2021年01月16日

五島列島の島で支え合う人に学ぶ

 「あしたも晴れ!人生レシピ」の昨日の放送で、30代で五島列島の島に移住し、自給自足生活をしつつ、60代になってから介護の資格を取り、「半農半介護」をコンセプトに老人ホームを建設した歌野敬さん、啓子さん夫婦の生き方を伝えていた。

 建設費の不足をクラウドファンディングで賄い、昔の日本の農家での暮らし、三世代、四世代同居のイメージでという独自のスタイルで老人ホームを運営していたので書いておきたくなった。

 高齢者が農作業を手伝い、醤油づくりで大豆の攪拌をしたりとできることを担当し、シングルマザーの介護職員の子どもの放課後の面倒を見ている。
 役割を持つことで、高齢者が元気になっているといえばわかりやすいか。
 ために、シングルマザーの女性は夜勤の時は、子どもを自宅ではなく、施設で寝かせることで仕事と子育てを両立させることが可能になっているのだ。

 高齢者の働く場といえば、1月12日の読売が「支え合い あしたへ 第1部おたがいさま5」で、要介護の高齢者の活躍の場として、愛知県豊田市の子ども食堂で活動する高齢者のことを紹介している。
 「誰かのためにやりがいを感じ調理場に立つ」という高齢者。
 さらに、横浜市港北区新横浜の高齢者施設では、高齢者がボランティアで編んだエコたわしをアジア、アフリカ、中南米の子どもたちに送っていると伝えていた。


 人事権を盾に役人を恫喝してきた菅首相は、役人の協力を得られず、コロナの爆発的な感染拡大に有効な手立てを何一つ打てない。
 このままでは、医療崩壊し、病院で診てもらえない患者たちの家族の怒りが爆発し、菅内閣も国民から見放され、もはや、風前の灯の感が否めなくなってきた。

 しかし、知恵を授けるなら、ここで、起死回生の対策として、一人30万円支給し、ステイホームを訴えれば、感染拡大はある程度抑えられ、支持率もアップするはずだ。

 しかし、経済優先でコロナの感染拡大を招いた張本人でありながら、全く反省がない上に、対策への見識がないからまあ、無理だろう。
 
 そして、基礎疾患のある人や高齢者はどんどんあの世に送られることになっていく。

 しかし、まだ、コロナ感染から逃れられている地域やコロナ収束後は、高齢者だってまだ活躍の場があるわけで、特に、子ども食堂などはそのよい例である。

 社会は子どもから高齢者まで様々な人たち、階層で成り立っている。

 定年後をどう生きるかというのは中高年世代にとっての人生の課題の一つであるが、誰かのためになることが生きがいにつながっていけば、世のためには大変良いことでもあるから、頑張っている人にはエールを送りたくなる。

 五島列島の上五島に大阪から30代で移住してきた歌野さんご夫婦は島で農業をしながら、自給自足生活の足場を築いてきた。
 農業で生きていくのは楽ではないが、生きていくとき一番大事な食料を確保しなければ始まらないわけで、生き方が地に足がついているのだ。

 山形からやってきたシングルマザーの介護職員はここにたどり着くまで生活を支える厳しさを体験してきただろうが、子育てによい環境を手にしたものだと感心する。

 2020年に寺の手伝いをした時、般若心経を学ぶ機会に恵まれたが、その教えを一言でいうなら、「何かと物事に執着しがちだが、その執着を取り去って、自由にのびのびとおおらかに生きることだ」と解説してくれたのは大乗仏教に詳しいひろさちやさんだった。

 この執着を取り去るのが難しいわけで、煩悩がなかなか消えない自分は、コロナでは死にたくないなどといっているうちはまだまだなのだろう。

2021年01月13日

餃子の王将大雪で立ち往生の車に、食事を無料提供

 「餃子の王将、大雪で立ち往生の車に食事を無料提供。なぜ出来た?「まさに救世主」とネットで賞賛」というタイトルで1月12日のハフポストが伝えていた。店長にエールをおくりたい。

 1月9日から10日にかけ北陸地方を中心に大きな被害をもたらした大雪。

 この影響で国道8号では車が立ち往生する事態となったが、福井県坂井市の中華料理チェーン大手「餃子の王将」丸岡店では店長の指示で、従業員7人が車の運転手らに餃子やチャーハンなどのあたたかい食事約300食を無料で振る舞い、トイレも開放した。

 店側の対応は、ネット上で「まさに救世主」などと賞賛された。

 どのような思いで食事を提供したのか。店長の岩谷圭一さんはハフポスト日本版の電話取材に応じ、「何とかして力になりたかった」と話す。

 
 本社の指示ではなく、岩谷店長の判断だというところが見上げたものである。偉い。

 2011年1月にも北陸地方では大雪で富山発大阪行きの特急サンダーバードが福井県域で立ち往生してしまった。
 動員されたJRの線路補修に当たる労働者たちが除雪に当たり、特急列車に乗車していた子どもが車窓に「除雪ありがとう」の張り紙でお礼の気持ちを伝えたことを知り、「窓越しの除雪ありがとう」として、当時書いた覚えがある。
 凍てつく寒さの中、頑張って除雪に当たった労働者たちは大いに気をよくしたそうな。

 2020年から2021年にかけ、日本海側北陸地方に集中して雪が降り積もって、関越道で立ち往生が起こり、続いて北陸道、さらに国道8号でもという具合に立ち往生が発生した。
 一時は1000台を超えたというのだから、ドライバーも命がけである。

 そこで、県は自衛隊に助けを求めることになるのだが、助けられたドライバーは当然のこととして、家族も除雪に当たる作業員や自衛隊員にもっと感謝の気持ちを伝える必要があるのではないか。

 日本海側、北陸地方の豪雪といえば、80年代を代表するTVドラマ人間模様を描いた吉永小百合主演の『夢千代日記』を思い出した。
 今は死語となっている表日本、裏日本という言葉が辛うじて生き残っていた頃のことである。

 1月から2月にかけ、表日本、すなわち太平洋側が毎日晴れているとき、裏日本、日本海側は雪が降り続くのだ。
 その裏日本、日本海側で暮らす人たちは大自然のことだからと誰一人文句も言わず、黙々とひたすら耐えるのだ。

 当然、ドラマも生まれる。

 川端康成『雪国』、水上勉『越後つついし親知らず』や『越前竹人形』、そして早坂暁『夢千代日記』などで描かれた女性たちはみな、一様に耐えるイメージだ。

 翻って、大都会東京、首都圏の田舎町に生まれ育った自分には、とても雪国の人たちのまねはできない。
 わずか5センチくらいの雪で往生してしまう情けなさである。
 タイヤにチェーンがつけられないから、車は雪道に強いパジェロが我が家の愛車になっているくらいだ。

 だからこそ、国は、日本海側の地域に先祖代々住む人たちのために都市基盤整備というか、道路などの雪対策にもっと力をいれるべきだ。

 大雪はホワイトアウトというくらいで、白い悪魔のようなところもあるが、溶ければ、その水が美味しいコメを作り、美味い酒を造ってくれる。雪解け水が海に流れれば、美味しい魚を育ててくれる。
 という具合に有難い面もある。

 大雪になれば、除雪車を動かせる建設業の人には仕事になるし、雪堀、雪下ろしも仕事になったりして、一概に非難するものでもないが、「過ぎたるは及ばざるごとし」で適度に降ってもらえればいいのだが、なかなかそうはいかないところが大自然を畏怖しなければならない所以か。

 餃子の王将の岩谷店長とスタッフの皆さんに改めて「困ったときはお互いさんだけど、ありがとう」と言いたい。

2020年12月29日

「良心を束ねて河となす」

「良心を束ねて河となす 〜医師・中村哲 73年の軌跡〜」

 NHKが公共放送としての使命、役割を果たしていることを確認させてくれる上記のタイトルの番組が放送されたらしい。
 
 番組の㏋によれば、「2019年年12月、アフガニスタンで銃撃により命を落とした医師・中村哲。長年、戦乱が続く地での医療活動に、飢餓を救うための用水路建設に奔走した中村の生涯に迫る。
 中村は、戦乱が続くアフガニスタンで活動を続け、医療体制を整備。さらに、用水路の建設で荒れ果てた土地を恵み豊かな大地へと変え、65万人分の食料生産を可能にした。

 九州福岡出身。元々精神科医師だった中村が、なぜアフガニスタンに傾注していったのか。そこには、どんな思いがあったのか。番組は、生い立ちや仕事を知る20人余りにインタビュー。様々な活動を記録した貴重な映像と共に、医師・中村哲の足跡を振り返るを引くことができあ」と紹介されていた。。


 日本に勲章制度があるが、税金で報酬をもらっている政治家や税金で給料をもらっている高級官僚がお手盛りで勲章をもらい、中村医師のように志だけで世のため、他人のために頑張っている人がもらっていない勲章制度を設けている政府に対し、不信感だけ抱いてきた。

 日本で最高の栄誉、世界で最高の栄誉が何が知らないが、その栄誉に一番ふさわしい人といえば、中村哲医師など無償の愛で世のため、他人のために生きている人たちだろう。
 無償の愛というか、カネではないその生き方は、これから教科書で次世代に語り継いでいかれるにちがいない。

 聞くところによれば、中村哲医師は土木関係は素人だったから、勉強して得た知識を基に灌漑工事に立ち向かった由であるが、当然、初めからうまくいくはずもなく、最終的には故郷九州は福岡、朝倉市で先人が築いた山田堰を参考にして、灌漑用水路を築いていったらしい。

 聞き違えでなければ、息子さんを病気で早くに亡くしているとも。
 だから、アフガンで病気になる子どもが栄養失調が原因だとわかって、根本的な対策として。食料増産するため、復員1`という大河に堰を構築し、用水路を敷設することにチャレンジしたというのだ。

 古来、玉川上水ではないが、日本の各地でも培われてきた用水路をアフガンの荒れ野に敷設し、緑のなかった荒れ地を緑で覆ったその仕事ぶりは見事と称えても称えきれないほど素晴らしい。

 日本の社会もいつの間にか、経済格差が広がり、貧困に苦しむ子どもたちのために、子ども食堂の運営に携わる心ある人たちが立ち上がった。

 しかし、農協などがリードして、農家に呼び掛け、食材の提供をしない限り、限界がある。

 その食料を生み出すため、灌漑用水路に目を向けた実践した中村先生の先見性と実行力に恐れ入る。
 2020年の晦日を前に、生き方を大いに考えさせられる偉人の足跡を教えてくれたNHKのスタッフにもエールおくりたい。

2020年12月06日

追悼! 現代の英雄 中村哲医師

 医師の中村哲さんは、福岡市のNGO「ペシャワール会」の現地代表としてアフガニスタンで長年、人道支援や復興に力を尽くしてきたが、2019年12月、東部ナンガルハル州ジャララバードで銃撃され、亡くなった。

 あれから1年が過ぎていく。

 中村哲医師ほどノーベル平和賞にふさわしい人物はいないだろう。まさに現代の英雄の称号にふさわしいし、アフガンの人は結果的に恩を仇で返すことをしてくれたものだ。
 一周忌に当たり、追悼の気持ちを込めて改めて感謝の祈りを捧げたい。


 日本は安倍政権、菅政権が中国武漢発の新型コロナウイルスの上陸水際阻止に失敗しただけでなく、検査をさせないということで、感染防止策を全くとらず、感染拡大をどんどん進めた結果、医療崩壊が始まっている。
 感染拡大を防止するには東京世田谷方式で、唾液の検査で陽性者を見つけ、ホテルなどの施設に隔離して治療していくことが不可欠であるが、政府は検査をさせないようにさせないようにしてきた。

 菅内閣が続けば、コロナでどんどん重症者が増え、かつ死んでいく。
 
 そんな日本に中村哲医師のような素晴らしい人物がいて、アフガンの復興に命を懸けて尽くしたことにただ、敬意を表するばかりである。

 日本の医師には立派な人物が多数いるが、中でも、中村哲医師の非凡なところは、医師でありながら、予防医学というのか、病気に負けない体、栄養を状態をよくするためには食料の確保が大事だと、農業性生産性を高めるため、灌漑用水を引くことを実践し、確か、25キロだったか用水路を伸ばしているとき、襲撃されて天に召された。

 病気に立ち向かうのが医師であるが、その病気にならないように、栄養を取り、健康な体を作るために、食料の生産向上に目が向いたという点、さらに、驚くのは自分で重機を扱い灌漑用水路を引くことを実践したことである。

 日本の菅内閣は無能、無策で新型コロナウイルスの感染拡大をどんどん広げ、医療崩壊が始まった。

 日本人の多くが大嫌いな中国共産党政権は、コロナウイルスの発生源である武漢を閉鎖し、全員の検査をし、陽性者を隔離治療した結果、新型コロナウイルスの封じ込めに成功した。

 いくら、嫌いでも、見習うところは見習わないとコロナウイルスは封じ込めない。

 中村哲医師のことを見習えば、新型コロナウイルスの感染拡大で政権がとってきた検査をさせないやり方では、事実上何もしないのと同じで感染拡大を防ぐことにはならない。

 中村哲医師は100年に一人出るかどうかという歴史に名前が刻まれる人物だから、大いに学ぶべきだが、最高権力者が自分のことしか考えない日本の悲劇は当分続くだろう。

2020年11月24日

人権にかかわる裁判に取り組んできた徳田靖之弁護士

 NHKが日曜日の朝、届けてくれる「こころの時代〜宗教・人生〜その言葉が道をひらく」を夏場は早起きしていたから時折、視聴していたが、寒くなってきて、朝、起きられなくなってしまい見逃すことが多くなった。

 少し前のことになるが、どうしても書いておきたいことを放送していた。

 番組内容を例によって、番組の㏋から転載させていただく。

 選「光を求めて ともに歩む」
 「薬害エイズ訴訟やえん罪事件など、人権にかかわる裁判に多く取り組んできた徳田靖之さん。弁護士生活50年を振り返り、現在取り組むハンセン病家族訴訟など、話を聞いた。

 大分を拠点に、国を相手取った薬害訴訟や、えん罪事件など、人権に関わる裁判に多く取り組んできた弁護士の徳田靖之さん。2001年、ハンセン病国賠訴訟では、国の隔離政策の過ちを認めた画期的な判決を勝ち取り、元患者の尊厳の回復へと道を開いた。
 現在、徳田さんは、差別や偏見にさらされてきた元患者の家族の人権回復に取り組んでいる。
 弁護士として50年、活動の原点からハンセン病家族訴訟まで」


 人権ということを意識するようになったのはいつのことだろうか。

 中学生のときにTVで加藤剛が主演したドラマ『人間の條件』を視聴してからくらいかもしれない。
 その後、激しく心を揺さぶられたのが生まれ育った家庭が貧しさゆえに売られ、女衒によって、苦界と呼ばれた遊廓の楼主に引き渡され、搾取され続けながら、梅毒などの性感染症に罹患したりして死んでいった女たちのことを知ったのは高校生くらいだったかも。

 廓で死んだ女たちは例えば吉原なら投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に捨てられたことを知り、就職してから、浄閑寺を訪ね、投げ込まれた女郎や娼婦と呼ばれた女たちの供養のためお参りした。

 古希を迎えることができたから、相当長く生きてきたことになるだろうが、人生の不思議さを思わせられる出来事が2019年に起きる。

 遊女、女郎と呼ばれし女たちの供養のために何回か訪れていた浄閑寺。
 姻族の関係ではあるが、浄閑寺の墓地を買い求めていた由で、四十九日の法要に招かれて寺の名前を聴い時の驚きたるや、信じられないほどだった。
 訪れたのは10年ぶりくらいになるが、再び、女たちから供養のために寺に呼ばれたような気がしてきたものである。

 縁というものを考えさせられる出来事だった。

 人権の意識が高くなるにつれ、公害病、ハンセン病への関心も高くなっていく。
 国立療養所多磨全生園の納骨堂、水俣病の犠牲者の乙女塚に行きお参りもしてきた。

 さて、徳田弁護士のことを番組で知り、独裁政権が人々の人権を認めない中国と異なり、ある程度人権は守られているはずの日本でも、人権派の弁護士は決して多くはない。

 名張の毒ぶどう酒事件で、えん罪を訴えてきた奥西勝さんの無実を信じ、再審請求に尽力している心ある弁護士たちも徳田弁護士同様人権の意識は高い。

 ことが己の身に降りかかってこないと他人の窮状を理解できない人が少なくないが、こんな時、頼れるのは人権派の弁護士である。

 何しろ相手は、国家権力だから、普通に対峙しても勝ち目はない。

 それだけに、ハンセン病に苦しめられた人とその家族にとっては、徳田弁護士の存在は心強い。

 大分出身で、1944年生まれ、父親が太平洋戦争で戦死されているというから、語り継ぐ戦争の自分とは大いに関りがありそうだ。
 勝手な思いだが、だから弱者の味方なのだろう。

 薬害エイズやハンセン病といずれも、国や製薬会社という太刀打ちしがたい相手に弁護団のリーダーとして対峙してきた生き方は立派で、自ずと頭が下がる。

 強いものに立ち向かえる原動力がどこからきているか不明なれど、父親が戦死したことと無関係ではないような気がする。

 正義の闘いができる弁護士が九州、大分にいたとは実に嬉しいことである。
 徳田弁護士にエールをおくりたい。

2020年11月04日

ドクターコトー再び

 11月2日の夜放送されたNHK「逆転人生」「過疎地の病院を救え 新米医師の奮闘」で知った三重志摩の市民病院の医師江角悠太さんにエールをおくるために書いておく。

 この時間は風呂に入る時間で、生活のリズムがあるため、途中までしか視聴していないので、例によって番組の㏋から内容を紹介させていただく。

 「大ピンチ!赤字経営で地方の病院が潰れる?危機にひんする日本の地域医療に希望をもたらす逆転劇。医師・看護師が一斉退職した過疎地の病院。再建を任された新米院長の奮闘

医師・看護師が一斉退職し、住民からの信頼も失った三重・志摩の市民病院。再建を託されたのは、新米医師だった江角悠太さん。エリート医師の父に反発して荒れた学生時代を送ったが、東日本大震災でのボランティア経験を通して地域医療に身を捧げると決意。「どんな患者も断らない」をモットーに、徐々に病院を立て直していく。だが医師不足や赤字経営は深刻で、再び存続の危機に。その時、予想外の助っ人が現れた。感涙の物語。」

 
 病院存続の危機に現れた予想外の助っ人が誰だったのか、興味はあったが、いつの日にかのお楽しみということで、わからずじまいである。

 過疎地の病院といえば、TVで放送された島の診療所の医師ドクターコトーの活躍を思い浮かべてしまう。
 三重県志摩市といえば、その昔真珠の養殖で耳にしたことがある土地。

 阪神大震災の前日、訪れた志摩スペイン村、当時は、炎症性腸疾患クローン病で退院後、まだ体調がもう一つであったが、家族サービスで無理して出かけた。

 遠い記憶であるが、田舎というか過疎地であったことは否めない。
 ここの市民病院だというから、市民は頼りにしていたのではないかと思うが、先輩医師が退職してしまい、新米院長となって病院を立て直す医師江角悠太さん。

 家族、親族みな医師だという医師一家で生まれ育ちながら、学生時代は親に反発したこともあったが、「自分の人生は自分だけのものではない」と諭す父親の言葉や、東日本大震災でのボランティア活動を通して、地域医療に身を捧げようとしたという点が非凡な人は違うと感心した。

 親族に親子3人医師がいて、身近で医師の大変さを見てきたし、聴いていたので医師になる人は立派だなとただ頭が下がる。

 それも、カネもうけとは縁遠い過疎地の地域医療だというのだから、他人事ながら感謝しないわけにはいかない。

 ドクターコトーを視聴していて気づいたのは医師も専門性が顕著になり、過疎地では一人或いは少数の医師が診る患者の病気は様々だから、専門云々などと言ってられず、誰でも、どんな病気でも診なければならないからおいそれとは引き受けられない。

 今、自分は腹痛で悩んでいるが、いつも通院している病院の予約日が間もなくやってくるので、その時、主治医のドクターに相談し、検査をしてもらえるようにお願いするつもりである。

 腹痛一つとっても、何が原因かわかるには検査なりしなければ原因が特定できない。
 原因がわからなければ、治療の術がないので何とか原因を究明したいところである。

 持病を抱えていると、医師ほどありがたい存在はないので、医師にはいつも感謝している。

 江角先生のような心ある医師が増えることを願ってやまない。

2020年10月30日

息子の勇気を留学生の力に

 2001年1月26日夜、JR山手線新大久保駅ホームから転落した男性(当時37歳)を助けようとした李秀賢さん、カメラマンの関根史郎さんが線路に飛び降りたが、3人ともはねられ死亡した。
 関根さんの母は全国から寄せられた見舞金のうち4000万円を中央共同募金会に寄付している。

 10月24日の読売夕刊によれば、、韓国人留学生だった李秀賢さん(当時26歳)の両親がが息子と同じ留学生のために奨学金制度を創設、10月14日の授与式までに18の国・地域の998人を支援してきたと伝えている。

 母親辛潤賛さん(71)は2019年3月、連れ合いを亡くし、中国武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大で、東京都内で行われた授与式にウェブ会議システム[ZOOM」を通じて釜山から参加し、留学生に呼びかけたという。
 
 新大久保駅の事故を契機に日本ではホームからの転落事故対策が進んだ。
 JR東日本ではホーム下の「退避スペース「」に加え、転落した人の重さをセンサーで感知し、列車に知らせる「転落検知マット」を整備。

 国土交通省によると、19年度に発生した転落事故2888件のうち、ほぼ半数が酔客で、ほかに視覚障がい者もいる。
 事故防止に有効なホームドアは山手線では渋谷、新宿を除く28駅で設置が完了している。JR東日本では32年度までに首都圏主要在来線の330駅に整備する計画だという。


 素晴らしい話だから書かないではいられなかった。
 日本に対し、執拗な反日教育をし、反日感情をむき出しに対峙している韓国のリーダーのせいで、日本でもヘイトなど目に余る行為をする輩は別にしても、一般市民にも嫌韓感情を持つ人間が増えたことが世論調査などの結果にでている。

 日本と韓国との関係が改善されることはもうないだろうとみているが、韓国の留学生李秀賢さんには人間としての生き方を教えられた。
 彼の両親が息子の勇気ある行動を次のステップとして、留学生の支援をしているというのも実に立派なことで敬意を表したい。

 日本は学校教育で李秀賢さんと関根さんのことを教材にし、末永くその功績を語り継いでいくべきである。
 このことが、日韓関係の新たな一歩を踏み出すかもしれないので、そうなれば、李さん、母親の辛さんも喜んでくれるだろう。

 辛さんは日本でいうところの団塊の世代で、自分と同世代だから、息子を亡くした、それも人助けでということで、他人事とはとても思えない。

 親にとって、子ども、母親にとっての息子に先立たれる哀しみは他者にはとても理解できないくらいつらいことである。

 それを乗り越え、息子と同じ留学生を支援することで、その留学生が世のため、人のためになることをすれば、素晴らしいことではないか。

2020年10月06日

望まぬ妊娠と特別養子縁組 菊田昇医師

 中国湖北省武漢発の新型コロナウイルスの感染大爆発による外出自粛などで「望まない妊娠」や性被害が増えている可能性があるとして、厚生労働省の研究班が人工妊娠中絶の状況などを調べる初の全国調査を今年度中に行うことが分かった。
 
 各地の妊婦向けの相談窓口には4月以降、特に10、20歳代の相談が急増している。と9月28日の読売が朝刊社会面で伝えている。

 昨日、10月5日、NHKTVの番組で女優中江有里さんが本の紹介をしていたが、その中に、特別養子縁組制度が実現する原動力となった功労者菊田昇医師のことを描いたノンフィクション石井光太『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』(小学館)があった。

 現在、特別養子縁組、つまり、事情を抱えた出産で子どもを育てられない親に代わって実子として里親が子どもを育てる制度で救済された人々が少なくないが、この制度ができる前、当時の法律では違法とされていたことに対し、子どもの命を救い、困っている女性を救おうと立ち上がり、優性保護指定医取り消し、医師免許停止などの処分を受けた菊田昇医師の生涯を描いている本だそうな。


 妊娠中絶手術といえば、語り継ぐ戦争で、満州や朝鮮半島でソ連兵や朝鮮の保安隊や中国人暴民などから性的暴行をされ、生憎妊娠してしまった女性が引き揚げ後、妊娠中絶手術を余儀なくされたことを幾度となく書いてきた。

 望まぬ妊娠といえば、このような性的暴行のほか、仕事でかかわった女性のように亭主がいるにもかかわらず、見知らぬ男とたった一度の性的交際で妊娠してしまい、そのことが亭主に知れて離婚され、一人で子育てしていたような例もある。
 たった一度のことだそうな。だから、父親がどこのだれか全くわからないという。

 人は生まれてきて、興味、関心を持つことは人それぞれで、まったく様々である。

 自分はどうしてかわからないが、「自由」と「尊厳」いうことが生きていくとき一番大事だと考えるようになり、自由を奪われた人たちに関心を持つようになった。
 戦没者、遊女、女郎など人身売買され、自由を奪われた人達の人生に関心をもつようになってしまった。
 無論、性暴力の被害者を筆頭に犯罪の被害者にもである。

 過去、特別養子縁組「愛知方式」ということを書いた覚えがあるが、養子縁組といえば、自分の従姉が母子家庭に育ち、結婚するも上手くいかず、離婚することになって子どもを養子に出した。と耳にしたことがある。
 従姉といっても、自分とは親ほども年が離れていたが、せっかく授かった子どもを養子に出すというのは身勝手だと当時は思った。

 80年代はじめ、NHKが放送したドラマ人間模様『夢千代日記』で、ケーシー高峰が演じた温泉町の木原医師は秘かに養子のあっせんをしていたが、医師免許を持っていないことがばれ、街を追われるように去っていった。
 このときは、もう事情を抱えて生きている人が多いのだから養子縁組は子どもも親も救われると考えるようになっていく。
 特別養子縁組制度は確か、87年ごろだろうから、この時はまだ成立していなかったのではないか。

 さて、菊田昇医師のことは、当時、世間をお騒がせしたから、よく覚えているが、中絶されてしまう命を救い、子どもが欲しくても親になれないという夫婦に実子として子育てを託すという考えは実によい考えだと感心したものである。

 菊田医師はその業績から第2回 世界生命賞を受賞されているが、その第1回はマザー・テレサだというからその功績は世界に知られているのだ。

 今回、自分が何故、菊田昇医師のことを取り上げたのかといえば、菊田医師は石巻の遊廓で廓の経営者の子どもとして生まれ育ち、貧しい家庭の子どもが遊廓に売られ、どういう生活をさせられるのか知っていた。とわかったからである。

 遊廓の廓の楼主の家で育った人といえば、『小菊の悲願』(聖燈社)を書いた多田さよ子さんがいて、大いに感化された。

 とにかく、国家権力に敢然と立ち向かい、信念を曲げず、困っている女性、命を消されようとしている子どもの命を救ったことはただただ立派で尊敬に値する生き方である。

 菊田昇医師のおかげでどれほどたくさんの命が救われたことか、素晴らしい人生であり敬意を表しておきたい。 

2020年10月05日

懸命救助責められぬ 消防ヘリから落下 妻を亡くした夫

 2019年10月、東日本を襲った台風19号。

 救助に来た東京消防庁のヘリコプターから落下して亡くなった福島県いわき市の湯沢昭子さん(77)の1周忌が26日、市内で営まれた。
 半世紀以上連れ添った妻を目の前で失った富夫さん(80)は「誰にでも間違いはある」と初めて事故への思いを語った。と9月27日の読売が朝刊社会面で伝えている。

 2020年1月、昭子さんの救助に関わった航空隊員2人(ともに33歳)が同庁幹部とともに富夫さんが1人で暮らしていた市内の借り上げアパートにやって来た。

 泣きじゃくって謝る隊員に、富夫さんは「電線や木がある中を降りてきてくれたこと自体、神業だったよ。お盆や命日に東北の方を向いて、心の中で手を合わせてくれればそれでいい」と伝えたそうな。

 8月下旬から茨城県の老人ホームで暮らす富夫さんは「誠実にやっている人たちに怒るような女房ではない。天国で『一人でも多くの人を救ってほしい』と思っているはずだ」と静かに語った。


 墓前で手を合わせる富夫さんの写真を見て、すごい人だ。世の中にはこんな人がいたものだと感心しきりである。

 半世紀以上連れ添った妻を亡くす、しかも事故でとなれば、自分なら当然、打ちのめされ、生きる気力を失くしてしまうに違いない。
 謝罪に訪れた隊員を責めてしまうかもしれない。
 
 にもかかわらず、消防隊員のミスを責めず、「お盆や命日に東北の方を向いて、心の中で手をあわせてくれればいい」と泣きじゃくりながら謝罪する隊員に話したというではないか。

 謝罪に訪れた消防隊員は「バカヤロー!」「妻を返せ!」と罵声を浴びるのを覚悟していただろうから、富夫さんみたいに自分たちを責めない人の一言の効き目は圧倒的だ。おそらく事故の重荷とこの一言を一生背負っていくことになるだろう。
 「バカヤロー」と詰られた方が気持ちは楽だったかもしれない。

 まあ、自分も冷静になれば、消防隊員が世のため、人のために頑張っていることくらい十分承知しているから、とても責められないことくらいは理解しているが、ダメージが大きすぎるから、責めることはしないにしても、泣き言くらいは言ってしまいそうだ。

 富夫さんにエールを送るとともに消防隊員にも励ましの一言。

 腸閉塞で滅茶苦茶に苦しんでいるとき救急車のお世話になったことがある。
 「タワーリングインフェルノ」で超高層ビルの火災で活躍する消防士のことを知っているが、まさに命がけである。
 自らの命のことを考えたら、消防士という職業を選択することは命がけで、警察官よりさらに命がけの仕事だといっても過言ではない。

 それでも、ミスは許されない。ミスは誰にでもあることだが、消防士のミスは取り返しがつかなくなることが多いからだ。

 この経験を活かし、消防士を退職せず、ミスが命取りになることを後輩たちに語り継いでいけば、亡くなった昭子さんに対しても、恥ずかしくない生き方ができるというものではないか。

 とにかく、人を安易に責める風潮があるが、一所懸命に頑張っている人は責めてはいけないと一石を投じてくれた富夫さんに感謝。 

2020年09月23日

日本初の全盲の弁護士

 NHKのスタッフが佳い仕事をしている。
 筆頭は語り継ぐ戦争で、2020年は戦後75年の節目だったが、そんなことに関係なく一貫して、先の大戦にきちんと向き合っている。
 少し前には、「プロジェクトI」、最近では「逆転人生」や「クローズアップ現代」ががんばっている。

 その「逆転人生」で全盲の弁護士が頑張っていることを伝えてくれたので、スタッフともどもエールをおくりたい。

 HPから番組内容をみてみよう。
「歴史的裁判を担当し、勝訴してきた全盲の弁護士が登場。日本で初めて点字での司法試験に合格。8度落ちてもあきらめなかった執念の男!コロナ禍で生活困窮者に寄り添う。

 “武闘派゛と呼ぶ人もいる弁護士の竹下義樹さん。山口組組長を相手どった裁判の弁護団長をつとめて勝訴。生活保護を廃止されたホームレス状態の人が行政を訴えた裁判でも原告を弁護して勝訴。福祉のあり方に一石を投じた。
 弁護士になるまでも波乱の連続。当初は視覚障害を理由に司法試験の受験が認められなかったのだ。
 社会の逆風に真っ向から立ち向かった痛快人生。新型コロナウイルスの影響が長引く中、生活困窮者を支えている。」


 弁護士といえば、日本でも一番の難関とされている司法試験に合格しなければ、その資格を得られない。
 まして、全盲となれば、点字で問題を読むとしても、そのハンディキャップたるや大変厳しいものがある中で、試験に合格しただけでも特筆されることだが、やっている仕事が弱者に寄り添うことだから素晴らしい。

 犯罪の被害者支援を訴えていくために勉強していたとき、全国犯罪被害者の会(あすの会)の岡村勲弁護士が自らの連れ合いが犠牲となってはじめて犯罪被害者の気持ちを理解することができたと体験を語っていた。

 竹下さんは自らが置かれている立場から、弱者の気持ちが人一倍理解できるのだろう。
 
 弁護士の仕事を刑事事件でみれば、一般的に裁判では加害者には日本国憲法で弁護人が選任できるが、自ら依頼できなければ、国選弁護人といって、国が弁護人をつけてくれることになっている。

 だから、殺人など凶悪犯罪事件の被害者が立ち上がり、犯罪被害者等基本法ができるまでは、どちらかといえば、弁護士は加害者寄りだったといってもいい。

 しかし、犯罪の被害者が立ち上がるや、弁護士の中から、被害者の側に立つ、弁護士が出てきて、被害者に寄り添い、被害者を勇気づけてくれることとなった。

 竹下義樹さんが数多くの弁護士の中で、あの山口組組長相手の裁判の弁護団の団長として勝訴したこと、ホームレスのような頼れる人がいない人たちの訴訟を引き受けたことなど扱った内容を知れば、エールをおくらないわけにはいかない。

 視覚障がい者といえば、自分も若い頃から右目の網膜の具合がよくなくて、視力検査で、一番上が見えるか見えないかで、眼鏡をかけてもどうにもならないというのだから大変困っている。
 さらに、どうしたことか古希を過ぎた頃からか、よい方の左目から光線が発するようになって、驚いて近くの眼科医を受診しているが、検査の結果は、加齢によるものだということだった。

 全盲でも頑張っている竹下さんのように、司法試験になかなか合格できなくとも諦めずに、8回目で合格したことを聞けば、人間諦めてはいけないということで、生き方として大いに参考になる。

 「諦めるな!」誰にでもいえることだが、くじけてしまいそうになる弱い自分がいるとき、これほど力強い応援の言葉があるだろうか。

2020年07月10日

ウポポイの開業に尽力

 北海道白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)が7月12日いよいよオープンすることになった。
 アイヌの舞踊、イヨマンテなど民族の文化を7月10日、今朝のNHKニュースでも取り上げていたが、このめでたい知らせを前に4月17日亡くなったアイヌ民族文化財団前理事長の中村睦男さんの功績を称える追悼抄が6月23日の読売に掲載されていた。

 読売によれば、中村さんは長くアイヌの地位向上、文化振興に身を砕いてきた。
 アイヌ問題に関わるようになったのは1984年。当時の横路孝弘・北海道知事から「ウタリ問題懇話会」の分科会座長に請われたのがきっかけだった。

 中村さんは北海道大学法学部教授、憲法学者として知られていた。
 分科会のテーマ、北海道旧土人保護法に代わる新法のあり方を検討することで、アイヌ側が求めていた6件の政策のうち5件は認めたが、国会等に民族代表の議席を確保することだけは選挙権の平等の観点から退けた。
 その対応にアイヌ側からの反発はあっても、法の枠内で最善の解決策を見出すという中村さんの姿勢は評価されていたという。
 
 アイヌのためにアイヌ・先住民族研究センターを設立する。
 「弱い立場の人に手を差し伸べるタイプ」評され、「口は一つだが、耳は二つある。一つ言ったら、二つ聞く。そういう気持ちがないと話し合いはできないよ」との言葉が忘れられないと札幌アイヌ協会の阿部一司さんはその姿勢を評価する。

 
 初めて北海道の土を踏んだのは社会人になって2年目のこと。1973(昭和48)年の夏のことだった。
 上野発の夜行列車に乗り、翌朝、着いた青森駅から青函連絡船に乗り、船内でシャワーを浴びて汗を流し、函館へ。
 函館からマリモで知られる阿寒湖に行ったとき、確かアイヌ部落があったような記憶がある。
 このとき、はじめてアイヌ民族が日本の先住民族だったことを意識した。

 旅は、旭川、知床、網走、根室、釧路、そして、函館から青函連絡船に乗り、青森へとおよそ1週間。夜行列車で上野に翌朝着いたが、若かったからか、寝台ではなく座席に座っての夜行列車でも平気だった。

 今朝のNHKでは、ウポポイ運営主体のアイヌ民族文化財団の踊り手で、アイヌ民族の新谷史織さんに取材し踊りを披露してくれた。
 民族衣装を身に纏い 踊る姿に民族の誇りが伝わってきたが、伝承というか継承というか、子孫に伝えていくには生活様式が同化されてしまった今、なかなか難しいことだそうな。

 文化人類学を勉強していないので、詳しいことは不明なれど、民族にとっての言語、文化などその民族ならではのものがあるわけだ。
 因みに、北海道の地名はアイヌの言葉に漢字を当てたと言われているが、語り継ぐ戦争で訪れた稚内はネットの地名の由来によれば、ヤムワツカナイというアイヌ語で冷たい水のある沢を意味する言葉に漢字を当てたものらしい。

 その後、北海道には語り継ぐ戦争も含め、3回行っているが、アイヌ民族のことを再び強く意識するようになったのは、語り継ぐ戦争で沖縄に行くようになってからのことである。

 沖縄は琉球民族であり、アイヌ同様独自の言語と文化を伝承してきている。
 
 アイヌは明治以降の北海道開拓で次第に同化させられていくことになるが、琉球はもっと悲惨で米国との戦争に巻き込まれ、酷い目に遭わされ、戦後は、米兵からの性的暴行などで米兵の子どもが生まれ、かつ、同化させられてしまう。

 米国やオーストラリアなどではインデイアンやアポリジニと呼ばれる原住民が二枚舌の白人に騙され、居留地に追いやられた。

 アイヌ民族が自分たちの出自、祖先のことを考え、衣装や舞踊などの文化を伝承してもらいたい。
 その大きな力になったのが中村睦男さんで、その人としての生き方は大いに勇気づけられる。
 中村さんが尽力されたウポポイには一度は行ってみたい。

2020年06月26日

「協力する人の数だけ竹灯籠に優しさがともるんや」

 亡くなられた方々への追悼抄が読売の夕刊に掲載されている。その6月23日、ボランティア団体神戸・市民交流会元事務局長で4月に亡くなった山川泰宏さんの功績が紹介されている。

 阪神大震災の犠牲者への祈りに包まれる毎年1月17日、神戸の街に竹灯籠の灯が「1・17」の文字を浮かび上がらせる。
 追悼の竹灯籠をつくる活動を支え、東日本大震災の被災地も優しい光で照らし続けた。

 北海道函館市出身の山川さん、土木会社に就職して関西に移り住み、震災当時は兵庫県西宮市の自宅で被災。家族は無事だったが、知人らの安否を確かめるため歩き回り、母親を失った少女がむせび泣く姿を目撃、生涯忘れられなくなる。

 退職後の1998年、神戸・三宮の東遊園地での追悼行事「1・17のつどい」を担う「神戸市民交流会」に参加。数千個の竹灯籠を作り、並べた。

 「協力する人の数だけ竹灯籠に優しさがともるんや」と「先頭に立って汗を流す頼りがいがある人で、皆がついていった」とは活動を共にした杉山千種さん(43)。

 会は高齢化が進み、それでも震災20年までは」と続け、16年の行事を最後に会を解散した。

 活動はNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り(HANDS)が引き継いだ。


 軽四トラックのガソリンを入れたり、寒い時期に灯油を買い求めに行くGSの隣にコメダ珈琲店があって、朝からかなりの車が駐車している。
 やってくる人の顔ぶれを眺めていると高齢者、つまり、自分たちの世代ということになろうか。
 一方で、近くの川沿いの散歩道では、朝から年配者が歩く姿をよくみかける。

 つまり、中高年層はやることがなくて困っているのではないか。

 そんな人たちに定年後の生き方を教えてくれたのが山川泰宏さんではないか。
 竹灯籠、何て素晴らしい言葉の響きであろうか。

 灯という言葉が伝えてくれる温かさ。竹灯籠で被災地を照らし続けてくれた山川さんのご冥福を祈る。

 灯りといえば、作詞杉紀彦、作曲四方章人、歌っていたのは北原ミレイで「灯り」という唄がラジオから流れてきたことがある。
 「故郷に母一人残し、都会でがんばってきた女性が、ふと故郷の母を思うのだ。
 田舎に帰れば、灯りになれるが、田舎に帰れない私にも灯りが欲しい」と切々と歌うのだ。
 何故か、女性の母を思う気持ちに目頭が熱くなってしまったことがあった。

 阪神大震災で母親を亡くした少女のことが生涯忘れられないという山川さん。
 少女の行く末がどうなったか気になるが、定年後の生き方を教えてくれた山川さんの竹灯籠ではないが、困っている人を助ける、あるいは寄り添うことはまさに灯りとなるにちがいない。 

2020年06月11日

命救う 新型コロナウイルス感染症現場で

 「命救う 揺るがぬ志」という見出しで6月8日の読売が夕刊「ズームアップ」で中国湖北省武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大で自らの命の危険を顧みず、世のため、他人のためにがんばる医療従事者にスポットを当てている。

 自治医科大学付属さいたま医療センターの救急科専門医柏浦正広さん(39)もその一人だ。

 これまでに約30人の新型コロナウイルスの感染者を受け入れた同医療センター。
 「どんな患者さんが来るかわからないのが救急外来。不安とストレスはある」と柏浦医師。

 中学生の頃、一緒に暮らす祖父をがんで亡くしたのが医師を志したきっかけ。「患者さんが最もつらく苦しいときに役立ちたい」という思いから、救急医療に携わる道に進んだ柏浦医師。
 
 ズームアップだから写真で仕事ぶりが紹介されているが、つかの間の休息で愛妻弁当を食す様子。
 夕方に行われる当直医への申し送りで、疲れが滲む様子。
 頑張れる源、家族団らんの夕食を楽しみに、妻と小学生の二人の息子の待つ家庭へ帰宅する姿などが写真で紹介されている。


 世の中で、誰が偉いといえば、すぐに出てくる答えは医師と看護師であろう。

 黄熱病で斃れた野口英世博士から、最近ではアフガンでテロリストに殺害された中村哲医師まで
 世のため、他人のために日夜頑張る医師。
 特に、救急医療の現場で働く柏浦医師と同じような立場の医師ははたいへんだ。

 語り継ぐ戦争だから、満州(現中国東北部)や朝鮮半島でソ連兵や匪賊、朝鮮人に性的暴行され、梅毒をうつされ、妊娠してしまった女性たちが博多や佐世保の港に引き揚げてきたとき、二日市や福岡、佐賀などの国立診療所で梅毒治療と中絶手術を担ったのは産婦人科医師だった。

 やりたくない仕事であっただろう。しかし、被害者女性の行く末を考え、決断してくれたのであろうが、寝覚めはよくなかったであろうに。

 新型コロナウイルスの感染拡大で世界では何人もの医師が尊い命を犠牲にして、多くの患者を助けてくれた。

 東京江戸川区でインド人が新型コロナウイルスに感染し、命の危険があったが、区内にある病院の医療スタッフの手当の甲斐があって助かった。
 喜んだ仲間がお礼にインド料理を弁当にしてスタッフに届けてくれたというニュースを読売が紹介していた。
 偶々、親族がこの病院で働いているが、新型コロナウイルス感染症のスタッフではなく、応援部隊だと聞いているから、弁当は食していないかもしれない。けれど、助けられた人は心から感謝しているにちがいない。

 腸閉塞で救急車のお世話になって病院に運ばれたとき、小腸造影検査で鼻から管を入れられたとき、あまりの苦しさに悲鳴を上げてしまったが、担当医は励ましてくれ、嫌な顔せず、対応してくれた。
 ただ、ただ、感謝あるのみである。

 新型コロナウイルス感染症にならないように細心の注意を払っているが、もし、感染してしまったら、申し訳ないが、医療スタッフのお世話にならざるをえない。

 柏浦正広医師を筆頭に現場で命がけで頑張ってくれている医療スタッフの皆さんに改めて、感謝と先生方の健康を祈っている。

 医師というのは本当にありがたい存在だ。

2020年05月28日

ひとり親世帯へ 弁当無料宅配

 中国湖北省武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大の影響で経済的に苦境に立たされているひとり親世帯を助けようと港区で飲食店を経営する笹裕輝さん(31)が無料で夕食の弁当を届けている。と5月19日の読売が地域の紙面で伝えている。

 笹さんの店も臨時休業で苦しい立場だが、同じような境遇で育った経験から、「今、本当に困っているのは、周りに支えとなる人がいないひとり親世帯」だと語り、がんばる姿にエールをおくりたい。

 現在、91世帯235人に週6日、弁当を届けている。

 兵庫県出身の笹さんは母と祖母と姉の4人家族で育った。母は美容院とスナックの仕事を掛け持ちしながら家計を支えてくれたが、経済的には楽ではなかった。
 自身も高校中退後16歳で働き始め、上京してバーで7年間勤めた後、29歳で独立。
 六本木近くにダイニングバー「Noza Caza」をオープンさせ、2年が経ったところだった。

 「自分が子どものときに母親がこんな事態に直面したらどうなっただろう」とひとり親世帯のことが頭を過った。

 支援者を募り、4月19日から店のスタッフとともに弁当の無料配布を始めた。
 主に自転車で周れる範囲の港、品川、目黒、渋谷、新宿、千代田、中央区で届けている。

 クラウドファンディングでさらに支援者を募っており、対象地域の拡大を目指している。
 5月から杉並区も対象範囲としているという。


 いつも書いていることだが、笹さんが自らの育った境遇から、ひとり親家庭の大変さを想像し、支援を始めたというのは立派である。

 かつて、職場の同僚に母子家庭で育った後輩がいて、彼はそんな家庭環境だったからか、母子家庭に優しかった記憶がある。

 母子家庭で育ったからといって、誰しもが笹さんの真似ができるわけもないが、要は困っている人のことを想像し、手助けを実践することが素晴らしいことなのだ。

 世の中、ひとりでも多くの人が他者の暮らしなり、立場なりに想像力を働かせることで暮らしやすい世の中になっていくはずだからである。

 お天道さまは観ているから、笹さんの店がこれからきっと繁栄していくだろう。
 六本木など滅多に行くことがないが、もし行ったら、ここに立ち寄ってみたい。

2020年03月27日

「ガード下の靴みがき」

 「ねむの木学園」園長、歌手、女優の宮城まり子さんが21日、死去したとメデイアが伝えている。93歳だった。

 3月24日の東京新聞によれば、戦後、劇場などで本格的に歌い始め、55年、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」がヒットした。市川崑監督の映画「黒い十人の女」などに出演し、60年代後半からは舞台で活躍した。

 68年に私財を投じて静岡県浜岡町(現御前崎市)に肢体の不自由な子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立(後に同県掛川市に移転)し、園長に就任。自ら監督を務め、学園の様子を記録した映画「ねむの木の詩」(74年)は多くの共感を集めた。

 作家の故・吉行淳之介さんは私生活で長年のパートナーだった。
 
<評伝> 宮城まり子さんがよく書く言葉がある。
 やさしくね やさしくね やさしいことは つよいのよ 「やさしくね」は薄い墨で、「やさしいことはつよいのよ」は濃い墨で。自身の人生をよく表している。

 3月23日の読売が夕刊「ズームアップ」の紙面で「『我が子』育てた半世紀」という見出しで写真でその活動を紹介していた。

 
 語り継ぐ戦争だから、戦後、焦土と化した東京のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児、あるいは「星の流れに」で歌われた米兵相手に春を鬻いだパンパンと呼ばれた女性たちのことは忘れることができない。
 自分は父親が戦地から無事に帰って来てくれたおかげで、磨いたのは父親の革靴だった。

 障がい児教育に心血を注いて半世紀、その間、作家吉行淳之介がパートナーだったとは耳にしていたが、これも驚く。

 というのは、若い頃、吉行淳之介が書いた赤線で働く女性との交友を描いた『驟雨』と『原色の街』を読み、作家自身が太宰治ではないが妻以外に愛人がいたりと女性関係が派手だったからだ。

 そういう色男と障がい児教育に懸命に取り組む女性との取り合わせを不思議に思っていたが、古希を迎えた今ではよく理解できるようになった。

 たぶん、モテ男の常で、女性にやさしいのであろう。
 宮城まり子さんは、障がい児たちに優しかった分、身近にいる男性に優しくされたかったのだろうと勝手な解釈をしている。
 そうでないとバランスがとれない。

 誰かのために生きる、永年に渡る障害児教育への取り組みは立派で、相模原の施設で多数の障がい者を殺害し、先般の横浜地裁での裁判で死刑判決を受けた男は、彼女の許で教育されていれば、こんなことにはならなかったのではないかなどと同じ人間でありながら、どうして、人間というものはこうも違うものなのか考えさせられた。
 自民党の議員には生産性という視点で人間を視ている女性がいたがえらいちがいである。

 米軍の徹底的な空爆で、わずか2時間で10万人が殺された東京大空襲で焦土と化した首都のガード下での靴磨きから、よくぞ、ここまで立ち直ったと思った日本であるが。ここにきて、中国は湖北省武漢市発の新型コロナウイルスの上陸阻止水際作戦に安倍内閣が失敗し、首都東京の封鎖が現実のものとなっている。

 宮城まり子さんに代表される福祉の世界で頑張っている人たちに日が当たる社会であるためには一人ひとりが優しさというものがどういうことなのかもう一度よく考えてみたい。

2020年03月09日

昭和の偉人 長崎自動車 鬼塚道男車掌

「世の中は思った以上におもしろい!」「読者の視野を広げること!!」がコンセプトだという「知の冒険」というサイトがある。
 管理人はまだ30代の若い人だが、NHKTVの「ごごナマ」から出演のオファがあったらしい。
 しかし、国会中継があれば延期されるとのことだったから、出演できたかどうか不明なれど、時間の余裕がある向きは、一度は訪問してみるといいかも。

 遊女、女郎、パンパン、娼婦と呼び名も時代と共に変わる人身売買で春を鬻ぐことを余儀なくされた女性たちがいて、数は少ないが、彼女たちの慰霊碑、供養塔などを周ってお参りしてきた。

 「知の冒険」の管理人は、彼女たちが搾取されながらも生きてきた苦界の建物が今、旅館となっているところを訪ね、その街の廓の歴史などを伝えていて、興味深いので眺めていたら、タイトルの偉人の話を見つけた。

 前置きが長くなってしまったが、今回は身を挺して、バスの運転士と乗客を救ったバスの車掌の話である。
 この偉人を顕彰し、建てられたのが打坂地蔵尊で、「知の冒険」の管理人はここを訪れ紹介していのたのである。

 打坂地蔵尊は、長崎県西彼杵郡時津町(事故当時は時津村)にある地蔵菩薩。1947(昭和22)年9月1日、バスの乗客・運転士の命を救い、殉職した長崎 自動車(長崎バス)瀬戸営業所の鬼塚道男車掌を称え、1974年(昭和49年)10月に長崎自動車によって建立された。

 毎年、9月1日に慰霊祭が長崎バスを経営する長崎自動車が主催し行われている。

 殉職と一言では片づけられない話なのは、当時、戦後の混乱期で、バスの燃料はガソリンでもディーゼルエンジンでもなく木炭車で、坂道ばっかりの長崎では、坂道を上るのが容易なことではなかった。

 事故当日、結果から見れば、急こう配の上り坂で止まってしまったバスはブレーキが故障し、坂道を下がり始め、そのままでは、片側10メートルの崖下に転落してしまうところだった。

 運転士の指示で、何とかタイヤに車止めの石などを置くことを求められたが、どうしてもバスを停止させられなかった車掌の鬼塚道男さん(当時21)は自らの身体を輪留めにし、運転士と乗客を救ったというのだ。

 
 管理人はTV番組『奇跡体験!アンビリバボー』でこの話を知った由であるが、鬼塚道男車掌の偉業を称え、現地を訪ね、地蔵尊にお参りし、長崎自動車を取材している行動力に敬服した。

 自らの身体を車止めにした話は三浦綾子『塩狩峠』(新潮文庫)で知っている。

  1909(明治42)年に北海道での鉄道事故で、上り勾配で、連結器が外れて車両が下がり始めたのを止めようとした鉄道員長野政雄さんが犠牲となり、車輪が停止したが、当事者は事故で亡くなっているので、自らの意思で電車から降りたか、操作中過って転落したのかは不明であるらしい。(Wikipedia)
 
 しかし、三浦作品が鉄道員を主人公のモデルにしたことで、長野政雄さんの評価が上がった。
 仮に事故であったとしても、車輪を止め、乗客を救ったのだから、これで作品の主人公と共にその評価が色あせることなどいささかもあるわけがない。

 一方、鬼塚道男車掌の話は目撃者がいる話だから、これは、学校教育で偉人の話として語り継いでいく価値のあることではないか。

 別に自己犠牲を美談にするつもりなど毛頭ないが、戦争で戦没、死没された多くの犠牲者のお陰で、今日の平和な社会があると考えている自分は、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を続けてきたわけで、長崎のバス車掌も自らの生命で、乗客を助けたというのは、戦争で犠牲となった人と較べても、偉業として称えるだけの価値がある行いである。

 新型コロナウイルスによる新型肺炎に感染していながら、愛知の蒲郡の男が感染させてやると飲食店をはしごしたと伝えられている。

 自らの生活の不満のはけ口として、感染症のウイルスを他人にばらまくという最低男と較べて、鬼塚道男さんは立派であり、その業績を語り継いでいかなければならない。

2020年02月26日

痴漢追跡 階段で落とされ一時重体 28歳男性

 本日は1936(昭和11)年のこの日、2.26事件があった日。
 語り継ぐ戦争だからとり上げなければいけないが、人助けの話をとりあげる。

 17日日午前7時ごろ、都営地下鉄新宿線神保町駅で、電車内で痴漢をしたとされる男を追い掛けていた20代男性が、男ともみ合いになって階段から転落し、頭を強く打ち意識不明の状態で病院に搬送された。とメデイアが伝えている。

 2月17日の東京新聞によれば、警視庁神田署は傷害の疑いで、会社員の男(52)を容疑者として現行犯逮捕した。

 神田署によると、容疑者は階段を下る途中で男性に体をつかまれ、一緒に高さ約2メートルの位置から転げ落ちた。その後もさらに逃走したが、別の男性らに取り押さえられた。
 容疑者は元警視庁の警部補。07年、電車内で女性の体を触ったとして逮捕され、辞職した。

 この事件は2月22日の読売が夕刊で「痴漢追跡 勇気に称賛」という見出しで、階段で落とされ一時重体となった男性(28)の妻がツイッターでつぶやき、たちまちインターネット上に拡散し、勇気を称え、回復を心から祈るっている。というメッセージが寄せられたと伝えている。


 容疑者の男は元警察官だというから50代だとはいいながら体力はあるだろうし、捕まえるのは大変だったであろう。
 28歳の男性の勇気ある行動は当然、称賛されるべきことで、快復したら、警視庁は警視総監が表彰すべきである。

 ただし、家族、連れ合いにしてみれば、万が一のことがあるので、できれば自重をしてほしかったと思うのもまた当然のことであろう。

 痴漢で捕まり、警察官それも警部補という地位を失っても、痴漢がやめられないのは、この容疑者が病気だからで、更生は難しいのではないか。

 仮に家庭があったとするなら、家族でしっかり向き合わないと再犯してしまいそうな気がする。

 世のため、他人のためになることをするのは素晴らしいことだが、いざ、自分が当事者になれば、言うは易く行うは難しで、誰でも、わが身の安全を考えてしまうものだから、実践した28歳の男性には大いにエールをおくりたい。

 もっと称えられて然るべき出来事だ。

2020年01月29日

『蟻の町のマリア』

 Youtubeをよく視聴しているが、どういう仕組みになっているのか、何と1958(昭和33)年公開の『蟻の町のマリア』がアップされていたので、どうしても観たかった映画だから有り難く視聴させてもらった。
 どなたが観られるようにしてくれたのかわからないが感謝申し上げる。

 五所平之助監督作品で、墨田川河畔に実在したバタヤ集落(今の言葉でいうなら廃品回収業あるいは資源回収業)の人たちが集団で暮らす地域に、キリスト教信者の女性北原怜子(さとこ)さんが身を投じ、28歳の若さで結核で亡くなるまでの半生を描いている。
 
 北原さんは蟻の町と呼ばれたバタヤ集落で、その洗礼名エリザベト・マリアから蟻の町のマリアと称されていた実在の社会奉仕家だったが、集落の幹部だった作家松居桃楼によって、紹介され広く世に知られるようになった女性である。

 
 世界にはマザーテレサに代表されるような世のため、他人のために尽力する立派な人がいる。
 
 アフガンで医師でありながら、病気の根本原因は貧困にあると、灌漑用水を敷設し、農産物を育てられるようにした中村哲医師がテロリストに殺害され、1月25日にお別れ会が開催された。
 
 お別れ会のニュースが流れたので、その功績を称え、取り上げたとき、中村哲医師がキリスト教の洗礼を受けていたとのことで、同じキリスト教の信者には世のため、他人のために尽力した人が多数いたということで、思いつくままにその一人として北原怜子さんの名前を書いた。

 バタヤ集落と行っても、廃品回収業の許可をお上から得て、生業としているわけで、非難される人たちではないが、都有地を不法に占拠していたという見方をされる場合もある。
 しかし、移転してほしいという東京都と話し合い8号埋め立て地に移転することが協議され決まったという。

 北原さんは大学教授の娘ということで何不自由なく育ったが、蟻の町のことを知り、キリスト教の教えを実践すべく身を投じ、子どもたちの面倒をみていた結果、結核を患い、28歳という若さで惜しまれながら亡くなった。

 マザーテレサではないが、その献身的な生き方は称賛に値するもので、次世代にも語り継いでいく必要がある。

 米国で、日本で一握りの超富裕層が貧しい人たちを尻目に自分たちだけ豊かな生活をし、応分の税金を納めようとはしない。

 人の価値は死んでからわかるものだが、中村哲医師にしても、北原怜子さんにしても、貧しさと闘い、誰かのために尽力し、志半ばで倒れた。

 もっと称賛されてしかるべきではないか。

2020年01月14日

少年院出身 戦慄かなのさんにエール

「アゲイン2020」というタイトルで読売が新年から社会面に連載を始めた。
 1月11日のその6で、「少年院出身アイドル」「人生全部応援してくれるから」という見出しでアイドル戦慄かなのさん(21)の活動を紹介していた。

 犯罪被害者支援の究極は再犯防止にあると気づき、犯罪被害者支援を訴えるとき、決まって、過ちから立ち直って頑張る人にエールをおくってきた。

 恥ずかしながら、戦慄かなのさんのことは全く知らなかった。戦慄と名付けた芸名には訳アリだろうと推測したが、予想どおり若いけれど壮絶な人生を歩んでいることを知ったのである。

 母親からの所謂ネグレクト、育児放棄、学校でのいじめ、中学生のとき校舎から飛び降り、自殺未遂、高校は入学するもすぐに退学、お定まりの非行、16歳で少年院入所、教官に反抗する日々。
 塀の中で、「外に出たときに何も残っていないのが一番悲しい」と思い、本を読み漁り、大学受験資格を得られる高校卒業程度認定試験に合格。

 自分と正面から向き合ってくれる教官との出会いもあった。
 いろいろな本を貸してくれた教官と衝突し、コップを壁に投げつけたとき、女性の教官が怒って椅子を振り上げたことがあり、相手の真剣さに心を揺さぶられ、「この人をがっかりさせたくない」と思える大人ができたそうな。

 退院後、少年院の教官を目指し、大学の法学部に入学するも、挫折の連続から脱却したいと受けたアイドルオーデションの選考で少年院出身と告白、道が開けた。

 月に一度、子ども食堂などに収益を寄付するトークイベントに出演するほか、2019年1月設立の子ども支援NPO法人「bae」代表理事でもある。
 自分のときにはなかった、辛かった時の逃げ込む場として、シェルターの開設を検討しているという。
 「地に足をつけて」が信念だという戦慄かなのさんに大いにエールをおくりたい。


 戦慄という名前で思い出すのは,TVの時代劇で一世を風靡したした藤田まこと演じる必殺仕事人中村主水が婿入りした中村家の姑「せん」と家付き娘「りつ」で、恐妻家主水にとっては、まさに戦慄だと耳にしたことがある。

 西岸良平描く『三丁目の夕日』でも、一度は過ちを犯した人に再犯させないようにという物語があって、心が温かくなったことが何回となくあった。

 自分も古希を過ぎ、穴を掘ってでも入らなければならない、あるいは、あの世までもっていかなければならないことの一つや二つはある。

 自分の場合は運がよかったことと、その後の反省というか慰霊のための行脚などの行いが救いとなって、今日に至るのだろう。

 そう、若気の至りという言葉もある。

 さらに、いつも書いているが、暴力団同士の特定抗争団体に指定された山口組の元顧問弁護士だった山之幸夫さんが語っていた「やくざになった人で多いのは、部落や在日、貧困といった育った環境もさりながら、一番大きいのは親の愛情を受けられなかった人たち」だとのことで、戦慄かなのさんはまさに典型的なその世界に住みつく可能性が高かった人だ。

 しかし、少年法の更生させるという主旨がきちんと生かされ、優れた教官との出会いが立ち直りのきっかけとなり、見事アイドルとして活躍する傍ら、社会貢献をしているということを知り、激しく心を揺さぶられた。

 人間だから、若いうちなら余計に、誰にでも過ちはつきもので、大事なことは、そこからいかに立ち直るかである。

 非行少年から立ち直った人として、俳優の宇梶剛士さんがいる。彼のことは別の機会に書くが、やはり、少年院への入院という過去があり、今は俳優として活躍している。

 二人に共通しているのは、少年院に入っていたにしても、殺人やレイプなど凶悪事件を起こしているわけではないということで、少年法は彼らの味方だから、立ち直りに役立ったということ。

 同じ少年の犯罪でも、足立の女子高校生コンクリート詰め殺人事件の凶悪犯とは一線を画す。
 凶悪犯には厳罰しかない。

 戦慄かなのさんや宇梶剛士さんががんばることで、後に続く人が出てくるわけで、嬉しいことではないか。

2020年01月09日

歌舞伎町でがんばる24歳の女性巡査

 取り上げるのが遅くなってしまったが、読売が年末に掲載している「木枯らし2019」その6、12月21日の夕刊で歌舞伎町で働く24歳の女性警察官飯田彩水巡査の仕事を紹介していた。

 歌舞伎町とは東京新宿にある日本一の歓楽街のことだから、2018年1年間に受理した110番は1万5556件と国内の交番で最も多い。
 
 飯田巡査が生まれ育った神奈川県小田原市は静かな城下町である。
 交番で働く警察官を見て、親族に警察官がいたこともあって、憧れ、大学を卒業後警視庁へ。
 2018年10月に配属されたのが歌舞伎町交番だった。

 「こんなところでやって行けるかしら…」という不安は見事に的中。
 通報が鳴りやまず、一睡もできない。酔っ払いの介抱等々。
 警察官をやめようと思ったことは1度や2度ではない。

 しかし、踏ん張って来れたのは、若い女性の自殺を3度も食い止めたからだそうな。

 これからもつらい思いをしている人の役に立ちたい。そして、いつか刑事になるという夢を抱き、今日も、ネオン街を駆ける。


 読売が主催する第28回全国小学生作文コンクール「わたしたちのまちのおまわりさん」で低学年の部で、内閣総理大臣賞を受賞した高橋瑛心君は「おほしさまになったおまわりさん」と題し、母親が高校生のときに一緒に剣道をしていた友が警察官になり、東日本大震災のとき、パトロール中に津波に流され今もみつかっていない。
 「やさしくて、つよいこころをもったおまわりさんのこと、ぼくはぜったいわすれません」と書いている。そして、「ぼくもたくさんの人のやくにたてるおとなになれるように、べんきょうとけんどうをがんばるのでみまもっていてください」と結ぶ。

 警察官のことは小学生だってしっかりみているのだ。

 飯田巡査が女性だから、女性の警察官ならではの働きというものがある反面、女性ゆえに危険にさらされることもあるだろう。

 歌舞伎町といえば、最近は行かないが、昼間はともかく、夜は危ないということは誰でも知っているところで、ここで酔っ払いや様々な事情を抱え水商売で働く女性たちの相手をするのはたいへんだ。

 暴力団や半グレはそれなりの担当がいるだろうが、ネオン街といっても、歌舞伎町という名前だけで怖れられるほどの街だから、働く警察官はたいへんだ。

 しかし、自殺しようとした女性3人を助けたのはいかに仕事とはいえ立派である。

 子どもたちが自分も人を守れる大人になりたい。誰かの役に立つおとなになりたい。と警察官を見て思える職業だから、プライドというか矜持をもってがんばってもらいたい。

 飯田巡査だけでなく、頑張っている多くの警察官にエールをおくる。