戦後80年 昭和百年の読売(戸田貴也記者)の連載、7月2日はシベリア、モンゴルでの抑留者で富山県南砺市の山田秀三さん(107)にスポットを当てている。
終戦当時、中国東北部・錦州で航空燃料の警備にあたっていた時、武装解除後、貨車に乗せられた。奉天付近で女性や子どもが乗った引き揚げ列車とすれ違い、「自分たちは帰れない」と悟った。1945年11月、28歳だった。
哈爾浜駅では逃げようとした18から19歳くらいの3人がソ連兵に目の前で銃殺された。
モンゴル国境のナウシキ駅に着いたが、この間20日ほど食事の配給は一切なく、靴下に隠していたわずかなコメや乾パンで空腹をしのいだ。何十`もカラマツの林を歩き、モンゴル兵に引き渡された。歩いたり、軍用車に乗せられ、草原の中の地下洞窟に作られた収容所に入った。
草原には水がなく、氷点下30度を下回る中、毎朝4キロ先の川まで水を取りに行った。食事は一日一度。雑穀の高粱とラクダの腸の細切れが少し入った雑炊だった。風呂も入れず、不衛生で、同じ分隊の25歳は衰弱して死んだ。
ウランバートルでは、建物の基礎工事にあたった。土地は春になっても1b下まで凍り付いて鉄板のようだった。
飢えと極寒、重労働の「三重苦」を耐え、47年11月、引き揚げ船で函館に辿り着いた。
仲間の慰霊に尽くそうと、98年に全国強制抑留者協会の会員となり、2019年から会長を務めている。
特に地元のシベリア抑留者慰霊碑の建立には心血を注いだ。仲間の供養にモンゴルに足を運んだ。
富山県では約3100人が旧ソ連軍に連行され、強制労働と栄養失調などで約600人が亡くなったという。
富山県高岡市手洗野にある信光寺近くの慰霊碑で、2024年も9月11日に慰霊祭が行われた。
モンゴルでの抑留者は約1万4,000人で、伝染病や栄養失調などで約1700人が死亡した。
シベリアでは、抑留者は毎日、黒パンとカーシャというスープを食べていたと耳にしている。
シベリアと一括りできないほど広くて、収容所は現在のウクライナやカザフスタンさらにはモンゴルと現在のロシアとは別の国に及ぶ。
ソ連とは別の国であるモンゴルの収容所のことは胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(文春文庫)を読んでいるが、タイトルにもあるように黒パンを食べていたと思いこんでいた。
しかし、富山の山田秀三さんによれば、高粱に羊の腸の細切れが入った雑炊だったそうな。
満州なら高粱が取れたから、雑炊にするということは考えられるので、モンゴルでは、地域によって、黒パンか高粱の雑炊ということだったかもしれない。
実は、シベリア抑留を忘れないために、ロシア製法の黒パンを秋田の大館のサンドリヨンから取り寄せて、毎朝食べているので、モンゴルで黒パンを食べていない収容所があったことは初耳である。
ロシア製法の黒パンはサンドリヨンでしか作っていないというから、大館の人はともかく、首都圏では、食べているひとはほとんどいないのではないか。
モンゴルといえば、大相撲ではモンゴルからやってきた力士の活躍が目立つ。
しかし、大相撲中継をしているNHKでも、モンゴル抑留者のことを取り上げていた記憶はほとんどなかったと記憶する。
モンゴルやウクライナ、そしてカザフスタンとすぐに名前が出てくる国にも収容されていた抑留者のことを思えば、事実関係を語り継ぐ必要がある。
特に、カザフスタンのカラカンダの収容所で炭鉱労働をさせられたことを書いた体験記があるくらいだから、事実関係を語り継ぐことで、戦争を防ぐ意識を高めておくことが肝要だ。
2025年07月04日
2025年07月03日
「六名殺シ夢二ウナサレテナラヌ」
「六名殺シ夢二ウナサレテナラヌ」「戦争トラウマ旧日本兵にも」国、調査着手 「遺族らが団体 語り継ぐ」という見出しで、6月30日の読売(浜田喜将記者)が戦後80年、昭和百年の連載で伝えている。
先の大戦での過酷な体験が旧日本兵にもたらした「戦争トラウマ」を見つめ直す動きが広がっている。心をむしばまれて日常生活に支障を来たすケースもありながら、長らく個人の問題とみられていた。
近年、社会の理解が深まり、遺族が苦悩を語り合う取り組みが進むほか、国は7月から初めての企画展を開く。
戦時中、千葉県市川市の国府台陸軍病院に精神疾患で入院していた兵士の「病床日誌」(カルテ)8002人分が千葉県東金市の浅井病院に残っている。
軍は同病院にカルテの焼却を命じたが、軍医を務めていた浅井利勇さん(2000年死去)が院長と共に「後世に残さなければと考え、カルテをドラム缶に入れて埋め、数年後に掘り出し、5年以上かけて全てコピー。以来、浅井さんが開業した浅井病院で保管してきた。
戦争トラウマが広く認知されるきっかけは、1975年に終わったベトナム戦争だ。米国で帰還兵に同様の症状が相次いで本格的な研究が行われ、80年、米国精神医学会がPTSDを疾患として正式に認定。2000年代に入ると、イラクやアフガニスタンへの軍事介入でも帰還兵のPTSDが問題化した。
東京武蔵村山市の黒井秋夫さん(76)は、旧日本兵の遺族らが戦争トラウマについて話し合う団体を発足させた。
厚生労働省も7月中には国立の戦傷病者史料館「しょうけい館」で戦争トラウマのパネル展を始める。
NHK映像の世紀バタフライエフェクト「戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢」で、この問題を取り上げていたことがある。
戦争では兵士に限らず、悲惨な体験をした人を戦後も苦しめることになる。
1975年の『愛の嵐』ではナチスの強制収容所で性暴力の加害者と被害者だった男女が戦後、心ならずも再会してしまい、倒錯の関係をに堕ちてしまうというような怖い映画だった。
7月12日から上映される『黒川の女たち』は、満蒙開拓団の娘たち15人がソ連兵からの略奪や性暴力から守ってもらうため、ソ連兵将校に性奴隷として献上されたことを帰国後、体験者が長い沈黙を破り、告発するのだ。
ソ連兵将校がベルトを外す音が耳から離れないということで、こちらもPTSDということになろうか。
先般、書いた三田空襲で下校中の小学生が米軍機のパイロットから機銃掃射を受け、小学生4人と農婦が犠牲となった。
体験者が低空に降下してきたパイロットが笑いながら機銃掃射をしてきたことで、米国に対する恨みが消えない。と語っていた。
戦争が終わって、普通の暮らし、日常を取り戻したら、そのパイロットだって、まともな精神になれば、子ども殺したのだから、苦しまないはずがない。
軍隊は武器を所持しているから、いざとなれば、当然、相手を撃ち殺すだろう。
戦争では撃たなければ、自分が殺されるが、占領地では武器を所持していない民間人だっているから、敵だとみれば、殺してしまうことだってあったはずだ。
しかし、戦後、普通の暮らしに戻れば、戦争中のことだからと言っても、人殺しは人殺しだから、加害者となれば後悔もするだろうし苦悩もするはずだ。
戦争だからということでは、人間として許されないことは許されない。
先の大戦での過酷な体験が旧日本兵にもたらした「戦争トラウマ」を見つめ直す動きが広がっている。心をむしばまれて日常生活に支障を来たすケースもありながら、長らく個人の問題とみられていた。
近年、社会の理解が深まり、遺族が苦悩を語り合う取り組みが進むほか、国は7月から初めての企画展を開く。
戦時中、千葉県市川市の国府台陸軍病院に精神疾患で入院していた兵士の「病床日誌」(カルテ)8002人分が千葉県東金市の浅井病院に残っている。
軍は同病院にカルテの焼却を命じたが、軍医を務めていた浅井利勇さん(2000年死去)が院長と共に「後世に残さなければと考え、カルテをドラム缶に入れて埋め、数年後に掘り出し、5年以上かけて全てコピー。以来、浅井さんが開業した浅井病院で保管してきた。
戦争トラウマが広く認知されるきっかけは、1975年に終わったベトナム戦争だ。米国で帰還兵に同様の症状が相次いで本格的な研究が行われ、80年、米国精神医学会がPTSDを疾患として正式に認定。2000年代に入ると、イラクやアフガニスタンへの軍事介入でも帰還兵のPTSDが問題化した。
東京武蔵村山市の黒井秋夫さん(76)は、旧日本兵の遺族らが戦争トラウマについて話し合う団体を発足させた。
厚生労働省も7月中には国立の戦傷病者史料館「しょうけい館」で戦争トラウマのパネル展を始める。
NHK映像の世紀バタフライエフェクト「戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢」で、この問題を取り上げていたことがある。
戦争では兵士に限らず、悲惨な体験をした人を戦後も苦しめることになる。
1975年の『愛の嵐』ではナチスの強制収容所で性暴力の加害者と被害者だった男女が戦後、心ならずも再会してしまい、倒錯の関係をに堕ちてしまうというような怖い映画だった。
7月12日から上映される『黒川の女たち』は、満蒙開拓団の娘たち15人がソ連兵からの略奪や性暴力から守ってもらうため、ソ連兵将校に性奴隷として献上されたことを帰国後、体験者が長い沈黙を破り、告発するのだ。
ソ連兵将校がベルトを外す音が耳から離れないということで、こちらもPTSDということになろうか。
先般、書いた三田空襲で下校中の小学生が米軍機のパイロットから機銃掃射を受け、小学生4人と農婦が犠牲となった。
体験者が低空に降下してきたパイロットが笑いながら機銃掃射をしてきたことで、米国に対する恨みが消えない。と語っていた。
戦争が終わって、普通の暮らし、日常を取り戻したら、そのパイロットだって、まともな精神になれば、子ども殺したのだから、苦しまないはずがない。
軍隊は武器を所持しているから、いざとなれば、当然、相手を撃ち殺すだろう。
戦争では撃たなければ、自分が殺されるが、占領地では武器を所持していない民間人だっているから、敵だとみれば、殺してしまうことだってあったはずだ。
しかし、戦後、普通の暮らしに戻れば、戦争中のことだからと言っても、人殺しは人殺しだから、加害者となれば後悔もするだろうし苦悩もするはずだ。
戦争だからということでは、人間として許されないことは許されない。
2025年07月02日
砂川闘争70年 「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
「砂川闘争70年『記憶』も記事に」という見出しのコラムが「東京春秋」325というタイトルで6月29日の読売にあった。畑武尊(46)と記者が紹介されている。
人事異動で20年ぶりに最初の赴任地立川支局で働いている。
戦後80年の2025年、立川といえば、米軍基地の拡張に反対した「砂川闘争」が思い浮かぶ。
1955年5月、米軍が立川基地の滑走路の延長を計画し、砂川町(現・立川市)に通告。これに対し地権者の農民は反対同盟を結成し、町ぐるみの反対運動に発展した。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」をスローガンに同盟や学生らが警官隊と衝突を繰り返した。
運動が実り米軍は68年、延長中止を発表。返還された土地は自衛隊駐屯地や国営昭和記念公園になった。
2025年は闘争から70年。6月7日に市内で記念の集会が開かれた。
集会では闘争に参加した人、子孫が登壇したのを見て、当時の自分を責めた。
事件の取材に終われ、実際に反対運動を担った農家の話に耳を傾け、記事にするのを怠っていたことに気づいた。
戦後80年でもあるので、現在の基地問題につながる「砂川」の記憶も記事にしていく。と結ぶ。
米軍立川基地が返還され、立川駅北口再開発で整備された駅前は賑やかで、東京地裁八王子支部が立川に移転するくらい、今や三多摩随一の商業都市になった立川。
立川といえば、高島屋にキノシネマがあって、椅子が快適で上映作品がまたためになる作品ばかりという優れた映画館があり、東京の映画館に負けていないのだ。
加齢による心身の著しい衰えで行かれなくなってしまったので、過去のことになるが、正月恒例の箱根駅伝の予選会が自衛隊立川駐屯地と昭和記念公園で開催されるようになってから、毎年応援に行っていたことがある。
国営の昭和記念公園はそれは素晴らしい公園で立川の知名度アップに貢献している。
語り継ぐ戦争の立場からは、立川といえば、戦後の米軍の進駐で、生きるために昨日まで敵だった鬼畜米兵相手に春を鬻いだ「星の流れに」のヒロインのようなパンパンと呼ばれた女性たちのことを書いておかなければならない。
1945(昭和20)年9月、立川に進駐してきたのは米軍 第1騎兵師団 。立川飛行場は接収されて米軍基地となった。 米軍進駐直後から立川の街頭には需要と供給というか街娼が立ち始めたという。
立川には戦前から「錦町楽天地」、「羽衣新天地」という花街があったことも生きていくために立ちんぼが立つ下地があったといえるかもしれない。
小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ、米軍基地と社会問題によれば、立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の1952年には3000人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全体では7000名ともいわれた(近現代編史料集B No.四五五)。
立川だけでなく、府中には米軍の通信基地、福生には米軍の横田基地があったことで、商売をする女性が集まった。
アジア太平洋戦争に敗れた日本政府は、日本兵が侵略先で現地女性に性的暴行したことや、満州で日本人女性がソ連兵に性的暴行されたことから、婦女子を守るためとして、米兵専属の慰安婦を集めたR・A・A(特殊慰安施設協会)を用意した。
梅毒などの性感染症が蔓延し、米国本国から怒られた進駐軍は、やがて、オフリミットとして、女性たちを追い出したことから、女性たちが基地の街に流れたという説があるくらいである。
砂川闘争に話を戻す。
日米同盟など日本の防衛に全く機能しないことが明らかになった戦後80年。
米軍基地は徐々に返還をしてもらい、跡地は自衛隊が利用するとして、独立国家としての矜持を市民ひとり一人がもたなければならない。
本土、沖縄共に治外法権の米軍基地が多すぎる。
立川が発展したのは、砂川闘争で立川基地が返還されたからではないか。
砂川闘争から70年、戦後80年、米軍基地と戦った市民にエールをおくりたい。
人事異動で20年ぶりに最初の赴任地立川支局で働いている。
戦後80年の2025年、立川といえば、米軍基地の拡張に反対した「砂川闘争」が思い浮かぶ。
1955年5月、米軍が立川基地の滑走路の延長を計画し、砂川町(現・立川市)に通告。これに対し地権者の農民は反対同盟を結成し、町ぐるみの反対運動に発展した。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」をスローガンに同盟や学生らが警官隊と衝突を繰り返した。
運動が実り米軍は68年、延長中止を発表。返還された土地は自衛隊駐屯地や国営昭和記念公園になった。
2025年は闘争から70年。6月7日に市内で記念の集会が開かれた。
集会では闘争に参加した人、子孫が登壇したのを見て、当時の自分を責めた。
事件の取材に終われ、実際に反対運動を担った農家の話に耳を傾け、記事にするのを怠っていたことに気づいた。
戦後80年でもあるので、現在の基地問題につながる「砂川」の記憶も記事にしていく。と結ぶ。
米軍立川基地が返還され、立川駅北口再開発で整備された駅前は賑やかで、東京地裁八王子支部が立川に移転するくらい、今や三多摩随一の商業都市になった立川。
立川といえば、高島屋にキノシネマがあって、椅子が快適で上映作品がまたためになる作品ばかりという優れた映画館があり、東京の映画館に負けていないのだ。
加齢による心身の著しい衰えで行かれなくなってしまったので、過去のことになるが、正月恒例の箱根駅伝の予選会が自衛隊立川駐屯地と昭和記念公園で開催されるようになってから、毎年応援に行っていたことがある。
国営の昭和記念公園はそれは素晴らしい公園で立川の知名度アップに貢献している。
語り継ぐ戦争の立場からは、立川といえば、戦後の米軍の進駐で、生きるために昨日まで敵だった鬼畜米兵相手に春を鬻いだ「星の流れに」のヒロインのようなパンパンと呼ばれた女性たちのことを書いておかなければならない。
1945(昭和20)年9月、立川に進駐してきたのは米軍 第1騎兵師団 。立川飛行場は接収されて米軍基地となった。 米軍進駐直後から立川の街頭には需要と供給というか街娼が立ち始めたという。
立川には戦前から「錦町楽天地」、「羽衣新天地」という花街があったことも生きていくために立ちんぼが立つ下地があったといえるかもしれない。
小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ、米軍基地と社会問題によれば、立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の1952年には3000人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全体では7000名ともいわれた(近現代編史料集B No.四五五)。
立川だけでなく、府中には米軍の通信基地、福生には米軍の横田基地があったことで、商売をする女性が集まった。
アジア太平洋戦争に敗れた日本政府は、日本兵が侵略先で現地女性に性的暴行したことや、満州で日本人女性がソ連兵に性的暴行されたことから、婦女子を守るためとして、米兵専属の慰安婦を集めたR・A・A(特殊慰安施設協会)を用意した。
梅毒などの性感染症が蔓延し、米国本国から怒られた進駐軍は、やがて、オフリミットとして、女性たちを追い出したことから、女性たちが基地の街に流れたという説があるくらいである。
砂川闘争に話を戻す。
日米同盟など日本の防衛に全く機能しないことが明らかになった戦後80年。
米軍基地は徐々に返還をしてもらい、跡地は自衛隊が利用するとして、独立国家としての矜持を市民ひとり一人がもたなければならない。
本土、沖縄共に治外法権の米軍基地が多すぎる。
立川が発展したのは、砂川闘争で立川基地が返還されたからではないか。
砂川闘争から70年、戦後80年、米軍基地と戦った市民にエールをおくりたい。
2025年07月01日
元ひめゆり98歳「亡き友の分まで」悲劇伝える
戦後80年、自民党の西田昌司参議院議員が沖縄のひめゆり平和祈念資料館の展示について、事実と異なる発言をし、参政党の神谷党首がこの発言に同調した演説をしたことが伝えられ、沖縄県民を怒らせた。
沖縄慰霊の日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」では慰霊祭が営まれ、生き残ったことが罪になる―。そんな時代を仲里正子さん(98)は思い出す。と6月24日の読売が伝えている。
米軍の沖縄上陸が迫る1945年3月23日、仲里正子さんが通う沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒や教員240人は学校から5`離れた沖縄陸軍病院に集められた。
病院には5月25日に撤退命令が下る。生徒たちは糸満市に点在する6か所のガマに散った。
6月18日「伊原第一外科壕」で「学徒隊は解散する。自らの判断で行動せよ」
240人のうち、半数超の136人が亡くなった。その8割超(117人)が解散後の犠牲者が占める。
学徒隊の33回忌を終え、同窓会が82年にひめゆり平和祈念資料館の設立事業に取りかかると、「生き残った私たちが亡くなった友達の分まで絶対に伝えるんだ」と約30人の仲間と7年をかけて資料集めや調査に力を尽くした。
以来、語り部として自分の体験を伝えてきた。
23日、資料館は開館36年を迎えた。
生き残った者の使命として、戦争を否定し、平和を願う心を次世代へと引き継ぐ。
1985年1月、初めて沖縄を訪れた。
米軍が支配している沖縄だから、レンタカーという考えは全く浮かばず、タクシーで南部戦跡を周った。
ひめゆりの塔にも当然のこととしてお参りするために案内してもらったが、当時は、ひめゆり平和祈念資料館はできていなくて、訪れた時期もあったかもしれないが、賑やかという雰囲気ではなかった。
ひめゆりが女子学徒なら、男子学徒の健児の塔にも案内してもらったが、こちらもお参りする人は少なかった。
摩文仁の県営平和祈念公園に現在の平和祈念資料館ができたのは2000年4月1日。資料館は1975(昭和50)年6月11日に開設されていた。
鉄の暴風をイメージしたという平和の礎は、1995年6月23日にできたということで、こちらもまだなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れたのは2011年の夏のことだった。2度目の沖縄は26年経って南部戦跡も整備され、資料館も見応えあったが、平和の礎には驚かされた。
敵味方なく、民族差別もない、素晴らしい理念の下にできていて感心しきりであった。
ひめゆり平和祈念資料館では、元学徒隊の宮城喜久子さんがガイドの当番だったかしていて、個人的にはいろいろ教えてもらいたいと願っていたが、夏休みで入場者が多く、そんなわがままは通らない雰囲気だった。
語りべの体験談も聞くことができたが、80年経って、自民党の西田昌司参議院議員、参政党の神谷党首の歴史を曲げてしまおうとするかの様な発言に対し、沖縄県民同様、怒りを禁じえない。
沖縄戦は日本軍が本土の防波堤、本土決戦の時間稼ぎの持久戦を企図したため、軍民混在で県民の犠牲者が多数でた。
「沖縄県民かく戦えり」と沖縄戦を戦った県民を称えた大田實海軍少将が自決する前に海軍次官に宛てた電文がある。
西田昌司参議院議員、神谷党首は恥をしるべきである。
沖縄戦ではひめゆりなどの女子学徒隊、鉄血勤皇隊や通信隊などの男子学徒隊までも動員されたのである、
感謝するしかない。
沖縄慰霊の日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」では慰霊祭が営まれ、生き残ったことが罪になる―。そんな時代を仲里正子さん(98)は思い出す。と6月24日の読売が伝えている。
米軍の沖縄上陸が迫る1945年3月23日、仲里正子さんが通う沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒や教員240人は学校から5`離れた沖縄陸軍病院に集められた。
病院には5月25日に撤退命令が下る。生徒たちは糸満市に点在する6か所のガマに散った。
6月18日「伊原第一外科壕」で「学徒隊は解散する。自らの判断で行動せよ」
240人のうち、半数超の136人が亡くなった。その8割超(117人)が解散後の犠牲者が占める。
学徒隊の33回忌を終え、同窓会が82年にひめゆり平和祈念資料館の設立事業に取りかかると、「生き残った私たちが亡くなった友達の分まで絶対に伝えるんだ」と約30人の仲間と7年をかけて資料集めや調査に力を尽くした。
以来、語り部として自分の体験を伝えてきた。
23日、資料館は開館36年を迎えた。
生き残った者の使命として、戦争を否定し、平和を願う心を次世代へと引き継ぐ。
1985年1月、初めて沖縄を訪れた。
米軍が支配している沖縄だから、レンタカーという考えは全く浮かばず、タクシーで南部戦跡を周った。
ひめゆりの塔にも当然のこととしてお参りするために案内してもらったが、当時は、ひめゆり平和祈念資料館はできていなくて、訪れた時期もあったかもしれないが、賑やかという雰囲気ではなかった。
ひめゆりが女子学徒なら、男子学徒の健児の塔にも案内してもらったが、こちらもお参りする人は少なかった。
摩文仁の県営平和祈念公園に現在の平和祈念資料館ができたのは2000年4月1日。資料館は1975(昭和50)年6月11日に開設されていた。
鉄の暴風をイメージしたという平和の礎は、1995年6月23日にできたということで、こちらもまだなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れたのは2011年の夏のことだった。2度目の沖縄は26年経って南部戦跡も整備され、資料館も見応えあったが、平和の礎には驚かされた。
敵味方なく、民族差別もない、素晴らしい理念の下にできていて感心しきりであった。
ひめゆり平和祈念資料館では、元学徒隊の宮城喜久子さんがガイドの当番だったかしていて、個人的にはいろいろ教えてもらいたいと願っていたが、夏休みで入場者が多く、そんなわがままは通らない雰囲気だった。
語りべの体験談も聞くことができたが、80年経って、自民党の西田昌司参議院議員、参政党の神谷党首の歴史を曲げてしまおうとするかの様な発言に対し、沖縄県民同様、怒りを禁じえない。
沖縄戦は日本軍が本土の防波堤、本土決戦の時間稼ぎの持久戦を企図したため、軍民混在で県民の犠牲者が多数でた。
「沖縄県民かく戦えり」と沖縄戦を戦った県民を称えた大田實海軍少将が自決する前に海軍次官に宛てた電文がある。
西田昌司参議院議員、神谷党首は恥をしるべきである。
沖縄戦ではひめゆりなどの女子学徒隊、鉄血勤皇隊や通信隊などの男子学徒隊までも動員されたのである、
感謝するしかない。
2025年06月30日
三田空襲で機銃掃射、パイロットの顔が見えた
地域に残る戦争体験を次世代に伝えようと、終戦直前の1945年7月に起きた「三田空襲」の体験者の話を聞く会が28日、三田市のまちづくり協働センター(駅前町)で開かれた。当時、三田国民学校(現・三田小)3年生だった志儀喜代美さん(88)が、80年前に米軍機が間近に迫った体験や戦中の暮らしを語り、約60人が熱心に聴き入った。と6月29日の読売が伝えている。
45年7月19日午前、三田駅付近を低空飛行していた米軍機2機の機銃掃射により、空襲警報を受けて隊列を組み下校するなどしていた三輪国民学校(現・三輪小)の児童4人と農作業中の女性1人が犠牲となった。
今回の会は、教育者や芸術家らでつくる団体「SUNPEACE」が終戦80年に合わせて企画した第1弾。団体はこれまで空襲に遭った人の体験談を動画に収め、ユーチューブに投稿してきた。
この日は団体の荒井隆一理事(すずかけ台小校長)が、米軍機の飛来状況や三輪町(現・三田市)役場の半鐘にも銃弾が貫通したこと、高平村(同)上空で米軍機と戦い亡くなった日本軍戦闘機の隊員の話などを説明した。
続いて、大向勲理事長(武庫小校長)が聞き役を務め、志儀さんが国民学校時代の思い出や金属供出など戦中の暮らしぶりを話した。空襲当日は指定場所へ逃げるために学校を出た直後に、米軍機が接近。上級生らしき人の「伏せろ」の声で慌ててくぼみに身を潜めたが、白く目立つカバンを隠し、泣きべそをかきながら通り過ぎるのを待ったという。
志儀さんは「当時の出来事を届けられる最後の年代かな。一番大事な命をなくす戦争を防ぐよう、若い人にお伝えできたらと思う」と話をしめくくった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年11月6日、大阪城を訪れたとき、ボランティアガイドとして、城内を案内していただいた植野雅量師とその後も2023年11月に90歳で亡くなられるまで交流が続いた。
戦災は無論のこと、難波の宮など大阪に関することを幅広く教えて頂いたことから、語り継ぐ戦争のわが師と仰いでいた。
このことは2024年10月、大阪に出向き、仏前にて「手向」を吹いたことを書いている。
その植野雅量師が大阪城内を案内していただいた時だったか、小学生の時、米軍の機銃掃射を受け、一緒にいた友達が殺されたということを語り継ぐ戦争だからということで教えていただいた。
当時は、植野雅量師は大阪の人だと信じていたので、大阪のどこの出来事だったのだろうか。いずれ調べればわかるかも。と心に留めておいた。
お付き合いが進んだある時、故郷兵庫県の三田の名産だというハムの詰め合わせを頂戴したことで、大阪ではなかったと改めて思った。
沖縄戦のことを連日書いている時、ふと、兵庫の三田の空襲のことを調べたくなり、「SUNPEACE」が三田の空襲の動画をYouTubeにアップしているのをみつけてしまった。
2023年11月に90歳で亡くなったということは、80年前なら小学校6年生だったかもしれない。
というわけで、関係者と連絡が取れれば、植野雅量師の機銃掃射の体験を地元の方と確認してみたいと願っている。
米軍パイロットは非武装のしかも、小学生を機銃で撃ち殺そうとした時、笑っていたというが、事実なら、語り継ぐ戦争の立場である自分が反米になったことを理解してもらえるのではないか。
45年7月19日午前、三田駅付近を低空飛行していた米軍機2機の機銃掃射により、空襲警報を受けて隊列を組み下校するなどしていた三輪国民学校(現・三輪小)の児童4人と農作業中の女性1人が犠牲となった。
今回の会は、教育者や芸術家らでつくる団体「SUNPEACE」が終戦80年に合わせて企画した第1弾。団体はこれまで空襲に遭った人の体験談を動画に収め、ユーチューブに投稿してきた。
この日は団体の荒井隆一理事(すずかけ台小校長)が、米軍機の飛来状況や三輪町(現・三田市)役場の半鐘にも銃弾が貫通したこと、高平村(同)上空で米軍機と戦い亡くなった日本軍戦闘機の隊員の話などを説明した。
続いて、大向勲理事長(武庫小校長)が聞き役を務め、志儀さんが国民学校時代の思い出や金属供出など戦中の暮らしぶりを話した。空襲当日は指定場所へ逃げるために学校を出た直後に、米軍機が接近。上級生らしき人の「伏せろ」の声で慌ててくぼみに身を潜めたが、白く目立つカバンを隠し、泣きべそをかきながら通り過ぎるのを待ったという。
志儀さんは「当時の出来事を届けられる最後の年代かな。一番大事な命をなくす戦争を防ぐよう、若い人にお伝えできたらと思う」と話をしめくくった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年11月6日、大阪城を訪れたとき、ボランティアガイドとして、城内を案内していただいた植野雅量師とその後も2023年11月に90歳で亡くなられるまで交流が続いた。
戦災は無論のこと、難波の宮など大阪に関することを幅広く教えて頂いたことから、語り継ぐ戦争のわが師と仰いでいた。
このことは2024年10月、大阪に出向き、仏前にて「手向」を吹いたことを書いている。
その植野雅量師が大阪城内を案内していただいた時だったか、小学生の時、米軍の機銃掃射を受け、一緒にいた友達が殺されたということを語り継ぐ戦争だからということで教えていただいた。
当時は、植野雅量師は大阪の人だと信じていたので、大阪のどこの出来事だったのだろうか。いずれ調べればわかるかも。と心に留めておいた。
お付き合いが進んだある時、故郷兵庫県の三田の名産だというハムの詰め合わせを頂戴したことで、大阪ではなかったと改めて思った。
沖縄戦のことを連日書いている時、ふと、兵庫の三田の空襲のことを調べたくなり、「SUNPEACE」が三田の空襲の動画をYouTubeにアップしているのをみつけてしまった。
2023年11月に90歳で亡くなったということは、80年前なら小学校6年生だったかもしれない。
というわけで、関係者と連絡が取れれば、植野雅量師の機銃掃射の体験を地元の方と確認してみたいと願っている。
米軍パイロットは非武装のしかも、小学生を機銃で撃ち殺そうとした時、笑っていたというが、事実なら、語り継ぐ戦争の立場である自分が反米になったことを理解してもらえるのではないか。
2025年06月29日
特攻艇「マルレ」元隊員の80年
戦後80年となる今年、私たちは「いまを、戦前にさせない」をテーマにお伝えしている。爆薬を積み敵の船に向かった海の特攻。通称、マルレ。元隊員の男性が80年の時を経て、当時のことを語った。と6月28日の日テレNEWS NNN が伝えている。
「マルレ」特攻兵内野藤義さん(97)。太平洋戦争末期、爆薬を積んで敵の船に突っ込む簡素なボート「マルレ」の搭乗員だった。事実上の特攻作戦。アメリカ兵からは自殺艇と呼ばれていた。
最近まで家族にも話していなかったが、誰かが言わないと(戦死した)こいつらが浮かばれないと。それで言う気になった。
1944(昭和19)年4月船舶特別幹部候補生に16歳で入隊。
香川県での訓練の後、内野さんはフィリピンへ向かうことに。しかし、途中立ち寄った台湾で空襲を受け輸送船は沈んだ。
船が無事だった別の中隊はフィリピンに到着。そして…「全部…戦死(と聞いた)」
昭和20年も3月がすぎ、内野さんにも出撃の命令が下った。
向かった方向は沖縄。
船のエンジンがかけられた出撃直前、陸軍士官学校出の大尉である戦隊長からの訓示は意外な言葉だった。
「(戦隊長が)俺は生きて帰ろうと思う。(隊員にも)生きて帰れって言うわけだ」
訓示の真意はわからないが、台湾・高雄港から沖縄本島までの1000キロほどを簡素なボートで進み敵の船に突っ込む作戦に、戦隊長が疑問をもったのではとも内野さんは考えている。
出撃後、波が荒れて相次いで船が故障。戦隊長は作戦を中止した。そして、再出撃の待機中に終戦。
「(別の中隊は)1人も残らずに死んだ。(我々)ひとつは1人も死なずに生き残った。いくら運命とはいえど、あまりにもひどいね。ひどいよ、戦争はいかん」と体験者として、戦争に反対であることを訴えた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたが、学校では戦争のことをほとんど学習してこなかったが、こうして、書いているうちに自分なりの勉強でかなり詳しくなった。
例えば、人間の命というものを世界中で最も疎かにした国の軍部が考え出した特攻作戦がある。
当時、日本軍には陸軍と海軍があったが、空軍はなく、陸海それぞれが航空機を所有し、敗色濃厚となるや、両者ともに空からの特攻を始めた。
空からの特攻則ち神風特攻隊で一番有名な基地として、知覧があったが、こちらは陸軍で、海軍は同じ九州南部の鹿屋から飛び立った。
特攻作戦では、魚雷に人間が乗り、敵艦に突撃する人間魚雷「回天」という特攻もあった。瀬戸内海の大津島に回天の記念館と実物大の回天レプリカがある。
爆弾に人間が乗り、体当たりする人間爆弾「桜花」という常識では考えられない特攻もあった。
爆弾を積んだモーターボートのような船舶は「震洋」と呼ばれていた。
「マルレ」は雑駁に言えば「震洋」と似ているかも。
「震洋」の生き残りの著名人としては、中学生の頃だったか、好きだった歌「面影」を歌っていた三島敏夫がいたし、作家島尾敏雄は「震洋」の隊長だった。
「魚雷艇学生」(新潮文庫)を読んでいるので、この人のお陰で詳しく知ることができた。
特殊潜航艇「蛟龍」というのもあった。
自分が特攻しない人間に限って、上述のような特攻作戦を考えるものだ。
特攻のことを思えば、こんな作戦を考え、若い人を死なせた日本軍が米軍に敗れるのは当然だし、敗れてよかったと安堵する。
現代でも、宗教を使って死を美化し、自爆テロをさせてしまう愚かな人がいる。騙される人間は気の毒なことだ。
米国は中国との戦争に日本の自衛隊を想定しているからこそ、日米地位協定を見直し、米国の戦争に巻き込まれないようにしていかなければならない。
参議院議員選挙でれいわ新選組の存在と比例選の候補者になった伊勢崎賢治さんに期待する所以である。
「マルレ」特攻兵内野藤義さん(97)。太平洋戦争末期、爆薬を積んで敵の船に突っ込む簡素なボート「マルレ」の搭乗員だった。事実上の特攻作戦。アメリカ兵からは自殺艇と呼ばれていた。
最近まで家族にも話していなかったが、誰かが言わないと(戦死した)こいつらが浮かばれないと。それで言う気になった。
1944(昭和19)年4月船舶特別幹部候補生に16歳で入隊。
香川県での訓練の後、内野さんはフィリピンへ向かうことに。しかし、途中立ち寄った台湾で空襲を受け輸送船は沈んだ。
船が無事だった別の中隊はフィリピンに到着。そして…「全部…戦死(と聞いた)」
昭和20年も3月がすぎ、内野さんにも出撃の命令が下った。
向かった方向は沖縄。
船のエンジンがかけられた出撃直前、陸軍士官学校出の大尉である戦隊長からの訓示は意外な言葉だった。
「(戦隊長が)俺は生きて帰ろうと思う。(隊員にも)生きて帰れって言うわけだ」
訓示の真意はわからないが、台湾・高雄港から沖縄本島までの1000キロほどを簡素なボートで進み敵の船に突っ込む作戦に、戦隊長が疑問をもったのではとも内野さんは考えている。
出撃後、波が荒れて相次いで船が故障。戦隊長は作戦を中止した。そして、再出撃の待機中に終戦。
「(別の中隊は)1人も残らずに死んだ。(我々)ひとつは1人も死なずに生き残った。いくら運命とはいえど、あまりにもひどいね。ひどいよ、戦争はいかん」と体験者として、戦争に反対であることを訴えた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたが、学校では戦争のことをほとんど学習してこなかったが、こうして、書いているうちに自分なりの勉強でかなり詳しくなった。
例えば、人間の命というものを世界中で最も疎かにした国の軍部が考え出した特攻作戦がある。
当時、日本軍には陸軍と海軍があったが、空軍はなく、陸海それぞれが航空機を所有し、敗色濃厚となるや、両者ともに空からの特攻を始めた。
空からの特攻則ち神風特攻隊で一番有名な基地として、知覧があったが、こちらは陸軍で、海軍は同じ九州南部の鹿屋から飛び立った。
特攻作戦では、魚雷に人間が乗り、敵艦に突撃する人間魚雷「回天」という特攻もあった。瀬戸内海の大津島に回天の記念館と実物大の回天レプリカがある。
爆弾に人間が乗り、体当たりする人間爆弾「桜花」という常識では考えられない特攻もあった。
爆弾を積んだモーターボートのような船舶は「震洋」と呼ばれていた。
「マルレ」は雑駁に言えば「震洋」と似ているかも。
「震洋」の生き残りの著名人としては、中学生の頃だったか、好きだった歌「面影」を歌っていた三島敏夫がいたし、作家島尾敏雄は「震洋」の隊長だった。
「魚雷艇学生」(新潮文庫)を読んでいるので、この人のお陰で詳しく知ることができた。
特殊潜航艇「蛟龍」というのもあった。
自分が特攻しない人間に限って、上述のような特攻作戦を考えるものだ。
特攻のことを思えば、こんな作戦を考え、若い人を死なせた日本軍が米軍に敗れるのは当然だし、敗れてよかったと安堵する。
現代でも、宗教を使って死を美化し、自爆テロをさせてしまう愚かな人がいる。騙される人間は気の毒なことだ。
米国は中国との戦争に日本の自衛隊を想定しているからこそ、日米地位協定を見直し、米国の戦争に巻き込まれないようにしていかなければならない。
参議院議員選挙でれいわ新選組の存在と比例選の候補者になった伊勢崎賢治さんに期待する所以である。
2025年06月28日
沖縄戦で語り継ぐべき記憶
NHK「木村多江の、いまさらですが」で、沖縄戦〜語り継ぐべき記憶〜をテーマにしていた。
「首里城の地下に眠る、日本軍第32司令部壕跡の保存・公開を求める活動が行われています。自ら学徒隊として沖縄戦に動員された瀬名波榮喜会長にその意義を聞きます。沖縄戦では多くの戦争孤児が生まれました。その経緯や戦後の苦労を9歳で家族を失った徳田ユキさんに話していただきます。THE BOOMの「島唄」は、沖縄戦を語り継ぐため作られました。作詞・作曲した宮沢和史さんに込めた思いを伺い歌っていただきます。」と㏋にある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れて、首里城はガイド兼ドライバーの外間さんに案内してもらいながら見学し、沖縄の守備隊32軍の司令部壕跡のことも教えてもらった。
その首里城が2019年だったか、火災で焼けてしまったニュースが流れた。
沖縄の守備隊としての32軍司令部が首里城の地下にあったが、4月10日の嘉数高地、5月9日の前田高地、5月18日シュガーローフ、ホースシュー、ハーフムーンヒルの攻防戦で勝利した米軍の攻勢が続き、5月22日、32軍は司令部を南部に撤退することを決定した。
このことが、南部戦跡と称されるほど、南部に戦跡が集中し、軍民混在で、県民に多大な犠牲が生じる要因となった。
沖縄戦では米軍との攻防戦で学徒まで動員され、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊、通信隊として、負傷兵の看護や突撃作戦や通信などを担わされた。
激戦地となった糸満市の米須地区などでは一家全滅の世帯が多数出たことで、屋敷跡に祠が設置され、心ある人たちがお参りしている。
一家全滅同様、悲惨な出来事として、戦災孤児が多数生まれた。
戦後、基地の街と化した沖縄では、兵隊の子どもを妊娠、出産する女性が多数いて、母子を捨て帰国してしまった男たちに養育料を支払わせようと活躍したアネット・キャラゲイン弁護士がいたことも特筆されなければならない。
島唄を作詞・作曲した宮沢和史さんはアジア太平洋戦争、それも、わが国で地上戦の攻防が起きた沖縄戦のことを知ったのはひめゆりの塔に行ってからで、沖縄戦のことを知らなかった半生を恥じ、怒りと共に沖縄戦での鉄の暴風と呼ばれた艦砲射撃のことなどを歌詞に込めたそうな。
沖縄戦といえば、日本軍が本土決戦のための防波堤、時間稼ぎとして持久戦に持ち込んだために沖縄県民の犠牲者が爆発的に増えてしまった。
首里城地下の司令部を南部に後退させたことから軍民混在での逃避行となったことが県民の犠牲者を増やし、一家全滅の世帯が多数でてしまった。
とにかく、戦争をやらないようにする。
このことに尽きる。
沖縄戦を教訓にすることだ。
「首里城の地下に眠る、日本軍第32司令部壕跡の保存・公開を求める活動が行われています。自ら学徒隊として沖縄戦に動員された瀬名波榮喜会長にその意義を聞きます。沖縄戦では多くの戦争孤児が生まれました。その経緯や戦後の苦労を9歳で家族を失った徳田ユキさんに話していただきます。THE BOOMの「島唄」は、沖縄戦を語り継ぐため作られました。作詞・作曲した宮沢和史さんに込めた思いを伺い歌っていただきます。」と㏋にある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れて、首里城はガイド兼ドライバーの外間さんに案内してもらいながら見学し、沖縄の守備隊32軍の司令部壕跡のことも教えてもらった。
その首里城が2019年だったか、火災で焼けてしまったニュースが流れた。
沖縄の守備隊としての32軍司令部が首里城の地下にあったが、4月10日の嘉数高地、5月9日の前田高地、5月18日シュガーローフ、ホースシュー、ハーフムーンヒルの攻防戦で勝利した米軍の攻勢が続き、5月22日、32軍は司令部を南部に撤退することを決定した。
このことが、南部戦跡と称されるほど、南部に戦跡が集中し、軍民混在で、県民に多大な犠牲が生じる要因となった。
沖縄戦では米軍との攻防戦で学徒まで動員され、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊、通信隊として、負傷兵の看護や突撃作戦や通信などを担わされた。
激戦地となった糸満市の米須地区などでは一家全滅の世帯が多数出たことで、屋敷跡に祠が設置され、心ある人たちがお参りしている。
一家全滅同様、悲惨な出来事として、戦災孤児が多数生まれた。
戦後、基地の街と化した沖縄では、兵隊の子どもを妊娠、出産する女性が多数いて、母子を捨て帰国してしまった男たちに養育料を支払わせようと活躍したアネット・キャラゲイン弁護士がいたことも特筆されなければならない。
島唄を作詞・作曲した宮沢和史さんはアジア太平洋戦争、それも、わが国で地上戦の攻防が起きた沖縄戦のことを知ったのはひめゆりの塔に行ってからで、沖縄戦のことを知らなかった半生を恥じ、怒りと共に沖縄戦での鉄の暴風と呼ばれた艦砲射撃のことなどを歌詞に込めたそうな。
沖縄戦といえば、日本軍が本土決戦のための防波堤、時間稼ぎとして持久戦に持ち込んだために沖縄県民の犠牲者が爆発的に増えてしまった。
首里城地下の司令部を南部に後退させたことから軍民混在での逃避行となったことが県民の犠牲者を増やし、一家全滅の世帯が多数でてしまった。
とにかく、戦争をやらないようにする。
このことに尽きる。
沖縄戦を教訓にすることだ。
2025年06月27日
沖縄戦「生きて語れ」
沖縄戦を生き抜き、語り部となった翁長安子さん(95)は戦争の「記憶」が「歴史」に代わりつつある今、命ある限り語り続けることが使命だ。と6月17日の読売(矢野恵祐記者)がその活動を伝えている。
真和志村(現那覇市)で生まれ、1945年3月末、米軍の上陸を目前に、陸軍が住民に組織させた警備隊に看護要員として加わった。通称「永岡隊」。首里城に近い安国寺の住職永岡敬淳住職が大尉となって隊長を務めた。
5月末の夜、隊が立てこもった寺のガマが攻撃され、背中を撃たれて意識を失うも、遺体の山の中で目を覚ますと、応急手当がなされた体にサトウキビの幹を杖代わりに約14`離れた南部のガマを目指した。
身を寄せた糸満市のガマでは滴る水滴と塩で飢えを凌ぐも、包囲もが狭まり、自決を覚悟した時、永岡住職が投降するようにと呼びかけた。「安子、お前は若い。生きてこんな戦があったことを語ってくれ」。
愛用の数珠を託した住職はガマに残って最期を迎えた。
戦後、小学校の教員となり、子どもたちに沖縄戦の悲劇を伝えてきた、地域の住民と共に村民ら約3万5000人の遺骨収集にも力を注いだ。動員された学友たちも「ひめゆり学徒隊」となって若い命を散らした。
小学校の教え子だった沖縄大学の教授に学ぶ学生が沖縄戦の特別講座を企画し講師に招かれた。
語り部も戦後世代中心になっているが、住職から受け取った「命どぅ宝」のバトンを次世代に託したいと願う翁長さん。
「誰よりも命と平和の大切さを知る私のメッセージはきっと次の世代が引き継いでくれる」との希望を抱く。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたとはいうものの全体の数からすれば、ほんのわずかな数しか周れてはいない。
今思えば、小学校、中学校の社会科などの学習でアジア太平洋戦争について、きちんと勉強した記憶がない。
戦後80年、日本の政治を担ってきた自民党政府は親米派がほとんどで、日米安保でいざとなれば、米軍が守ってくれるなどと市民を騙してきた。
米軍が駐留している諸外国に例を見ないほど不平等な日米地位協定の改定を米国に働きかけようとしたことすらなかった。
戦争を企図し、作戦を立案、遂行した軍人たちのほとんどが学業成績優秀であったことと較べ、自分の学業成績は芳しくなかった。
ところが、学業成績優秀な人間の集まりである日本軍が国力が桁違いすぎて勝てる見込みゼロの米国と戦争を始めてしまい、原爆を落とされるまで敗戦を認めようとはしなかった。
勉強ができるだけではだめだということをわからせてくれたのは日本軍の軍人である。
米国はしきりに中国が台湾に侵攻するとばかりに危機感を煽っている。
日本の親米派である自民党や右寄り政党は米国の扇動に乗せられ、本当に自衛隊を派兵してしまいそうで恐怖である。
そこで、頼りにしているのがれいわ新選組から7月の参議院議員選挙全国比例特定枠で立候補することになった毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんである。
日米地位協定を改定し、日本の国は日本の主権で守っていくことを明らかにしている。
平たく言えば米国からの要請があっても、中国のとの戦争はやらず、外交の力、話し合いで解決しようとするものだ。
沖縄戦を語り継いできてくれた翁長安子さんの願いとも一致するし、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で戦没者、死没者の無念の思いに耳を傾けてきた自分としても、戦争に巻き込まれないようにするのは当然のことである。
真和志村(現那覇市)で生まれ、1945年3月末、米軍の上陸を目前に、陸軍が住民に組織させた警備隊に看護要員として加わった。通称「永岡隊」。首里城に近い安国寺の住職永岡敬淳住職が大尉となって隊長を務めた。
5月末の夜、隊が立てこもった寺のガマが攻撃され、背中を撃たれて意識を失うも、遺体の山の中で目を覚ますと、応急手当がなされた体にサトウキビの幹を杖代わりに約14`離れた南部のガマを目指した。
身を寄せた糸満市のガマでは滴る水滴と塩で飢えを凌ぐも、包囲もが狭まり、自決を覚悟した時、永岡住職が投降するようにと呼びかけた。「安子、お前は若い。生きてこんな戦があったことを語ってくれ」。
愛用の数珠を託した住職はガマに残って最期を迎えた。
戦後、小学校の教員となり、子どもたちに沖縄戦の悲劇を伝えてきた、地域の住民と共に村民ら約3万5000人の遺骨収集にも力を注いだ。動員された学友たちも「ひめゆり学徒隊」となって若い命を散らした。
小学校の教え子だった沖縄大学の教授に学ぶ学生が沖縄戦の特別講座を企画し講師に招かれた。
語り部も戦後世代中心になっているが、住職から受け取った「命どぅ宝」のバトンを次世代に託したいと願う翁長さん。
「誰よりも命と平和の大切さを知る私のメッセージはきっと次の世代が引き継いでくれる」との希望を抱く。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたとはいうものの全体の数からすれば、ほんのわずかな数しか周れてはいない。
今思えば、小学校、中学校の社会科などの学習でアジア太平洋戦争について、きちんと勉強した記憶がない。
戦後80年、日本の政治を担ってきた自民党政府は親米派がほとんどで、日米安保でいざとなれば、米軍が守ってくれるなどと市民を騙してきた。
米軍が駐留している諸外国に例を見ないほど不平等な日米地位協定の改定を米国に働きかけようとしたことすらなかった。
戦争を企図し、作戦を立案、遂行した軍人たちのほとんどが学業成績優秀であったことと較べ、自分の学業成績は芳しくなかった。
ところが、学業成績優秀な人間の集まりである日本軍が国力が桁違いすぎて勝てる見込みゼロの米国と戦争を始めてしまい、原爆を落とされるまで敗戦を認めようとはしなかった。
勉強ができるだけではだめだということをわからせてくれたのは日本軍の軍人である。
米国はしきりに中国が台湾に侵攻するとばかりに危機感を煽っている。
日本の親米派である自民党や右寄り政党は米国の扇動に乗せられ、本当に自衛隊を派兵してしまいそうで恐怖である。
そこで、頼りにしているのがれいわ新選組から7月の参議院議員選挙全国比例特定枠で立候補することになった毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんである。
日米地位協定を改定し、日本の国は日本の主権で守っていくことを明らかにしている。
平たく言えば米国からの要請があっても、中国のとの戦争はやらず、外交の力、話し合いで解決しようとするものだ。
沖縄戦を語り継いできてくれた翁長安子さんの願いとも一致するし、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で戦没者、死没者の無念の思いに耳を傾けてきた自分としても、戦争に巻き込まれないようにするのは当然のことである。
2025年06月26日
隊長の詫び状
戦後80年の沖縄慰霊の日は足早に行ってしまったが、戦争前夜のようなきな臭さが漂い始めているから、しばらく、教訓にすべく沖縄戦に関することを書いておきたい。
沖縄戦で歩兵32聯隊第1大隊長として首里の防衛作戦にあたった元陸軍大尉の伊藤孝一さん(2020年99歳で死去)は、戦後、戦死した部下約600人の遺族に詫び状を出し、悲しみや憤りなど複雑な感情がこもった356通の返信を受け取っていた。
これを託され、遺族に返還し続ける夫婦がいる。沖縄県糸満市のジャーナリスト浜田哲二さん(62)と律子さん(60)。
沖縄で遺骨収集をしていた2016年、日本兵の身元を特定する中で、自宅を訪ねたことで縁ができた。
80年の歳月を超え、戦死者の遺族らが肉親に思いをはせる瞬間に立ち会っている。と6月19日の読売が戦後80年、昭和百年の連載で伝えている。
沖縄戦で歩兵32聯隊第1大隊長として首里の防衛作戦にあたった元陸軍大尉の伊藤孝一さんといえば、沖縄転戦の末、1000人の部下は100人になった。と2015年6月24日の読売が伝えていたその人である。
伊藤大尉は満州の関東軍から1944(昭和19)年8月に沖縄に渡った。
「軍は県民に多大な迷惑をかけた。守れなかったことは申し訳ない。ただ、軍がみな県民を迫害したように言われるが、上官だった雨宮巽師団長は、地元民に迷惑をかけまいと、民家を兵舎にせず、われわれにかやぶき小屋をつくらせた。そんなことが忘れられているのは残念である。」と日本軍にも県民を迫害せず、沖縄県民に謝罪する気持ちを持っている軍人がいたことがわかった。
浜田さん夫妻が伊藤元大隊長から託された手紙を返還する活動を始めて8年になる。
これまでに返還したのは約80通。
伊藤元大隊長は生き残ったことを恥じてはいたが、米軍と対等に戦った部下の働きを後世に伝えたいとも願っていた。
1000人の部下が100人になってしまうほどの激戦を戦った大隊長なれば、当然、部下を死なせておめおめと生き恥をさらしてはならない。
しかし、生き残ったことで、詫び状を遺族に送り、返信が届き、その返信を遺族に届けたからこそ戦没者の遺族は故人を偲んで集まることができたわけだ。
戦争では何としても生き残る必要がある。
命を繋ぐためだ。
人間の命を大切な命と思わず、命令で死なせた日本軍が敗北したのは極めて当然のことで、こんな軍隊が解体されてよかったというしかない。
沖縄戦で歩兵32聯隊第1大隊長として首里の防衛作戦にあたった元陸軍大尉の伊藤孝一さん(2020年99歳で死去)は、戦後、戦死した部下約600人の遺族に詫び状を出し、悲しみや憤りなど複雑な感情がこもった356通の返信を受け取っていた。
これを託され、遺族に返還し続ける夫婦がいる。沖縄県糸満市のジャーナリスト浜田哲二さん(62)と律子さん(60)。
沖縄で遺骨収集をしていた2016年、日本兵の身元を特定する中で、自宅を訪ねたことで縁ができた。
80年の歳月を超え、戦死者の遺族らが肉親に思いをはせる瞬間に立ち会っている。と6月19日の読売が戦後80年、昭和百年の連載で伝えている。
沖縄戦で歩兵32聯隊第1大隊長として首里の防衛作戦にあたった元陸軍大尉の伊藤孝一さんといえば、沖縄転戦の末、1000人の部下は100人になった。と2015年6月24日の読売が伝えていたその人である。
伊藤大尉は満州の関東軍から1944(昭和19)年8月に沖縄に渡った。
「軍は県民に多大な迷惑をかけた。守れなかったことは申し訳ない。ただ、軍がみな県民を迫害したように言われるが、上官だった雨宮巽師団長は、地元民に迷惑をかけまいと、民家を兵舎にせず、われわれにかやぶき小屋をつくらせた。そんなことが忘れられているのは残念である。」と日本軍にも県民を迫害せず、沖縄県民に謝罪する気持ちを持っている軍人がいたことがわかった。
浜田さん夫妻が伊藤元大隊長から託された手紙を返還する活動を始めて8年になる。
これまでに返還したのは約80通。
伊藤元大隊長は生き残ったことを恥じてはいたが、米軍と対等に戦った部下の働きを後世に伝えたいとも願っていた。
1000人の部下が100人になってしまうほどの激戦を戦った大隊長なれば、当然、部下を死なせておめおめと生き恥をさらしてはならない。
しかし、生き残ったことで、詫び状を遺族に送り、返信が届き、その返信を遺族に届けたからこそ戦没者の遺族は故人を偲んで集まることができたわけだ。
戦争では何としても生き残る必要がある。
命を繋ぐためだ。
人間の命を大切な命と思わず、命令で死なせた日本軍が敗北したのは極めて当然のことで、こんな軍隊が解体されてよかったというしかない。
2025年06月25日
「米国についていくだけ」の日本の外交の転換期
「いざというときでもアメリカは守ってくれない」が国民の77%…そもそも戦後アメリカに「日本を守る」つもりはあったのか? 今こそ親米外交からの転換期である理由〈沖縄戦から80年〉というタイトルで、集英社オンラインが国民の大多数が日米同盟は名前だけで、親米外交を続けていけば、いずれ、日本は米国の代理戦争をさせられるという自分と同じ考え方で警鐘を鳴らしていたので書いておく。
〈〈沖縄戦から80年〉国を守るとは? 沖縄戦では「天皇制国家」を守るために沖縄の人々と日本軍の兵士が、降伏することも捕虜になることも許されず死を強いられたという事実〉から続く。
「強国アメリカについていくだけ」という日本の外交の転換期であると指摘するジャーナリスト布施祐仁氏。沖縄戦研究の第一人者である林博史氏との対談である。
今の日本に「純粋に民間の飛行場や港」はなく米軍がいつでも利用できる「潜在的な米軍基地」になっている のは、日米地位協定(*1)の第5条で、「日本の港湾と飛行場には米軍はいつでも出入りできる」と認めているからだ。
このことは「軍民分離」をせず、米軍が港湾と飛行場を使うなら、戦争になれば、「攻撃されても文句は言えない」ことを意味する。
戦後、天皇制に代わって日米安保が「国体」になった。それでいいのか?
アメリカが強力な国であっても、「おかしいことは、やっぱりおかしい」ときちんと言って、「日本国民と、日本に住んでいる人々をどう守るのか」ということをまず第一に考えないといけない。
かつて米軍は中国に核爆弾を落とす作戦も検討し、爆撃機発進基地となる沖縄が報復されても「しかたない」と考えていた。
これまでの戦争でアメリカがどういう戦い方をしてきたのかもしっかり見た上で、日本政府は日本の国民の命を守るということを最優先にアメリカとの付き合い方も考えていかないといけない。
権力を持つ側の変わらない精神構造の問題で、日本軍による住民虐殺などが起きた要因の一つとして、「皇軍=天皇の軍隊」という位置付けが将兵たちを「天皇の代理人」のように振る舞わせ、そのエゴイズムを極端なまでに肥大化させた。権力者の精神構造が変わらず、今もこの意識を持っているということで、沖縄戦と同じことが繰り返される恐れがある。
最強国にくっついてナンバー2として威張るのではなく自立した思考に基づいて、自分たちの未来を自分たちで考えて決めるのだ。とした上で、トランプが「アメリカ第一主義」をあらわにした今こそチャンスだ。と結ぶ。
1960年の日米安全保障条約の改定で、「安保反対!」と訴え、国会周辺にに集まった労働者、学生がデモ行進する最中、東大生の樺美智子さんが警官隊に殺された。
交渉をまとめたのは岸信介首相だったが、東京裁判で戦争責任を問われA級戦犯だったはずの人物である。
ところが、いつのまにかA級戦犯ではなくなったのは、将来の日本の首相になることを米国に見込まれたからで、どういう取引があったかは知る由もないが、結果的に米国にとって都合の良い日米安保条約と日米地位協定が結ばれることになった。
7月の参議院議員選挙で米国追随外交を転換せよ。と訴えているれいわ新選組の山本太郎代表は、比例選挙の候補者として、特定枠で毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんを紹介した。
米国追随外交を改める第一歩として、日米地位協定の改定を訴えてきた人物である。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたくらいだから、自分はどちらかといえば、原爆を落とした米国に対し、反米という立場である。
いざという時は、米国が守ってくれるなどと市民を騙してきた自民党にはうんざりで、他の野党、保守派、右寄り勢力も総じて親米だった。
自分の国は自分たちで守るのが当然であることは、ウクライナのゼレンスキー大統領とウクライナの市民が証明してみせてくれた。
米国は武器はいくらでも売ってくれるが、全く助けようとはしてくれない。
中国の内政問題で台湾と戦争状態になった時、米国は武器はいくらでも台湾に売りつけるが、米軍の代わりに日本の自衛隊に戦わせようとしていることは明白な事実である。
戦後80年経って、いつの間にか戦争前夜みたいなきな臭い状況が生まれている。
戦後80年、日本の政治を担ってきた自民党は日米地位協定を改め、日本の主権を取り戻すことをだれ一人としてやろうとする人がいなかった。
それだけに、れいわ新選組の山本太郎代表が比例選の特定枠を使ってでも、伊勢崎賢治さんを国会に送り出そうとしていることに勇気をもらった。
米国の本質などとっくに見抜いていたし、日米地位協定を改めよとすでに何回となく訴えてきたので、山本太郎代表のような著名な同調者が政治家として登場してきてくれたことが嬉しくてならない。
沖縄戦の勉強を自分なりに相当させてもらった。
日本軍が沖縄県民を守る意思がなかったことも十分承知している。
日本にある米軍基地は将来的には日本の自衛隊が使うとして、それまでは、日本政府が米国の植民地の如く何も発言力を持たないということではなく、米軍基地から他国を攻撃するようなことは許さないというように、世界中に駐留している米軍に対する独立国家が持っている矜持を日本政府にも持ってもらいたいと伊勢崎賢治さんに期待したい。
〈〈沖縄戦から80年〉国を守るとは? 沖縄戦では「天皇制国家」を守るために沖縄の人々と日本軍の兵士が、降伏することも捕虜になることも許されず死を強いられたという事実〉から続く。
「強国アメリカについていくだけ」という日本の外交の転換期であると指摘するジャーナリスト布施祐仁氏。沖縄戦研究の第一人者である林博史氏との対談である。
今の日本に「純粋に民間の飛行場や港」はなく米軍がいつでも利用できる「潜在的な米軍基地」になっている のは、日米地位協定(*1)の第5条で、「日本の港湾と飛行場には米軍はいつでも出入りできる」と認めているからだ。
このことは「軍民分離」をせず、米軍が港湾と飛行場を使うなら、戦争になれば、「攻撃されても文句は言えない」ことを意味する。
戦後、天皇制に代わって日米安保が「国体」になった。それでいいのか?
アメリカが強力な国であっても、「おかしいことは、やっぱりおかしい」ときちんと言って、「日本国民と、日本に住んでいる人々をどう守るのか」ということをまず第一に考えないといけない。
かつて米軍は中国に核爆弾を落とす作戦も検討し、爆撃機発進基地となる沖縄が報復されても「しかたない」と考えていた。
これまでの戦争でアメリカがどういう戦い方をしてきたのかもしっかり見た上で、日本政府は日本の国民の命を守るということを最優先にアメリカとの付き合い方も考えていかないといけない。
権力を持つ側の変わらない精神構造の問題で、日本軍による住民虐殺などが起きた要因の一つとして、「皇軍=天皇の軍隊」という位置付けが将兵たちを「天皇の代理人」のように振る舞わせ、そのエゴイズムを極端なまでに肥大化させた。権力者の精神構造が変わらず、今もこの意識を持っているということで、沖縄戦と同じことが繰り返される恐れがある。
最強国にくっついてナンバー2として威張るのではなく自立した思考に基づいて、自分たちの未来を自分たちで考えて決めるのだ。とした上で、トランプが「アメリカ第一主義」をあらわにした今こそチャンスだ。と結ぶ。
1960年の日米安全保障条約の改定で、「安保反対!」と訴え、国会周辺にに集まった労働者、学生がデモ行進する最中、東大生の樺美智子さんが警官隊に殺された。
交渉をまとめたのは岸信介首相だったが、東京裁判で戦争責任を問われA級戦犯だったはずの人物である。
ところが、いつのまにかA級戦犯ではなくなったのは、将来の日本の首相になることを米国に見込まれたからで、どういう取引があったかは知る由もないが、結果的に米国にとって都合の良い日米安保条約と日米地位協定が結ばれることになった。
7月の参議院議員選挙で米国追随外交を転換せよ。と訴えているれいわ新選組の山本太郎代表は、比例選挙の候補者として、特定枠で毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんを紹介した。
米国追随外交を改める第一歩として、日米地位協定の改定を訴えてきた人物である。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたくらいだから、自分はどちらかといえば、原爆を落とした米国に対し、反米という立場である。
いざという時は、米国が守ってくれるなどと市民を騙してきた自民党にはうんざりで、他の野党、保守派、右寄り勢力も総じて親米だった。
自分の国は自分たちで守るのが当然であることは、ウクライナのゼレンスキー大統領とウクライナの市民が証明してみせてくれた。
米国は武器はいくらでも売ってくれるが、全く助けようとはしてくれない。
中国の内政問題で台湾と戦争状態になった時、米国は武器はいくらでも台湾に売りつけるが、米軍の代わりに日本の自衛隊に戦わせようとしていることは明白な事実である。
戦後80年経って、いつの間にか戦争前夜みたいなきな臭い状況が生まれている。
戦後80年、日本の政治を担ってきた自民党は日米地位協定を改め、日本の主権を取り戻すことをだれ一人としてやろうとする人がいなかった。
それだけに、れいわ新選組の山本太郎代表が比例選の特定枠を使ってでも、伊勢崎賢治さんを国会に送り出そうとしていることに勇気をもらった。
米国の本質などとっくに見抜いていたし、日米地位協定を改めよとすでに何回となく訴えてきたので、山本太郎代表のような著名な同調者が政治家として登場してきてくれたことが嬉しくてならない。
沖縄戦の勉強を自分なりに相当させてもらった。
日本軍が沖縄県民を守る意思がなかったことも十分承知している。
日本にある米軍基地は将来的には日本の自衛隊が使うとして、それまでは、日本政府が米国の植民地の如く何も発言力を持たないということではなく、米軍基地から他国を攻撃するようなことは許さないというように、世界中に駐留している米軍に対する独立国家が持っている矜持を日本政府にも持ってもらいたいと伊勢崎賢治さんに期待したい。
2025年06月24日
沖縄戦で一家全滅の屋敷跡に残る祠と「戦世」
フリーのライター亀井洋志さんが6月23日のプレジデントオンラインに「沖縄方言を話す老婦は日本兵に首を切り落とされた…米軍から敗走中の「元関東軍」が住民を虐殺した本当の理由」の中で、沖縄戦で一家全滅した家族を親族や近所の人が祠を設け祀っていることを取り上げていて心を揺さぶられたので書いておく。
1945年4月、太平洋戦争下の沖縄本島に米軍が上陸し、激しい地上戦が繰り広げられた。死者は軍人と一般人を合わせて20万人を超え、そのうち一家全滅にあった世帯も少なくない。80年前の沖縄で一体何が起きていたのか。糸満市のガマ(自然壕)を訪ねたジャーナリストの亀井洋志がリポートする――。(前編/全2回)
毎年6月に入ると、小中学校はじめ沖縄県内各地で歌われる鎮魂歌がある。沖縄の著名な音楽家・歌手の海勢頭豊(81)さんの代表曲『月桃』。
作者がこの曲を作るため、一家全滅の屋敷跡を訪ね、祠でお参りして、歌が出来上がったという。
沖縄戦最後の激戦地となった沖縄本島南部の集落一帯には、いまも空き地があちこちに点在する。敷地内にコンクリートブロックを積み上げてつくられた「祠(ほこら)」があり、中には祭壇が祀られている。沖縄戦で家族全員が亡くなったため、弔う人が途絶え、親族や近隣住民が供養し続けている。こうした「一家全滅の屋敷跡」がいまも残る。集落を貫く国道では、ひめゆりの塔など南部戦跡を巡る観光バスが行き来するが、その屋敷跡の存在は「本土」ではほとんど知られていない。
沖縄県糸満市の米須地区で、地元の人に案内されて屋敷跡を訪ねた。祭壇に置かれた位牌には、全滅した家族4人の名前が刻まれ、香炉や湯飲み茶碗が供えられている。
糸満市全体では当時、6384世帯のうち440世帯が一家全滅に遭っている(『糸満市史 資料編7 戦時資料下巻』)。米須は戦没率が58.4%と、糸満市内で最も高い。全戸数257のうち一家全滅は62戸で、24%にも上る(『米須字誌』)。80年前、この地でどれほど悲惨な出来事が起こったのか。
沖縄戦では日本兵による壕からの住民追い出し、投降阻止、住民虐殺、集団自決(強制死)などが各地で起きている。
その要因として、筆者は満州で現地住民を差別、虐待してきた関東軍が沖縄に派兵されたことを上げている。
彼らは、中国大陸で中国人を差別したのと同様に沖縄県民を差別し、虐殺したのである。
司令部は沖縄語所謂沖縄方言を敵性語として、使ったらスパイだとしたため、兵士たちはスパイ嫌疑で沖縄県民を虐殺した。
沖縄戦を語るのは本土でこそやらなければならないことで、本土で語り継がれてこそ、西田昌司参議院議員のような歴史修正などできなくなる。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚でガイド兼ドライバーの外間さんに案内してもらった一家全滅の屋敷跡は、沖縄の地理に不案内の勉強不足から、街の名前がはっきり思い出せない。
しかし、設置されていた祠というのか、お参り場所で線香を手向け、「手向」を経文を唱える代わりに吹いたときのことは忘れることはない。
日本全国で一家全滅なんてことはアジア太平洋戦争では、原爆とか東京大空襲くらいで、まして、一家全滅の屋敷跡に祠が設けられたとは地上戦で米軍との攻防があった沖縄くらいしか、耳にしたことがない。
激戦地、糸満市の米須地区にある「魂魄の塔」にお参りした時、この地域が沖縄戦の激戦地であったことは知ることができたが、糸満市で440世帯、米須地区では一家全滅の屋敷が257戸のうち、62戸だというのだから、気の毒すぎて言葉にならない。
昨日の沖縄全戦没者慰霊式で、豊見城市の伊良波小学校6年、城間一歩輝さんの平和の詩「おばあちゃんの歌」で
おばあちゃんが繋いでくれた命を大切にして
一生懸命に生きていく
と詩は結ばれたが、一家全滅してしまった家族は、命を繋ぐことができなかった。しかも、激戦地米須地区だけで62戸だというではないか。
沖縄は日本軍の戦争に巻き込まれてしまったが、日本が米国の戦争に巻き込まれれば、沖縄戦が本土でも起こることになってしまう。
外交努力で何としても、戦争を防がなければならない。
1945年4月、太平洋戦争下の沖縄本島に米軍が上陸し、激しい地上戦が繰り広げられた。死者は軍人と一般人を合わせて20万人を超え、そのうち一家全滅にあった世帯も少なくない。80年前の沖縄で一体何が起きていたのか。糸満市のガマ(自然壕)を訪ねたジャーナリストの亀井洋志がリポートする――。(前編/全2回)
毎年6月に入ると、小中学校はじめ沖縄県内各地で歌われる鎮魂歌がある。沖縄の著名な音楽家・歌手の海勢頭豊(81)さんの代表曲『月桃』。
作者がこの曲を作るため、一家全滅の屋敷跡を訪ね、祠でお参りして、歌が出来上がったという。
沖縄戦最後の激戦地となった沖縄本島南部の集落一帯には、いまも空き地があちこちに点在する。敷地内にコンクリートブロックを積み上げてつくられた「祠(ほこら)」があり、中には祭壇が祀られている。沖縄戦で家族全員が亡くなったため、弔う人が途絶え、親族や近隣住民が供養し続けている。こうした「一家全滅の屋敷跡」がいまも残る。集落を貫く国道では、ひめゆりの塔など南部戦跡を巡る観光バスが行き来するが、その屋敷跡の存在は「本土」ではほとんど知られていない。
沖縄県糸満市の米須地区で、地元の人に案内されて屋敷跡を訪ねた。祭壇に置かれた位牌には、全滅した家族4人の名前が刻まれ、香炉や湯飲み茶碗が供えられている。
糸満市全体では当時、6384世帯のうち440世帯が一家全滅に遭っている(『糸満市史 資料編7 戦時資料下巻』)。米須は戦没率が58.4%と、糸満市内で最も高い。全戸数257のうち一家全滅は62戸で、24%にも上る(『米須字誌』)。80年前、この地でどれほど悲惨な出来事が起こったのか。
沖縄戦では日本兵による壕からの住民追い出し、投降阻止、住民虐殺、集団自決(強制死)などが各地で起きている。
その要因として、筆者は満州で現地住民を差別、虐待してきた関東軍が沖縄に派兵されたことを上げている。
彼らは、中国大陸で中国人を差別したのと同様に沖縄県民を差別し、虐殺したのである。
司令部は沖縄語所謂沖縄方言を敵性語として、使ったらスパイだとしたため、兵士たちはスパイ嫌疑で沖縄県民を虐殺した。
沖縄戦を語るのは本土でこそやらなければならないことで、本土で語り継がれてこそ、西田昌司参議院議員のような歴史修正などできなくなる。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚でガイド兼ドライバーの外間さんに案内してもらった一家全滅の屋敷跡は、沖縄の地理に不案内の勉強不足から、街の名前がはっきり思い出せない。
しかし、設置されていた祠というのか、お参り場所で線香を手向け、「手向」を経文を唱える代わりに吹いたときのことは忘れることはない。
日本全国で一家全滅なんてことはアジア太平洋戦争では、原爆とか東京大空襲くらいで、まして、一家全滅の屋敷跡に祠が設けられたとは地上戦で米軍との攻防があった沖縄くらいしか、耳にしたことがない。
激戦地、糸満市の米須地区にある「魂魄の塔」にお参りした時、この地域が沖縄戦の激戦地であったことは知ることができたが、糸満市で440世帯、米須地区では一家全滅の屋敷が257戸のうち、62戸だというのだから、気の毒すぎて言葉にならない。
昨日の沖縄全戦没者慰霊式で、豊見城市の伊良波小学校6年、城間一歩輝さんの平和の詩「おばあちゃんの歌」で
おばあちゃんが繋いでくれた命を大切にして
一生懸命に生きていく
と詩は結ばれたが、一家全滅してしまった家族は、命を繋ぐことができなかった。しかも、激戦地米須地区だけで62戸だというではないか。
沖縄は日本軍の戦争に巻き込まれてしまったが、日本が米国の戦争に巻き込まれれば、沖縄戦が本土でも起こることになってしまう。
外交努力で何としても、戦争を防がなければならない。
2025年06月23日
戦後80年の沖縄慰霊の日、沖縄慰霊碑の継承を考える
6月23日、沖縄の守備隊32軍の牛島司令官が自決して、沖縄における日本軍の組織的な戦いが終わった。
この日を沖縄県では沖縄の慰霊の日として、沖縄戦の犠牲者を慰霊している。
「沖縄慰霊碑 子や孫に」「民間管理 継承に不安」という見出しで、6月19日の読売(水野祥記者)が夕刊で慰霊碑の設置者が亡くなり、次世代にどう継承するか課題となっている。と問題提起している。
紙面では、かつて日本軍が司令部を置いた首里城の北方に位置し、1945年4月上旬から約2週間米軍との激しい攻防戦を繰り広げた宜野湾市の嘉数高地にある「捧英魂碑」が取り上げられている。
激戦を生き残った日本兵ら28人の名前が碑の裏に発起人として刻まれ、66年に建立された。
陸軍独立歩兵第23大隊の分隊長だった日比野勝広さん(2009年、85歳で死去)の娘裕子さん(76)が沖縄の慰霊の日に妹たちとお参りに訪れているが、いつまで碑を守れるか不安だという。
沖縄県の2018年度の調査では戦没者をまつる慰霊碑は県内に442基あった。自治会など民間が管理するのが237基で都道府県や市町村などは143基、管理者不明が62基だった。
塔が建てられた年代は多い順に昭和20年代が115基、同30年代が102基、同40年代が82基で、設置してから50年以上が過ぎた塔が半数以上を占めた。
民間が管理するか管理者が不明だった299基のうち、「状態不良」とされたのは75基。民間管理の237基のうち、「将来を含めた問題や懸念」があったのは104基。
厚生労働省は2016年度から、全国の自治体を対象に民間の慰霊碑を移設・撤去する際に費用の半額を補助する事業を始めた。23年度からは修繕費用も対象に加えたが、活用例は35件。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、2008年から全国の慰霊碑を周っている最中、コロナ渦で2020年から2023年までどこにも行かれなかった。
慰霊碑と一括りにできないと感じたのは、米軍との地上戦が行われた沖縄で、糸満市米須にある「魂魄の塔」を訪れたときのことだった。
ガイドとドライバーをお願いした外間さんに連れて行ってもらったのだが、米須地区一帯が激戦地で遺体を集めて収容した場所が魂魄の塔だということで、本土の慰霊碑などとは雰囲気がまるでちがい、慰霊碑というよりも、戦没者が無念の思いを抱え、合祀されて眠る墓そのものというように受け止めた。
糸満市真栄里にある白梅の塔。沖縄県立第二高等女学校の学徒が白梅学徒隊として、ひめゆり学徒隊ほどには著名ではないが、動員され犠牲となった学徒をまつっている。
ここには、ガマが当時のままになっていて、少し石段を下って、お参りしたが、とても平静ではいられなかった。
沖縄では本日、沖縄全戦没者の慰霊式が行われた。
全戦没者の名前を彫った平和の礎をTVでは映していたが、慰霊碑はその謂われが説明されているので、後世になって、自分みたいにお参りの旅をする人間には、戦争の実態を勉強させてもらえる貴重な存在だと言ってもいい。
戦没者のことを今を生きる人間は忘れてはならないのだ。
ために、慰霊碑は貴重な存在となっていくはずだ。
この日を沖縄県では沖縄の慰霊の日として、沖縄戦の犠牲者を慰霊している。
「沖縄慰霊碑 子や孫に」「民間管理 継承に不安」という見出しで、6月19日の読売(水野祥記者)が夕刊で慰霊碑の設置者が亡くなり、次世代にどう継承するか課題となっている。と問題提起している。
紙面では、かつて日本軍が司令部を置いた首里城の北方に位置し、1945年4月上旬から約2週間米軍との激しい攻防戦を繰り広げた宜野湾市の嘉数高地にある「捧英魂碑」が取り上げられている。
激戦を生き残った日本兵ら28人の名前が碑の裏に発起人として刻まれ、66年に建立された。
陸軍独立歩兵第23大隊の分隊長だった日比野勝広さん(2009年、85歳で死去)の娘裕子さん(76)が沖縄の慰霊の日に妹たちとお参りに訪れているが、いつまで碑を守れるか不安だという。
沖縄県の2018年度の調査では戦没者をまつる慰霊碑は県内に442基あった。自治会など民間が管理するのが237基で都道府県や市町村などは143基、管理者不明が62基だった。
塔が建てられた年代は多い順に昭和20年代が115基、同30年代が102基、同40年代が82基で、設置してから50年以上が過ぎた塔が半数以上を占めた。
民間が管理するか管理者が不明だった299基のうち、「状態不良」とされたのは75基。民間管理の237基のうち、「将来を含めた問題や懸念」があったのは104基。
厚生労働省は2016年度から、全国の自治体を対象に民間の慰霊碑を移設・撤去する際に費用の半額を補助する事業を始めた。23年度からは修繕費用も対象に加えたが、活用例は35件。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、2008年から全国の慰霊碑を周っている最中、コロナ渦で2020年から2023年までどこにも行かれなかった。
慰霊碑と一括りにできないと感じたのは、米軍との地上戦が行われた沖縄で、糸満市米須にある「魂魄の塔」を訪れたときのことだった。
ガイドとドライバーをお願いした外間さんに連れて行ってもらったのだが、米須地区一帯が激戦地で遺体を集めて収容した場所が魂魄の塔だということで、本土の慰霊碑などとは雰囲気がまるでちがい、慰霊碑というよりも、戦没者が無念の思いを抱え、合祀されて眠る墓そのものというように受け止めた。
糸満市真栄里にある白梅の塔。沖縄県立第二高等女学校の学徒が白梅学徒隊として、ひめゆり学徒隊ほどには著名ではないが、動員され犠牲となった学徒をまつっている。
ここには、ガマが当時のままになっていて、少し石段を下って、お参りしたが、とても平静ではいられなかった。
沖縄では本日、沖縄全戦没者の慰霊式が行われた。
全戦没者の名前を彫った平和の礎をTVでは映していたが、慰霊碑はその謂われが説明されているので、後世になって、自分みたいにお参りの旅をする人間には、戦争の実態を勉強させてもらえる貴重な存在だと言ってもいい。
戦没者のことを今を生きる人間は忘れてはならないのだ。
ために、慰霊碑は貴重な存在となっていくはずだ。
2025年06月22日
沖縄慰霊の日を前に沖縄戦を考える
<社説>「週のはじめに考える 沖縄戦の惨禍を伝える」と6月22日の東京新聞WEBで戦後80年の沖縄の慰霊の日を前に沖縄戦について考える機会を提供している。
要約すると、アジア太平洋戦争で、本格的な地上戦で米国との攻防戦が行われたのは沖縄だけで、かくも犠牲者が増えてしまった要因は、日本軍が本土の防波堤、時間稼ぎの持久戦に持ち込み、県民を巻き込んだことから、軍民混在で、日本軍の兵士が沖縄県民を守るどころか県民に銃口を向けたり、ガマでは泣く赤子を殺させたり、米軍に投降したり、沖縄方言が理解できないとスパイ嫌疑で殺したりした。
日本軍が沖縄県民に犯した罪を反省することなく、事実を曲げ、日本軍を礼賛し、歴史を書き換えようとする西田昌司議員やその発言を擁護した参政党の神谷議員が沖縄県民から厳しく批判されている。
このことは、現在の沖縄の実情を知り、沖縄の県民の立場を理解する政治家がいないことにも原因があるのではないか。
過去、山中貞則初代沖縄開発庁長官、小渕恵三元首相そして野中広務元官房長官は「沖縄を忘れることは第2次世界大戦を忘れること。戦争の恐ろしさを忘れないためにも沖縄のことを絶対に忘れてはいけない」
平和を次世代に引き継ぐには、沖縄戦の惨禍とその後の苦難を伝え続けなければならない。歴史の書き換えなど論外だ。と結ぶ。
わが家の本箱に石野径一郎『ひめゆりの塔』(講談社文庫)があったので読んだこと。映画化されたひめゆりの塔、1953年の今井正監督ではなく、1995年の神山征二郎監督作品を映画館で観て、今井監督作品はTVで視聴した記憶があり、結婚したとき、なぜか、沖縄に行き、南部戦跡を巡り慰霊碑などにお参りした。
不思議な縁で結ばれていたのか、後年、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で3回沖縄を訪れることになるとは想像すらしたことがなかった。
85年にお参りした時、ひめゆりの塔だけでなく、健児の塔にもお参りしたので、鉄血勤皇隊として、男子学徒も動員されたことを知った。
まだまだ沖縄戦の勉強が不十分だと認識していたが、西田昌司議員の発言が嘘であること、その嘘を礼賛した発言をした参政党の神谷議員は保守派、所謂右寄りの思想の持ち主で沖縄戦をなかったことにしようとする意図が透けて見える。
沖縄戦の勉強をすればするほど、日本軍が沖縄県民を守ろうとする姿勢がなかったことが理解できる。
敗戦後、1972年5月に米軍の統治が終わるまで、自由を奪われていたことになる沖縄県民は忍耐強い。
日米地位協定が不平等で米軍兵士が沖縄県民女性に性暴力をしても、本国に逃げ帰っていたことすらある。
現在でも、取り調べで米軍が身柄を押さえているということで、日本国憲法の法の下の平等どころか治外法権が優先され、警察も手が出せない。
普天間の移設が決まりそうでよかったと思っていたら、辺野古の海を埋め立て、新基地を作るということで、これでも、日本は独立国家といえるのか。
沖縄戦を本土でも学校教育で徹底的に学習させるべきである。
二度と戦争にまきこまれないためだ。
要約すると、アジア太平洋戦争で、本格的な地上戦で米国との攻防戦が行われたのは沖縄だけで、かくも犠牲者が増えてしまった要因は、日本軍が本土の防波堤、時間稼ぎの持久戦に持ち込み、県民を巻き込んだことから、軍民混在で、日本軍の兵士が沖縄県民を守るどころか県民に銃口を向けたり、ガマでは泣く赤子を殺させたり、米軍に投降したり、沖縄方言が理解できないとスパイ嫌疑で殺したりした。
日本軍が沖縄県民に犯した罪を反省することなく、事実を曲げ、日本軍を礼賛し、歴史を書き換えようとする西田昌司議員やその発言を擁護した参政党の神谷議員が沖縄県民から厳しく批判されている。
このことは、現在の沖縄の実情を知り、沖縄の県民の立場を理解する政治家がいないことにも原因があるのではないか。
過去、山中貞則初代沖縄開発庁長官、小渕恵三元首相そして野中広務元官房長官は「沖縄を忘れることは第2次世界大戦を忘れること。戦争の恐ろしさを忘れないためにも沖縄のことを絶対に忘れてはいけない」
平和を次世代に引き継ぐには、沖縄戦の惨禍とその後の苦難を伝え続けなければならない。歴史の書き換えなど論外だ。と結ぶ。
わが家の本箱に石野径一郎『ひめゆりの塔』(講談社文庫)があったので読んだこと。映画化されたひめゆりの塔、1953年の今井正監督ではなく、1995年の神山征二郎監督作品を映画館で観て、今井監督作品はTVで視聴した記憶があり、結婚したとき、なぜか、沖縄に行き、南部戦跡を巡り慰霊碑などにお参りした。
不思議な縁で結ばれていたのか、後年、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で3回沖縄を訪れることになるとは想像すらしたことがなかった。
85年にお参りした時、ひめゆりの塔だけでなく、健児の塔にもお参りしたので、鉄血勤皇隊として、男子学徒も動員されたことを知った。
まだまだ沖縄戦の勉強が不十分だと認識していたが、西田昌司議員の発言が嘘であること、その嘘を礼賛した発言をした参政党の神谷議員は保守派、所謂右寄りの思想の持ち主で沖縄戦をなかったことにしようとする意図が透けて見える。
沖縄戦の勉強をすればするほど、日本軍が沖縄県民を守ろうとする姿勢がなかったことが理解できる。
敗戦後、1972年5月に米軍の統治が終わるまで、自由を奪われていたことになる沖縄県民は忍耐強い。
日米地位協定が不平等で米軍兵士が沖縄県民女性に性暴力をしても、本国に逃げ帰っていたことすらある。
現在でも、取り調べで米軍が身柄を押さえているということで、日本国憲法の法の下の平等どころか治外法権が優先され、警察も手が出せない。
普天間の移設が決まりそうでよかったと思っていたら、辺野古の海を埋め立て、新基地を作るということで、これでも、日本は独立国家といえるのか。
沖縄戦を本土でも学校教育で徹底的に学習させるべきである。
二度と戦争にまきこまれないためだ。
2025年06月21日
決死の投降 白旗の少女 「命どぅ宝」伝える
語り継ぐ戦争で自分の心を激しく揺さぶられたのは破れたモンペに素足、木の根に結ばれた白い布を掲げた「白旗の少女」を被写体にした写真である。
6月17日の読売が戦後80年、昭和百年 沖縄で、白旗の少女こと比嘉富子さん(87)が戦野をさまよい、生き延びた遠い記憶をたどる。
<ハヤク デテキテクダサイ。バクダンヲ ナゲコミマス>
1945年6月25日、暗いガマに片言の日本語が響いた。降伏を呼びかける米兵の声だ。その中には、ガマで出会った両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさん、そして7歳の富子さんの3人が潜んでいた。
いつもは優しいおじいさんが「これを結びつけるものを持ってきなさい」と硬い声で言った。おばあさんがおじいさんの白い 褌ふんどし を手にしている。富子さんは木の根を竿のようにし、しっかりと結んだ。
「それは世界で約束された安全の印。持って外に出なさい」。おじいさんがそう促した。でも富子さんは米軍に捕まれば殺されると思っていた。「嫌だ。一緒に死にたい」とだだをこねると大声で叱られた。おばあさんも「早くこれを持ってお逃げ」とせかした。
「外に出たら、白旗を掲げるんだ。高く、まっすぐにだよ」。その言葉を背に出口に向かった。まず白布を結びつけた枝をそっと出す。続いて顔を出して周りの様子をうかがう。そして一歩、また一歩とガマの外に踏み出した――。
母は病死、父は食料を探しに出たまま戻らず、兄は流れ弾を受け事切れた。
連れて行かれた広場で2人の姉と再会を果たす。
元県知事の大田昌秀さんの著書で紹介され、広く知られるようになった「白旗の少女」が自分であることを名乗り出たのは49歳のときだった。
その後、撮影したカメラマンとも米国で再会し、ドラマ化もされた。
「この世で一番大切なのは人の命なんだよ。富子の命は生んでくれたお父さんやお母さんのものでもある。大事に生きなさい」という「命どぅ宝」を次世代に語り継いでいきたいと願う。
「わしたちは死んでも、富子の心に生き続けることができる」と言い残した2人の思いに応えたいと。
白旗の少女こと比嘉富子さんが助かったのは両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさんがガマから出るように背中を押してくれたからにほかならない。
白旗を掲げることで米軍に撃たれないことなど7歳の子どもが知る由もないが、二人が死出の旅への道連れにすることなく「命どぅ宝」の言葉を実践してくれたおかげである。
沖縄では「命どぅ宝」を文字通り理解している人がいたにもかかわらず、日本軍の幹部には全く理解していないどころか、自分たちは生き残って、若い人に特攻作戦で死ぬように命じたのである。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、自分なりに悟ったことは死は誰の身の上にもやってくるが、死者は生者の心の中で生きることができるということだ。
ガマで両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさんが7歳の富子さんを生かしたことで、富子さんの心の中で生き続けることができたのではないだろうか。
沖縄戦では9万4000人もの一般県民が戦闘に巻き込まれ、死亡した。
最大のお要因は「時間稼ぎ」のための持久戦を採用したこと。首里の司令部に米軍が迫った5月22日、南に撤退して戦い続ける方針を決定。住民は追い詰められた末に集団自決を余儀なくされたほか、方言が分からないという理由でスパイの嫌疑をかけられ日本軍に殺害された。
44年、政府は県民10万人を県外に避難させる方針決めたが、実際に疎開したのは約7万人にとどまる。
疎開では学童疎開船「対馬丸」が米軍の潜水艦に撃沈され、児童ら約1500人が死亡した。
「生きる」ということは本当に大変なことであるが、「命どぅ宝」の言葉通り、人の命は紛れもなく大切なものであるということを痛感させられた。
6月17日の読売が戦後80年、昭和百年 沖縄で、白旗の少女こと比嘉富子さん(87)が戦野をさまよい、生き延びた遠い記憶をたどる。
<ハヤク デテキテクダサイ。バクダンヲ ナゲコミマス>
1945年6月25日、暗いガマに片言の日本語が響いた。降伏を呼びかける米兵の声だ。その中には、ガマで出会った両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさん、そして7歳の富子さんの3人が潜んでいた。
いつもは優しいおじいさんが「これを結びつけるものを持ってきなさい」と硬い声で言った。おばあさんがおじいさんの白い 褌ふんどし を手にしている。富子さんは木の根を竿のようにし、しっかりと結んだ。
「それは世界で約束された安全の印。持って外に出なさい」。おじいさんがそう促した。でも富子さんは米軍に捕まれば殺されると思っていた。「嫌だ。一緒に死にたい」とだだをこねると大声で叱られた。おばあさんも「早くこれを持ってお逃げ」とせかした。
「外に出たら、白旗を掲げるんだ。高く、まっすぐにだよ」。その言葉を背に出口に向かった。まず白布を結びつけた枝をそっと出す。続いて顔を出して周りの様子をうかがう。そして一歩、また一歩とガマの外に踏み出した――。
母は病死、父は食料を探しに出たまま戻らず、兄は流れ弾を受け事切れた。
連れて行かれた広場で2人の姉と再会を果たす。
元県知事の大田昌秀さんの著書で紹介され、広く知られるようになった「白旗の少女」が自分であることを名乗り出たのは49歳のときだった。
その後、撮影したカメラマンとも米国で再会し、ドラマ化もされた。
「この世で一番大切なのは人の命なんだよ。富子の命は生んでくれたお父さんやお母さんのものでもある。大事に生きなさい」という「命どぅ宝」を次世代に語り継いでいきたいと願う。
「わしたちは死んでも、富子の心に生き続けることができる」と言い残した2人の思いに応えたいと。
白旗の少女こと比嘉富子さんが助かったのは両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさんがガマから出るように背中を押してくれたからにほかならない。
白旗を掲げることで米軍に撃たれないことなど7歳の子どもが知る由もないが、二人が死出の旅への道連れにすることなく「命どぅ宝」の言葉を実践してくれたおかげである。
沖縄では「命どぅ宝」を文字通り理解している人がいたにもかかわらず、日本軍の幹部には全く理解していないどころか、自分たちは生き残って、若い人に特攻作戦で死ぬように命じたのである。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、自分なりに悟ったことは死は誰の身の上にもやってくるが、死者は生者の心の中で生きることができるということだ。
ガマで両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさんが7歳の富子さんを生かしたことで、富子さんの心の中で生き続けることができたのではないだろうか。
沖縄戦では9万4000人もの一般県民が戦闘に巻き込まれ、死亡した。
最大のお要因は「時間稼ぎ」のための持久戦を採用したこと。首里の司令部に米軍が迫った5月22日、南に撤退して戦い続ける方針を決定。住民は追い詰められた末に集団自決を余儀なくされたほか、方言が分からないという理由でスパイの嫌疑をかけられ日本軍に殺害された。
44年、政府は県民10万人を県外に避難させる方針決めたが、実際に疎開したのは約7万人にとどまる。
疎開では学童疎開船「対馬丸」が米軍の潜水艦に撃沈され、児童ら約1500人が死亡した。
「生きる」ということは本当に大変なことであるが、「命どぅ宝」の言葉通り、人の命は紛れもなく大切なものであるということを痛感させられた。
2025年06月20日
沖縄に残る1900dの不発弾処理
[戦後80年 昭和百年]で、読売が語り継ぐ戦争は、6月19日沖縄<下>として沖縄に残る1900dの不発弾の処理にスポットがあてられている。
710人――。戦後、沖縄で爆発した不発弾で犠牲になった人の数だ。降り注いだ米軍の砲弾や爆弾は、日本本土(16万トン)を上回る20万トンに及び、なお約1900トンが残る。すべて処理するのには、さらに数十年が必要だ。
不発弾の爆発事故を目撃証言したのは、終戦翌年の1946年夏、石垣島の青空に響いていた子どもたちの歓声が悲鳴に変わったと語った当時小学3年だった田本徹さん(87)。
75年5月、小2だった知念正義さん(57)(沖縄県南城市)は、「煙が上がっている。見に行こう」と友達に誘われ、海岸に行った。突然、爆発音と火柱にのみ込まれた。真っ赤に燃えた金属片が顔に張りつき、皮膚が焼ける「ジュッ」という音を聞いた。「痛い、痛い」と叫びながら用水路に顔を突っ込む。お気に入りの黄色のシャツは、蜂の巣のように穴だらけになった。
知念さんは医師から「この傷は残る」と告げられた。鏡でケロイド状の痕を見るたびに涙があふれた。数回に及ぶ整形手術など治療に数百万円を要した。
沖縄に全国初となる陸上自衛隊の不発弾処理隊ができたのは74年だ。この年、那覇市で幼児ら4人が死亡、34人が重軽傷を負う事故が起き、社会を 震撼させた。
「安心して暮らせる島をこの手で取り戻したい」。唯一の沖縄出身の隊員で、1000回を超える処理経験を持つ大宜見朝也1曹(46)の願いだ。
激戦地だった本島南部の 豊見城市で生まれた。高校の同級生の弟は不発弾の事故で片方の目を失明。「地元に貢献したい」と危険な任務に手を挙げた。
手榴弾から大型の爆弾まで。多いときは1日6回の緊急出動をこなす。現場に入るときの緊張感や恐怖心に慣れることはない。それでも「一発一発を安全に処理して、沖縄から悲惨な事故をなくす」と自らを奮い立たせる。
紙面で紹介されていたのは、本土と較べても小さな島でありながら、本土より多い20万dもの爆弾を投下された沖縄で不発弾が爆発した現場に居合わせた2人の証言と安心して暮らせる島にとの願いで自衛隊で不発弾処理に貢献したいという沖縄出身の自衛隊員である。
不発弾処理という一つ間違えれば爆発してしまう非常に危険な任務に就いて、頑張っている自衛隊員には頭が下がるし、敬意を表してエールをおくりたい。
石垣島の田本さんは、三兄が鉄血勤皇隊員として少年でありながら、日本軍の命令で動員されて戦死している。母と妹は日本軍の命令で逃れた山中でマラリアに感染し死亡し、乳飲み子だった弟もまた亡くなっている。
自身は米軍の機銃掃射を受け、殺されそうになったことがある。パイロットと目が合ったというのだ。
大阪城で戦災のガイドをしていただいた植野師も、機銃掃射を受け、一緒にいた友達が殺されたことは絶対忘れられないと証言をしてくれたことがあった。
少年たちまで日本軍の動員命令で鉄血勤皇隊員として多数が犠牲となった沖縄戦。
戦争が終わっても、不発弾処理が終わらないうちは、本当の意味での戦後とは思えない。
6月23日がもうまもなくやってくる。
1972年5月、沖縄は米軍の統治から日本に返還されたが、戦後、占領されたままの基地はそのまま、治外法権の米軍基地として存在している。
米兵は相変わらず、沖縄の女性たちを襲い性的暴行しているが、身柄は米軍基地が押さえてしまう。日米地位協定の不平等を自民党政権は改めるように米国に申し入れたことがない。
沖縄県民は自分たちの置かれている立場に目覚めるべきだ。
日本政府に反省する気持ちがないことは辺野古の海を埋め立て、新しい基地を建設していることで証明されている。
しかも、沖縄戦で犠牲となった遺骨が収集されていない土だというのだから、罰当たりなことをするものだ。
710人――。戦後、沖縄で爆発した不発弾で犠牲になった人の数だ。降り注いだ米軍の砲弾や爆弾は、日本本土(16万トン)を上回る20万トンに及び、なお約1900トンが残る。すべて処理するのには、さらに数十年が必要だ。
不発弾の爆発事故を目撃証言したのは、終戦翌年の1946年夏、石垣島の青空に響いていた子どもたちの歓声が悲鳴に変わったと語った当時小学3年だった田本徹さん(87)。
75年5月、小2だった知念正義さん(57)(沖縄県南城市)は、「煙が上がっている。見に行こう」と友達に誘われ、海岸に行った。突然、爆発音と火柱にのみ込まれた。真っ赤に燃えた金属片が顔に張りつき、皮膚が焼ける「ジュッ」という音を聞いた。「痛い、痛い」と叫びながら用水路に顔を突っ込む。お気に入りの黄色のシャツは、蜂の巣のように穴だらけになった。
知念さんは医師から「この傷は残る」と告げられた。鏡でケロイド状の痕を見るたびに涙があふれた。数回に及ぶ整形手術など治療に数百万円を要した。
沖縄に全国初となる陸上自衛隊の不発弾処理隊ができたのは74年だ。この年、那覇市で幼児ら4人が死亡、34人が重軽傷を負う事故が起き、社会を 震撼させた。
「安心して暮らせる島をこの手で取り戻したい」。唯一の沖縄出身の隊員で、1000回を超える処理経験を持つ大宜見朝也1曹(46)の願いだ。
激戦地だった本島南部の 豊見城市で生まれた。高校の同級生の弟は不発弾の事故で片方の目を失明。「地元に貢献したい」と危険な任務に手を挙げた。
手榴弾から大型の爆弾まで。多いときは1日6回の緊急出動をこなす。現場に入るときの緊張感や恐怖心に慣れることはない。それでも「一発一発を安全に処理して、沖縄から悲惨な事故をなくす」と自らを奮い立たせる。
紙面で紹介されていたのは、本土と較べても小さな島でありながら、本土より多い20万dもの爆弾を投下された沖縄で不発弾が爆発した現場に居合わせた2人の証言と安心して暮らせる島にとの願いで自衛隊で不発弾処理に貢献したいという沖縄出身の自衛隊員である。
不発弾処理という一つ間違えれば爆発してしまう非常に危険な任務に就いて、頑張っている自衛隊員には頭が下がるし、敬意を表してエールをおくりたい。
石垣島の田本さんは、三兄が鉄血勤皇隊員として少年でありながら、日本軍の命令で動員されて戦死している。母と妹は日本軍の命令で逃れた山中でマラリアに感染し死亡し、乳飲み子だった弟もまた亡くなっている。
自身は米軍の機銃掃射を受け、殺されそうになったことがある。パイロットと目が合ったというのだ。
大阪城で戦災のガイドをしていただいた植野師も、機銃掃射を受け、一緒にいた友達が殺されたことは絶対忘れられないと証言をしてくれたことがあった。
少年たちまで日本軍の動員命令で鉄血勤皇隊員として多数が犠牲となった沖縄戦。
戦争が終わっても、不発弾処理が終わらないうちは、本当の意味での戦後とは思えない。
6月23日がもうまもなくやってくる。
1972年5月、沖縄は米軍の統治から日本に返還されたが、戦後、占領されたままの基地はそのまま、治外法権の米軍基地として存在している。
米兵は相変わらず、沖縄の女性たちを襲い性的暴行しているが、身柄は米軍基地が押さえてしまう。日米地位協定の不平等を自民党政権は改めるように米国に申し入れたことがない。
沖縄県民は自分たちの置かれている立場に目覚めるべきだ。
日本政府に反省する気持ちがないことは辺野古の海を埋め立て、新しい基地を建設していることで証明されている。
しかも、沖縄戦で犠牲となった遺骨が収集されていない土だというのだから、罰当たりなことをするものだ。
2025年06月19日
自爆攻撃「斬込隊、手榴弾飛び交う地獄の丘 兵士の証言
語り継ぐ戦争に力を入れている読売社会部。戦後80年、昭和百年 沖縄 上に続き、6月18日の中では激戦を生き残った日米の兵士の証言だった。
1945年4月1日、米軍が本島に上陸すると、海軍航空隊の整備兵だった 三枝利夫さん(97)(兵庫県佐用町)は、夜襲をかける「第一 斬込隊」に組み入れられた。
17歳の若者が受け取ったのは、米軍が撃ち込んだ砲弾の破片をくくりつけた 竹槍に 手榴弾、自決用の青酸カリと日の丸の鉢巻きだった。爆薬を詰めた木箱を渡された兵士もいた。
6月上旬。3人1組になり、雲一つない月明かりの那覇近郊を進む。弾薬を満載した米軍のトラックを見つけた。同行した一等兵が爆薬で攻撃しようとしたとき、目と鼻の先で米兵の銃が火を噴いた。一等兵はばたりと倒れ、そのまま動かなくなった。
もう一人が逃亡し、一人きりになり、司令部のある南部を目指した。腐乱して膨れあがった遺体に足を取られ、何度も転んだ。途中で逃げ込んだ壕で耳にしたのは、故郷・兵庫の言葉だった。「君も兵庫か。懐かしいなあ」
ろうそくの明かりに浮かんだ丸眼鏡の主は島田 叡 。内務官僚を経て沖縄戦の直前に知事となり、住民の避難や食糧の確保に奔走し、後世「島守」と呼ばれることもある人物だ。
その後、ガマを出て、彷徨し米軍に投降した時は9月になっていた。
故郷に帰ってからも長らく沖縄で戦ったと口にできなかった。「島全体を戦場にして、多くの住民を道連れにしてしまった」。そのことが今も苦痛だ。
本島南部の丘陵地帯「シュガーローフ」は最激戦地の一つだ。1週間の攻撃で約2662人の米兵が死傷したとされ、丘陵は焦土と化した。
その戦いに加わり、2度にわたって負傷した元米海兵隊員のウォルター・ラソタさん(99)が悲しげな表情でこう言った。「あの小さな島であまりに多くの命が奪われた」
ペンシルベニア州出身。44年に入隊した後、第6海兵師団の一員として、南太平洋のガダルカナル島から意気揚々と沖縄へ出撃した。1か月後の45年5月にたどり着いたのは、至近距離で手榴弾が飛び交う「地獄の丘」だった。
米軍も深手を負った。戦死者は1万2520人に上り、6月18日には、摩文仁北西の丘で米軍の司令官サイモン・バックナー中将が日本軍の攻撃で死亡する。
爆弾の破片を摘出する手術を受け、約1か月後に前線に戻った。しかし顔見知りの兵士は誰も残っていない。右腕を撃ち抜かれて再び戦線を離脱し、みたび前線に立ったとき、所属部隊約290人のうち、生き残りはわずか8人だった。
「戦争はどれほど残酷か。沖縄戦は今を生きる全ての人にとっての教訓だ」とあれから80年で、この春、慰霊の旅で地獄の丘に立ち語る。
昨日、沖縄戦の攻防の激戦地として、前田の戦い、シュガーローフの戦い、そして、ハーフムーンヒルの戦いを取り上げた。
首里の司令部を守る戦いとしては、シュガーローフと、その南側にあるホースシュアそして東側に位置するハーフムーンヒルでの攻防があった。
シュガーローフといえば、砂糖の塊みたいなことかなと思っていたが、摺鉢山のような比喩で使われていたらしい。
シュガーローフの戦いは1945年5月12日から18日にかけての攻防で5000人以上の犠牲者がでたが、米軍の戦死傷者が2662人だというほどの米軍にとっても激戦で、まさに「地獄の丘」だった。
「Battle of Okinawa」によれば、「司令部はシュガーローフ陥落によって首里を放棄し、本島南部への撤退を決定するがそれを知った当時の島田叡県知事が司令部に懇願する
『軍が南部に移れば、南部一帯に避難した三十万近くの住民が戦禍に巻き込まれる』
しかし5月22日から、撤退作戦は実施されその結果、沖縄戦の象徴といわれる10万人あまりの住民を巻き込んだ泥沼の戦いへと進んでいった」
シューガーローフ、ハーフムーンヒルで172体の遺骨を掘ったガマフヤーの具志堅隆松さんは「日本軍の頑張りがかえって南部での軍民混在の悲劇の原因の一つになったかと思えば・・・」と語っている。
島田叡県知事のことは佐古忠彦監督『生きろ 島田叡 戦中最後の沖縄県知事』で映画化されているが、生憎見逃している。
1945年4月1日、米軍が本島に上陸すると、海軍航空隊の整備兵だった 三枝利夫さん(97)(兵庫県佐用町)は、夜襲をかける「第一 斬込隊」に組み入れられた。
17歳の若者が受け取ったのは、米軍が撃ち込んだ砲弾の破片をくくりつけた 竹槍に 手榴弾、自決用の青酸カリと日の丸の鉢巻きだった。爆薬を詰めた木箱を渡された兵士もいた。
6月上旬。3人1組になり、雲一つない月明かりの那覇近郊を進む。弾薬を満載した米軍のトラックを見つけた。同行した一等兵が爆薬で攻撃しようとしたとき、目と鼻の先で米兵の銃が火を噴いた。一等兵はばたりと倒れ、そのまま動かなくなった。
もう一人が逃亡し、一人きりになり、司令部のある南部を目指した。腐乱して膨れあがった遺体に足を取られ、何度も転んだ。途中で逃げ込んだ壕で耳にしたのは、故郷・兵庫の言葉だった。「君も兵庫か。懐かしいなあ」
ろうそくの明かりに浮かんだ丸眼鏡の主は島田 叡 。内務官僚を経て沖縄戦の直前に知事となり、住民の避難や食糧の確保に奔走し、後世「島守」と呼ばれることもある人物だ。
その後、ガマを出て、彷徨し米軍に投降した時は9月になっていた。
故郷に帰ってからも長らく沖縄で戦ったと口にできなかった。「島全体を戦場にして、多くの住民を道連れにしてしまった」。そのことが今も苦痛だ。
本島南部の丘陵地帯「シュガーローフ」は最激戦地の一つだ。1週間の攻撃で約2662人の米兵が死傷したとされ、丘陵は焦土と化した。
その戦いに加わり、2度にわたって負傷した元米海兵隊員のウォルター・ラソタさん(99)が悲しげな表情でこう言った。「あの小さな島であまりに多くの命が奪われた」
ペンシルベニア州出身。44年に入隊した後、第6海兵師団の一員として、南太平洋のガダルカナル島から意気揚々と沖縄へ出撃した。1か月後の45年5月にたどり着いたのは、至近距離で手榴弾が飛び交う「地獄の丘」だった。
米軍も深手を負った。戦死者は1万2520人に上り、6月18日には、摩文仁北西の丘で米軍の司令官サイモン・バックナー中将が日本軍の攻撃で死亡する。
爆弾の破片を摘出する手術を受け、約1か月後に前線に戻った。しかし顔見知りの兵士は誰も残っていない。右腕を撃ち抜かれて再び戦線を離脱し、みたび前線に立ったとき、所属部隊約290人のうち、生き残りはわずか8人だった。
「戦争はどれほど残酷か。沖縄戦は今を生きる全ての人にとっての教訓だ」とあれから80年で、この春、慰霊の旅で地獄の丘に立ち語る。
昨日、沖縄戦の攻防の激戦地として、前田の戦い、シュガーローフの戦い、そして、ハーフムーンヒルの戦いを取り上げた。
首里の司令部を守る戦いとしては、シュガーローフと、その南側にあるホースシュアそして東側に位置するハーフムーンヒルでの攻防があった。
シュガーローフといえば、砂糖の塊みたいなことかなと思っていたが、摺鉢山のような比喩で使われていたらしい。
シュガーローフの戦いは1945年5月12日から18日にかけての攻防で5000人以上の犠牲者がでたが、米軍の戦死傷者が2662人だというほどの米軍にとっても激戦で、まさに「地獄の丘」だった。
「Battle of Okinawa」によれば、「司令部はシュガーローフ陥落によって首里を放棄し、本島南部への撤退を決定するがそれを知った当時の島田叡県知事が司令部に懇願する
『軍が南部に移れば、南部一帯に避難した三十万近くの住民が戦禍に巻き込まれる』
しかし5月22日から、撤退作戦は実施されその結果、沖縄戦の象徴といわれる10万人あまりの住民を巻き込んだ泥沼の戦いへと進んでいった」
シューガーローフ、ハーフムーンヒルで172体の遺骨を掘ったガマフヤーの具志堅隆松さんは「日本軍の頑張りがかえって南部での軍民混在の悲劇の原因の一つになったかと思えば・・・」と語っている。
島田叡県知事のことは佐古忠彦監督『生きろ 島田叡 戦中最後の沖縄県知事』で映画化されているが、生憎見逃している。
2025年06月18日
「鉄の暴風」吹き荒れる地獄の戦場
80年前、沖縄で「鉄の暴風」が吹き荒れた。孤島を守る日本軍は米軍の火力に突き崩され、住民を巻き込んで敗走する。日米合わせて20万人が死亡した沖縄戦。日本の組織的戦闘が終結した6月23日を前に、生存者が目撃した苛烈な戦火を再現する。と6月17日の読売が戦後80年、昭和百年、沖縄の上として伝えている。
藤井昭夫さん(92)は11歳のとき、日本軍が司令部を置く首里の北にある前田高地で激戦に巻き込まれた。後の米側の記録に「ありったけの地獄を一つにまとめた」と書かれた「前田の戦い」だ。
米軍は5月6日に前田高地を制圧して南進。母子祖父母との逃避行中おばあとはぐれた。おじいが砲弾の破片を腕に受けて肉がえぐり取られた。傷口を海水で洗うほか処置のしようがない。やがて激しいけいれんを起こして絶命した。
母子は本島南端の 喜屋武岬まで追い詰められ、林に身を潜め、やがて米軍に収容された。
収容所で母は亡くなり、孤児となった藤井さんは勉強して医師となった。
玉木利枝子さん(91)爆弾で負傷した兄が野戦病院で左腕を切断する応急処置を受けた。優しかった兄が 苦悶の表情を浮かべ、水を求めてあえいでいる。しかし、当時は水を飲ませると出血を招くと教えられていた。兄はそのまま息を引き取った。
砲撃で倒れた祖父は、この世のものとは思えない断末魔の声を上げて死んだ。足手まといにならぬよう自ら命を絶ったと耳にした。
又吉武市さん(88)戦火に追われ、母と2人で南へと逃れた。身を寄せたガマ(自然壕)近くに爆弾が落ち、入り口付近にいた母の右肩を破片が貫いた。母は九死に一生を得たものの、ガマの奥にいた20人ほどは吹き込んだ爆風でほぼ全滅した。
さまよい歩いた戦場では、負傷して倒れた日本兵に「水をちょうだい」と足をつかまれた。「まだ感触が残っている」と声を震わせる。岩の下敷きとなり、腹から胎児が飛び出した妊婦もいた。
前田高地(標高148メートル、現浦添市)で、5月6日までの戦闘で日本軍は約3000人、米軍にも多大な損害が出た。この戦いは2016年、米映画『ハクソー・リッジ』で描かれたと解説されていたが、残念ながら見逃してしまった。
沖縄は日本軍が本土の防波堤としたため、沖縄戦では県民に多数の犠牲者が出た。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れ、自分なりに勉強したがまだまだ知らないことの方が多い。
沖縄戦の激戦地として名高いのが前田の戦い、シューガーローフの戦い、ハーフムーンヒルの戦いが知られている。
ガマフヤーの具志堅隆松さんにお目にかかったのはハーフムーンヒルだったが、2016年当時は、その地が激戦地だったことなど全く知らなかった。
当時、公園になっていて、具志堅さんが過去のハーフムーンヒルの戦いについて教えてくれた。
ハーフムーンヒルの近くでの激しい攻防戦があったのが慶良間チージ、シュガーローフだった。
日本軍が司令部を首里においたから、その近くで激しい攻防戦が起きたのは作戦面からみれば当然のことになる。
しかし、日本軍にとっては、本土の防波堤にした沖縄での戦いは時間稼ぎみたいなもので、本土への米軍の攻撃を遅らせるのが狙いだった。
しかも、日本軍は琉球弁というか沖縄方言を理解しなかったため、スパイの嫌疑をかけたり、ガマに隠れている時、赤子が泣くと黙らせろと殺害を命じたばかりか、米軍の呼びかけで、ガマから出ようとすると後ろから県民を撃ち殺した。
日本軍の兵士は沖縄県民を守る意思を持っていた者は少なかったのではないか。
日本の自民党や保守派とされている人たちは日本軍の兵士が県民に銃口を向けた事実をなかったことにしようとしているが、事実を正確に伝えなければ、再び戦争に巻き込まれる可能性が高い。
戦争で、日本軍が日本人の守らなかったのは満蒙開拓団の人たちがソ連軍から逃げ惑っているときもそうだった。
沖縄戦で、日本の防波堤にされなければ、これほど多くの県民が死なずにすんだ。
戦争になって苦しめられるのは市民である。
参議院議員選挙では緊急事態条項を導入しようとしている勢力に投票すると自分の首を絞めることになるから要注意だ。
藤井昭夫さん(92)は11歳のとき、日本軍が司令部を置く首里の北にある前田高地で激戦に巻き込まれた。後の米側の記録に「ありったけの地獄を一つにまとめた」と書かれた「前田の戦い」だ。
米軍は5月6日に前田高地を制圧して南進。母子祖父母との逃避行中おばあとはぐれた。おじいが砲弾の破片を腕に受けて肉がえぐり取られた。傷口を海水で洗うほか処置のしようがない。やがて激しいけいれんを起こして絶命した。
母子は本島南端の 喜屋武岬まで追い詰められ、林に身を潜め、やがて米軍に収容された。
収容所で母は亡くなり、孤児となった藤井さんは勉強して医師となった。
玉木利枝子さん(91)爆弾で負傷した兄が野戦病院で左腕を切断する応急処置を受けた。優しかった兄が 苦悶の表情を浮かべ、水を求めてあえいでいる。しかし、当時は水を飲ませると出血を招くと教えられていた。兄はそのまま息を引き取った。
砲撃で倒れた祖父は、この世のものとは思えない断末魔の声を上げて死んだ。足手まといにならぬよう自ら命を絶ったと耳にした。
又吉武市さん(88)戦火に追われ、母と2人で南へと逃れた。身を寄せたガマ(自然壕)近くに爆弾が落ち、入り口付近にいた母の右肩を破片が貫いた。母は九死に一生を得たものの、ガマの奥にいた20人ほどは吹き込んだ爆風でほぼ全滅した。
さまよい歩いた戦場では、負傷して倒れた日本兵に「水をちょうだい」と足をつかまれた。「まだ感触が残っている」と声を震わせる。岩の下敷きとなり、腹から胎児が飛び出した妊婦もいた。
前田高地(標高148メートル、現浦添市)で、5月6日までの戦闘で日本軍は約3000人、米軍にも多大な損害が出た。この戦いは2016年、米映画『ハクソー・リッジ』で描かれたと解説されていたが、残念ながら見逃してしまった。
沖縄は日本軍が本土の防波堤としたため、沖縄戦では県民に多数の犠牲者が出た。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れ、自分なりに勉強したがまだまだ知らないことの方が多い。
沖縄戦の激戦地として名高いのが前田の戦い、シューガーローフの戦い、ハーフムーンヒルの戦いが知られている。
ガマフヤーの具志堅隆松さんにお目にかかったのはハーフムーンヒルだったが、2016年当時は、その地が激戦地だったことなど全く知らなかった。
当時、公園になっていて、具志堅さんが過去のハーフムーンヒルの戦いについて教えてくれた。
ハーフムーンヒルの近くでの激しい攻防戦があったのが慶良間チージ、シュガーローフだった。
日本軍が司令部を首里においたから、その近くで激しい攻防戦が起きたのは作戦面からみれば当然のことになる。
しかし、日本軍にとっては、本土の防波堤にした沖縄での戦いは時間稼ぎみたいなもので、本土への米軍の攻撃を遅らせるのが狙いだった。
しかも、日本軍は琉球弁というか沖縄方言を理解しなかったため、スパイの嫌疑をかけたり、ガマに隠れている時、赤子が泣くと黙らせろと殺害を命じたばかりか、米軍の呼びかけで、ガマから出ようとすると後ろから県民を撃ち殺した。
日本軍の兵士は沖縄県民を守る意思を持っていた者は少なかったのではないか。
日本の自民党や保守派とされている人たちは日本軍の兵士が県民に銃口を向けた事実をなかったことにしようとしているが、事実を正確に伝えなければ、再び戦争に巻き込まれる可能性が高い。
戦争で、日本軍が日本人の守らなかったのは満蒙開拓団の人たちがソ連軍から逃げ惑っているときもそうだった。
沖縄戦で、日本の防波堤にされなければ、これほど多くの県民が死なずにすんだ。
戦争になって苦しめられるのは市民である。
参議院議員選挙では緊急事態条項を導入しようとしている勢力に投票すると自分の首を絞めることになるから要注意だ。
2025年06月16日
日立、静岡などで6月の空襲の慰霊祭
日立製作所日立事業所は10日、太平洋戦争末期の空襲による殉職者を悼む慰霊祭を茨城県日立市内で開いた。戦後80年の節目を迎えた今年は約30年ぶりに遺族を招いて大規模な式典を開き、徳永俊昭社長ら同社幹部も列席した。と毎日新聞【田内隆弘記者】が伝えている。
1945年6月10日朝、100機以上の米爆撃機B29が日立市上空に飛来。軍需工場だった同社海岸工場に500発以上の1トン爆弾が投下され、爆撃に巻き込まれたり防空壕の中で生き埋めになったりした従業員634人が命を落とした。その後7月にも艦砲射撃や焼夷弾攻撃で多くの従業員が命を落とした。
日立事業所は6月10日を「戦災の日」とし、毎年空襲が始まった午前8時51分に合わせて工場全体で黙とう。事業所幹部が防空壕跡にある「殉難の碑」をお参りしている。さらに今年は市内のホテルに祭壇を設け、慰霊祭を開催。僧侶が読経するなか遺族や同社関係者ら約200人が手を合わせた。
1945(昭和20)年6月20日、未明の「静岡空襲」では、静岡市の市街地が爆撃を受け、およそ2000人が犠牲になった。
15日に静岡市葵区の静岡平和資料センターで開かれたつどいには、市民など20人が参加し、はじめに、犠牲者の名簿の前で、黙とうをささげて花を手向けた。と6月16日のNHKが伝えている。
2024年6月には、静岡県静岡市の賤機山では、日米合同の慰霊祭が開かれた。
52回目となる慰霊祭は、静岡空襲で犠牲になったおよそ2000人の市民とB29の搭乗員23人を追悼するため、毎年、静岡県静岡市の賤機山山頂で行われている。
慰霊祭には、地元の人たちや在日米軍横田基地の関係者など、およそ120人が参加した。と2024年6月30日のSBSTVが伝えていた。
ロシアがウクライナに侵攻侵略し、パレスチナのハマスがイスラエルに侵攻しイスラエル人などを人質にとったことから始まったイスラエルのガザ地区への攻撃が終わる気配がみえない。
6月中旬になるや突如としてイスラエルがイランに攻撃し、イランが反撃したというニュースが流れている。
インドとパキスタンが一時交戦状態になったことも伝えらえた。
6月4日の中国天安門事件から36年が経ち、自由を求める民衆をあろうことか戦車でひき殺すという、戦時中、満州でソ連軍が満蒙開拓団の非武装の日本人婦女子を戦車でひき殺して以来という蛮行を中国政府が命令したことは独裁政権の恐ろしさを痛感させられたばかりか、台湾への軍事侵攻が現実味を帯びている気がしないでもない。
戦後80年が経ち、米軍に空襲、空爆された都市の遺族も高齢となり、記憶の継承が難しくなっているが、世界のあちこちで戦争則ち、空襲、空爆攻撃で死者が多数出ていることから、なんとしても、日本が戦争に巻き込まれないようにと願って6月の空襲、空爆について書いている。
静岡では、空襲、空爆した米軍の爆撃機が墜落し搭乗員が犠牲となったことから、日米合同で慰霊祭が開催されているというではないか。
沖縄の平和の礎ではないが、死んでしまえば敵も味方もないわけで、悪いことではない。
空襲、空爆の恐ろしさを考えたら、戦争に巻き込まれないことこそ、価値があることだと気づくべきだ。
1945年6月10日朝、100機以上の米爆撃機B29が日立市上空に飛来。軍需工場だった同社海岸工場に500発以上の1トン爆弾が投下され、爆撃に巻き込まれたり防空壕の中で生き埋めになったりした従業員634人が命を落とした。その後7月にも艦砲射撃や焼夷弾攻撃で多くの従業員が命を落とした。
日立事業所は6月10日を「戦災の日」とし、毎年空襲が始まった午前8時51分に合わせて工場全体で黙とう。事業所幹部が防空壕跡にある「殉難の碑」をお参りしている。さらに今年は市内のホテルに祭壇を設け、慰霊祭を開催。僧侶が読経するなか遺族や同社関係者ら約200人が手を合わせた。
1945(昭和20)年6月20日、未明の「静岡空襲」では、静岡市の市街地が爆撃を受け、およそ2000人が犠牲になった。
15日に静岡市葵区の静岡平和資料センターで開かれたつどいには、市民など20人が参加し、はじめに、犠牲者の名簿の前で、黙とうをささげて花を手向けた。と6月16日のNHKが伝えている。
2024年6月には、静岡県静岡市の賤機山では、日米合同の慰霊祭が開かれた。
52回目となる慰霊祭は、静岡空襲で犠牲になったおよそ2000人の市民とB29の搭乗員23人を追悼するため、毎年、静岡県静岡市の賤機山山頂で行われている。
慰霊祭には、地元の人たちや在日米軍横田基地の関係者など、およそ120人が参加した。と2024年6月30日のSBSTVが伝えていた。
ロシアがウクライナに侵攻侵略し、パレスチナのハマスがイスラエルに侵攻しイスラエル人などを人質にとったことから始まったイスラエルのガザ地区への攻撃が終わる気配がみえない。
6月中旬になるや突如としてイスラエルがイランに攻撃し、イランが反撃したというニュースが流れている。
インドとパキスタンが一時交戦状態になったことも伝えらえた。
6月4日の中国天安門事件から36年が経ち、自由を求める民衆をあろうことか戦車でひき殺すという、戦時中、満州でソ連軍が満蒙開拓団の非武装の日本人婦女子を戦車でひき殺して以来という蛮行を中国政府が命令したことは独裁政権の恐ろしさを痛感させられたばかりか、台湾への軍事侵攻が現実味を帯びている気がしないでもない。
戦後80年が経ち、米軍に空襲、空爆された都市の遺族も高齢となり、記憶の継承が難しくなっているが、世界のあちこちで戦争則ち、空襲、空爆攻撃で死者が多数出ていることから、なんとしても、日本が戦争に巻き込まれないようにと願って6月の空襲、空爆について書いている。
静岡では、空襲、空爆した米軍の爆撃機が墜落し搭乗員が犠牲となったことから、日米合同で慰霊祭が開催されているというではないか。
沖縄の平和の礎ではないが、死んでしまえば敵も味方もないわけで、悪いことではない。
空襲、空爆の恐ろしさを考えたら、戦争に巻き込まれないことこそ、価値があることだと気づくべきだ。
2025年06月12日
沖縄県 戦後処理問題の解決支援を国に要請
戦後80年の2025年、沖縄県は、戦没者の遺骨収集や不発弾の処理など、今なお残る戦後処理問題が県民生活に影響を及ぼしているとして、問題の根本的な解決に向けた支援を国に要請する方向で調整を進めている。と6月4日のNHKが伝えていたが、10日に池田竹州副知事が要請書を厚生労働省を訪れて渡した。とメディアが伝えている。
具体的には、▽今も各地で続く戦没者の遺骨収集に関する取り組みの強化や、▽「終わらない戦後処理」とも言われ、9日に読谷村の米軍嘉手納弾薬庫地区内で爆発事故があったばかりの不発弾処理。処理に100年ほどかかるとされる不発弾の早期処理。▽旧日本軍が首里城の地下に造り住民の犠牲の拡大につながる「南部撤退」が決定された第32軍司令部壕の保存・公開に向けた財政支援や▽高齢化などで管理が難しくなっている慰霊碑の整理・保存に関する支援、それに、▽平和に関する国際会議や地域の安定に資する国際機関の沖縄誘致への支援といった内容だ。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで全国を周ってきたが、米軍に原爆を落とされたヒロシマ、ナガサキ、そして、沖縄は慰霊碑に手を合わせるとき、他とは違うものを感じて怖くなった。
霊感など自分にあるわけもないが、訪れたのが夏であるにもかかわらず、寒気がしたといえば、あながち的外れではないかもしれない。
戦没者、死没者の遺骨が埋まったままになっているところを自分が歩いているということだろうか。
沖縄で一家全滅し、その家の屋敷跡に参拝できるように礼拝所が設置されていて、ガイド兼ドライバーの外間さんの案内でお参りさせてもらった時は激しく心を揺さぶられた。
沖縄戦で一家全滅という家が何軒あるかはわからないが、かなりありそうだったからさらに驚く。
このことで沖縄戦のことを詳しく知らない人にも沖縄戦の惨禍が理解できるのではないか。
特に、ガマフヤーの具志堅隆松さんやジャーナリスト浜田哲二、律子さん夫妻が遺骨収集で奮闘しているが、本来、国がやるべきことである。
9日に読谷村で不発弾が爆発し、処理にあたっていた自衛隊員が負傷したニュースが流れている。
処理が終わるのに100年というからには不発弾は早く処理を完了させなければ安心できない。
日本が米国との戦争に敗れたにしても、敗戦後80年経っても、沖縄の置かれている状況はあまりにも酷すぎる。
米軍基地が沖縄に集中しているのは、米国の戦略上の都合であり、普天間を移設するとなれば、辺野古の海を埋め立てる。しかも、埋め立てる土は米軍に殺された兵士や県民の遺骨が収集されないままだという罰当たりなことを平気でやってきたのが自民党政権である。
いつでも自分勝手な米国は中国と覇権争いをし、中国が台湾を統一する動きがあると煽って、日本の自衛隊に戦争の準備をさせ、戦争になれば、米軍の代わりに戦争をさせようと目論む。
自民党や保守派の勢力は、米国に追随するだけだから愕然とする
。
沖縄の人たちは、平和教育で米軍基地の街から脱却できるように一人ひとりが考えていく必要がある。
沖縄は観光収入くらいしかめぼしい収入がないから、貧乏であるが、戦争では本土の防波堤にされたのだから、もっと、もっと日本政府に要求していいはずだ。
具体的には、▽今も各地で続く戦没者の遺骨収集に関する取り組みの強化や、▽「終わらない戦後処理」とも言われ、9日に読谷村の米軍嘉手納弾薬庫地区内で爆発事故があったばかりの不発弾処理。処理に100年ほどかかるとされる不発弾の早期処理。▽旧日本軍が首里城の地下に造り住民の犠牲の拡大につながる「南部撤退」が決定された第32軍司令部壕の保存・公開に向けた財政支援や▽高齢化などで管理が難しくなっている慰霊碑の整理・保存に関する支援、それに、▽平和に関する国際会議や地域の安定に資する国際機関の沖縄誘致への支援といった内容だ。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで全国を周ってきたが、米軍に原爆を落とされたヒロシマ、ナガサキ、そして、沖縄は慰霊碑に手を合わせるとき、他とは違うものを感じて怖くなった。
霊感など自分にあるわけもないが、訪れたのが夏であるにもかかわらず、寒気がしたといえば、あながち的外れではないかもしれない。
戦没者、死没者の遺骨が埋まったままになっているところを自分が歩いているということだろうか。
沖縄で一家全滅し、その家の屋敷跡に参拝できるように礼拝所が設置されていて、ガイド兼ドライバーの外間さんの案内でお参りさせてもらった時は激しく心を揺さぶられた。
沖縄戦で一家全滅という家が何軒あるかはわからないが、かなりありそうだったからさらに驚く。
このことで沖縄戦のことを詳しく知らない人にも沖縄戦の惨禍が理解できるのではないか。
特に、ガマフヤーの具志堅隆松さんやジャーナリスト浜田哲二、律子さん夫妻が遺骨収集で奮闘しているが、本来、国がやるべきことである。
9日に読谷村で不発弾が爆発し、処理にあたっていた自衛隊員が負傷したニュースが流れている。
処理が終わるのに100年というからには不発弾は早く処理を完了させなければ安心できない。
日本が米国との戦争に敗れたにしても、敗戦後80年経っても、沖縄の置かれている状況はあまりにも酷すぎる。
米軍基地が沖縄に集中しているのは、米国の戦略上の都合であり、普天間を移設するとなれば、辺野古の海を埋め立てる。しかも、埋め立てる土は米軍に殺された兵士や県民の遺骨が収集されないままだという罰当たりなことを平気でやってきたのが自民党政権である。
いつでも自分勝手な米国は中国と覇権争いをし、中国が台湾を統一する動きがあると煽って、日本の自衛隊に戦争の準備をさせ、戦争になれば、米軍の代わりに戦争をさせようと目論む。
自民党や保守派の勢力は、米国に追随するだけだから愕然とする
。
沖縄の人たちは、平和教育で米軍基地の街から脱却できるように一人ひとりが考えていく必要がある。
沖縄は観光収入くらいしかめぼしい収入がないから、貧乏であるが、戦争では本土の防波堤にされたのだから、もっと、もっと日本政府に要求していいはずだ。
2025年06月09日
徴用船 重油輸送「大明丸」魚雷に沈む
アジア太平洋戦争では、国に徴用された民間船舶にも多大な犠牲が出た。約7000隻が沈没し、船員6万人余りが死亡したとされると5月25日の読売が戦後80年昭和百年の連載で伝えている。
1944年11月3日未明、大阪商船(現商船三井)のタンカー「大明丸」(6723総d)がボルネオ島ミリの北西約350`を重油8000dを満載で航行中魚雷攻撃を受け沈抜した。
新潟県村上市の農家の次男に生まれ、軍国教育を受けた大矢秀二さん(95)は、その時、赤道に近い海で暑さをしのぐため、甲板で寝転んでいたことから、沈みゆく船の船尾にようやくたどり着き、ボートを下ろし、縄梯子で乗り移るや、茫然と見守る目の前で大明丸は海中に姿を消した。
5月14日、横須賀市観音崎公園にある「戦没船員の碑」で営まれた追悼式に参列した大矢さん。
「戦争に行ったことを勇敢だと思ってほしくない。本当の勇敢さとは、戦争を止めることだった」と語る。
「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によれば、国は、「戦時海運管理令」などに基づいて民間船舶と船員を徴用し、兵士や物資、燃料の輸送任務に充てた。
アジア太平洋戦争敗戦から80年。
父親が召集され、南方の島スマトラ島に派兵されるも、運よく帰国できたから生まれた団塊の世代の一員としては、親米派の自民党政権が米国の対中戦略に乗せられ、再び戦争に巻き込まれそうになっていることを危惧している。
せっかく、戦争の勝者米国の肝いりでできた平和憲法である日本国憲法を改め、治安維持法同様の緊急事態条項、戦前、戦中でいえば、戒厳令の役割を果たす条項で米国の戦争に自衛隊を派兵させようと目論む保守派勢力の台頭が不安でならない。
戦争といえば、アジア太平洋戦争の反省がきちんとなされてこなかったことから、再び、戦争への道を進もうとしているとしか思えない。
靖国神社へのA級戦犯の合祀以降、戦争責任が揺らいでいる。
学生時代、アメリカ帝国主義は張子の虎だと北京放送が流していたが、今や、その中国が帝国主義化し、覇権主義の大国として、米国と覇権を競っている。
米国はその中国が台湾を統一しようとしていると危機を煽り、日本の自衛隊に中国との戦争をさせようと目論む。
目を覚まさないといつの間にか戦争が始まってしまう。
緊急事態条項を断固絶対阻止しなければ遠からず戦争に巻き込まれる。
さて、アジア太平洋戦争を検証していくと、軍人だけが戦ったわけではないことに気づかされる。
召集され民間人から兵士にされてしまった人たちが宇品港から南方に送られ、無事帰国できた人たちが宇品港に帰ってきた。
その宇品港の暁部隊が兵站を担っていたことを先般取り上げた。
兵站=糧秣などを運搬したのが徴用船であるが、民間の船を徴用するくらいだから、徴用船は警護も手薄だったことから、ことごとく沈められていくことになる。
勝者の米国は、その辺り抜け目がないというか、調べがしっかりしていたから、兵站がたたかれてしまえば、戦争を継続することはむずかしくなってしまう。
緊急事態条項を考えている議員は自分が戦争に行くわけではないから、米国の思惑に乗せられているが、自衛隊員とその家族にしたら大変なことだから、参議院議員選挙で投票をするとき、しっかり考えてもらいたい。
徴用船の乗組員の立場に立てば、戦争になれば、いつ、同じ目に遭わないとも限らない。
参議院議員選挙で戦争に巻き込まれない政党を選択する以外に道はない。
1944年11月3日未明、大阪商船(現商船三井)のタンカー「大明丸」(6723総d)がボルネオ島ミリの北西約350`を重油8000dを満載で航行中魚雷攻撃を受け沈抜した。
新潟県村上市の農家の次男に生まれ、軍国教育を受けた大矢秀二さん(95)は、その時、赤道に近い海で暑さをしのぐため、甲板で寝転んでいたことから、沈みゆく船の船尾にようやくたどり着き、ボートを下ろし、縄梯子で乗り移るや、茫然と見守る目の前で大明丸は海中に姿を消した。
5月14日、横須賀市観音崎公園にある「戦没船員の碑」で営まれた追悼式に参列した大矢さん。
「戦争に行ったことを勇敢だと思ってほしくない。本当の勇敢さとは、戦争を止めることだった」と語る。
「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によれば、国は、「戦時海運管理令」などに基づいて民間船舶と船員を徴用し、兵士や物資、燃料の輸送任務に充てた。
アジア太平洋戦争敗戦から80年。
父親が召集され、南方の島スマトラ島に派兵されるも、運よく帰国できたから生まれた団塊の世代の一員としては、親米派の自民党政権が米国の対中戦略に乗せられ、再び戦争に巻き込まれそうになっていることを危惧している。
せっかく、戦争の勝者米国の肝いりでできた平和憲法である日本国憲法を改め、治安維持法同様の緊急事態条項、戦前、戦中でいえば、戒厳令の役割を果たす条項で米国の戦争に自衛隊を派兵させようと目論む保守派勢力の台頭が不安でならない。
戦争といえば、アジア太平洋戦争の反省がきちんとなされてこなかったことから、再び、戦争への道を進もうとしているとしか思えない。
靖国神社へのA級戦犯の合祀以降、戦争責任が揺らいでいる。
学生時代、アメリカ帝国主義は張子の虎だと北京放送が流していたが、今や、その中国が帝国主義化し、覇権主義の大国として、米国と覇権を競っている。
米国はその中国が台湾を統一しようとしていると危機を煽り、日本の自衛隊に中国との戦争をさせようと目論む。
目を覚まさないといつの間にか戦争が始まってしまう。
緊急事態条項を断固絶対阻止しなければ遠からず戦争に巻き込まれる。
さて、アジア太平洋戦争を検証していくと、軍人だけが戦ったわけではないことに気づかされる。
召集され民間人から兵士にされてしまった人たちが宇品港から南方に送られ、無事帰国できた人たちが宇品港に帰ってきた。
その宇品港の暁部隊が兵站を担っていたことを先般取り上げた。
兵站=糧秣などを運搬したのが徴用船であるが、民間の船を徴用するくらいだから、徴用船は警護も手薄だったことから、ことごとく沈められていくことになる。
勝者の米国は、その辺り抜け目がないというか、調べがしっかりしていたから、兵站がたたかれてしまえば、戦争を継続することはむずかしくなってしまう。
緊急事態条項を考えている議員は自分が戦争に行くわけではないから、米国の思惑に乗せられているが、自衛隊員とその家族にしたら大変なことだから、参議院議員選挙で投票をするとき、しっかり考えてもらいたい。
徴用船の乗組員の立場に立てば、戦争になれば、いつ、同じ目に遭わないとも限らない。
参議院議員選挙で戦争に巻き込まれない政党を選択する以外に道はない。