2022年02月18日

生か死か、救命救急 最前線で36年 

 「編集委員鵜飼哲夫のああ言えばこう聞く」という読売夕刊の連載が面白い。
 1月25日登場したのは、東京都立墨東病院の救命救急センターで丸36年、最前線に立ってきた部長の浜辺祐一さん(64)だった。

 記者は四半世紀前に取材していて、面識があったが互いに年齢を重ね還暦過ぎの取材となったということで、救命救急センターでの人間模様も様変わりしているとのこと。

 働き盛りの人の救命が中心であったのが、患者の高齢化で平均年齢は70代。交通事故は減る一方で、高齢者が運転する車での酷い事故が増えている。

 子どもは児童虐待が目立つようになった。

 患者の家族の生命維持に対する意識も変わり、手術しても植物状態になることが予測される場合、延命を望まなくなった。

 生命の価値ということで、難しい判断を迫られるが「わが子が事故で死にそうな時、自殺を図った人の救助を優先したら親は怒る。それが人の気持ち」というものでしょう。

 センターは生と死が隣り合わせ。医師から見れば、死生観を問われる場所だから、若い医師は一度は経験してほしい。


 腸閉塞(イレウスと呼ぶらしい)で2度入院したことがある。
 一度は救急車のお世話になった。
 病院の救急の窓口に運ばれ、苦しさに呻いているとき、吐しゃ物が口から出てくるのをものともせず、当番医は鼻から管を挿入してくれた。苦しかった。 
 医師は偉い。そんな状態でも、無論、文句も言わず。「もう少しですよ」と励ましながら。

 有り難い。今でも、心から感謝している。
 だから、大阪でクリニックに火をつけて医師を殺したあの男が憎い。
 ふじみ野市で医師を射殺したあの男もだ。
 浜辺祐一先生は、その救命救急センターに36年勤務なさったというのだから、頭が下がる。
 これほど世のため、他人のために頑張ってくれている人は滅多にいない。

 人間は実に弱いものである。
 その弱さはどこから来ているのかといえば、生きて来た人生そのものからきているのだろう。

 人生のどん底を見て、そこから這い上がってきた人は強いが、生憎、そんな経験がなく、古希までたどりついてしまったから、忍び寄る老いに対し、心身の衰えを自覚するとき、無性に怖くなる。
 死ぬのが怖いというわけではなく、死の前の苦しみに耐えられる心が衰えてしまっているということ。

 インフルに罹患した時、かなり苦しめられたから、コロナは侮れない。
 というわけで、立春の日に3回目のワクチン接種をした。

 とにかく、医療関係者とりわけ、救命救急センターで働くスタッフを筆頭にコロナ禍で頑張るスタッフに感謝をしたい。 

2022年02月17日

帝国ホテルから子ども食堂へ

 日曜日の朝刊、「顔 Sunday」として、時の人を読売が紹介している。その2月13日に「『食べる大切さ』を伝えたい」という見出しで「帝国ホテルから子ども食堂へ」田中健一郎さん(71)が顔写真入りで紹介されている。

 日本のフランス料理の最高峰と見なされる帝国ホテルで長年「総料理長」を務めてきた。130年を超える歴史で2人しかいない重責を担ったが、2021年9月に退職。再就職の引く手あまたの中、第二の人生は子ども食堂のためのボランティアを選んだ。というから特筆される。

 さらに、子ども食堂が貧困支援だけで捉えられることに懸念を抱く。
 「年代を問わず一緒に楽しむ場があれば、と願っていた。美味しい料理が明るいイメージ作りに役立てば」ということで、NPO法人「全国こども食堂支援センターむすびえ」と消費者庁などの取り組みに協力し備蓄食料を使って、子ども食堂向けに考案したメニューが紙面で紹介されている。
 東日本大震災の被災地支援に携わり、「備蓄食料をもっとおいしく調理出来たら」とも感じていた。

 レシピの動画をむすびえが協賛企業の東京ガスのサイトで公開している。
 夢は自身で運営に関わることで、「食べることの大切さを伝えたい」と意気込む。


 帝国ホテルの総料理長が関わった食事のお相伴ができるなんて夢みたいな話ではないか。
 帝国ホテルなんて泊まったことがないし、縁がなかったなと思っていたら、そう、一度だけ結婚式に招かれたことがあった事を思い出した。
 さほど親しいわけではない従兄の結婚式に親の代わりに出席したのだが、偶々、親しい従兄夫婦とロビーで会ったので、ラウンジでお茶をご馳走になったことを思い出した。
 でも、この時の従兄の連れ合いもすでに病死してしまった。とてもチャーミングな女性だったが。

 というわけで、古い話だが、一度は帝国ホテルで食事をしたことがあった事を思い出した。

 人間の生き方の問題になるが、カネではない生き方をしている人を尊敬してきた。これからも多分変わらないだろう。

 帝国ホテルの総料理長という肩書だけで再就職なんて引っ張りだこだったであろうが、選んだ第二の人生が子ども食堂の料理というのだからエールをおくらないわけにはいかない。

 一般的に自分もそうだが、貧困だから、食べられればいいだろう。と考えがちだが、どうせ食べさせるなら、一生忘れられない味というか、美味い料理を食べさせたいというところに非凡な料理人の心がけというかプロの矜持というものを痛感させられた。
 災害時の備蓄食料だって、当然、食べられれば由としなけれならないものだが、どうせ食べるなら旨い方がいいに決まっている。

 子ども食堂側から見れば、なんとも心強い援軍がやってきたものだと大いに喜んでいるにちがいない。

 自分と同世代の人が、社会の片隅でこれから頑張るというのだから、ぜひとも、ひとりでも多くの人が応援してほしい。

2022年01月22日

「あなたなりの生き方でいいんですよ」西沢弘太郎院長

 25人が犠牲となった大阪北新地の放火殺人事件は、17日で発生から1か月となるということで、現場の心療内科「西梅田心とからだのクリニック」院長の西沢弘太郎さんが「医療だけでは救えない人もいる」と発達障害を抱える人たちの就労を支える施設「梅田職業就労センターアルファ」も運営してきた。
 
 多くの利用者が今も喪失感に駆られている。と1月17日の読売が伝えている。
 アルファは事件の影響で1月14日閉鎖された。
 
 犠牲となったクリニックのスタッフ杉田明日香さん(当時26)カウンセリング担当、渡辺咲季さん(同27歳)、公認心理士赤根美結さん(同28歳)、西村美夕璃さん(同21歳)たちのことも紙面で取り上げられている。

 クリニックが入るビルには、朝から犠牲者の知人らが献花に訪れ、祈りを捧げた。と1月18日にも読売が伝えている。

 亡くなったクリニック院長の西沢弘太郎さん(49)は2003年、研修医時代の指導教授が企画したエッセー集に寄稿し、困窮する患者に寄り添う「赤ひげ先生」への憧れを綴っていた。
「本当に困っているところを治す。あるいは緩和することに全身全力を注ぐという事が必要だと思う」「現実は難しいが、その中でやっていこうと思う」と書いているそうな。

 西沢先生は15年に現場のクリニックを開業。働く人も通院できるよう、深夜まで診療していた。


 西沢弘太郎先生はアフガンで殺害されてしまった中村哲医師と同様に高邁な理想を掲げ、本業だけでなく、就労支援センターを運営していた。
 中村哲先生は医療支援も大事だが食事、栄養のあるもので未病というか医療を補うために食料の生産性を上げるため、灌漑用水事業を推進していた。

 西沢院長始め、スタッフ、患者を殺害した加害者の61歳の男の身勝手さ、極悪さは池田小の児童を狙ったあの男、すでに死刑で処刑されたあの男とよく似ている。
 二つの事件共に大阪での事件という事になるが、単なる偶然なのか。

 鍵のかかる病棟、部屋を訪れたことがあるが、精神が壊れてしまった人間を見るのはつらいし、怖くてならない。

 人の命の重さにかわりがないとはいうものの、中村哲先生や西沢弘太郎先生ではなく、加害者の命こそ断たれるべきだった。と書くと、批判されるから、そういう意見もあるということにしておく。

 生きていてほしかった人が殺されてしまい、死んでもらった方が世のためになる人がなかなか死なない。

 これが世の中というものか。

2021年11月19日

子どもたちが抱える苦しみに向き合う宇地原栄斗さん

 「コロナに挑む」というタイトルで11月9日の読売が紹介しているのがNPO「ラーニング・フォー・オール」エリアマネージャーの宇地原栄斗さん(25)だ。
 「子どもの貧困 支援一丸」という見出しで、コロナ禍で生活困窮だけでなく、不登校や虐待など様々な要因が絡み合う「子どもの貧困」問題に行政や学校など地域の関係機関と連携し、支援を展開してきた[Learning for All」(LFA)の子ども支援事業部のエリアマネージャーとして活動中である。

 宇地原という珍しい名前は沖縄県出身で、東京大学への進学を機に上京。同大学2年生のときからLFAに学習支援ボランティアとして関り、同大教育学部を卒業して職員となり、子ども支援事業部のエリアマネージャーとして葛飾区の拠点を担当。学校や行政などと連携し、支援が必要な子どもを拠点につないでいる。と紹介されていた。

 LFAは子どもの貧困の解決を目指し、2014年に設立。葛飾、板橋、埼玉県戸田市、茨城県つくば市で小学生から高校生までを対象に29か所の拠点を運営している。

 家庭の負担軽減のため、2020年から月1回のフードパントリー(無料の食糧配布)を始めた。毎回50人ほどが利用し、悩み事や困りごとのお相談も聞く場となっている。

 「困難を抱える子どもたちへの支援は量的にも質的にも足りていない。子どもたちが抱える苦しみに向き合い、子どものニーズが反映される社会を目指していく。」と熱く語る。


 紙面の顔写真で、さわやかな好青年という印象を抱く。気持ちが伝わってきたのでエールを送るために書いた。

 宇地原という名字、写真からの印象ですぐに出自が沖縄ではないかとピンときた。
 
 沖縄といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れ、お参りを重ねてきた。
 米軍との地上戦に巻き込まれ言葉にならないほど凄惨な戦場にされた土地である。

 宇地原さんは25歳とはいいながら、本土で育った若者と異なり、沖縄県で生まれ育ったとするなら、その沖縄県での平和教育を受けていることから、先の大戦についてのご先祖への思いなどについて語り合ってみたいとも思う。
 優秀さは学んだ大学で理解できるが、同じ優秀な青年でも、困っている人に手を差し伸べることができるという点が非凡なところだ。
 
 子どもの貧困は政治が何とかしなければならないことではあるが、現実は、自公の政治が子どもの貧困を産む社会、経済のあり方を改めようとはしてこなかった。

 岸田政権になってから、市場原理に基づく新自由主義経済に決別すると耳にするから、これからは、少しずつ良くなっていくだろうが、現実的には、NPOの皆さんの支援が必要なことに変わりはないだろう。

 心ある人、心あるリーダーの存在が心強い。

2021年10月17日

ホームから転落 救出した6人の若者たちに喝采

 「ホーム転落、私を助けてくれた6人へ 駅に「お礼とお尋ね」張り出し」」という見出しで、10月17日の朝日のDIGITALが伝えてくれたニュース。
 いい話なので、ひとりでも多くの人に伝えたい。

 9月27日、午後9時頃、JR折尾駅(福岡県北九州市八幡西区)で、50代の男性がホームから転落し、線路上に倒れ込んだ。若い男性6人が、安全な場所に移動させるなどの救助に関わった。救助された男性はお礼を言いたいと考えた。でも連絡先がわからない。折尾駅では感謝を伝える張り出しをし、連絡してと呼びかけた。


 6人の若者たちは一緒にいたわけではなく、転落事故を知るやそれぞれが三々五々駆け付けたのである。
 見事だったのは、まず、誰かが駅に設置されているいる非常ボタンを押すことに気づいたことで、これで少しは時間が稼げるからだ。
 さらに、駅員に知らせるべく、事務所目指して駆けた。
 3人がホームから飛び降りて、男性をホーム下にある空洞に運ぶ。

 ちょうどその時、列車が入ってきたが、何と隣のホームに到着したということで、男性は無事救出されたというわけ。
 6人の一人の名前は駅員が把握していたことで、4人までは名前がわかったが、2人だけまだ不明とのこと。
 
 結果オーライで、転落した男性が無事だったことと、咄嗟のことにもかかわらず、機転を利かした判断jと言い、見上げたものである。
 無関係であるが、「ありがとう、よくやってくれた」とお礼を言いたい。

 駅といえば、映画や歌の舞台になるくらい、物語は人の数ほどある場所である。
 
 高倉健主演の『駅 STATION』は大好きな映画で、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で稚内、留萌に行ったとき、レンタカーだったから、増毛の風待ち食堂だった建物に立ち寄ったくらいである。
 
 「男はつらいよ」では、柴又駅での旅立つ寅次郎と見送る妹のさくらというシーンが印象に残る。
 「帰って来る場所があるのはいいな」と思いながら。

 歌では古くは松山恵子「お別れ公衆電話」、少し前では竹内まりや「駅」というヒット曲がある。
 
 最近では、吉幾三が島津亜矢と歌う「かあさんへ」で、旅先の街、降りた駅で、あなたに似た背中、あなたに似た人を見かけた。と母への思いは年配者なら誰しも経験がありそうだ。

 駅のホームからの転落事故はホームドアが整備されるまでは、後を絶たず、目の不自由な人が犠牲となっている。

 転落事故といえば、今回は救出が上手くいったからよかったが、救出に当たった心ある韓国人留学生が新大久保駅で犠牲になってしまった哀しい事件もあった。

 今回の救出劇では、駅では、まず、非常ボタンを押さないうちは、人助けであっても、ホームには下りないでほしい。
 駅でのトラブルはまず、非常ボタンを押してからと念押ししている。

 人助けで自分が死んでしまってはどうにもならないからだ。

2021年10月05日

胎児性水俣病と診断した原田正純医師

 10月3日のNHK朝の「目撃にっぽん」で水俣病の患者認定に関して、県庁の職員の不実な対応だと、番組を少しばかり視聴した連れ合いから報告があった。

 見逃してしまったので、youtubeに番組をアップしていないか確認していたら、NHKETV特集の2010年5月16日に放送された「“水俣病”と生きる 〜医師・原田正純の50年〜」をアップしてくれていたので、30分くらい視聴することができた。

 『MINAMATA ミナマタ』を観たので、語り継ぐ戦争と同じように語り継がなければならないと激しく心を揺さぶられた水俣病と関わって50年という原田正純医師のことを書いておく。

 熊本大学の医学生の頃から、水俣病と関わって50年。
 原田正純医師が非凡な医師であることがわかるのは胎児性水俣病患者の存在を公にしたことだった。

 それまで、医学の世界では、母胎、つまり胎盤には毒を吸収するというか、仮に、母親が体によろしくないものを食したとしても、胎児には影響がないものとされていた。

 ところが、有機水銀中毒が原因であることが明らかにされた水俣病では、この学説は間違っていたということで、生まれつき、胎児性水俣病で苦しめられている人がいることをみつけたのである。
 後のサリドマイド禍然りである。

 胎児性水俣病で知られる患者にはユージン・スミスが撮った「入浴する智子と母」のモデルとなった上村智子さん。
 2017年9月28日、ジュネーブで開かれた水俣条約の第1回締約国会議(COP1)で、、閣僚級会合前の公式行事「水俣への思いを捧げる時間」でスピーチした坂本しのぶさんがいる。
 坂本しのぶさんは、毎年、5月1日に開催される水俣病患者の慰霊祭で、乙女塚で開催される方に参加していることでも知られる。

 国のお役人、県庁の役人、市の役人、国会議員も含め、患者に寄り添ている人がほとんどいない中で、原田正純医師だけは患者に寄り添っていたことが特筆される。

 真に残念ながら、TVで取り上げられた後、原田医師は2012年亡くなられてしまった。

 謹んでご冥福を祈るとともに胎児性水俣病が人類にとって、チッソという企業の経営者が行った重大な犯罪から生まれたことを我々は肝に銘じなければならない。

 何も言わないでは、傍観者になってしまうので、これからも、患者を救済するために発信していく。

2021年09月25日

クッキー製造するソーシャルファームを運営

「障害は個性 補い合い戦力に」という見出しで。9月14日の読売が社会保障の紙面に「安心の設計」と題し、「私のビタミン」というネーミングでクッキー製造のソーシャルファームを運営する中崎ひとみさんを紹介している。

 ソーシャルファーム(社会的企業)は就労に様々な困難を抱える人が一般従業員の支援を受けて働く企業や団体のこと。以前、何回となく取り上げ書いてきた。

 中崎さんは滋賀県生まれて、滋賀は「障がい者福祉の父」と言われる糸賀一雄さんの活躍で障がい者への理解が深い土地柄だ。

 ソーシャルファーム「がんばカンパニー」の運営法人の常務理事で、社会的企業の普及を推進するソーシャルファームジャパンの事務局次長でもある。

 がんばカンパニーの工場では、障がい者や子育てで勤務時間に制約のあるシングルマザーら約60人が力を合わせ、クッキーを焼いている。
 ここ数年の年商が1億3000万円とコロナ禍でも通販の需要が伸び、売り上げを維持しているという。

 信楽焼で知られる信楽町(現甲賀市)で生まれ、陶器工場で働く知的障がい者の姿を見て育ち、「障がいも個性の一つ」という感覚が身についているそうな。

 「福祉で守られるだけでなく、就労が困難であってもソーシャルファームで働くのはもう一つの選択肢だと考えている。」とのこと。


 コロナ禍で医療崩壊のときだったから、開催に反対した2020東京オリンピックとパラリンピックはウイルス検査の徹底などで、何とか無事終わった。

 様々なハンディキャップを背負ったアスリートが頑張りを見せてくれたパラリンピックは障がい者の可能性を拓くもので、わがことのように嬉しかった。

 障がい者といえば、最初に出会ったのは大石順教尼。次いで、松山善三監督『典子はいま』に主演典子さん。そして星野富弘さん。
 絵葉書やカレンダーを買い求め、映画を観ることで応援した。
 大石順教尼が再建した京都山科の佛光院には2019年お参りに行っている。
 大阪堀江で名妓と謳われていたが、養父に両腕を切られ、口で絵筆を使い描いた絵ハガキを若い頃買い求めたことがあった。

 パラ五輪のアスリート、アーテイストだと言っても過言ではない星野富弘さんのように発表する場がある人は別にして、普通の障がい者、それも様々なハンディキャップを背負わされている人たちだって、自立の第一歩は働くことだから、ソーシャルファームがもっと増えることを期待している。

 高校や大学を中退しただけでも、就職が難しいくらいだから、まして、障がい者となれば、ソーシャルファームは安心して働ける場として推奨できる。

 農福連携ということも書いてきたが、農業も障がい者が働きやすい仕事である。

2021年07月17日

くずし字を解読するアプリを開発したタイ人女性

 13年前タイから留学生として来日し、早稲田大学大学院で源氏物語の研究を始めたカラーヌワット・タリンさん。
 「くずし字が読めるようになったらいいな」その時に抱いた夢を実現させた。
 7月11日の読売「SUNDAY 顔」でくずし字を解読するアプリを開発した。として写真とともに紹介されている。

 開発は2020年6月から独学だというから恐れ入る。10歳の頃から培ったプログラミングの経験を生かし、早稲田大学博士課程を終える直前、東京大学で人工知能(AI)技術を学び実現させた。
 困難なことを成し遂げたが、「くずし字を外国語の一つとみていたので、難解なのは当然だと思った。というから非凡な人は違う。

 心憎いのがアプリのネーミング。 
 源氏物語の巻名の一つ「澪標」にちなみ「みを(船の水路)を示すために立ててある杭」の意味だ。「みを
がくずし字資料を読むための道案内となることをを目指したい」とさらに精度をアップすることに力を注いている。


 先般経済評論家が日本はバブル経済崩壊後の失われた30年で、デジタル化に乗り遅れ、もはや経済大国ではなく、目指すは、経済的に豊かな小国だと指摘していることを取り上げた。
 語り継ぐ戦争だから、米国との無謀な戦争に敗れたお陰で、軍部独裁国家から、市民が自由を手にすることができたことを日本大好き、自由主義者として喜んでいる。

 いつも書いていることだが、日本大好き人間の一人として、先人が遺した財産の価値を高く評価している。その価値を日本人ではなく、外国人に教えてもらうということで、日本の教育は間違っていたことを痛感させられている。
 
 例えば、日本建築の宝、古民家の素晴らしさを教えてくれたのは新潟県は十日町竹所で古民家を再生し、販売しているドイツ人カールベンクスさんである。

 京都大原で生活している英国人ベニシアさん。日本人より日本の伝統工芸などを愛し、その素晴らしを教えてくれた。
 NHKがその様子を伝えてくれたが、生憎、高齢となってしまい、その後のことは不明なれど、紹介してくれたもので、すぐに思い浮かぶのは梅雨明けで滅茶苦茶暑い首都圏でもすぐに役立つのが京団扇である。
 骨組みがプラスチックでないところが脱プラスチックの時代にぴったりの逸品だ。

 個人的なことを言えば、語り継ぐ戦争で、日本人やドイツ人をシベリア抑留したソ連、今のロシアが大嫌いであるが、以前、ロシア人だと紹介された結構ハンサムな男性に尺八を教えてもらったことがある。
 今時、日本人で尺八を吹く人は珍しいが、ロシア人だと言って侮れない。レベルは自分のような素人とは比較にならない。何せ、日本語がぺらぺらなのだ。

 脱線したみたいだが、取り上げたのが外国人とはいいながら、欧州などで、アジア人ではなかった。

 恥ずかしながら、くずし字をすらすら読むことはできない。
 書道では楷書を主に習ったが、草書やひらがなはあまりやらなかったので、くずし字を読むのは難しい。

 そのくずし字が簡単に読めたらいいな、あるいは古文書を読めたらいいなといつも思っていたが、タイ人女性のカラーヌワット・タリンさんには解読するアプリを開発してくれたことを大いに感謝する。

 メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手ではないが、どこの国にも素晴らしい人がいるものだ。

2021年06月30日

横浜寿町で路上生活者を支援する人々

 ホームレス路上生活 documentary『路上の隣人』CGNTVをYouTubeで視聴したので書いておく。

 一言でいうなら、横浜の寿町で路上生活者の生活支援、早くいえば炊き出しなどをしている横浜カナン教会の牧師と教会によって救われた人たちが支援者となって、生活困窮者に支援の手を差し伸べている様子を伝えているドキュメンタリー映画である。


 路上生活者が多い街は、東京山谷、横浜寿町、大阪西成あいりん地区で簡易宿泊所がある街だという。

 1970(昭和45)年頃だったと思うが、横浜の寿町に通じる桜木町駅に降り立ったことがあった。
 当時、日雇い労働者らしき人達でごった返していたことを覚えている。

 日本国憲法の下に生活保護法があり、昔はいざ知らず、現在は役所の福祉事務所というか生活保護の窓口での申請がしやすくなっていて、受けられるかどうかの審査はそれなりに厳しくとも、窓口で申請書類も渡してももらえず追い払われるようなことが少なくなっているらしい。

 このことはTVの人気刑事ドアラ『相棒』で名作「ボーダーライン」として取り上げられた生活困窮者の自死を描いた話などが影響しているものと思われる。

 さて、キリスト教の牧師の働きかけで、路上生活者への炊き出しが行われている横浜寿町で、路上生活者にインタビューしている様子も伝えられていたが、路上生活者になると自分を証明するものがなくなってしまうのが怖いと言っていた。

 さらに、路上生活者と普通のくらしとの差は紙一重だとも。
 つまり、普通に仕事をしていて、その仕事を失い、次の仕事が見つからなければ、明日は我が身だというのだ。

 このことはかつて路上生活者の支援で名を挙げた湯浅誠さんがセーフティネットがなければ誰でもすぐに路上生活に陥る可能性があると書いていた。

 新興宗教含め、わが国にはかなりの宗教があるだろうが、生活困窮者の支援で活躍しているのはキリスト教の牧師や信者が多い。

 視聴していてよかったのは、教会に助けられた人々が、次は自分が支援者になって、今度は誰かを助けるというところである。

 お互いに助け合う。これに尽きる。

2021年06月27日

東尋坊で自殺予防の声かけを続ける茂幸雄さん

 「本当に死にたい人いない」という見出しに名勝東尋坊に立つ写真とともに6月22日の読売社会保障の紙面、安心の設計、「わたしのビタミン」で紹介されていたのが自殺予防の声かけを続けるNPO法人代表茂幸雄さん(77)。

 2004年に福井県警を退職後、東尋坊で自殺予防の声かけをを続けるNPO法人の代表を務め、2021年3月、自殺を思いとどまった人たちの声かけ前の様子を収めた『蘇』よみがえる写真集を発行している。

 2004年からNPO法人のメンバー12人とともに、水曜日を除く毎日、午前11時から日没まで岩場をパトロールし、自殺を思いとどまらせた人は700人を超えた。

 「死にたくない」「助けてほしい」という声を聴き続けてきた活動を振り返り、人命救助なのだという思いを強くしているそうな。

 NPO法人として活動する契機となったのは、2003年9月、東京から来たという男女の自殺を思いとどまらせ地元の役所に引き継いだが、結果的に自殺をおもいとどまらせることができなかったからである。
 
 引き継いだ数日後、新潟県で2人が自殺したという連絡を受け、二人からの遺書が届いた。
 役所では少ない交通費を渡されただけ、そのカネで次の役所を訪ねて交通費を渡され、3日間野宿を続けて移動したと書かれていた。
 助けることができなかった自責の念から活動を始めた。

 本当に死にたい人はいない。みんな声をかけてほしいと願っている。
 岩場で待っている人がいるという思いでこれからも見回りを続けていくとのこと。


 名勝東尋坊は♪「別れの旅で、往きはあなたと道連れ、帰りは涙とふたり連れ」と木下龍太郎の作詞、弦哲也の作曲を水森かおりが歌っていた。

 この時のヒロインは自殺することはしなかったようだが、死にたいくらい悲しかったであろうと推測する。

 国の名勝に指定されている和歌山県西牟婁郡白浜町の「三段壁」は、自殺の名所としても知られている。

 藤藪庸一『あなたを諦めない 自殺救済の現場から』(いのちのことば社)によれば、白浜バプテスト基督教会の牧師・藤藪庸一さんは、ここで「いのちの電話」を運営し、この20年間に905人の自殺志願者を救ってきた。

「やってきたことは、そばにいること。その人を諦めないことだけ」という藤藪さんのことを描いた映画『牧師といのちの崖』が上映されたことは知っていたが、生憎、見逃してしまった。悔やまれてならない。

 茂さんは元警察官、藤藪さんは牧師と職業はともかく、死にたいとは言いつつ、でも生きたいという人間に寄り添ってきた二人には敬意を表したい。

 清水久典『死ぬゆく妻との旅路』(新潮文庫)を買い求めて読んだことがある。
 書棚から見つけてきたが、会社の経営者が経営に行き詰まったとき、連れ合いがガンを患っていることを知り、なけなしのカネ50万円と古いワゴンで二人だけの旅にでるのだ。

 人間自死するとどうなるか。

 官報という刊行物がある。見たければ図書館にある。
 ここに行旅死亡というコーナーがあり、所持品に身元が明らかになるものを持っていなければ、掲載される。最近読んでいないが、多分変わっていないだろう。

 「孝行娘 絶望の河原 親子3人入水」というタイトルで2015年12月に一家心中に追い込まれた家族のことを書いたときはあんまりかわいそうで泣きながら書いたのでよく覚えている。
 自死するくらいだから、絶望し死にたかったであろうが、孝行娘は生き残ったのだった。

 自殺の名所といえば、昔は熱海の錦ヶ浦、青木ヶ原の樹海、そして東尋坊、いずれも行ったことがあるが、白浜の三段壁には行ったことがない。

 希望があればまだしも、絶望すれば、誰でも死にたくなるだろう。
 その希望の灯をともすのはやはり人の力だということになろうか。

2021年06月16日

中国で元ハンセン病患者を支援する原田燎太郎さん

 新聞は世の中のあらゆる事象を取り上げ伝えてくれるが、世のため、他人のために尽力している人物の紹介もその使命の一つであろうか。

 6月13日の読売がコラムの紙面に「顔」というタイトルで中国で元ハンセン病患者を支援する原田燎太郎さん(43)のことを「猪突18年 大切なのは 『思い』だと」という見出しでその活躍ぶりを笑顔の写真と一緒に教えてくれた。

 2004年8月、中国広東省の広州市で元ハンセン病患者を支援する団体「家」を設立。
 広州市で中国共産党の地元青年組織が選ぶ「傑出ボランティア10人」に外国人として初めて名を連ねた。

 もともと新聞記者志望だったがうまくいかず、大学時代の先輩からハンセン病の元患者13人が暮らす中国の広東省の村で共同トイレを一緒につくらないかと声をかけられたのが契機だという。

 病気が原因で目が見えなくなって歩けない女性と村で会い、声をかけるも顔を背けられるばかりだったが、毎日、足を運ぶうち徐々に打ち解けた。
 トイレの完成を伝えた時、「あなたはここに来て、私と普通に接してくれる。それが何よりもうれしい」と女性が応じてくれた。

 人と人とが触れ、互いの壁が溶けてゆく。「差別を乗り越えるヒントがここにある」と確信し、その手応えを中国の若者に伝えようと決めた。

 「活動で大切なのは『大義』ではない。個人の思いなのだと伝え続けたい」と生き方に気負いはない。


 世のため、他人のために尽力する尊敬に値する人物の紹介ではあるが、書いているメインテーマは自由のためにと語り継ぐ戦争であるから、この点で書いておきたいことがある。

 先の大戦で、朝鮮人と結婚した在韓の日本女性が日本に身元引受人がいなくて帰国できなくなっていた。その女性たちの居場所として、韓国の慶州にナザレ園が設立された。
 このことは作家上坂冬子さんが『慶州ナザレ園―忘れられた日本人妻たち』 (中公文庫)で紹介し、広く知られることとなった。
 
 設立に関わったのは日本の茨城県那珂市で「社会福祉法人ナザレ園」を経営する菊池政一と韓国老人施設協会の会長金龍成だとウキペディアにある。

 中国で元ハンセン病患者だけが暮らす村は中国国内に多数あるとされている。

 中国は共産党政権が支配しているにもかかわらず、貧富の格差が半端ない国だから、元ハンセン病患者が暮らす村は、自宅にトイレがない上に共同トイレもなく、バケツをトイレ代わりにしているという貧しさだった。

 病のため目が不自由になった女性は当然、差別されて生きてきたからこそ、容易に打ち解けようとはしなかったのであろう。
 しかし、人間同士だからだんだん気持ちは通じていくもので、感謝していることが伝わってきた
 
 民衆から自由を奪い、一握りの人間が支配する中国で、ハンセン病で自由を奪われた元患者のために奔走する原田燎太郎さんは世界に誇れる日本人である。

 アフガンで恩を仇で返す過激派に殺害されてしまった日本の宝、日本の誇りだった中村哲医師の後に続くような立派な日本人がいることを知り嬉しくなって、書かずにはいられなくなった。

 人にはそれぞれ、立ち位置があり、戦没者慰霊のための行脚を続けてきたのも大義などではなく、自分の思いで、この点だけは共通している。 

2021年05月25日

もう一つの水俣病 新潟で患者支えた医師が引退

 約60年にわたり、新潟水俣病被害者を診察してきた木戸病院(新潟市東区)の名誉院長斎藤恒さん(90)が、体力の衰えなどを理由に今春で外来診療を終えた。と4月18日の新潟日報電子版が伝えている。

 斎藤さんは新潟市出身で1955年、新潟大医学部を卒業。65年に新潟水俣病が公式確認された当時、同僚の医師とともに被害者を診察して以来、水俣病問題の解決に力を注いできた。

 水俣病の診療で拠点的な役割を果たしてきた沼垂診療所(2019年閉所)の所長を経て、76年に木戸病院が設立された後は長年院長を務め、外来診察や往診を担った。

 公式確認から56年になる今でも、水俣病特有の症状がありながら、国に患者認定されず苦しんでいる人は多く、救済を求める裁判も続いている。

 斎藤さんは、水俣病は地域や家族単位で症状が出る「集積性」が特徴だとした上で、「国の認定審査などでは、集積性が考慮されず、難解な神経学の問題になってしまっている」と指摘する。

 水俣病は、有毒なメチル水銀に汚染された魚介類を食べたことで発症する「食品中毒」だと強調し、「神経学ではなく、公衆衛生の問題として考えるべきだ」と訴える。

 斎藤医師引退のニュースは5月24日の読売でも取り上げている。
 
 紙面の解説によれば、新潟水俣病は昭和電工鹿瀬工場(阿賀町)がメチル水銀を含んだ排水を阿賀野川に流し、汚染された魚介類を食べた住民が発症した神経系の中毒症。
 患者認定を申請した延べ2689人のうち、認められたのは716人。
 現在、第5次訴訟が続いている。


 支援運動の中心となる民主団体水俣病対策会議(現新潟水俣病共闘会議)を1965年に結成。初代議長として斎藤医師は裁判を支援してきた。

 斎藤医師には頭が下がる。敬意を表するとともに人間の生き方を教えていただいた思いである。
 熊本水俣病で患者に寄り添い、治療を続けたことで著名なのは原田正純医師だ。
 四大公害病の一つであるイタイイタイ病では富山に萩野昇医師がいて、イタイイタイ病の命名者として知られている。

 新潟水俣病という名称には、一言あって、阿賀野川流域水銀中毒というのが正式名称でなければおかしい。
 阿賀野川流域水銀中毒に関心を持つに至ったのは映画『阿賀に生きる』を観たことが大きい。
 もっと言えば、連れ合いの両親が新潟は妙高の出身で、自分では行かれなくなった連れ合いの母親から故郷を見てきてほしいというオーラを感じて、二度その故郷を訪ねたことがある。

 普段高速道路などほとんど乗ったことがないが、新潟には4回行き、うち2度は妙高の故郷を訪ねた。

 爾来、新潟には格別な思い入れが生まれ、新潟贔屓になった。
 余談であるが、自分は病気で酒を飲まないが、別に暮らす家族は酒が好きなので、会津の酒か新潟の八海山や久保田などを時々届けている。

 有機水銀中毒といえば、水俣病として世界にも知られていることから、水銀の使用に規制をかけるためにできた条約が水俣条約と呼ばれる所以である。

 しかし、新潟は原因企業が昭和電工で阿賀野川流域という地域に住む人が被害者だから、阿賀野川流域という地名が付いた方が的を得ていると思うのだが、水俣病があまりにも有名だから、水俣という地名がついてしまったのかもしれない。

 石牟礼道子さんの『苦界浄土』を読み、水俣病の犠牲となった被害者の慰霊碑、「乙女塚」にお参りして、さらにいっそう、水俣病のような酷いことを二度と起こしてはならないと決意した次第である。

 原田正純医師、斎藤恒医師、二人の医師だけではないが、患者に寄り添う医師がいてくれたおかげで、患者たちはどんなに励まされたことか。

 他人事でなく、自分が、自分の家族が有機水銀中毒になってしまったらどんなにつらいか、想像してみることも時には必要だ。

 特に、胎児性水俣病の悲劇はこんな理不尽なことはない。

2021年05月06日

インドネシアで貧困削減に取り組む中村俊裕さん

 今まで気づかなかったけれど、読売が日曜日の紙面で「顔 SUNDAY」というタイトルで時の人を紹介している。

 その4月18日はインドネシアで貧困削減に取り組むNGO代表中村俊裕さん(46)のことを「現場主義で生活向上に尽くす」という見出しでその活躍ぶりを教えてくれた。

 電気の通わない島しょ部に太陽光発電を取り入れ、清潔な水が手に入らない山里の村落には簡易型浄水器を届ける。
 東南アジアのインドネシアを中心に、周囲の発展から取り残され、「ラストマイル」と呼ばれる貧困地域で、生活向上の手助けをしている。

 頻繁に豪雨に見舞われるカリマン島では、天然ゴムを採取する際に、樹液の受け皿の上に雨除けを付けることで、樹液が流されないようにし、生産量を大幅に増やした。住民の顔に笑顔が浮かぶと「遠くまで足を運んだ疲れも吹き飛ぶ」

 貧困支援に取り組む契機は、明石康さんや緒方貞子さんの姿に憧れ、2002年に国連開発計画(UNDP)で働き始めたこと。
 10年にNGO「コペルニク」を設立。現場に根ざした活動を広げるためだった。

 新型コロナ対策でも、地酒の製造工程を利用して、消毒用アルコールを製造することを提案し、半年間で約8000gを生産し、医療機関に提供。地酒が売れなくなっていた生産者にも喜ばれた。


 わが家の近くに20年前くらいに転居してきた自分より一回り上の女性がいて、話しかけられる。
 女性の孫、25歳になると言っていた青年が1年間インドネシアに留学したそうな。
 ところが、新型コロナウイルスの感染拡大で帰国しても仕事にありつけず、浪人中らしい。

 インドネシアは広いし、接点はなかっただろうが、この青年にやる気があれば、せっかくインドネシアに行っていたというのだから、余計なお世話にしても中村さんの手伝いをすればいいのにと思った次第である。

 紙面に笑顔の中村さんが紹介されているが、実に清々しい男の顔をしている。
 海外で活躍している中村さんといえば、奇しくも同じ姓の中村哲医師がいたが、アフガンで志半ばで、惜しいことに恩を仇で返す輩に殺害されてしまった。

 貧困といえば、世界でもっとも貧しい国のひとつと言われるアフリカのマラウイで、人口の2%しか電気が使えない中、少年が風車で自家発電に成功した実話を基にした「風を捕まえた少年」を観たことを思い出した。

 インドネシアで太陽光というのは素晴らしいが、簡易型浄水器を届けたことも特筆されることで、住民にとってありがたいことだろう。

 先般、春の叙勲だとかで表彰されたが、表彰された人にケチをつけるつもりなど毛頭ないが、中村俊裕さんが表彰された話は聞かない。

 海外でその国の貧しき人たちに手を差し伸べる行為は、当然、表彰に値するはずだから、表彰することはもとより、中村さんが貧しき人たちを助けるための支援もお願いしたい。

 中村俊裕さんにエールを送りたい。

2021年05月04日

失敗から「学び」 もう一度チャレンジ

 犯罪歴や非行歴のある人向けに求人誌を発行する三宅晶子さんのことを4月27日の読売、安心の設計の紙面、「わたしのビタミン」というしゃれたタイトルで見つけた。

 NHK「逆転人生」だったか、三宅さんのことを知り、紹介したことがある。

 求人誌『Chance』チャンスを創刊して3年。これまで13号を発行。最新号は少年院や刑務所、社会復帰を支援する更生保護施設で約3500部配布している。

 「やり直す覚悟のある人を応援したい」と求人を寄せる事業主は延べ80を超え、出所を待っている人を含めて、これまでに125人が内定を得ることができた。
 少しずつ、活動が実を結んでいると感じているそうな。

 自身が非行少女だったことを明かしているが、中学生の時の担任は「目先のことではなく、5年、10年先を見なさい」と諭してくれた。真剣に向き合ってくれた先生の存在に救われたと影響を与えられた恩師の存在の大きさを語る。

 高校は1年で退学したが、それでも16歳の時、一念発起して大学に行くと決め、大学を卒業し、会社勤めの経験を持つ。

 会社勤めを辞めた後、非行少年や出所後の自立を支援する団体でボランテイアを始めた。
 できることをと考え求人誌の発行を思いつき、生活の支えとなるように社宅や寮のある仕事を紹介している。

 今後は再犯防止に向けた教育支援にも取り組みたい。
 「人は変われる」と信じ、背中を押し続けるという。


 中国残留孤児と呼ばれた人たちが帰国を果たした。その子ども、所謂残留孤児2世がいじめに遭い、身を守るためにつくった団体が、やがて、周囲からの影響を受け非行化し、半ぐれ集団「怒羅権」として恐れられるようになった。
 結成当初のメンバーである汪楠さんが長い受刑者生活で読書をしたことと、周囲の支援で更生を決意し、出所後、刑務所に本を送る活動をしていることを取り上げた。

 三宅晶子さんと汪楠さん、そして、暴走族のリーダーから立ち直った俳優の宇梶剛士さんを見ていると確かに「人は変われる」というのは真実である。

 ただし、更生するというのはあくまでも本人の決意次第だ。
 もう一つ、三宅さん、汪楠さん、そして、宇梶さんと3人とも、親から虐待を受けたということはなかったみたいだから、「やり直そう」という意欲が芽生えたのではないかということ。

 非行の過去を持つ、三宅さん、汪楠さんともにその過去から、支援する側に回ったら、支援される側の良き理解者になれるにちがいない。
 
 入所させないためには、伴走者というか、寄り添ってくれる人が必要だと説かれたのは、先般取り上げたえん罪事件を乗り越えた村木厚子さんだった。

 三宅さんと汪楠さんに接点があるかどうかわからないが、支援者のネットワークがあれば支援がもっと前進するはずである。

 出所者にとって、一番大事な仕事に就けるかどうかで支援してきた三宅さんの次なる目標は再犯防止のための教育支援だそうな。

 三宅晶子さんにエールを送りたい。
 

2021年04月01日

コンゴの大河に日本の支援で架かったマタデイ橋

 仕事をしていた頃は、夜、風呂から出て、洗濯物を干していたが、今は毎朝、洗濯物を干すのが日課となっている。
 この時、NHKラジオから「三宅民夫のマイあさ!」が流れていて、今朝は、深読みコーナーに大越健介キャスターが出演し、「架け橋が架け橋であり続けるために」というタイトルでコンゴ民主共和国に日本の協力で橋が架けられ、日本人技術者と一緒に橋の建設をしたコンゴの技術者マディアッタさんたちが維持管理をしていることを伝えていた。

 1983年、コンゴの大河に橋を架けたのは日本の瀬戸大橋を架けた技術者たつみまさあきさんたちで、大越さんがNHKに入局後、赴任地とされた岡山放送局の仕事で知り合ったことが縁となった由。

 大越さんは日本の支援というか、技術協力の一つの在り方、「架ける」という意味のモデルケースとしてもコンゴの大河の橋づくりと、その後の維持管理は優れた手本になっていると結ぶ。 


 吊り橋といえば、祖谷のかずら橋が秘境に架かる橋としてよく知られている。城ケ崎海岸の吊り橋も有名だろう。でも、高所恐怖症で意気地なしの自分にはとても渡る勇気がない以前に訪ねる意欲もわかない。

 橋は設置する工事をするのは大変だが、維持管理するのも大変だ。
 太陽に照らされ、風雨にさらされ、古くなれば、傷むに決まっているからである。

 日本人だけで工事したのでは維持管理ができなくなってしまうから、工事に合わせて、現地の人々を技術者として養成していかなければならない。

 今、コンゴで橋の維持管理をしている現地の技術者にエールを送るとともに、その契機となった日本人技術者の皆さんにもエールを送りたい。

 橋といえば、橋そのものに限らず、幾多のドラマが生まれている。

 TVドラマの世界では古くは62年から63に放送された島倉千代子、園井啓介「あの橋の畔で」(たもとと読ませていた)を思い出した。
 小説の世界では藤沢周平『橋物語』(新潮文庫)がすぐに頭に浮かぶ。

 橋での出会いと別れを描いた短編集で、橋はそれだけ物語が生んできたのではなかろうか。

 話を戻す。

 外国への援助はいいことだが、いつの間にか、本家の日本は貧富の格差が拡大し、女性が生理用品を買えないほど貧困問題を抱えるようになってしまった。
 
 橋を架けることは大勢の人が助かることだから、大いに褒められることだが、日本の明日に架ける橋として、日本のインフラの総点検と修理をやる必要があることをもっと考えるべきときがきている。 

2021年03月26日

奇跡のピアノ いわきの調律師が修復

 東日本大震災から10年、福島県いわき市立豊間中学校の旧体育館にあったピアノは津波にのまれ、砂まみれの状態で発見された。
 
 修復不可能だと思われたピアノを見事に蘇らせたのは、同市の調律師遠藤洋さん(62)。
 遠藤さんが修復したピアノは2011年のNHK紅白歌合戦で嵐の櫻井翔さんが弾いて、奇跡のピアノと呼ばれるようになった。と3月19日の読売が夕刊のジュニアプレスで伝えていた。

 その遠藤さんが培ったノウハウを生かして、豪雨災害などで水没したピアノの修復を数多く手掛けるようになったということで、2020年7月の九州豪雨で被災した熊本県球磨村立渡小学校のピアノの修復の話が持ち込まれた。

 話をつないだのは球磨村を支援する兵庫県のボランティア団体[MOVE」代表山中裕貴さん(32)で、修復を終え、蘇ったピアノが21日球磨村に里帰りしたことを3月22日の読売が伝えている。

 届いたのは仮設校舎のある村立一勝地小学校の体育館で、記念の式典が開かれ、ピアノの伴奏で児童が校歌や合唱曲「ビリーブ」を歌った。


 この世の中には、楽器と名がつくものはいろいろあるが、中でも、ピアノといえば、楽器では特別の存在ではないか。
 唯一の弱点は持ち運びできないことくらいで、それだけに、今回の震災で浸水したピアノの修復のようなドラマがいろいろある。

 1993年6月に公開された、特攻隊員が出撃前にピアノを弾いたという実話を基にした神山征二郎監督『月光の夏』。
 2015年8月公開された、ナチスに迫害された実在のユダヤ人ピアニストの自伝を基にしたロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』。

 二つの作品がすぐに頭に浮かんだが、両者に共通しているのは戦時中、死の恐怖と戦う人間がそれでもピアノを弾くことでひとときのやすらぎをえられたということ。

 わが家でも、子どもの頃、ピアノを買ってもらえなかったという連れ合いが、社会人になって、ピアノを買い求め、結婚した時、わが家に持ってきたのが、ピアノと箏である。
 その後、ずっとピアノのレッスンを続けていたが、昨年のコロナ禍でレッスンを休んでいる。それでも、ワクチン注射が済めば、またレッスンを再開する予定である。

 現在、ピアノといえば、NHKが駅ピアノとか街角ピアノなどを放送していて、世界中でピアノを弾ける人がその腕を披露してくれている。

 そのピアノは弾かなくなったら、次の人に譲ってもらわなければ困るということで、引き取り業者がしきりにTVで宣伝している。

 自分の人生でピアノを習わなかったのは、唯一、悔やまれることだ。
 これからでも遅くないかもしれないが、尺八を毎日吹かなければならないので、時間が足りないのが残念だ。

 浸水ピアノを修復してくれた遠藤洋さんにエールをおくりたい。 

2021年03月07日

豪雪地で夜間も往診も 医療功労者中央表彰

 過疎地など厳しい環境で長年、地域の医療や福祉を支えてきた人を表彰する「第49回医療功労賞」(読売新聞社主催、厚生労働省、日本テレビ放送網後援、損保ジャパン日本興亜協賛)の中央表彰者10人が決まった。
 3月3日の特別面で10人の横顔が紹介されている。

 いずれも、長年に亘り、患者のために尽くされた年配の医療関係者でその業績は表彰に値するほど立派であるが、10人それぞれについては紙面やネットで見ていただくとして、「豪雪地で夜間も往診も』という見出しで紹介されていた医師瀬尾研一さん(79)のことが目に留まった。

 北海道は北部の中頓別町で40年以上医療を提供してきたそうな。
 これだけでも立派であるが、その経歴を知り、頭が下がる思いである。

 東京大学医学部を卒業後、1975年に同町国保病院に赴任し、院長になると訪問診療や医療講話を実施した。
 87年に近くの美深町に移り、開業したが、したが、自分を慕って来る中頓別町の住民のために、同町にも診療所を開設し、週2日、夜間診療や往診を行った。冬は診療所まで片道1時間半もかかる豪雪地帯での出張診療を2020年10月まで続けた。今後も美深町での診療を続けるという。


 瀬尾先生のことを知って、すぐに思い浮かべたのは「ドクターコトー診療所」の」の五島健助医師のことである。
 当然、物語を超越して、自分の頭の中では僻地や島などで活躍する医師の代名詞だから確かに存在する医師なのだ。ドクターコトーは。

 首都圏の田舎町に生まれ育った。田舎町だから、病院といえば、公立病院が一つあるくらいだが、大都会東京へのアクセスがいいので、クリニックは滅茶苦茶多い。
 大学病院とか国立病院などがあればなおよいが、ないものねだりしても仕方ない。

 一方、北海道の中頓別町であるが、冬の最低気温がマイナス30度を超えるというのだから、首都圏のようなぬるい環境で生まれ育った人間ではとても暮らせそうもない厳しい大自然と向き合う覚悟がなければ生きていかれそうもない土地である。

 瀬尾医師ならずとも、ここの街で頑張る医療関係者には頭が下がるが、冬の往診、夜間診療となれば、遭難してしまいそうである。

 ドクターコトーは島の診療所が舞台だった。島だから不便ではあるが、北方の島ではないのでそれほど寒くはなさそうだった。

 中頓別は調べてみると宗谷地方の南部に位置し、海がなく、周囲は森林だそうな。
 冬の寒さを考えると、夜間診療や往診はきつい。

 医師というのはカネもうけを考えている人と、世のため人のため、患者のことを考えている人と二極化している場合がある。

 僻地の医療に尽くす人には心から尊敬する。
 感謝とエールを送りたい。

2021年03月06日

24か国の子に8547台の車いすをプレゼント

 体に合わせて作られる子ども用車いすは成長に応じて買い替えられ、3年ほどで廃棄される。そんな車いすを集めて海外に無償で届ける活動を、2020年10月までの約16年間、福生市の「海外に子ども用車椅子を送る会」が続けている。と3月2日の読売オンラインで知った。

 読売によれば、2月に2020年度の「国際交流基金 地球市民賞」も受賞し、「コロナ禍で思うように活動が進められず悩んでいた中で大きな励ましになった」と、会員の喜びもひとしおだ。と(長嶋徳哉)記者の署名入りで伝えている。

 活動を始めたきっかけは、会長の森田祐和さん(62)が2003年に悪性リンパ腫との診断を受け、余命1年を宣告されたことだ。「人生の最期に何か皆さんにお返ししたい」。そう思っていたところ、家の中に置いてあった次男・健也さん(25)の車いすが目に付いた。

 中古でも1台30万円にもなることがあるという子ども用車いすであるが、成長と共に廃棄されてしまうことから、子ども用車いすに不自由している発展途上国に寄付することを思いつく。

 車いすは各地の特別支援学校で使わなくなったものを譲り受けた。


 黒澤明監督、志村喬主演の『生きる』を彷彿させるような佳い話だから、書かないではいられなくなった。

 人間、いつ死ぬか誰にもわからないように神様は仕向けてくれている。
 ところが、死期がわかってしまう病気になると、自分にやってくるお迎えの時を察知することができる。

 映画『生きる』では市役所だったか、定年近くの渡辺市民課長が体調不良になり、診断の結果、胃がんで、余命宣告を受けるのだ。

 心の迷いのままに、慣れない遊興に耽ってみても、心満たされず、ある時、職場にやってきた児童公園を作ってほしいという住民からの陳情を受けたことから、市民の願いの応えようと悪戦苦闘するという話である。

 出来上がった児童公園のブランコに乗り、志村喬演ずる渡辺市民課長が「命短し恋せよ乙女」と、「ゴンドラの唄」を口ずさむのだ。

 車いすといえば、初めて接したのは仕事で、車いすを使う人と接したときだったが、先年、旅立った母親の介護で、病院に連れて行くとき、病院の玄関にある車いすを拝借して外来診療を受けたので、車いすの操作にも慣れが必要だと知った。

 近年、家族が膝を痛め、全く動けなくなったとき、救急車のお世話になり、病院に連れて行ってもらったことがあった。

 痛み止めの処置をしてもらい、翌日、病院に付き添っていったとき、車いすを拝借したが、歩けないとき、これほど便利なものはないだろう。
 誰が考案したか、ありがたいものを製造してくれたものだと感心しきりである。

 子ども用のことなど知らなかったが、廃棄してしまうのはもったいないので、海外で必要としている人に贈ることを思いつき、実践したのは立派の一語に尽きる。

 エールを送りたい。
 

2021年02月16日

室内から取り外せる窓格子柵を中3が発明

 36人が犠牲になった京都アニメーション放火殺人事件を教訓に、岐阜県の男子中学生稲垣龍樹君(15)が、室内から取り外せる窓の格子柵を発明した。
 事件で防犯用の格子柵が避難や救出の妨げになっていたのを知ったことがきっかけで、発明は「2020年世界青少年発明工夫展」で銀賞を受賞。
 
 中学生は「実用化され、火災や災害時に一人でも多くの人の命が助かれば」と期待している。と2月13日の読売が夕刊で伝えている。

 小学2年生の時、視力が弱い祖父のために段ボールで通常の9倍の大きさの将棋盤を作ったことが、もの作りに興味を持ったきっかけだという稲垣君。
 その後も、盗難対策で取り出し口が開いたら音が鳴る郵便受けや大きさを調節できるテーブルなどを作った。

 窓の格子柵は、通常は外側の窓枠に固定される。
 しかし、稲垣君が発明した格子柵は、四隅に取り付けたパイプを壁に開けた穴に通し、室内側にある留め具で固定する構造。留め具を外すと格子柵も取り外せる。配管工の父・祐樹さん(50)に手伝ってもらい、1か月かけて作ったという。

 
 記事に触発されて、わが家の窓を思い浮かべてみたら、確か、面格子と呼ばれていたような気がするが、雨戸のない窓にはすべて、格子柵が取り付けられていて、当然のように外からしかはずせないつくりになっていた。

 京都アニメーション放火殺人事件が起きたとき、犯罪被害者支援を発信している立場から、考えたのは、2000年6月に起きた宇都宮の宝石店放火殺人事件と2001年5月に起きた弘前の武富士放火殺人事件で、共に、ビルの構造が逃げ口が確保されていなかったことだった。

 中学生が非凡なのは京アニメ事件のビルに逃げ口が確保されていなかったことではなく、窓の格子が外れれば逃げられたと考えたことで、驚かされたのは格子が中から外れれば逃げられたと考えたことである。
 その上で、格子柵が中から外れるように実用化したのだから、お見事というしかない。
 快挙だといっても過言ではない。

 プログラマーを目指しているという稲垣君は「手作りにデジタルを融合し、困っている人を助けられるような発明をしたい」というのだから、自分が、家電メーカーや製造メーカーの経営者なら、三顧の礼をして会社に迎え入れるだろう。

 米国や台頭する中国の後塵を拝することが多くなってしまったかつてのモノづくり大国日本で一番欲しいのは稲垣君のような創意工夫ができる若者である。
 
 ものづくりに頑張っているすべての人たちエールをおくりたい。

2021年02月03日

失明男性の杖になった児童のバトンリレー

 難病で視力を失った和歌山市職員の男性(58)が10年以上にわたり、地元の小学生に助けられながらバス通勤を続けている。

 ある女子児童に声をかけられたのが始まりで、その児童の卒業後も後輩から後輩に「善意のバトン」がつながれてきた。
 1月、児童たちと再会した男性は「温かい手で支えてもらうのがうれしかった。不安だった通勤が楽しい時間になった」と笑顔を浮かべ、児童たちも「私たちも毎朝が楽しみになりました」とにこやかに答えた。と1月29日の読売が夕刊で伝えている。

 視力の低下でバスの乗り口を探すことにも苦労したが、一人で通勤を始めて1年がたった朝、停留所で待っていると、「バスが来ましたよ」と少女の声がした。「乗り口は右です。階段があります」。少女はそう言い、座席に案内してくれた。

 同じバスで通学する和歌山大付属小学校の児童だった。降りる停留所も同じで、それ以来、名前も知らない女子児童は毎日助けてくれた。児童は3年後に卒業したが、新学期に入ると、別の女子児童が助けてくれた。


 世の中、コロナの感染拡大で医療崩壊し、入院できず、自宅療養という名の自宅待機で死者がどんどん出ている大変な情況となっているが、嬉しいニュースが流れていたので、書かないわけにはいかない。

 和歌山といえば、2016年11月、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で和歌山空襲、空爆の犠牲者の慰霊碑を訪れた時のことを思い出す。

 大阪難波から南海電車で到着した時、生憎雨が降っていて、ランチを食べる場所を教えてもらいがてら、タクシーで連れて行ってもらった。
 古都清乃「和歌山ブルース」が好きで、和歌山に行くのを楽しみにしていたが、食後、初めての土地で勝手がわからず、和歌山城目指して雨の中を歩き、観光物産館だったかで慰霊碑の場所を確認して何とかたどり着く。
 雨は降りやまず、それでも、強い雨の中を連れ合いに傘をさしてもらいながら、1曲吹き、犠牲者に祈りを捧げた。
 ところが、不思議なことに、演奏が終わると、ぴたっと雨が止んだのである。
 
 大阪で所用があり、和歌山城にも行かれなかったが、帰りの車内で、連れ合いがスマフォを座席の下に落としたことがわかり、大阪に着いてから、駅に連絡したら、途中駅に届いているということで、その駅まで取りに行くというハプニングあり、忘れられない旅になった。

 和歌山大学付属小学校の児童の善意で思い出したのが、スマフォを届けてくれた善意である。

 和歌山大学付属小学校の児童が素晴らしいのは、その善意が後輩にバトンタッチされ、リレーされたバトンが次の児童に渡っていることだ。

 「あなたたちは偉い!」関わった児童たちにエールをおくりたい。

 困った人を助けることができるということが素晴らしい。
 世の中、お互い様で、自分が困ったとき、助けられると嬉しい。だから、困った人を見て、見ぬふりをしてはいけないということを教えられた。

 「笑顔」が見られるのは実に気分のよくなることで、お陰で気分がよくなった。