2018年6月、神奈川県を走行中の東海道新幹線の車内で乗客の男女3人を刃物で殺傷したとして殺人などの罪に問われた23歳の被告に対し、横浜地方裁判所小田原支部は、「強固な殺意に基づく残忍で悪質な犯行で、残虐極まりない」として、求刑どおり無期懲役を言い渡した。とメデイアが伝えている。
12月18日のNHKニュースによれば、被告は、走行中の東海道新幹線の車内で乗客の女性2人をなたなどで切りつけ、女性を助けようとした兵庫県尼崎市の会社員、梅田耕太郎さん(当時38)を殺害し、女性2人にけがをさせたとして、殺人や殺人未遂などの罪に問われた。
「前科がないことなどを考慮すると死刑がやむをえないとまでは言えず、刑務所で刑に服す現実に直面させ、刑事責任の重さに向き合わせるのが相当だ」として、求刑どおり無期懲役を言い渡した。
被告は、裁判長のほうをじっと見て判決の理由などを聞いていたが、最後に突然「控訴はしません。万歳三唱します」と言って叫ぶような大声で法廷で万歳をしたそうな。
正義のために命を投げ出した梅田耕太郎さん(38)の功績に国民栄誉賞で報いる必要がある。
アフガンでテロリストに殺害された中村哲医師にも国民栄誉賞が授与されていなければおかしい。
梅田さんの人物について詳しいことはわからないが、名前の耕太郎について、思い当たることがある。
日本共産党の指導者だった不破哲三さんと兄の上田耕一郎さん兄弟、弟の名前はペンネームで、上田建二郎というのが本名だと耳にしたことがある。
親は兄は耕す、弟は建てるという願いを込めて名付けたらしい。
自分の幼馴染の女性、小学校からの付き合いだが、彼女の子どもの名前が耕太と素子だったと記憶する。
耕太だからやはり大地を耕すという願いが込められていると勝手に思っているが、梅田さんのご両親も耕太郎と名付けたのは大地を耕すというような願いを込められていたのではないかと推測する。
何とかに刃物というが、お気の毒でかける言葉が見つからない。
しかし、ご両親の息子さんは名前のとおり立派だった。その功績は歴史に刻まれるはずである。
梅田さんのことを知り、三浦綾子『塩狩峠』(新潮文庫)を読んだときのことを思い出した。
鉄道事故で身を挺して乗客の命を救った鉄道員の実話を基に小説にした作品で、梅田耕太郎さんもまさにこの鉄道員同様、見事な生き方で敬意を表し、謹んでご冥福を祈る。
アフガンの人々を救おうと、医療だけでなく、灌漑用水を大地に巡らし、食料の確保と植樹という一番大事なことを実践し、志半ばで殺されてしまった中村医師を現代のヒーローだと称えて書いたが、梅田耕太郎さんんも、塩狩峠の鉄道員に勝るとも劣らない生き方で、当然あなたもヒーローだ。
最後に、日本の刑事裁判はおかしい。
一人殺しただけでは死刑にならないということを被告が言い、法廷で死刑にならなかった。だから万歳三唱だというのは死者を冒涜している。
今回は、死刑にすべき事案である。
2019年12月20日
2019年11月27日
子どもに希望を 病院で活動するピエロ
11月27日、朝のNHKニュースで病院で活動するピエロが紹介された。
その名は林志郎さん。自身の白血病を乗り越え、重い病と闘う子どもたちに勇気と希望をと病院を訪れ、ピエロとして子どもたちに笑顔を誘っているのだそうな。
朝、起きると家人が日課にしているTV体操の後は、時計代わりにNHKのニュースなどが流れているわが家のリビング。
ながらだから、真剣に視聴しているわけではないが、偶々、ピエロが映っていたから、びっくりして途中からではあるけれど、目が離せなくなった。
さらに、ピエロを演じている男性が林志郎さんで、年齢は40代くらい、自身が白血病を乗り越え、生かされた命を今度は、今、病気と闘って、ともすれば暝くなってしまう子どもたちに生きる希望を持ってもらいたいと懸命にピエロに扮しているのだからエールをおくらないわけにはいかない。
白血病といえば、家人の親友、姉貴分みたいな女性が白血病になり、大学病院に入院し、闘病したが、亡くなって、もう20年くらいの年月が経った。
毎年、亡くなった8月の命日頃、家人は墓参りを欠かさないが、家人の親族の墓が偶然同じ寺墓だったことから、自分も一緒に墓参りをし、例によって、墓前で経を唱える代わりに尺八を吹いたこともある。
お見舞いに行ったときは喜んでくれたが、強烈な抗がん剤の影響で、そのことを全く覚えていないということで、いつも、枕許には、お見舞い訪問日記みたいなノートがあった。
林さんも子どもの頃、抗がん剤で髪が抜け、そのことでいじめられた由だが、家人の親友も女性だけにそのことはつらかっただろうと今でも思い出す。
ピエロといえば、TVの刑事ドラマ『相棒』でも描かれていたが、自分にとっては、やはり、映画で観た『ピエロの赤い鼻』、2003年製作のフランス映画が忘れられない。
小学校の教師が休日になると道化師ピエロに扮し、人々を笑わす。息子はそんな父親が嫌でたまらない。
けれど、父にはピエロに扮しないではいられない過去があった。
その秘密は、ドイツ軍の占領下のフランスでの話。
レジスタンス運動で捕まり、穴に閉じ込められ、処刑を待っているとき、ドイツ軍将兵がピエロに扮し、笑わせてくれ、笑顔が生きる希望を蘇らせてくれるという経験をしていたのである。
ピエロに扮する林さんも自身の経験から笑顔でいることがいかに大事であるか知っているからこそ、笑顔から生きる希望を持ってもらいたいと考えたのであろうと推測する。
そういえば、昔から「笑う門には福来る」というではないか。
大きな病気をし、何とかその後生きることができていると、人は誰しも生かされていると思うものである。
そうなると、生かされていることに自ずと感謝の気持ちが湧いてきて、誰かのためになることをしたりするようになるということが少なくない。
林さんも自身の白血病を乗り越え、そのつらさがわかるからこそ、ピエロに扮し、笑いを運んでくれているのだろう。
他人の痛みがわかるということはとても大事なことである。
その名は林志郎さん。自身の白血病を乗り越え、重い病と闘う子どもたちに勇気と希望をと病院を訪れ、ピエロとして子どもたちに笑顔を誘っているのだそうな。
朝、起きると家人が日課にしているTV体操の後は、時計代わりにNHKのニュースなどが流れているわが家のリビング。
ながらだから、真剣に視聴しているわけではないが、偶々、ピエロが映っていたから、びっくりして途中からではあるけれど、目が離せなくなった。
さらに、ピエロを演じている男性が林志郎さんで、年齢は40代くらい、自身が白血病を乗り越え、生かされた命を今度は、今、病気と闘って、ともすれば暝くなってしまう子どもたちに生きる希望を持ってもらいたいと懸命にピエロに扮しているのだからエールをおくらないわけにはいかない。
白血病といえば、家人の親友、姉貴分みたいな女性が白血病になり、大学病院に入院し、闘病したが、亡くなって、もう20年くらいの年月が経った。
毎年、亡くなった8月の命日頃、家人は墓参りを欠かさないが、家人の親族の墓が偶然同じ寺墓だったことから、自分も一緒に墓参りをし、例によって、墓前で経を唱える代わりに尺八を吹いたこともある。
お見舞いに行ったときは喜んでくれたが、強烈な抗がん剤の影響で、そのことを全く覚えていないということで、いつも、枕許には、お見舞い訪問日記みたいなノートがあった。
林さんも子どもの頃、抗がん剤で髪が抜け、そのことでいじめられた由だが、家人の親友も女性だけにそのことはつらかっただろうと今でも思い出す。
ピエロといえば、TVの刑事ドラマ『相棒』でも描かれていたが、自分にとっては、やはり、映画で観た『ピエロの赤い鼻』、2003年製作のフランス映画が忘れられない。
小学校の教師が休日になると道化師ピエロに扮し、人々を笑わす。息子はそんな父親が嫌でたまらない。
けれど、父にはピエロに扮しないではいられない過去があった。
その秘密は、ドイツ軍の占領下のフランスでの話。
レジスタンス運動で捕まり、穴に閉じ込められ、処刑を待っているとき、ドイツ軍将兵がピエロに扮し、笑わせてくれ、笑顔が生きる希望を蘇らせてくれるという経験をしていたのである。
ピエロに扮する林さんも自身の経験から笑顔でいることがいかに大事であるか知っているからこそ、笑顔から生きる希望を持ってもらいたいと考えたのであろうと推測する。
そういえば、昔から「笑う門には福来る」というではないか。
大きな病気をし、何とかその後生きることができていると、人は誰しも生かされていると思うものである。
そうなると、生かされていることに自ずと感謝の気持ちが湧いてきて、誰かのためになることをしたりするようになるということが少なくない。
林さんも自身の白血病を乗り越え、そのつらさがわかるからこそ、ピエロに扮し、笑いを運んでくれているのだろう。
他人の痛みがわかるということはとても大事なことである。
2019年05月27日
火災で逃げ遅れた少女を救出 沖縄の高校生
大型連休中の4月30日、訪れていた埼玉県越谷市で火災に遭遇し、住宅から逃げ遅れていた少女を救出したとして、那覇高校3年の玉城弘次廊さん(17)に24日、那覇市役所で人命救助表彰状が渡された。
同時に、越谷市からの表彰状も渡され、城間幹子那覇市長が代読した。
玉城さんは「こんなに大事になるとは思っていなかった。意外とすごいことしたんだなと思った」と照れながら話した。と5月24日の朝日のDIGITALが伝えている。
朝日によれば、那覇市などによると、2階から助けを求めている少女を見つけた。すぐに雨どいを伝って1階の窓のシャッターボックスによじ登り、少女を抱えて救い出し、近所の人たちが広げた毛布の上に飛び降りさせた。
まもなく、沖縄は慰霊の日、6月23日がやってくる。
語り継ぐ戦争では、沖縄は本土の防波堤として犠牲を強いられ、大勢の県民が米軍に殺され、避難したガマでは日本兵に殺されたも同然の目に遭った。
そして、戦後は米兵に県民女性多数が性的暴行を受け、95年には何と小学6年生の児童が米海兵隊員2人と海軍軍人に拉致され、性的暴行を受けるという米国本土でも絶対許されない犯罪の犠牲となり、温厚な沖縄県民の怒りが頂点に達し、県民大会が開催され、日米地位協定という不平等条約を改めようと訴えたのである。
今回、越谷で、火災から逃げ遅れた少女を雨どいを伝って2階に上り、少女を救出するという離れ業を為した高校生が沖縄の高校生だということで、大いにエールをおくりたい。
玉城弘次廊さん、あなたのご先祖は鬼畜米国と戦い、沖縄を本土の防波堤とすべく送り込まれた日本兵からもひどい扱いを受けた。
日本軍が沖縄を本土の防波堤にしなければ、あれほど多数の沖縄県民が死ぬことはなかったし、日本のために戦ったにもかかわらず、戦後は米国に占領され、1972(昭和47)年の5月15日、本土復帰するまで、パスポートがなければ、本土に来られない、米兵からは県民女性が性的暴行を受けっぱなし、犯罪者米兵は基地に逃げ込み、帰国してしまえば、治外法権で捕まることもないというという酷い差別を受けてきた。
しかし、若い玉城さんはそんなこととは無関係に、人助けのため、持てる身体能力の高さを発揮し、逃げ遅れた少女を助けてくれた。
お見事である。
玉城さんを表彰した那覇市長は誇らしいと思うが、直ちに玉城さんを表彰しなかった越谷市は、どうかしている。
感謝状はすぐに渡すべきで、代読とは情けない。
見て見ぬふりするのは一番よくないことだが、さりとて、ふつう、2階まで雨どいを伝って上ることは無理だから、あっさりとやってのけた玉城さんには、これから、その身体能力の高さを活かした仕事に就いてほしい。
君の将来に幸あれと祈る。
同時に、越谷市からの表彰状も渡され、城間幹子那覇市長が代読した。
玉城さんは「こんなに大事になるとは思っていなかった。意外とすごいことしたんだなと思った」と照れながら話した。と5月24日の朝日のDIGITALが伝えている。
朝日によれば、那覇市などによると、2階から助けを求めている少女を見つけた。すぐに雨どいを伝って1階の窓のシャッターボックスによじ登り、少女を抱えて救い出し、近所の人たちが広げた毛布の上に飛び降りさせた。
まもなく、沖縄は慰霊の日、6月23日がやってくる。
語り継ぐ戦争では、沖縄は本土の防波堤として犠牲を強いられ、大勢の県民が米軍に殺され、避難したガマでは日本兵に殺されたも同然の目に遭った。
そして、戦後は米兵に県民女性多数が性的暴行を受け、95年には何と小学6年生の児童が米海兵隊員2人と海軍軍人に拉致され、性的暴行を受けるという米国本土でも絶対許されない犯罪の犠牲となり、温厚な沖縄県民の怒りが頂点に達し、県民大会が開催され、日米地位協定という不平等条約を改めようと訴えたのである。
今回、越谷で、火災から逃げ遅れた少女を雨どいを伝って2階に上り、少女を救出するという離れ業を為した高校生が沖縄の高校生だということで、大いにエールをおくりたい。
玉城弘次廊さん、あなたのご先祖は鬼畜米国と戦い、沖縄を本土の防波堤とすべく送り込まれた日本兵からもひどい扱いを受けた。
日本軍が沖縄を本土の防波堤にしなければ、あれほど多数の沖縄県民が死ぬことはなかったし、日本のために戦ったにもかかわらず、戦後は米国に占領され、1972(昭和47)年の5月15日、本土復帰するまで、パスポートがなければ、本土に来られない、米兵からは県民女性が性的暴行を受けっぱなし、犯罪者米兵は基地に逃げ込み、帰国してしまえば、治外法権で捕まることもないというという酷い差別を受けてきた。
しかし、若い玉城さんはそんなこととは無関係に、人助けのため、持てる身体能力の高さを発揮し、逃げ遅れた少女を助けてくれた。
お見事である。
玉城さんを表彰した那覇市長は誇らしいと思うが、直ちに玉城さんを表彰しなかった越谷市は、どうかしている。
感謝状はすぐに渡すべきで、代読とは情けない。
見て見ぬふりするのは一番よくないことだが、さりとて、ふつう、2階まで雨どいを伝って上ることは無理だから、あっさりとやってのけた玉城さんには、これから、その身体能力の高さを活かした仕事に就いてほしい。
君の将来に幸あれと祈る。
2019年03月16日
中国東北部で眼科手術、医師も育成 市川一夫医師
読売新聞社主催、厚労省、日テレ後援、第47回医療功労賞中央表彰受賞者10人が決まった。と3月13日の読売が伝えている。
国内部門8人、海外部門2人ということで、目に留まったのが「中国で眼科手術、医師も育成」という見出しで紹介されていた市川一夫医師(66)である。
中国東北部で20年間、5000件以上の眼科手術をし、現地の医療者の指導にも当たってきた。
「一人で頑張るより、多くの医師のレベルを上げる方が、何倍もの患者が救われる」という信念で。
日本に留学中だった中国人医師に誘われて、1998年に初めて渡った瀋陽で白内障の手術をしたが、以来多い時は年10回訪中した。
名古屋を昼に飛び立ち、大連の病院で手術を数10件。翌日の午後にはまた日本国内での診療に戻ったこともあるとか。
忘れられないのは、ほぼ視力を失った10歳前の男の手術。子どもには全身麻酔をするが、家庭が貧しかった男の子は点眼だけの局所麻酔になったが、男の子は手術中、動かないように口を一文字に結んで我慢していた。
術後、「すごいよく見える!」と喜ぶ男の子に疲れも吹き飛んだそうな。
最近は、モンゴルやヴェトナム、ミャンマーでも診療を始め、留学生を受け入れたりと交流はますます活発になっている。
もう、30年くらいになるだろうか、炎症性腸疾患クローン病で医師にお世話になってきたから、医師に対しては普通の人よりもっと感謝の気持ちを抱いている。
さらに、医師という職業を選択した人間には大きく分けて、世のため他人のためになるという高邁な信念で医療にあたっている医師と、高級車に乗り、TVなどで顔を売りカネ儲けしているような医師もいたりする。
とりわけ、異国の地、発展途上国に生きる人々に手を差し伸べている医師については、メデイア等で、知ったら、敬意を表し、必ず取り上げるようにしてきた。
第47回の医療功労者中央表彰の一人、市川一夫医師については、格別の思い入れがある。
というのは、自分も右目の視力がよくなくて、運転免許の更新のときの視力検査が大変だからである。
左目の視力は子どもの頃からよかったから、両目で見れば、運転には全く支障はないが、車幅に多少影響が出るからか、視界の検査を必ずさせられるのである。
さらに、中国東北部といえば、語り継ぐ戦争では満蒙開拓団の悲劇があった地域で、瀋陽、大連などの地名を耳にすれば、731部隊、残留婦人、残留孤児の話と関わり、知らん顔ではいられない。
日本人と中国東北部はそれほど深いつながりがある場所で、迷惑をかけたり、助けてもらったりとそのときの立場で関わり合ってきた人たちが住む土地である。
731部隊が酷い仕打ちをしたにもかかわらず、残留婦人や孤児たちを助けてもらったりした分、今、医療面で日本の医師がお返ししているように自分には思えて仕方ない。
JICAのエライ奴がファーストクラスで移動するなどと税金の無駄遣いをしていることが伝えられている中で、民間の草の根の活動が将来的に両国人民にどれほど佳い結果をもたらすことか。
満蒙開拓団の引き揚げ途上、中国人や朝鮮人に助けてもらった話があるが、このとき、決まって、その人たちは日本人によくしてもらったからだと異口同音に言いながら、助けてくれたそうな。
お互い人間だから、ふだんの関係がいかに大事かを教えてくれる。
中国で、人民のためにがんばる医師がいれば、少なくとも、その事実を知っている中国人は日本人に悪意を持つことなど考えられないではないか。
市川一夫医師のお陰で、中国東北部の貧しい人たちが光をプレゼントされたら、将来、その光が日本を照らすことになるかもしれない。
中国の指導者たちだって、当然、このニュースは承知しているはずだ。
市川一夫医師のような立場の人たちにエールをおくる。
国内部門8人、海外部門2人ということで、目に留まったのが「中国で眼科手術、医師も育成」という見出しで紹介されていた市川一夫医師(66)である。
中国東北部で20年間、5000件以上の眼科手術をし、現地の医療者の指導にも当たってきた。
「一人で頑張るより、多くの医師のレベルを上げる方が、何倍もの患者が救われる」という信念で。
日本に留学中だった中国人医師に誘われて、1998年に初めて渡った瀋陽で白内障の手術をしたが、以来多い時は年10回訪中した。
名古屋を昼に飛び立ち、大連の病院で手術を数10件。翌日の午後にはまた日本国内での診療に戻ったこともあるとか。
忘れられないのは、ほぼ視力を失った10歳前の男の手術。子どもには全身麻酔をするが、家庭が貧しかった男の子は点眼だけの局所麻酔になったが、男の子は手術中、動かないように口を一文字に結んで我慢していた。
術後、「すごいよく見える!」と喜ぶ男の子に疲れも吹き飛んだそうな。
最近は、モンゴルやヴェトナム、ミャンマーでも診療を始め、留学生を受け入れたりと交流はますます活発になっている。
もう、30年くらいになるだろうか、炎症性腸疾患クローン病で医師にお世話になってきたから、医師に対しては普通の人よりもっと感謝の気持ちを抱いている。
さらに、医師という職業を選択した人間には大きく分けて、世のため他人のためになるという高邁な信念で医療にあたっている医師と、高級車に乗り、TVなどで顔を売りカネ儲けしているような医師もいたりする。
とりわけ、異国の地、発展途上国に生きる人々に手を差し伸べている医師については、メデイア等で、知ったら、敬意を表し、必ず取り上げるようにしてきた。
第47回の医療功労者中央表彰の一人、市川一夫医師については、格別の思い入れがある。
というのは、自分も右目の視力がよくなくて、運転免許の更新のときの視力検査が大変だからである。
左目の視力は子どもの頃からよかったから、両目で見れば、運転には全く支障はないが、車幅に多少影響が出るからか、視界の検査を必ずさせられるのである。
さらに、中国東北部といえば、語り継ぐ戦争では満蒙開拓団の悲劇があった地域で、瀋陽、大連などの地名を耳にすれば、731部隊、残留婦人、残留孤児の話と関わり、知らん顔ではいられない。
日本人と中国東北部はそれほど深いつながりがある場所で、迷惑をかけたり、助けてもらったりとそのときの立場で関わり合ってきた人たちが住む土地である。
731部隊が酷い仕打ちをしたにもかかわらず、残留婦人や孤児たちを助けてもらったりした分、今、医療面で日本の医師がお返ししているように自分には思えて仕方ない。
JICAのエライ奴がファーストクラスで移動するなどと税金の無駄遣いをしていることが伝えられている中で、民間の草の根の活動が将来的に両国人民にどれほど佳い結果をもたらすことか。
満蒙開拓団の引き揚げ途上、中国人や朝鮮人に助けてもらった話があるが、このとき、決まって、その人たちは日本人によくしてもらったからだと異口同音に言いながら、助けてくれたそうな。
お互い人間だから、ふだんの関係がいかに大事かを教えてくれる。
中国で、人民のためにがんばる医師がいれば、少なくとも、その事実を知っている中国人は日本人に悪意を持つことなど考えられないではないか。
市川一夫医師のお陰で、中国東北部の貧しい人たちが光をプレゼントされたら、将来、その光が日本を照らすことになるかもしれない。
中国の指導者たちだって、当然、このニュースは承知しているはずだ。
市川一夫医師のような立場の人たちにエールをおくる。
2019年02月24日
大阪でホームレスを支援する川口加奈さん
ホームレス状態を生み出さない社会を作りたいという思いで、路上生活をしてきたおっちゃんたちに仕事や住まいを届ける活動をしているNPO法人「Homedoor」理事長川口加奈さんのことを2月19日の読売が社会保障の紙面、「安心の設計」「すてきLIFE」で紹介している。
おっちゃんたちが修理した自転車を貸し出すサービスを始め、弁当を配る夜回りや、生活保護を受けるため相談への同行など、様々な事業を展開している。
2018年度は約300人から相談があった。
ホームレス問題と出会ったのは14歳の冬のことで、中高一貫の女子高に通っていたが、電車の窓から見えるあいりん地区が気になっていたそうな。
友人や親が避けていたので余計気になり、何と一人で炊き出しに参加したというのだから驚く。
「勉強しなかったからホームレスになったんやろな」という素朴な思いは炊き出しの行列に並んでいたおっちゃんたちの身の上話を聞いて吹っ飛んだ。
自分は、がんばるか頑張らないか選べる環境にいるけど、そうでない人もいるのだと痛感したというから非凡な人は違う。
「より根本的な問題を解決したい」と起業したのは大学2年生のときである。
あいりん地区で300円のモーニング喫茶を開き、おっちゃんたちのニーズを聞く。
そこで生まれたのが自転車のシェアサイクルサービス「Hubchari(ハブチャり)」だった。
団体名の「Homedoor」には、駅のホームドアのように人生の転落防止ができる存在になりたいという思いといつでも帰って来られる温かい場所にしたいという二つの思いがあるとのこと。
紙面に川口加奈さんの写真が掲載されていて、久しぶりに人生に真剣に向き合っている人の眼差しをみて、美しい人だなあと感心すると共にエールをおくる。
尺八の関係で大阪に縁ができ、語り継ぐ戦争で訪れた大阪城でガイドの植野雅量師とご縁をいただき、さらに遊女や女郎と呼ばれし女たちの供養で飛田新地を訪ねたとき、阿倍野地区から飛田新地に向かう坂道で、路上生活の人と遭遇し、近くにあいりん地区があることを知った。
人身売買に反対する立場だから、管理売春には断固反対だが、個人が生きるために春を鬻ぐことにとやかくいうつもりなど毛頭ないので、飛田新地にもコメントすることはない。
同じ女性の川口加奈さんが中高一貫校の女子高出身とのことで、たぶん、比較的恵まれた家庭のお嬢さんかと思うが、一番大事なことは、困っている人を見て、通り過ぎるのではなく、手を差し伸べることだから、実践していることに敬意を表する。
素晴らしい人だ。川口加奈さんは。 なかなかできることではない。
大阪出身の仲間に聞いたら、子どもの頃飛田新地やあいりん地区には近寄るなと親から教育されていたとかで、飛田新地にある遊女や女郎たちの慰霊碑のことは全く知らなかった。
自分も仕事で、社会的に恵まれていない境遇の人たちと接する機会を得て、自分の価値観が180度変わった
ことがあるから、川口加奈さんの凄さが理解できる。
口で言うのは簡単だが実践するのは本当に大変なことなので、大いに称えたい。
同じ読売が2月18日の紙面で、「困窮者の住環境改善へ」「無料定額宿泊所の設備基準」「厚労省 悪質事業者へ規制強化」という見出しで貧困ビジネスにメスを入れようとしている動きを伝えていた。
同じ、路上生活者支援でも、カネ儲けを企む輩とは異なる人への支援を呼びかけたい。
おっちゃんたちが修理した自転車を貸し出すサービスを始め、弁当を配る夜回りや、生活保護を受けるため相談への同行など、様々な事業を展開している。
2018年度は約300人から相談があった。
ホームレス問題と出会ったのは14歳の冬のことで、中高一貫の女子高に通っていたが、電車の窓から見えるあいりん地区が気になっていたそうな。
友人や親が避けていたので余計気になり、何と一人で炊き出しに参加したというのだから驚く。
「勉強しなかったからホームレスになったんやろな」という素朴な思いは炊き出しの行列に並んでいたおっちゃんたちの身の上話を聞いて吹っ飛んだ。
自分は、がんばるか頑張らないか選べる環境にいるけど、そうでない人もいるのだと痛感したというから非凡な人は違う。
「より根本的な問題を解決したい」と起業したのは大学2年生のときである。
あいりん地区で300円のモーニング喫茶を開き、おっちゃんたちのニーズを聞く。
そこで生まれたのが自転車のシェアサイクルサービス「Hubchari(ハブチャり)」だった。
団体名の「Homedoor」には、駅のホームドアのように人生の転落防止ができる存在になりたいという思いといつでも帰って来られる温かい場所にしたいという二つの思いがあるとのこと。
紙面に川口加奈さんの写真が掲載されていて、久しぶりに人生に真剣に向き合っている人の眼差しをみて、美しい人だなあと感心すると共にエールをおくる。
尺八の関係で大阪に縁ができ、語り継ぐ戦争で訪れた大阪城でガイドの植野雅量師とご縁をいただき、さらに遊女や女郎と呼ばれし女たちの供養で飛田新地を訪ねたとき、阿倍野地区から飛田新地に向かう坂道で、路上生活の人と遭遇し、近くにあいりん地区があることを知った。
人身売買に反対する立場だから、管理売春には断固反対だが、個人が生きるために春を鬻ぐことにとやかくいうつもりなど毛頭ないので、飛田新地にもコメントすることはない。
同じ女性の川口加奈さんが中高一貫校の女子高出身とのことで、たぶん、比較的恵まれた家庭のお嬢さんかと思うが、一番大事なことは、困っている人を見て、通り過ぎるのではなく、手を差し伸べることだから、実践していることに敬意を表する。
素晴らしい人だ。川口加奈さんは。 なかなかできることではない。
大阪出身の仲間に聞いたら、子どもの頃飛田新地やあいりん地区には近寄るなと親から教育されていたとかで、飛田新地にある遊女や女郎たちの慰霊碑のことは全く知らなかった。
自分も仕事で、社会的に恵まれていない境遇の人たちと接する機会を得て、自分の価値観が180度変わった
ことがあるから、川口加奈さんの凄さが理解できる。
口で言うのは簡単だが実践するのは本当に大変なことなので、大いに称えたい。
同じ読売が2月18日の紙面で、「困窮者の住環境改善へ」「無料定額宿泊所の設備基準」「厚労省 悪質事業者へ規制強化」という見出しで貧困ビジネスにメスを入れようとしている動きを伝えていた。
同じ、路上生活者支援でも、カネ儲けを企む輩とは異なる人への支援を呼びかけたい。
2019年02月07日
カレーで若者の更生を支える 中沢照子さん
ここのところわが家ではあちこち壊れ、出費がかさむ。
古くなって調子がもう一つだったビルトインのガスコンロが3日に壊れ往生した。
手作りの土鍋がひび割れ、漏ったことが直接の原因だとみているが、電話して来てもらったガス会社の従業員がが修理不能ということで、5日、新品に代えてもらった。
門扉が古くなり、経年劣化でだましだまし使っていたが、カギが壊れてしまったので、11日に新品に交換してもらうことになっている。
昔、わが家では風呂場が外にあった時代があり、使わなくなっても、物置として使っていたが、ここの扉が壊れてしまい、新品に交換してもらうようにお願いしているし、昨日は、自分のスマホが壊れ、仕方なく、近所のドコモショップでらくらくスマホに交換してもらった。
未だ、もう一つ残っていて、食卓の自分の椅子が壊れ、これも修理にもっていくことになっている。
さて、時の人を紹介する読売の「顔」2月5日で、道を踏み外した少年が少年院などを出たとき、相談相手になる保護司を1998年から20年間務めた中沢照子さん(77)が彼らにカレーを振る舞って更生を支えてきたという嬉しい話を紹介していた。
この「更生カレー」と呼ばれるカレーは手作りの普通のカレーだが、専業主婦から保護司になったとき、自宅で面接したとき、元暴走族の少年に「何か食べたい?」と聞いたとき、「カレー」と答えたので、手作りのカレーを出したら、喜んで食べたのが始まりだそうな。
満腹だと穏やかに話すようになると爾来、カレー付き面談が定番になった。
こうした功績で1月、カレー情報発信会社が主催の「カレー・オブ・ザ・イヤー2019社会貢献部門」を受賞した。
保護司の定年を前にした2018年3月、世話した少年らが来られるようにと地元の江東区にカフェを開く。
メニューにカレーはないが、地域の夏まつりでは、カレーを振る舞う。
カレーライスといえば、横山秀夫原作のTVドラマ『臨場』で伊武雅刀が演じた定年目前の警察のエライ人役名小松崎周一が毎日、ランチにカレーライスを食べていて、その秘密が明かされるという話を取り上げたことがある。
実は小松崎は子どもの頃、養子に出され、実の母親とは生き別れているが、カレーライスが母親と彼をつなぐ思い出の食事だったのだ。
認知症になって施設に入所している母親は、息子の名前「周一」を鳥の鳴き声に重ね、息子に会いたいと願っているが、周一が訪ねて行ったときは遅かったことで悔やむという話である。
カレーライスといえば、日本の庶民の家庭では、どこでも食べているものだと思うが、食す子どもから見れば、母親のことを思い出させてくれる食事であるかもしれない。
中沢さんからカレーを振る舞われ、道を踏み外した少年が再び、道を踏み外さないようになれば、こんな嬉しい話はないではないか。
カレーライスもそうだが、一緒に話を聴いてやる。少年らの身になって一緒に考えてやるという姿勢が大事なのであろう。
ふつうの専業主婦から見れば、暴走族といえば、怖いイメージがあるが、カレーライスを振る舞われた少年が中沢さんに心を開くということは十分考えられる。
物品が壊れてしまえば新品に交換ということで一件落着ということになるが、道を踏み外した少年にとって、カレーを振る舞うというこうした気遣いが更生には欠かせないということで、中沢さんにエールをおくりたい。
古くなって調子がもう一つだったビルトインのガスコンロが3日に壊れ往生した。
手作りの土鍋がひび割れ、漏ったことが直接の原因だとみているが、電話して来てもらったガス会社の従業員がが修理不能ということで、5日、新品に代えてもらった。
門扉が古くなり、経年劣化でだましだまし使っていたが、カギが壊れてしまったので、11日に新品に交換してもらうことになっている。
昔、わが家では風呂場が外にあった時代があり、使わなくなっても、物置として使っていたが、ここの扉が壊れてしまい、新品に交換してもらうようにお願いしているし、昨日は、自分のスマホが壊れ、仕方なく、近所のドコモショップでらくらくスマホに交換してもらった。
未だ、もう一つ残っていて、食卓の自分の椅子が壊れ、これも修理にもっていくことになっている。
さて、時の人を紹介する読売の「顔」2月5日で、道を踏み外した少年が少年院などを出たとき、相談相手になる保護司を1998年から20年間務めた中沢照子さん(77)が彼らにカレーを振る舞って更生を支えてきたという嬉しい話を紹介していた。
この「更生カレー」と呼ばれるカレーは手作りの普通のカレーだが、専業主婦から保護司になったとき、自宅で面接したとき、元暴走族の少年に「何か食べたい?」と聞いたとき、「カレー」と答えたので、手作りのカレーを出したら、喜んで食べたのが始まりだそうな。
満腹だと穏やかに話すようになると爾来、カレー付き面談が定番になった。
こうした功績で1月、カレー情報発信会社が主催の「カレー・オブ・ザ・イヤー2019社会貢献部門」を受賞した。
保護司の定年を前にした2018年3月、世話した少年らが来られるようにと地元の江東区にカフェを開く。
メニューにカレーはないが、地域の夏まつりでは、カレーを振る舞う。
カレーライスといえば、横山秀夫原作のTVドラマ『臨場』で伊武雅刀が演じた定年目前の警察のエライ人役名小松崎周一が毎日、ランチにカレーライスを食べていて、その秘密が明かされるという話を取り上げたことがある。
実は小松崎は子どもの頃、養子に出され、実の母親とは生き別れているが、カレーライスが母親と彼をつなぐ思い出の食事だったのだ。
認知症になって施設に入所している母親は、息子の名前「周一」を鳥の鳴き声に重ね、息子に会いたいと願っているが、周一が訪ねて行ったときは遅かったことで悔やむという話である。
カレーライスといえば、日本の庶民の家庭では、どこでも食べているものだと思うが、食す子どもから見れば、母親のことを思い出させてくれる食事であるかもしれない。
中沢さんからカレーを振る舞われ、道を踏み外した少年が再び、道を踏み外さないようになれば、こんな嬉しい話はないではないか。
カレーライスもそうだが、一緒に話を聴いてやる。少年らの身になって一緒に考えてやるという姿勢が大事なのであろう。
ふつうの専業主婦から見れば、暴走族といえば、怖いイメージがあるが、カレーライスを振る舞われた少年が中沢さんに心を開くということは十分考えられる。
物品が壊れてしまえば新品に交換ということで一件落着ということになるが、道を踏み外した少年にとって、カレーを振る舞うというこうした気遣いが更生には欠かせないということで、中沢さんにエールをおくりたい。
2019年01月03日
貧困家庭支援に取り組み10年 米山けい子さん
昨日、今や、正月の風物詩となっているといっても過言ではない箱根駅伝の応援で、2区、戸塚の権太坂から不動坂、中継所まで残り、4キロ弱の戸塚区矢部町辺りに行ってきた。
自分にはもう、選手を追っかけるだけの気力がなくなってしまったが、家族は次の4応援場所、4区小田原に向かった。
後で聞いたことだが、大東大の選手が東京大手町の読売新聞社前をスタートして、すぐに転倒し、足を痛めたらしい。それでも、彼は仲間のため、何とかタスキをつないだとのこと。
タスキをつなぐといえば、2019年も、おそらく、格差、貧困問題が社会問題として、解決が求められ、心ある人がタスキをつなぐように皆で助け合うことになるであろう。
12月30日の読売が時の人を紹介する「顔」で貧困家庭支援に取り組み10年という見出しで、米山けい子さん(65)をとりあげていた。
読売によれば、米山さんは放っておけば廃棄されてしまう食品を困窮家庭に無償提供するフードバンク活動を続けている。
賞味期限が迫ったりして捨てられる前に、企業や家庭から寄付してもらう。生協の理事長時代「まだ食べられるのに」と疑問を持ち、退職後の2008年、自宅に事務所を構えた。
NPO法人化から間もない09年11月、「明日のパンを買うお金もない」と4人暮らしの女性から連絡が入った。女性の看病をするために夫は仕事を辞めており、経済的に追い込まれ、冬でも暖房を使わず、子ども2人と共に厚着をして体を寄せ合っていた。
食品を直接渡すと相手が気後れしかねないため、宅配で提供する工夫をした。
2018年8月までの9年間で、2万6000件の提供を重ねた。
感謝の手紙に温かい縁を感じているそうな。
ネット『からっぽの冷蔵庫 見えない日本の子どもの貧困』 によれば、米山さんは、その活動が認められ、2017年第2回賀川豊彦賞を受賞しているとのこと。
賀川豊彦といえば、「貧民街の聖者」として世界的な知名度が高い人物で、賀川豊彦賞といえば、貧しき民のためにがんばる人たちを顕彰するものであろう。
貧しき人に手を差し伸べる活動を10年も続けてきたことを見る人は見ているということか。
「フードバンク山梨」理事長という肩書だが、フードバンクのことは以前、何回か取り上げ、その活動に携わっている人にエールをおくったことがある。
そのとき、「フードバンク山梨」の名前も耳にしている気がするが、食品ロスをなくすため、賞味期限の迫った食品をフードバンクとして集め、明日のパンを得るにも困っている貧しき人たちに渡すという取り組みは素晴らしいもので、米山さんに限らず、関係者を大いに称えたい。
フードバンクは、個人ばかりでなく、子ども食堂を運営している人たちにも提供していると思うが、貧困家庭支援という点では、もう一つ実現できたらと願っていることがある。
それは、都市近郊で自分の家庭で食べるため、あるいは、農協などで販売するために野菜を作っている農家などの畑を周り、売り物にならない野菜を無償で提供してもらい、子ども食堂などで賄い食材に使うことができないかということ。
農家が無償で提供することはさほど難しいことではないはずだが、集める人たちがいて、その人たちが信用のおける人たちであることが何より大事で、そういったNPO法人があれば、農協などを通じて、農家の社会貢献事業として、実現できるのではないか。
駅伝で足の具合がよくなくても、次の走者にタスキを渡すため、がんばった選手を見て、タスキをつなぐことの大切さを痛感した。
自分にはもう、選手を追っかけるだけの気力がなくなってしまったが、家族は次の4応援場所、4区小田原に向かった。
後で聞いたことだが、大東大の選手が東京大手町の読売新聞社前をスタートして、すぐに転倒し、足を痛めたらしい。それでも、彼は仲間のため、何とかタスキをつないだとのこと。
タスキをつなぐといえば、2019年も、おそらく、格差、貧困問題が社会問題として、解決が求められ、心ある人がタスキをつなぐように皆で助け合うことになるであろう。
12月30日の読売が時の人を紹介する「顔」で貧困家庭支援に取り組み10年という見出しで、米山けい子さん(65)をとりあげていた。
読売によれば、米山さんは放っておけば廃棄されてしまう食品を困窮家庭に無償提供するフードバンク活動を続けている。
賞味期限が迫ったりして捨てられる前に、企業や家庭から寄付してもらう。生協の理事長時代「まだ食べられるのに」と疑問を持ち、退職後の2008年、自宅に事務所を構えた。
NPO法人化から間もない09年11月、「明日のパンを買うお金もない」と4人暮らしの女性から連絡が入った。女性の看病をするために夫は仕事を辞めており、経済的に追い込まれ、冬でも暖房を使わず、子ども2人と共に厚着をして体を寄せ合っていた。
食品を直接渡すと相手が気後れしかねないため、宅配で提供する工夫をした。
2018年8月までの9年間で、2万6000件の提供を重ねた。
感謝の手紙に温かい縁を感じているそうな。
ネット『からっぽの冷蔵庫 見えない日本の子どもの貧困』 によれば、米山さんは、その活動が認められ、2017年第2回賀川豊彦賞を受賞しているとのこと。
賀川豊彦といえば、「貧民街の聖者」として世界的な知名度が高い人物で、賀川豊彦賞といえば、貧しき民のためにがんばる人たちを顕彰するものであろう。
貧しき人に手を差し伸べる活動を10年も続けてきたことを見る人は見ているということか。
「フードバンク山梨」理事長という肩書だが、フードバンクのことは以前、何回か取り上げ、その活動に携わっている人にエールをおくったことがある。
そのとき、「フードバンク山梨」の名前も耳にしている気がするが、食品ロスをなくすため、賞味期限の迫った食品をフードバンクとして集め、明日のパンを得るにも困っている貧しき人たちに渡すという取り組みは素晴らしいもので、米山さんに限らず、関係者を大いに称えたい。
フードバンクは、個人ばかりでなく、子ども食堂を運営している人たちにも提供していると思うが、貧困家庭支援という点では、もう一つ実現できたらと願っていることがある。
それは、都市近郊で自分の家庭で食べるため、あるいは、農協などで販売するために野菜を作っている農家などの畑を周り、売り物にならない野菜を無償で提供してもらい、子ども食堂などで賄い食材に使うことができないかということ。
農家が無償で提供することはさほど難しいことではないはずだが、集める人たちがいて、その人たちが信用のおける人たちであることが何より大事で、そういったNPO法人があれば、農協などを通じて、農家の社会貢献事業として、実現できるのではないか。
駅伝で足の具合がよくなくても、次の走者にタスキを渡すため、がんばった選手を見て、タスキをつなぐことの大切さを痛感した。
2018年11月29日
水俣病市民会議日吉フミコさんを称える
水俣病患者の支援に取り組み、今年設立50周年を迎えた熊本県水俣市の市民団体「水俣病市民会議」会長、日吉フミコさんが7日、老衰のため死去した。とメデイアが伝えている。
11月7日の毎日によれば、同県北合志村(現菊池市)生まれ。
水俣市立水東小の教頭だった1963年、市立病院で劇症型胎児性患者の子どもたちの姿を見て衝撃を受けた。「あの子たちを何とかしたい」と教職を辞し、水俣市議選に立候補して初当選。患者支援を続けながら連続4期務めた。
68年には当時孤立を深めていた患者たちを支援する力を結集しようと、市職員や原因企業チッソの第1労働組合員らと水俣病市民会議を設立し、会長に就任。翌年に提訴された水俣病第1次訴訟を支援し、73年の勝訴につながった。勝訴を受けて患者団体とチッソが補償協定書を締結した際には、衆院議員や熊本県知事らと調印に立ち会った。
90歳を過ぎてもなお水俣病関連の集会に参加して発言するなど患者支援活動を続けた。
2015年には長年の支援活動が評価されて吉川英治賞を受賞。
時の流れという誰の身の上にも平等に降り注ぐ陽の光のような時間の経過が、忘れてしまいたい、思い出したくないことでも少しずつ、その苦しみ、つらさから逃れられるようにしてくれるものだが、水俣病に限っては、時は流れず、従って患者の苦しみが癒されることがないように思える。
その最たるものが胎児性水俣病患者で、親が食べた有機水銀に汚染された魚のため、胎児にその苦しみがそのまま引き継がれてしまうのだから、胎児は無論の事だが、親の自責の念は、想像を超えてしまう。
そんな胎児性の水俣病に苦しむ子どもたちの姿をみれば、何とか力になってやりたいと思うのがふつうだが、現実には自分の生活もあり、なかなか手助けができない。
だから、見ていられず。教員を辞めて、支援に乗り出した日吉フミコさんに敬意を表する共に、後に続く人たちにエールをおくる。
水俣病のことを知ってから、随分時が経ってしまったが、退職し、自由を手に入れたので、戦没者の慰霊の旅を始め、ようやく、水俣を訪れ、行政の関わる慰霊碑、さらに、被害者たちの「乙女塚」と犠牲者へのお参りをすることができた。
歴史という視点でみれば、昭和における出来事として、先の大戦で、人種差別の国米国が禁じ手の原爆で非武装の日本人を無差別に殺戮したことが一番悲惨な出来事だとするなら、水俣病は、原爆同様の悲惨さである。
しかし、胎児性の水俣病患者を見れば、衝撃を受けるまでは自分も同じだとしても日吉さんが教員の職を辞して支援を始めたようには自分にはとてもできなかっただろう。
自分のできないことをやった日吉さんの人間力の凄さを思わないわけにはいかない。
何かをするとき、有形、無形の支援がないとなかなか思いが成就するものではないが、関係者ならともかく、仕事を辞めてまでとなると躊躇ってしまう。
石牟礼道子さをんと一緒に初の患者支援団体「水俣病対策市民会議」を結成し、会長として、リーダーシップを発揮したという点も尊敬できる。
後に続く人たちも大変だが、患者の辛さは死ぬまで続く。
11月7日の毎日によれば、同県北合志村(現菊池市)生まれ。
水俣市立水東小の教頭だった1963年、市立病院で劇症型胎児性患者の子どもたちの姿を見て衝撃を受けた。「あの子たちを何とかしたい」と教職を辞し、水俣市議選に立候補して初当選。患者支援を続けながら連続4期務めた。
68年には当時孤立を深めていた患者たちを支援する力を結集しようと、市職員や原因企業チッソの第1労働組合員らと水俣病市民会議を設立し、会長に就任。翌年に提訴された水俣病第1次訴訟を支援し、73年の勝訴につながった。勝訴を受けて患者団体とチッソが補償協定書を締結した際には、衆院議員や熊本県知事らと調印に立ち会った。
90歳を過ぎてもなお水俣病関連の集会に参加して発言するなど患者支援活動を続けた。
2015年には長年の支援活動が評価されて吉川英治賞を受賞。
時の流れという誰の身の上にも平等に降り注ぐ陽の光のような時間の経過が、忘れてしまいたい、思い出したくないことでも少しずつ、その苦しみ、つらさから逃れられるようにしてくれるものだが、水俣病に限っては、時は流れず、従って患者の苦しみが癒されることがないように思える。
その最たるものが胎児性水俣病患者で、親が食べた有機水銀に汚染された魚のため、胎児にその苦しみがそのまま引き継がれてしまうのだから、胎児は無論の事だが、親の自責の念は、想像を超えてしまう。
そんな胎児性の水俣病に苦しむ子どもたちの姿をみれば、何とか力になってやりたいと思うのがふつうだが、現実には自分の生活もあり、なかなか手助けができない。
だから、見ていられず。教員を辞めて、支援に乗り出した日吉フミコさんに敬意を表する共に、後に続く人たちにエールをおくる。
水俣病のことを知ってから、随分時が経ってしまったが、退職し、自由を手に入れたので、戦没者の慰霊の旅を始め、ようやく、水俣を訪れ、行政の関わる慰霊碑、さらに、被害者たちの「乙女塚」と犠牲者へのお参りをすることができた。
歴史という視点でみれば、昭和における出来事として、先の大戦で、人種差別の国米国が禁じ手の原爆で非武装の日本人を無差別に殺戮したことが一番悲惨な出来事だとするなら、水俣病は、原爆同様の悲惨さである。
しかし、胎児性の水俣病患者を見れば、衝撃を受けるまでは自分も同じだとしても日吉さんが教員の職を辞して支援を始めたようには自分にはとてもできなかっただろう。
自分のできないことをやった日吉さんの人間力の凄さを思わないわけにはいかない。
何かをするとき、有形、無形の支援がないとなかなか思いが成就するものではないが、関係者ならともかく、仕事を辞めてまでとなると躊躇ってしまう。
石牟礼道子さをんと一緒に初の患者支援団体「水俣病対策市民会議」を結成し、会長として、リーダーシップを発揮したという点も尊敬できる。
後に続く人たちも大変だが、患者の辛さは死ぬまで続く。
2018年11月24日
ルダシングワ真美さん ルワンダで無償で義肢提供
国際協力活動で顕著な功績をあげた個人や団体を顕彰する第25回読売国際協力賞の贈賞式が20日、東京・内幸町の帝国ホテルで開かれ、受賞した民間活動団体「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」代表のルダシングワ真美さん(55)に賞状と副賞500万円などが贈られた。と11月20日の読売が伝えている。
読売によれば、真美さんは1997年、ルワンダの首都キガリに義肢工房を開設。20年以上にわたり、内戦で手足を失った人ら延べ8600人以上に義足やつえを無償で提供し、自立を支援する活動を続けるとともに、同国の障害者スポーツ振興にも貢献した。
同国では94年、民族紛争で3か月間に80万人以上が犠牲になったほか、多くの国民が負傷したとされる。
活動は真美さんとルワンダ人の夫ガテラさんが二人で進めてきた。
幼少のとき、病気の治療ミスで障害を負い、親と別れて障がい者支援施設で育ったガテラさんは、「自分が受けた支援への感謝を同じ立場の同胞への支援で返したい」との思いを抱き続けてきた。
真美さんは92年から5年間横浜市の平井義肢製作所で技術を学び、97年に義肢工房を開設。
工房では、義足を希望する障がい者から足を失ったときの状況などを聞き取った後、石膏のついた包帯で足の型を取り、義足を作っていく。
日本の義足で使われている高価な材料や機器はこの国では手に入らない。知恵とと工夫で乗り切っている。大きさや肌の色、生活様式など、一人ひとりの特徴に合った義足を作ることにこだわっているそうな。
島根県とアフガニスタンを舞台に、義肢装具士を目指すろう者と地雷で片足を失った少女の交流を描いた映画『アイ・ラヴ・ピース』が2003年に製作され、観たので、戦争で傷つき、義肢のお世話になっている人たちがいることは承知していた。
アフガンで映画に出演した少女の義足が壊れ、SOSを受けた中村ブレイスの社長が費用を負担し、少女を来日させ、無償で義肢を提供したことを2017年6月29日の中国新聞が伝えている。
ルワンダ虐殺を扱った2004年制作の映画『ホテル・ルワンダ』は残念ながら見逃してしまったが、ルワンダ内戦のことも耳にしていたので、語り継ぐ戦争の立場としては心を痛めていた。
カルロス・ゴーンのような強欲、かつカネの亡者のことがニュースで流れているときだけに、ルワンダで「歩く希望」作り20年というルダシングワ真美さんが読売国際協力賞を受賞されたことに大いにエールを送ると共に、人間の生き方について考えさせられた。
10億円、20億円トータルすると100億円以上もらっていたらしいが、これで、贅沢三昧をして、美味いもの食って、そのもとは2万人もの労働者の首を切ったカネだという。
一方で、異国の地で、困っている人のために義肢を提供している真美さんのような人がいる。
ルワンダやアフガンなど戦地では、義肢が貴重で、戦争で傷ついた人々、傷痍軍人ばかりでなく、地雷やテロで負傷した人たちにとって、義肢はまさに生きるための希望である。
日本では、叙勲制度があるが、異国で誰かのために頑張っている人がどうして叙勲されないのか。
真美さんは後継者の育成が気がかりだというが、こればかりは強制するものではないから、よい知恵とて浮かばないが何とか意思を継ぐ人が出てきてくれるといいと願う。
読売によれば、真美さんは1997年、ルワンダの首都キガリに義肢工房を開設。20年以上にわたり、内戦で手足を失った人ら延べ8600人以上に義足やつえを無償で提供し、自立を支援する活動を続けるとともに、同国の障害者スポーツ振興にも貢献した。
同国では94年、民族紛争で3か月間に80万人以上が犠牲になったほか、多くの国民が負傷したとされる。
活動は真美さんとルワンダ人の夫ガテラさんが二人で進めてきた。
幼少のとき、病気の治療ミスで障害を負い、親と別れて障がい者支援施設で育ったガテラさんは、「自分が受けた支援への感謝を同じ立場の同胞への支援で返したい」との思いを抱き続けてきた。
真美さんは92年から5年間横浜市の平井義肢製作所で技術を学び、97年に義肢工房を開設。
工房では、義足を希望する障がい者から足を失ったときの状況などを聞き取った後、石膏のついた包帯で足の型を取り、義足を作っていく。
日本の義足で使われている高価な材料や機器はこの国では手に入らない。知恵とと工夫で乗り切っている。大きさや肌の色、生活様式など、一人ひとりの特徴に合った義足を作ることにこだわっているそうな。
島根県とアフガニスタンを舞台に、義肢装具士を目指すろう者と地雷で片足を失った少女の交流を描いた映画『アイ・ラヴ・ピース』が2003年に製作され、観たので、戦争で傷つき、義肢のお世話になっている人たちがいることは承知していた。
アフガンで映画に出演した少女の義足が壊れ、SOSを受けた中村ブレイスの社長が費用を負担し、少女を来日させ、無償で義肢を提供したことを2017年6月29日の中国新聞が伝えている。
ルワンダ虐殺を扱った2004年制作の映画『ホテル・ルワンダ』は残念ながら見逃してしまったが、ルワンダ内戦のことも耳にしていたので、語り継ぐ戦争の立場としては心を痛めていた。
カルロス・ゴーンのような強欲、かつカネの亡者のことがニュースで流れているときだけに、ルワンダで「歩く希望」作り20年というルダシングワ真美さんが読売国際協力賞を受賞されたことに大いにエールを送ると共に、人間の生き方について考えさせられた。
10億円、20億円トータルすると100億円以上もらっていたらしいが、これで、贅沢三昧をして、美味いもの食って、そのもとは2万人もの労働者の首を切ったカネだという。
一方で、異国の地で、困っている人のために義肢を提供している真美さんのような人がいる。
ルワンダやアフガンなど戦地では、義肢が貴重で、戦争で傷ついた人々、傷痍軍人ばかりでなく、地雷やテロで負傷した人たちにとって、義肢はまさに生きるための希望である。
日本では、叙勲制度があるが、異国で誰かのために頑張っている人がどうして叙勲されないのか。
真美さんは後継者の育成が気がかりだというが、こればかりは強制するものではないから、よい知恵とて浮かばないが何とか意思を継ぐ人が出てきてくれるといいと願う。
2018年09月11日
カンボジアで孤児を自立させようとする日本人
「世界ナゼなぜそこに?日本人〜知られざる波乱万丈伝」世界でナゼか大感謝されている日本人2時間スペシャルというテレ東の番組を途中からであるが夕べ、視聴してしまった。
テレ東は「昼めし旅」や火水木の夜10時に放送している「ジパング」 「ガイアの夜明け」、「カンブリア宮殿」など、何故か自分が興味を惹かれる内容の番組を放送するから、時々、視聴してしまう。
後藤勇太さんが26歳のときから31歳の今日まで、寄付に頼らず私財を投げ打ってカンボジアの孤児院で35人の貧しい子ども達を育て感謝されているということを知り、どうしても書いておきたくなった。
後藤勇太さんの活動には頭が下がり、エールを送るが、その前に、カンボジアのことでどうしても書いておかなければならないことがある。
それは、60年代から70年代にかけてのヴェトナム戦争とカンボジアが無関係ではいられなかったことである。
カンボジアはクメール民族で隣国の強国ヴェトナムとは仲がよくない。
傀儡政権である南ヴェトナム政権を支えた米国、対決した南ヴェトナム民族解放戦線(米軍によればヴェトコン)を支えた北ヴェトナム、その北ヴェトナムのバックにいたのがソ連。
王政だったカンボジアに親米の軍事政権がクーデターで誕生すると、元首は中国に亡命する。
国境を接していた中国とヴェトナムは戦争をするくらい仲がよくない。
やがて、そこに誕生したのが親中国の共産主義ポル・ポト政権で、このポル・ポトこそが悪名高き指導者で、国民100万人から200万人以上(正確な人数は不明)を虐殺したとされ、ヒトラー、スターリンと共に世界の指導者の中で極悪殺人鬼として知られている。
つまり、ヴェトナム戦争の影響を受け、内戦状態になったカンボジアでは、ポル・ポト政権で国民大虐殺が起こり、やがて、ヴェトナムが米国との戦争に勝利すると、親中国のポル・ポト政権がヴェトナムの影響力を受けた勢力によって倒され、というような内戦状態が続く。
ために、カンボジアに孤児が増えてしまったというわけ。
孤児といえば、日本には岡山孤児院の創設者で、「児童福祉の父」と呼ばれた明治時代の慈善事業家石井十次がいた。
アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称され、以前、取り上げたことがある。
知的障がいなど社会に上手く適応できない女性のための長期保護施設を創設しようとした深津文雄牧師は、千葉県館山に「かにた村」というコロニーをつくっている。
女性たちの自立を目指し、パンを焼き、果樹を育て、納骨堂まであるということだった。
カンボジアの後藤勇太さんも、孤児院の運営だけでなく、孤児たちの自立を目指している所が非凡なところで、子どもたちがネックレスなどを手作りし、販売することで、施設の維持費をねん出するという取り組みをしていることに感心させられる。
孤児院といっても、子どもは成長していくから、何か手に職をつけ、やがて、ここを巣立つ日が来れば、生きていけるようにしてやらないと真の援助とはいえないだろう。
聞くところによれば、カンボジアで孤児の父親となっている後藤さんは母子家庭で育った?らしい。
日本には妻子がいるとも。
世のため、人のために生きている後藤さんを同じ日本人として誇りに思うと同時に、人はそれぞれの立ち位置でできることをやればいいのだと教えられた。
テレ東は「昼めし旅」や火水木の夜10時に放送している「ジパング」 「ガイアの夜明け」、「カンブリア宮殿」など、何故か自分が興味を惹かれる内容の番組を放送するから、時々、視聴してしまう。
後藤勇太さんが26歳のときから31歳の今日まで、寄付に頼らず私財を投げ打ってカンボジアの孤児院で35人の貧しい子ども達を育て感謝されているということを知り、どうしても書いておきたくなった。
後藤勇太さんの活動には頭が下がり、エールを送るが、その前に、カンボジアのことでどうしても書いておかなければならないことがある。
それは、60年代から70年代にかけてのヴェトナム戦争とカンボジアが無関係ではいられなかったことである。
カンボジアはクメール民族で隣国の強国ヴェトナムとは仲がよくない。
傀儡政権である南ヴェトナム政権を支えた米国、対決した南ヴェトナム民族解放戦線(米軍によればヴェトコン)を支えた北ヴェトナム、その北ヴェトナムのバックにいたのがソ連。
王政だったカンボジアに親米の軍事政権がクーデターで誕生すると、元首は中国に亡命する。
国境を接していた中国とヴェトナムは戦争をするくらい仲がよくない。
やがて、そこに誕生したのが親中国の共産主義ポル・ポト政権で、このポル・ポトこそが悪名高き指導者で、国民100万人から200万人以上(正確な人数は不明)を虐殺したとされ、ヒトラー、スターリンと共に世界の指導者の中で極悪殺人鬼として知られている。
つまり、ヴェトナム戦争の影響を受け、内戦状態になったカンボジアでは、ポル・ポト政権で国民大虐殺が起こり、やがて、ヴェトナムが米国との戦争に勝利すると、親中国のポル・ポト政権がヴェトナムの影響力を受けた勢力によって倒され、というような内戦状態が続く。
ために、カンボジアに孤児が増えてしまったというわけ。
孤児といえば、日本には岡山孤児院の創設者で、「児童福祉の父」と呼ばれた明治時代の慈善事業家石井十次がいた。
アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称され、以前、取り上げたことがある。
知的障がいなど社会に上手く適応できない女性のための長期保護施設を創設しようとした深津文雄牧師は、千葉県館山に「かにた村」というコロニーをつくっている。
女性たちの自立を目指し、パンを焼き、果樹を育て、納骨堂まであるということだった。
カンボジアの後藤勇太さんも、孤児院の運営だけでなく、孤児たちの自立を目指している所が非凡なところで、子どもたちがネックレスなどを手作りし、販売することで、施設の維持費をねん出するという取り組みをしていることに感心させられる。
孤児院といっても、子どもは成長していくから、何か手に職をつけ、やがて、ここを巣立つ日が来れば、生きていけるようにしてやらないと真の援助とはいえないだろう。
聞くところによれば、カンボジアで孤児の父親となっている後藤さんは母子家庭で育った?らしい。
日本には妻子がいるとも。
世のため、人のために生きている後藤さんを同じ日本人として誇りに思うと同時に、人はそれぞれの立ち位置でできることをやればいいのだと教えられた。
2018年08月11日
アフリカ医療支えた外科医夫妻
アフリカ・ニジェールで35年にわたって医療活動を続け、現地で2017年、75歳の生涯を閉じた外科医の谷垣雄三さんと連れ合いの静子さん(1999年死去)の追悼絵画展が長野県松本市で開催されていると8月6日の読売が伝えていた。
読売によれば、谷垣医師は京都市出身。松本市の信州大学医学部に学び、松本市で静子さんと出会う。
79年、日本企業の嘱託医としてニジェールを訪れ、劣悪な医療事情を目の当たりにし、82年、国際協力事業団(JICA)の医療専門家として首都ニアメーに赴任。私財を投じて、南部のテッサワ市に病院を設立した。
静子さんはアフリカ医療に従事する夫を支えながら、現地で出会った人々や庭の風景などを油絵に描く。
静子さん亡きあと、谷垣さんは「日本で連れ合いの展覧会を開いてほしい」と親族宛ての手紙に綴ったそうな。
やがて、大学の同窓生らの尽力で展覧会は実現した。
東京医科大学が文部科学省のお偉いさんに便宜を図ってもらった見返りに息子を医学部に合格させたというニュースが流れている。
そうまでして医学部に合格して、アフリカの医療に貢献するというなら何も言わないが、それにつけても、医師という職業には実に立派な人物がいたものだ。
世のため、人のために尽力している人は少なくないが、谷垣医師はニジェールでの医療活動を評価され、第16回読売国際協力賞を受賞しているので、それなりに知られていたのかもしれない。
古くは今や伝記本になっている、野口英世を筆頭に、様々な国において、医療活動に取り組んできた医師がいて、その名と活動する国などを知ったときに紹介してきた。
還暦を過ぎると、自分の人生を振り返ったりすることが少なくない。
当然、最早ゴールは目前であるから、越し方を反省しても間に合わないが、世のため、人のために生きた谷垣医師はじめ、異国の地で、その地の人々のために医療に従事する、しかも、私財をなげうって病院をつくったと聞けば、ただ、頭が下がる。
格差社会で、IT企業で成功したり、衣類の廉価販売、通信販売などでしこたまカネ儲けしている人がその名を知られているが、いくらカネ儲けしたっていいが、谷垣医師のように人々から尊敬されることはない。
あの世に行くときの三途の川の渡し賃のことを考えれば、いくら一人でカネ儲けしたとしても、あの世に持っていけるわけでもないし、人々の記憶にも残らないが、困っている人を手助けすれば、助けられた人たちはその恩を忘れない。
ニジェールでは、子どもの名前にゆうぞうとつけて、感謝の気持ちを忘れないようにしている人がいるという。
谷垣医師夫妻のご冥福を祈る。
読売によれば、谷垣医師は京都市出身。松本市の信州大学医学部に学び、松本市で静子さんと出会う。
79年、日本企業の嘱託医としてニジェールを訪れ、劣悪な医療事情を目の当たりにし、82年、国際協力事業団(JICA)の医療専門家として首都ニアメーに赴任。私財を投じて、南部のテッサワ市に病院を設立した。
静子さんはアフリカ医療に従事する夫を支えながら、現地で出会った人々や庭の風景などを油絵に描く。
静子さん亡きあと、谷垣さんは「日本で連れ合いの展覧会を開いてほしい」と親族宛ての手紙に綴ったそうな。
やがて、大学の同窓生らの尽力で展覧会は実現した。
東京医科大学が文部科学省のお偉いさんに便宜を図ってもらった見返りに息子を医学部に合格させたというニュースが流れている。
そうまでして医学部に合格して、アフリカの医療に貢献するというなら何も言わないが、それにつけても、医師という職業には実に立派な人物がいたものだ。
世のため、人のために尽力している人は少なくないが、谷垣医師はニジェールでの医療活動を評価され、第16回読売国際協力賞を受賞しているので、それなりに知られていたのかもしれない。
古くは今や伝記本になっている、野口英世を筆頭に、様々な国において、医療活動に取り組んできた医師がいて、その名と活動する国などを知ったときに紹介してきた。
還暦を過ぎると、自分の人生を振り返ったりすることが少なくない。
当然、最早ゴールは目前であるから、越し方を反省しても間に合わないが、世のため、人のために生きた谷垣医師はじめ、異国の地で、その地の人々のために医療に従事する、しかも、私財をなげうって病院をつくったと聞けば、ただ、頭が下がる。
格差社会で、IT企業で成功したり、衣類の廉価販売、通信販売などでしこたまカネ儲けしている人がその名を知られているが、いくらカネ儲けしたっていいが、谷垣医師のように人々から尊敬されることはない。
あの世に行くときの三途の川の渡し賃のことを考えれば、いくら一人でカネ儲けしたとしても、あの世に持っていけるわけでもないし、人々の記憶にも残らないが、困っている人を手助けすれば、助けられた人たちはその恩を忘れない。
ニジェールでは、子どもの名前にゆうぞうとつけて、感謝の気持ちを忘れないようにしている人がいるという。
谷垣医師夫妻のご冥福を祈る。
2018年03月14日
元官僚女性が起業 福島産を売るため
元キャリア官僚の小林味愛さん(31)が2017年夏、福島県国見町で特産品の販路開拓を手がける会社を設立したと東日本大震災から7年目前の3月9日の読売が伝えていた。
読売によれば、東京電力福島第一原発事故による風評が続く中で、果樹栽培に汗を流す町民の姿に打たれ、「風評被害を吹き飛ばしたい」と東京を飛び出したそうな。
小林さんは東京は立川市の出身で、経済産業省で地方活性化の業務を担ったが、「東京で考えるだけでは限界がある。現場に出て人の役に立ちたい」と14年に日本総合研究所に転職。観光振興や中小企業支援で各地を飛び回った。
同研究所員として、国見町を訪問したのが16年。収入減にあえぎながらも、特産の桃やリンゴを丹精込めて作る農家の人たちに感銘を受けた。
2017年8月、同研究所を退職し、同町に移住し、株式会社「陽と人」を設立。
「地域産業を育て、後世に託していけるような町にしていきたい」と夢を語る小林さん。
福島の復興に貢献したいと「収益の一部は地域に再投資する」と社の定款に定めているとのこと。
キャリア官僚が優秀であることは、あの難しい試験をクリアしていることで証明されている。
ところが、安倍内閣になって、官僚の人事権を内閣府が支配するようになってから、あれほど優秀だった官僚たちが政府の権力者に媚を売るようになり、安倍首相夫人のご意向を踏まえ、国民に大損害を与えることになる国家財産を不当に値引きして森友学園に払下げし、揚句、首相夫人の名前を公文書から削除するという掟破りをやり、当事者は自殺に追い込まれた。
自分と妻が関わりがあったら辞めると豪語していたくせに責任をとろうとしない安倍首相と相変わらず横柄な態度で国民をなめ切っている麻生財務大臣の2人には呆れるばかりである。
非常に不愉快な安倍政権に対し、何もしない自民党の人にも失望するばかりだ。
そんな社会情勢の中で、キャリア官僚として、携わった地域活性化の仕事を実践しようと将来を保証されている世界を飛び出し、原発事故による放射能の風評被害に苦しむ福島は国見で起業し、現地産の果樹や野菜を販売する仕事を始めた小林味愛さんにエールをおくりたい。
優秀な人がリーダーでないと、地域の活性化は難しいし、人々はついてこない。
原発事故の風評の厳しさは、国見の特産のリンゴから放射性物質は検出されていないにもかかわらず、東京都中央卸売市場では、福島産のリンゴは他の産地より、3割以上も安い(2017年)東野だから、生産者の苦しみたるや、相当なものだろうと想像する。
『おだやかな革命』で自然エネルギーの活用で地域活性化する人々のことを知ったが、福島の国見にも小林さんがいてくれたことが嬉しいではないか。
読売によれば、東京電力福島第一原発事故による風評が続く中で、果樹栽培に汗を流す町民の姿に打たれ、「風評被害を吹き飛ばしたい」と東京を飛び出したそうな。
小林さんは東京は立川市の出身で、経済産業省で地方活性化の業務を担ったが、「東京で考えるだけでは限界がある。現場に出て人の役に立ちたい」と14年に日本総合研究所に転職。観光振興や中小企業支援で各地を飛び回った。
同研究所員として、国見町を訪問したのが16年。収入減にあえぎながらも、特産の桃やリンゴを丹精込めて作る農家の人たちに感銘を受けた。
2017年8月、同研究所を退職し、同町に移住し、株式会社「陽と人」を設立。
「地域産業を育て、後世に託していけるような町にしていきたい」と夢を語る小林さん。
福島の復興に貢献したいと「収益の一部は地域に再投資する」と社の定款に定めているとのこと。
キャリア官僚が優秀であることは、あの難しい試験をクリアしていることで証明されている。
ところが、安倍内閣になって、官僚の人事権を内閣府が支配するようになってから、あれほど優秀だった官僚たちが政府の権力者に媚を売るようになり、安倍首相夫人のご意向を踏まえ、国民に大損害を与えることになる国家財産を不当に値引きして森友学園に払下げし、揚句、首相夫人の名前を公文書から削除するという掟破りをやり、当事者は自殺に追い込まれた。
自分と妻が関わりがあったら辞めると豪語していたくせに責任をとろうとしない安倍首相と相変わらず横柄な態度で国民をなめ切っている麻生財務大臣の2人には呆れるばかりである。
非常に不愉快な安倍政権に対し、何もしない自民党の人にも失望するばかりだ。
そんな社会情勢の中で、キャリア官僚として、携わった地域活性化の仕事を実践しようと将来を保証されている世界を飛び出し、原発事故による放射能の風評被害に苦しむ福島は国見で起業し、現地産の果樹や野菜を販売する仕事を始めた小林味愛さんにエールをおくりたい。
優秀な人がリーダーでないと、地域の活性化は難しいし、人々はついてこない。
原発事故の風評の厳しさは、国見の特産のリンゴから放射性物質は検出されていないにもかかわらず、東京都中央卸売市場では、福島産のリンゴは他の産地より、3割以上も安い(2017年)東野だから、生産者の苦しみたるや、相当なものだろうと想像する。
『おだやかな革命』で自然エネルギーの活用で地域活性化する人々のことを知ったが、福島の国見にも小林さんがいてくれたことが嬉しいではないか。
2018年02月28日
ナイジェリアとカンボジアで頑張る日本人女性
ナイジェリアでテロ被害者を支援している横井水穂さん(47)が時の人を取り上げる読売の「顔」、2月23日の紙面で紹介されている。
一方、ネットで見つけたのは、カンボジアのNGOスナーダイ・クマエ代表メアス博子さんで、カンボジアで孤児院を運営していた男性と結婚し、10年孤児院の運営に携わってきたという。
まず、横井さん、ナイジェリアといえば、少女たちを拉致し、レイプし、性奴隷にし、爆弾テロの手先として使うという卑劣な武装集団イスラム過激派組織ボコ・ハラムが自爆テロを繰り広げていることで知られている。
読売によれば、2017年10月、国連開発計画(UNDP)マイドゥグリ支所長に就任し、テロで家などを失った住民の生活再建を支援する最前線に立つ。
「魚をあげるのが人道支援。魚の育て方や取り方を教えるのが開発支援」と、避難民の自立に向け、農業や企業で安定収入が得られるように種や農機具、ミシンなどを支給する。
7年前、乳がんが見つかり、2度手術を受けた。自分の命の心配より、一時的とはいえ現場を離れることが心苦しかったという経験を語り、「この人の人生の転換期をサポートしているという実感がある」と紛争地支援での心意気を話す。
自由に外を歩けず、移動も防弾車という緊張した日々であるが、市場を巡ることに楽しみを見出す。
メアス博子さんは、「カンボジアの旅いいとこどり新聞くろまる」によれば、1997年2月、知人が支援し、建設された学校の式典に出席するため大学の卒業旅行を兼ねてカンボジアを訪れた。
学校建設の現地担当者であるカンボジア人男性と知り合い、やがて、この男性と結婚し、カンボジアに渡り、男性がシェムリアップで運営していた孤児院を手伝うことになったのだとのこと。
「今まで10年以上に亘って、この活動を続けられたのも、自分一人の力じゃなくて、周りの人たちに恵まれ支えられてきたからである。
孤児院の事は現地スタッフに任し、ここで経験した事を、話と言う形で日本に還元していく役割が出来たら、日本人としてカンボジアで暮らしてきた意味もあるのかなと思っている」と自らの体験をこれからは語っていくことに力を入れていきたいそうな。
国際化ということが言われて久しい。正確な意味など考えたことはないが、TVで面白い番組といえば、日本が大好きで、日本に来られたらこんなことをやってみたいという外国人をTV局が招待したり、外国人が日本の佳さに嵌ったということで、日本の伝統工芸や芸能などに取り組んでいる様子を紹介したり、はたまた、海外で頑張る日本人を紹介する番組である。
直近では、しょうゆづくりを自ら手掛けている外国人を招待し、日本の産地の現場に連れて行ったが、その研究心には圧倒された。
テレ東の「昼めし旅」に登場したスウェーデン人は、日本庭園に関心が高いとのことで、日本にやってくるや、植木職人として6年修業し、帰化してしまったのだという。当人は、背が高く、しかも、筋トレで鍛えた体はマッチョで、かつイケメン。名前は改名し、あの妖刀からとったか、村雨という名前のタレントには驚いた。
対する日本人ではアフガンで頑張る著名な中村哲医師を筆頭に外国でその国の貧しき人たちのためにがんばる日本人がいて心強い。
アフガンの中村哲医師のことを取り上げたことがあるが、医師ではあるが、病気の治療のその原因である貧しさに着目し、農業ができるように灌漑用水工事に取り組んでいることを知り、エールを送ったことがある。
ナイジェリアで頑張る、横井水穂さんも、難民の自立に向け、農業や企業で安定収入が得られるように種や農機具などを支給しているという点がいい。いかに、国連の関係とはいいながら、ただ、食料を渡すだけでは自立できない。
日本女性は、明治以降、から行きさんとして、売られ、海外で春を鬻いだ女性に始まり、今では、海外で現地の人たちのためにがんばっている人が少なくない。
嬉しいことではないか。
素晴らしい国際貢献である。
一方、ネットで見つけたのは、カンボジアのNGOスナーダイ・クマエ代表メアス博子さんで、カンボジアで孤児院を運営していた男性と結婚し、10年孤児院の運営に携わってきたという。
まず、横井さん、ナイジェリアといえば、少女たちを拉致し、レイプし、性奴隷にし、爆弾テロの手先として使うという卑劣な武装集団イスラム過激派組織ボコ・ハラムが自爆テロを繰り広げていることで知られている。
読売によれば、2017年10月、国連開発計画(UNDP)マイドゥグリ支所長に就任し、テロで家などを失った住民の生活再建を支援する最前線に立つ。
「魚をあげるのが人道支援。魚の育て方や取り方を教えるのが開発支援」と、避難民の自立に向け、農業や企業で安定収入が得られるように種や農機具、ミシンなどを支給する。
7年前、乳がんが見つかり、2度手術を受けた。自分の命の心配より、一時的とはいえ現場を離れることが心苦しかったという経験を語り、「この人の人生の転換期をサポートしているという実感がある」と紛争地支援での心意気を話す。
自由に外を歩けず、移動も防弾車という緊張した日々であるが、市場を巡ることに楽しみを見出す。
メアス博子さんは、「カンボジアの旅いいとこどり新聞くろまる」によれば、1997年2月、知人が支援し、建設された学校の式典に出席するため大学の卒業旅行を兼ねてカンボジアを訪れた。
学校建設の現地担当者であるカンボジア人男性と知り合い、やがて、この男性と結婚し、カンボジアに渡り、男性がシェムリアップで運営していた孤児院を手伝うことになったのだとのこと。
「今まで10年以上に亘って、この活動を続けられたのも、自分一人の力じゃなくて、周りの人たちに恵まれ支えられてきたからである。
孤児院の事は現地スタッフに任し、ここで経験した事を、話と言う形で日本に還元していく役割が出来たら、日本人としてカンボジアで暮らしてきた意味もあるのかなと思っている」と自らの体験をこれからは語っていくことに力を入れていきたいそうな。
国際化ということが言われて久しい。正確な意味など考えたことはないが、TVで面白い番組といえば、日本が大好きで、日本に来られたらこんなことをやってみたいという外国人をTV局が招待したり、外国人が日本の佳さに嵌ったということで、日本の伝統工芸や芸能などに取り組んでいる様子を紹介したり、はたまた、海外で頑張る日本人を紹介する番組である。
直近では、しょうゆづくりを自ら手掛けている外国人を招待し、日本の産地の現場に連れて行ったが、その研究心には圧倒された。
テレ東の「昼めし旅」に登場したスウェーデン人は、日本庭園に関心が高いとのことで、日本にやってくるや、植木職人として6年修業し、帰化してしまったのだという。当人は、背が高く、しかも、筋トレで鍛えた体はマッチョで、かつイケメン。名前は改名し、あの妖刀からとったか、村雨という名前のタレントには驚いた。
対する日本人ではアフガンで頑張る著名な中村哲医師を筆頭に外国でその国の貧しき人たちのためにがんばる日本人がいて心強い。
アフガンの中村哲医師のことを取り上げたことがあるが、医師ではあるが、病気の治療のその原因である貧しさに着目し、農業ができるように灌漑用水工事に取り組んでいることを知り、エールを送ったことがある。
ナイジェリアで頑張る、横井水穂さんも、難民の自立に向け、農業や企業で安定収入が得られるように種や農機具などを支給しているという点がいい。いかに、国連の関係とはいいながら、ただ、食料を渡すだけでは自立できない。
日本女性は、明治以降、から行きさんとして、売られ、海外で春を鬻いだ女性に始まり、今では、海外で現地の人たちのためにがんばっている人が少なくない。
嬉しいことではないか。
素晴らしい国際貢献である。
2018年02月19日
建築家坂茂さんの大聖堂
けがを乗り越え、平昌五輪フィギュアスケートで、羽生結弦選手が期待に応え、66年ぶりとなる五輪2連覇を果たした。その余韻が日本中にある中、今度は、スピードスケート500b競争で、小平奈緒選手が日本女子初となる金メダルを取り、夕べから、日本中が喜びに沸いている。
特に、小平選手を無名時代から支援したのが地元信州の相沢病院で、病院の相沢孝夫理事長が「今できることを全力でやる小平さんの生きざまが好き。だから人の心に何かを残すのだと思う」と応援する周囲の人々を代弁してその想いを語っていることをネットで知った。
できることを全力でやるといえば、17日夜のテレ東「美の巨人」で、建築家坂茂「紙のカテドラル」を放送したらしい。
実は番組を視聴していないのだが、視聴した家人が建築家坂茂の生き方に感動したと話してくれたのである。
番組のHPによれば、坂茂は世界でただ一人、紙で建物を造る建築家。建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞受賞者であり、2017年には日本人として初となるマザー・テレサ社会正義賞を受賞している。
「ニュージーランド南島の都市クライストチャーチ。この町のシンボルとして愛されてきた大聖堂が、2011年の大地震で崩壊。再建されるまでの代わりとして建てられたのが、今回の作品「紙のカテドラル」です。
姿は三角形をしています。正面を彩るのは美しいステンドグラス。700人収容できる礼拝堂へ入ると、柔らかな光が降り注いでいます。
実はこの大聖堂は紙で造られているのです。ラップの芯のような紙管(しかん)と呼ばれる紙の管が十字架、祭壇、説教台などあらゆるものに使われています。紙という素材が作りだす温かみのある空間」とHPに紹介されていた。
聞くところによれば、東日本大震災のとき、避難所でプライバシーが保てないことに苦慮する人たちに、紙製の仕切りというか衝立をつくることを提唱されたそうな。
wikipediaによれば、「途上国に仮設住宅の工場をつくり、その工場で作られる住宅を、災害のない時には各国のスラム街の住環境を改善するのに用い、もし災害が起きたらそれを仮設住宅として供給するという方法で、これで、途上国で雇用も作りだしつつ、住環境改善も実現し、災害時には苦しむ人々を救うという」アイデアで弱者救済を提唱しているというから、敬意を表したい。
テレ東のスタッフの企画力は、先般も書いたばかりであるが、素晴らしい。建築家坂茂さんのような弱者への思いを抱えながら、紙という誰も考えつかなかった材料で建築物を作る人を取り上げる精神が嬉しいではないか。
坂さんは、確かに目の付け所がいいが、紙の実力は、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では、小田急線の生田駅近くにある明治大学生田校舎内にある、旧陸軍登戸研究所(現明治大学平和教育登戸研究所資料館)で行われていた研究で、和紙を使った風船爆弾があり、実際に使われ、死者がでたとされていることで知っていた。
紙とはいいながら、和紙は、丈夫なうえに、重ねるとさらに破れにくくなるとのこと。
著名な建築家といえば、カネをかけ、贅を尽くした建物を作るものだと決めつけていたが、大災害で、住むところに困っている人々、住むところもないような貧困層、弱者への目配りを忘れていない建築家がいるとは思わなかった。
オランダに留学したり、自分のできることは何でもやった小平さん。その努力を対価を求めることなく金銭面でサポートした相沢病院の相沢理事長。
やはり、対価を求めることなく、災害で困っている人々に対し、大聖堂が再建されるまで、ステンドグラスを使い、紙製の大聖堂を手作りし、人々に祈りの場を提供した坂さん。
誰かのために力を尽くす人にエールをおくりたい。
特に、小平選手を無名時代から支援したのが地元信州の相沢病院で、病院の相沢孝夫理事長が「今できることを全力でやる小平さんの生きざまが好き。だから人の心に何かを残すのだと思う」と応援する周囲の人々を代弁してその想いを語っていることをネットで知った。
できることを全力でやるといえば、17日夜のテレ東「美の巨人」で、建築家坂茂「紙のカテドラル」を放送したらしい。
実は番組を視聴していないのだが、視聴した家人が建築家坂茂の生き方に感動したと話してくれたのである。
番組のHPによれば、坂茂は世界でただ一人、紙で建物を造る建築家。建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞受賞者であり、2017年には日本人として初となるマザー・テレサ社会正義賞を受賞している。
「ニュージーランド南島の都市クライストチャーチ。この町のシンボルとして愛されてきた大聖堂が、2011年の大地震で崩壊。再建されるまでの代わりとして建てられたのが、今回の作品「紙のカテドラル」です。
姿は三角形をしています。正面を彩るのは美しいステンドグラス。700人収容できる礼拝堂へ入ると、柔らかな光が降り注いでいます。
実はこの大聖堂は紙で造られているのです。ラップの芯のような紙管(しかん)と呼ばれる紙の管が十字架、祭壇、説教台などあらゆるものに使われています。紙という素材が作りだす温かみのある空間」とHPに紹介されていた。
聞くところによれば、東日本大震災のとき、避難所でプライバシーが保てないことに苦慮する人たちに、紙製の仕切りというか衝立をつくることを提唱されたそうな。
wikipediaによれば、「途上国に仮設住宅の工場をつくり、その工場で作られる住宅を、災害のない時には各国のスラム街の住環境を改善するのに用い、もし災害が起きたらそれを仮設住宅として供給するという方法で、これで、途上国で雇用も作りだしつつ、住環境改善も実現し、災害時には苦しむ人々を救うという」アイデアで弱者救済を提唱しているというから、敬意を表したい。
テレ東のスタッフの企画力は、先般も書いたばかりであるが、素晴らしい。建築家坂茂さんのような弱者への思いを抱えながら、紙という誰も考えつかなかった材料で建築物を作る人を取り上げる精神が嬉しいではないか。
坂さんは、確かに目の付け所がいいが、紙の実力は、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では、小田急線の生田駅近くにある明治大学生田校舎内にある、旧陸軍登戸研究所(現明治大学平和教育登戸研究所資料館)で行われていた研究で、和紙を使った風船爆弾があり、実際に使われ、死者がでたとされていることで知っていた。
紙とはいいながら、和紙は、丈夫なうえに、重ねるとさらに破れにくくなるとのこと。
著名な建築家といえば、カネをかけ、贅を尽くした建物を作るものだと決めつけていたが、大災害で、住むところに困っている人々、住むところもないような貧困層、弱者への目配りを忘れていない建築家がいるとは思わなかった。
オランダに留学したり、自分のできることは何でもやった小平さん。その努力を対価を求めることなく金銭面でサポートした相沢病院の相沢理事長。
やはり、対価を求めることなく、災害で困っている人々に対し、大聖堂が再建されるまで、ステンドグラスを使い、紙製の大聖堂を手作りし、人々に祈りの場を提供した坂さん。
誰かのために力を尽くす人にエールをおくりたい。
2017年07月09日
福岡、大分豪雨で消防団員殉職
2017年7月上旬に福岡県は朝倉市など、大分県は日田市などを襲った豪雨で死者18人(7月9日、西日本新聞)もの犠牲者が出て、多数の被災者が出ていることに謹んでお悔やみとお見舞いを申し上げる。
7月7日の西日本新聞によれば、大分県日田市小野地区で亡くなった山本岳人さん(43)は、消防団員として豪雨被害を確認している最中に土砂崩れに巻き込まれた。
責任感が強く、郷土を愛した山本さんは約2週間後に迫った日田祇園祭に「今年は息子と出ようかな」と話していたという。
消防団小野分団の日野勝俊分団長(60)などによると、山本さんは市内のガソリンスタンドで働く傍ら、約10年前から消防団に所属。5日から、お年寄りを避難所に誘導するなどしていた。「地域防災に貢献したいという思いを感じていた。こんなことになって…」と日野分団長。
勤務先の20年来の同僚、佐々木秀世さん(67)は「実の息子」のように接し、約5年前には「日田祇園に参加したい」という山本さんを関係者に紹介した。山本さんは山鉾を曳き、合間に趣味の写真を撮った。
昨日も書いたが、市民の暮らしをサポートする民生委員や、道を踏み外してしまった人を更生させるために手助けしている保護司などが日常生活の縁の下の力持ちとするなら、自衛隊、警察官、消防団などは、火災や災害時などで活躍する人たちで、活躍するのは、常に、生命の危険と紙一重という場面だから、身の危険は図り知れない。
自衛隊員や警察官消防署員は公務員で公務災害が適用されるから、まだしも、消防団員はほとんどボランテイア同然だから、お気の毒この上ない。
犠牲となられた消防団員の遺族が困らないように政府や自治体は、施策を考えてもらわなければならぬ。
世のため、他人のため、犠牲となられた山本消防団員のご冥福を祈ると共に、遺族を支援してほしい。
7月7日の西日本新聞によれば、大分県日田市小野地区で亡くなった山本岳人さん(43)は、消防団員として豪雨被害を確認している最中に土砂崩れに巻き込まれた。
責任感が強く、郷土を愛した山本さんは約2週間後に迫った日田祇園祭に「今年は息子と出ようかな」と話していたという。
消防団小野分団の日野勝俊分団長(60)などによると、山本さんは市内のガソリンスタンドで働く傍ら、約10年前から消防団に所属。5日から、お年寄りを避難所に誘導するなどしていた。「地域防災に貢献したいという思いを感じていた。こんなことになって…」と日野分団長。
勤務先の20年来の同僚、佐々木秀世さん(67)は「実の息子」のように接し、約5年前には「日田祇園に参加したい」という山本さんを関係者に紹介した。山本さんは山鉾を曳き、合間に趣味の写真を撮った。
昨日も書いたが、市民の暮らしをサポートする民生委員や、道を踏み外してしまった人を更生させるために手助けしている保護司などが日常生活の縁の下の力持ちとするなら、自衛隊、警察官、消防団などは、火災や災害時などで活躍する人たちで、活躍するのは、常に、生命の危険と紙一重という場面だから、身の危険は図り知れない。
自衛隊員や警察官消防署員は公務員で公務災害が適用されるから、まだしも、消防団員はほとんどボランテイア同然だから、お気の毒この上ない。
犠牲となられた消防団員の遺族が困らないように政府や自治体は、施策を考えてもらわなければならぬ。
世のため、他人のため、犠牲となられた山本消防団員のご冥福を祈ると共に、遺族を支援してほしい。
2017年07月06日
ブータン農業の父
ブータンで「農業の父」として尊敬を集め、1992年に死去した農業指導者西岡京治さんとその記念館「西岡ミュージアム」のことを6月6日の読売が伝えていた。
読売によれば、西岡さんは64年、海外技術協力事業団(現国際協力機構JIKA)の農業専門家としてブータンに派遣され、コメや野菜の生産方法や農業機械の使い方などを指導。
80年に外国人で初めて最高級の称号「ダショー」を与えられ、59歳で死去した際には国葬が営まれた。
西岡京治さんのように海外でその国の民のためにがんばっているといえば、アフガンで活躍している中村哲医師のことがすぐに思い浮かぶ。
医師でありながら、病気にならないようにするには、食事が大事だからと食料生産のため、農業用水路の整備をしていると知り、目の付け所が違う。流石だと感心しきりだった。
西岡さんのことを知ったとき、二つの点で大いに敬意を表するとともに称賛する気持ちが湧いてきた。
農業技術者だから、コメや野菜の生産方法や農業機械の使い方を指導するのは当たり前といわれればそのとおりだが、海外への援助で何が一番大事かと問われれば、食料生産に貢献することだと断言できるほど食料の自給自足に役立つことが重要だからだ。
さらに、農業の後継者というか、人を育てることに力を入れたということが何より素晴らしい。
農業で一番大事なのは、種をまくことだが、その種をまく人を育てることも重要で、両方を成し遂げたのだが、59歳で亡くなってしまったことからも、異国の地での農業指導の道の厳しさが思料できる。
西岡さんの生き方を見て、誰にでも真似のできることではないにしても、人は何のために生きるのか、そのことを考えさせてくれたことだけは間違いない。
生きていくときの食料を確保すという点で、農業ほど大事なものはないと考えてきたが、その大事な農業を異国の地で教え、育てるというのだから偉い。
惜しい人を失くしてしまった。
読売によれば、西岡さんは64年、海外技術協力事業団(現国際協力機構JIKA)の農業専門家としてブータンに派遣され、コメや野菜の生産方法や農業機械の使い方などを指導。
80年に外国人で初めて最高級の称号「ダショー」を与えられ、59歳で死去した際には国葬が営まれた。
西岡京治さんのように海外でその国の民のためにがんばっているといえば、アフガンで活躍している中村哲医師のことがすぐに思い浮かぶ。
医師でありながら、病気にならないようにするには、食事が大事だからと食料生産のため、農業用水路の整備をしていると知り、目の付け所が違う。流石だと感心しきりだった。
西岡さんのことを知ったとき、二つの点で大いに敬意を表するとともに称賛する気持ちが湧いてきた。
農業技術者だから、コメや野菜の生産方法や農業機械の使い方を指導するのは当たり前といわれればそのとおりだが、海外への援助で何が一番大事かと問われれば、食料生産に貢献することだと断言できるほど食料の自給自足に役立つことが重要だからだ。
さらに、農業の後継者というか、人を育てることに力を入れたということが何より素晴らしい。
農業で一番大事なのは、種をまくことだが、その種をまく人を育てることも重要で、両方を成し遂げたのだが、59歳で亡くなってしまったことからも、異国の地での農業指導の道の厳しさが思料できる。
西岡さんの生き方を見て、誰にでも真似のできることではないにしても、人は何のために生きるのか、そのことを考えさせてくれたことだけは間違いない。
生きていくときの食料を確保すという点で、農業ほど大事なものはないと考えてきたが、その大事な農業を異国の地で教え、育てるというのだから偉い。
惜しい人を失くしてしまった。
2017年06月03日
施設と里親の連携で日本型養護
鳥取こども学園の創始者尾崎信太郎のことを紹介する福祉新聞の記事を先般取り上げたが、その続きを知人がそれこそ世のため他人のためにがんばっている人として、少しでも知ってほしいとプレゼントしてくれたことから、もう一度書いておく。
尾崎信太郎創始者は、実に立派であるが、できた施設を維持するために尽力してきた養育主任(当時)藤野武夫、とり夫妻もまた偉い。
福祉新聞によれば、1943(昭和18)の鳥取大地震で鳥取育児院は再建が絶望的な被害を受け、翌年、現在地に移転した。
この土地探しに奔走したのが藤野夫妻で、移転先の周辺に2軒あったうちの1軒は園芸研究所を経営しており、植樹、花壇づくり、野菜作りなどの作業は情操教育にも良いと協力を惜しまなかったそうな。
学園で生まれ育った藤野興一常務理事兼学園長は、14人中3人だけしか高校に進学できなかったことから、後ろめたさを引きずっていたとのことで、1978(昭和53)年全国の児童養護施設に先駆けて「高校全入運動を開始する。
「現在、児童養護施設は虐待を受けた子や障がい児が多く、保護者にも虐待経験を持つ者が増えているので、子と親の双方を丁寧に支援していく必要がある。欧米のような施設を廃止し里親への移行を進めるという方向ではなく、児童養護施設と里親が連携していく日本独特の社会的養護(日本型社会的養護)を目指すべきだ」と藤野学園長は養護に関する方針について語っている。
6月にしては、湿度が低いのか、、からっと晴れて爽やかな土曜日。
午前中、お箏との合奏を楽しむ会に参加し、つくづく、わが身の上の恵まれていることに感謝し、午後は畑に行き、草むしりをしてきた。
福祉新聞に掲載されている「社会福祉法人風土記」の鳥取県篇で紹介された鳥取こども学園の創始者尾崎信太郎は立派だけれど、その跡を継いで施設を維持、運営してきた藤野武夫・とり夫妻とその息子藤野興一現学園長たちのことを知ると、子どもたちのためにしてきたその尽力もまた素晴らしい。
養護の方針が紹介されていたが、養護施設と里親の連携で日本型養護を目指すべきだという経験から導きだされた考え方は、長年の経験からくるもので、子どものことを思えば、施設、里親双方の好い所を生かそうということで、理解できることだ。
養護の問題で、一番大事なことは、子どもの身になれるかどうかであろう。
今の児相に一番欠けているもので、虐待する親にはこの一番大事なことが欠けているからどうしようもない。
虐待する親からは、引き離し、暴力から逃れ、施設で安心な暮らしができるようにしてやるのが、子どもの身になることではないか。
尾崎信太郎創始者は、実に立派であるが、できた施設を維持するために尽力してきた養育主任(当時)藤野武夫、とり夫妻もまた偉い。
福祉新聞によれば、1943(昭和18)の鳥取大地震で鳥取育児院は再建が絶望的な被害を受け、翌年、現在地に移転した。
この土地探しに奔走したのが藤野夫妻で、移転先の周辺に2軒あったうちの1軒は園芸研究所を経営しており、植樹、花壇づくり、野菜作りなどの作業は情操教育にも良いと協力を惜しまなかったそうな。
学園で生まれ育った藤野興一常務理事兼学園長は、14人中3人だけしか高校に進学できなかったことから、後ろめたさを引きずっていたとのことで、1978(昭和53)年全国の児童養護施設に先駆けて「高校全入運動を開始する。
「現在、児童養護施設は虐待を受けた子や障がい児が多く、保護者にも虐待経験を持つ者が増えているので、子と親の双方を丁寧に支援していく必要がある。欧米のような施設を廃止し里親への移行を進めるという方向ではなく、児童養護施設と里親が連携していく日本独特の社会的養護(日本型社会的養護)を目指すべきだ」と藤野学園長は養護に関する方針について語っている。
6月にしては、湿度が低いのか、、からっと晴れて爽やかな土曜日。
午前中、お箏との合奏を楽しむ会に参加し、つくづく、わが身の上の恵まれていることに感謝し、午後は畑に行き、草むしりをしてきた。
福祉新聞に掲載されている「社会福祉法人風土記」の鳥取県篇で紹介された鳥取こども学園の創始者尾崎信太郎は立派だけれど、その跡を継いで施設を維持、運営してきた藤野武夫・とり夫妻とその息子藤野興一現学園長たちのことを知ると、子どもたちのためにしてきたその尽力もまた素晴らしい。
養護の方針が紹介されていたが、養護施設と里親の連携で日本型養護を目指すべきだという経験から導きだされた考え方は、長年の経験からくるもので、子どものことを思えば、施設、里親双方の好い所を生かそうということで、理解できることだ。
養護の問題で、一番大事なことは、子どもの身になれるかどうかであろう。
今の児相に一番欠けているもので、虐待する親にはこの一番大事なことが欠けているからどうしようもない。
虐待する親からは、引き離し、暴力から逃れ、施設で安心な暮らしができるようにしてやるのが、子どもの身になることではないか。
2017年05月30日
西陣織の技で文化財修理
時折取り上げる読売の「追悼抄」、その5月13日に「西陣織の技で文化財修理」という見出しで、表具用古代裂製作廣瀬賢治さんが1月26日に73歳で亡くなられたことに伴い、その業績を称えていた。
読売によれば、書画を掛け軸や巻物などに仕立てる際、材料として使う色鮮やかな「金襴」「錦」と呼ばれる裂を、中国の明や清代の古い裂(古代裂)を手本にしながら、京都。西陣織の技術で復元製作してきた。
作った金襴や錦は、尾形光琳「燕子花図」など多くの国宝や重要文化財の表具に使われた。
2007年、「表具用古代裂製作」の国選定保存技術保持者に認定された。
1872年創業の西陣織の織元に生まれ、23歳で家業を継ぐ。
西陣織の主役とされる帯や着物でなく、表具の素材となる古代裂に関心を向けたところが素晴らしい。
「一番の勉強はいいものをたくさん見ること」と古い裂を所蔵する博物館や寺院に通いつめ、写真や図録も参照しながら試行錯誤を繰り返した。
2016年5月、文化財保存での功績を称える「第10回読売あをによし賞」で本賞を受賞。
志半ばで倒れたが、手がけた多くの裂は、100年先、200年先にも文化財を生かし続けるだろう。
73歳といえば、職人の世界では、まだいくらでもいい仕事ができたであろうから、実に惜しい人を失ったものである。
わが家の床の間には子どもの頃から掛け軸が掛けてあった。だから、掛け軸の裂といわれれば、すぐに思い浮かぶが、金属だって疲労するといわれているくらいだから、掛け軸だって、年月とともに裂も劣化していくことは止めらない。
掛け軸に限らないが、日本の伝統工芸品には、製作者とは別に廣瀬賢治さんのような修理をする立場の人がいてくれて、文化財の保存の役割を担ってくれている。
価値のある文化財であれば、その保存の問題は国家の重要な問題であり、文化財となっているものであれば、修理をする人もまた貴重な存在だ。
しかし、文化財の鑑賞が好きな人でも、なかなか修理のような謂わば裏方の仕事に目を向ける人は少なく、それだけに地味な仕事であるが、誰かがやらなければならない仕事であることはまちがいなく、誰かと交代できる仕事ではないだけに、亡くなられたとなれば、後継者のことが気になってしまう。
裏方の仕事をしている人は、すべからく、後継者の育成も元気なうちに考えておいてもらえるとさらにありがたい。
読売によれば、書画を掛け軸や巻物などに仕立てる際、材料として使う色鮮やかな「金襴」「錦」と呼ばれる裂を、中国の明や清代の古い裂(古代裂)を手本にしながら、京都。西陣織の技術で復元製作してきた。
作った金襴や錦は、尾形光琳「燕子花図」など多くの国宝や重要文化財の表具に使われた。
2007年、「表具用古代裂製作」の国選定保存技術保持者に認定された。
1872年創業の西陣織の織元に生まれ、23歳で家業を継ぐ。
西陣織の主役とされる帯や着物でなく、表具の素材となる古代裂に関心を向けたところが素晴らしい。
「一番の勉強はいいものをたくさん見ること」と古い裂を所蔵する博物館や寺院に通いつめ、写真や図録も参照しながら試行錯誤を繰り返した。
2016年5月、文化財保存での功績を称える「第10回読売あをによし賞」で本賞を受賞。
志半ばで倒れたが、手がけた多くの裂は、100年先、200年先にも文化財を生かし続けるだろう。
73歳といえば、職人の世界では、まだいくらでもいい仕事ができたであろうから、実に惜しい人を失ったものである。
わが家の床の間には子どもの頃から掛け軸が掛けてあった。だから、掛け軸の裂といわれれば、すぐに思い浮かぶが、金属だって疲労するといわれているくらいだから、掛け軸だって、年月とともに裂も劣化していくことは止めらない。
掛け軸に限らないが、日本の伝統工芸品には、製作者とは別に廣瀬賢治さんのような修理をする立場の人がいてくれて、文化財の保存の役割を担ってくれている。
価値のある文化財であれば、その保存の問題は国家の重要な問題であり、文化財となっているものであれば、修理をする人もまた貴重な存在だ。
しかし、文化財の鑑賞が好きな人でも、なかなか修理のような謂わば裏方の仕事に目を向ける人は少なく、それだけに地味な仕事であるが、誰かがやらなければならない仕事であることはまちがいなく、誰かと交代できる仕事ではないだけに、亡くなられたとなれば、後継者のことが気になってしまう。
裏方の仕事をしている人は、すべからく、後継者の育成も元気なうちに考えておいてもらえるとさらにありがたい。
2017年05月20日
遺児救済に立つ 鳥取こども学園創立者
互いの都合がつけば、時折、会食しながら懇談する知人が、毎日発信している自分のために参考になればと資料をくれた。
「福祉新聞」の2017年5月15日号の写しで、記事は「社会福祉法人風土記」23、鳥取県で「日露戦争による遺児救済に立つ」という見出しで、鳥取こども学園 上、創立者尾崎信太郎が写真とともに紹介されている。
福祉新聞によれば、鳥取駅から東へ1`強の場所に「鳥取こども学園はある。
創立は1906(明治39)年。日本中が日露戦争の戦勝気分に浮かれているとき、鳥取からの従軍者は1100余人にのぼり、戦死者の未亡人や遺児が巷にあふれていた。“このまま子どもたちを見捨てられるか。やらなぁいけん”」(九十年史)と決心したそうな。
場所は県庁裏の鳥取英和女学校跡地で、「鳥取孤児院」はこうして設立されたが、収容した子どもは当初は3人、翌年には70人に達し、名称も「鳥取育児院」と改称した。
尾崎家は、質屋で大地主、同志社大学で新島譲の薫陶を受けてクリスチャンとなり、敬虔な信仰を持つ章と結ばれ、施設の経営をするが、今のような公的補助が受けられる時代ではなく、私財を惜しみなくつぎ込んだため、広大な田畑は切り売りでなくなり、米俵で満杯だった米蔵はいつの間にか物置と化したのである。
施設経営維持のため、機関誌を発行し、「育児院賛助員制度」を創設し、賛助会員を募った。
賛助会員を募る趣旨が「貧困も犯罪も単なる個人的責任ではない、社会的な背景から必然的に生み出された生活を持つから、社会全体で責任を持たなければならぬ。しかも、単純に恩恵を施すことではない」(『鳥取県郷土が誇る人物誌』)とし、広く呼びかけたものの資金不足は続く。
市内に映画の常設館をつくり、開演前に「浄財を!、支援を」と訴えたという。
1937(昭和12)年、66歳で生涯を終え、三男が後を継ぐ。
1943(昭和18)年の9月10日の鳥取大地震で院舎が全半壊し、翌年、現在地に全面移転した。
子どもたちの養育は趣旨に賛同する創立当初の斎藤文太郎・里う夫妻、藤野武蔵・たよめ夫妻、武蔵の娘婿武夫・とり夫妻など皆、敬虔なキリスト教信徒が交代で担ってきた。
岡山に四聖人ありと称えられているのは、「児童福祉の父」と言われる石井十次、アリス・ペティ・アダムス、感化院を創設した留岡幸助、廃娼運動で知られる救世軍の山室軍平である。
岡山県民でこの4人の名前を知らないようなら、県の教育が間違っていることになってしまうし、福祉の仕事をしている人間なら、この4人の名前と業績くらい知らなければ、穴を掘ってでもはいってもらわなければならない。
そして、鳥取に尾崎信太郎ありと後世にその名前と業績が伝えられ続けるであろう人物のことは今回初めて知ることができた。
この資料をくれた知人に深く感謝したい。
貧富の格差が大きな社会問題となっている今日、貧しい家庭の子どもたちに腹一杯食べられるようにと子ども食堂を開設している心ある人たちがいてくれる。
一方で、某車の製造販売会社の社長の給料は何十億だとか伝えられているように勝ち組と呼ばれている人たちは、死んでもあの世に持っていけるわけでもないのに、カネをひたすら独り占めしようと目論む。
岡山四聖人も、尾崎信太郎夫妻も敬虔なキリスト教徒で、神様の教えが佳かったのか、困っている人たちを救済してきた社会運動家にはキリスト者が少なくない。
世のため、他人のためにがんばっている人たちにこそ、もっと光が当たり、人々の称賛の声が届くようにしなければならぬ。
「福祉新聞」の2017年5月15日号の写しで、記事は「社会福祉法人風土記」23、鳥取県で「日露戦争による遺児救済に立つ」という見出しで、鳥取こども学園 上、創立者尾崎信太郎が写真とともに紹介されている。
福祉新聞によれば、鳥取駅から東へ1`強の場所に「鳥取こども学園はある。
創立は1906(明治39)年。日本中が日露戦争の戦勝気分に浮かれているとき、鳥取からの従軍者は1100余人にのぼり、戦死者の未亡人や遺児が巷にあふれていた。“このまま子どもたちを見捨てられるか。やらなぁいけん”」(九十年史)と決心したそうな。
場所は県庁裏の鳥取英和女学校跡地で、「鳥取孤児院」はこうして設立されたが、収容した子どもは当初は3人、翌年には70人に達し、名称も「鳥取育児院」と改称した。
尾崎家は、質屋で大地主、同志社大学で新島譲の薫陶を受けてクリスチャンとなり、敬虔な信仰を持つ章と結ばれ、施設の経営をするが、今のような公的補助が受けられる時代ではなく、私財を惜しみなくつぎ込んだため、広大な田畑は切り売りでなくなり、米俵で満杯だった米蔵はいつの間にか物置と化したのである。
施設経営維持のため、機関誌を発行し、「育児院賛助員制度」を創設し、賛助会員を募った。
賛助会員を募る趣旨が「貧困も犯罪も単なる個人的責任ではない、社会的な背景から必然的に生み出された生活を持つから、社会全体で責任を持たなければならぬ。しかも、単純に恩恵を施すことではない」(『鳥取県郷土が誇る人物誌』)とし、広く呼びかけたものの資金不足は続く。
市内に映画の常設館をつくり、開演前に「浄財を!、支援を」と訴えたという。
1937(昭和12)年、66歳で生涯を終え、三男が後を継ぐ。
1943(昭和18)年の9月10日の鳥取大地震で院舎が全半壊し、翌年、現在地に全面移転した。
子どもたちの養育は趣旨に賛同する創立当初の斎藤文太郎・里う夫妻、藤野武蔵・たよめ夫妻、武蔵の娘婿武夫・とり夫妻など皆、敬虔なキリスト教信徒が交代で担ってきた。
岡山に四聖人ありと称えられているのは、「児童福祉の父」と言われる石井十次、アリス・ペティ・アダムス、感化院を創設した留岡幸助、廃娼運動で知られる救世軍の山室軍平である。
岡山県民でこの4人の名前を知らないようなら、県の教育が間違っていることになってしまうし、福祉の仕事をしている人間なら、この4人の名前と業績くらい知らなければ、穴を掘ってでもはいってもらわなければならない。
そして、鳥取に尾崎信太郎ありと後世にその名前と業績が伝えられ続けるであろう人物のことは今回初めて知ることができた。
この資料をくれた知人に深く感謝したい。
貧富の格差が大きな社会問題となっている今日、貧しい家庭の子どもたちに腹一杯食べられるようにと子ども食堂を開設している心ある人たちがいてくれる。
一方で、某車の製造販売会社の社長の給料は何十億だとか伝えられているように勝ち組と呼ばれている人たちは、死んでもあの世に持っていけるわけでもないのに、カネをひたすら独り占めしようと目論む。
岡山四聖人も、尾崎信太郎夫妻も敬虔なキリスト教徒で、神様の教えが佳かったのか、困っている人たちを救済してきた社会運動家にはキリスト者が少なくない。
世のため、他人のためにがんばっている人たちにこそ、もっと光が当たり、人々の称賛の声が届くようにしなければならぬ。
2017年05月07日
エボラと闘う日本人
2014年8月25日放送、NHKクローズアップ現代 「“緊急事態”エボラ出血熱 〜感染拡大は止められるか〜」で紹介されたシエラレオネでエボラ出血熱の治療に当たった足立拓也医師と国境なき医師団と看護師。
「脅威のエボラ 英知をかけて挑む」ウイルス学者高田礼人 NHKプロフェッショナル仕事の流儀、2015年1月5日放送で取り上げられている。
そして、5月6日放送のNHK 【おはよう日本】で紹介された 東京大学・河岡義裕教授の研究チームは3年前の爆発的な流行時にシエラレオネに入り、エボラと闘っているという。
TVで放送されたから、エボラ出血熱というアフリカで猛威をふるう感染症と闘う国境なき医師団と看護師、ウイルス研究者、大学教授などの研究チームの名前を知ることができたが、メデイアに取り上げられていない人も含め、全ての医療関係者に敬意を表すると共にエールをおくりたい。
偉い。実に立派な人たちである。
アフリカで黄熱病と闘い、志半ばで倒れた野口英世博士のことは、日本人なら知らないではすまないほどの伝説の人物である。
医師は病気を抱えている自分のような立場の人間から見れば、恩人であり、ただ、感謝申し上げる存在だといっても過言ではない。
その医師にあっても、国境なき医師団のようなチームで働く医師には、格別尊敬のまなざしで活動を見守ってきた。
医師ばかりではなく、当然、看護師も含む医療チーム全員にであるが。
医師には臨床医とウイルス学者のような立場の医師がいて、両者がいなくては、難しい感染症に対峙できない。
しかし、いくら人助けが仕事だとはいいながら、医師という職業の人たちは、よくもまあ、身の危険を顧みず、エイズやエボラなどと向き合っているものだと感心しきりである。
こういう倫理観を持つに至る原動力は、やはり、人助けの精神なのだろうか。
おかげで。エイズの画期的な治療薬ができたというし、エボラだっていずれは、退治できるかもしれない。
とにかく、病気がうつらないで、元気な姿で帰国できる日が来るのを祈るばかりである。
「脅威のエボラ 英知をかけて挑む」ウイルス学者高田礼人 NHKプロフェッショナル仕事の流儀、2015年1月5日放送で取り上げられている。
そして、5月6日放送のNHK 【おはよう日本】で紹介された 東京大学・河岡義裕教授の研究チームは3年前の爆発的な流行時にシエラレオネに入り、エボラと闘っているという。
TVで放送されたから、エボラ出血熱というアフリカで猛威をふるう感染症と闘う国境なき医師団と看護師、ウイルス研究者、大学教授などの研究チームの名前を知ることができたが、メデイアに取り上げられていない人も含め、全ての医療関係者に敬意を表すると共にエールをおくりたい。
偉い。実に立派な人たちである。
アフリカで黄熱病と闘い、志半ばで倒れた野口英世博士のことは、日本人なら知らないではすまないほどの伝説の人物である。
医師は病気を抱えている自分のような立場の人間から見れば、恩人であり、ただ、感謝申し上げる存在だといっても過言ではない。
その医師にあっても、国境なき医師団のようなチームで働く医師には、格別尊敬のまなざしで活動を見守ってきた。
医師ばかりではなく、当然、看護師も含む医療チーム全員にであるが。
医師には臨床医とウイルス学者のような立場の医師がいて、両者がいなくては、難しい感染症に対峙できない。
しかし、いくら人助けが仕事だとはいいながら、医師という職業の人たちは、よくもまあ、身の危険を顧みず、エイズやエボラなどと向き合っているものだと感心しきりである。
こういう倫理観を持つに至る原動力は、やはり、人助けの精神なのだろうか。
おかげで。エイズの画期的な治療薬ができたというし、エボラだっていずれは、退治できるかもしれない。
とにかく、病気がうつらないで、元気な姿で帰国できる日が来るのを祈るばかりである。