2023年11月18日

作業員や震災関連死の健康調査に取り組む医師

 地震と津波、原子力発電所事故に襲われた福島県の海沿いで、消化器外科医として患者に向き合いながら、健康調査などで被災の実像解明に挑む医師。
 「顔 Sunday」というタイトルで 誰かのためにがんばる人物を紹介する読売。その11月5日の紙面に登場しているのはいわき市常盤病院に勤務する澤野豊明医師(33)だ。

 「大災害時、命を守る答え探る」という見出しで、原発事故後、きめ細やかな健康チェックを受ける県民とは対照的に、作業員の健康に関心が薄いことを実感し。カルテを分析し、作業員の約7割に持病があり、約6割が高血圧であるとの現状を報告したことを伝えている。

 さらに、原発事故直後の患者らの過酷な避難や避難後の生活と、震災関連死との関係性の解明だ。県内での関連死はこれまで2337人に上るが、医学的な見地で検証は乏しい。
 「万が一の際に弱者をどうしたら守れるのか。福島で起きたことは貴重な教訓になるはずだ」と患者や作業員一人ひとりのデータを丁寧に調べ上げる。
 その先に命を守る答えが見えてくると信じているからだそうな。


 澤野豊明医師を紹介する記事に注目したのは、作業員の健康調査や震災関連死の分析ということで、原発事故の現場で働く作業員という弱者に目を向けていたからだ。

 東京電力福島第一原発における事故現場で懸命に働く作業員の健康について、家族以外で心配している人間がほとんどいないのはどうしたことか。

 放射性物質を取り除く除染作業に携わる作業員はコンビニ弁当で朝食、昼食をすまし、明らかに肥満の人も少なくなかった。と澤野医師も証言しているが、作業員は働かなければ生きていかれない。家族への仕送りのために四の五の言ってられない切羽詰まった状況にあって、賃金が比較的良い働く場所として己を犠牲にして働いている。

 日本の建設現場によくあるように元受け、下請けの関係で現場で働く労働者は、嫌でも働かなければならないという選択肢しかないのだ。

 これが米国からやってきた新自由主義というもので、カネ儲けをするために自分さえよければいいという考え方のいきつくところである。
 
 作業員だって人間ぞ。

 作業員がいるから除染も進んだのだ。
 大災害のとき、後片付けするボランティアなどで頑張ってくれる人がいるが、この人たちの健康だって考えていくのは当然のことである。

 澤野医師のような若い人が命を守る答えを出そうとしてくれているというのが嬉しい限りではないか。

2023年10月26日

「非人道的」臓器売買に警鐘 読売 協会賞受賞

 新聞大会では、2023年度の新聞協会賞5件、新聞技術賞1件の授賞式も行われた。読売新聞東京本社からは、「『海外臓器売買・あっせん』を巡る一連のスクープ」が協会賞を受賞し、取材班代表の社会部・佐藤直信次長があいさつした。と10月19日の紙面で伝えている。

 今夏まで1年半以上にわたり、海外で臓器移植を受けた日本人患者や仲介団体の関係者を取材してきた。そして腎臓一つが約200万円だったこと、ドナー(臓器提供者)が経済的に困窮するウクライナ人女性だったことなど、少しずつ事実を明らかにしてきた。

 先進国の人が途上国で金銭を支払って臓器移植を受けることは、非人道的な臓器売買につながるとして国際的に強く批判されている。取材班はこうした事実を明るみに出して社会に警鐘を鳴らす意義は大きいと考え、2022年8月に最初の記事を出した。

 その後は、問題の背景にある国内の深刻なドナー不足、仲介団体の活動を長年野放しにしてきた法の不備について繰り返し報じてきた。2023年2月に警察が仲介団体を摘発したことで、法や制度の見直しに向けた議論が進んでいる。一連の報道からこうした動きを引き出せたことを誇らしく思う。
 

 少年を狙ってのことだろうと芸能界に疎い自分でさえ、悪だくみを察知していた芸能タレント事務所の創業者による少年相手の性暴力事件。事務所の創業者が繰り返し、性暴力を行ってきたことを知りながら、メディアは何も報道しなかった。
 週刊誌の文春砲は被害者北公次さんの証言を掲載し、糾弾する姿勢を見せていたが、追随するメディアは現れず、被害者が続出することになり、ついに、英国BBCに報道され、世界に恥をさらした日本の芸能界とメディア。
 読売も同罪である。
 しかし、戦前から読売を購読してきたわが家では、読売の「人生案内」をはじめ、プロ野球の長嶋、王の活躍、箱根駅伝、青森東京間駅伝、東京大阪間駅伝の記事を小学生の頃から読んでいたので、自分は読売が嫌いではなかった。
 安倍政権に批判的だった文科省の前川さんを陥れようと政府が企んだとき、政権に協力した報道をした政治部を滅茶苦茶に批判し、糾弾したこともあった。
 結果的に政権は身に覚えのない前川さんを陥れることはできなかった。

 読売の大阪社会部にいた大谷さんは舌鋒鋭く政権に対しても批判することで知られている。
 社会部は語り継ぐ戦争でもよく頑張ってアジア太平洋戦争の実相を伝えてくれているし、水俣病やハンセン病についても、被害者に寄り添った報道をしてくれている。
 記事に触発されて、書いていることが多いので感謝もしている。

 今回の、臓器移植報道に関しては、社会部はよくがんばった。
 臓器移植に関しては二つの大きな問題がある。
 一つはドナーが足りないことで、移植を待ち望んでいる人たちからすれば、海外であろうとカネで買えるなら買い求めてでも、臓器移植をしたい気持ちは理解できないものでもない。
 二つ目は、海外で臓器を手に入れるということはカネのために臓器を売る人から買うことになり、発展途上国や貧しい旧東側諸国の人などに対し、カネがあれば何でもありかと思わせることで、非人道的な行為とされることである。

 阪本順治監督『闇の子供たち』を観たとき、タイの裏社会で行われている幼児売春、人身売買、臓器密売の実態を知った。
 売春でエイズに罹患し、死ぬと黒いごみ袋に入れられて空き地で火葬されてしまう子どもがいた。
 そんな貧しい子どもたちの行きつく先は臓器売買である。

 語り継ぐ戦争では満州の関東軍731石井部隊の捕虜を使った人体実験が伝えられているが、人間の体に不要な臓器などあるわけがない。
 カネさえあれば、何をしてもいいことにはならない。

 やっていいことと、やってはいけないことがあるはずだ。
 このことを報道した読売の社会部はよくやったが、さらに、ドナーの提供者を増やすような報道を続けてもらいたい。

2023年10月20日

脳梗塞で子の気持ち再認識

 日曜日のコラムのし面に「顔 SUNDEAY」というタイトルで社会貢献など活躍されている人物を紹介する読売の10月15日は(猪熊律子編集委員)「子育て支援強化を訴える元検事堀田力さん(89)。

 そう1976年、あのロッキード事件を担当した東京地検特捜部検事として名をはせたかと思えば、福祉の世界に転進し、91年、福祉団体(現公益財団法人さわやか福祉財団)を設立。現在は「福祉家」を名乗っていると紹介されている。有償ボランティアの普及や介護保険制度に尽力した。
 福祉への貢献が認められ、10月に名誉都民として顕彰された。

 「人生最後の大仕事」として子育て支援に取り組み始めた2022年暮れ、脳梗塞で左の視力を失った。右目は「漢字が見えても意味が分からない」1人でトイレに行けず、文章も書けない。夜、外に出て車に飛び込みたくなる衝動を抑えるのに苦労したそうな。

 「倒れてから、妻の姿が見えないと不安で」と幼子が母親に抱く感情を疑似体験した思いを子育てに活かし、「未来の宝」を育てるお手伝いをしていきたい。と結ぶ。


 堀田さんの日記によれば、「不安に包まれて参っていたら、妻がベッドにきて私の全身を抱きしめてくれた。その温かみが私の中のどうしようもない不安は10分もしないうちにとけ去り、生きる意欲が湧いてきた」と紙面に紹介されていた。

 病気など辛くてどうにもならないとき、自殺願望というか、高い所にいれば、飛び降りてしまおうとか、駅のプラットホームに立っていれば、電車に飛び込んでしまおうと考えたことがあるのではないか。
 こういう時、連れ合いの力は強い。
 頭脳明晰で鋭い時評で感心していた評論家が連れ合いを亡くし、絶望して自死するとき、弟子に手伝ってもらったことが自殺ほう助で警察が捜査しているニュースが流れたことがある。

 連れ合いを亡くしたら、自分だってと思わないわけではないので、痛恨の出来事だった。
 自分が病気になって辛くてどうにもならないとき、連れ合いに抱きしめてもらうには日頃が大事で、「ふだん愛情を示さず、自分勝手に生きてきた男は苦しむだけ苦しめばいい」という夫婦生活に不満を抱えた連れ合いの声が聴こえてきそうであるが、いつも書いてきたように連れ合いこそ宝物だという気持ちを持ち続けても、連れ合いが抱きしめてくれるかはわからない。

 映画史上に残る傑作『カサブランカ』で、レジスタンスのリーダーラズロの妻イルザに恋した酒場の主リックはドイツ軍に追われるラズロとイルザのために飛行機のチケット2枚を渡し、自らは身をひく。
 男の美学を描いた映画だった。
 レジスタンスのリーダーもまた堀田さんではないが、連れ合いがいなければレジスタンスのリーダーなど務まらないのだ。

 だとするなら、独り身の人はどうすればいいのだと問われそうだが、その答えは生憎持ち合わせていない。

 福祉に携わっていた人としてよく知られた人物に湯浅誠さんがいる。
 この人も、現在は子ども食堂に関わり、未来の宝のために活動するようになった。
 堀田さんが人生最後の仕事として、子育てに関わることを決心したこととよく似ている。
 子宝というくらいだから、子育てにもっと国が力をいれてこなければいけなかったのだ。

2023年09月26日

「次世代の100人」に 五ノ井さんの勇気

 アメリカの雑誌「タイム」は、さまざまな分野で世界をリードすると期待される「次世代の100人」を発表し、元陸上自衛官の五ノ井里奈さんが選ばれた。とメディアが伝えている。

 9月14日のNHKNEWSWEBによれば、タイム誌は4年前から、社会的な活動を行っている人や芸術家など、若い世代を中心にさまざまな分野で活躍が期待される人を「次世代の100人」として独自に選出して発表している。

 13日に発表された「次世代の100人」では、所属していた部隊で複数の隊員から性被害を受けたと実名で訴えた、元陸上自衛官の五ノ井里奈さんが、権利や尊厳を守るために活動した「擁護者」の部門で選ばれた。

 五ノ井さんについて、タイム誌は、五ノ井さんの行動をきっかけに自衛隊内部のハラスメントに対して大規模な調査が行われ、他の多くの女性たちがみずからの話を名乗り出るようになったとしたうえで、「日本社会では、性暴力について声をあげることは長い間タブーとされてきたが、五ノ井さんの勇気がすべてのサバイバーに扉を開いた」と紹介している。

 このほか日本からは、両親が人権状況が懸念される中国の新疆ウイグル自治区出身で、日本銀行や国連本部の事務局に勤めてきた、衆議院議員の英利アルフィヤさんが、「指導者」の部門で選ばれた。
 
 タイム誌は、国会議員の大半が男性で占められ、平均年齢が高い日本において、多様性を推進するまれな存在だとしている。


 森達也監督の情熱で映像化された『福田村事件』を観ていたとき、日本社会の同調圧力の強さを痛感させられた。
 女子高校生が腹部でまき上げて調整したスカート丈はあくまでも短くて、しかも、ほとんどの生徒が同じ格好をしている。 
 就活生が身につけているスーツはほぼ全員が黒か黒に近い色だし、コロナ禍での所謂自粛警察というもののマスク着用などに関しての同調圧力もまた怖いほどだった。

 旧軍隊を受け継いでいる自衛隊は遅れていて、女性隊員に対するセクハラなど日常茶飯事であったのだろうが、誰かが告発しない限り表沙汰になることなど考えられなかった。

 米国の映画界で名の知られたセクハラ男、日本で少年を狙った芸能プロダクションの著名な創業者そして、女性隊員へのセクハラが目に余った陸上自衛隊の隊員たち。
 彼らは被害者にとって、逆らうことなどできないほどの絶対的権力者、メディアそのものが腐りきって加害者側に立つということで、告発者にどれほどの勇気がいたことか。
 考えただけで、ぞっとし、告発者には敬意を評したくなる。

 特に男社会の自衛隊で、セクハラを告発するということは時代を変革するくらいの勇気ある振る舞いで、立派だ。

 元ジャーナリストからの性暴力を勇気を振り絞って告発した女性。その被害者女性を揶揄した自民党比例で当選した女性議員がいたが、どうかしているとしかいいようがない。

 とにかく、流れは変わった。

2023年09月11日

水俣病患者連合元会長の佐々木清登さん死去

 水俣病患者連合元会長の佐々木清登さんが6日、死去した。93歳だった。
 水俣病未認定患者団体の中で、原因企業チッソなどと補償交渉を続ける自主交渉派のリーダー格として尽力。チッソ水俣病患者連盟元委員長の川本輝夫さん(1999年に67歳で死去)らと共に交渉の先頭に立った。

 1995年、未認定患者への救済問題を巡る「政府解決策」を「生きている間の救済」として苦渋の選択で受け入れた。と9月8日の読売が伝えている。

 水俣病資料館における語り部活動をしていたときのWEBによる人物紹介によれば、1955年、26歳で結婚した当時から、関節が痛くなったりしびれたりして、おかしいなと自覚しつつも、先祖代々から続く漁業一本の家業に従事していた。すでにこの頃から水銀に侵されていた。
 1956年長女が生まれたが、身体の具合は悪くなるばかり・・・。しかし、それにかまっておられず仕事を続けるしかなかった。
1959年頃、水俣病が一般に知られるようになり、漁業補償を求める運動が始まっている。
 959年11月の漁民騒動では、不知火海沿岸の漁民約2,000人がチッソ工場に押しかけた。先頭にたって参加した。その当時、私たち漁民の生活は言葉では言い表せないほどの苦しい情況だった。昔は大漁続きだった水俣湾に、異変が起こりだしていたからだ。
 その後、父に出ていた水俣病の症状も次第に重たくなり、最後にはあまりにも無残な死に方で亡くなった。
 けいれんが起こり、やがてはひきつけとなり、もがき苦しみながら病院のベッドで暴れ続け、父はベッドに縛り付けておかんとどうしようもなくなっていた。そのような苦しみが百十日続いた後、水俣病の苦しみから、ようやく解放されるように死んだ。
しかし、そんな壮絶な父の死を目の当たりにした私は、原因企業チッソに対する本当の怒りを覚えた。
 その後、水俣病被害者救済の道に進み、チッソや行政と交渉を重ねてきた。
水俣病問題は深刻な健康被害をもたらしたばかりでなく、住民の絆を損なうなど甚大な影響を地域社会に及ぼした。
 このような悲惨な公害を決して繰り返してはならないという思いで、語りつづけている。


 思えば、水俣病の語り部杉本栄子さんの話をNHKラジオで聴いてから、水俣病に関心を持つようになった。
 近年、米国の大統領選挙などで分断という言葉を耳にするようになった気がする。
 しかし、水俣では、街にある大企業チッソとその工場で働く労働者、対する水俣病に苦しむ漁民という構図で市と県、国が当然のことのように大企業寄りだったから、被害者である患者に対する偏見と差別は水俣病がまだ、原因が究明されていない当初は杉本栄子さんの語りでも取り上げっれていたようにそれは酷いもので、所謂村八分だったそうな。

 公式確認された1956年5月1日、あれから毎年5月1日に犠牲者の慰霊祭が執り行われるようになっているが、有機水銀が多量に含まれた汚泥をさらって、埋め立てした公園で市主催で行われる慰霊祭と乙女塚で行われる患者主体の慰霊祭が開催されていることだけでも分断というか、市に対する患者の信頼がない証拠のように思えてならない。

 患者のためを思って、1995年、未認定患者への救済問題を巡る「政府解決策」を「生きている間の救済」として苦渋の選択で受け入れた佐々木清登さんは自らの父親、自身も含めた患者の気持ちが一番理解できる人だから、政府解決策を受け入れることになったのであろう。

 未認定患者がまだまだいる水俣病に関しては、一部よろしくない、程度が明確でない人がいたりするようなことも耳にするが、とにかく、患者として認定してもらいたいという声を無視するわけにはいかない。

 水俣病特別措置法の救済対象から漏れた鹿児島・熊本県出身の水俣病不知火患者会会員130人が、国と熊本県、原因企業チッソに1人あたり450万円の損害賠償を求めた訴訟は2023年9月27日、大阪地裁で判決が出る。

2023年08月04日

やすだクリニック院長

 8月3日のNHKサラメシで仙台市青葉区でやすだクリニックを開院して10年になるという安田敏明さんの手作り弁当を紹介していた。
 番組で取り上げられるくらいだから、出来栄えは見事なもので美味そうに盛り付けられていて感心した。

 もっと驚いたのがその経歴である。
 クリニックの㏋によれば、ネパール王国(現在は連邦民主共和国)タンセンにあるネパール合同ミッションタンセン病院にて、G.P.として3年間の医療奉仕。

 帰国後、宮城県牡鹿半島の先端にある網地島で、廃校になった小学校を改築してできた網小医院で、開院より10年間院長として勤務。

 現在は、毎週水曜日に仙台のクリニックを休診にして、日帰りで網地島への外来支援を継続中。

 ネパールで3年間医療奉仕した時、あの岩村医師と一緒に写真に写っていたのを番組で視聴して驚いた。
 そのことが家族に大きな影響を与えたのかして、医師や国連職員などで家族が内外で活躍しているのだ。


 岩村医師とは愛媛県宇和島市出身。広島での被爆体験から医療の道に進んだ岩村昇さんのことである。
 日本で最初に設立された国際協力NGOの一つである日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からの派遣ワーカーとして、1962年ネパールに赴任した。
 当時、国民の平均寿命が37歳というネパールで、以後18年間、結核・ハンセン病・マラリア・コレラ・天然痘・赤痢等の伝染病の治療予防として栄養改善のために、史子夫人と共に活躍し、「ネパールの赤ひげ」と呼ばれた。とWikipediaに紹介されている。

 若い頃、岩村医師が活躍されていることを知り、野口英世以来、日本には立派な医師がいると敬意を表していたら、その後、アフガンで中村哲医師が活躍されていたがテロリストに殺されてしまった。

 安田医師は帰国後、宮城県の網地島でドクターコトーみたいに10年間も島の医療に尽くしたそうな。
 さらに、現在も週1回は島に渡って医療を続けているというではないか。

 簡単にできることではない。エールをおくりたい。

 医師には二通りあって、カネ儲けし、高級車を乗り回しているタイプ。岩村さんや中村さん、そして安田さんのように海外で頑張り、帰国してからも島の医療に尽くすタイプがある。

 海外で活躍する日本人のお陰で、国の印象までよくなってくるから、実にありがたいことだ。

2023年07月22日

人類の天敵天然痘 根絶へ奔走 蟻田功さん

 世のため、人のために尽力し、死去された人物を称える読売の「追悼抄」。その7月20日は、元WHO天然痘根絶対策本部長で、3月17日に死去された蟻田功さん。享年96歳。

 紀元前から世界各国で流行を繰り返してきた天然痘。感染力が強く、致死率は約3割に上る。
 世界保健機関(WHO)が1980年に根絶を宣言するまでの13年間、対策本部でウイルスの封じ込めに心血を注いだ。
 熊本市で生まれ,県衛生部長を務めた外科医の父を見て育った。熊本医科大学(現熊本大学医学部)を卒業後、技官として旧厚生省に入った。
 62年WHOがアフリカリベリアで天然痘対策の人材を募っていたとき、応募し、赴任したのは高温多湿の密林地帯だった。その後、WHO本部に移り、疫学研究のほか、ワクチンの品質向上と確保に取り組む。
 WHOは67年に対策本部を設置し、撲滅作戦を展開した。77年に本部長に就任。
 WHOは80年5月の総会で天然痘根絶宣言した。
 85年に帰郷し、国立熊本病院院長に就いてからも、海外の感染症対策に力を入れた。

 
 出身の熊本医科大学、現在の熊本大学医学部といえば、水俣病の治療に当たった原田正純さん、世界初のHIV治療薬 (AZT) の開発で知られる満屋裕明さんとそれぞれが世のため、人のため自分の立ち位置で活躍なさっていることから、敬意を表したくなる医学部である。
 熊本といえば、赤ちゃんポストで知られる慈恵病院もあるが、水俣病の患者に対する県や水俣市の取り組みに誠意が感じられないのはどうしたことか。

 蟻田さんの活躍に関しては、恥ずかしながら、全く知らなかった。
 今、読んでいるデイビッド・モントゴメリー, アン・ビクレー, 片岡 夏実訳 『土と内臓 微生物が作る世界』(築地書館)にも205ページから天然痘について取り上げていて、「ジェンナーは、病原性の弱い牛痘を人間に用いて、きわめて病原性の強い天然痘を予防する方法を発見した」と213ページに書いてある。

 ジェンナーのお陰で天然痘を撲滅することができるようになったことは学校で教えてもらったような記憶があるが、ワクチンを接種しなければどうにもならないことから、WHOで働く人たちを先頭に医療関係者には敬意を表したい。

 2020年からのコロナ禍では、先進国で日本だけがワクチンが作れず、特効薬を未だに作れないのは、自民党菅首相が学術会議のメンバーの任命拒否という蛮行を行ったことでワクチンを日本でつくれないことが証明された。
 政治家より優秀な学者の任命拒否などする資格がないにもかかわらず愚かである。
 学者への研究費は学者から政治家への税金の還流がないから、政治家は学者に冷たい。

 石の上にも3年というが、3年間辛抱して、米国製のワクチンを打ってきたが、痛いだけで、効果があったのかどうかすらわからない。

 蟻田さんが頑張ってくれた天然痘のウイルスは新型コロナよりはるかに危険だったから、根絶できたことはよかったが、コロナ禍も何とか感染抑止できるはずではないか。

2023年07月09日

戸籍のない人を支援する市川真由美さん

 社会保障の紙面に「安心の設計」というページのタイトルをつけ、「わたしのビタミン」という洒落たネーミングで世のために頑張っている人物を紹介する読売が7月4日の紙面で「無戸籍の苦労放っておけない」という見出しで戸籍のない人を支援するNPO法人代表市川真由美さん(55)のことを取り上げている。

 親が出生届を提出せず、「無戸籍」の状態になっている人がいる。事情があって届け出ができない、自宅で出産して出生証明書がない場合などである。

 健康保険証がない、学校に行けない、銀行の口座を開けないなど、大きな不利益を被っている人がいるのだ。そうした人の相談に乗って、年齢や親子関係がわかる資料を一緒に探し、戸籍を作る手続きをボランティアでサポートしているのが市川真由美さん。

 きっかけは経営する会社のアルバイトの募集でやってきた女性だった。
 「現金で給料を払ってほしい」と言い、住民票がないこともわかり、一緒に市役所に行き戸籍がないことがわかった。
 出生証明書も母子手帳も残ってなく、家庭裁判所で戸籍を作るのに、1年8か月かかった。
 女性は銀行口座を開設し、その後、夢だった音楽関係の会社に転職することができた。

 2016年に「無戸籍の人を支援する会」を設立し、現在はNPO法人として活動している。

 これまでに7人の戸籍取得に関わった。伴走して支えるのが私の活動だと、連絡をもらえば、拠点のある奈良市から会いに行くとの力強い言葉。

 幼いころ、虐待を受けた経験から辛い思いをしている人がいるのに知らん顔はできないそうな。


 人生の師とも仰ぐ作家池波正太郎さんが「「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。 善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。 悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。」と鬼平にしゃべらせているのを耳にしてから、この名言に影響されている。

 というのは、人の一生を考えた時、誰でも一度くらいは佳いことがあり、反対によろしくないことも必ず起きるものだということを悟ったのである。
 その佳いことが若いうちにくる場合と、晩年にやってくる人がいることもわかった。

 自分を例にするなら問題はなかろうと考え、わが身を振り返ってみることにする。

 父親が召集され、南方スマトラ島から無事帰国を果たして生まれたので団塊の世代で、首都圏の田舎町に生まれ育ったから、生まれ育った時代、生まれ育った土地、さらには先祖が遺した家と土地があったので、所謂親ガチャでラッキーな人生だった。

 しかし、40代早々、炎症性腸疾患クローン病になり、古希を過ぎてから連日、腹痛に悩まされている。
 という具合で、加齢とともに歯がダメになり、目は白内障、耳は耳鳴り、難聴ということで気持ちが冥くなることが多くなった。

 つまり、差し引きするとバランスが取れているということ。

 さて、無戸籍の人のために伴走する市川真由美さんである。
 幼い頃、虐待されたということで、「助けて」と叫んでも誰にも届かず耐えるしかなかった。
 SOSが届かないという点では、かつての自分と同じだと無戸籍の人のために頑張る市川さんの人生も助けはなかったが、人助けをすることでかつての自分にしっかり向き合っている。

 助けられたから次は自分が助ける側に回るというのは理想かもしれないが、助けられなくとも、助ける側に回るというのはもっと高邁な生き方である。

 松本清張の『砂の器』では、父親がハンセン病という己の過去を消したい本浦秀夫は大阪空襲で戸籍が消滅したことを利用し、和賀英良に成りすましたし、水上勉『飢餓海峡』では強殺犯犬飼多吉も他人に成りすまし、その街の名士になっていた。

 戸籍というものはそのくらい重要だということになる。

 字が書けない女性とお付き合いがあったが、学校に行かなければ字を書けるようにはならない。
 人はいろいろな事情を抱えて生きているものだ。

 ストーカー犯罪から逃れるために、住民票を動かさず姿を消すということも少なくないだろう。

 無戸籍は親の責任というものを強く認識させられる出来事ではある。

2023年04月18日

貧しくとも豊かな日常 美しく

 「顔 Sunday」というタイトルで社会で活躍する人物を紹介する読売のコラム。その4月16日はフィリピン最貧困地区の子どもたちを追う映画監督瓜生敏彦さん(65)。紹介しているのは小梶勝男記者。

 1988年には国際NGOの依頼でマニラにあったゴミ集積所スモーキーマウンテンを撮影に訪れ、そこでゴミ拾いをして暮らす子どもたちに衝撃を受け、マニラに移住して撮影に通うようになった。

 95年、住民と現地警察との衝突の中で、警察官に腹部を撃たれ、今も後遺症に苦しむほどの重傷を負った。

 「社会問題を映像で伝えようとしていたのが、死にかけて変わった。生きているうちに何人の子どもたちを直接助けることができるか、というふうに」と人助けを実践している。

 学校に行きたい。勉強がしたいと願う子どもたちのために2001年にはパヤタスとスモーキーマウンテンに読み書きなどを無償で学べる学校を自費で設立。これまで5000人以上が卒業している。
 14年には歌やダンスを学べる劇場も作った。
 右腕のビクター・タガロさんと共同で監督したドキュメンタリー『子どもの瞳を見つめて』が29日に公開される。
 「社会問題だけじゃなく、家族の絆など、今の日本がなくしてしまった貧しくとも豊かな暮らしも描いたつもり」だと瓜生監督。


 アフガンで住民のために医療行為をしながらも、病気は栄養を摂ることが先決と、砂漠のような土地に食料生産のために灌漑用水工事に取り組んだ医師中村哲さんがテロリストに殺害されてしまった。

 瓜生監督も住民と現地警察との衝突の中で、撮影中に警察官に腹部を銃撃され、今もその後遺症に苦しんでいるにもかかわらず、フィリピンの貧しき子どもたちのために奮闘しているとのことで、エールをおくらないわけにはいかない。

 映画監督だから、社会問題を映像で伝えるのは仕事であるが、これにとどまらず、子どもをたちを救おうと実践しているところが非凡なところで、敬意を表したい。

 実践活動でも、子どもたちが願った学校を自費で設立したのは素晴らしい。
 教育こそ、人を育てることだから、後を継ぐ人が育つ可能性があるからだ。

 阪本順治監督『闇の子供たち』を観たことで、タイの貧困問題を知ることができたが、東南アジアの国に限らず、日本でも貧困問題は酷いもので、自民党政治の負の遺産だと断言してもいい。
 食べることさえままならない日本の子どもたちを心ある人が子ども食堂を各地に設置し、救済に乗り出している。

 反日、反社の統一教会と手を結んだ自民党の政治家は世界の国々が次第に豊かになっていくとき、日本だけが下降線をたどっていく経済へのミスリードを続けながら、愚かな選挙民に支持され、今も、政権の座にある。

 維新が選挙で伸びているように伝えられているが、大阪でのコロナの感染死者が全国で一番多いのは、医療を切り捨ててきた維新の政策が間違っていたからにほかならない。
 ここでも、愚かな有権者が騙されていることに気づかない。

 人にはそれぞれ立ち位置があるから、そこで頑張るよりない。
 できることからやるしかない。

2023年04月03日

誰も取り残さない社会を 矢島祥子医師をしのぶ

 大阪市西成区で生活困窮者らの医療支援に当たり、2009年11月に区内の川で遺体で発見された群馬県高崎市出身の医師、矢島祥子さん(当時34)をしのぶ集会「さっちゃん、おかえりなさい」が31日、同市総合福祉センターで開かれた。
 約150人が、矢島さんの生涯をしのび、困窮者を取り残さない社会の在り方などを考えた。と4月1日の上毛新聞社WEBが伝えている。

 矢島さんは日雇い労働者の町として知られる同区の通称・釜ケ崎で医療に従事。路上生活者らに対する献身的な活動で「さっちゃん先生」と慕われた。09年11月、当時勤務していた診療所を出た後に行方不明となり、遺体で見つかった。大阪府警は事件と事故の両面で捜査を続けている。

 矢島さんの生涯を取材した本を出版したジャーナリスト、大山勝男さんは電話で出演。「さっちゃんの優しさはほんまもん。ボランティアを通り越え、ホームレスの人から『神を見たようだった』とも聞いて心打たれた」と強調した。


 「蟻の街のマリア」と敬われた北原怜子さんのことは映画化されているが、矢島祥子医師のことも心ある監督が映画化してもらえれば、もっと広く偉業が伝えられるはずだ。

 WEBによれば、矢島医師は、学生時代に高崎の教会で洗礼を受け、 マザーテレサに強いあこがれ・尊敬の念 を持っていて、インドまで会い行った事もある由。
 マザーテレサのように貧しい人のために働きたいという夢をかなえるために、大阪淀川キリスト教病院に就職し内科医として勤務し、後年、西成地区で医師として働き、あいりん地区でホームレスへの支援活動をしていたとき、当時34歳で殺された可能性が高く、その死を惜しまれている。

 何だか、アフガンで殺害された中村哲医師によく似ていて、気の毒でならない。

 中村哲医師も洗礼を受けていたと耳にしたし、アフガンの貧しき人々のために、病気を治すためには、栄養面からということで、砂漠のような土地に水をと灌漑事業に取り組むも、恩知らずなテロリストに殺害されてしまった。

 矢島医師も西成の貧しい人たちのために医療とホームレス支援に尽くし、西成のマザーテレサと称えられながら、恩知らずなバカ者に殺されてしまった。
 当初、不審死とされたが、貧しき民のために頑張ってきた人間が自死するはずもない。

 二人の現代のヒーローとヒロインの最期がこんな形では、神の存在を疑ってしまいたくなる。

 これほどまでに尽くしてくれた人を殺害してしまう恩知らずな人間がいることに対し、気持ちが通じない苛立ちと所詮ボランテイは自己満足にしか過ぎないのかと哀しい気持ちになってしまう。

2022年12月31日

善意届ける伊達直人、ウクライナへ防寒着送る学生  

 東京都品川区に28日、人気プロレス漫画「タイガーマスク」の主人公・伊達直人名義で、7万円分の商品券が届いた。商品券には手紙が添えられ、「親御さんのいない子どもたちに届けて」とのメッセージが書かれていた。区には10年前から同様の名義で商品券が送られていたが、送り主は昨年、「引退」を表明しており、今回は別人が「初代」の意思を引き継いだとみられる。と読売が(岡本立記者)伝えていた。

 ロシアによる侵略が続くウクライナに向け、全国各地の学生たちが連携し、冬用のコートやセーターといった防寒着をウクライナに送る活動を展開している。ロシアは、エネルギー施設を標的にした攻撃を繰り返し、現地は厳しい寒さの中で停電が頻発。学生たちは「衣服を通して、私たちの思いが伝わればうれしい」と話している。と12月30日の読売が(長内克彦記者)伝えている。

 プロジェクトは、学生団体「Student Charity for Ukraine」が企画。隣国のポーランドを拠点とする人道支援NPO「UAid Direct」を通じ、ウクライナ国内の避難民に防寒着が配られるという。

 学生団体代表の三宅大生さん(22)(東京大3年)は2022年10月、日本財団ボランティアセンター主催の派遣プログラムに参加。ウクライナからの避難民が多いポーランドとオーストリアで約2週間、温かいスープを提供したり、荷物運びを手伝ったりするボランティアを体験した。
 ここで、避難民の多くが着の身着のままに近い生活で、防寒着が不足していることを知っていたことが契機となって、防寒着を送ることに着目したとのこと。


 まず、品川区の2代目伊達直人と学生団体に関わる大学生諸君にエールをおくる。
 タイガーマスク運動は2010年12月25日、群馬県で始まったとされているが、近年はニュースが流れてこないので、残念ながら終わってしまったのかと思っていたら、品川区でのニュースが流れ、まだ続いていたのだということで嬉しくなった。
 すると、今度は21世紀のヒトラー+スターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナに侵略し、この寒い時季にエネルギー関連施設を攻撃し、ウクライナ市民を凍死させようと、まさに鬼畜の所業、悪魔というしかない攻撃を繰り広げている。

 見かねた日本の学生たちが立ち上がり、ウクライナの避難民に防寒着を届けるという嬉しいニュースが流れ拍手喝采を送りたくなった。

 語り継ぐ戦争だから、77年前、1945年8月9日未明、ロシアの前身ソ連が満州や朝鮮半島、樺太に侵攻し、満州の曠野を逃げ惑い、日本へ引き揚げようとした満蒙開拓団員は季節が冬になったとき、冬物の衣類がなくて困った。
 さらに、ソ連軍の捕虜とされ、シベリアに強制連行され、シベリアに抑留された人たちの中でも冬のシベリアの寒さを防ぐための衣類に困った人がいた。

 伊達直人が育った孤児院で暮らした経験があるらしい作者の梶原一騎はじめ、敗戦後の日本では戦災孤児がいて、あちこちに清太と節子がいた。

 戦後、復興した街で孤児院が児童養護施設と呼ばれるようになってからは、戦争とはかかわりなく、家庭に恵まれなかった子どもたちが収容されていた。

 いずれにしても、善意というものは素晴らしいもので、その善意を実践しているところに伊達直人やウクライナを支援する学生たちの素晴らしさがある。

2022年12月23日

マグサイサイ賞に選出された服部医師

 アジアの平和や発展に尽くした個人や団体をたたえ、「アジアのノーベル賞」とも呼ばれるフィリピンの財団によるマグサイサイ賞に、ベトナムで長年、白内障などの手術を無償で行ってきた「アジア失明予防の会」代表の眼科医、服部匡志さん(58)が選ばれた。とメディアが伝えていた。

 8月31日のNHKニュースによれば、過去には、貧困や飢餓に苦しむ人たちの救済に生涯をささげたマザー・テレサや、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世などが受賞している。
 
 服部さんは、ベトナムで貧しさから白内障などの治療が受けられず、失明する人たちを救おうと、私財も投じておよそ20年にわたって手術や治療を無償で行い、高度な手術ができる眼科医の育成にも力を尽くしてきた。

 服部さんの取り組みで、これまでに治療を受けた患者は2万人以上に上るという。

 9月1日の読売によれば、服部医師は大阪府出身で、「ベトナムの赤ひげ先生」と呼ばれるそうな。
 2002年ベトナムの医師に招かれて現地を訪れ、眼科医や治療設備が不足していることを知り、帰国後、手術で得た報酬で医療器具などを購入し、両国を往復しながら、ベトナムで無償での治療や医師の育成に携わってきた。
 13年、読売国際協力賞を受賞している。


 年末になると、この時期、毎年決まって行く年を振り返ってしまう。

 2022年一番の大きなニュースはロシアによるウクライナ侵略で、ウクライナからクリミアを強奪しただけでは気がすまない21世紀のヒトラー+スターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンは、厳冬期の今、ミサイルでエネルギーインフラを攻撃し、ウクライナの人々を凍死させようと目論む。
 まさに、悪魔殺人鬼と命名したとおりの蛮行で、絶対許せないとウクライナの人々の怨念が伝わってくる。

 個人的には、9月、細菌感染による腎盂腎炎で入院した。当事者でないとどうってことはないかもしれないが、命拾いしたことは確かである。
 コロカ禍の最中であり、39度の熱が下がらないということで、歩けなくなり、救急車のお世話になって、炎症性腸疾患クローン病で通院している病院に運んでもらったが、コロナの抗体検査で陰性だったにも拘らず、PCR検査の結果が出るまでは陽性かもしれないと入院させてもらえず、点滴で熱は下がり帰宅させられた。
 当然、翌日コロナではなかったと病院から連絡されたが、その時、さらに体調が悪化し、再度病院に行き、今度はようやく入院させてもらえた。
 もし、入院させてもらえなかったら、敗血症で死ぬところだった。
 連れ合いが奮闘してくれて、病院と交渉してくれたことで、命拾いしたが、入院しなければ、治らないことだけは明白だった。

 医師のお世話になったからというわけではないが、必ず、書くつもりでとっておいた新聞にアジアのノーベル賞だとされているマグサイサイ賞に服部匡志医師が選ばれた記事を見つけ、書いておくことができた。

 赤ひげ先生とは山本周五郎『赤ひげ診療譚』(新潮文庫)の小石川養生所の医師新出去定のことで、貧しい患者に寄り添った診療したことで人々から尊敬された人物のこと。

 服部医師に限らず、医師という職業柄、世のため他人のために尽力する人は数知れない。
 古くは野口英世博士を筆頭に、近年ではアフガンの中村哲医師も。

 服部医師が活躍されているベトナムといえば、米国との戦争に勝利した数少ない国だ。日本に来ているベトナム人は犯罪者が目立ち、嫌悪感を抱いていたが、ベトナム戦争のとき、米軍の爆撃機が沖縄の嘉手納などを使っていたから、日本は加害者みたいなところもある。

 当時、ラジオから流れた歌にマリオ清藤の「ユエの流れに」があった。
 天童よしみが歌った「美しい昔」は流行ったから知っている人も少なくないだろう。
 だから、個人の善意であるにしても、服部医師の御尽力で友好関係ができることは喜ばしいこと。
 
 服部医師にエールを送りたい。 

2022年12月17日

夜の街で 届ける希望

 師走になって、年の瀬が近づくと読売の年末恒例の連載「木枯らし」が気になる。
 その2022の12月15日は「夜の街で 届ける希望」「家出、売春で妊娠…苦しむ女性 支援」という見出しで出産直後に母親が赤ん坊を捨てて死なせる事件が後を絶たないことを知った坂本早希記者が女性の窮状に手を差し伸べている人物のことを伝えている。

 東京の歓楽街新宿歌舞伎町で夜陰に紛れて路地に立つ若い女性。男と交渉がまとまれば、近くのホテルに消えていく。
 そんな女性たちに地元NPO法人「レスキュー・ハブ」代表の坂本新さん(51)が「元気かい?」と声をかけながら夜回りを繰り返す。

 大手警備会社に勤務、42歳で退職すると生活苦の子どもを支援するNGOの勤務を経て、2020年4月、約10人の仲間とともに「レスキュー・ハブ」を設立した。

 立ちんぼする女性が客の子どもを妊娠し、病院で診察を受けないまま臨月を迎えていた。
 「あと2週間で生まれるけど、育てる気なんてない」と話す女性の手を引き、病院を受診させ、区役所で母子手帳をつくらせ、本人の希望通り、養子縁組の手続きを済ませた。
 女性は無事、男児を出産。赤ん坊を里親に渡す日、「最後に一度くらい抱っこしてみたら」と勧められ、我が子を抱いた女性は母性を取り戻す。
 女性は今、昼のアルバイトで生計を立てながら、育児に励む。

 坂本さんの至福のときである。


 事実だから何度でも書くが、夫と子どもがありながら、何が不満だったのか、たった一度の男女の関係で妊娠してしまい、誰の子どもかわからない子どもを妊娠し、当然のことながら、夫から離婚させられるも、母子で生きている女性がいた。

 かと思えば、連れ合いの飲み仲間だった女性は不妊治療をしていたが、どうしても子どもを授かることができなかった。

 赤子の生み捨てのニュースが流れる度、赤ちゃんポストのことが頭を過る。 親が育てられない子どもを匿名で預ける「赤ちゃんポスト」の新設を東京の医療法人社団が模索していると10月28日の読売が伝えていたが、熊本の慈恵病院だけでは遠すぎて頼れないという首都圏の女性には急がれるニュースである。

 韓国の赤ちゃんポストと養子縁組の問題を扱った是枝裕和監督『ベイビーブローカー』を観ているが、赤ちゃんポストは養子縁組の問題と深くかかわっている。

 語り継ぐ戦争では、ソ連兵などから性的暴行され、引き揚げ後、妊娠中絶を余儀なくされた女性たちのことを何回となく書いてきた。

 大都会東京で女性が一人で生きていくのはしんどい。
 手っ取り早くカネをか稼ぐには売春しかないとしても、妊娠するくらいなら、梅毒にだって罹患する可能性が高い。
 その彼女たちのことを支えている坂本さんにはエールをおくりたい。

2022年11月26日

ドナー足りず 臓器移植件数伸び悩む

 脳死下の臓器移植を認めた臓器移植法の施行から10月で25年。生前に臓器提供の意思表示をしている人は約1割にとどまり、移植件数は伸び悩んでいる。と11月18日の読売が夕刊で伝えている。

 臓器提供した人の家族は「人の役に立ちたいという気持ちは尊い」と、意思表示をする人が増えるよう願っている。(藤原聖大)

 看護師のマーフィー 麻未 さん(38)の父・ 文司 さん(享年67歳)が自宅で脳梗塞 を起こしたのは、今から数年前のこと。手術後も意識は戻らず、脳死状態となった。
 臓器移植を娘に勧められていた父親が移植の同意書にサインをしていたことから、正式な脳死判定の翌日。家族みんなで書いた感謝状を贈り、手術室へと送り出した。
 心臓と左右の肺、腎臓が5人に提供された。後に、臓器あっせん団体の日本臓器移植ネットワークを通じ、提供を受けた人から感謝の手紙が届いた。

 麻未さんは「意思表示が後押しになり、移植を心待ちにしていた方々に父の臓器を届けることができた。悲しいけれど、誇らしくもあります」と語った。

 2022年8月、NPO法人「難病患者支援の会」が仲介した途上国での生体腎移植で臓器売買が行われた疑いがあることが判明した。


 戦前、戦後の日本では貧しい家庭の娘たちが忘八者と呼ばれた女衒を介して、遊廓に女郎として売られた。
 本を読んでこうした事実を知り、人身売買に反対するようになり、その立場から発信もしている。
 貧しさゆえに売買され、その昔は奴隷となっていた人々が近年では臓器売買のターゲットにされていると耳にしたことがある。
 カネがあって、臓器移植が必要な立場にあれば、買い求めることができるなら、当然、その臓器を使ってでも臓器移植をしたいところだろう。

 東邦大学医療センター大森病院だったと耳にするが、腎臓移植を受けた家族の同級生がいたし、演歌の女性の歌い手もやはり、そこで腎臓の移植手術を受けたやに聞く。

 臓器移植のドナーが足りなくて、移植を待ち望んでいる人が困っていることは知っていた。

 自分は生きているうちは、ボランテイアとして、自分の立ち位置でやれることはやってきた。
 若い頃、病気をする前には、献血を回数多くやって、確か、バッジだったか貰った覚えがある。さらに、社会をよくするために頑張っている団体への賛助などで、カネを使ってもきた。
 戦没者の慰霊の旅もそうだ。
 しかし、臓器移植のドナーになる同意書にはサインするつもりはない。
 個人的に生前にやれることはやってきたので、死んでからは自分の躰はそのまま火葬してもらうように家族にも伝えている。
 長いこと、病気で苦しんできたから、そっとしておいてほしいというのが願いだ。

 それだけに、死んでから臓器を移植してもいいという人は偉いと敬服する。

 紙面で紹介されていた看護師のマーフィー麻未さんは仕事で移植医療に関わっていたから、臓器移植のドナーが足りなくて、移植を待ち望んでいる人が困っていることから、1人でもドナーを増やそうと努力されていたことにエールをおくりたい。
 同じく、東日本に住む会社員の遠藤麻衣さん(39)は、脳梗塞で倒れ、臓器提供を行った母親のことを通して、臓器提供の意思表示の大切さを中学校などで講演しているという。このことにも頭が下がる。

 自分の立ち位置でそれぞれができることを為すことで社会は着実に住みよくなる。

2022年11月07日

誰もが輝ける社会に

 「農福連携」の拡大に取り組む渡部淳さん(55)のことを11月1日の読売が社会保障の紙面、「安心の設計」で取り上げている。

 福祉に関わる人物を紹介する「わたしのビタミン」というネーミングが気に入っているタイトルで紹介されていた。

 有機無農薬農業に関心を持ち、福祉にも関わったことがある立場だからか、農業と福祉をつなぐ「農福連携」の動きが広がることを大いに歓迎している。

 渡部さんは大手銀行やが外資系証券での勤務後、障がい者の就労を支援する社会福祉法人の評議員や保護司を務める。
 2020年2月から一般社団法人「日本農福連携協会」の総務部長兼財務部長に就き、「農福連携」の拡大で誰もが輝ける社会のために活動している。

 キャリアからいって、農福連携という福祉の分野に職を転じたのは何故かと思っていたら、長男が知的障がいを伴う自閉症だということで、いずれ、福祉の分野で働くつもりだったそうな。
 
 その長男は4年前、ある企業の特例子会社に就職したが、自分や連れ合いが退場した後のことを考えると一人で生きていけるか不安だという。
 多様性を受け入れられるような地域づくりが必要だという言葉に説得力があるわけである。
 様々な生きづらさを抱えた人が輝き、生きがいを持って暮らしていける社会を目指して、環境整備に取り組みたいとのこと。


 わが家には少しばかりの畑があり、小学校高学年になった頃には、休日ともなると父親が畑をやるので有無を言わさず手伝わされた。
 16歳になったばかりで父親が病死し、畑は荒れ放題になった。
 社会人になって、荒れ果てた畑が枯草だらけの時期に誰かに火をつけられ、消防から、管理不行き届きで始末書を書かされた。
 仕方なく、開墾することから始め、梅や栗などの果樹を植え、草刈りをするようになった。

 時は流れて、病気加療のために早期退職してから、有機無農薬農業に目覚め早や20年くらい経つ。

 農福連携といえば、一般的には自分の家族に障がい者がいたりして、働く場を求めて農業に参入ということになりそうだ。
 障がいといえば、連れ合いが人工股関節の手術をした関係で障がい者手帳を持っているくらいで、どちらかといえば、担い手不足だという農業に限りない未来があると信じてその担い手として、出所者や障がい者の働く場を提供してもらうことがベストだと考えていたわけである。

 パラリンピックが東京五輪で一緒に開催され、れいわ新選組の山本太郎代表が特定枠を使って3人も国会へ障がい者を送りこみ、先般、質疑の様子がTV中継されたのを視聴して、障がい者への社会の目に隔世の感を抱く。

 谷垣禎一自民党の元幹事長のような著名な政治家が愛用の自転車から転落して、障がい者の仲間に加わったことで、障がい者に対する社会の目も次第に変化していくはずだ。

 その障がい者の自立に一番欠かせないのが仕事である。
 様々な生きづらさを抱えた人が輝く、なんて素敵な言葉だろう。
 しかも、生きがいを持って暮らしていける社会をめざして。

 渡部淳さんのようなキャリアを持つ人が先頭に立ち、農業と福祉に明るい人材が集まれば、農福連携の将来は明るい。

 農業の担い手は出所者は無論のこと、生活困窮者だって、食べるものを生産する農業こそ彼らを救うと信じる。 

2022年10月29日

「孤児の母」韓国で孤児3000人超育てた日本人

 戦前から戦後にかけて、韓国の南西部で3000人を超える孤児を育てた田内千鶴子さんが、10月31日で生誕110年になるのを記念する行事が現地で開かれ、およそ750人が参加したと10月29日のNHKが朝のニュースで伝えている。

 1912年に高知県で生まれた田内千鶴子さんは、7歳の時から韓国南西部の木浦で暮らし、結婚を機に現地の児童福祉施設「共生園」の運営に携わるようになった。

 朝鮮戦争で、夫が行方不明になったあとも運営を続け、1968年に56歳で亡くなるまで3000人を超える孤児を育て、韓国では「孤児の母」と呼ばれている。
 1963年には外国人女性として初めて韓国の文化勲章を受章した。

 式典では、尹錫悦大統領が「激動の中でも、子どもたちを守ろうとした田内さんの愛と献身は、日本と韓国の国民の心を動かした」として功績をたたえるメッセージが読み上げられた。


 高橋伴明監督、吉澤悠主演『道 白磁の人』を2012年だったか観ているので、韓国で植林事業に勤しみ、白磁で活躍した陶芸家浅川巧のことは知っていた。

 韓国であろうが日本であろうが「孤児の母」と呼ばれるということはそれだけのことをしているわけで頭が下がる。

 北朝鮮のスパイみたいな人物が大統領になってから、韓国と日本と関係は明らかに冷え込んだばかりでなく、反日、反社の教祖が多額の献金で日本人の家庭を壊して集めたカネを海を渡って韓国にもたらした金額のあまりの高額さに民族派の自分としては怒りで体が震えた。

 その手先になっていたのが保守だと称している自民党の議員だというのだから、これまた怒り心頭である。

 大統領と教祖、この二人がやったことで、自分は明らかな嫌韓人間になってしまった。
 新しい大統領は日本と仲良くしようとしている様子が見えるから、少しは関係が改善される余地はあるだろう。

 それでも、合同結婚式で韓国人と結婚させられた日本の女性たちの行く末が気になって仕方ない。

 隣国同士だし、仲良くするのが両国にとっての利益につながるはずだから、もっと良好な関係になることを願う。
 ために、韓国のために尽くした日本人田内千鶴子さんや浅川巧さんのような人を日本でも称えることが必要だ。
 同時に、旧統一教会のような反日、反社のカルト教団の日本での活動を許してはならない。 

2022年10月27日

「ギニア虫症」根絶間近 日本人医師が貢献

 アフリカなどで流行した激痛を伴う感染症「ギニア虫症」が撲滅へあと一歩に迫っている。寄生虫の一つ「ギニア虫」が引き起こし、1980年代には年間350万件も発生していたが、米国の非政府組織が主導した撲滅活動で今年は8月までに6件を数えるのみ。

「貧困の象徴と言える感染症を早く根絶させなければ」。同組織の職員として現地で活動した経験を持つ大阪市の医師、藤田由布さん(47)。
 2014年に医師免許を取得した藤田さんは「またアフリカに渡り、安全な出産の実現など医師として力を尽くしたい」と思いを語った。と9月26日の読売が夕刊で伝えている。(山口優夢記者)

 1986年以降、撲滅活動を主導していた非政府組織「カーターセンター」の職員として藤田さんは2003〜04年、西アフリカ・トーゴで撲滅活動に取り組んだ。
 トーゴ北部の村では、ギニア虫症に感染し、脚の激痛で絶叫する女性患者を目の当たりにした。痛みで暴れる女性をおさえて治療に協力した。

 ギニア虫は主にサハラ砂漠以南に生息する寄生虫。池の水を飲んでいる地域では、水と一緒にギニア虫が寄生したプランクトンをのみ込み、感染してしまう。ギニア虫は人間の体内で成長し、ひどい時は脚の皮膚を突き破る。ギニア虫を殺す薬や感染を防ぐ予防接種はなく、治療法は傷口から虫を取り除くしかない。

 ギニア虫症の撲滅には日本も力を尽くし、政府は、モーリタニアなどの流行国に井戸建設の費用を数十億円規模で援助してきた。今年8月には、同センターの活動を医療分野の優れた業績と認め、「第4回野口英世アフリカ賞」を授与した。


 子どもの頃、伝記を読んだかして野口英世博士がアフリカで黄熱病の研究中に黄熱病に感染して亡くなったことを知った。
 アフガンで医療だけでなく、病気の根本原因となっている貧困問題を解決するため灌漑用水を敷設することまでやってのけた中村哲医師は、恩知らずな人間に殺されてしまった。
 野口英世博士や中村哲先生は偉大に人物として世界の人々から称賛されるような活躍をなさったが、医師という職業はほかにも様々な分野で外国で活躍なさっている人がいて、同じ日本人として真に誇らしい。

 藤田由布医師もまたその志が素晴らしく、エールをおくらないわけにはいかない。
 失礼ながら、年齢からするとアフリカで活躍した後、医師の資格を得ていることになるから、アフリカに渡ったときはまだ医師ではなく、その後、勉強して医師免許を得たことが偉い所以である。
 
 さらに、今は日本で暮らしているが、再度アフリカに渡るつもりだと耳にすれば、余計感心するばかりである。

 人というものは10代、20代、30代ならいざ知らず、アラフォーを過ぎてしまえば、だんだん元気もなくなってくるというもの。
 まあ、40代であれば、まだやる気さえあれば、チャレンジできないわけではない。
 アフリカに行くとなれば、この年代しかないといえばないかもしれない。

 藤田由布医師のように海外で頑張る日本人が一人で多ければ、日本の評価が上がる。
 発展途上国に援助することは善事といえば、善事なれど、そのカネで現地で人を育てる必要がある。

 ために、カネは大事であるが、現地の人に寄り添う人材が欠かせず、藤田由布医師のような力が求められている。
 健闘を祈る。

2022年10月19日

100年前 ギリシャ難民救った日本船 船長は日比左三?

 1922(大正11)年、ギリシャと戦火を交えていたトルコの港湾都市で、多くのギリシャ人ら難民を日本船が救ったと、欧米の新聞で紹介された。
 詳細な情報がなく、一部研究者の間で知られるのみだったが、当時から100年を経た今年、船長の名前や出身地など、新事実がわかってきた。と10月7日の読売が伝えている。

 ギリシャ・トルコ戦争のとき、火災で逃げ場を失ったギリシャ人やアルメニア人をトルコ西部の港湾都市スミルナ(ギリシャ名)に停泊していた日本船「Tokeimaru」が積み荷を捨てて救ったという。

 村田奈々子東洋大学教授が当時の海運雑誌から、助けたのは「東慶丸」で船長が「日比左三」ではないかと突き止めた。
 日比という名前から知多半島南知多町の出身の船乗りで、中国に渡った同名の人物がいることが判明した。
 さらに、日比は当時の日本では珍しいキリスト教の正教徒だったという。


 横浜の大倉山で開催中の布と陶器の二人展に行った後、大倉山記念館を訪れた。
 知人の奥方が陶芸を嗜み、3年前に次いで再びの開催であった。
 素人とはとても思えない出来栄えで、傘立てを買い求めたのだが、インパクトがあったのは、陶製の靴で、知人の説明によれば、横浜だから赤い靴だそうな、
 
 さて、100年前のことにしても、人助けというのは素晴らしいことで、助けられた側はその恩を忘れはしない。
 ユダヤ人に『命のビザ』を発給した杉原千畝に匹敵する偉業だと紙面で紹介されていたが、全くそのとおりだ。

 悪いことをした場合、例えば、先の大戦での日本軍の兵隊による中国大陸や朝鮮半島での性的暴行事件やソ連軍が満州や朝鮮半島、樺太などで日本人女性にやった性暴力、さらには、戦後のシベリア抑留は100年経っても被害者からの恨みが消えることはない。

 船長日比左三、愛知県出身だと断定できたとは書いていないが、ほぼ間違いないだろう。

 この人のお陰で、ギリシャ人の日本人に対する印象が良くなっているとすれば、困っている人がいたら、知らん顔できないことになる。

 しかし、ソ連の後のロシア人には仲良くする気持ちになれない。
 語り継ぐ戦争で、ソ連の嫌なことばかり知ってしまったからかもしれないし、ウクライナへの侵略の影響も大ありだ。

 大倉山記念館は石造りと思しき堅牢な建物で、緑豊かな高台にあり、坂道を上っていくのは大変だが、こういうものを残してくれた先人には感謝するしかない。後世の人に喜ばれることをするというのも人間の生き方として尊敬できる。

2022年09月27日

香山リカ先生 北海道の僻地の診療所に

 80年代後期にマスコミに登場し、丸メガネとリボンの精神科医として知られるようになった香山リカ先生。

 08年からは立教大学現代心理学部教授として教壇に立ち、09年に発売した『しがみつかない生き方「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎)は48万部超のベストセラーに。

 TVにも出演し、名の知られた有名人でもある精神科医が2022年4月から本名で、北海道の過疎の町むかわ町穂別で総合診療を担っている。とWEBの女性自身日曜日が伝えている。

 高齢化で地域の過疎化は進み、医師不足で診療に深刻な影響が生じている市区町村は多々ある。
 同診療所も不在だった副所長職の公募をかけていたところ、21年6月に香山さんが応募したのだ。

 専門としていた精神科とは異なり、僻地の診療所では、虫刺されに打撲・外傷の救急搬送、ときに入院患者の臨終まで、あらゆる医療への対処が求められる。
 ために、出身校である東京医大病院で1年間研修をしてきた。

 へき地医療に取り組もうとした理由を問われ、医師の偉大な先輩として尊敬していた中村哲先生が凶弾に倒れ、非業の死を遂げられたことで、自分の生き方を考えさせられた。
 中村哲先生は「一隅を照らす」という言葉で、今いるところで必要とされている人のためにできることをすることが大切だ。と話された。
 
 両親と死別したことも大きい。
 周囲にへき地の地域医療に取り組む知人がいたことも影響を受けた。
 せっかくの医師免許を世のため、他人のために生かしていないのではないかと自問自答もした。


 40代早々、3か月入院し、先般も、9月7日から1週間入院し、またしても、医師、看護師など病院のスタッフに助けられた。
 病気とは長いつきあいだから、ふだんも通院しており、医師には大変お世話になっている。
 当然、感謝の気持ちを忘れたことはない。

 その医師の中には、へき地の地域医療に取り組む医師がいるということを耳にするだけで頭が下がる。

 へき地の地域医療といえば、すぐに「ドクターコトー診療所」を思い出す。
 天才中島みゆきが歌う主題歌「銀の龍の背に乗って」とともに。

 その筆頭にあったのはアフガンで医療と治水、灌漑用水で農業を確立させ食料を自給するという理想にチャレンジした中村哲医師である。
 ところが、恩知らずにも程があるアフガンのバカ者はその恩人を殺害した。中村哲医師が凶弾に倒れ、非業の死を遂げられてから、自分は、その後、明らかにアフガンから全く関心がなくなった。

 姪が医師をしていて、医療関係者でつくるオーケストラ医家オケのメンバーとして演奏活動をしていたが、コロナ禍で演奏会が流れている。
 その姪が、大学から派遣されたのだろうか、震災前のことだが、遠野の病院に勤務した時、家人と子どもが招かれ、街を案内してもらい、泊めてもらったことがあり、今でも、時々わが家で話題になることがある。

 田舎だから、人の心が温かいそうで、とても佳い思い出だと姪が話しているのを耳にしたことがある。

 さて、北海道のへき地(差別用語だったら、謝る)の診療所と言っても、CTはあるらしいし、ドクターコトー診療所よりは設備が整っていそう。

 それでも、失礼ながら、精神科の先生は血を見ることなどほとんどないだろうから、同じ医師とは言いながら、よく決断されたものである。
 2022年4月からだから、石の上にも3年という諺にもあるように最低3年は頑張っていただきたい。

 医師免許がこんな形で世のためになるということで、その原動力となった中村哲先生は実に偉大だった。

 とはいうものの、楽な人生を歩めたのに、還暦過ぎて、厳しい人生を選択したのだから、お天道さまは何としても、香山リカ先生に力を貸してあげてほしいと強く願う。

 さらに、後に続く人がでたら、もっと嬉しい。

2022年04月26日

元受刑者を老人ホームで雇用 渡辺正行さん

 読売の社会保障の紙面で、「安心の設計」と題し、福祉に関するニュースを伝えている。 
 その4月19日の同じ紙面で「わたしのビタミン」という洒落たタイトルで福祉方面で活躍している人物として、運営する老人ホームで刑務所出所者らの就労支援に取り組む渡辺正行さん(54)のことを紹介している。

 職員70人のうち、刑務所や少年院の出所者らは約20人。知的障がいや発達障がいを抱える人もいて、コミュニケーションがうまく取れない人には清掃や洗濯を担ってもらうことで、介護職員が本来の業務に集中できる。

 出所者の更生に尽力する渡辺さん。
 実は、高校1年生の時、夜中に酒に酔い、喧嘩騒ぎを起こして逮捕されたことがあるというのだ。翌朝留置場で目を覚ましうなだれていると、間もなく釈放された。
 養親だった父親が夜通し地域の関係者に頭を下げて回ってくれた結果だったことを知る。

 大学に進学し、国家公務員になってキャリアを積むうち、2007年、経営が傾いた老人ホームに勤める知人から再建への協力を頼まれた。
 3年ほど休職して手伝ううちに仕事に興味関心ができて、介護業界に飛び込む。

 当時40歳代になった頃で、少年時代の不始末を思い出し、介護の現場で更生を支援できないか考えた。

 親父は血のつながりはなくとも私を守り、一人前に育ててくれた。その恩返しの思いもあったそうな。

 全国の刑務所や少年院を回り、出所を控えた受刑者ら約200人と面談し、これまでに約130人を採用した。

 1人でも多くの受刑者らに自立のチャンスをつかんでほしいと願っている。


 出所者の更生に尽力している三宅晶子さんのことを紹介したことがある。
 三宅さんと渡辺さんの共通点と思うのは、若い頃、警察のお世話というか、少々道を踏み外しそうになったことがあるところか。

 ただし、非凡なのはそれを糧に自分が支援する側に回ったことで、渡辺さんにもエールをおくりたい。

 西岸良平の『三丁目の夕日』で強盗した青年を立ち直らせる社長の話があったと記憶する。
 渡辺さんには、養親がこの社長と同じ役割を果たしてくれたのだろう。

 そう、人間一人では生きられない。
 誰かの支えが必要で、支えられた人は、次は自分が誰かの役に立つ。
 生態系ではないが、お互い様なのだ。
 
 人間誰しも過ちを犯す。
 法と道徳といえば、自分を例にすれば、たたけば埃が出てくるどころか、穴を掘って隠れなければならないようなことはいくらでもある。

 しかし、過去がそうであっても、過去を消して生きることはできない。
 だから、反省して、誰かのために生きることで、過去の自分を反省する。
 
 水上勉『飢餓海峡』で過去のある男が、成功して贖罪のように慈善事業をしたりするが、罪を償っていないから、当然、過去から追われるのだ。

 受刑者が自立するためには大勢の三宅さんや渡辺さんがいなくてはならない。