で戦没した敵味方、民族関係なくすべての名前が平和の礎に刻まれている。
 その近くに、戦没者の出身都道府県別に46都道府県の慰霊碑があるのだ。
 とはいうものの、全部確認したわけではない。

 そういえば、同じ街に住み、親しくしている人の親族が平和の礎に名前が刻まれていることから、お参りに行ったということを耳にしたことがある。
 身近なところでも、沖縄戦で戦没した人がいるということになる。

 遺族会による「平和祈願慰霊大行進」のことはほとんど報道されることがなかった。65回も行われていたにもかかわらずである。

 報道されなかったから知らなかったということではないが、もっと広く知ってもらう価値があるイベントではないか。

 それにつけても、沖縄戦に関して知らないことばかりで、学習が足りないと自省の念に駆られる。
 本土の防波堤にされた沖縄は米軍基地の数と面積からして、再びの戦争になれば、日本で一番危険な地域になってしまう。

 それだけに、平和教育が大事であるし、地上戦の犠牲者のことを語り継いでいかなければならない。

2026年06月26日

中2亀谷さん 平和の詩 曽祖母の傷 生き抜いた証

 戦後81年の沖縄の慰霊の日に行われた「沖縄全戦没者追悼式」の事をもう少し書いておきたい。
 自民党と補完勢力が天皇の娘である愛子様を天皇にさせないという滅茶苦茶なことを企み、明治に決まった皇室典範の男系を拠り所に男女平等の世界の趨勢に反することを決めようとしていることに対し、厳しく批判をしてきた。

 今の高市内閣は戦前の軍部とそっくりの強権政治をやっていてけしからんことこの上ない。
 戦前の軍部が天皇を利用して戦争を進めたことに対し、戦争を企図している高市内閣は天皇が反戦主義であることから、その影響力を排除しようとしている。
 日本国憲法で象徴とされた天皇は二度と政治利用されないようになっているが、先の大戦で犠牲となった戦没者の慰霊の旅を親子ともども続けて来られた。
 高市政権が進めている軍国日本の復活に対し、当然、天皇は反対の立場であることは明らかである。
 高市政権を支持している自民党と補完勢力は自分たちが進めている軍国日本に反対の立場である天皇の発言を封じるため、天皇の思いを受け継ぐ愛子天皇を阻止しようとしているのではないか。

 日本で一番戦争に反対するであろう沖縄県民の慰霊の日だからこそ、米軍との地上戦の巻き添えを食らった沖縄県民の声を伝えたい。
 沖縄全戦没者追悼式で、豊見城市立豊崎中2年亀谷琉奈さん(14)が平和の詩を読み上げることを6月23日の読売が夕刊で伝えていた。
 亀谷さんには今は亡き曽祖母がいて、右太ももに10aくらいの傷痕があった。5歳のとき傷痕について尋ねたことから、沖縄戦のことを聞いたことがあるという。
 戦時中のこと、恐怖と不安で曽祖母は握っていた石で太ももをこすってしまい、血だらけになってしまったそうな。
 この傷痕を曽祖母が生き抜いた証として、平和と命の尊さへの思いを込めた。

 鉄の暴風と呼ばれて恐れられた米軍の艦砲射撃、空襲、空爆。<どれほど怖かっただろう どれほど苦しかっただろう 生きたい 死にたくない その思いだけで 曽祖母は必死に生き延びた>と思いやるのだ。

 本土の中学生と言えば、ほとんどが核家族で祖父母や曽祖母と同居の経験がある人は少ないだろう。
 戦争の体験を聴くことができた人もほとんどいないにちがいない。

 語り継ぐ戦争という立場の自分は、父親が召集され、戦地に送られ、運よく、無事に帰国してから生まれた。
 父親が戦争で生き抜いてくれたから、今があることを思えば、自分の子どもには語り継ぐ戦争で、知覧、ナガサキ、ヒロシマそして沖縄と同行してもらい特攻隊、原爆、地上戦、ひめゆりなどの学徒動員などを伝えてきた。

 地上戦を戦い、一家全滅、集団自決、敗戦後の米軍統治、基地が集中している島であればこそ、沖縄県民は二度と戦争に巻き込まれるのはご免だと思っているはずである。

 教育の力は大きい。
 沖縄戦の悲惨さを語り継いでいかなければならない所以である。

2026年06月25日

渡嘉敷島の集団自決で生き残った男性の証言

 沖縄の慰霊の日に行われた「沖縄全戦没者追悼式」の模様を伝える6月23日の読売夕刊のコラム「よみうり寸評」に児童文学作家灰谷健次郎さんの『太陽の子』(理論社)のことが紹介されていた。
 神戸の琉球料理店の娘ふうちゃんが心の病に苦しむ父親から体験した沖縄戦のことを聞き、知っていくという物語だった。
 本の紹介の途中、読売西部本社版で渡嘉敷島で起きた住民の集団自決から生き残った男性の体験を伝えていた記事に触れ、「米軍が迫る中、親戚にこん棒で殴られ、母は亡くなり、自身も頭に傷が残った。その傷を『母と自分をつなぐ唯一の証し』と語る」と概要を教えてくれた。

 自分の目で確かめてみたくなり、6月20日の読売の記事を読んでみた。

 沖縄本島の西方約30キロに浮かぶ沖縄県・ 慶良間諸島の渡嘉敷島(渡嘉敷村)。島北部の山中に、地元で「玉砕場」と呼ばれる場所がある。米軍が島に上陸した翌日の1945年3月28日、一帯では極限状態に置かれた親族らが互いを手にかける「集団自決」が相次いだ。

 島に住む金城健一さん(83)は当時2歳。親族から戦後に聞いた話によると、金城さんをおんぶした母文子さん(当時24歳)は米軍から逃れようと、同じ集落の住民の後を追うように移動。たどり着いたのが、自宅から約5キロ離れた山あいにある玉砕場だった。
 親族同士が鎌で切りつけ合ったり、縄で首を絞め合ったりした。文子さんと金城さんには、こん棒が振り下ろされた。金城さんが一命をとりとめたのは母がかばってくれたからだ。と信じているという。

 県史などによると、渡嘉敷島では330人、座間味島では234人が集団自決で亡くなったとされる。
 沖縄戦では、集団自決などで一家全員が犠牲となったケースも目立つ。県遺族連合会が約30年前、戦後50年に合わせて戦没者名簿を基に一家全滅について調べたところ、確認できただけで1062世帯に上った。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、沖縄戦における集団自決された人々の供養のため、渡嘉敷島を訪れたのは2016年の8月のことだから、もう、10年も経ってしまった。
 島を案内してもらうためにガイドを探し、ご縁があったのか米田さん。彼に依頼できたことが忘れられない出来事になっている。
 本島のときは個人タクシー兼ガイドの外間さんにお世話になっていたが、初めての島で、レンタカーを運転するなんて危ないなと案じていたら、ルール違反らしいが、危ないから運転してくれるということで、集団自決の慰霊碑がある場所など島内を案内していただいた。

 「玉砕場」と呼ばれている集団自決場所に行く、まあ、入口とでも呼べばいいだろうか。そこに慰霊碑があり、そこで、「手向」を吹いた。

 地元に暮らす米田さんは懇切丁寧に案内をしてくれ、島の守備隊と従軍慰安婦の話など大いに学習させていただいた。

 集団自決と一家全滅というのは沖縄戦ならではの悲劇というのか、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚でも激しく心を揺さぶられた。

 集団自決と言えば、語り継ぐ戦争では満州(現中国東北部)における1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻により、逃げ惑う満蒙開拓団など邦人たちが集団自決したことで学習はしていた。

 日本の軍国教育が敵兵、米兵やソ連兵に捕まると、男は殺され、女は凌辱(レイプ)される。というものだったから、絶望すると、自殺することを選ばざるをえなくなったということである。

 しかし、満州では黒川開拓団のように団員の娘たちをソ連軍将校に性奴隷として差し出し、無事引き揚げてきた例もある。

 沖縄では、読谷村のチビチリガマとシムクガマで明暗が分かれた事実がある。
 ハワイ帰りで英語が理解できる人がいたシムクガマは米軍に投降し、集団自決から逃れるも、チビチリガマでは集団自決してしまったのである。

 一家全滅と集団自決は、命を大事にする教育がいかに重要であるか、考えさせられるできごとである。
 灰谷健次郎『太陽の子』(理論社)は買い求めて読んでいる。著者の思いが伝わる沖縄戦のこと、沖縄戦で亡くなったすべての戦没者の死があって、自分が生きている今があるということの意味を肝に銘じ、高市首相の企図する戦争を阻止しなければならない。