2026年07月26日

離島支えるひとり医師

 「Single Style シングルスタイル」と題する紙面に「離島支えるひとり医師」「生きる」「看護師ら周囲と力合わせ」「『できない』見極め専門医へ」「『もしも』考えるゲーム カード使い死生観見つめる」という見出しの7月23日の読売(飯田真優子記者)の記事に興味を惹かれた。

 記者も書いているが、TVドラマの影響か「離島でひとりで働く医師」という存在に興味があった。
 再放送されれば視聴し、映画も観た『ドクターコト―診療所」。中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」の主題歌を尺八で練習したら、滅茶苦茶難しくて楽譜通りに吹けず、歌にならなかった思い出もある。

 離島で働く医師笹尾怜子さん(37)の話を聞きに記者が向かったのは現在の勤務地沖縄県の竹富島だった。


 竹富島を訪れたのは、1985年1月のことだからもう、40年余り前のことになる。
 那覇空港から飛行機で石垣島に行き、フェリーで竹富島に渡った。
 この時は、後年、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を3回も訪れることになるとは思いもよらないことだった。

 竹富町立竹富診療所が笹尾医師の勤務先で、看護師池末典子さん(46)、医療事務を担当する友利由紀さん(59)の3人がスタッフである。

 ドクターコトーこと五島健助医師は、ゴッドハンドというかどんな手術もOKというスーパードクターだった。

 笹尾医師は、2026年3月から7月いっぱいまでという期間限定であり、島の診療所でできることは限られるため、「リスクが高い患者はいち早く搬送して島外の専門医につなぐ」という判断こそがへき地の医師の大事な仕事だという。
 「できない」の見切りと協力を求める判断。まさに単身者が磨きたいスキルにも通じるだろう。とは記者の思いか。

 海の日、東京初台のオペラシテイで医療関係者のオーケストラ、医家オケの定期演奏会があり、いつもご招待してくれている姪は、若い頃、医局から遠野の病院への赴任を命ぜられ、遠野にいるとき、連れ合いなどを招待してくれた。
 東京から赴任する医師は田舎で大歓迎された由で、連れ合いを招待してくれたのも今では懐かしい遠野での物語になっている。
 田舎での医師不足は深刻らしいが、島とは異なり、医師ひとりというわけではないので、島の医師と較べればまだしもというところか。
 姪は浅草の病院で勤務したことがある由で、寺が関わっているからか、カネがなくとも患者がやってくれば、見捨てることはしなかったらしい。
 事程左様に病院、診療所も色々で働く医師や医療スタッフは世のため他者のためによく頑張ってくれていると感心するばかりである。

 生まれ育った家にずっと住んでいるといえば、驚く向きもあるかもしれないが、旅行ならともかく島で暮らすなんて想像できない。
 ましてや、医師という責任ある立場であるから、精神的なプレッシャーに押しつぶされてしまいそうだ。
 任期はともかく、一期一会という言葉もあるくらいだから、これからも頼りにしてくれている人たちのために力になってもらえればと願うばかりである。

2026年04月09日

ソーシャルビジネスを世界15か国で展開

 貧困などの社会問題の解決と収益を両立させる「ソーシャルビジネス」を世界15か国で展開する会社「ボーダレス・ジャパン」26歳で設立し、率いる田口一成さん(45)のことを日曜日の読売(吉岡みゆき記者)が時の人を取り上げる「顔 Sunday」の4月5日に紹介している。

 シングルマザーら社会的弱者をバングラデシュで1000人以上雇用した実績がある革製品製造販売の「LIB」が看板事業だ。

 19歳のとき、栄養失調のアフリカの子どものドキュメンタリ―を見て貧困問題に取り組むと決意した。
 知り合った非政府組織(NGO)職員に「継続的な活動にはお金が必要」と言われ起業して売り上げの1%を寄付しようと考えた。商社に就職して商品開発や市場戦略を学び、資金を貯める。
 創業期に、日本で家を借りられず困っている留学生のためのシェアハウス事業を手がけ、寄付でなくとも、ビジネスで社会問題を直接解決できるという手応えを得た。
 会社は社会起業家たちが集まる場へと変化し、事業の枠を超えて資金やノウハウを提供しあう仕組みを確立する。
 直営の販売店は日本各地に20店舗まで増えた。
 2027年には東京日本橋に途上国と適正な価格で取引するフェアトレードのお茶などを提供するカフェを開き、知的障がい者の雇用にもつなげる。

 「ソーシャルビジネスの総合商社を目指しアジアの留学生採用にも力を入れる。
 「社会問題の解決法を共有しあうことで、世界がよくなるスピードを飛躍的に加速していきたい」と考えているそうな。


 就労に困難を抱える人々を雇用し、他の従業員と共に働く場を提供しながら、事業収入を主な財源として運営される社会的企業のことをソーシャルファームということで以前取り上げたことがあった。

 ソーシャルビジネスが貧困などの社会問題の解決と収益を両立させるものなら、ソーシャルファームは就労に困難を抱える人々を雇用し、働く場を提供しながら事業収入を財源として運営される企業だということで、両者ともに社会的に価値ある存在であるところが、単なるカネ儲けのための株式会社と異なる。

 世のため他者のために頑張った人としては、貧民街の聖者こと賀川豊彦や蟻の街のマリアこと北原怜子などが語り継がれている。

 田口一成さんの非凡なところは、貧困問題など社会問題解決を飛躍的に加速させようとしているところで、ソーシャルビジネスとして世界15か国で展開しているところが素晴らしい。
 当然、エールをおくるが、「LIB」という会社で革製品製造販売をしていると知ったので、消費者として、買い物をすることで応援していきたい。
 できれば、通販などがあれば、店を探す手間がないのでありがたい。

 世界の指導者を見ていると、ロシアのプーチン大統領を筆頭に、米国のトランプ大統領、中国の習近平国家主席は己の地位を独裁化し、自分さえよければと宮殿に住み、気に入らない相手は軍事力に任せて攻撃する、脅すという身勝手さで、世のため、他者のために生きる人と正反対とも言えるような立場にある。

 同じ人間でありながら、どうしてこうまでヒーローとヒールに分かれてしまうのだろうか。
 一度しかない人生を自分が気に入らない人たちを暗殺したり、やりたい放題のヒールに対し、貧富の格差が拡大する一方の世の中にあって、貧困層の救済などにビジネスと連動して前に進めようとしているのだから見上げたものである。

 ソーシャルファーム、ソーシャルビジネスを手がける人たちを少しでも多くの人が応援していけたなら、世の中、捨てたものではなくなる。

2026年03月17日

村人のために献身する医師に医療功労賞

 第54回医療功労賞中央表彰者の10人が決まったと3月14日の読売が伝えている。
 「医療功労賞は読売新聞社が1972年に創設した歴史ある顕彰事業である。日本の過疎地域や離島、被災地など厳しい環境のもとで長年、地域に密着した活動を続けてきた医療福祉関係者を表彰している。​

 本賞では、これまで半世紀にわたって約4900人の医療福祉関係者の方々を顕彰してきた。受賞者の職種は医師や歯科医師、看護師、理学療法士、介護福祉士など多種多様である。特に功績の顕著な方々を選ぶ中央表彰の受賞者は例年、天皇皇后陛下に拝謁する機会を賜っている。」と㏋にある。

 皆さん、世のため他者のために尽力されている方々で、敬意を表する共にその活躍にエールをおくっている。

 TVや映画で話題となった『ドクターコトー診療所』の影響を大いに受けたことから、10人の中から、ドクターコトーこと、五島健助医師のような存在の「村唯一の常勤医 重責担う」という見出しで紹介されている山形県戸沢村で唯一の常勤医として診療を続けている渡辺孝弘医師(71)のことを取り上げておく。

 村の中央診療所で「村民のかかりつけ医」を担う渡辺医師。
 県立新庄病院で消火器内視鏡の専門医として働いていたが、34歳だった1989年、当時の村長から「診療所を建てるから」と依頼されて帰郷した。
 診療所の2階に住み、総合診療をこなし、要請があれば夜間でも山間部に往診する。
 「村の人に感謝されるのが一番嬉しい。元気なうちは働き続けたい」と施設への訪問診療にも力を入れる。


 TVで『ドクターコトー診療所』を視聴し、後に映画化された作品も観ている。
 ドラマだけでなく、中島みゆきの主題歌にも影響を受け、拙い尺八で吹いてみたら、これが難しくて満足にはとても吹けなかったことを覚えている。
 その主題歌「銀の龍の背に乗って」をプロの尺八演奏家川村葵山さんが吹いているのをYouTubeで見つけた。

 実は昨日、3月16日、首都圏の田舎町でもさらに田舎の地域(地元の人に怒られそう)で箏と尺八の演奏会があったので聴きに行った。
 お箏や十七絃を楽しんでいる連れ合いが出演するからで、小学校のとき分校に一緒に通った近所に住む幼馴染の女性を同伴した。
 会場では、連れ合いが職場でお世話になった女性と再会してびっくりだった。自分も面識があったので話が盛り上がってしまった。
 その演奏会で尺八を吹いていた人がその業界ではそれなりに知られた人で、同伴した女性も自分も実に心豊かな時間を過ごすことができた。
 素人でも上手な人はいくらでもいるが、やはり、プロというものは流石に違うものである。

 プロといえば、ドクターだってプロではあるが、診療する科目には専門があっても、ドクターコトーや渡辺医師のように島や村の診療所ともなれば、科目云々などといってられず、内科、外科の区別などなく総合診療のような具合だからそれは大変だ。

 私事で恐縮であるが、炎症性腸疾患(クローン病)のため、小腸が極端に狭隘になっているため、時折、腹痛、それも腸閉塞状態になってしまうのだ。
 腹痛の原因を調べるには、総合診療医がいる医療機関を受診しなければならず、現実には難しい。

 それだけに村の診療所で医師として働くのはさぞや大変なことだろうと推察する。
 医師といえば、中村哲医師を筆頭にカネ儲けではなく医師としての使命を果たしてきた尊敬できる先生方がいる一方、よく知られた美容外科医のようにカネ儲けのためになったのかと思える医師だっている。

 後期高齢者まで生きられる、生かされるとは思ってもみなかったが、尊敬できる人物として、カネ儲けではなく、世のため、他者のために尽力する人が一番偉くて、存在価値があると改めて思うに至ったのは、渡辺医師のような立場の人がいてくれることだ。
 渡辺医師こそ功労賞にふさわしい。
 

2026年03月15日

殉職警察官弔う地蔵尊に合掌

 宮城県気仙沼市の市立大谷小学校近くで、赤いずきんをかぶったお地蔵さんが登下校の子どもたちを見守っている。15年前、避難誘導中に津波で亡くなった警察官の千田浩二さん(当時30歳)を弔おうと住民らが設けたもので、地域の誇りや復興の象徴として、長く愛されてきた。と3月11日の読売(浅井望記者)が伝えている。

 千田さんは東日本大震災が発生する前年の春、気仙沼署大谷駐在所に赴任。美しい海岸が広がる大谷地区の住民は当時4000人ほど。秋祭りで神輿を担ぐなど、すっかり地元に馴染んでいた。

 震災の日。消防団員の中沢さんも住民に避難を呼びかけていると、パトカーから窓越しに「早く逃げてください」と声をかけた後、千田さんは警戒のため海側へ向かった。
 夕方、消防団員が倒れていた千田さんの遺体を見つけた。
 大きなな津波に襲われた大谷地区では家屋の4割超が被災し、75人が犠牲となった。

 交通安全、防犯についても千田さんとよく話し合った行政区長の鈴木治雄さん(77)は「日本一のだんぽ(お巡り)さんだった」と懐かしむ。感謝の気持ちを伝えたいと、鈴木さんは妻美和子さん(77)らとともに、2012年8月、近くにお地蔵さんを建てた。

 鈴木さん夫妻は、子どもたちの見守り活動を続けながら、津波の教訓、命の尊さや千田さんの勇気を伝えている。児童は登校前にお地蔵さんに手を合わせたり、四つ葉のクローバーを供えたりする。


 いつの頃からか思い出せない。
 夕方の散歩を日課にしているが、柴犬の散歩ということで、結構大変であるが健康のためでもあり、1時間くらい歩く。
 途中に地蔵尊があり、地蔵尊にお参りをするようになったのだが、気がついたらお参りするようになっていた。
 唱える真言は「オンカカ ビサンマエイ ソワカ」である。
 京都の寺で見つけたのだから、真言は間違っていないはずだ。意味はよくわからないが、お地蔵様に自分が元気で歩けることを感謝し、元気でいられるように願って唱える。
 仏教には六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)があるが、散歩の途中、六道と呼ばれる場所があって、そこに地蔵尊が坐。道が6つに分かれているから六道なのだ。
 田舎町のことだから、医院が近所になかった子どもの頃、この地蔵尊にお参りして、少し距離のある隣町の医院に通った記憶がある。 
 六で思い出したのだが、2月20日、鎌倉に遅まきながら初詣に行った時のこと、鶴岡八幡宮にお参りを済ませた後、食事をするために御成通りをぶらぶら歩き、由比ガ浜大通りに出て少し歩いたところに六地蔵を見つけた。
 付近にあった刑場で処刑された罪人を祀ったのが始まりらしいが、例の真言を唱え、お参りしてきた。

 話を戻す。

 散歩道には水子地蔵を祀った祠があり、この前を通る時もまた、知らん顔はできないので、真言を唱え、水子の供養を願う。
 帰路、延命地蔵尊があるので、ここでもまたお参りし、自宅の近くにある地蔵尊では、心の中で手を合わせて前を通らしてもらう。
 最近は行っていないが、以前歩いたコースには、天明の飢饉の時、姥捨てされたという地蔵尊が祀られているのを見つけ、通るときには、必ずお参りしていた。
 
 さて、東日本大震災の津波で殉職した警察官、それも、駐在さんだから、地域の人たちに好かれていたとのことで、地蔵尊が建立されて祀られていると知り、大震災から15年経って、自分としては、書いておきたいこととして、世のため、他者のために生きた殉職駐在さん千田さんが30歳の若さで旅立たれたことを取り上げた。

 震災が起きると、消防、警察、自衛隊、医師、看護師などの医療関係者、その他多くの人たちの尽力で助けられる人たちがいる一方で、救い出してくれる人たち「ヒーロー」が犠牲となってしまう。

 15年経っても、彼らのことを絶対忘れてはならないということで、身を犠牲にしてくれた人たちに感謝の気持ちを捧げるため、地蔵尊に祀られた殉職警察官千田さんの事を書くことで取り上げることができなかった他のヒーロ―たちのこともまた忘れないようにしたいと願っている。 

2026年03月04日

『ミックスモダン』

 月に一度の映画館行き、3月は、少年院を仮出院した18歳の少年を協力雇用主のお好み焼き店で雇い、更生に尽力する夫婦との人間模様を描いた社会派映画藤原稔三監督『ミックスモダン』を観てきた。

 非行を重ね、少年院に収容されるも、仮出院を迎え、「人生をやり直したいんです」と訴える主人公に協力雇用主は経営するお好み焼き店で雇うことを決め、更生に努力するものだと信じているが、最初はともかく、思うようにはいかない。
 お好み焼き店主の過去も明らかになっていく中で、店主はお世話になっている保護司に相談するのだ。 
 「今までずっと干上がってカラカラになっていた池にちょっとやそっと水を入れても染み込むだけで、水入れを続けてやらんと」と保護司に諭される。「あんたはそれをずっとやっているよ」と励まされるのだ。

 お好み焼き店の夫婦には子どもが授からない。
 このことが更生物語の伏線というか、ポイントになっていく。
 一方で、主人公はといえば、親に捨てられたも同然で、初めてもらった給料で父親のために買い求めた酒を手に実家を訪れたら、引っ越ししてしまい、行き先もわからない有様だった。
 主人公が昔の仲間に連絡を取ったことで知り合った娘を好きになるが、相手には刑務所から出所してくる男がいたのだ。
 主人公が熱を出したとき、実の母親のように看病してくれたのはお好み焼きの女将で、少なからず、家庭の温かみを主人公は知ることになる。


 映画とか小説のストーリーを明かしてしまうことを近年、ネタバレと呼んでいるらしいが、観ていない人の興趣を削いでしまうことになるので、この辺りでとどめておく。

 自民党政権をいつも批判的に書いてきたが、歴代の政権では大平正芳首相は好きな政治家の一人で尊敬していた。
 「政治とは何ぞや!」と問われた大平さんは「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたそうな。
 映画を観て、お好み焼き店主が主人公の更生がなかなか思うようにいかず、悩んで担当の保護司に相談する場面で、上述のとおり保護司がアドバイスする様子を観て、自分は大平さんの言葉を思い浮かべていた。

 両者ともに名言だと感心していたら、主人公が好きになった娘は出所してきた男ともども覚せい剤使用容疑で逮捕されてしまい、司法の関係者と今後のことを協議する場に母親が来ていた。
 娘の母親もまた毒親というか身勝手で、非行に走った娘を徒に責めるばかりだった。

 少年院にしろ刑務所にしろ出院者、出所者の更生の一番のポイントは本人の決意と仕事、そして温かい家庭であることは専門家からもよく指摘されているとおりである。

 主人公が初めて愛した女性は覚せい剤とかいろいろ訳アリであるが、二人で力を合わせれば、苦難を乗り越えていけるかもとフィナーレで主からお好み焼きづくりの指導を受ける主人公に微かに希望を抱いた。

 犯罪被害者支援を訴えてきた立場としては、究極の被害者支援は、出所者の更生であると、この日も受刑者の作品である布製の手提げを手にし、映画館を出て降りしきる氷雨の中を歩みを進めた時、気持ちはあかるくなっていた。

2026年03月03日

ストーカー犯罪に立ち向かった小早川さん死去

 ストーカーの被害者を支援するNPO法人「ヒューマニティ」元理事長の小早川明子さんの訃報が流れている。66歳だった。支援団体の草分け的な存在で、加害者のカウンセリングにも尽力した。

 都内で輸入販売会社を経営していた1990年代、仕事で知り合った男性から 執拗なつきまとい行為を受けた。まだ、日本では「ストーカー」という概念が社会に広く認知されていない頃。どうしていいか分からず、約5年間、被害に耐え続けた。

 「同じような境遇の人を助けたい」。その一心で、99年からカウンセラーとして相談業務を始め、2003年に同法人を設立した。

 生前に応じたストーカーの相談件数は1500件を超えた。「被害者を救うには加害者を変えるしかない」という信念のもと、加害者へのカウンセリングにも力を入れ、500人以上と面会してきた。

 加害者の心理や対処法などをまとめた著書も執筆し、警察や行政向けに講演会を行った。ストーカー規制に関する警察庁の有識者検討会の委員も務め、関係機関の連携強化や加害者治療の重要性などを訴えた。


 1999(平成11)年10月、女子大生が元交際相手とその仲間に嫌がらせ、ストーカー行為を受けた末、殺害された桶川女子大生殺人事件が起きた。
 この事件を契機にストーカー犯罪が大きな社会問題となり、ストーカー行為等の規制等に関する法律が制定された。

 「同じような境遇の人を助けたい」と、99年からカウンセラーとして相談業務を始めた小早川さん。桶川事件が起きた活動の開始時期が重なるが、警察でもできない加害者へのカウンセリングにも力を入れてきたことが高く評価できる。

 ストーカー犯罪は、加害者にいかにしたらストーカー犯罪を止めさせることができるのかが課題となっている
だけに加害者へのカウンセリング、更生が重要になってくる。

 ストーカー犯罪は加害者の多くが被害者を殺害する強固な殺意を抱き、実行することから、狙われた被害者が殺害されてしまうところに怖さがある。

 犯罪被害者支援の立場から、狙われた被害者には自らの命を守る権利があり、命を守るためには、座して死を待つのではなく、被害者側が加害者側に行動を起こすことを正当防衛として認めることを社会的に認知すること提案した。

 警察は、過去殺害された被害者を守ることができなかった。国家権力が被害者の人権を守れない以上、被害者側が立ち上がり、自分たちの人権を守ろうとすることを誰も止めることはできない。
 正当防衛を幅広く認めることがこの手の犯罪を減少させる唯一の手立てではないか。

 小早川さんのような心ある人がいてくれたのは被害者にとっては勇気づけられるが、カウンセリングだけでは被害者の身を守ることはできない。

2026年02月01日

高所作業現場で体を張って働く男たち

 重機が入れない高所や山間部の構造物をロープなどを駆使して点検・補修する技術者がいる。インフラ(社会資本)を整備するプロフェッショナルの姿にドローンで迫った写真を「空中ルポ」と題し、1月28日の読売(尾賀聡、大石健登、鈴木毅彦記者)が伝えている。

 三重県大台町にある秘境大杉谷の登山道に架かる堂倉吊り橋を特殊な道具を駆使し、点検する技術者たち。長崎県内にある風力発電所では、山中に立つ高さ65bの風車の最上部からロープを使い降下。地上の補助員と無線連絡を取りながら、ロープに結ばれた籠に工具などを入れて受け渡す。足が宙に浮いた姿勢のまま、落雷で損傷したとみられるブレードを修繕した増原貴之さん(31)は「損傷を見極めるのは難しいが、修理した巨大な風車が再び動き出す瞬間は特に嬉しい」と語る。

 インフラの老朽化、国土交通省によれば、道路に架かる長さ2b以上の橋は全国に約73万か所ある。2023年時点で建設から50年以上経過したのが37%を占め、今後加速度的に増える見込み。トンネルや港湾施設なども同様で対策は急務だ。


 文章だけで怖さを伝えることは難しい。紙面で目を奪われるほどの恐怖を感じた写真はドローンで撮影したものであるが、被写体となった男たちが眩しかった。

 高所恐怖症というのだろうか、子どもの頃は、近所の寺の境内にあった御仮屋(神輿が鎮座していた平屋の建築物)の隣にあったケヤキの大木から屋根に上がり、スズメの巣を取ろうと遊んだこともあった。しかし、大人になって、だんだん高いところが怖くなってしまい、自宅の屋根に梯子をかけて上ることさえ怖くてできなくなってしまった。

 ところが、世の中には考えられない達人というか、特技を持った人がいて驚かされる。
 登山が好きな人、それもロッククライミングというのだろうか。この人たちが特技を生かしてビル清掃、窓ふきをしてくれているというのだ。
 もっと驚かされたのは、送電線の修理をしている男たちがいることを知ったときだ。

 「NHKプロジェクトx挑戦者たち」でスカイツリーの建築現場で働く男たちを取り上げたときも驚いたが、考えてみれば、都内に林立している超高層の建築物で働く男たちがいるから、建築物ができるわけで彼らの凄さに改めて敬意を表する。

 昨晩の同番組では、スキーのジャンプでレジェンドとして知られる葛西紀明さんが出演し、隣に原田雅彦さんがいるにもかかわらず、金メダルが取れなかった悔しさを正直に吐露され、激しく心を揺さぶられた。
 その悔しさは、世界のトップジャンパーになった小林陵侑選手を指導する原動力になったことでも伝えられた。

 スキーのジャンプもどうして人間が空を飛ぶようなことができるのか、感心して観戦している競技である。
 五輪で金メダル、ワールドカップで世界一になることはそれは快挙である。

 しかし、人々の生活を縁の下で支えてくれるインフラの建設をしてくれる働く男たち。そのインフラの修繕を担って日々、危険な高所作業に挑んでくれている男たちにこそ感謝の気持ちでエールをおくりたい。

 埼玉県八潮市の道路陥没事故で、命を奪われてしまったドライバーも縁の下の力持ちとして頑張ってくれていた人の一人であるにちがいない。
 現場は、まだ復旧していないように伝えられているが、軽トラとは言いながら、ほぼ毎日、畑に行くとき運転しているから、道路が陥没する恐怖を頭に置いている。

 京都にある「特殊高所技術」の本社内には訓練施設があり、橋の欄干を再現した箇所などで実践的な技術を磨くことができるそうな。

 やはり、訓練というか技術を磨くことが大事であるが、新自由主義は人間を大事にしない旧日本軍のようで、人を育てようとしない考え方である。
 山手線の長時間運休事故があったばかりであるが、人手に余裕があれば、復旧だってもっと速くできたはずである。
 カネ儲け、効率主義の新自由主義を跋扈させてはならない。
 人々の暮らしは新自由主義ではよくならないからだ。

2026年01月30日

「日韓架け橋」新大久保駅事故25年

 東京・JR新大久保駅で2001年、線路に落ちた日本人を助けようとして亡くなった韓国人留学生、 李秀賢さん(当時26歳)の両親は02年、弔慰金などを元に日本への留学生を支援する奨学会を設立し、奨学生はこれまで19か国・地域の1294人に上っている。「日本との架け橋になる」という故人の夢は受け継がれ、大きく膨らんでいる。と1月27日の読売(ソウル仲川高志記者)が伝えている。

 釜山市内で20日、本紙の取材に応じた李さんの母、辛潤賛さん(75)は、息子を失った悲しみの中で支えとなったのは、日韓双方から送られてきた「数え切れないほどの手紙」だったと回想した。

 「息子さんは日韓の外交官100人が取り組んでもできない仕事をした」とある日本人から称えられたことに大きなやりがいと誇りを感じていると辛さん。


 李さんは生前、「日本は学ぶことがたくさんある国だ。韓国が過去(日本の植民地支配)に執着していると両国が損をする」と話していたそうな。

 韓国を植民地支配したことを日本人の一人として心からお詫びしたいと思っている。

 広島で被爆後に帰国し、救済対象外とされた韓国籍の在外被爆者3人の遺族23人が、国に慰謝料など計約330万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、広島地裁は28日、国に全額の賠償を命じた。国は、損害賠償請求権が消滅する除斥期間(20年)の適用を求めたが、山口敦士裁判長は「権利の乱用に該当し、許されない」と判断した。と1月29日の読売が伝えている。

 『はだしのゲン』でヒロシマで被爆した朝鮮半島出身者のことが描かれていたし、ヒロシマに被爆者の慰霊と供養で2回訪れているので、このことを知ってもいたが、裁判で勝利したことを喜びたい。

 『福田村事件』」を観て、関東大震災の時、朝鮮半島出身者がいわれなき攻撃を受けたが、間違えられて四国から千葉にやってきた人たちが殺害された事件が起きている。

 日本にやってきた朝鮮半島出身者の関係者が性暴力犯罪の常習者として捕まっている事実は飯干晃一の性暴力犯罪を描いた著作にある。

 何が言いたいのか。
 日本人も朝鮮半島出身者も同じ人間なら、悪い奴もいれば、善人もいるということだ。

 過去、日本が植民地支配したことは事実であるが、2012年公開の高橋伴明監督『道 白磁の人』で描かれた浅川巧は日本統治の時代、植林事業に勤しみ、白磁の素晴らしさに魅せられ紹介するも病に倒れ韓国に眠る。

 朝鮮人の夫と結婚し、朝鮮半島で暮らしていた「身寄りをなくした日本人妻たちを長年にわたり献身的に支えてくれた高齢女性のための施設「慶州ナザレ園」の金龍成、宗美虎のような恩人たちもいる。

 さて、身近なところで、伝聞であることをお断りしておく。
 東京杉並区であった家賃滞納で強制代執行にやってきた裁判所の執行官と家賃保証会社の社員が刺傷し、保証会社の社員が殺害された事件があったばかりであるが、不動産管理会社の社員によれば、日本人ユーチューバーだった若い人が家賃滞納で強制代執行をされた事例があるとのことだった。
 一方で、日本で働いている韓国国籍の男性はきちんと家賃を支払い管理物件に入居しているとも。

 李さんは歴史に名前が刻まれるような功績を残されたが、「日本の植民地支配に執着していると両国が損する」と話されていたが、実に立派で敬意を表する発言である。

 後期高齢者になっても人間が未熟なのか、『はだしのゲン』を読む前から、日本に原爆を落とした米国が嫌いで、反米の立場に立っている自分と較べると素晴らしい人間性で、まったくもって惜しいひとをなくしてしまったものである。

 民族差別をしないのが自分の立場であり、悪い奴はどこの民族にもそれなりの数いるものだという考え方だから、民族で人を見るのはおかしい。
 米国のトランプ大統領は白人至上主義で、ヒスパニック系など移民に対する厳しい態度をとっているが、自分の先祖だって移民のくせにと思わないわけにはいかない。

 李さん、母親の辛さんと日韓友好の懸け橋となってくれている二人に感謝してもしきれない。

2026年01月22日

損得ではない人生を生きる

 40代早々、3か月入院し炎症性腸疾患クローン病だと診断された。入院したのは3月から5月で正確には約3か月となるが、入院中に雪が降り、退院した時は初夏という季節を病院のベッドで過ごした。腸の病気だから、入院中は絶飲食で点滴、それも、腕だけでなく首の所という危険を伴う場所にまで針を通した点滴だった。

 退院後、エレンタールという栄養剤を主に、消化の良いものを少々という食事の期間を長く過ごし、難病だということで、上手に病気とつきあって今日に至っている。
 現在は、狭隘になった小腸の影響からか、日々、腹痛に悩まされるも、何とか普通の生活ができている。

 自分の人生で、クローン病は大きな影響を与えた。
 退院してから、自分は生かされたと折々、感謝する気持ちが日々強くなっていく。
 鼻から管を入れる苦しい検査を一緒に受けた隣人は入院中亡くなった。
 このことが、50代半ばを前に病気退職し、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚へと自分を駆り立てたような気がする。
 同時に損得ではない人生を生きている人を敬う気持ちも心を動かす原動力になっていく。

 そんなある日、れいわ新選組の山本太郎代表のことを知った。
 「生きているだけで価値がある」「すべての人が大切にされる社会を作りたい」というようなことを訴えていた。
 これまでの政治家で「生きているだけで価値がある」なんてことを言った人を知らない。「すべての人が大切にされる社会、政治を目指す」なんてことを言った人も知らない。
 芸能界にいたときの方が収入は多かった。損得ではないとも言っていた。
 選挙の度ごと、応援してきたその山本太郎さんが病気で参議院議員を辞職し、治療に専念されるというニュースが流れた。
 「れいわ一閃」の「Ýou Tube」を視聴したところによれば、芸能界から政治の世界に飛び込んで14年間、「死ぬ気でやってみ?死なねえから」って、全力疾走してきた間、ストレスが並大抵ではなかったことを明かし、これが病気の原因かもと告白されていた。
 これまでの活動を振り返り、消費税廃止デモを全国で122回、おしゃべり会全国で437回、街宣全国で607回とわざわざ全国を重ねて書いたのは、こんな活動で全国を周った政治家を自分は知らないからだ。
 しかも、おしゃべり会ではアンチの人間にもマイクを渡し、しゃべらせるという様子を見て驚くばかりか、こんな政治家はかつて一人たりともいなかったことを痛感し、益々応援したくなった。
 アンチの人間は山本太郎さんの器量の大きさにもっと敬意を表すべきで、そのことがわからないとすれば、顔を洗って、心を入れ替えて出直さなければダメだ。

 損得を超えた活動で尊敬する山本太郎さんに何としても、病気を治療し、日本の政治を変えるために再び、立ち上がってもらいたい。

 自分が信じている言葉、あの長嶋茂雄さんが話していた「想念は現象化する」を山本太郎さんにおくりたい。
 病気はきっと治る。悪化させない。再び立ち上がる。と念じてもらいたい。

 「山本太郎さんを助けてもらいたい」と自分には祈ることしかできない。 

2025年12月05日

中村哲医師凶弾に斃れてから6年、ハンセン病治療始まる

 アフガニスタンの人道支援に力を尽くした中村哲医師(享年73)が凶弾に倒れてから4日で6年。命日を前に、その活動の「原点」といえるハンセン病診療が現地で再開された。「中村先生の事業は全て継続し、希望は全て引き継ぐ」を合言葉に支援を続ける仲間たちが、15年ぶりの診療に動き出した。とメディアが伝えている。

 12月4日の朝日や読売によれば、11月1日、アフガン東部のジャララバード市に「中村哲記念ハンセン病センター」が開所した。3階建ての大型の民家を改装し、男女5床ずつの病室や治療室を設けた。

 運営するのは、NGO「ペシャワール会」(福岡市)と、中村医師が創設した現地の担い手組織「平和医療団・日本」(PMS)。医師2人、看護師3人ら現地の職員計19人が診療に当たる。センターの名前は、職員の総意で決まった。

 中村医師は1984年、福岡県の病院からパキスタン北西部のペシャワルの病院に赴任。最初に担当したのが、ハンセン病棟だった。やがて治療に加わった藤田さんらによると、当時、医師のいないアフガンの山岳地域から、ハンセン病患者が次々に国境を越えてやって来た。見かねた中村医師は90年代、山岳地域に診療所を相次いで開設。だが治安悪化などでハンセン病診療は2010年に途絶えた。


 労働者協同組合法成立記念『医師 中村哲の仕事・働くということ』というドキュメンタリーが公開されたのは2023年5月のことで、生憎見逃している。
 「人は人のために働いて支えあい人のために死ぬ。結局はそれ以上でもそれ以下でもない。これは人間の仕事である。」映画の宣伝で見つけた中村哲医師の言葉の要旨だ。

 2024年9月谷津賢二監督『荒野に希望の灯をともす医師・中村哲 現地活動35年の軌跡』は観ることができた。

 人の生きる道は様々なれど、「人は人のために働いて支えあい人のために死ぬ」をまさに実践された中村哲医師こそは現代のヒーローだと言っても過言ではない。
 驚くべきは医師でありながら、病気と栄養について考察し、栄養を摂ることの重要性に気づけば、食料を手に入れられるようにと灌漑用水事業に取り組み、わが国のかつての灌漑用水事業の施工例を参考に成功させてしまうのだ。

 そんな中村哲医師が6年前の12月4日アフガンでテロリストの凶弾に斃れた。
 爾来、アフガンそのものが大嫌いになった。恩知らずにもほどがある。

 しかし、世の中の常で、アフガンの人たちがすべて悪いわけではないことから、中村哲医師没後、かつて、中村哲医師が取り組み、2010年に治安が理由で治療が中断していたハンセン病治療が開始されることになったのはよかった。

 ハンセン病といえば、2016年6月、東京東村山市にある国立療養所多磨全生園に行き、納骨堂前でお参りしたことがあり、最近では『かづゑ的』を観て、ハンセン病と闘い、生き抜いてきた宮崎かづゑさんの人生を知り、大いに学習させていただいた立場としても、治療をきちんとすることで、完治する病気だということを知ったからにはぜひ、治療がこのまま続けられように祈っている。
 いずこでも、患者が一番気にする差別についても、かづゑさんは負けなかったことを伝えてあげたいくらいだ。

 キリスト教を代表する奉仕者マザーテレサの生き方も素晴らしいが、6年前に凶弾に倒れた中村哲医師の成し遂げたこともまた見事である。
 「今だけ、カネだけ、自分だけ」という人間が増えてしまった感があるが、どっこい、人のために生き、支えあいつつも、志半ばで凶弾に斃れた中村哲医師の生き方には頭が下がる。

2025年11月02日

日本で戦災孤児ら救済 「無私」の心ゼノ修道士

 戦災孤児ら恵まれない人々の救済に一生をささげ、日本のボランティア活動の草分けと呼ばれたポーランド出身のゼノ・ゼブロフスキー修道士(1898〜1982年)を顕彰する活動が広がっている。市民や在日ポーランド大使館が講演会や活動記録の解明を通じ、その無私の精神を伝えようと奮闘している。と10月31日の読売(安田信介記者)が伝えている。

 ゼノ修道士は1930年に来日し、長崎市に設立した修道院を拠点に布教活動を始めた。戦後、東京に移り、戦災孤児の食糧支援や、隅田公園(台東区)にあった廃品回収労働者の生活共同体「蟻の街」の支援、障害児施設の開設などに奔走した。

 黒い修道服と黒カバン、あごひげがトレードマーク。「ゼノ、死ぬヒマない。天国に行ってゆっくり休みます」が口癖で、困っている人がいればどこにでも駆けつけた。雨漏りするバラックを見れば材木をもらおうと街を歩き回ったり、家を失った子どもを集めて日曜学校を開いたりしたという。

 文京区の記録作家、石飛仁さん(83)は、自らを顧みず、『人間はみな同じ』を地で行った人だった」と振り返る。ゼノ修道士は慈善活動に生涯をささげ、82年に都内の病院で亡くなった。


 宗教といえば、信者を洗脳し、高額の献金を搾り取った反日反社の旧統一教会や地下鉄サリン事件や松本サリン事件を起こした同じく反社のオウム真理教など、世間をお騒がせした新興宗教所謂カルト教団を筆頭に幾多の団体が活動しているが、ルールを「無視」することはあっても、「無私」という言葉とは対極にあるような団体ばかり目立つ。

 同じ宗教でも老舗のカトリックやプロテスタントが受け継ぐキリスト教には、社会奉仕の精神が息づいている。
 廓清運動に取り組んでいたのは救世軍だった。
 女郎屋の主に搾取されながら、性奴隷として働かされ、死ねば、浄閑寺に投げ込まれた女郎たち。
 救済しようとする日本人は少なかった。

 東京は町田市の農村伝道神学校で活動していたカナダ出身のメソジスト派のアルフレッド・ラッセル・ストーン宣教師は、1954年9月の青函連絡船洞爺丸の遭難事故で、遭難死する前に、救命胴衣を日本人の若者に与えたことでその名を歴史に刻む。

 ゼノ修道士と蟻の街といえば、蟻の街のマリアこと北原怜子もまたキリスト教精神で「無私」を貫き、歴史に名を残している。

 語り継ぐ戦争だから、ゼノ修道士が戦災孤児のために食料支援をしていたことは知っていた。
 日本人でさえなかなか同胞の子どもたちに救いの手を差し伸べられなかった時代にポーランド出身のゼノ修道士は無私の心で困っている人たちに手を差し伸べてくれた。
 「ありがとうございます」とただお礼と感謝することしかできないが、「今だけ、カネだけ、自分だけ」というダメ日本人が跋扈している時、後に続いていたアフガンのヒーロー中村哲医師が凶弾に倒れてしまった。

 「無私の心」は尊敬するし、頭が自然に下がるが、市井に生きる凡人にすぎない自分としては、死期がそう遠くないと思いつつも煩悩を捨てきれないのである。

2025年10月15日

消防士有志でボランティア団体設立

 「災害時の支援技術 消防全体へ」という見出しで、消防士有志でボランティア団体を設立した坂田譲治さん(37)が10月12日の読売(石原宗明記者)「顔 sunday」で紹介されている。
 埼玉東部消防組合の消防士として活動する傍ら、災害で損壊した民家を応急的に補強したり、負傷者を迅速に救助搬送したりする技術を、実際に機材を使って全国の仲間に伝えている。
 約20か所の災害現場で、専門知識を生かした「技術系ボランティア」として活動した経験が基になっている。

 きっかけは出身地熊本で起きた2016年の熊本地震。有休を取得して、向かうと実家は全滅状態で、地域全体に被害が及び、「何をすればいいかわからなかった」そうな。 
 支援団体の支持で災害廃棄物の分別などを行ったが、日頃の訓練だけでは災害時に支援活動が十分できないことを痛感した。
 22年に「災害発生時に真っ先に駆け付ける消防士全体の技術向上が必要と考え、「DGR.119」を設立した。月11〜2回の公休を使って集まり、訓練を重ねる。
 メンバーは全国で約60人に上り、24年の能登半島地震でも活動した。
 「身につけた技術をそれぞれの所属先で伝えれば、災害にも強い消防になる。想定外を想定内にしたい」と意気込む。


 わが家から歩いて20分くらいのところに消防の分署があり、消防士の皆さんが日々訓練している様子がわかる。とにかく、彼らはよく走っている。
 消防士といえば、連れ合いに50年くらいおつきあいのある友人がいて、彼女の息子が消防士だという。
 連れ合いの友人は古希を前に、フルマラソンを走れるという体力があり、伴侶はテニスが趣味だという運動が達者な家族だから、息子も運動神経が優れているらしい。

 消防士といえば、火災、災害のとき一番に出動してくれる頼もしい存在で、いつも感謝している。さらに、消防署には救急隊もいて、市民の暮らしを守ってくれている。
 救急隊には腸閉塞で七転八倒というか痛みに耐えられずという時助けてもらい、尿路感染症が悪化し、腎盂腎炎になり、40度の高熱で悪寒がし、階段を下りられなくなり、失禁状態というみじめな状態で助けてもらい、いずれも、入院して治療してもらったことがあるので、深く感謝している。
 
 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めてから、全国の慰霊碑を周ってきたので、当然、宿泊でホテルを使うことが多く、火災になったらということを考えないことはなかった。

 消防士の活躍を描いた1974年の『タワーリングインフェルノ』を映画館で観て、超高層の建物の怖さを教えられ、TVでNHKのプロジェクトxで、1982(昭和57)年2月のホテルニュージャパンにおける火災で麹町消防署永田町出張所・特別救助隊のそれこそ命がけの活躍を知り、直接関係はなくとも、感謝したことを覚えている。

 2025年8月の大阪宗右衛門町のビル火災では消防隊員2名が犠牲となっているので、ご冥福を祈った。

 消防のもう一つの大きな仕事である、災害出動、こちらも火災同様命がけで、市民を助けてくれている、プロの消防士ばかりでなく地域の消防団の団員共々、この際、感謝を申し上げる。

 そのプロの消防士である坂田譲治さんでさえ、熊本大地震での実家の全壊状態を目の当たりにした時は、なす術がなかったというのだから、訓練がいかに大事であるかよくわかった。

 しかも、坂田譲治さん率いる消防士によるボランティアは重機の扱いや、民家の解体など、災害時の訓練を重ねていざ鎌倉という時に備えているというではないか。

 エールをおくらないではいられない。
 全国の消防士、消防団員の皆さん。「ありがとう!」と感謝の言葉を改めておくりたい。

 災害時は、消防、警察そして自衛隊と制服の皆さんに助けてもらってきたことを考えると、彼らの待遇を良くしてあげることがモチベーションを維持することにつながるのではないか。

 とにかく、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とは言うものの、ご自身の身の安全を最優先に、活動に取り組んでいただけるとありがたい。

2025年09月24日

児童虐待と冤罪のドキュメンタリー映画を撮る

 自分の立ち位置でできることに取り組んできた人物を紹介する読売(布施勇如記者)の「顔 Sunday」の9月21日は「冤罪巡り『正義』『報道のあり方』問う」という見出しで、ドキュメンタリー映画を撮った「弁護士記者」上田大輔さん(46)。

 児童虐待と冤罪を8年間取材したドキュメンタリー『揺さぶられる正義』で映画監督を務めた上田さんは無実の人を救う刑事弁護人志望で、2007年司法試験合格。2009年関西テレビに企業内弁護士として入り、法務全般を担当した。
 報道局への異動の希望が叶い、記者として2年目の2017年、乳幼児の体を激しく揺さぶって死傷させたとして親族が逮捕された「虐待」事件で医学的根拠が揺らぎ、冤罪が次々に生まれていることを知った。
 難解な海外の文献を読み、鑑定医らを訪ねた。 
 当事者として報じらた人はメディアへの強い不信感を募らせていたが、記者に転じた経緯を話すと徐々に口を開いてくれた。
 「虐待」を理由とする親子の分離、雪冤に挑む弁護士らの労苦を含め、取材の結果はテレビ番組3部作となって成就。映画では「正義」の意味と事件報道のあり方を問い直す。

 人が予断、偏見から逃れることがいかに難しいか、自身の葛藤を含め映画で描いた。


 月に一度の映画館行きを自分に課してきた。9月は『雪風』を観る予定だったが、8月23日に自分の命より大事な連れ合いが庭で転倒し、入院して膝の手術、その後、リハビリという突発的な事故に遭い、映画館に行くどころではなかった。
 今、どうしても観たいのは中国での人身売買を描いた『盲山』であるが、普段行く映画館ではどこも上映してくれないし、ネットで調べるとどうも無理そうである。
 『揺さぶられる正義』は予想通り東中野で観られそうだが、足が不自由で杖が必要な連れ合いと一緒に電車に乗るのは心配だが、できれば観たい作品の一つであることは間違いない。

 冤罪といえば、『約束〜名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯〜』を手がけてくれたのは東海テレビのスタッフである。
 冤罪を訴え再審請求を繰り返していた奥西勝さんが八王子の医療刑務所で獄死してから、裁判を引き継いだ妹の岡美代子さんのことを描いた『いもうとの時間』も観ているが、これも東海テレビのスタッフの制作だから、実に佳い仕事をしてきたものである。」
 やはりテレビの影響力は大したものだ。

 児童虐待と冤罪の問題を8年間取材し、テレビで放送し、やがて映画化したという点では、名張事件の東海テレビのスタッフ同様見事であるが、関西テレビの上田大輔さんは自らが弁護士だから、司法の専門家であり、かつ記者ということで、裁判では当事者の気持ちもよく理解できたのではないか。

 雪冤という言葉は難しいが、雪の白さではないが、無実、身の潔白を明らかにすることだから、冤罪は再審請求が認められ、裁判で身の潔白が明らかになるまでは被告になってしまうと時間がかかってしまう。

 再審請求制度を早急に見直し、再審法を改正する必要がある。

2025年07月31日

プラスチックごみ回収を続け、美しい 海取り戻す

 深刻化するプラごみ問題は、8月にスイスで汚染防止条約の策定を目指す政府間交渉会合が開かれる。

 7月27日の読売(鬼頭朋子記者)が時の人を紹介する「顔 Sunday」で取り上げているのは、地元の愛媛県八幡浜市で20歳から海岸の清掃ボランティアをしてきた岩田功次さん(64)。瀬戸内海など海岸でプラスチックごみを回収する団体を設立し、2dトラック2000台分を集めてきた。
 
 転機となったのは2016年、人がほとんど立ち入らない入江を訪れた時、砂浜が全く見えないほどのプラスチック製品などが積みあがっていた。
 「誰も片づけないなら、わしがやるしかない」と2018年、道路がなく船がなければ立ち入れない離島などのごみ回収を専門に行う「E.Cオーシャンズ」を設立し代表理事を務める。
 回収用の船を購入し、兵庫から沖縄の延べ約250か所で仲間と汗を流してきた。
 重機やトラックも必要で、自治体や企業の支援を受けても「回収すればするほど赤字」だそうな。
 ドローンや衛星写真を使ってごみがたまる場所を調べているが手付かずの場所は無数にある。
 細かく砕かれてマイクロチップスとして流出すれば、もう回収できない。
 浜辺にごみがやってきたときが唯一のチャンス。美しい海を子どもたちに残すため頑張る岩田さん。


 世の中に偉い人、立派な人は数あれど、人がほとんど立ち入らない入江で、座礁の危険やマムシが潜む場所での作業でプラスチックごみを回収する岩田さんと仲間は偉い。エールをおくりたい。
 道端に落ちているごみを自主的に回収している人を見かけると、なんて偉い人なんだろうと感心しきりであるが、業務のように清掃をこなすとなれば、苦労も少なくないだろう。
 一般社団法人を設立。EARTHとCLEANから頭文字を取ったというくらいだから、地球をきれいにするのは今を生きる世代の責任だということが伝わってくる。

 一握りの富裕層がいて、ごみを集める仕事やトイレの清掃などの仕事をしている人たちのことを見下す人間もいたりする。
 若い頃、岡林信康が「山谷ブルース」を歌っていたが、日雇いと呼ばれる労働者が道路やビルの工事現場で働いてくれたから人々の暮らしが成り立っている。

 人がほとんど立ち入らない入江と説明されても、入江の状況に疎いためイメージするのも難しいが作業が困難であることだけは容易に想像できる。

 7月30日、カムチャッカ半島で大地震が起きて津波注意のニュースが今日も流れている。
 入江に打ち寄せる波は、海に投げ捨てられたりした物を連れてきてしまう。

 『うんこと死体の復権』という映画を観ているが、排せつ物に興味関心を持った人物が地中の微生物によって、どのくらいで土に還るかデータをとるために試すドキュメンタリーだった。

 プラスチックは便利この上ない品物だが、地中の微生物には見向きをされない。ということは海中において、も分解されないということになるから、処理に困るわけだ。

 岩田さんと仲間たちの尽力でそのプラスチック類が主となっているであろう入江のごみを収集してもらえることで海がきれいになる。
 有難いことであり、素晴らしいことではないか。

2025年06月17日

過去を乗り越え、命がけで世の中を変える

 「自由のために」をテーマに語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援などを訴えて発信してきたが、昨日、6月16日、ÝouTubeで知ったのは7月の参議院議員選挙の東京選挙区で、山本太郎代表率いるれいわ新選組の公認候補として元衆議院議員の山本譲司さんが紹介されていて驚かされたと同時に何とか当選してもらいたいと強く願って書いている。

 山本譲司さんの衆議院議員時代のことで知っていることといえば、秘書給与で事務所の経費を賄っていた詐欺容疑で特捜部に捕まり、実刑となったことだけである。
 法の下の平等という日本国憲法の精神から言えば、自民党安部派の裏金議員が政治資金規正法違反容疑で逮捕されるべきにもかかわらず、捕まらないことで、日本の検察が腐りきってしまったことを象徴しているが、昔は検察もまじめに仕事をしていた。
 犯罪被害者支援を訴えてきた立場である自分が山本譲司さんのことを知ったのは、栃木県の黒羽刑務所を出所してから、『獄窓記』を出し、出所者の更生に講演活動などで尽力する姿だった。

 その山本譲司さんがれいわ新選組から参議院議員選挙に立候補しないかと山本太郎代表に薦められていたが固辞していたことを立候補のあいさつで明かした。支援者や家族にも迷惑をかけ、二度と政治活動はしないと決めていたことを翻意したのは、次の理由からである。

 刑務所の中で目撃した受刑者たちは知的障がい者や身体障がい者、高齢者など社会的弱者が多く、出所してもこの社会は彼らが生きていくには大変厳しい社会であることを知ったこと。
 出所後、出所者の更生に尽力、厚生労働省も協力してくれたが、なんといっても政治を変えなければ、どうすることもできない現実に直面したこと。
 さらに、前立腺がんを発症し、もう長くはないだろうと治療と抗がん剤治療を続けているうちに症状が改善したことで、残りの人生を命がけで世の中の変革のために尽くしたいと考えたこと。
 家族も命懸けで取り組むという自分のことを理解してくれたので、遅くなってしまったが、山本太郎代表が全国遊説と消費税廃止、増税反対デモで訴えている「誰もが生きていてよかったと言える世の中に」したいという熱意に応えたいと立候補したというのだ。

 
 れいわ新選組の山本太郎代表は幕末の坂本龍馬というか令和の親鸞聖人の再来かと勝手に思い、応援したきた。
 そのれいわ新選組からは世の中を変えようと熱い気持ちで立ち上がった人たちが何人もいる。
 語り継ぐ戦争の立場から、ガマフヤーの具志堅隆松さんなどの活動を支援し、遺骨収集にもっと力を入れるという京都選挙区の西郷南海子さん。西郷さんは原爆投下についても事実を伝えるべく、原爆を落としたエノラ・ゲイが離陸したテニアン島に子ども3人を連れて訪れたことがあるというではないか。
 サイパン、グアムには行き、バンザイクリフでお参りしていても、自分にはテニアン島は頭に浮かばなかった。

 神奈川選挙区の三好亮さんもまた素晴らしい人材である。
 語り継ぐ戦争で、ソ連のスターリンがやったシベリア抑留のことを何回となく書き、抑留者が収容所で毎日、食べていたというロシア製法の黒パンを秋田の大館のサンドリヨンから取り寄せ、毎朝食べているので、シベリア抑留中にロシア語がしゃべれたらと考えたことがある。
 三好さんは外務省に勤務していた時の関係と留学の関係で英語、ロシア語、そして中国語がしゃべれるというからこれから関係構築し直さなければならないロシア、中国との交渉に役立つ人だ。
 外務省を退職し、れいわ新選組から選挙に出るという損得で生きていないところが尊敬できるばかりか、三好さんはピアノが弾けるという点も芸術に理解があるだろうということで素晴らしい。

 長谷川羽衣子さん、毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さん、米村明美さん、そして奥田文代さんと名前を知っている人を列挙したが、ほかの候補者もいずれも世の中を変えてくれそうな錚々たるメンツがいるのがれいわ新選組である。

 最後に、山本譲司さんを応援するのは、自分も受刑者の社会復帰を応援してきたが、刑務所の中のことがわからない。
 自由をこよなく大事にする自分としては、拘束される刑務所は最も嫌いなところだからだ。
 刑務所の内側で、受刑者の人間模様をしっかり目撃し、彼らのために世の中を変えたい。命がけでという人にはどうしたって当選してもらいたいではないか。

2025年05月29日

シベリア抑留研究の第一人者富田武さん逝く

 シベリア抑留研究の第一人者で成蹊大名誉教授の富田武さんが19日、急性骨髄性白血病のため死去した。79歳。福島県出身。とメディアが伝えている。
 5月27日の産経新聞によれば、東京大法学部卒。予備校講師を経て、成蹊大の助教授、教授、法学部長、名誉教授を歴任。ソ連政治史などが専門。スターリニズムを批判する立場からシベリア抑留研究に取り組み、シベリア抑留研究会の代表世話人を務めた。

 ロシアで公文書を発掘・分析するなどの研究を長く続け、シベリア抑留の実態に迫ったとは5月26日の読売が伝える富田さんの訃報である。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周っている最中の2020年コロナ渦が発生、2024年の夏頃までどこにも行かれなくなってしまい、落胆もあったのか心身共に病んでしまい急激に衰えてしまった。
 しかし、秋になって、大阪を訪れた際、大阪城のガイドでお世話になった植野師の墓参りというか仏前へのお参り後、年が明けるといくらか体調が回復し、気力も湧いてきた。

 富田武さんのことは2014年8月23日に上映会があった『帰還証言ラーゲリから帰ったオールドボーイたち その2前篇(終戦編)』の会場での講演で知った。
 映画会を主催したのは日本ユーラシア協会だった。
 映画の途中休憩時間に協会員手作りのロシアの軽食でもてなされ、黒パンのカナッペを食することができた。
 あれから、早や10年の月日が流れてしまったが、ロシア製法の黒パンを我が国で唯一製造しているという大館のサンドリヨンから取り寄せて、毎朝、連れ合いと一緒に食べている。
 サンドリヨンのことを知ったのは、抑留されたとき食べた黒パンのことが忘れられず、サンドリヨンから取り寄せて毎日食べているという首都圏に住む元抑留者のことが読売に紹介されたことがあったからだ。
 自分の場合、シベリア抑留者のことを忘れないため、シベリア抑留に大きな関心を持ち続けてきたからにほかならない。
 シベリア抑留のことは、舞鶴引揚記念館と新宿にある平和祈念展示資料館が詳しい。
 そこでは、抑留者が食していた黒パンの分け方を巡って、奪い合うような抑留者の姿がジオラマで描かれているのだ。

 シベリア抑留といえば、抑留者約4万6300人の犠牲者名簿を綴った村山常雄さん。
 『命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って』を刊行し、モンゴル抑留死亡者378人全員(現在判明分)の死亡者名簿を公表した読売の記者井手裕彦さん、無論シベリア抑留の研究者である富田武さんのこともであるが忘れてはならない。

 10年前の富田さんの講演で、1945年8月9日未明、ソ連軍が満州に侵攻し、満蒙開拓団など日本人女性がソ連兵に滅茶苦茶に性的暴行され、生憎妊娠したり、梅毒に感染させられた女性たちが博多や佐世保などに引き揚げ後、妊娠中絶手術や梅毒の治療を受けた二日市保養所のことを話された。
 その時、すでに二日市の保養所跡地にある母子地蔵にお参りを済ませていた自分としては、富田さんは流石だなと感心したものである。

 ドイツや日本など400万人以上の将兵、数十万人の民間人が、ソ連領内や北朝鮮などに抑留され、「賠償」を名目に労働を強制された実態に光をあてた『シベリア抑留』を刊行された富田さんが2017年1月20日、中公新書WEBの刊行理由を問うインタビューに「第一は、シベリア抑留というと日本人将兵のソ連抑留しか思い浮かべない一般的な見方を改めるべく、朝鮮人将兵や、南樺太・北朝鮮の日本人居留民の抑留もとりあげたこと。第二は、抑留者の飢え、酷寒、重労働の「三重苦」ばかりが強調されていたのに対し、彼らがいかに生き抜いたかに焦点を当てたこと、第三に、日本人の捕虜・抑留には、ソ連国民の矯正労働収容所送り、ドイツ及び同盟国軍将兵の虜囚生活という前史があったことを示し、世界史的視野から考えるように構成、叙述したことだ」と述べている。

 学校教育でもっと取り上げなければいけないことは、非武装の市民を無差別に殺戮した東京大空襲、日本軍が県民を守らず、犠牲を強いた沖縄戦、日本軍が降参するのが遅すぎた故の原爆投下、侵略の加害者とソ連兵の被害者併せ持つ満蒙開拓団そして戦後になってからのシベリア抑留である。

2025年03月08日

犯罪被害者の会設立 岡村勲弁護士 死去

 全国犯罪被害者の会(あすの会)」を設立し、犯罪被害者の権利確立に取り組んできた弁護士の岡村勲さんが死去した。95歳だったとメディアが伝えている。

 3月4日の読売によれば、97年、代理人を務めていた旧山一証券を一方的に恨んでいた男に妻の真苗さん(当時63歳)を殺害された。

 遺族が刑事裁判に参加できなかったり、被害補償が不十分だったりする理不尽さを訴え、2000年、家族を奪われた遺族らで「あすの会」を設立し代表幹事に就任。被害者らの刑事裁判参加などの法制化を求め、約56万人分の署名を集めて首相に提出した。

 04年に被害者の権利を明記した「犯罪被害者基本法」が成立。被害者が刑事裁判で被告に質問などができる「被害者参加制度」創設に向けた国の議論に加わって、08年の制度導入に力を尽くした。10年には凶悪犯罪の公訴時効の撤廃も実現した。

 あすの会は会員の高齢化などで18年に解散したが、被害者への経済的支援が不十分なままだとして、22年に「新全国犯罪被害者の会(新あすの会)」を創立。被害者支援に充てる国の予算拡充などを求め、活動を続けてきた。


 佐藤秀郎『衝動殺人』(中公文庫)を買い求めて読んだこと。この本を原作とした木下恵介監督『衝動殺人 息子よ』を観たことで、50代半ばを前に退職し、通教であるが大学で学び、犯罪被害者支援を訴えるため発信している。
 衝動殺人は実話で1960年代半ばの頃だったか、京浜工業地帯で鉄工所を経営していた市瀬朝一さんが一人息子を通り魔に殺害されたことから、全国の事件の被害者の遺族を周って、「被害者遺族が声を上げない限り、遺族は泣き寝入りになってしまう。一緒に立ち上がろう」と呼びかけたのだ。
 この呼びかけに反応したのが木下恵介映画監督で、映画化されたことで犯罪被害者の遺族がおかれた情況が広く知られることになった。
 主が殺害されても、賠償金もなく、生活が困窮することになった被害者遺族を救済する制度が当時はなかったのである。
 
 岡村勲弁護士は、ご自身でも書いていたが、最愛の連れ合いを殺害されるまでは、真に犯罪被害者の立場を理解していなかったというのだ。
 自身が遺族になって弁護士で法律に通じていた岡村さんだから、刑事司法の蚊帳の外におかれた犯罪被害者遺族が国を動かすためには、団結しなければならないと全国犯罪被害の会(あすの会)を結成し、犯罪被害者と遺族の立場に立った活動を始めることになったのである。

 読売の社会部の石浜友理記者2024年4月、岡村弁護士宅で取材したとき、悲願の「犯罪被害者庁」実現に、「私には持ち時間がない」と熱く語っていたそうな。

 「あすの会」代表幹事が弁護士の岡村勲さんでなければ、法律を変えるなんてことはなかなかできることではないし、国を動かすことだって難しかったであろう。
 三菱重工爆破事件が起きて、世間の目が犯罪被害者に向き、遺族に対する支援も他人事でなくなったということも味方にはなっているにしてもだ。

 市瀬朝一さんが立ち上がり、岡村勲弁護士が代表幹事だった「あすの会」や「宙の会」などの犯罪被害者遺族の皆さんの尽力で日本の司法を変えることができた。
 司法制度の蚊帳の外におかれていた犯罪被害者遺族が刑事司法、裁判に参加することができたのは画期的なことである。

 体感治安が悪化している今、いつ犯罪の被害者、あるいは遺族にならないとも限らない。他人事ではないのである。

2025年02月09日

公害の刑事責任追及 挑む

 元検事、刑法学者の土本武司さんが2024年5月、逝去されたことに伴い、2月6日の読売が夕刊「追悼抄」で取り上げている。
 岐阜市出身で、博士号を持つ検事から筑波大教授に転身。28年間の検事時代「公害問題の刑事責任に追及に新たな道を開いた」と評される「熊本水俣病事件」の刑事裁判。新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病と並ぶ「四大公害事件」で唯一、企業トップの刑事責任が問われた。

 熊本地検は1976年、10年以上前の工場排水で胎児性水俣病患者らを死傷させたとして企業トップを業務上過失致死傷罪で起訴したが、胎児への傷害が罪になるのか、公訴時効(3年)は成立しないのかという法的なハードルがあった。
 次席検事として公判を指揮し、新生児の先天異常を引き起こしたドイツの所謂サリドマイド薬害事件などを参考に従来の判例にない新たな法解釈を導き出し、1審で有罪を勝ち取った。
 上告審では、時効の起算点を犯罪の「発生」ではなく「結果」とする最高裁の初判断が示された。


 土本といえば、土本武司さんと同じ土本姓で、同じく岐阜で生まれたという映画監督土本典昭さんがいた。
 水俣病の映画といえば、土本典昭さんというくらいで、『水俣の子は生きている』と『水俣病―その20年』を観ている。
 単なる偶然かもしれないが、二人は映画で水俣病の悲惨さを世界に発信し、裁判で検事として水俣病の原因者の企業トップとしての刑事責任を追及したことで知られている。

 司法関係者の中で、冤罪事件多発で、強引な取り調べで自白を引き出す警察と証拠を隠す検事の評判がすこぶる悪い。
 特に、無実、冤罪を訴え、再審請求を繰り返してきたが、八王子の医療刑務所で獄死した名張の毒ぶどう酒事件の死刑囚奥西勝さんの再審請求を支援している立場としては、検事に佳い印象はない。
 語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援を訴えてきた立場でもあるから、重大事件が起きるとテレビや新聞からコメントを求められる立場だった土本武司さんが被害者の立場を考えた加害者に厳しいコメントがあって、信頼してきたところである。

 水俣病のことを知れば知るほど、企業トップの刑事責任を追及しないではいられない。
 この点も、土本武司さんが被害者の立場に立って、追及してくれたことは高く評価できる。 

2025年01月07日

医師の父と息子で礼文の医療守る

 「孤島の若先生と大先生」「父子 礼文の医療守る」という見出しで1月5日の読売が社会面に「継ぐつなぐ」という連載の2回目で稚内からフェリーで2時間という礼文島で頑張る医師の親子を紹介している。

 日本海最北の離島にある「礼文町国民健康保険船舶診療所」所長升田晃生さん(39)と現在は嘱託医師である升田鉄三さん(70)父子が島の医療を支える。
 小学校卒業後、島を離れて旭川医科大学を卒業し、秋田の病院で働いていた頃、悪性リンパ腫を患った父が治療のため秋田に来た。
 数年後、定年を控えていた父に「礼文に帰る」と伝えた。父は嬉しそうな顔をしていた。

 父から「医者になれ」と言われたことは一度もない。しかし、幼い頃から見てきたその背中は大きかったのだと思う。「医者は世界に何十万人といるけれど、礼文の医療を知っているのは自分しかいない」と息子は心を決めた。
 離島の医療はどんな病気やけがにも対応できなければならない。専門の消化器外科だけでなく、内科や整形外科の指導医にも離島での医療を前提にした助言を求めた息子。

 2020年の夏、島に戻り診療所を受け継ぐも、島民に馴染んでもらうのに時間がかかったが、次第に理解を得られた。
 実家の横にあるアパートで暮らし、緊急の電話が入れば、昼夜を問わずすぐに駆けつける。


 礼文島の人口は約2500人だそうな。
 TVや映画で視聴したり、観た『ドクターコトー診療所』のコトー先生こと五島健助医師と升田晃生医師が重なってしまう。

 近年、カネが儲かる、収入が多いからと美容整形の医師になり手が多く、医師の診療科目の偏りが目立つと報じられている。

 一方で、アフガンで医師でありながら灌漑用水路を敷設し、食料事情をよくした中村哲先生のような歴史に名前を刻み、長く称えられる医師もいる。

 余計なお世話だが、コトー先生には彩佳という看護師がいて、映画では夫婦で島の医療を支えてくれた。
 晃生先生だって、いつまでも一人では行く末が心配でならない。
 礼文島には娘たちはいないのか。看護師になって晃生先生を支えようという女性はいないのか。
 いなければ、全国の若い女性に呼びかけたい。
 
 島には島の物語があるもので、古くは壷井栄『二十四の瞳』の舞台となったのはオリーブの島小豆島だった。
 ハンセン病患者の収容を描いた小川正子『小島の春』は岡山県瀬戸内市の瀬戸内海の離島の長島愛生園だった。

 島民のために働く人たちにエールをおくりたい。

2024年12月29日

東京DMAT創設20年 救急医ら災害派遣

 東京都の災害派遣医療チーム「東京DMAT」が2024年、創設20年を迎えた。
 災害現場に駆け付け医療活動を行う救急医の専門チームとして全国で初めて組織され、東日本大震災や秋葉原無差別殺傷事件にも出動。
 DMATは国と31道府県でも結成され、各地で傷ついた人たちを救っている。と12月25日の読売(岡本立記者)が夕刊で伝えている。

 東京DMATが誕生するきっかけは、1995年の阪神大震災だった。病院が被災し、けが人が特定の病院に押し寄せたため、人手が不足し、医療活動が困難になった。通常の救急医療を提供できていれば命を救えた人が500人いたとされる。
 ために、東京都では2004年8月、全国に先駆け東京DMATを創設。当初の隊員は、都内7病院の医師、看護師ら計87人だった。隊員は4月現在、都内27病院の計1136人と創設時の13倍に増強されている。
 ただし、2024年4月に始まった「医師の働き方改革」は、東京DMATの活動に影響を及ぼしている。


 40代早々、3か月入院して炎症性腸疾患クローン病だと診断され、爾来、通院、服薬という生活が続いている。この間、医師には言葉にならないほどお世話になっているので、感謝の言葉しかない。
 その後も、腸閉塞や尿路感染症の悪化による腎盂腎炎で3回も入院しているので、医師だけでなく、医療関係のスタッフ、院内の清掃の係までお世話になっていることも忘れたことはない。

 その医師がコロナ禍でどれほど多くの人命を救ってくれたことか、考えただけでも頭が下がる。
 特に、震災などにおける救急医療チームほど心強いものはないし、有り難い存在であることに敬意を表している。

 年の瀬になって、年末年始の休みということで、医療機関も休みが続く。こうなると、万が一、具合が悪くなったら、休日診療が頼りになる。
 休日にお世話してくれる医師には手を合わせたくなってしまう。
 正月に咳が酷くなって、お世話になったことがあるから実感している。
 医療機関が休みで、行き場がない患者にとって、休日診療してもらえるとどんなに助かることか。

 事件現場や震災など災害の現場では、消防、警察、自衛隊そして,DMATなどの医療チームが活躍してくれている。
 医師の使命感たるや、見上げたものでこの人たちのお陰で市民の生活は成り立っているのだと痛感させられる。
 議員など国から地方までいなくてもどうってことはないし、有難みなど全く感じないが、医師を筆頭に医療スタッフがいない生活は考えられない。
 感謝あるのみである。