2026年04月30日

放射能汚染牛に15年エサをやり続ける牛飼い

 NHKこころの時代〜宗教・人生〜「いのちの意味 つないで 140頭と生きる」を少しではあるが視聴できたので書いておく。

 東京電力福島第一原発から北西14キロの浪江町で、被ばくにより出荷できなくなった肉牛を育て続ける牧場主吉沢正巳さんの15年を伝えてくれた。
 15年前は330頭いた牛たちも140頭にまで減ったが、自らを牛飼いと呼びつつ、売れなくなってしまった牛たちの面倒を見ている姿にエールをおくらないわけにはいかない。


 動物虐待の最大かつ一番かわいそうな事件は、誰が何と言っても東京上野動物園などで、戦時中、米軍からの空襲、空爆をを理由に象など猛獣を殺害した人間の身勝手な犯罪である。
 餌をやらないで餓死させようとしたことを知り、動物園で猛獣を飼うことに絶対反対の立場になった。
 今、日本はいつ戦争になるかもわからない所謂戦争前夜としか思えないからだ。
 パンダのときもそうだったが、見たければ中国に行けばいいだけのことである。

 次いで、『南極物語』で知られる樺太犬を鎖につないだまま放置し、置き去りにした隊員たちの身勝手な犯罪であるが、こちらは、タロ、ジロ生き抜いてくれたお陰で何だか美談のように伝えられているが、この事件は南極隊員に対する信頼を失墜させた酷い事件だった。

 東日本大震災で東京電力福島第一原発が事故を起こし、避難命令が出たとき、動物を置き去りにしたまま逃げた人たちのことは書きたくないけれど、仕方なかったではすまないのではないか。

 被曝し売れなくなった肉牛を15年もの長きに渡って、牛飼いとして面倒を見てきた吉沢正巳さんは尊敬に値する。
 誰にもできないことをやれる人こそ、敬意を表さないわけにいかない。

 家畜である牛にエサをやらなければ餓死するしかない。
 餓死といえば、脱北を描いた『クロッシング』では、北朝鮮で飢餓に苦しむ家族が飼い犬を殺して食べるシーンがあった。
 人間飢餓になれば、きれいごとを言ってられないとは経験者が語る言葉ではあるが、わが家では5代目の柴犬がいて、この柴犬を殺して食べることはできない。そこまでして生きていたくはない。

 「生きているだけで価値がある」とはれいわ新選組代表の山本太郎さんの素晴らしい考え方であるが、放射能汚染で売れなくなってしまった肉牛に食べさせる吉沢正巳さんこそは生きる意味がわかっているようだ。

 「明日枯れる花にも水をやることだ」とは「政治とは何ぞや!」と問われた大平元首相が答えたこととしてよく知られている。

 命を散らさないこと。
 人間には無論のこと、家畜にも言えることではないか。
 生きること、生きようとすることは尊いことである。

2026年03月16日

市営住宅で孤独死した母 息子の後悔

 3月14日の「THE GOLD ON LINE」で、「『母さん、ごめん』市営団地で一人、孤独死した81歳母。毎日電話していた54歳息子が、遺品整理で見つけた『100円玉の山』と、あまりに遅すぎた後悔の行方」というタイトルに俄然興味を惹かれて泣きながら読んだ。

 54歳の息子は独身ではあるが、市営住宅で一人暮らす母親のことを心配しつつも、仕事が忙しいことを言い訳に毎日電話だけは欠かさず、母親の声を聞くことで、安否を確認しているつもりだった。

 ある日、母親が電話に出ないことに胸騒ぎというか、心配になった息子は翌日、母親の許を訪れ、変わり果てた母親の姿を目撃する。

 しかし、息子が驚くのはその後のことだ。
 冷蔵庫に食料品がほとんどなく、部屋にあったのはたくさんの100円玉だった。
 通帳を調べてみると、年金は振り込まれているにもかかわらず、引き出した形跡がなかったのだ。
 そう、母親は足を悪くし、銀行でカネが引き出せなくなっていたということがわかった。
 部屋で見つけたのが、息子から電話あった時、応えるべき内容が書かれたメモだった。

 息子に心配をかけまいと、母親は演技をしていたのである。
 本当は、満足に食べることさえままならないにもかかわらず、「お肉を食べた・・・」などと。
 歩くのもままならない脚でやっとのことで、たどり着けたのが住宅の近くにある自販機だから、買い物は自販機だけが頼りだったのだ。


 思うに、この話は実話だと推察する。
 自分のことで恐縮であるが、息子の気持ちが理解できるので書いておく。
 16歳になったばかりの夏、戦争でも死ななかった父親が突然、病死してしまったのだ。
 その時、母は38歳だった。
 所謂女盛りともいうべき年齢だった。
 専業主婦だった母は近くの燃料販売店の事務員としてパートで働き家計を支えてくれた。
 この事実は、自分にとって重くのしかかるほどの借りとなった。
 母親に借りができるという意識を持つことはおかしいと思う向きもあるかもしれないが、自分の正直な気持ちだから仕方ない。
 ために、自分は母親が働けなくなってからも、母親と同居し、死ぬまで面倒を見ると決心した。
 青春時代は学生運動で賑やかだったが、警察に捕まっている場合ではないので、学生運動とは距離をおいていたのも家庭の事情だった。

 54歳の息子は母親に毎日電話するほど心やさしい一面を持っていたのだから、電話だけで済ませず、時々顔を出してやれば、後悔するようなことにはならなかったはずである。

 人が生きていくとき、その人の数ほど、様々な事情を抱えているに違いない。
 
 それでも、母親と息子という関係でありながら、息子に頼らない母親の胸の内を推し量るに、気の毒になってしまった。

 楽しみにしていたであろう息子からの電話。
 メモに書き留めた内容のとおり息子に偽りを伝える母親。

 涙がとまらなくなってしまった。
 毒親はご免だが、ここまで遠慮するとは、・・・。

2026年03月02日

流した涙だけ重ねた精進 やがて嬉し涙に

 4年に一度の冬季五輪がフィナーレ迎えた2月22日の読売のコラム「広角/多角」で近藤雄二編集委員が「絶望から喜びの涙 重ねた精進の結晶」という見出しで、五輪でアスリートが流した絶望の涙から人知れず重ねた精進が喜びの涙に代わる様子を伝えてくれて心を揺さぶられた。

 スキージャンプ混合団体で銅メダルを獲得した高梨沙羅選手は、前回北京五輪の同種目では、スーツの規定違反で失格。チームは4位で、メダルには届かなかった。「私の失格のせいでみんなの人生を変えてしまった」と苦悩する高梨選手の様子が伝えられた。
 それでも、前を向き4年後も代表に選ばれ、ミラノコルティナ五輪会場で、混合団体への起用を伝えられた高梨選手は「本当に私でいいんですか?」と迷いを見せたという。しかし、チームメートにも支えられ2本ジャンプに挑んだ。結果は銅メダルだった。
 4年前一緒に戦った伊藤有希選手と抱き合って嬉し涙を流し続けた。

 女子レスリングでその名を歴史に刻む吉田沙保里選手の連勝記録が2008年1月、119でストップしたとき、流し続けた涙を目撃していた記者は当時の監督から何か励ましの言葉をと頼まれ「五輪の連覇がある。気持ちを切り替えようと」話すと、彼女はうなづいたそうな。
 その後、「世界大会16連覇」を達成した吉田さん。国民栄誉賞も受賞した。

 2025年、ノーベル生理学・医学賞に決まった坂口志文さん。好きな言葉が幸運、鈍重、根気を意味する「運鈍根」を挙げている。周囲の評価よりも、自ら決めた道を愚直に進み、根気よく努力する。

 二人のアスリートもまた坂口さんの言葉を実践してきたのだろう。と結ぶ。


 五輪に出場するだけでも立派であるが、メダルを獲得するとなれば、さらに素晴らしいことである。
 しかし、市井に暮らす凡人から見れば、アスリートの中でも一握りの選ばれた人たちであるから自分とは比べるべくもない。
 それでも、記者の視点は見事で、心を揺さぶられた。
 流した涙の分だけ幸せになれるかどうか知らないが、練習の積み重ねのことをひとは努力と呼ぶ。この努力が天から与えてくれるものは今までできなかったことができるようになる喜びであろうか。
 この人生における喜びというものは、努力した人間だけが得られる格別な喜びである。

 例えば、社会人になって、少しばかりカネが自由に使えるようになったとき、日本列島を旅してみたいと思い、まず、北の方から北海道、続いて、下北、津軽の両半島を訪れた。
 そこで、出会ったのは津軽三味線だった。
 その後、林隆三の『竹山ひとり旅』を観て、東京渋谷のジャンジャンで高橋竹山の演奏会を一度ならず聴いたこともあるくらい、なんだか、心をとらえて離さない音楽だった。

 その津軽三味線が古希を過ぎた自分の手許にやってきたのである。
 親族の親の形見だという。引き取り手を探しているとのことで預かった。

 わが家にやってきた津軽三味線は収納ケースに納められ撥が二つも付いていて、皮は破けていたが、張り替えれば使えるということで、おつきあいのあった三味線職人の店に持参し、経緯を話して自分が習ってみることにしたので、先生を紹介してほしい旨頼んだのである。

 古希を2年くらい過ぎていたから、新しいことにチャレンジするのは無謀かと思いつつ、頭の活性化になるかもしれないという淡い期待もあって毎月1回レッスンを受け、もう4年と半年くらい経ってしまった。

 意気地なしの自分は一人では何もできないので、地歌の三絃を持っている連れ合いに手を合わせて拝み、何とか一緒につきあってほしいと頼み込んだことが功を奏した。

 楽譜がない分、対面稽古で覚えなければならないのだが、そんなことは不可能なので、スマホで動画を撮ってもらい、それを自分のスマホに転送してもらい、次のレッスンまでに連れ合いに教えてもらいながら反復練習を日々、繰り返すことで、少しずつ覚えていくのだ。

 結果、なんと、初心者が必ずレッスンを受けるという「六段」という曲を先生と連れ合いとの3人で合奏することが4年間の精進でできるようになったのだ。

 今でも、本当なのか信じられないくらい驚く出来事だが、毎日、少しずつ練習を積み重ねて、とうとうできるようになった時、泣きそうになるくらいだった。
 覚えられないとは思ったが、1回のレッスンで、ほんの少しずつということを繰り返した結果である。
 無論、連れ合いの励ましがなければ、到底続けられなかった。

 自分は「石の上にも3年」という言葉が好きで、何事も、3年間は頑張るという主義だから、3年間は頑張れる。

 五輪のような選ばれた人たちとは比べるべくもないが、達成感というのか、やり遂げたときの喜びは先が見えている自分にとって冥土への土産になりそうだ。

2026年01月24日

「あの日の交さ点」交通事故撲滅を願って

 第75回全国小・中学校作文コンクールで文部科学大臣賞を受賞した小学生低学年の部の愛媛県愛媛大学教育学部付属小2年若狭早さんの「あの日の交さ点」が1月19日の読売に掲載され、心を揺さぶられたので書いておく。

 小学1年生の冬、自転車で交さ点をわたっているとき、交通じこにあい、目ざめたのはびょういんの「しゅう中ちりょう室」だった。
 頭のほねがおれ、頭の中で出血していた。
 「目がさめて、よかった」お母さんはなみだぐんでいた。
 たいいんできたとき、「きせきだよね、うんがよかったよね」と言ったら、「ちょっとちがうかな」とあのひの交さ点のことをおしえてくれた。
 車にはねられたぼくは、道になげ出された。
 きゅうきゅう車をよぶひと、けいさつにせつめいする人、ライトでてらす人、もうふをもって来る人、あたりはどんどんくらくなった。雨もふり出し、とてもさむかったそうだ。きゅうきゅう車に道をゆずってくれた人たち。きゅうきゅうたいいんさん。てきかくなしょちをしたおいしゃさん。
 お母さんの答えのいみが分かった。
 たすけてもらったことを「うんがよかった」でおわらせてはいけない。交さ点でかかわった人たちにこころからかんしゃした。
 おとなになったら、たすけてもらったぼくが、誰かをたすけられるようにあの日の交さ点にいた人たちへのかんしゃを形にしよう。
 ぼくは今日も元気に生きている。と結ぶ。


 畑で有機無農薬での野菜作りを実践している。
 畑の前を通学路にしている近所の小学2年生の女児が夏休み前の暑いとき、立ち止まり、持参している水筒で水を飲みながら、「畑のお仕事がんばってください」と励まされた。
 子どもに声かけするのは犯罪だとされているが、子どもに励まされて知らん顔はできないので「ありがとう」とお礼を言った。
 その後、女児から「畑のお仕事がんばって」と名前と絵が書いてある手紙をもらった。
 子どもの純な気持ちに応えるため、連れ合い共々返信した。
 ところが、小学校高学年になると恥ずかしいという気持ちが芽生えたのであろうか、会釈くらいはしても話しかけるようなことはなくなり、今、中学生になっているはずだが、畑の前が中学の通学路ではないので、見かけることもなくなった。

 小学2年生の女児が暑くて喉が渇き、水筒の水を飲み、目の前の畑で暑い中、汗を流している人を見て誰に言われたわけでもないのに思わず励ましてくれたのであろうが、素直さにびっくりしたものである。
 ところが、高学年になって、恥ずかしさが芽生えると挨拶をすることもなくなっていく。

 若狭早さんが交通事故に遭って、助かって本当に佳かったと読みながら安堵しつつ、助けてくれた人たちのことを思い、大人になったら、助けられるように感謝の気持ちを形にしようと決意するのだ。 
 そして、僕は今日も元気に生きている。と結ぶのを読んで、助けた人たちに自分もお礼が言いたくなった。

 今、交通事故を起こしたドライバーの多くが逃げてしまうが、結果的にひき逃げ犯としてほとんどが検挙されている。
 悪い奴ばかりが跋扈している世の中で、まさに奇跡的に助かった命が、助けてくれた人たちのことを思い、大人になったら、助けられるようになると決意するのを読んで、自分が交通事故を起こさないようにすると同時に、もし、事故現場に居合わせたら、救護するようにしなければならないと教えられた。
 長く生きてきたが、子どもに教えられることが少なくない。

2026年01月15日

イラン反政府デモ 当局の弾圧で648人殺害される

 イランで続いている反政府デモをめぐり、人権団体は12日、当局の弾圧で殺害された人がこれまでに少なくとも 648 人に上っていると発表した。報道が規制されていることなどから現地の状況は不透明なままだが、BBCに寄せられた証言からも、死傷者が増えていることがうかがえる。と1月13日のBBCが伝えている。

 ノルウェーに拠点を置く人権団体「イラン・ヒューマン・ライツ」は、648人の中には18歳未満の9人も含まれていると説明した。実際の死者数はもっと多い可能性があるという。

 イランでは通信が全国的に遮断されており、情報の確認が困難になっている。BBCを含む外国の報道機関は、イランで自由な取材が認められておらず、国外で活動するイランの人権団体の情報に頼っている。

 イランの情報筋や目撃者の間では、各地の都市で極めて大勢が殺害されており、死者は計数百人から数千人に上るという声も出ている。

 イラン当局はこれまでのところ、抗議行動の参加者の死者数について、公式発表も透明性のある情報提供もしていない。


 毎日書き続けているのは「自由のため」である。
 戦争で戦没・死没された人、犯罪被害者、公害病患者そして遊女・女郎と呼ばれし女性たちすべからく自由を奪われた人たちであり、ために慰霊あるいは供養の祈りを捧げてきた。

 2025年2月に公開された『聖なるイチジクの種』を観てイランで自由を奪われ、抑圧されている人々のことを少しばかり知ることができた。
 イランといえば、米国が支援していたパーレビ王朝がホメイニ革命で倒され、独裁者一族は米国に亡命した程度のことは知っていた。
 しかし、自由を謳歌してきたイランの人々にとっては、イスラム原理主義というかイスラムの教えを前面に出すイスラム教の指導者に自由を奪われることになり、イスラム教の指導者の進めるイラン統治に不満を抱いていることを映画とは言いながら教えてもらうことができたのである。

 『聖なるイチジクの種』では予審判事に昇進した男が反政府デモに参加して逮捕された人に不当な刑罰を下すことを国家権力から余儀なくされるということで、反政府系の人たちから命を狙われる危険があるとの理由で、国から銃が支給されるのだが、この銃が自宅で紛失してしまう。自由を求めて父親に反発する娘が銃を持ち出してしまったのではないかという疑心暗鬼に陥る。
 
 ヒジャブというイスラムの女性が頭髪や首などを覆うためのスカーフのような布があるが、自由を求める娘たちは自宅ではヒジャブを身につけないという反発をする様子が描写されていた。
 無論、外出時には身にまとわないと街を歩けない。

 イスラム教にケチをつける気など毛頭ないが、ヒジャブに反発というか面倒くさいと考える女性がいてもおかしくない。

 そのイランで、物価高騰などに端を発したデモが国内各地に広がり、治安当局が徹底的に弾圧し、米国のトランプ大統領が軍事介入をほのめかしている。

 ベネズエラでの攻撃でも明らかになったように米国はイラン政府が気に入らなくて、CIAを使った反政府デモを企図したのかもわからない。

 それでも、独裁政権下で自由を求める市民の抗議デモはなかなか抑えられるものでもないことから、これからもデモはなくなることはないであろう。

 1月14日の読売によれば、死者は3000人に上るとも伝えられている。

2026年01月10日

「できないことより、できることを探したら?」

 「ラストストーリー」というタイトルに「視力喪失 家族と前へ」「娘の顔 見られた幸せ」という見出しで、ある日突然、視力を失うという絶望のどん底に突き落とされた男性が「できないことより、できることを探したら?」という連れ合いの一言をきっかけに前を向いて生きていくことができたという誰しもに参考になる話が1月7日の読売に掲載されている。

 千葉県館山市の石井健介さん(46)は、16年4月、朝目覚めたら視界がぼやけ、だんだん薄暗くなり、やがて真っ暗になり、大学病院の緊急外来を受診し、1か月の入院を経て、「多発性硬化症」と診断された。中枢神経が炎症を起こし、視力や感覚の障害を引き起こす難病で、治らないと宣告された。
 「人生には予想外なことが起きる。それが何かの終わりだったとしても、次に進むため、『第1章が終わって第2章が始まった』と受け止めてほしい。状況は変えられなくても自分自身は変えられる。私は視力を失ったことで、新たな視点を手に入れたと思っている。」という一言を石井さんは寄せている。

 21年冬、「ブラインドコミュニケーター」と名乗り、目の見える人と見えない人とをつなぐ活動を始めている。
 「明日の朝、目が見えなくなるとしたら、最後に何を見たいですか。と出会ったばかりの人に尋ねるそうな。


 何が怖いと言って目が見えないということほど怖いことはないだろうと想像する。 
 ある日、突然その恐怖がやってきたら、正常な思考力を失って精神を病んでしまいそうだ。
 その経験者の一言は重い。
 「第1章が終わって第2章が始まった」とはとても思えないが、状況は変えられなくとも自分自身は変えられる。視力を失ったことで、新たな視点を手に入れたという考えは大いに参考になる。

 40代になった頃、3か月入院し、その間、絶飲食で過ごし、炎症性腸疾患クローン病だと宣告され、厳しい食事制限とエレンタールという栄養剤で生活をしていたことを思い出す。
 ずっと病気とおつきあいしながら生きてきたが、それでも2度腸閉塞で入院し、鼻から管を入れるという極めて苦しい治療を受けたことがある。
 原因不明で治らないと説明を受けたときは、お先真っ暗ということを経験している。

 正月で油断したかして、ここのところ腸閉塞症状で腹痛にやりこめられている。
 何でもない人から見れば、どおってことはなかろうが、当事者にしてみれば大変だ。

 考えてみれば、視力を失うだけでなく、病気などでこういう経験をしたひとは少なくないだろう。

 まず、病気を受け入れる。つまり受容することから始まり、自分自身を変えていくよりないことがわかってくる。
 自分の体に限らず、大切な人を亡くした場合にも同様のことがいえる。
 まず、受容することから始まり、第1章が終わって第2章が始まった」と受け止め、自身をかえていくよりない。
 世の中広い。自分より大変な人などいくらでもいる。
 とはいうものの、当事者になってみれば、大変さに差などないことがわかってくる。

2026年01月04日

たかが駅伝 されど駅伝

 2026年も正月三が日が終わり、もはや正月というよりも普段の生活に戻った気分である。
 正月といえば、いつの頃からか元旦にニューイヤー駅伝、2日、3日箱根駅伝の中継放送をTVやラジオで楽しむ家庭が多くなっている。
 駅伝といえば、小学校から運動会の花形リレー競争の延長線上にあるので、誰が観ても面白いものだ。
 さらに言えば、関係者でない限りどこが勝っても直接自分に利害関係があるでなし、さりとて、自分の家族が関係する実業団チームや大学があれば、誰しもそのチームを応援したりすることでより身近な存在になっていく。
 その駅伝に魅せられたのは何と小学生の時で、毎年、正月は箱根駅伝のNHKラジオ中継放送に耳を傾けていたばかりか、詳しく伝える翌日の読売新聞を読んでいたという駅伝の今でいうところのオタクだった。

 箱根駅伝だけでなく、箱根駅伝で走ることになる高校生の全国高校駅伝大会や青森〜東京、東京〜大阪間の都道府県対抗駅伝競走という一般選手から高校生までもが出られる駅伝大会もあり、TV中継されないものは新聞でチェックしていた。

 自動車が増えたため道路交通事情から、青森〜東京、東京〜大阪の都道府県対抗駅伝は中止されてしまったが、箱根駅伝は102回も続いている。
 ラジオ中継だけでは満足できず、第50回大会からは沿道に立ち、電車で追っかけ応援をすること43年ということだったが、加齢により、とうとう行かれなくなってしまった。

 たかが駅伝、されど駅伝なのは、ただ襷を渡し、受け取って決められた区間を走る競争だけではない、観る者に何か説明しにくい感動を与えるものがあるスポーツなのだ。

 年末の全国高校駅伝で走ったランナーが大学で箱根駅伝を走り、箱根で活躍したランナーが実業団に就職してニューイヤー駅伝を走るということで、彼らは走るエリートといっても過言ではない。

 ところが、1チーム、10人、10区間で争う箱根駅伝を例にすれば、一つの大学で10人しか走ることができないのだ。
 出場できるのが20チームプラス学連選抜だから全体でも210人と狭き門である。
 走れない人は選手の付き添いや沿道で給水を担当したり、走路員として大会の縁の下の力持ちの役割りを果たしている。

 さて、語り継ぐ戦争という立場からみれば、箱根駅伝も競争だから、当然、勝利を目指して選手は走ることになるが、各大学には監督という指導者というかリーダーがいて、作戦を練って、大学の名誉のために勝利を目指す。

 この監督という立場の人も大変なのだ。

 関東の大学で争うのが箱根駅伝の特色であるが、出場チーム数が21チームで、前年の成績が上位10位までは翌年の大会のシード権を与えられるのだが、11位以下のチームと出場を希望するチームは前年、立川で開催される予選会に出場し、10位までに入らなければ本大会に出場できないのだ。

 選手には過酷ともいえる練習をこなすため、どうしても故障のリスクがある。
 一方、監督には本大会に出場するという暗黙というか大学からの圧力があり、出場を逃すことが続けば、監督交代ということで、首が切られてしまう。
 ここでも、大学の職員であるとか正規雇用であれば、生活の心配はないかもしれないが、非正規雇用であれば、次の職の心配をしなければならない。

 学生は高校の時の競技の成績で大学からのスカウトもあるだろうし、推薦入学とか様々な入学形態を経ているだろうが、高校時代がピークで大学では伸びないものもあれば、大学で伸びる学生、社会人になって伸びる学生など様々だ。

 こうしてみてみると、たかが駅伝、されど駅伝だということが理解されるのではないか。
 TV中継で映っている背景を考えると日の当たるときばかりではないことが分かってくるだろう。

 最後に大会を支える人たち、先導車、白バイなど警察やボランティア、観客など多くの人たちが作り上げて大会が開催されていることも書いておかなければならない。

2025年11月29日

「大人になったら、学校の先生になりたい」

 はたらく人を応援する 第12回 こども作文コンクール「ありがとう感謝の心を、未来へつなぐ」の授賞式が11月1日に都内でおこなわれた。
 小学生が「身近なはたらく人へ、ありがとう」「あこがれの仕事、かなえたい夢」「みんなに伝えたい私の町」をテーマに思いを綴る作文コンクールで、全国から2万1877点もの応募が寄せられている。と11月23日の勤労感謝の日の読売が広告の紙面で伝えている。
 大賞受賞作が1〜2年生の部、3〜4年生の部、5〜6年生の部3作品紹介されている中から、福島市立笹谷小学校2年佐々木結愛さんの「わたしのゆめ」を紹介したい。

 大人になったら学校の先生になりたいという結愛さん。
 ダウン症のお兄ちゃんが上手く話しができないこと、耳が聞こえにくいことから「ハンカチを持った?」という母親の言葉が理解できないとき、「ハンカチを見せて話したらいいんじゃない?」とわたしがハンカチを見せながら大きな声で「ハンカチ持った?」と言うと、お兄ちゃんはニッコリとしてうなづいた。お兄ちゃんがニッコリ笑うとみんな優しい気持ちになる。話が伝わったことがとてもうれしかった。
 特別支援学校に通うお兄ちゃん。小さい頃、特別支援学校の授業参観に行ったことがあるという結愛さん。
 そこで目撃したのは、みんながキラキラしていて、ニコニコ楽しそうにしているその隣には必ず学校の先生が寄り添ってサポートしているのを見て、特別支援学校の先生になりたいと思ったそうな。
 手話を少し習ったので、もっと勉強して、私の周りで障がいを持つ人や困っている人を見かけたら、サポートしてあげたい。と結ぶのだ。


 有機無農薬での野菜作りを畑で実践しているが、数年前、畑の近くの住宅に住む結愛さんと同じ小学2年生のみうさんが、夏休み前の暑い日のこと、通学の帰宅時、立ち止まって水筒の水を飲み、「畑のお仕事頑張ってください」と声をかけてくれた上に後日、お手紙をくれたのである。
 今、世の中が変わってしまい、子どもに声をかけるのは犯罪になってしまうが、「ありがとう」とお礼を言った。手紙を頂戴して、相手が子どもだからと言って知らん顔というわけにはいかないので、連れ合いと一緒に返事を書いて渡したことがあった。

 さらに遡ること、80年代仕事で関わることになった小学2年生の子どもたちから、「ベートーベンのおじさん」という名誉あるニックネームを頂戴したことがある。
 サリドマイドで腕がない女児を「手なし」と揶揄した男児の兄弟に怒って向かっていたYさん。すかさず、兄弟に「そういうことを言うな!」と注意したことがきっかけかと思うが、同じ子どもでも小学2年生というのは素直で正直に自分の心に思ったことをぶつけてしまうものだと教えられた。

 件のみうさんは高学年になるにつれ、恥ずかしさを身に着けたかして、あいさつもせず、なんとなく避けているようになった。
 今は、もう中学生で畑の前を通ることはなくなったので、どうしているかなと思いだすことはある。

 結愛さんが自分のお兄ちゃんを気遣うことから、手話を習い、特別支援学校に授業参観に行き、先生方のサポートの様子を見て学び、自分も特別支援学校の先生になり、さらには、周囲にいる障がい者や困った人をサポートしてあげたいと結ぶ作文に心を揺さぶられた。

 自民党の裏金議員がアイヌや朝鮮半島の人を蔑むような差別的言動を恣意的に繰り返していたのと大きな違いで、小学2年生に人のありかたを教えられた。

 この気持ちを持ち続けてもらいたいと願う。

2025年10月19日

前橋市長と伊東市長 何が悪い?

 前橋小川市長と伊東田久保市長の「魔性対決」というアサ芸プラスの興味本位の記事をWEBで見つけたので、世間をお騒がせしている二人のことを書いておく。

 語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援など「自由」のためにをテーマに毎日、発信してきたが、内容が硬く、冥いことばかりでちっとも面白くないにもかかわらず、お付き合いいただいている方のために、たまには、軟らかい話をとりあげてみたい。

 今、世間をお騒がせしている自治体の二人の女性のトップがいて、片や、大学を卒業していないにもかかわらず、卒業したと学歴を詐称したという。
 此方、家庭のある部下の秘書課長とホテル、それもそちら方面のホテルで密会ならぬ、身の上相談をしていたということで批判されているので、世の中、広いから一人くらい味方がいてもいいだろうという天邪鬼(連れ合いが命名した)の自分が人生の先輩として、エールをおくりたい。

 人は自らが幸せか不幸せかで他者に対する態度が異なるものだ。
 自治体の二人の女性トップが仕事上で住民に迷惑をかけたなら、味方すると名乗りを挙げたりはしない。
 仕事とは全く関係ない私的なことで、足を引っ張るのは感心しない。
 おそらく、自分が不幸だから、幸せな人が許せないという身近な人物がタレこんだから、騒ぎが大きくなったのではないか。
 学歴詐称のトップは、対処、身の処し方を間違ったことで、騒ぎが大きくなってしまった。
 事実を認め、謝罪すべきであった。「ごめんなさい」「赦してください」と涙を浮かべながら頭を下げる女性を責める人間はよほど意地の悪い性質である。

 家庭のある部下と密会ならぬ、身の上相談をしていたとされているトップは、大人の関係はなく、ただ仕事、私的なことでの悩みを相談していたということで、自らは家庭がないわけだし、相手の連れ合いに配慮が足りなかったということで、丁寧な説明と謝罪をすることで赦しを乞うことが大事だ。すでに、部下の連れ合いは平穏な暮らしに戻りたいと訴えているのだから、周囲も平静さを取り戻す必要がある。
 要するに、犯罪をしたわけでなし、不倫を否定している以上、傍がとやかくいうことではない。

 前橋といえば、前橋ブルースというわりと好きな唄がある。「両毛線は終電車」というフレーズが歌詞にあるのだが、前橋に行ったことがないので、両毛線に乗ったこともないけれど、歌詞が耳に残り、駅で別れて終電車は何時だろうと考えてしまった。
 こちらは男女のことを歌っていたと記憶する。

 NHKで著名なアナが不倫を責められて、TVに出て来なくなってしまった。
 日本の社会がどんどん良くない方向に進んでいる気がしてならない。
 不倫は性暴力や買春とは異なり、犯罪ではない。道徳的には問題があっても、所詮個人的なことである。

 もっと寛恕の精神で、温かい目で見てやる。人生で過ちなど誰の身の上にも起きることではないか。

2025年09月22日

紙芝居『わたしの命の物語』でハンセン病問題啓発

 ハンセン病の元患者藤崎陸安さん(2023年死去)の連れ合い美智子さん(74)がハンセン病問題を啓発するための紙芝居『わたしの命の物語』を完成させ。14日に東京は東村山の国立療養所多磨全生園に隣接する国立ハンセン病資料館で披露会が開かれた。と9月18日の読売(黒山幹太記者)が伝えている。

 ハンセン病患者の夫婦の間に授かった新たな命が、「らい予防法」や「優生保護法」を背景に堕胎を余儀なくされ、生まれてくることを許されなかった悲しみを描く。

 「こんな悲しみが、二度とない世界を、あらゆる命が、大切にされる世界を。誰もが、祝福されて生まれてきますように」と披露会の最後に美智子さんは願いを込めた。

 紙芝居の脚本を担当したのは、どら焼き店で働くハンセン病元患者の主人公樹木希林さんが演じた『あん』の原作者で作家のドリアン助川さん(63)。


 ハンセン病のことを知ったのは小川正子『小島の春』(河出書房新社)がわが家の本箱にあったからだが、若かったからか、途中で挫折した思い出がある。

 次いで、松本清張『砂の器』を原作とした映画『砂の器』で加藤嘉演ずる本浦千代吉が一人息子秀夫と引き離されハンセン病療養所に隔離されてしまい、息子と再会できる日を待ち望んでいる様子に涙した。
 秀夫は父親がハンセン病だったことも含め、過去を消すたため、大阪空襲、空爆を利用して和賀英良に成りすまし、新進気鋭の作曲家として、売り出すのだが・・・。

 さらに、上述の『あん』で樹木希林の元ハンセン病患者がどら焼きのあん作りの手練れで、客足が伸びたが、元ハンセン病患者だとわかるとばったり客が来なくなってしまう。
 この映画に触発されて、多磨全生園を訪れ、納骨堂の前で供養のために尺八を吹いた。

 直近では、熊谷博子監督『かづゑ的』を観て、ハンセン病であっても病気と差別、偏見に負けずに生きる宮崎かづゑさんの暮らしに伴走したドキュメンタリーを観て、いろいろ勉強させてもらった。

 藤崎美智子さんが完成させた紙芝居『わたしの命の物語」で、ハンセン病故妊娠中絶を余儀なくされたことに対し、ために子どもを持てなかった人の怒りと悲しみが伝わってきた。

 自分が啓発されたのは映画による力が大きいが、本による影響、映画による影響、当然、紙芝居だって影響力はあるに違いない。
 『砂の器」の原作は無論読んでいるが、そういえば、『小島の春』はあのままだった気がする。
 宿題を提出していない気分である。

 死ぬまでに、最後まで読まないといけない。

紙芝居『わたしの命の物語』でハンセン病問題啓発

 ハンセン病の元患者藤崎陸安さん(2023年死去)の連れ合い美智子さん(74)がハンセン病問題を啓発するための紙芝居『わたしの命の物語』を完成させ。14日に東京は東村山の国立療養所多磨全生園に隣接する国立ハンセン病資料館で開かれた。と9月18日の読売(黒山幹太記者)が伝えている。

 ハンセン病患者の夫婦の間に授かった新たな命が、「らい予防法」や「優生保護法」を背景に堕胎を余儀なくされ、生まれてくることを許されなかった悲しみを描く。

 「こんな悲しみが、二度とない世界を、あらゆる命が、大切にされる世界を。誰もが、祝福されて生まれてきますように」と披露会の最後に美智子さんは願いを込めた。

 紙芝居の脚本を担当したのは、どら焼き店で働くハンセン病元患者の主人公樹木希林さんが演じた『あん』の原作者で作家のドリアン助川さん(63)。


 ハンセン病のことを知ったのは小川正子『小島の春』(河出書房新社)がわが家の本箱にあったからだが、若かったからか、途中で挫折した思い出がある。
 次いで、松本清張『砂の器』を原作とした映画で加藤嘉演ずる本浦千代吉が一人息子秀夫と引き離されハンセン病療養所に隔離されてしまい、息子と再会できる日を待ち望んでいる様子に涙した。
 さらに、上述の『あん』で樹木希林の元ハンセン病患者がどら焼きのあん作りの手練れで、客足が伸びたが、元ハンセン病患者だとわかるとばったり客が来なくなってしまう。
 この映画に触発されて、多磨全生園を訪れ、納骨堂の前で供養のために尺八を吹いた。
 直近では、熊谷博子監督『かづゑ的』を観て、ハンセン病であっても病気と差別、偏見に負けずに生きた宮崎かづゑさんの暮らしに伴奏したドキュメンタリーを観て、いろいろ勉強させてもらった。

 藤崎美智子さんが完成させた紙芝居『わたしの命の物語」で、ハンセン病故妊娠中絶を余儀なくされたことに対し、ために子どもを持てなかった人の怒りと悲しみが伝わってきた。

 自分が啓発されたのは映画による力が大きいが、本による影響、映画による影響、当然、紙芝居だって影響力はあるに違いない。
 『砂の器」の原作は無論読んでいるが、そういえば、『小島の春』はあのままだった気がする。
 宿題を提出していない気分である。

 死ぬまでに、読まないといけない。

2025年09月13日

民具生活用品を50万点収集

 70年以上かけ民具・生活用品を50万点収集した秋田県横手市の油谷満夫さん(91)のことを「古い道具の中に未来がある」という見出しで9月7日の読売(小杉千尋記者)が「顔 Sunday」というコラムで紹介している。

 農具など日常で使用されていた民具や家庭の生活用品を江戸時代から現代まで、総数は約50万点。「苦しい時代を生き抜いてきた人たちの工夫と知恵が詰まっている。苦労して使われてきた道具ほど、いい格好をしているものです」と収集してきた思いを話す油谷さん。

 米穀商だった生家は経済的に苦しかったため、食べるためになんでもやったが、心の支えとなったのが物の収集だった。
 切手の収集から始まった収集癖はやがて、関心は民具へと移った。
 「庶民の暮らしを残したい」と民家を訪ね歩いては、使われなくなった道具を譲ってもらって回った。
 収集品は自宅に収まりきらず、複数の倉庫で保管してきた。
 このことを聞きつけた東京芸大の准教授らが現代の生活やアートへの活用を検討しようと2025年春調査が始まった。
 「先のことがわからないからこそ、人は歴史に学ぶしかない。古きものの中に未来がある」と民具収集の面白さを語る。


 アジア太平洋戦争に召集され、南方のスマトラ島から無事帰国した父親は偶々わが家にあった農地で陸稲や野菜を作っていたのを小学生の時から手伝わされた。
 16歳になったばかりの夏にその父親が病死したため、畑に行くことはなくなったが、20代半ばの頃、荒れ地と化した畑で枯草火災が起こり、消防署に管理不行き届きで怒られた。
 仕方なく、開墾から始めて、栗や梅の木を植えた。
 もう陸稲を作ることなど考えられなくなったので、物置にあった昭和30年代製の脱穀機とモーター、唐箕などを知人に処分してもらったことがある。
 知人は農耕具として、収蔵してくれるような話をしていたが、その後どうなったことか不明である。

 秋田で個人が農具や生活用品を50万点も収集している人がいたとは驚きである。
 わが家では、祖父が建てた土蔵、所謂蔵を先年解体し、中にあったものをアンテイックの店の人に引き取ってもらったことがある。
 油谷さんが近くにいることを知っていたら、何点かでも、持って行ってもらいたかった。

 古い道具の価値を知っている人から見れば、わが家のようないい加減な家の主は何もわかっていないと思ったかもしれないが、要らないものは要らないのだから仕方ない。

 秋田の横手といえば、、水神様をまつる小正月の伝統行事、かまくらでよく知られている雪の多い街だが、女郎や娼婦と呼ばれし女性たちの供養をしてきた立場としては、伊達一行『みちのく女郎屋蜃気楼 : アネさんたちの「昭和史」』(学芸書林)を買い求めて読んでいるので、馬口労町に遊郭があったことを知っている。

 油谷さんの民具、生活用品の収集とは関係ないが、歴史に学ぶという視点で見れば、横手のような街でなぜ、遊郭があったのか。ということも知っておいた方がいいかもしれない。

 豪雪地帯だろうが、働く場がない東北の田舎では、性を商うことも一つの仕事になるということか。
 生きるとはこういう人々の営みも含まれるのだろう。

2025年07月26日

清貧の大統領に学ぶ生き方

 「貧乏とは、少ししかもっていないことではなく、限りなく多くを必要とし、もっともっとと欲しがることである」と現代の大量消費社会を痛烈に批判したことで知られるホセ・ムヒカ・ウルグアイ元大統領が5月に89歳で亡くなったことを受け、7月17日の読売(大月美佳記者)が夕刊の追悼抄でその生き方を称賛している。

 南米ウルグアイ大統領在任中(10〜15年)、公邸に住まず、3部屋しかないトタン屋根の自宅から通勤した。
 その暮らしぶりから「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれた。

 一貫して目指していたのは、豊かさを分かち合える平等な社会の実現だった。訪問客には小説「ドン・キホーテ」の一節から「常に人間は一人では生きられない」と説いた。
 幼くして父を亡くし、母と共に花を売って生計を立てた。左派武装組織に参加し、計4回逮捕された。軍事政権が終わるまでの12年以上に及ぶ獄中生活、ハエを食べて飢えをしのいだこともあった。
 「極限まで追い詰められた経験は、人生の最も重要で根本的なこと、些細なことに気づかせてくれた」とは同じ武装組織のメンバーだった連れ合いのルシアさんだ。
 出所後は花を売りながら元ゲリラ仲間と政治活動を続け、大統領に就任したとき74歳だった。
 在任中は、自らの給与の大半を寄付し、貧困層への住宅建設などに尽力した。
 『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』が刊行され、退任後の2016年に来日。
 ヒロシマの平和記念資料館を訪れ、「未来に向けて記憶しよう。人間は同じ石で躓く唯一の動物だだと歴史が示しているから」と記帳をした。


 くさばよしみ編、中川学絵『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(汐文社)が手許にある。
 他人の悪口を言わないからか、人に好かれる連れ合いには親しくしている女性が多い。
 職場で管理職として現在も働き、陶芸を楽しみかつ自分も一緒に会食したことがある読書好きな女性がこの本のことを教えてくれたので、買い求めて読んだというわけである。

 恥ずかしながら、この時までよく知らなかった。
 投獄され、後に大統領になったといえば、南アフリカのネルソン・マンデラ大統領がすぐに頭に浮かぶ。
 南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領と同国代表ラグビーチームの白人キャプテンがワールドカップ制覇へ向け奮闘する姿を、クリント・イーストウッド監督、モーガン・フリーマン、マット・デイモン主演で描いた『インビクタス負けざる者たち』2010年公開だったか。
 この映画を観て、一握りの人たちが多くの富を独り占めすることに疑問と怒りを抱いたことを思い出す。

 具体的には、独裁国家、北朝鮮の金一族、ロシアで宮殿に住んでいるというプーチン大統領、中国で支配層の中国共産党幹部たち、そして、米国と日本などで富を独占する一握りの富裕層。

 中野孝次『清貧の思想』(文春文庫)が90年代の日本で話題となったことがある。
 清貧という言葉で、大好きな作家乙川優三郎の『安穏河原』を思い出した。
 不器用な生き方が災いし、娘を女衒に売ってしまうほど貧すれど、人間としての誇りだけは失うなと娘に告げる浪人。その娘の子どももまた女郎だった母親から厳しく育てられ、空腹でも「おなかいっぱい」と施しをうけようとしない姿に涙が止まらなくなってしまうのだ。

 利権ばかり考え、反日反社の旧統一教会とズブズブの関係かつ、政治資金を裏金にしていた清貧とは縁のない政治家たち。
 死んであの世に持っていけるわけでもないのに富を独占する富裕層。
 世界は広い。
 ご冥福を祈りたい。

2025年07月13日

ハンセン病「人間回復の橋」と生きた証しの写真集

 NHK心の時代〜宗教・人生〜「人間回復の橋」を架けるが放送された。

 「長島愛生園は岡山県の島にあるハンセン病療養所だ。石田雅男さんは10歳でハンセン病を患い入所した。隔離された島で長年暮らしてきた石田さんの願いは、島と本土の人々を結ぶ架け橋を造ることだった。数々の困難を乗り越えて1988年に完成した橋は「人間回復の橋」と呼ばれる。隔離の島で起きたことの記憶や橋に込めた思いを、数少ない語り部として伝え続けてきた石田さんの人生にとって“人間らしさ”とは何か伺う。」と㏋にある。

 「ハンセン病 命の肖像」「1975年の沖縄愛楽園『生きた証し』写真集に」という見出しで、7月8日の読売(今村知寛記者)が夕刊でハンセン病隔離政策の中で営まれた命の響きに耳を傾けてほしいとの思いが込められている。と伝えている。


 長島愛生園といえば、2024年公開された熊谷博子監督『かづゑ的』を観ているので知っている。
 長島愛生園に10歳で入所し、80年間暮らした女性に8年間伴奏したこの映画でも、1988年に完成した「人間回復の橋」という呼び方はともかく島と本土を結ぶ景観として映っていた。

 沖縄愛楽園といえば、名護市にあることは知っていた。
 というのは、2016年6月にハンセン病国立療養所「多磨全生園」を訪れ、納骨堂前でお参りしたが、その時、園内にある資料館で日本全国にある国立療養所の所在地のことを知った。
 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で名護市を通った時、庁舎の建築が洒落ていて、興味はあったが、沖縄戦の犠牲者の慰霊が目的だったので、寄り道することはなかった。
 国立ハンセン病療養所としては、熊本県菊池市の菊池恵楓園の収容者が死刑になり、遺族が再審請求を行っている事件で、菊池恵楓園のことも知っていた。

 ハンセン病のことを意識したのは松本清張『砂の器』(新潮文庫)を原作に野村芳太郎監督、橋本忍、山田洋次脚本、加藤剛主演で映画化された作品を観て、読んでからである。

 7月20日の投票日ということで参議院議員選挙が行われている最中である。
 この選挙を前に、選挙期間中も全国を遊説し、集まった聴衆からの質問を受けるとマイクを渡し、れいわ新選組代表の山本太郎代表が答えるという試みが行われている。
 未だかつて、こんな政治家はいなかった。
 その山本太郎代表は「生きているだけで価値がある」ということを明言している。
 自分が知る限り、政治家でこんなことを明言している人は山本太郎代表だけである。
 現に、参議院選挙の特定枠を使って、重度の障がい者を二人も国会に送っていることで、発言が裏付けられている。

 好きな作家に山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平、そして乙川優三郎がいる。
 その乙川さんがまだ時代小説を主に書いている時、本の書名というか作品のタイトルを失念してしまったが、若い人が死に、年寄りが生き残った時、年寄りが先に死ねばよかったと呟く男に赤提灯だったかの主が「命の重さはみな同じでは…」というような会話があった。
 書棚で確認する時間がないので、正確さに欠ける点はお詫びするとして、忘れられない一言になっている。
 
 国民主権から天皇主権、人権や自由は国家の前に制限されるという国家主義の独裁者の参政党がれいわ新選組をターゲットにれいわ新選組を陥れようとしているが、女性は高齢になると子どもが産めないなどと、こちらも女性の産む自由を無視し、生産性につながるようなことを発言し、女性たちから顰蹙を買っている。

 そう、人間はカネがある、ない。年齢が若い、年寄り。男、女、その他など。全く人間としての価値に変わりがない。「生きているだけで価値がある」という山本太郎代表のれいわ新選組の参議院議員が増えれば、間違いなく住みよい世の中になるだろう。

 ハンセン病に対する差別も、山本太郎代表のれいわ新選組なら当然、許さない。
 期日前投票、投票日いずれにしても、れいわ新選組のような弱者の味方に期待するしかない。

 自由のために書き続けているが、戦没者、原爆や空爆などでの死没者、犯罪被害者、公害病患者、ハンセン病患者などのことを取り上げる回数が多くなるのは、声なき声、死者の無念に耳を澄まし、代わりに発信したいと考えているからだ。

2025年06月15日

「想念は現象化する」長嶋茂雄さんから受け継ぐ

 「『見るスポーツ』時代先導した長嶋さん」という見出しで6月8日の読売(編集委員片山一弘)が「広角/多角」と題するコラムで我らがヒーロー長嶋茂雄さんの追悼文を書いている。


 団塊の世代の一員である自分にとって、忘れられない出来事は1959年6月25日の天覧試合で長嶋さんがサヨナラホームランを打ったことである。
 この試合で世界の王さんもホームランを打っていること。長嶋さんに打たれた阪神の村山実さんが「あれはファールだ」と死ぬまで言い続けていたことも記憶にある。
 あの日は、10歳の誕生日だった。
 誕生日だからと言って、当時、家族が祝ってくれたかどうかなんて覚えていないが、長嶋さんが自分の誕生日にプレゼントをくれたような気がして嬉しくて今日に至るまで忘れたことはない。

 長嶋さんが選手の時代は無論、監督になってからも応援していたが、監督を退任してからは松井選手と大谷選手のことが気になる存在になったくらいで、すっかり巨人を応援する気持ちは熱が醒めてしまった感覚である。

 長嶋さんが病に倒れ、驚異的なリハビリで回復し、何とか表舞台に立つことができたことは佳かったが、子どもの頃からの自分のヒーローだから、なんだか気の毒で正視できなかった。

 その長嶋茂雄さんの教えとして、長嶋さんがどこかの寺の偉い坊さんに教えを請うたのだろうと思っているが「想念は現象化する」ということをTVだったと思うが語っていた。

 早速、自分も実践し、今では座右の銘として、いつも、心の拠り所にしている。
 意味合いは、願い事があれば強く願い続け、あきらめずに努力すれば必ず実現するというような教えである。
 
 俄かに信じがたいという向きもあるだろう。
 しかし、自分にとって思い当たることがいくつかあるので、座右の銘にしているくらいで、信じたくなければ好きにすればいいだけのことである。

 そういえば、「メイク ミラクル」なんてわけのわからないことを長嶋さんが発信していたことがある。

 新人で巨人で打席に立った時、当時の国鉄の金田投手のボールがバットに当たらず、三振で始まったが、やがて、その金田投手からホームランを打てるようになった。
 監督になったら、まるでダメで長嶋ファンだったけれど貶してしまったこともあったが、やがては日本一を達成している。
 晩年は、脳梗塞だったかで倒れ、手遅れだったが、不屈の闘志でリハビリを重ね表舞台に復帰した。

 人間一生佳いことが続かないことを教えてくれたのも長嶋さんだった。

 「諦めたらだめだ」と努力することの大切さを教えてくれた。
 昭和のヒーローが退場していくのを見て、自分たちの時代の終焉ということを考えさせられた。

2025年06月06日

『秋が来るとき』

 月に一度の映画館行き、6月はフランソワ・オゾン監督『秋が来るとき』を観てきた。
 久しぶりのフランス映画、緑豊かな街ブルゴーニュを舞台に、タイトルにあるように人生を季節に例えれば秋から冬を迎える80代の一人暮らしの女性、しかも誰にもしゃべりたくない過去を抱え、関係が冷え込んでいる一人娘と愛情を注いでいる孫、親友との絆などを描いた物語。

 80歳のミシェルが暮らすブルゴーニュは緑豊かで羨ましくなるほどの街。ある日、パリに住む一人娘と孫が遊びにやってくる。母親だからミシェルは森で採ったキノコを使った料理でもてなすのだが、一人だけ食べた娘が食中毒になってしまう。
 離婚調停中で精神が安定していない娘は「私を殺そうとした」と母親を詰るのだ。
 一人暮らしのミシェルには親友がいて、互いに支えあって生きているのだが、煙草をすぱすぱ吸う親友は堅気の人にはみえない。彼女の息子は刑務所に収容中。間もなく出所できそうだということで、二人は子育てに失敗したと語り合う。
 息子が出所してから事件が起こり、物語は展開していくのだが、興趣をそいでしまうからストーリーはこのくらいにしておく。


 れいわ新選組の山本太郎代表が厚労省などの調査を基に一人暮らしの女性の貧困問題を取り上げている。
 若い女性から高齢者まで、非正規雇用かつ派遣労働の女性たちは高齢になって年金が国年ということで給付される金額が少ないから、高齢になっても働き続けなければ生きていかれない。
 語り継ぐ戦争だから、敗戦後の日本やドイツなどの女性は生きるために仕方なく春を鬻いだ。
 そう、菊池章子の「星の流れに」身を占ったヒロインみたいにだ。

 年金がきちんと給付されていれば、何とか生活はできるだろうが、働いて老後の資金を蓄えることなど至難の業である。
 ミシエルは生活に困っている様子がなかったが、親友は生活が大変そうだった。
 80歳で一人暮らしで、親友との交友以外につきあっている人がいないとなれば、過去に理由ありかなと思うのが普通であろう。

 結局、しゃべりたくない過去とはやはりそうだった。

 1940年の作品、マーヴィン・ルロイ監督、ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー主演『哀愁』でも取り上げられていたが、生きるため、生活のためにやむを得ずということだったとミシェルは孫に問われて答える。
 戦後、基地の街では鬼畜米英と呼んでいた敵国の米兵を相手にした女性たちを蔑む、差別する堅気の人たちがいたが、自分がその立場になれば、きれいごとでは食べていかれない。

 普通の仕事では非正規雇用で、派遣労働という女性が少なくないわけだから、この職業は今でも現実には託児所付きというような労働環境で存在している。

 しかし、主題となっている母と娘の関係の難しさは、長く購読している読売の人生案内の昨6月5日でも同様の相談があったくらいである。

 生きていくには、性別を超えて、自立していないと自由には生きていかれないものだと映画を観て考えさせられた。

 後期高齢者になってしまった自分には連れ合いがいてくれてありがたいと手を合わせてしまった。

2025年05月11日

母の丸くなった背中、母の曲がった腰

 今日は母の日ということで、母親のことを書いておく。

 東京メトロ南北線の東大前駅で学生を刺し殺そうとした容疑者(43)が「親から教育虐待を受け、不登校になり苦労した。 東大を目指す教育熱心な親たちに度が過ぎると、私のように罪を犯すことを世間に示したかった」と供述しているとメディアが伝えている。
 まあ、一言でいうなら、何をやってもうまくいかない人生は親(母親)のせいだということか。


 母といえば、自分の母親と連れ合いの母親の二人いた。
 過去形になってしまうのは、連れ合いの母親は2012(平成24)年の暮れ、自分の母親は2015(平成27)年8月下旬にそれぞれ旅立っているからだ。
 大正15年生まれのわが母親は、自分の父親である配偶者が病死した時、まだ38歳だったから、その後、50年母子で生きたことになる。
 
 連れ合いの母親は、昭和2年生まれで、48歳の時、わが連れ合いの父親である配偶者が病死している。
 わが母親は旧家に生まれたが、自分の父親と結婚したため、畑を手伝わされ、後年になって腰が曲がってしまった。
 二人は今でいうシングルマザーということになるが、住む家と退職金を残してくれたわが父親のお陰で、母がパートで働きにはでてくれたが、普通の暮らしができたわが母と3人姉弟。

 連れ合いの母親は上越の妙高の農家に生まれ育ち、同じ村出身の配偶者と結婚し、生活していくために東京に出てきた。
 田舎から二人で出て来て、頑張って働き、持ち家を買い求めはしたものの病死してしまった連れ合いの父親。ために、残された連れ合いの母親は3人姉弟とともに苦労、苦労の連続で、後年、背中が丸くなっていた。
 近年、その母親の背中に連れ合いの双子の姉の後ろ姿が瓜二つだということに気づいた。
 少し前のある日のこと。
 いつものようにYouTubeを視ていたら、吉幾三が「母さんへ」を島津亜矢と一緒に歌っていた。
 「旅先の降り立った駅で、母親の背中によく似た人が」と歌っているではないか。
 亡くなった連れ合いの母親の丸くなった背中を思い出してしまったというわけ。

 わが母親が自分の幸せを考えず、子どもたちの行く末を考えてくれたことに恩義というより、借りができたような気がして、学生運動にも参加せず、家庭のことを第一に考えて生きてきた。

 東大前駅で殺傷事件を起こした43歳の容疑者は、不登校になったのを親のせいだ、何もかも上手くいかないことも親のせいだと言っているらしい。
 43歳にもなって自分の人生が上手くいかなかったのは親のせいだと言っている息子を見て、この男の母親はどんな心持でいるだろうかと気になった。
 どんな理由があろうと他人を殺傷してよかろうはずはなく、自分の人生を親のせいにされたのでは親としてさぞやりきれないだろうと推察した。

 後期高齢者になって、先に旅立った二人の母親の曲がった腰、丸くなってしまった背中を思い出し、母親の有難みを母の日に感謝せずにはいられない。 

2025年04月27日

出自知る権利 憲法保障 生みの親 都に調査命令

 東京都立墨田産院で67年前、出生直後に別の赤ちゃんと取り違えられた都内の男性が、都に生みの親を特定する調査の実施を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。平井直也裁判長は「出自を知る権利は、個人の尊重を定めた憲法13条が保障する重要な法的利益だ」と述べ、都に調査するよう命じた。原告側によると、新生児の取り違えを巡り、病院側に調査を命じる判決は初めて。と4月22日の読売(糸魚川千尋記者)が伝えている。

 原告の 江蔵智さん(67)は1958年4月10日頃、墨田区の同産院(88年に閉院)で生まれたが、2004年にDNA鑑定で育ての両親と親子関係がないことが判明した。都を相手取って起こした訴訟で、東京高裁が06年、取り違えを認定。「重大な過失で人生を狂わせた」として計2000万円の賠償を都に命じた。

 その後、江蔵さんは都に生みの親の調査に協力するよう求めたが、都は「要望に応えられない」と拒否した。このため、21年に調査を求めて再提訴していた。

 厚生労働省やこども家庭庁は新生児の取り違えの件数を調査していないが、法医学者が1973年にまとめた論文では、江蔵さんが生まれた58年を含む57〜71年に、全国で少なくとも32件の取り違えがあったと報告されている。


 東京都の小池百合子知事は判決を受け入れ、控訴しないことを表明したことから、調査に協力するということで当然のことではある。裁判官も原告の気持ちをよく理解した判決を出したことは高く評価できる。
 
 2013年制作、是枝裕和監督、福山雅治主演『そして父になる』では、子どもを取り違えられた親子の葛藤を描いていたが、取り違えという表現では片づけられない重大な人権蹂躙であることに気づかされた。
 この物語では、6歳の入学前の時点で取り違えが判明した上に、取り違えの結果、二組の親子の交流が始まるということだった。

 原告の江蔵智さんは46歳の時、病院での診察をきっかけにDNA鑑定を行い、取り違えに気づいた。
 そうなると、実の親に会いたいとの気持ちが日に日に募ったそうな。
 さらに、映画とは異なり、取り違え先の相手のことは不明ということだから、実の親に一目でも会いたいと願う気持ちは人間いくつになっても抱くものだろう。

 人生を明らかに狂わせてしまうほど大きな問題が取り違え問題である。
 誰だって、自分を例にすれば江蔵さんの置かれた情況がよく理解できるはずだ。
 親子といえば、血族というくらいだから強い血のつながりがある。
 少し前、親ガチャなる言葉が流行ったことがあった。

 人は生まれてくるとき、親を選べない。裕福であるか貧乏であるか生まれた家の経済力も大きく影響する。
 取り違えでその立場が代わってしまうことだって起こり得るわけだ。

 DVや家庭内暴力男が父親で、取り違えがあったならと考えただけでぞっとする。

 ご先祖という言葉があるように人には歴史がある。
 取り違えは一方通行にはならないため、子の立場からみれば、取り違えられてよかったということにもならない。

 人は知らなければ知らないで過ぎ行くことだって、育ての親とは別に実の親がいると知ってしまえば、会いたくなるのは人情でもあろう。

 当事者にはなりたくない問題でる。

2025年04月14日

挑戦の先に 人生の豊かさ

 「東京春秋」322というタイトルで、「挑戦の先に 人生の豊かさという」見出し、中薗あずさと記者の署名入りの囲み記事が4月6日の読売にあった。
 スマートフォンを向けると道案内の音声情報が流れる点字ブロックの体験会で出会った品川区視覚障害者福祉協会の会長で全盲の弁護士大胡田誠さん(47)。 
 先天性の緑内障のため12歳で視力を失い、当初は絶望するも、中学生の時、点字で書かれた1冊の本との出合いが人生の転機となった。
 全国で初めて全盲の弁護士となった竹下義樹さんの『ぶつかって、ぶつかって』である。
 「周りに助けられてばかりの人生ではなく、自分も誰かのために働くことができる」
 心が震え、弁護士を将来の夢に定めた。
 大学入学後、参考書を音声データに変えるソフトなどを使って司法試験の勉強を始め、29歳、5度目の挑戦で合格。全国で3人目の全盲の弁護士となり、「自分を丸ごと受け入れることができた」
 「限界は自分で自分で作っている」―。
 最初からできないと決めつけず、勇気をもって一歩を踏み出す。その積み重ねこそが人生そのものであり、人生に豊かさをもたらすと教えられたそうな。


 自分でも信じられないことだが、後期高齢者になるまで生きられるとは思わなかった。
 間一髪ということは大げさではなく何回となくあったが、運が佳かったのであろうか。切り抜けられた。
 丹沢で転落しそうになったり、江ノ島の海で溺れそうになったり、仏ヶ浦から脇野沢へ向かう船が突然の時化で海が荒れ、高波で転覆するのではないかと恐怖に震えたりと、傍から見れば大したことはなかったと思われることでも本人から見れば、まかり間違えばという意識は今でも消えない。

 一方で、いつの頃からか、右の眼がよく視えないことを意識するようになったが、運転免許の更新時が大変で強烈なストレスになっている。
 50代半ばを前に退職し、念願の自由を手に入れ、有機無農薬での野菜作りでストレスから解放された生活ができているので、仕事を続けていれば、間違いなく、すでに死んでいたであろう。

 人生を振り返って、他者に自慢できるようなことは一つもない。
 それでも、努力することだけは惜しまずにやってきたつもりであるが、全盲であの難しいとされている司法試験に合格する人から見れば、努力のうちには入らないかもしれない。

 障がいを乗り越えたといえば、若い頃、大石順教尼のことを知り、辻典子さんのことを知った。
 大石順教尼が父親に日本刀で両腕を切られたことは、語り継ぐ戦争で大阪でお世話になったガイドの植野雅量師から教えてもらい、庵主だった京都の佛光院に行き、お参りしている。
 辻典子さんはサリドマイドが原因であるが、障がいを乗り越えた二人の努力には敬意を表してきた。
 近年ではパラリンピックで活躍する選手が努力で障がいを乗り越えてきたことにも敬意を表するとともにエールをおくってきた。

 市井に生きる凡人としては、周囲に迷惑をかけまいとして、介護のお世話にできるだけならないようにと願い、古希の手習いとして親族から頂戴した津軽三味線を始めてみた。
 爾来、3年半が経過し、初心者が習う「六段」が何とか弾けるようになった。
 楽譜がない対面稽古で、頼りはいつも一緒で、スマホの動画を解説してくれる連れ合いである。
 
 土曜日、連れ合いの親しい友達と一緒に会食した。
 職場では中間管理職として、頑張っている女性はストレスが原因しているのか、近年では病気とつきあいながら働いている由。
 その立場故、なかなか思うようにはいかないみたいだが、外野席から好き勝手なことを偉そうにしゃべってしまった。

 人は皆それぞれの立場でがんばっているのである。
 ハンディキャップがあれば、余計努力を求められることになるが、努力の向こうにある夢を信じて突き進むしかない。
 結果ばかり求める人が少なくない世の中であるが、努力の中にこそ人生の豊かさはあるのではないか。

 頭を使い、指先を使うことがボケ防止につながるということを知って、津軽三味線で試してみた結果、明らかに役立っているような気がしている。 

2025年04月06日

アルコール依存 断酒の42歳 経験伝える

 アルコール依存症や生活習慣になるリスクが潜んでいる多量の飲酒。依存症で苦しんだ女性が啓発イベントなどで経験を語っている。助けを求める相手がいなかった自分を振り返り、「一人で悩まずに誰かに相談を」と呼びかけている。3月26日の読売(山田佳代記者)が夕刊で伝えていた。
 
 アルコールやギャンブル依存症の人の社会復帰を支援する一般社団法人「オンブレ・ジャパン」で体験を語るのは非常勤職員の後藤早苗さん(42)である。

 アルコール依存症は全国に54万人と推計される。当事者が認めたがらないため、「否認の病」と言われ、適切な治療や支援につながりにくい。

 厚労省は、アルコール依存症や生活習慣病のリスクを知るために、自身の飲酒習慣を客観的に把握するように勧めている。
 飲酒によって仕事や日常生活に支障が出ているなど不安がある場合、保健所や各都道府県の精神保健福祉センターが相談に応じる。


 自分の一番大事な宝物かつ生命線である連れ合いがビール大好き人間の一人で、アルコール依存症の予備軍ではないかと心配しているから、今回は連れ合いのために書いているようなものだ。

 連れ合いの両親は越後は妙高の出身で、父親は40代後半で病死しているが、酒が好きだったようで、母親は別にして、一族皆酒好きだから無理もないが、映画を観に行くと、昼食の時、決まってビールを飲むし、少し前のことになるが、ビールを飲みながら夕飯の支度をしていたから、流石に、キッチンドリンカーではアルコール依存症ではないかと心配になり、忠告したら、夕方はノンアルコールのビールにしている。

 連れ合いが缶ビールを愛飲するため、町会の資源回収では、アルミ缶回収で大きく貢献している。
 「ビールではアルコール依存症にはならない」とは連れ合いの弁であるが、真偽のほどはわからない。

 久里浜にアルコール依存症を治療する施設があって、もう20年以上前に見学したことがある。
 久里浜で思い出したのは、職場で好感の持てる後輩がいて、酒焼けするほど酒好きな彼が久里浜に入所する前日だったか、箪笥の取っ手だったかで首を括ってしまったことを思い出した。
 学生時代、落研に所属していたとかで、芸名まで持っていた。
 通夜、葬儀には失礼したが、後日、線香を手向けにお邪魔したら、母親の何とも言えない姿と接して、親より先に逝くのは親不孝だなと思ったのと同時に、アルコール依存症の怖さを痛感したことを思い出した。

 アルコール依存症に限らないが、薬物、ギャンブルなどの依存症は一人ではどうにもならない。
 アルコホーリクス・アノニマス(AA)があるように、自らの心をさらけ出して、告白し、共に闘うことで、いくらかなりとも前進できるのである。
 犯罪の抑止力が、自分の大事な人を裏切らないことであり、アルコール依存も同じように大事な人を裏切れないと思えれば前進できるはずである。