8月5日のNHKクローズアップ現代「“我が魂は奪われはしない” 福山雅治 響き合う歌と平和」を視聴できたので書いておく。「自分の歌を子どもたちが合唱するなんて、一番驚いているのは僕自身」。福山さんがそう語る「クスノキ」は2014年の発表以来、「平和の歌」として多くの人に歌い継がれ、学校の授業でも使われている。原爆で焼かれても再び芽吹き、希望や平和の象徴となった「被爆クスノキ」と長年向き合って曲が完成するまでの誕生秘話。いまだ世界では核の脅威が去らず暴力の連鎖が続く中、「歌の力」でメッセージを届けることの意味を聞く。」と㏋にある。
恥ずかしながら「被爆クスノキ」のことも歌のことも知らなかった。
8月6日、本日は人種差別の国米国によってヒロシマに原爆が投下された日で、被爆アオギリのことは知っていた。被爆アオギリが歌になっているかどうかわからないが、平和への願いを被爆クスノキに託した福山雅治さんはアーティストとして語り継がれることになるだろう。
クスノキといえば、生まれ育った首都圏の田舎町の寺で、せっかくのクスノキを伐採してしまい、落胆していたので、世の常ではあるが、関わる人間によって、こうも違う結果が出ることにショックを受けている。
住宅開発で伐採されてしまうところを寺が受け入れて、寺のシンボルツリーになるところだった。
持ち込んだ寺の世話人と受け入れた寺側の世話人に何があったのか、不明であるが、何があったにしても、クスノキに罪があるわけでなし、地球温暖化を防止するために役立つクスノキを伐採するとは非道なことをするものだ。
今夏、雨が降らず、毎日、体温を超えるような厳しい暑さが続いている時、クスノキの下にいれば、木陰で涼しいし、風があれば、クスノキが涼風を送ってくれた。
ついでに書くなら、寺の境内で春になると見事に咲き誇った桜も伐採してしまった。
民主主義の時代だから、寺で世話人がクスノキや桜を伐採しようがしまいが余計な口出しはできない。
被爆地ナガサキといえば、著名人ですぐに名前が出てくるのは美輪明宏さんだが、世代交代したとしても、被爆のクスノキと福山雅治さんがいる。
本日、被爆の犠牲者に黙とうをささげたヒロシマでは、すぐに名前が出てくるのはプロ野球の張本勲さんであるが、世代交代した人の名前がでてこない。
「長崎の鐘」、「クスノキ」とナガサキは歌で語り継がれていくが、ヒロシマでは、「夏の花」の原民喜、「はだしのゲン」の中沢啓治、そして『夢千代日記』の早坂暁と小説や漫画、ドラマなどで語り継がれていくのかもしれない。
2025年08月06日
2025年08月05日
ヒロシマ原爆の惨禍を忘れまじ
8月4日、クローズアップ現代 被爆80年 迫る“被爆者なき時代”を視聴することができた。
2024年、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協。しかし、その活動の継続は困難に直面している。被爆者の数は2025年初めて10万人を下回り、解散・休止に至る被爆者団体が全国で相次ぐ。“被爆者なき時代”は確実に迫っている。つないでいかなければならないあの日の記憶…核兵器の脅威が高まる今、その意味は重要性を増す。これまで被爆者に頼り切っていた取り組みをどう受け継いでいくか。被爆80年を前にした広島から中継で伝える。
おとなのEテレタイムマシン井上ひさし原爆を語るということ第2回わしの分まで生きて下さい 〜生者と死者の対話〜が第1回に続いて放送された。初回放送が2000年だから、今ではお宝映像だ。
広島平和記念公園と原爆ドームの間に川があり、公園側から目の前にドームが見える位置に桑子真帆アナがポジショニングしている映像に番組スタッフの並々ならぬ決意が伝わってきた。
2022年2月24日、21世紀のスターリン+ヒトラーこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナに侵攻、侵略したばかりか、核兵器の使用をちらつかせながら、恫喝している。
恫喝が効いたのか、被団協にノーベル平和賞が授与され、被団協の濱住治郎さんがニューヨークの国連で演説をしている。
国連演説はともかく、被団協のノーベル賞受賞を知らない人がいることが、新潟県で核兵器禁止の書名を集めていた女性に密着取材していてわかった。
作家井上ひさしが原爆を語ることの第1回で、自分だけ生き残った被爆者の娘が抱く後ろめたさを天国に召された父と娘との対話で描いた『父と暮らせば』の舞台演劇で紹介していた。
第2回は、被爆死した父親が娘には自分の分まで長生きしてほしいと願う気持ちを考えた。
現実に特攻隊の生き残りや玉砕の地から帰還した人たちは亡くなった戦友の分まで長生きしている人がいて、戦争の悲惨さを語り継いでいる。
元特攻隊員で生き残った茶人が102歳になったとネットで知ったが、TVの人気時代劇『水戸黄門』を演じた俳優西村晃とは千、西村と呼び合う特攻隊仲間で「みんな本当は死にたくなかった」と茶人は語っている。
被団協で活躍している知人は、胎内被爆者で、被爆者としては一番若いことになるが、それでも80歳だから、被爆者が語り継ぐことができるのも、先が知れている。被爆の事実を継承し、語り継いでいくことが求められている所以である。
地上戦を戦った沖縄と原爆が投下された被爆地ヒロシマ、ナガサキを除けば、日本の学校教育で戦争のことを正面から教えて来たのか疑問である。
参議院議員選挙で極右の参政党が台頭し、徴兵制を復活させ、教育勅語、治安維持法も復活させようとするだろう。
れいわ新選組で参議院議員選挙に当選した福岡の奥田ふみよさんは学校に対する子どもたちの声に耳を傾け、教育の在り方に疑問を呈していた。
奥田さんはれいわ新選組の非戦の考え方の人だから、米国の戦争に巻き込まれないように考えているはずだ。
原爆投下されてから80年目の日がまもなくやってくる。
もっと真剣に戦争に反対することを考えないと来た道を戻ってしまうかもしれない。
2024年、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協。しかし、その活動の継続は困難に直面している。被爆者の数は2025年初めて10万人を下回り、解散・休止に至る被爆者団体が全国で相次ぐ。“被爆者なき時代”は確実に迫っている。つないでいかなければならないあの日の記憶…核兵器の脅威が高まる今、その意味は重要性を増す。これまで被爆者に頼り切っていた取り組みをどう受け継いでいくか。被爆80年を前にした広島から中継で伝える。
おとなのEテレタイムマシン井上ひさし原爆を語るということ第2回わしの分まで生きて下さい 〜生者と死者の対話〜が第1回に続いて放送された。初回放送が2000年だから、今ではお宝映像だ。
広島平和記念公園と原爆ドームの間に川があり、公園側から目の前にドームが見える位置に桑子真帆アナがポジショニングしている映像に番組スタッフの並々ならぬ決意が伝わってきた。
2022年2月24日、21世紀のスターリン+ヒトラーこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナに侵攻、侵略したばかりか、核兵器の使用をちらつかせながら、恫喝している。
恫喝が効いたのか、被団協にノーベル平和賞が授与され、被団協の濱住治郎さんがニューヨークの国連で演説をしている。
国連演説はともかく、被団協のノーベル賞受賞を知らない人がいることが、新潟県で核兵器禁止の書名を集めていた女性に密着取材していてわかった。
作家井上ひさしが原爆を語ることの第1回で、自分だけ生き残った被爆者の娘が抱く後ろめたさを天国に召された父と娘との対話で描いた『父と暮らせば』の舞台演劇で紹介していた。
第2回は、被爆死した父親が娘には自分の分まで長生きしてほしいと願う気持ちを考えた。
現実に特攻隊の生き残りや玉砕の地から帰還した人たちは亡くなった戦友の分まで長生きしている人がいて、戦争の悲惨さを語り継いでいる。
元特攻隊員で生き残った茶人が102歳になったとネットで知ったが、TVの人気時代劇『水戸黄門』を演じた俳優西村晃とは千、西村と呼び合う特攻隊仲間で「みんな本当は死にたくなかった」と茶人は語っている。
被団協で活躍している知人は、胎内被爆者で、被爆者としては一番若いことになるが、それでも80歳だから、被爆者が語り継ぐことができるのも、先が知れている。被爆の事実を継承し、語り継いでいくことが求められている所以である。
地上戦を戦った沖縄と原爆が投下された被爆地ヒロシマ、ナガサキを除けば、日本の学校教育で戦争のことを正面から教えて来たのか疑問である。
参議院議員選挙で極右の参政党が台頭し、徴兵制を復活させ、教育勅語、治安維持法も復活させようとするだろう。
れいわ新選組で参議院議員選挙に当選した福岡の奥田ふみよさんは学校に対する子どもたちの声に耳を傾け、教育の在り方に疑問を呈していた。
奥田さんはれいわ新選組の非戦の考え方の人だから、米国の戦争に巻き込まれないように考えているはずだ。
原爆投下されてから80年目の日がまもなくやってくる。
もっと真剣に戦争に反対することを考えないと来た道を戻ってしまうかもしれない。
2025年08月04日
台湾でバシー海峡戦没者の慰霊祭
先の大戦中に台湾南方のバシー海峡周辺で戦没した日本人将兵らを悼む慰霊祭が3日、台湾南端の屛東県恒春にある潮音寺で営まれ、遺族ら約150人が参加した。戦後80年にあたる今年は、戦没者慰霊を管轄する厚生労働相による弔辞の代読が初めて行われた。と8月4日の産経新聞(西見由章記者)のWEBが伝えている。
バシー海峡では大戦末期、南方に向かう日本の輸送艦船などが米潜水艦や空母艦載機に狙い撃ちされ、10万人以上が戦死したとされる。戦没者の遺体の多くが台湾最南端の恒春半島に漂着したが、外交関係がないために公的な慰霊活動は長年行われていない。戦後70年の2015(平成27)年以降、日台の有志が慰霊祭を開催している。
慰霊祭では対台湾窓口機関、日本台湾交流協会台北事務所の片山和之代表が「わが国の平和と繁栄が戦没者の皆さまの尊い命の上に築かれたものであることに思いを致し、謹んで哀悼の誠をささげる」との福岡資麿厚労相の弔辞を代読した。
潮音寺は、バシー海峡で撃沈された輸送船「玉津丸」に乗船し、九死に一生を得た故中嶋秀次さんが私財を投じて昭和56年に建立。
バシー海峡周辺の戦没者を巡っては、厚労省が半世紀ぶりとなる台湾での公的な遺骨収集に向けて「日本戦没者遺骨収集推進協会」の職員を近く現地に派遣する方針だ。
バシー海峡は軍事的にも重要で、近年は、台湾の統一を目指す中国が台湾周辺で大規模な軍事演習を行う際などにバシー海峡を航行する中国の空母や艦船がたびたび確認されているとNHKなどメディアが伝えている。
連れ合いが職場の女性たちと月に一度の会食をしたり、仕事をしていた時は年に1回は旅行を楽しんでいた。
カナダ、オーストラリア、シンガポール、中国、そして台湾とあちこち行ったが、台湾の人々は親日的な印象を受けたという。
東日本大震災の時、多額の義援金を送ってくれたことを筆頭に高齢者を先頭に韓国と較べ親日的であることは確かなことである。
しかし、台湾有事をしきりに宣伝しているのは米国で、台湾有事には米軍兵士に代わって日本の自衛隊員に死んでもらいたいと願っている。
米中戦争の米国の代理をさせられてたまるか。ご都合主義の米国に騙されてはならない。
東日本大震災であれだけお世話になった台湾を見捨てろなんて言っていない。
自衛隊が中国軍と戦うことはしないが、台湾を支援することはいくらでもできることだ。
例えば、台湾から逃げてくる避難民を受け入れることだって立派な支援になる。
台湾のバシー海峡で米軍に沈められた輸送艦船の乗員の慰霊祭でも何かとお世話になっていることだろうし、台湾出身者が日本軍の一員となって戦ってくれたことも承知しているからこそ、台湾有事には日本は台湾の味方として、戦争以外のことではしっかり支援をする。
ただし、戦後80年経って、戦争はもう懲り懲りだから、武力衝突には関与しない。
日中国交回復し、米国寄りの外交姿勢を止めて、中国とも友好的な関係を築き、非戦を訴えていくことが日本の使命ではないか。
バシー海峡では大戦末期、南方に向かう日本の輸送艦船などが米潜水艦や空母艦載機に狙い撃ちされ、10万人以上が戦死したとされる。戦没者の遺体の多くが台湾最南端の恒春半島に漂着したが、外交関係がないために公的な慰霊活動は長年行われていない。戦後70年の2015(平成27)年以降、日台の有志が慰霊祭を開催している。
慰霊祭では対台湾窓口機関、日本台湾交流協会台北事務所の片山和之代表が「わが国の平和と繁栄が戦没者の皆さまの尊い命の上に築かれたものであることに思いを致し、謹んで哀悼の誠をささげる」との福岡資麿厚労相の弔辞を代読した。
潮音寺は、バシー海峡で撃沈された輸送船「玉津丸」に乗船し、九死に一生を得た故中嶋秀次さんが私財を投じて昭和56年に建立。
バシー海峡周辺の戦没者を巡っては、厚労省が半世紀ぶりとなる台湾での公的な遺骨収集に向けて「日本戦没者遺骨収集推進協会」の職員を近く現地に派遣する方針だ。
バシー海峡は軍事的にも重要で、近年は、台湾の統一を目指す中国が台湾周辺で大規模な軍事演習を行う際などにバシー海峡を航行する中国の空母や艦船がたびたび確認されているとNHKなどメディアが伝えている。
連れ合いが職場の女性たちと月に一度の会食をしたり、仕事をしていた時は年に1回は旅行を楽しんでいた。
カナダ、オーストラリア、シンガポール、中国、そして台湾とあちこち行ったが、台湾の人々は親日的な印象を受けたという。
東日本大震災の時、多額の義援金を送ってくれたことを筆頭に高齢者を先頭に韓国と較べ親日的であることは確かなことである。
しかし、台湾有事をしきりに宣伝しているのは米国で、台湾有事には米軍兵士に代わって日本の自衛隊員に死んでもらいたいと願っている。
米中戦争の米国の代理をさせられてたまるか。ご都合主義の米国に騙されてはならない。
東日本大震災であれだけお世話になった台湾を見捨てろなんて言っていない。
自衛隊が中国軍と戦うことはしないが、台湾を支援することはいくらでもできることだ。
例えば、台湾から逃げてくる避難民を受け入れることだって立派な支援になる。
台湾のバシー海峡で米軍に沈められた輸送艦船の乗員の慰霊祭でも何かとお世話になっていることだろうし、台湾出身者が日本軍の一員となって戦ってくれたことも承知しているからこそ、台湾有事には日本は台湾の味方として、戦争以外のことではしっかり支援をする。
ただし、戦後80年経って、戦争はもう懲り懲りだから、武力衝突には関与しない。
日中国交回復し、米国寄りの外交姿勢を止めて、中国とも友好的な関係を築き、非戦を訴えていくことが日本の使命ではないか。
2025年07月30日
『火垂るの墓』反戦の思いつなぐ
「サヨナラは始まり 反戦の思いつなぐ」という見出しで高畑勲監督のアニメーション映画『火垂るの墓』のことを取り上げていた「広角/多角」という7月27日の読売のコラム(田中誠文化部次長)の記事に触発された。
映画は「年齢や経験によって感じ方が変わる。子どもの頃から中高年になるまで、何度も見る価値が出てくる」とは高畑勲監督の長男耕助さんの父の作品について語っていた一言である。
さらに、山口県下関市の柴口勲さんが、地元の梅光学院の中高生約40人と作った2016年の作品『隣人のゆくえ―あの夏の歌声』空襲で焼け野原となった下関の写真に着想を得た鎮魂のミュージカルだそうな。
毎夏、東京は池袋のシネマ・ロサなどで上映されてきたが、22年に柴口監督が他界。自主配給上映に今夏をもって一区切りすることになった。
「映画は終わってからが始まり」とは柴口監督の弁だと出演者の一人で、俳優福田麗さん(26)が明かす。「新たな何かが生まれる架け橋になれば」と願っていると福田さん。
語り継ぐ戦争で、15年戦争、大東亜戦争、太平洋戦争、アジア太平洋戦争、第二次世界大戦、そして、先の大戦とその呼び名もそれぞれの立場で異なるが、父親が南方の戦地から帰国してから生まれた団塊の世代の一員としては、体験がない分、本や映画で学んだ戦争の実相について書いてきた。
本は五味川純平『人間の條件』(三一書房)からの影響とこの原作がTVドラマ化され、映画化されている作品からも大いに影響を受けている。
『火垂るの墓』は野坂昭如の原作は無論買い求めて読んでいるが、アニメーション映画には心を激しく揺さぶられた。
学生時代はカネがなく、社会人になって、少しばかり経済的に余裕ができ、映画を観ることもできるようになったが、50代半ばを前に、病気治療を理由に退職して自由を手に入れてから、月に一度の映画館行きということで、ドキュメンタリー作品など娯楽映画ではない作品を中心に観てきた。
招待で映画を観ているわけではないので、シニアとか夫婦50割だったかで観られるようになって金銭的にも有り難かった。
『火垂るの墓』の兄の清太と妹の節子のことは自分の心の中では物語の人物ではなくなり、毎日、書き続け、発信している中でも実在の人物の如くよく登場している。
戦争で親を亡くした子どもが生きていけるほど世の中甘くない。
戦争の一番の犠牲者である弱者、その中でも、子どもたちにとってはどうすることもできないほどのしわ寄せが身に迫る。
TVで『火垂るの墓』を放送してくれると決まって、泣きながら視聴してしまう。
2011年の10月に神戸を訪れた。
「そして、神戸」の歌のように靴を投げ落としはしなかったものの、阪神淡路大震災からの復興の様子の一部を見届けたが、清太と節子の三宮にも行った。寂びれた神戸の駅とは異なり、賑やかな街だった。
反戦映画の傑作だと断言できるが『火垂るの墓』の清太と節子の兄妹を現実に観ることがないように参議院議員選挙での右寄り勢力の台頭に対し、断固として、憲法の緊急事態条項反対、戦争反対を訴えていきたい。
映画は「年齢や経験によって感じ方が変わる。子どもの頃から中高年になるまで、何度も見る価値が出てくる」とは高畑勲監督の長男耕助さんの父の作品について語っていた一言である。
さらに、山口県下関市の柴口勲さんが、地元の梅光学院の中高生約40人と作った2016年の作品『隣人のゆくえ―あの夏の歌声』空襲で焼け野原となった下関の写真に着想を得た鎮魂のミュージカルだそうな。
毎夏、東京は池袋のシネマ・ロサなどで上映されてきたが、22年に柴口監督が他界。自主配給上映に今夏をもって一区切りすることになった。
「映画は終わってからが始まり」とは柴口監督の弁だと出演者の一人で、俳優福田麗さん(26)が明かす。「新たな何かが生まれる架け橋になれば」と願っていると福田さん。
語り継ぐ戦争で、15年戦争、大東亜戦争、太平洋戦争、アジア太平洋戦争、第二次世界大戦、そして、先の大戦とその呼び名もそれぞれの立場で異なるが、父親が南方の戦地から帰国してから生まれた団塊の世代の一員としては、体験がない分、本や映画で学んだ戦争の実相について書いてきた。
本は五味川純平『人間の條件』(三一書房)からの影響とこの原作がTVドラマ化され、映画化されている作品からも大いに影響を受けている。
『火垂るの墓』は野坂昭如の原作は無論買い求めて読んでいるが、アニメーション映画には心を激しく揺さぶられた。
学生時代はカネがなく、社会人になって、少しばかり経済的に余裕ができ、映画を観ることもできるようになったが、50代半ばを前に、病気治療を理由に退職して自由を手に入れてから、月に一度の映画館行きということで、ドキュメンタリー作品など娯楽映画ではない作品を中心に観てきた。
招待で映画を観ているわけではないので、シニアとか夫婦50割だったかで観られるようになって金銭的にも有り難かった。
『火垂るの墓』の兄の清太と妹の節子のことは自分の心の中では物語の人物ではなくなり、毎日、書き続け、発信している中でも実在の人物の如くよく登場している。
戦争で親を亡くした子どもが生きていけるほど世の中甘くない。
戦争の一番の犠牲者である弱者、その中でも、子どもたちにとってはどうすることもできないほどのしわ寄せが身に迫る。
TVで『火垂るの墓』を放送してくれると決まって、泣きながら視聴してしまう。
2011年の10月に神戸を訪れた。
「そして、神戸」の歌のように靴を投げ落としはしなかったものの、阪神淡路大震災からの復興の様子の一部を見届けたが、清太と節子の三宮にも行った。寂びれた神戸の駅とは異なり、賑やかな街だった。
反戦映画の傑作だと断言できるが『火垂るの墓』の清太と節子の兄妹を現実に観ることがないように参議院議員選挙での右寄り勢力の台頭に対し、断固として、憲法の緊急事態条項反対、戦争反対を訴えていきたい。
2025年07月29日
戦争花嫁「愛と辛抱」差別乗り越え
終戦後に占領軍の兵士らと結婚して米国へ渡り、「戦争花嫁」と呼ばれた日本人女性の半生を描く舞台「WAR BRIDE」が8月5日から東京大手町のよみうり大手町ホールで上演される。偏見や差別を乗り越え、両国の懸け橋として生きた戦後80年、主人公のモデルとなった桂子・ハーンさん(94)(オハイオ州在住)が読売新聞のインタビューに応じた。と7月25日の読売(真崎隆文記者)が夕刊で伝えている。
横浜市出身の桂子さんは1948年に女学校を卒業し、米軍基地「キャンプ座間」で事務員として働いていたとき、後に夫となるフランクさん(2006年に77歳で死去)と出会った。
「愛と辛抱」がなければ生きていけなかった」と周囲からの差別を乗り越えたことを明かす。
米国に帰化する面談で、「もう一度米国と日本が戦争になったら日本と戦うか」と問われ、「イエス」と答えるしかなかったが、その時、「二度と日米間で戦争が起きないように、両方の国の人から誇りに思ってもらえる女性になりたい」と心に決めたそうな。
共立女子学園の植木武名誉教授によれば、米国では戦前から日本人の移住が禁止されていたが、1947年に軍人と結婚した日本人女性の入国を特例的に認める「戦争花嫁法」が施行されたことなどで4万〜5万人が海を渡ったと推測されている。
その多くが厳しい人種差別にさらされた。米兵相手の娼婦と混同され、明治・大正期に渡米した日系人社会からも蔑まれた。
戦争といえば、勝者と敗者の間で繰り広げられた女性への性暴力、性被害の問題を考えなくてはならない。
例えば、戊辰戦争で薩長軍などが会津の女性たちに加えた性暴力は、2018年に戊辰150年経っても会津と長州の和解は成立していないことにつながっている。
勝者の兵士たちが敗者の女性たちに襲いかかり、性暴力を加え、生憎妊娠してしまった女性が肌の色が黒い子ども産み、差別されてきたことは、特攻隊の知覧にある旅館での占領軍兵士による性暴力事件で語り継がれている。
性暴力の被害が原因となったり、食べるためであったりで敵国だった米兵に春を鬻いだ女性たちのことを「パンパン」と蔑み、差別したのは同じ日本人だった。
敗戦で働く場がなかった女性たちが生きるため仕事を求めた米軍基地で 仕事にありつき、米兵と親しくなり、オンリーなどと呼ばれていたこともあった。
戦争花嫁といえば、1950年の朝鮮戦争でも米兵と結婚した朝鮮半島出身女性が軍人の妻となって、70年代、自分が学生時代アルバイトした米軍キャンプの米軍関係者のアパートで見かけた。
桂子さんのようにキャンプ座間で事務員として働き、米兵と出会い、結婚して米国に渡った女性は幸せな人たちである。
小学生の頃、同じ分校に通った同級生の女子が本校に移った4年生の時だったか亡くなった。
彼女の家は子だくさんで周辺でも一番の貧乏で、長姉があるとき、黒人を家に連れてきた。
長姉と次の姉もまた米軍基地で働いていたとのことで、二人とも相手は黒人だったが、一緒に実家に相手を連れて来たのかは覚えてはいない。
小学生の時見た光景を今でも覚えているのは黒人を見たのはその時初めてだったからだ。
姉二人はそのまま、米国に渡ったと風の便りに聞いたが、その後のことはわからない。
米軍基地の街沖縄。米兵との間で子をもうけながら、離婚や帰国で置き去りにされる女性が後を絶たない。元米軍法務官で弁護士のアネット・キャラゲインさんはそんな女性たちの養育費請求を支援してきた女性たちの味方だ。
うまく結婚できた人はよいが、GIベイビーと呼ばれる子どもが生まれて、事情があって亡くなり葬られたとされるのがJR山手駅にある根岸外国人墓地である。
2024年3月31日に墓地を訪れ、経を唱える代わりに尺八を吹いて手を合わせてきた。
戦争前夜とまで呼ばれている昨今、とにかく、石破首相に頑張ってもらい、米国の戦争に巻き込まれないように願うばかりである。
横浜市出身の桂子さんは1948年に女学校を卒業し、米軍基地「キャンプ座間」で事務員として働いていたとき、後に夫となるフランクさん(2006年に77歳で死去)と出会った。
「愛と辛抱」がなければ生きていけなかった」と周囲からの差別を乗り越えたことを明かす。
米国に帰化する面談で、「もう一度米国と日本が戦争になったら日本と戦うか」と問われ、「イエス」と答えるしかなかったが、その時、「二度と日米間で戦争が起きないように、両方の国の人から誇りに思ってもらえる女性になりたい」と心に決めたそうな。
共立女子学園の植木武名誉教授によれば、米国では戦前から日本人の移住が禁止されていたが、1947年に軍人と結婚した日本人女性の入国を特例的に認める「戦争花嫁法」が施行されたことなどで4万〜5万人が海を渡ったと推測されている。
その多くが厳しい人種差別にさらされた。米兵相手の娼婦と混同され、明治・大正期に渡米した日系人社会からも蔑まれた。
戦争といえば、勝者と敗者の間で繰り広げられた女性への性暴力、性被害の問題を考えなくてはならない。
例えば、戊辰戦争で薩長軍などが会津の女性たちに加えた性暴力は、2018年に戊辰150年経っても会津と長州の和解は成立していないことにつながっている。
勝者の兵士たちが敗者の女性たちに襲いかかり、性暴力を加え、生憎妊娠してしまった女性が肌の色が黒い子ども産み、差別されてきたことは、特攻隊の知覧にある旅館での占領軍兵士による性暴力事件で語り継がれている。
性暴力の被害が原因となったり、食べるためであったりで敵国だった米兵に春を鬻いだ女性たちのことを「パンパン」と蔑み、差別したのは同じ日本人だった。
敗戦で働く場がなかった女性たちが生きるため仕事を求めた米軍基地で 仕事にありつき、米兵と親しくなり、オンリーなどと呼ばれていたこともあった。
戦争花嫁といえば、1950年の朝鮮戦争でも米兵と結婚した朝鮮半島出身女性が軍人の妻となって、70年代、自分が学生時代アルバイトした米軍キャンプの米軍関係者のアパートで見かけた。
桂子さんのようにキャンプ座間で事務員として働き、米兵と出会い、結婚して米国に渡った女性は幸せな人たちである。
小学生の頃、同じ分校に通った同級生の女子が本校に移った4年生の時だったか亡くなった。
彼女の家は子だくさんで周辺でも一番の貧乏で、長姉があるとき、黒人を家に連れてきた。
長姉と次の姉もまた米軍基地で働いていたとのことで、二人とも相手は黒人だったが、一緒に実家に相手を連れて来たのかは覚えてはいない。
小学生の時見た光景を今でも覚えているのは黒人を見たのはその時初めてだったからだ。
姉二人はそのまま、米国に渡ったと風の便りに聞いたが、その後のことはわからない。
米軍基地の街沖縄。米兵との間で子をもうけながら、離婚や帰国で置き去りにされる女性が後を絶たない。元米軍法務官で弁護士のアネット・キャラゲインさんはそんな女性たちの養育費請求を支援してきた女性たちの味方だ。
うまく結婚できた人はよいが、GIベイビーと呼ばれる子どもが生まれて、事情があって亡くなり葬られたとされるのがJR山手駅にある根岸外国人墓地である。
2024年3月31日に墓地を訪れ、経を唱える代わりに尺八を吹いて手を合わせてきた。
戦争前夜とまで呼ばれている昨今、とにかく、石破首相に頑張ってもらい、米国の戦争に巻き込まれないように願うばかりである。
2025年07月27日
南方での抑留
7月27日のNHKマイ朝ラジオ著者からの手紙で『南方抑留―日本軍兵士もう一つの悲劇』の著者、作家林英一さんに語られることが少なかった南方での日本兵の抑留について聴いていた。
戦後になって、満州などからソ連軍によってシベリアに強制抑留された北方抑留はよく知られているが、南方での日本兵の抑留についてよく知られていないのは、資料が少ないことが挙げられる。
日本軍は敗戦で、幹部がその責任を問われることを恐れ、関係書類を焼却処分したし、兵士が収容所で書いていた日記などは没収されたことが大きい。
さらに、日本兵には3年半に渡って現地を支配した加害者としての負い目があったことも語られることが少なかったのではないか。
資料が少ない中で、連合軍が没収した兵士の日記に着目した。
戦後、書かれた回想録と異なり、日記は帰国できるかどうかさえ不明な抑留中に書かれたことから、兵士の実相が記録されていたからだ。
抑留中のこととして、食事量が少ないので、飢餓の問題がまず挙げられていること。
シベリア抑留でも同じことがいえるが、抑留する側が日本兵を管理するために、旧軍組織、階級を利用したため、戦争が終わって収容所にいるにもかかわらず、旧軍の階級制度が存続されていたことへの疑問を挙げていた。
一番大きいのは、日本軍の将校などは、東南アジア地域での加害者としての日本兵として、負い目を強く意識していたことが特筆される。
首都圏の田舎町に生まれ育ち、今でこそ街は宅造、住宅建築が進み様変わりした。
小学校は3年生まで近くの分校に行き、4年生から少し離れた本校に通い、ここで、学校給食を始めて食べた。
6年生の頃だったと記憶するが、映画館など駅の近くまで行かないとなかったが、近所の寺の境内でだれが企画、上映してくれたのか不明であるが、観た映画がある。
加藤大介の『南の島に雪が降る』という作品で、あれから60有余年経っても覚えているくらいだから、よほどインパクトがあったのであろう。
飢餓とマラリアに苦しむニューギニアで、兵士の生きる希望と士気高揚のため、自らの役者としての経験を活かし、故郷日本に降る雪を舞台道具に芝居を見せ、兵士たちを元気づけるのだ。
さて、語り継ぐ戦争だから、アジア太平洋戦争に関し、加害者、被害者両者の立場から、学んだことを取り上げてきた中で、シベリア抑留に関しては、かなり力を入れて書いてきたので、戦後生まれとしては詳しく知っていると自負している。
何しろ、毎朝、ロシア製法の黒パンを秋田の大館から取り寄せて食し、シベリア抑留のことを忘れないようにしているくらいだから意識は高い。
ところが、南方での収容所での抑留生活については、詳しいことは知らなかった。
収容所でシベリア抑留をしたソ連と南方での抑留体験者には大きく異なるのは、ソ連共産主義で日本軍兵士たちを洗脳する教育が行われたこと。
ソ連に洗脳され、収容所で威張っていた抑留者が帰国する船の中でどうなったか。考えてみればわかるだろう。
南方では植民地化していた欧米各国と独立を目指している勢力との戦いで両者が日本兵を戦力として考えていたことも特筆される。
7月17日の新潮社フォーサイトで「南方抑留の悲劇」はなぜ隠されてきたのか?「シベリア抑留」との決定的な違い|吉田裕×林英一 戦後80年特別対談が行われている。
吉田さんは『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』の著者だから、大変参考になった。
シベリア抑留は、日本人抑留者の立場からみれば、被害者だと断言してもいいくらいの酷い話である。
南方抑留は、アジア太平洋戦争の戦線拡大でおよそ3年半くらいは侵略者として、現地住民には酷いことをしてきた立場であり、抑留においては被害者でもある。
残留日本兵として、欧米の植民地からの独立運動を助けたた人たちがいたが、収容所で抑留生活を送ったのはシベリアが長い人で11年、南方では2年程度だから、そもそも比較にもならない。
戦争における、加害被害両面から考える必要があるのが南方抑留である。
戦後になって、満州などからソ連軍によってシベリアに強制抑留された北方抑留はよく知られているが、南方での日本兵の抑留についてよく知られていないのは、資料が少ないことが挙げられる。
日本軍は敗戦で、幹部がその責任を問われることを恐れ、関係書類を焼却処分したし、兵士が収容所で書いていた日記などは没収されたことが大きい。
さらに、日本兵には3年半に渡って現地を支配した加害者としての負い目があったことも語られることが少なかったのではないか。
資料が少ない中で、連合軍が没収した兵士の日記に着目した。
戦後、書かれた回想録と異なり、日記は帰国できるかどうかさえ不明な抑留中に書かれたことから、兵士の実相が記録されていたからだ。
抑留中のこととして、食事量が少ないので、飢餓の問題がまず挙げられていること。
シベリア抑留でも同じことがいえるが、抑留する側が日本兵を管理するために、旧軍組織、階級を利用したため、戦争が終わって収容所にいるにもかかわらず、旧軍の階級制度が存続されていたことへの疑問を挙げていた。
一番大きいのは、日本軍の将校などは、東南アジア地域での加害者としての日本兵として、負い目を強く意識していたことが特筆される。
首都圏の田舎町に生まれ育ち、今でこそ街は宅造、住宅建築が進み様変わりした。
小学校は3年生まで近くの分校に行き、4年生から少し離れた本校に通い、ここで、学校給食を始めて食べた。
6年生の頃だったと記憶するが、映画館など駅の近くまで行かないとなかったが、近所の寺の境内でだれが企画、上映してくれたのか不明であるが、観た映画がある。
加藤大介の『南の島に雪が降る』という作品で、あれから60有余年経っても覚えているくらいだから、よほどインパクトがあったのであろう。
飢餓とマラリアに苦しむニューギニアで、兵士の生きる希望と士気高揚のため、自らの役者としての経験を活かし、故郷日本に降る雪を舞台道具に芝居を見せ、兵士たちを元気づけるのだ。
さて、語り継ぐ戦争だから、アジア太平洋戦争に関し、加害者、被害者両者の立場から、学んだことを取り上げてきた中で、シベリア抑留に関しては、かなり力を入れて書いてきたので、戦後生まれとしては詳しく知っていると自負している。
何しろ、毎朝、ロシア製法の黒パンを秋田の大館から取り寄せて食し、シベリア抑留のことを忘れないようにしているくらいだから意識は高い。
ところが、南方での収容所での抑留生活については、詳しいことは知らなかった。
収容所でシベリア抑留をしたソ連と南方での抑留体験者には大きく異なるのは、ソ連共産主義で日本軍兵士たちを洗脳する教育が行われたこと。
ソ連に洗脳され、収容所で威張っていた抑留者が帰国する船の中でどうなったか。考えてみればわかるだろう。
南方では植民地化していた欧米各国と独立を目指している勢力との戦いで両者が日本兵を戦力として考えていたことも特筆される。
7月17日の新潮社フォーサイトで「南方抑留の悲劇」はなぜ隠されてきたのか?「シベリア抑留」との決定的な違い|吉田裕×林英一 戦後80年特別対談が行われている。
吉田さんは『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』の著者だから、大変参考になった。
シベリア抑留は、日本人抑留者の立場からみれば、被害者だと断言してもいいくらいの酷い話である。
南方抑留は、アジア太平洋戦争の戦線拡大でおよそ3年半くらいは侵略者として、現地住民には酷いことをしてきた立場であり、抑留においては被害者でもある。
残留日本兵として、欧米の植民地からの独立運動を助けたた人たちがいたが、収容所で抑留生活を送ったのはシベリアが長い人で11年、南方では2年程度だから、そもそも比較にもならない。
戦争における、加害被害両面から考える必要があるのが南方抑留である。
2025年07月25日
戦意高揚を目的に国策紙芝居「感想録」調査企画展
軍部や政府の意向を受け、1939年頃から終戦にかけて少なくとも数百種類、数十万部が刊行され、全国に普及した国策紙芝居。
戦争協力や節約、銃後の心構えなどを説き、町内会や国民学校などで上演された。
戦後に大半が処分されたとみられるが、神奈川大非文学資料研究センターは各地に残る紙芝居を収集し、調査・研究した成果をまとめた企画展が開催中だ。若い世代が現代の視点で戦争について考える場を提供している。と7月22日の読売(古沢由紀子編集委員)が伝えている。
2024年の8月下旬、「国策紙芝居」について、地域での上演の状況や観衆の反応を記録した「感想録」が、香川県坂出市の博物館で見つかった。と調査・研究していた神奈川大非文学資料研究センターが発表したことについて書いている。
手頃な紙芝居まで使って、国家権力や軍隊がどのように市民を洗脳、プロパガンダしていくか、その危険性について警鐘を鳴らしたが、7月の参議院議員選挙で国民主権ではなく天皇主権国家、個人の人権は国家によって制限される国家主義の政党が自民党支持者と政党の実態を詳しく知らない若い人達の支持で台頭し、戦争に反対するための語り継ぐ戦争の立場から、危機感を覚えた。
戦後80年、昭和百年で語り継ぐ戦争に力を入れている読売社会部に対し、自公政権の機関紙化しているような政治部が石破首相の退陣という世論操作のようなニュースを流している。
石破首相は防衛問題に最も詳しい政治家の一人で、米国の戦争のお先棒担ぎのような集団的自衛権行使容認の安保法制を進めた絶対的権力者かつ反日反社の旧統一教会とズブズブの関係だった元首相とは異なり、米国の戦争に巻き込まれてはならないという考えを持っていると見て安心していた。
参議院議員選挙で、非戦というか、反戦の政治家としてれいわ新選組から毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんが当選し、親しい間柄だという石破首相と日米地位協定の改定などを協議してくれると期待していたので、石破首相には今、退陣してもらっては困る。
ここにきて、日本の政治家がずいぶん右寄りばかりになってしまい、中国が台湾に侵攻したら、米軍の代わりに自衛隊を出動させ、日中戦争が始まってしまいそうで恐怖を感じないわけにはいかない。
中国は米国とは直接戦争をするつもりはないはずだが、日本を攻撃対象として、滅茶苦茶にされそうだ。
今の時代背景を先に書いたが、アジア太平洋戦争では5・15、2・26という軍事クーデターを分岐点に武器を所持している軍人には逆らえない空気が蔓延し、新聞なども迎合し、戦時体制に突入していく。
治安維持法で、特高警察が跋扈し、戦争に反対する者を逮捕し、小林多喜二のように取り調べで虐殺したのである。
その上で、民意をコントロールするかのように国策紙芝居まで作り、戦意を高揚させるという世論操作というか、戦争に反対できないように仕向けた。
神奈川大非文学資料研究センターがやろうとしていることは、この点からも高く評価できる大学ならではの業績である。
とにかく、戦争前夜のような日本で、メディアが言論の自由を捨て、表現の自由を無視し、政権に批判的な人物をTVに出演させないようにしていることからも、洗脳というか、権力のプロパガンダに従っていてはならない。
何としても、戦争にならないようにという意識を一人でも多くの市民と共有する必要がある。
戦争協力や節約、銃後の心構えなどを説き、町内会や国民学校などで上演された。
戦後に大半が処分されたとみられるが、神奈川大非文学資料研究センターは各地に残る紙芝居を収集し、調査・研究した成果をまとめた企画展が開催中だ。若い世代が現代の視点で戦争について考える場を提供している。と7月22日の読売(古沢由紀子編集委員)が伝えている。
2024年の8月下旬、「国策紙芝居」について、地域での上演の状況や観衆の反応を記録した「感想録」が、香川県坂出市の博物館で見つかった。と調査・研究していた神奈川大非文学資料研究センターが発表したことについて書いている。
手頃な紙芝居まで使って、国家権力や軍隊がどのように市民を洗脳、プロパガンダしていくか、その危険性について警鐘を鳴らしたが、7月の参議院議員選挙で国民主権ではなく天皇主権国家、個人の人権は国家によって制限される国家主義の政党が自民党支持者と政党の実態を詳しく知らない若い人達の支持で台頭し、戦争に反対するための語り継ぐ戦争の立場から、危機感を覚えた。
戦後80年、昭和百年で語り継ぐ戦争に力を入れている読売社会部に対し、自公政権の機関紙化しているような政治部が石破首相の退陣という世論操作のようなニュースを流している。
石破首相は防衛問題に最も詳しい政治家の一人で、米国の戦争のお先棒担ぎのような集団的自衛権行使容認の安保法制を進めた絶対的権力者かつ反日反社の旧統一教会とズブズブの関係だった元首相とは異なり、米国の戦争に巻き込まれてはならないという考えを持っていると見て安心していた。
参議院議員選挙で、非戦というか、反戦の政治家としてれいわ新選組から毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんが当選し、親しい間柄だという石破首相と日米地位協定の改定などを協議してくれると期待していたので、石破首相には今、退陣してもらっては困る。
ここにきて、日本の政治家がずいぶん右寄りばかりになってしまい、中国が台湾に侵攻したら、米軍の代わりに自衛隊を出動させ、日中戦争が始まってしまいそうで恐怖を感じないわけにはいかない。
中国は米国とは直接戦争をするつもりはないはずだが、日本を攻撃対象として、滅茶苦茶にされそうだ。
今の時代背景を先に書いたが、アジア太平洋戦争では5・15、2・26という軍事クーデターを分岐点に武器を所持している軍人には逆らえない空気が蔓延し、新聞なども迎合し、戦時体制に突入していく。
治安維持法で、特高警察が跋扈し、戦争に反対する者を逮捕し、小林多喜二のように取り調べで虐殺したのである。
その上で、民意をコントロールするかのように国策紙芝居まで作り、戦意を高揚させるという世論操作というか、戦争に反対できないように仕向けた。
神奈川大非文学資料研究センターがやろうとしていることは、この点からも高く評価できる大学ならではの業績である。
とにかく、戦争前夜のような日本で、メディアが言論の自由を捨て、表現の自由を無視し、政権に批判的な人物をTVに出演させないようにしていることからも、洗脳というか、権力のプロパガンダに従っていてはならない。
何としても、戦争にならないようにという意識を一人でも多くの市民と共有する必要がある。
2025年07月23日
井上ひさし「一人だけ生き残った、後ろめたさ」に着目
ETV2000 井上ひさし 原爆を語るということ 第1回
Eテレの膨大なアーカイブスから選りすぐりの番組をリマスターでお届け。今回は2000年8月放送の、ETV2000「井上ひさし 原爆を語るということ 第1回」「なぜ私だけが生き残ったか」 〜庶民の原爆手記を読む〜を放送してくれたことにスタッフにエールをおくりたい。
人種差別の国米国がイエロージャップとバカにしていた日本のヒロシマとナガサキに原爆を投下してから間もなく80年になる。
作家井上ひさしは書かれた作品だけでなく、戦争に反対し、平和の有難みをその行動で教えてくれた。
『十二人の手紙』(中央公論社)『吉里吉里人』上中下(新潮文庫)『一週間』(新潮社)を買い求めて読んでいるくらいだからあまり偉そうなことは書けない。
2004年に公開された黒木和雄監督、宮沢りえ、原田芳雄『父と暮らせば』は、原爆投下後の広島を舞台に、幽霊となった父と生き残った娘の心の交流を描いた作品で、庶民の原爆手記を読み込んだ作家が原爆で自分だけ生き残った後ろめたさを描いていて、心を揺さぶられた。
戦争で自分だけ生き残った特攻隊員も同じく後ろめたさについて語っている。
後ろめたさの心理は罪悪感のようなもので、特攻隊であれば、一緒に死ぬことになっていた特攻隊員が自分だけ生き残っては仲間に申し訳ないという気持ちなのか。
被爆者の多くが原爆投下でそのまま死没したり、少したってから死没しているにもかかわらず自分だけなぜ助かったのかということで罪悪感を抱くということか。
原作者が注視したのは庶民の原爆手記に綴られた後ろめたさであるが、それも、生きていたからこそであり、戦争では日本軍は集団自決、玉砕、特攻などたやすく死を求めているのはどうしてかにも着目しているのではなかろうか。
戦争では、なんとしても生き残らなければダメだということになる。
一人だけでも生き残って命を繋ぐということが大事になってくる
Eテレの膨大なアーカイブスから選りすぐりの番組をリマスターでお届け。今回は2000年8月放送の、ETV2000「井上ひさし 原爆を語るということ 第1回」「なぜ私だけが生き残ったか」 〜庶民の原爆手記を読む〜を放送してくれたことにスタッフにエールをおくりたい。
人種差別の国米国がイエロージャップとバカにしていた日本のヒロシマとナガサキに原爆を投下してから間もなく80年になる。
作家井上ひさしは書かれた作品だけでなく、戦争に反対し、平和の有難みをその行動で教えてくれた。
『十二人の手紙』(中央公論社)『吉里吉里人』上中下(新潮文庫)『一週間』(新潮社)を買い求めて読んでいるくらいだからあまり偉そうなことは書けない。
2004年に公開された黒木和雄監督、宮沢りえ、原田芳雄『父と暮らせば』は、原爆投下後の広島を舞台に、幽霊となった父と生き残った娘の心の交流を描いた作品で、庶民の原爆手記を読み込んだ作家が原爆で自分だけ生き残った後ろめたさを描いていて、心を揺さぶられた。
戦争で自分だけ生き残った特攻隊員も同じく後ろめたさについて語っている。
後ろめたさの心理は罪悪感のようなもので、特攻隊であれば、一緒に死ぬことになっていた特攻隊員が自分だけ生き残っては仲間に申し訳ないという気持ちなのか。
被爆者の多くが原爆投下でそのまま死没したり、少したってから死没しているにもかかわらず自分だけなぜ助かったのかということで罪悪感を抱くということか。
原作者が注視したのは庶民の原爆手記に綴られた後ろめたさであるが、それも、生きていたからこそであり、戦争では日本軍は集団自決、玉砕、特攻などたやすく死を求めているのはどうしてかにも着目しているのではなかろうか。
戦争では、なんとしても生き残らなければダメだということになる。
一人だけでも生き残って命を繋ぐということが大事になってくる
2025年07月22日
舞鶴空襲 海軍工廠に動員されていた学徒に犠牲者
1945年7月29日、京都府舞鶴市の舞鶴海軍工廠に米軍機が長崎型原爆の模擬弾を投下し、動員されていた学徒19人と教師1人を含む97人が犠牲となった。 翌30日にも、舞鶴港に停泊中の艦船が攻撃を受けた。 この2日間で約200人が死亡した。 工廠跡を見下ろす共楽公園には2014年に慰霊碑が建立され、毎年7月29日に慰霊祭が開かれている。とメディアが伝えている。
2024年7月30日の読売が戦後79年の慰霊祭の様子を伝えていたが、空襲体験者は高齢となり、慰霊祭への出席はならなかった由。
総務省の一般戦災死没者の追悼によれば、犠牲となった学徒、教師の所属は次のとおり
京都師範学校、京都市立洛北実務女学校、京都市立第二商業学校それぞれの故人名、そして京都府立舞鶴第二高等女学校教諭の故人名が刻まれている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で舞鶴を訪れたのは2013年の10月下旬のことだった。
満州やシベリア抑留者の引揚港として知られている舞鶴には引揚記念館があり、引き揚げのことを知るためでもあった。
満州からの引き揚げ、シベリア抑留からの帰国に関する資料が豊富なのはここと新宿にある平和祈念展示資料館であるが、同じく、引き揚げ港として知られる博多と佐世保にも資料館があるらしいのだが、行きそびれたままであるのが残念でならない。
海軍工廠が狙われ、勤労動員された学徒に犠牲者が出て、2014年に慰霊碑が建立されたことになっている。
2013年に訪れた時、海軍工廠への空襲の話はよく知らなかった。
戦争における空襲、空爆となれば、まず、軍需工場が標的になるのはごく当たり前のことになる。
軍港だった横須賀では、その軍港と軍艦長門が標的にされた。
軍都だったヒロシマには原爆が投下され、南方の戦地から帰国した父親が宇品港に着き、原爆投下後の街の様子を鉄道の車中で目撃しているはずなのである。
軍需工場や軍の関係施設には学徒が勤労動員されていたから、空襲、空爆では彼らに多くの犠牲者が出ている。
2014年になって、慰霊碑が建立されたが、2024年の慰霊祭には体験者が参加できなくなっており、このままでは慰霊祭も行うことができなくなりそうだということを耳にしたくらいだ。
それでも、舞鶴海軍工廠への米軍の空襲、空爆で犠牲となった勤労学徒の名前が刻まれた慰霊碑は戦争を語り継ぐことができるので、舞鶴市は、維持管理をしっかり受け継いでもらいたい。
2024年7月30日の読売が戦後79年の慰霊祭の様子を伝えていたが、空襲体験者は高齢となり、慰霊祭への出席はならなかった由。
総務省の一般戦災死没者の追悼によれば、犠牲となった学徒、教師の所属は次のとおり
京都師範学校、京都市立洛北実務女学校、京都市立第二商業学校それぞれの故人名、そして京都府立舞鶴第二高等女学校教諭の故人名が刻まれている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で舞鶴を訪れたのは2013年の10月下旬のことだった。
満州やシベリア抑留者の引揚港として知られている舞鶴には引揚記念館があり、引き揚げのことを知るためでもあった。
満州からの引き揚げ、シベリア抑留からの帰国に関する資料が豊富なのはここと新宿にある平和祈念展示資料館であるが、同じく、引き揚げ港として知られる博多と佐世保にも資料館があるらしいのだが、行きそびれたままであるのが残念でならない。
海軍工廠が狙われ、勤労動員された学徒に犠牲者が出て、2014年に慰霊碑が建立されたことになっている。
2013年に訪れた時、海軍工廠への空襲の話はよく知らなかった。
戦争における空襲、空爆となれば、まず、軍需工場が標的になるのはごく当たり前のことになる。
軍港だった横須賀では、その軍港と軍艦長門が標的にされた。
軍都だったヒロシマには原爆が投下され、南方の戦地から帰国した父親が宇品港に着き、原爆投下後の街の様子を鉄道の車中で目撃しているはずなのである。
軍需工場や軍の関係施設には学徒が勤労動員されていたから、空襲、空爆では彼らに多くの犠牲者が出ている。
2014年になって、慰霊碑が建立されたが、2024年の慰霊祭には体験者が参加できなくなっており、このままでは慰霊祭も行うことができなくなりそうだということを耳にしたくらいだ。
それでも、舞鶴海軍工廠への米軍の空襲、空爆で犠牲となった勤労学徒の名前が刻まれた慰霊碑は戦争を語り継ぐことができるので、舞鶴市は、維持管理をしっかり受け継いでもらいたい。
2025年07月21日
戦争の「本質的な誤り、矛盾やごまかしに気づき、残す」
太平洋戦争の終結から8月で80年となるのを前に、16日、東京 世田谷区で、平和の大切さについて考えるシンポジウムが開かれ、昭和史の研究で知られるノンフィクション作家の保阪正康さんが「戦争の矛盾やごまかしに気付き次の世代に残すことが大切だ」と訴えた。とメディアが伝えている。
7月16日のNHKNEWSWEBによれば、「日本では指導者が責任を逃れようと資料を燃やしたため、戦争犠牲者の年代や学徒動員の本当の理由などが分からず、戦後処理もあいまいなままとなっている。きちんと検証し、見えるようにすることが次の世代への継承につながる」と基調講演で保坂さんが述べた。
そのうえで「この戦争が何であったのか、本質的な誤りは何だったのか、調べれば調べるほど矛盾やごまかしに気付く。それを何年かけてでも明らかにし、次の世代に隠すことは歴史的に許されないと伝えていかなければいけない。戦後80年、昭和100年という節目はそのきっかけのひとつだ」と語った。
語り継ぐ戦争で半藤一利さんと保坂正康さんを勝手ながらわが師と仰いでいる。
アジア太平洋戦争で敗北するのが分かっていながら、なかなか降参しなかったのは、日本の指導者が責任を逃れようとしていたからだ。
戦争責任についても、東京裁判でA級戦犯となったものが靖国神社に合祀されているように戦争責任の追及がなされてこなかった。
戦争の矛盾やごまかしということで取り上げるなら、加害と被害の両方の立場から検証することが欠かせない。
先般、観てきた『黒川の女たち』では。満蒙開拓に関して、A級戦犯だった岸信介元首相が深くかかわっていることが描かれていた。
黒川開拓団が満州に渡った時、中国の人たちが開拓開墾した土地を事実上取り上げたことで恨みを買い、敗色濃厚となってから、仕返しされたということを黒川開拓団の人たちは認識していた。
関東軍の男たちが現地の女性たちに酷いことをし、日本兵の服装が現地の人々に恐れられていたことも明らかにされていた。
1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻で、ソ連兵による略奪、性的暴行に現地の人々も加わり、満蒙開拓団員たちは集団自決に追い込まれていく。
何とか助かる方法はないかと考えた黒川開拓団の幹部は、ソ連軍の将校たちに助けを求め、開拓団の娘たち15人が性接待、性奴隷として差し出された。その期間は2か月にも及ぶ。
梅毒や淋病、発疹チフスなどで4人の娘たちが死亡したが、開拓団は無事帰国を果たした。
満蒙開拓団だけを例にしても、開拓開墾された土地を事実上取り上げたわけで、自らの手で開拓したわけではないという加害者の面と敗色濃厚となってから関東軍に見捨てられ、略奪、性暴力から逃げ惑う被害者の面とあるわけだ。
兵站が米軍の攻撃と幹部たちの甘い見通しで、飢餓に苦しんだ兵士たちの骸で白骨街道と呼ばれたインパール作戦。餓島と呼ばれたガダルカナルの戦いなど兵士が飢えているとき、大本営の戦争指導部は仕出しの弁当を食していたと耳にしたことがある。
特攻作戦と称し、若い人を強制的に死なせておきながら、命令した側は戦後も生き永らえた事実。
とにかく、戦争になると敗戦国の女性は勝者の戦利品のような扱いを受けることになるのは会津戦争、戊辰戦争の時から全く変わっていないことは、ロシアの兵隊にウクライナの女性が性的暴行されたことが伝えられたことで証明されている。
だから、戦争はやってはいけないのだ。
7月16日のNHKNEWSWEBによれば、「日本では指導者が責任を逃れようと資料を燃やしたため、戦争犠牲者の年代や学徒動員の本当の理由などが分からず、戦後処理もあいまいなままとなっている。きちんと検証し、見えるようにすることが次の世代への継承につながる」と基調講演で保坂さんが述べた。
そのうえで「この戦争が何であったのか、本質的な誤りは何だったのか、調べれば調べるほど矛盾やごまかしに気付く。それを何年かけてでも明らかにし、次の世代に隠すことは歴史的に許されないと伝えていかなければいけない。戦後80年、昭和100年という節目はそのきっかけのひとつだ」と語った。
語り継ぐ戦争で半藤一利さんと保坂正康さんを勝手ながらわが師と仰いでいる。
アジア太平洋戦争で敗北するのが分かっていながら、なかなか降参しなかったのは、日本の指導者が責任を逃れようとしていたからだ。
戦争責任についても、東京裁判でA級戦犯となったものが靖国神社に合祀されているように戦争責任の追及がなされてこなかった。
戦争の矛盾やごまかしということで取り上げるなら、加害と被害の両方の立場から検証することが欠かせない。
先般、観てきた『黒川の女たち』では。満蒙開拓に関して、A級戦犯だった岸信介元首相が深くかかわっていることが描かれていた。
黒川開拓団が満州に渡った時、中国の人たちが開拓開墾した土地を事実上取り上げたことで恨みを買い、敗色濃厚となってから、仕返しされたということを黒川開拓団の人たちは認識していた。
関東軍の男たちが現地の女性たちに酷いことをし、日本兵の服装が現地の人々に恐れられていたことも明らかにされていた。
1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻で、ソ連兵による略奪、性的暴行に現地の人々も加わり、満蒙開拓団員たちは集団自決に追い込まれていく。
何とか助かる方法はないかと考えた黒川開拓団の幹部は、ソ連軍の将校たちに助けを求め、開拓団の娘たち15人が性接待、性奴隷として差し出された。その期間は2か月にも及ぶ。
梅毒や淋病、発疹チフスなどで4人の娘たちが死亡したが、開拓団は無事帰国を果たした。
満蒙開拓団だけを例にしても、開拓開墾された土地を事実上取り上げたわけで、自らの手で開拓したわけではないという加害者の面と敗色濃厚となってから関東軍に見捨てられ、略奪、性暴力から逃げ惑う被害者の面とあるわけだ。
兵站が米軍の攻撃と幹部たちの甘い見通しで、飢餓に苦しんだ兵士たちの骸で白骨街道と呼ばれたインパール作戦。餓島と呼ばれたガダルカナルの戦いなど兵士が飢えているとき、大本営の戦争指導部は仕出しの弁当を食していたと耳にしたことがある。
特攻作戦と称し、若い人を強制的に死なせておきながら、命令した側は戦後も生き永らえた事実。
とにかく、戦争になると敗戦国の女性は勝者の戦利品のような扱いを受けることになるのは会津戦争、戊辰戦争の時から全く変わっていないことは、ロシアの兵隊にウクライナの女性が性的暴行されたことが伝えられたことで証明されている。
だから、戦争はやってはいけないのだ。
2025年07月20日
原爆供養塔の清掃と納骨室の公開
広島市の平和記念公園の一角に、身元不明や引き取り手が見つからない原爆犠牲者約7万人の遺骨を納めた「原爆供養塔」がある。原爆で親族13人を亡くし、自らも被爆した佐伯敏子さん(2017年に97歳で死去)は約40年にわたり、ほぼ毎日、供養塔周辺の清掃を続けた。「広島に歳をとらせないでください」。原爆の記憶を風化させまいと、たった一人で地道な活動を続けた佐伯さんが繰り返し訴えた言葉だ。
5月中旬、夜が明けたばかりの供養塔で、渡部和子さん(81)=同市西区=が供えられた花の水を替えたり、側溝の落ち葉をかき集めたりしていた。1955年の塔建立後、98年に脳梗塞で倒れるまで清掃を続けた佐伯さんの後を継ぎ、02年からほぼ毎朝、自転車で約30分かけて通っている。と5月26日の毎日新聞(武市智菜実記者)のWEBが伝えていた。
原爆投下から80年を前に、広島市は16日、原爆死没者約7万人の遺骨を納めた原爆供養塔の納骨室を10年ぶりに報道陣に公開した。大半の遺骨は身元不明だが、名前が分かっていても遺族が見つからない遺骨812柱も含まれている。市の担当者は「供養塔の存在を広く伝え、遺族捜しにつなげたい」と話している。
平和記念公園(広島市中区)内にある供養塔の地下納骨室は高さ2メートル、広さは約27平方メートル。中央に祭壇があり、両側に設置された棚に、名前が分かっている遺骨は1人ずつ骨つぼに入れられ、身元が分からない遺骨は178個の木箱に入れて安置されている。
供養塔は1955年、市が中心となって整備した。名札などから名前が確認できた遺骨について、市は68年に名簿を作成して公開し、全国の自治体などに送付している。これまでに遺族が判明した遺骨のうち、1002柱は遺族に返還され、623柱は遺族の意向で供養塔に永久安置している。と7月16日の毎日新聞が上述の記事と同様に伝えている。
2009年11月にヒロシマを訪れ、原爆供養塔でお参りし、少し経ってから佐伯さんの清掃の件を知った。堀川惠子『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)で、原爆供養塔を毎日清掃していた佐伯敏子さんのことを紹介していたことは、残念ながら知らなかった。
初めて、訪れたヒロシマでは、まず原爆ドームを見学し、激しく心を揺さぶられた。橋を渡って平和記念公園に行き、オバマ大統領も献花した原爆死没者慰霊碑にお参りし、無縁仏の慰霊碑の前で「手向」を吹くつもりで園内を歩いていたら導かれたように原爆供養塔にたどりついた。
偶々、遊びに来ていた保育園児たちが保育士の先生と一緒に座って聴いてくれたことは生涯忘れられないできごとである。
原爆供養塔でお参りする人はほとんど見かけないが、ヒロシマを訪れたらここだけはお参りしたい場所である。小山のような塚というか土饅頭の下に遺骨がたくさん埋まっているような墓地にいるような気分になった。
納骨室が地下にあるとは知らなかったが、遺骨が納められているなら墓地にいるような感覚は的を射ていたようである。
原爆供養塔を毎日清掃していたという佐伯敏子さん、佐伯さん亡き後、後を継いだ渡辺和子さん、お二人には頭が下がる。
自分の親やご先祖の墓にお参りするには春、秋の彼岸にお盆様、そして命日くらいであるが、毎日、続けるのは至難のことである。
2015年4月にも、ヒロシマを訪れ、原爆供養塔にお参りしているが、確かにゴミなど落ちていなかった。
2025年も、間もなく8月6日がやってくる。
軍都だから、原爆が投下されたとは言うものの、人種差別の国、米国はイエロージャップと日本人を馬鹿にしているから、日系人だけ収容所に隔離している。
原爆を投下した米国との同盟は見直す時機が来ている。
5月中旬、夜が明けたばかりの供養塔で、渡部和子さん(81)=同市西区=が供えられた花の水を替えたり、側溝の落ち葉をかき集めたりしていた。1955年の塔建立後、98年に脳梗塞で倒れるまで清掃を続けた佐伯さんの後を継ぎ、02年からほぼ毎朝、自転車で約30分かけて通っている。と5月26日の毎日新聞(武市智菜実記者)のWEBが伝えていた。
原爆投下から80年を前に、広島市は16日、原爆死没者約7万人の遺骨を納めた原爆供養塔の納骨室を10年ぶりに報道陣に公開した。大半の遺骨は身元不明だが、名前が分かっていても遺族が見つからない遺骨812柱も含まれている。市の担当者は「供養塔の存在を広く伝え、遺族捜しにつなげたい」と話している。
平和記念公園(広島市中区)内にある供養塔の地下納骨室は高さ2メートル、広さは約27平方メートル。中央に祭壇があり、両側に設置された棚に、名前が分かっている遺骨は1人ずつ骨つぼに入れられ、身元が分からない遺骨は178個の木箱に入れて安置されている。
供養塔は1955年、市が中心となって整備した。名札などから名前が確認できた遺骨について、市は68年に名簿を作成して公開し、全国の自治体などに送付している。これまでに遺族が判明した遺骨のうち、1002柱は遺族に返還され、623柱は遺族の意向で供養塔に永久安置している。と7月16日の毎日新聞が上述の記事と同様に伝えている。
2009年11月にヒロシマを訪れ、原爆供養塔でお参りし、少し経ってから佐伯さんの清掃の件を知った。堀川惠子『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)で、原爆供養塔を毎日清掃していた佐伯敏子さんのことを紹介していたことは、残念ながら知らなかった。
初めて、訪れたヒロシマでは、まず原爆ドームを見学し、激しく心を揺さぶられた。橋を渡って平和記念公園に行き、オバマ大統領も献花した原爆死没者慰霊碑にお参りし、無縁仏の慰霊碑の前で「手向」を吹くつもりで園内を歩いていたら導かれたように原爆供養塔にたどりついた。
偶々、遊びに来ていた保育園児たちが保育士の先生と一緒に座って聴いてくれたことは生涯忘れられないできごとである。
原爆供養塔でお参りする人はほとんど見かけないが、ヒロシマを訪れたらここだけはお参りしたい場所である。小山のような塚というか土饅頭の下に遺骨がたくさん埋まっているような墓地にいるような気分になった。
納骨室が地下にあるとは知らなかったが、遺骨が納められているなら墓地にいるような感覚は的を射ていたようである。
原爆供養塔を毎日清掃していたという佐伯敏子さん、佐伯さん亡き後、後を継いだ渡辺和子さん、お二人には頭が下がる。
自分の親やご先祖の墓にお参りするには春、秋の彼岸にお盆様、そして命日くらいであるが、毎日、続けるのは至難のことである。
2015年4月にも、ヒロシマを訪れ、原爆供養塔にお参りしているが、確かにゴミなど落ちていなかった。
2025年も、間もなく8月6日がやってくる。
軍都だから、原爆が投下されたとは言うものの、人種差別の国、米国はイエロージャップと日本人を馬鹿にしているから、日系人だけ収容所に隔離している。
原爆を投下した米国との同盟は見直す時機が来ている。
2025年07月18日
横須賀軍港空襲 「長門」被弾、元勤労学徒証言
1945年7月18日、神奈川県の横須賀軍港に停泊する軍艦を標的にした米軍による横須賀空襲、空爆があった。
14歳で学徒動員された高橋冨美さん(95)(福島県いわき市)は、米軍機の爆撃から逃げ惑い、連合艦隊の象徴とされた軍艦「長門」の無残な姿も目撃した。と戦後80年、昭和百年で戦争を語り継ぐ読売(森太編集委員)が7月12日の夕刊で伝えている。
磐城高等女学校(現福島県立磐城桜ケ丘高校)の3年生282人は44年11月、学徒勤労動員で横須賀海軍工廠に動員された。
岸壁のドッグの真上にあった小屋で働いていた。弁当を食べ終え、午後の作業中に空襲警報が鳴り、地下に避難した時、作業場の近くに爆弾が落ちた。「山の防空壕へ行け」という命令で走り出したとき、人間魚雷「回天」の搭乗員が表れ、背負ってくれた。
夕刻、長門は艦橋などに爆弾が命中。大きく損傷し傾いていた。乗組員を含め、この空襲で40人以上が犠牲になったとされる。
今回取材に応じたのは、戦争を証言する人が少なくなる中で、「伝える責任がある」と子どもたちに言われたからだ。
横須賀といえば、その昔、柏木田遊郭と安浦銘酒屋街があった街として知られる。
花街は軍港、軍都にはつきものである。
柏木田遊郭は作家山口瞳の『血族』の舞台になったことで知っている向きもあるかもしれない。
参議院議員選挙も終盤戦に入っている。
横須賀といえば、昔軍港で戦後はどぶ板通りを米兵が闊歩している街として知られる。
米国の植民地のような戦後の日本の状況から脱しようとするれいわ新選組の元外務省職員三好りょうさんが横須賀市も含む神奈川選挙区から立候補している。
東京の空の制空権を米軍が支配しているのは独立国家としてはおかしなことで、これではまるで植民地であり、真の独立国家たるべく米国と日米安保、日米地位協定、日米合同委員会における不平等を改めようと訴えている。
れいわ新選組には戦争に反対していることで知られる毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんがいて、台湾をめぐる米中の争いで、日本の自衛隊が米軍に代わって派兵させられないこと。ために。米軍の戦争に巻き込まれてはならない。と訴えている平和を愛する人が比例で立候補している。
語り継ぐ戦争で、学習を進めるうちに明らかに反米になったのは、日米安保条約で米軍が日本を守ると、政府自民党が騙していたことがわかったからである。
米国はご都合主義の人種差別の国で、自分のような反米主義の考えを持つ、日本人が自分たちに逆らわないようにするためと、対中、対露、対北朝鮮のために米軍基地を多数日本においているだけである。
ロシアのウクライナ侵攻、侵略で米軍が日本を守らないことが証明されているではないか。
参議院議員選挙では神奈川県民はれいわ新選組の三好りょうさんの訴えに真剣に耳を傾けてもらいたい。
横須賀、厚木、座間そして相模原と米軍基地を抱えている神奈川県民なら、厚木基地の米軍機の騒音がどれほど酷かったか覚えているはずだ。岩国に移転したから問題解決とはならない。
横須賀軍港が空襲空爆され、軍都広島が原爆を投下されたからには米軍基地は標的になる可能性が高い。
米国は同盟国ではないことがトランプ関税で証明された。
14歳で学徒動員された高橋冨美さん(95)(福島県いわき市)は、米軍機の爆撃から逃げ惑い、連合艦隊の象徴とされた軍艦「長門」の無残な姿も目撃した。と戦後80年、昭和百年で戦争を語り継ぐ読売(森太編集委員)が7月12日の夕刊で伝えている。
磐城高等女学校(現福島県立磐城桜ケ丘高校)の3年生282人は44年11月、学徒勤労動員で横須賀海軍工廠に動員された。
岸壁のドッグの真上にあった小屋で働いていた。弁当を食べ終え、午後の作業中に空襲警報が鳴り、地下に避難した時、作業場の近くに爆弾が落ちた。「山の防空壕へ行け」という命令で走り出したとき、人間魚雷「回天」の搭乗員が表れ、背負ってくれた。
夕刻、長門は艦橋などに爆弾が命中。大きく損傷し傾いていた。乗組員を含め、この空襲で40人以上が犠牲になったとされる。
今回取材に応じたのは、戦争を証言する人が少なくなる中で、「伝える責任がある」と子どもたちに言われたからだ。
横須賀といえば、その昔、柏木田遊郭と安浦銘酒屋街があった街として知られる。
花街は軍港、軍都にはつきものである。
柏木田遊郭は作家山口瞳の『血族』の舞台になったことで知っている向きもあるかもしれない。
参議院議員選挙も終盤戦に入っている。
横須賀といえば、昔軍港で戦後はどぶ板通りを米兵が闊歩している街として知られる。
米国の植民地のような戦後の日本の状況から脱しようとするれいわ新選組の元外務省職員三好りょうさんが横須賀市も含む神奈川選挙区から立候補している。
東京の空の制空権を米軍が支配しているのは独立国家としてはおかしなことで、これではまるで植民地であり、真の独立国家たるべく米国と日米安保、日米地位協定、日米合同委員会における不平等を改めようと訴えている。
れいわ新選組には戦争に反対していることで知られる毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんがいて、台湾をめぐる米中の争いで、日本の自衛隊が米軍に代わって派兵させられないこと。ために。米軍の戦争に巻き込まれてはならない。と訴えている平和を愛する人が比例で立候補している。
語り継ぐ戦争で、学習を進めるうちに明らかに反米になったのは、日米安保条約で米軍が日本を守ると、政府自民党が騙していたことがわかったからである。
米国はご都合主義の人種差別の国で、自分のような反米主義の考えを持つ、日本人が自分たちに逆らわないようにするためと、対中、対露、対北朝鮮のために米軍基地を多数日本においているだけである。
ロシアのウクライナ侵攻、侵略で米軍が日本を守らないことが証明されているではないか。
参議院議員選挙では神奈川県民はれいわ新選組の三好りょうさんの訴えに真剣に耳を傾けてもらいたい。
横須賀、厚木、座間そして相模原と米軍基地を抱えている神奈川県民なら、厚木基地の米軍機の騒音がどれほど酷かったか覚えているはずだ。岩国に移転したから問題解決とはならない。
横須賀軍港が空襲空爆され、軍都広島が原爆を投下されたからには米軍基地は標的になる可能性が高い。
米国は同盟国ではないことがトランプ関税で証明された。
2025年07月17日
『黒川の女たち』
月に一度の映画館行き、7月は松原文枝監督のドキュメンタリー『黒川の女たち』を観てきた。
戦争の性被害を語り継ぐ被害者、満州におけるソ連軍将校に性接待に差し出された黒川村開拓団の15人の乙女たちの封印されそうになった性暴力被害を明らかにした女性たちの物語である。
岐阜県白川町の佐久良太神社境内に1982年に建立された黒川村開拓団の慰霊碑「乙女の碑」がある。
満州に渡った黒川村開拓団が1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻で、ソ連兵や満人から略奪や性暴力を受け、このままでは、集団自決かという時、開拓団の幹部がソ連軍将校に開拓団を守ってくれるように交渉し、18歳以上の未婚の娘たち15人が性接待として差し出された。その期間は2か月に及ぶ。
女性たち15人のうち、4人が梅毒や淋病、発疹チフスなどの感染症で亡くなった。
開拓団は女性たちの犠牲のお陰で引き揚げてきたが、戦後70年以上性接待の事実は明らかにされなかった。
2013年に信州は阿智村にある満蒙開拓平和記念館で被害者の女性二人が性接待の事実を明らかにし、衝撃を与えた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、2008年から全国の慰霊碑を周っていたが、戦争で自由を奪われた人たちとして性被害者の存在に気づき、満州でソ連兵などから性暴力を受け、生憎妊娠してしまった女性が引き揚げ後、博多や佐世保などで妊娠中絶手術を受けたことを知り、2009年に手術を受けた二日市の保養所の跡地を訪れていた。
YouTubeなどで満蒙開拓平和祈念館で性接待の事実を証言した勇気ある女性安江善子さん、佐藤ハルエさんのことを知り、2018年9月19日、前年の台風だったかで運転に支障を来たしていた高山本線が復旧したことを確認し、白川町の駅からタクシーで乙女の碑を訪れ、お参りしたのである。
驚いていたのはタクシーのドライバーで、乙女の碑の詳しいことは知らない様子だった。
性接待の事実を書き、犠牲となった女性のお陰で開拓団が引き揚げて来られた事実を書いた碑文がこの年の11月18日に除幕式が行われるとはこの時は知る由もなかった。
阿智村の満蒙開拓平和記念館にも、この年の6月22日に訪れている。
首都圏の田舎町に生まれ育ち、自宅からどこにも住所を引っ越すことなく生きてきた自分にとって、満蒙開拓団は全く無縁の存在である。
アジア太平洋戦争に関心を向ける大きなきっかけとなったのは、何回となく書いている五味川純平『人間の條件』(三一書房)。主人公の梶を加藤剛が演じたTVドラマで視聴したことが大きい。
後に、梶を仲代達也が演じた映画をオールナイトで観ているが、中学生の時だったか視聴したTVドラマで、満蒙開拓団やシベリヤ抑留のことを知ったことが今日の自分に大きな影響を与えている。
二日市保養所のことは、上坪隆『水子の譜 引き揚げ孤児と女たち』(現代史出版会)を読んで大いに影響を受けた。
映画の内容は事前に学習しているから承知はしていたが、映像化してくれたお陰で歴史に刻まれた戦争の悲劇が広く伝わってよかった。
保守派、右翼と呼ばれている勢力には、不都合な真実として、歴史を捻じ曲げようとする向きがある。
ソ連が日本の敵であることは間違いないし、その後継であるロシアも無論敵になるが、だからと言って、戦争を再びしてもらっては困る。
長い年月をかけて、お互いの過去を謝罪しつつ、前向きに生きて行かなければ、戦争で犠牲となった人たちに申し訳ない。
満蒙開拓団遺族会の会長が、性接待に差し出された女性たちのことを史実として、碑文に残す決断をされたことを高く評価したい。
最後に、初めてこの事実を知った時、自分が開拓団の団長であったなら、誰かを犠牲にするということが大嫌いなため、集団自決の道を選択してしまったはず。
しかし、映画を観て、命を繋ぐ、女性たちの勇気があったからこそ、次世代に戦争を語り継げることを考え、た結果、集団自決しなくてよかったと今は思い直している。
アジア太平洋戦争における性被害、特に、満州や朝鮮半島などでの目撃証言はいくらでもあるが、被害者が名乗り出た例はほとんどない。それだけに、黒川の女たちの勇気を称えたい。
戦争の性被害を語り継ぐ被害者、満州におけるソ連軍将校に性接待に差し出された黒川村開拓団の15人の乙女たちの封印されそうになった性暴力被害を明らかにした女性たちの物語である。
岐阜県白川町の佐久良太神社境内に1982年に建立された黒川村開拓団の慰霊碑「乙女の碑」がある。
満州に渡った黒川村開拓団が1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻で、ソ連兵や満人から略奪や性暴力を受け、このままでは、集団自決かという時、開拓団の幹部がソ連軍将校に開拓団を守ってくれるように交渉し、18歳以上の未婚の娘たち15人が性接待として差し出された。その期間は2か月に及ぶ。
女性たち15人のうち、4人が梅毒や淋病、発疹チフスなどの感染症で亡くなった。
開拓団は女性たちの犠牲のお陰で引き揚げてきたが、戦後70年以上性接待の事実は明らかにされなかった。
2013年に信州は阿智村にある満蒙開拓平和記念館で被害者の女性二人が性接待の事実を明らかにし、衝撃を与えた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、2008年から全国の慰霊碑を周っていたが、戦争で自由を奪われた人たちとして性被害者の存在に気づき、満州でソ連兵などから性暴力を受け、生憎妊娠してしまった女性が引き揚げ後、博多や佐世保などで妊娠中絶手術を受けたことを知り、2009年に手術を受けた二日市の保養所の跡地を訪れていた。
YouTubeなどで満蒙開拓平和祈念館で性接待の事実を証言した勇気ある女性安江善子さん、佐藤ハルエさんのことを知り、2018年9月19日、前年の台風だったかで運転に支障を来たしていた高山本線が復旧したことを確認し、白川町の駅からタクシーで乙女の碑を訪れ、お参りしたのである。
驚いていたのはタクシーのドライバーで、乙女の碑の詳しいことは知らない様子だった。
性接待の事実を書き、犠牲となった女性のお陰で開拓団が引き揚げて来られた事実を書いた碑文がこの年の11月18日に除幕式が行われるとはこの時は知る由もなかった。
阿智村の満蒙開拓平和記念館にも、この年の6月22日に訪れている。
首都圏の田舎町に生まれ育ち、自宅からどこにも住所を引っ越すことなく生きてきた自分にとって、満蒙開拓団は全く無縁の存在である。
アジア太平洋戦争に関心を向ける大きなきっかけとなったのは、何回となく書いている五味川純平『人間の條件』(三一書房)。主人公の梶を加藤剛が演じたTVドラマで視聴したことが大きい。
後に、梶を仲代達也が演じた映画をオールナイトで観ているが、中学生の時だったか視聴したTVドラマで、満蒙開拓団やシベリヤ抑留のことを知ったことが今日の自分に大きな影響を与えている。
二日市保養所のことは、上坪隆『水子の譜 引き揚げ孤児と女たち』(現代史出版会)を読んで大いに影響を受けた。
映画の内容は事前に学習しているから承知はしていたが、映像化してくれたお陰で歴史に刻まれた戦争の悲劇が広く伝わってよかった。
保守派、右翼と呼ばれている勢力には、不都合な真実として、歴史を捻じ曲げようとする向きがある。
ソ連が日本の敵であることは間違いないし、その後継であるロシアも無論敵になるが、だからと言って、戦争を再びしてもらっては困る。
長い年月をかけて、お互いの過去を謝罪しつつ、前向きに生きて行かなければ、戦争で犠牲となった人たちに申し訳ない。
満蒙開拓団遺族会の会長が、性接待に差し出された女性たちのことを史実として、碑文に残す決断をされたことを高く評価したい。
最後に、初めてこの事実を知った時、自分が開拓団の団長であったなら、誰かを犠牲にするということが大嫌いなため、集団自決の道を選択してしまったはず。
しかし、映画を観て、命を繋ぐ、女性たちの勇気があったからこそ、次世代に戦争を語り継げることを考え、た結果、集団自決しなくてよかったと今は思い直している。
アジア太平洋戦争における性被害、特に、満州や朝鮮半島などでの目撃証言はいくらでもあるが、被害者が名乗り出た例はほとんどない。それだけに、黒川の女たちの勇気を称えたい。
2025年07月15日
戦没者への最大の供養は二度と戦争を起こさないこと
日テレNEWS NNN 「沖縄の激戦地で埋もれたままに…今も続く遺骨収集に密着『every.特集』」を7月15日のWEBでみつけた。
沖縄のガマを掘る遺骨収集の人といえば、ガマフヤーの具志堅隆松さんだと確信しながら動画を視ていたら予想通りだった。
71歳になられたようだが、お元気そうで何よりである。流石にあれからの歳月を思わないわけにはいかない。
具志堅隆松さんは掘り起こした遺骨のDNA鑑定をし、遺族に届けることで、戦没者に報いる活動をされている。
普天間基地の移設で、辺野古の海を埋め立て、米軍基地を新設する計画が沖縄県民の反対を権力で押さえつけて進められている。
その辺野古の海を南部戦跡の遺骨が混じっている土砂で埋め立てることに反対している具志堅さんは国との話し合いの場で、「南部戦跡の土は遺骨が含まれている。米軍に殺された戦没者の遺骨が含まれている土で米軍基地を作るのは死者への冒涜だから使わないで」ということで難しいことを注文しているわけではないと発言し、「適切に対処する」と国側は回答している。
時あたかも参議院議員選挙で、世界の潮流の通り、日本でも右翼の台頭が目立つ。
その筆頭が独裁者をリーダーに日本国憲法を戦前の憲法に戻す。つまり、国民主権から天皇主権の国家主義の国にすることで、人権や自由などあらゆる個人の権利は国家に制限される、市民は国家の奴隷、戦争も辞さないという参政党が支持者を増やしていると伝えられている。
その対極にあるのが山本太郎代表のれいわ新選組で、「生きているだけで価値がある」と個人の人権の尊重、学問、表現などあらゆる自由は尊重され、市民は国家の奴隷ではなく、国家は市民を救済するとし、戦争に反対する。
参議院議員広島選挙区から立候補しているれいわのはんどう大樹弁護士は憲法の専門家として、著書『檻の中のライオン』で、憲法は国民がたえず国家を縛るために、ライオン(国家、政治家)を制御するためにつくりあげた檻である。 檻から出たライオンは自分で檻に戻らない。 集団的自衛権は憲法をないがしろにし、檻を壊すライオン。だとし、動画で憲法がいかに大事かを訴えている。
れいわの京都選挙区から立候補している西郷みなこさんは教育の時は書かなかったけれど、教育の専門家であるが、戦争に対する向き合い方で、原爆をヒロシマに投下した米軍のエノラ・ゲイがテニアン島から飛び立っていることから、子どもを連れてテニアン島に行っていること。
ガマフヤーの具志堅隆松さんのことを知っていて、戦没者の遺骨収集に国がもっと力を入れるようにと訴えていることから、戦争に反対する立場の方で取り上げている。
ガマフヤーの具志堅隆松さんは、「戦没者への最大の供養は二度と戦争をしないことだ」と断言している。
れいわ新選組の毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんは平和主義の人だが、よくよく聴いてみれば、バンザイクリフで知られる玉砕の島サイパンで母親が生き残ったというではないか。
神川選挙区から立候補している三好りょうさんは英語、中国語、ロシア語がしゃべれるということで、関係構築が難しい中露と戦争にならない関係づくりに役立ってもらえそうだ。
特別、何かやってきたということではなく、主婦であったり、農家でコメ作りをしていたり、介護をしていたりと様々な立場から立候補している人がいるのがれいわ新選組である。
覇権競争をしている米中が台湾を巡って、日本を米国の代理戦争に巻き込もうとしている。
何としても、戦争に巻き込まれないようにしなければならない。
だから、戦没者の遺骨収集に注目する必要がある。
沖縄のガマを掘る遺骨収集の人といえば、ガマフヤーの具志堅隆松さんだと確信しながら動画を視ていたら予想通りだった。
71歳になられたようだが、お元気そうで何よりである。流石にあれからの歳月を思わないわけにはいかない。
具志堅隆松さんは掘り起こした遺骨のDNA鑑定をし、遺族に届けることで、戦没者に報いる活動をされている。
普天間基地の移設で、辺野古の海を埋め立て、米軍基地を新設する計画が沖縄県民の反対を権力で押さえつけて進められている。
その辺野古の海を南部戦跡の遺骨が混じっている土砂で埋め立てることに反対している具志堅さんは国との話し合いの場で、「南部戦跡の土は遺骨が含まれている。米軍に殺された戦没者の遺骨が含まれている土で米軍基地を作るのは死者への冒涜だから使わないで」ということで難しいことを注文しているわけではないと発言し、「適切に対処する」と国側は回答している。
時あたかも参議院議員選挙で、世界の潮流の通り、日本でも右翼の台頭が目立つ。
その筆頭が独裁者をリーダーに日本国憲法を戦前の憲法に戻す。つまり、国民主権から天皇主権の国家主義の国にすることで、人権や自由などあらゆる個人の権利は国家に制限される、市民は国家の奴隷、戦争も辞さないという参政党が支持者を増やしていると伝えられている。
その対極にあるのが山本太郎代表のれいわ新選組で、「生きているだけで価値がある」と個人の人権の尊重、学問、表現などあらゆる自由は尊重され、市民は国家の奴隷ではなく、国家は市民を救済するとし、戦争に反対する。
参議院議員広島選挙区から立候補しているれいわのはんどう大樹弁護士は憲法の専門家として、著書『檻の中のライオン』で、憲法は国民がたえず国家を縛るために、ライオン(国家、政治家)を制御するためにつくりあげた檻である。 檻から出たライオンは自分で檻に戻らない。 集団的自衛権は憲法をないがしろにし、檻を壊すライオン。だとし、動画で憲法がいかに大事かを訴えている。
れいわの京都選挙区から立候補している西郷みなこさんは教育の時は書かなかったけれど、教育の専門家であるが、戦争に対する向き合い方で、原爆をヒロシマに投下した米軍のエノラ・ゲイがテニアン島から飛び立っていることから、子どもを連れてテニアン島に行っていること。
ガマフヤーの具志堅隆松さんのことを知っていて、戦没者の遺骨収集に国がもっと力を入れるようにと訴えていることから、戦争に反対する立場の方で取り上げている。
ガマフヤーの具志堅隆松さんは、「戦没者への最大の供養は二度と戦争をしないことだ」と断言している。
れいわ新選組の毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんは平和主義の人だが、よくよく聴いてみれば、バンザイクリフで知られる玉砕の島サイパンで母親が生き残ったというではないか。
神川選挙区から立候補している三好りょうさんは英語、中国語、ロシア語がしゃべれるということで、関係構築が難しい中露と戦争にならない関係づくりに役立ってもらえそうだ。
特別、何かやってきたということではなく、主婦であったり、農家でコメ作りをしていたり、介護をしていたりと様々な立場から立候補している人がいるのがれいわ新選組である。
覇権競争をしている米中が台湾を巡って、日本を米国の代理戦争に巻き込もうとしている。
何としても、戦争に巻き込まれないようにしなければならない。
だから、戦没者の遺骨収集に注目する必要がある。
2025年07月14日
二つの敗戦国から学ぶ子どもの教育
NHK映像の世紀バタフライエフェクト「二つの敗戦国 日本660万人の孤独」が放送された。前回放送時一度書いているが、新たな気づきがあったので書いておく。
中国大陸に侵略した関東軍が満州国に傀儡政権を作り、国策として、満蒙開拓団が中国人から土地を取り上げたも同然で入植した。
『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』で紹介された中東のヨルダン川西岸で行われているイスラエルによるパレスチナ人の土地の収奪、入植とそっくりなことが行われた。
その関東軍が南方や沖縄に転進したため、1945年8月9日未明のソ連軍の満州、朝鮮半島などへの侵攻で、関東軍に見捨てられた開拓民は、ソ連兵よるマンドリンと呼ばれた機関銃を突き付けられ略奪、女性は性的暴行を繰り返され、戦車に轢き殺され、集団自決に追い込まれた開拓団もあった。
広い満州の曠野を彷徨するうちに生きるため、中国人に助けられた女性、親から手放された子ども、親とはぐれてしまった子どもが後の、中国残留婦人、中国残留孤児と呼ばれ、70年代から80年代に日本に帰国し、大きな社会問題となった。
その一人、野村志津さんは20歳の時、福井県から満州に渡った。敗戦で黒竜江省で中国残留婦人となり、1973年に亡くなった。
その孫の達雄さんは1986年生まれで、1995年秋、9歳で家族で来日した時日本語が話せなかったが、やがて、「ポケモンGO」の開発者としてその名を知られるようになった。
「祖母の国にやってきて、しっかりした教育を受けることができたことが大きい」というような祖母が日本人であったことに感謝する気持ちを述べている。
時あたかも参議院議員選挙の最中である。
教育といえば、山本太郎代表のれいわ新選組の兵庫選挙区から立候補している米村明美さんはユネスコで働いていた経歴を持つ。
ユネスコは教育、科学、文化の協力と交流を通じて、国際平和と人類の福祉の促進を目的とした国際連合の専門機関だ。
その米村さんが教育の大事さを選挙戦で訴えている。
教育といえば、学校教育で子どもたちに主権者教育を受けさせるように訴えているのはれいわ新選組全国比例候補博多弁を交えて子どもたちの声を代弁している奥田ふみよさんだ。
世論調査で支持率を伸ばしているという独裁者が率いる参政党は、国民主権から天皇主権、個人の人権は国家によって制限される国家主義で教育勅語を復活させようと目論む右翼政党だ。日本人ファーストだと声高に訴えているが、戦前に日本の教育を戻すということは戦争も辞さないということで怖ろしい考え方を持つ。
教育。科学、文化の協力と交流を通じて国際平和を希求するユネスコで働いていた米村さんは当然、戦争反対である。
3人の子どもの母親でピアノ教室の先生だった奥田さんの許には自由を奪われる校則に抑圧される子どもたちの切実な声が多数寄せられているそうな。
主権者教育といえば、戦前の教育で戦争への道をひたすら進んでいった日本が、戦後は主権者教育をやってきたかと問えば、否としかいいようがない。
アジア太平洋戦争への反省をしなければならないが、学校教育では平和教育が十分に行われているとは言い難い。
教育が大事だと訴えるれいわ新選組の兵庫選挙区では米村明美さん。全国比例では奥田ふみよさん。
教育で戦争に反対するこの二人に大いに期待する所以である。
中国大陸に侵略した関東軍が満州国に傀儡政権を作り、国策として、満蒙開拓団が中国人から土地を取り上げたも同然で入植した。
『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』で紹介された中東のヨルダン川西岸で行われているイスラエルによるパレスチナ人の土地の収奪、入植とそっくりなことが行われた。
その関東軍が南方や沖縄に転進したため、1945年8月9日未明のソ連軍の満州、朝鮮半島などへの侵攻で、関東軍に見捨てられた開拓民は、ソ連兵よるマンドリンと呼ばれた機関銃を突き付けられ略奪、女性は性的暴行を繰り返され、戦車に轢き殺され、集団自決に追い込まれた開拓団もあった。
広い満州の曠野を彷徨するうちに生きるため、中国人に助けられた女性、親から手放された子ども、親とはぐれてしまった子どもが後の、中国残留婦人、中国残留孤児と呼ばれ、70年代から80年代に日本に帰国し、大きな社会問題となった。
その一人、野村志津さんは20歳の時、福井県から満州に渡った。敗戦で黒竜江省で中国残留婦人となり、1973年に亡くなった。
その孫の達雄さんは1986年生まれで、1995年秋、9歳で家族で来日した時日本語が話せなかったが、やがて、「ポケモンGO」の開発者としてその名を知られるようになった。
「祖母の国にやってきて、しっかりした教育を受けることができたことが大きい」というような祖母が日本人であったことに感謝する気持ちを述べている。
時あたかも参議院議員選挙の最中である。
教育といえば、山本太郎代表のれいわ新選組の兵庫選挙区から立候補している米村明美さんはユネスコで働いていた経歴を持つ。
ユネスコは教育、科学、文化の協力と交流を通じて、国際平和と人類の福祉の促進を目的とした国際連合の専門機関だ。
その米村さんが教育の大事さを選挙戦で訴えている。
教育といえば、学校教育で子どもたちに主権者教育を受けさせるように訴えているのはれいわ新選組全国比例候補博多弁を交えて子どもたちの声を代弁している奥田ふみよさんだ。
世論調査で支持率を伸ばしているという独裁者が率いる参政党は、国民主権から天皇主権、個人の人権は国家によって制限される国家主義で教育勅語を復活させようと目論む右翼政党だ。日本人ファーストだと声高に訴えているが、戦前に日本の教育を戻すということは戦争も辞さないということで怖ろしい考え方を持つ。
教育。科学、文化の協力と交流を通じて国際平和を希求するユネスコで働いていた米村さんは当然、戦争反対である。
3人の子どもの母親でピアノ教室の先生だった奥田さんの許には自由を奪われる校則に抑圧される子どもたちの切実な声が多数寄せられているそうな。
主権者教育といえば、戦前の教育で戦争への道をひたすら進んでいった日本が、戦後は主権者教育をやってきたかと問えば、否としかいいようがない。
アジア太平洋戦争への反省をしなければならないが、学校教育では平和教育が十分に行われているとは言い難い。
教育が大事だと訴えるれいわ新選組の兵庫選挙区では米村明美さん。全国比例では奥田ふみよさん。
教育で戦争に反対するこの二人に大いに期待する所以である。
2025年07月12日
日中正常化 支えた「証人」 周斌さん追悼
元中国外務省日本語通訳・周斌さんが4月3日、90歳で亡くなったことで7月10日の読売(吉永亜希子記者)が「追悼抄」で、「日中正常化支えた「証人」という見出しでその業績を称えている。
1972年9月の日中国交正常化交渉で中国外務省の日本語通訳を務め、その後も日中交流を支えた。
9月25日、最終交渉のために田中角栄首相と大平正芳外務大臣が北京を訪問した。
夕食会での田中首相の「我が国が中国国民に多大のご迷惑をおかけした」というスピーチが言葉が軽すぎると中国側から猛反発した。交渉の決裂を回避するため、その2日後、大平外務大臣と姫鵬飛外相は、万里の長城に向かう車中で2人きりの協議を行った際、ただ一人の同席者として、周恩来首相の指示により通訳として指名された。
大平外務大臣は自身の戦争体験を交え、心情を率直に語っていた。「この政治家なら信頼できると感じた。
「中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」ということで、日中外相による膝詰めの協議は日中共同声明の調印に結実した。
52歳で外務省を退職後、体験を語り続けた。
晩年は「日本は第二の故郷」と語っていた。
集団的自衛権行使の安保法制が対米追随の自民党、公明党政権によって2015年、制定れてから、戦争前夜とも呼ばれる今日、岐路に立つ日本では、参議院議員選挙の最中である。
国民主権から天皇主権に、個人的人権を制限し、国家主義にと戦前の日本に戻そうとする参政党の支持率が上がっているとメディアが伝えている。
アジア太平洋戦争の反省もない人たちが日本人ファーストだと叫んでいる独裁者に同調する様子に寒気がしてくる。
覇権争いを繰り広げる米国と中国、両国と関係が深い日本は米国追随型の政治外交を改める時が来ている。
中国が台湾を統一しようと目論み、米国は中台戦争が今すぐにでも始まりそうだと煽り、その時、米軍に代わって日本の自衛隊に戦わせようとしている米国の思惑のとおりにさせてはならない。
日本の隣国といえば、朝鮮半島は無論の事、中核をなすのは中国とロシアであり、この両国とは戦争にならないように対話を欠かしてはならない。
参議院議員選挙で神奈川選挙区から立候補しているれいわ新選組の三好りょうさんは元外務省職員で米国に留学して英語を、台湾に留学し中国語を、外務省ではロシアの大使館で働いたことでロシア語がしゃべれる。
日本との関係が難しい中国とロシアの言葉がしゃべれるということは、対話を重ねる必要がある政治家にとって、鬼に金棒である。
言葉がしゃべれるといえば、日中間で通訳として橋渡しをしてくれた周斌さんの存在は大きい。
日中国交正常化で日本の田中角栄首相と大平正芳外相と中国との交渉の橋渡しをした時の通訳として知られているが、大平外相の戦争体験や日中戦争での日本の加害者と被害者の立場を乗り越え、何とか、国交正常化をしたいと願う日本側の気持ちをよくぞ理解してくれ、うまく橋渡しをしてくれたものだと感謝している。
米中の覇権争いに絶対日本がまきこまれてはならない。
米国の顔色ばかり見ていないで、隣国中国やロシアとも友好関係を大事にしようとする政治家、それが、れいわ新選組の山本太郎代表であり、神奈川選挙区から立候補しているれいわ新選組三好りょうさんである。
米国の戦争に巻き込まれないためにも、三好りょうさんが活躍できる場を与えてやりたい。
1972年9月の日中国交正常化交渉で中国外務省の日本語通訳を務め、その後も日中交流を支えた。
9月25日、最終交渉のために田中角栄首相と大平正芳外務大臣が北京を訪問した。
夕食会での田中首相の「我が国が中国国民に多大のご迷惑をおかけした」というスピーチが言葉が軽すぎると中国側から猛反発した。交渉の決裂を回避するため、その2日後、大平外務大臣と姫鵬飛外相は、万里の長城に向かう車中で2人きりの協議を行った際、ただ一人の同席者として、周恩来首相の指示により通訳として指名された。
大平外務大臣は自身の戦争体験を交え、心情を率直に語っていた。「この政治家なら信頼できると感じた。
「中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」ということで、日中外相による膝詰めの協議は日中共同声明の調印に結実した。
52歳で外務省を退職後、体験を語り続けた。
晩年は「日本は第二の故郷」と語っていた。
集団的自衛権行使の安保法制が対米追随の自民党、公明党政権によって2015年、制定れてから、戦争前夜とも呼ばれる今日、岐路に立つ日本では、参議院議員選挙の最中である。
国民主権から天皇主権に、個人的人権を制限し、国家主義にと戦前の日本に戻そうとする参政党の支持率が上がっているとメディアが伝えている。
アジア太平洋戦争の反省もない人たちが日本人ファーストだと叫んでいる独裁者に同調する様子に寒気がしてくる。
覇権争いを繰り広げる米国と中国、両国と関係が深い日本は米国追随型の政治外交を改める時が来ている。
中国が台湾を統一しようと目論み、米国は中台戦争が今すぐにでも始まりそうだと煽り、その時、米軍に代わって日本の自衛隊に戦わせようとしている米国の思惑のとおりにさせてはならない。
日本の隣国といえば、朝鮮半島は無論の事、中核をなすのは中国とロシアであり、この両国とは戦争にならないように対話を欠かしてはならない。
参議院議員選挙で神奈川選挙区から立候補しているれいわ新選組の三好りょうさんは元外務省職員で米国に留学して英語を、台湾に留学し中国語を、外務省ではロシアの大使館で働いたことでロシア語がしゃべれる。
日本との関係が難しい中国とロシアの言葉がしゃべれるということは、対話を重ねる必要がある政治家にとって、鬼に金棒である。
言葉がしゃべれるといえば、日中間で通訳として橋渡しをしてくれた周斌さんの存在は大きい。
日中国交正常化で日本の田中角栄首相と大平正芳外相と中国との交渉の橋渡しをした時の通訳として知られているが、大平外相の戦争体験や日中戦争での日本の加害者と被害者の立場を乗り越え、何とか、国交正常化をしたいと願う日本側の気持ちをよくぞ理解してくれ、うまく橋渡しをしてくれたものだと感謝している。
米中の覇権争いに絶対日本がまきこまれてはならない。
米国の顔色ばかり見ていないで、隣国中国やロシアとも友好関係を大事にしようとする政治家、それが、れいわ新選組の山本太郎代表であり、神奈川選挙区から立候補しているれいわ新選組三好りょうさんである。
米国の戦争に巻き込まれないためにも、三好りょうさんが活躍できる場を与えてやりたい。
2025年07月10日
教育で変えられてしまう戦争への向き合い方
「 日本兵は『消耗品』のように散っていった…無慈悲に『玉砕』を命じるエリート将校を育てた"過激な教育内容"というタイトルで、ノンフィクション作家保坂正康さんの著作を7月10日、プレジデントオンラインが紹介していた。
『昭和陸軍の研究』上(朝日文庫)の全4回の第1回ということになる。
太平洋戦争当時の陸軍の指導部は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。しかし、実戦経験は乏しかった。
長州閥による支配体制が終焉、戦争に勝ったドイツ陸軍の背中を追った。
昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、倫理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
昭和7年(1932年)7月に、陸大幹事(注・副校長のこと)で陸軍少将の今井清の名で、『統帥参考』という大部の書がだされている。陸大で学ぶ学生(中尉が多かった)に用いる資料で、当時は一般には公開されていなかった。
天皇の大権のもとにある“神の軍隊”「軍人の行動には誰にも口を挟ませない」
以上が、日本兵を消耗品のように散らせた陸軍指導部の基本的な考え方である。
参議院議員選挙の選挙戦で、神谷党首の独裁、国民主権から天皇主権、個人の人権を制限し、国家主義、教育勅語復活という戦前の日本に戻すという超右寄りの参政党の支持者が増えているとメディアが伝えている。
対極にあるのが、「生きているだけで一人ひとりに価値がある」という個人を大切にする政治を訴える山本太郎代表のれいわ新選組。
語り継ぐ戦争という立場であるから、アジア太平洋戦争で300万人以上もの人々が犠牲となった戦争の反省を踏まえ、平和な社会が続くことを願っている。
半藤一利さんが退場されてから、アジア太平洋戦争といえば、保坂正康さんを頼りに勉強させてもらっているので、その保坂さんの陸軍指導部の検証は心強いものがある。
やはりというのか、陸軍の指導部は勉強がよくできる軍人の集まりだった。
その学業成績優秀な指導部が使っていたのが『統帥参考』で、上の命令に絶対服従、かつ、自ら考えて行動することがない兵士で、自分たちに使い勝手が良い兵士を育てようとしていた。
大本営にしろ、陸軍の上層部にしろ、自分たちは戦地で戦うことなく、戦況が不利になれば、玉砕せよと兵士たちに命令していた。
戦陣訓とか教育勅語とか、戦争を企図する側に都合の良い解釈で、捕虜になるな、最後は玉砕だと死ぬことを強要したことを絶対忘れてはならない。
世界の軍隊で、日本ほど兵隊の命が粗末にされたことはない。
生きていれば、何とかやり直せても死んでしまえばお仕舞だというにだ。
『昭和陸軍の研究』上(朝日文庫)の全4回の第1回ということになる。
太平洋戦争当時の陸軍の指導部は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。しかし、実戦経験は乏しかった。
長州閥による支配体制が終焉、戦争に勝ったドイツ陸軍の背中を追った。
昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、倫理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
昭和7年(1932年)7月に、陸大幹事(注・副校長のこと)で陸軍少将の今井清の名で、『統帥参考』という大部の書がだされている。陸大で学ぶ学生(中尉が多かった)に用いる資料で、当時は一般には公開されていなかった。
天皇の大権のもとにある“神の軍隊”「軍人の行動には誰にも口を挟ませない」
以上が、日本兵を消耗品のように散らせた陸軍指導部の基本的な考え方である。
参議院議員選挙の選挙戦で、神谷党首の独裁、国民主権から天皇主権、個人の人権を制限し、国家主義、教育勅語復活という戦前の日本に戻すという超右寄りの参政党の支持者が増えているとメディアが伝えている。
対極にあるのが、「生きているだけで一人ひとりに価値がある」という個人を大切にする政治を訴える山本太郎代表のれいわ新選組。
語り継ぐ戦争という立場であるから、アジア太平洋戦争で300万人以上もの人々が犠牲となった戦争の反省を踏まえ、平和な社会が続くことを願っている。
半藤一利さんが退場されてから、アジア太平洋戦争といえば、保坂正康さんを頼りに勉強させてもらっているので、その保坂さんの陸軍指導部の検証は心強いものがある。
やはりというのか、陸軍の指導部は勉強がよくできる軍人の集まりだった。
その学業成績優秀な指導部が使っていたのが『統帥参考』で、上の命令に絶対服従、かつ、自ら考えて行動することがない兵士で、自分たちに使い勝手が良い兵士を育てようとしていた。
大本営にしろ、陸軍の上層部にしろ、自分たちは戦地で戦うことなく、戦況が不利になれば、玉砕せよと兵士たちに命令していた。
戦陣訓とか教育勅語とか、戦争を企図する側に都合の良い解釈で、捕虜になるな、最後は玉砕だと死ぬことを強要したことを絶対忘れてはならない。
世界の軍隊で、日本ほど兵隊の命が粗末にされたことはない。
生きていれば、何とかやり直せても死んでしまえばお仕舞だというにだ。
2025年07月07日
加害と被害は表裏一体 戦争を推し進めた先に原爆
平和都市ヒロシマは、かつて「軍都」としての顔を持っていた。戦地に向かう兵隊に熱狂した女性、特攻隊を志した男性の証言から、80年前の原爆投下に至るまでの街の姿をたどる。と6月27日の読売(小松大騎記者)が伝えている。
広島の軍都としての歴史は、1894年の日清戦争時、明治天皇が軍を指揮する「大本営」が置かれたことに始まる。東京よりも戦地の中国に近い広島市南部の宇品港(現広島港)が陸軍の軍事拠点となり、臨時の首都機能も担った。宇品港の近くには、戦地への兵隊や物資の海上輸送などを担った旧陸軍部隊(通称・暁部隊)が置かれ、船員や軍属など全体で約30万人の人員を有したとされる。
1937年に日中戦争が始まった当初、宇品港から出征する兵士に向かって日の丸を振った切明千枝子さん(95)。戦況が悪化し、学生は軍需工場などに動員され、兵隊たちの見送りもなくなった。
43年末、旧陸軍は兵力不足を補うため、特別幹部候補生(特幹)制度を導入し、15歳以上20歳未満の男子志願者の選抜を始めた。
45年2月、暁部隊の特幹に応募したのは伊藤宜夫さん(97)(岩手県遠野市)で、特攻隊を志願する気持ちでいたが、暁部隊では通信部隊に配属された。
8月6日、午前8時15分、爆心地から約4・5`の宇品港周辺で任務中だった伊藤さん。雷が何度も落ちたかのような轟音が響いた。
すぐに救護司令が下り、暁部隊の少年兵ら約400人は壊滅状態の市街地に向かった。
15歳だった切明さんは爆心地から約2`で被爆した。学校に戻ると下級生らが次々と息を引き取り、校庭で火葬された後の骨拾いをした。
二人は広島と岩手で語り部をしている。
戦争を推し進めた先に原爆投下があったことから、加害と被害は表裏一体だと戦争と核兵器使用に反対する。
アジア太平洋戦争以降、敗北した日本は戦後80年、ほぼ平和な暮らしができたのは日本国憲法9条のお陰である。
勝者の米国は1950年の朝鮮戦争からベトナム戦争、中東戦争、アフガニスタン戦争と戦争ばかりやってきた結果、戦没者と傷痍軍人があまりにも多くて、米軍を戦地に送ることができなくなっている。
ロシアに侵略されたウクライナには武器を買わせても、兵士は送らないことで、軍需産業は相変わらず儲かっている。
日本も米国の真似をして、武器輸出を企むが、他国の人の血を流させて経済がよくなっても意味がない。
戦争体験者は流石である。
戦争を始めて、加害者となっても、時の流れで立場逆転で、被害者となってしまうのが戦争というものだ。
このことは宇品港が軍都広島の港だから、原爆投下の対象になったともいえることで、仮に、日本が米中戦争に巻き込まれたとしたら、原子力発電所が攻撃目標とされることは明白であることを考えれば、戦争に巻き込まれてはならないことが理解できるはずだ。
広島の軍都としての歴史は、1894年の日清戦争時、明治天皇が軍を指揮する「大本営」が置かれたことに始まる。東京よりも戦地の中国に近い広島市南部の宇品港(現広島港)が陸軍の軍事拠点となり、臨時の首都機能も担った。宇品港の近くには、戦地への兵隊や物資の海上輸送などを担った旧陸軍部隊(通称・暁部隊)が置かれ、船員や軍属など全体で約30万人の人員を有したとされる。
1937年に日中戦争が始まった当初、宇品港から出征する兵士に向かって日の丸を振った切明千枝子さん(95)。戦況が悪化し、学生は軍需工場などに動員され、兵隊たちの見送りもなくなった。
43年末、旧陸軍は兵力不足を補うため、特別幹部候補生(特幹)制度を導入し、15歳以上20歳未満の男子志願者の選抜を始めた。
45年2月、暁部隊の特幹に応募したのは伊藤宜夫さん(97)(岩手県遠野市)で、特攻隊を志願する気持ちでいたが、暁部隊では通信部隊に配属された。
8月6日、午前8時15分、爆心地から約4・5`の宇品港周辺で任務中だった伊藤さん。雷が何度も落ちたかのような轟音が響いた。
すぐに救護司令が下り、暁部隊の少年兵ら約400人は壊滅状態の市街地に向かった。
15歳だった切明さんは爆心地から約2`で被爆した。学校に戻ると下級生らが次々と息を引き取り、校庭で火葬された後の骨拾いをした。
二人は広島と岩手で語り部をしている。
戦争を推し進めた先に原爆投下があったことから、加害と被害は表裏一体だと戦争と核兵器使用に反対する。
アジア太平洋戦争以降、敗北した日本は戦後80年、ほぼ平和な暮らしができたのは日本国憲法9条のお陰である。
勝者の米国は1950年の朝鮮戦争からベトナム戦争、中東戦争、アフガニスタン戦争と戦争ばかりやってきた結果、戦没者と傷痍軍人があまりにも多くて、米軍を戦地に送ることができなくなっている。
ロシアに侵略されたウクライナには武器を買わせても、兵士は送らないことで、軍需産業は相変わらず儲かっている。
日本も米国の真似をして、武器輸出を企むが、他国の人の血を流させて経済がよくなっても意味がない。
戦争体験者は流石である。
戦争を始めて、加害者となっても、時の流れで立場逆転で、被害者となってしまうのが戦争というものだ。
このことは宇品港が軍都広島の港だから、原爆投下の対象になったともいえることで、仮に、日本が米中戦争に巻き込まれたとしたら、原子力発電所が攻撃目標とされることは明白であることを考えれば、戦争に巻き込まれてはならないことが理解できるはずだ。
2025年07月06日
鉄血勤皇隊員なればこそ、日本の加害責任に言及
「沖縄は『今も戦の島』…歴代知事の『平和宣言』全49回分が映す現実 沖縄タイムス元編集局長が読み解くと」というタイトルで、沖縄県糸満市摩文仁で毎年6月23日に営まれる「沖縄全戦没者追悼式」。そこで県知事が読む「平和宣言」は、歴代知事の姿勢、米軍基地問題を中心とする沖縄の課題を映し出してきた。7人の知事による全49回の宣言を分析する地元紙「沖縄タイムス」元編集局長でジャーナリスト、諸見里道浩さん(73)=那覇市=に変遷を問うた。と7月6日の東京新聞WEB(太田理英子記者)が伝えている。
5月に「ひめゆりの塔」の展示説明を巡り、自民党の西田昌司参院議員が「歴史の書き換え」と発言した問題など歴史認識の歪曲が繰り返される中、平和宣言の読み解きは、沖縄がたどってきた道を知る重要な手だてになる。諸見里さんはこう力を込めた。「無差別攻撃の犠牲や『軍隊は住民を守らない』という教訓が生まれた原因は何か。私たちは考え続けなければならない」
歴代知事の平和宣言であるが、「沖縄全戦没者追悼式」で沖縄県知事が読むことはメディアで紹介されていたので知っていたが、他人事でなくなったのは、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄戦の実相を学習してきたからだ。
1990年に就任した大田昌秀氏は学徒隊「鉄血勤皇隊」に動員され、戦場や学友の死を目の当たりにした。1991年の宣言では「戦争になってから平和を叫んでも遅すぎるのだ」と主張。1993年には、近隣諸国への日本軍の「加害」にも言及した。
沖縄県営平和祈念公園にある沖縄県平和祈念資料館内にある沖縄戦を模したジオラマで、日本兵が沖縄県民に銃口を向けていたのが、県知事が交代したら、銃口の向きが変わったという有名な話がある。
無論、気づいた人がいて、論議を呼び、元通りになったのかもしれないが、結果の確認はできていない。
ひめゆり平和祈念資料館の展示で歴史の歪曲を企図したのか事実とは異なる発言をした西田昌司参議院議員とその発言に同調した参政党の神谷代表のような右寄り政治家がいて、事実を曲げようとしているとしか思えない。参政党は憲法を国民主権から天皇主権に改めようとしていると耳にしたことがあるくらい、ライトウイングだから騙されているととんでもないことになってしまう。
こういう時、鉄血勤皇隊の隊員にさせられた師範学校男子部の生徒だった大田昌秀さんが健在であれば、西田発言のようなことは起きなかったかもしれない。
沖縄戦を戦い、生き延びた大田昌秀さんに戦争体験がない男が偉そうにものがいえるわけがない。
戦時中、日本軍などがやった加害責任について、発言できるのも鉄血勤皇隊の生き残りである大田昌秀さんなればこそである。
沖縄戦で住民を守るために存在する日本軍が住民を虐殺したことは、取り返しがつかない犯罪である。
国家のために否応なく沖縄戦に巻き込まれてしまった沖縄県民にとって、まさか、日本軍から虐殺されるとは思いもよらないことであっただろう。
こんなでたらめな軍隊が存在したことが怖ろしい。
満州では関東軍に見捨てられた満蒙開拓団の人々が集団自決に追い込まれた。
その満州の関東軍から沖縄の守備隊に加わった兵士たちは、沖縄県民を中国人と同じように蔑視していたことも語り継いでいかなければならない。
とにかく、日本が米国の戦争に巻き込まれそうになっているのは、米軍基地があるからで、関税で要求が高いなら、日米同盟解消に向けて、議論を深め、米軍基地の返還を求めたい。
5月に「ひめゆりの塔」の展示説明を巡り、自民党の西田昌司参院議員が「歴史の書き換え」と発言した問題など歴史認識の歪曲が繰り返される中、平和宣言の読み解きは、沖縄がたどってきた道を知る重要な手だてになる。諸見里さんはこう力を込めた。「無差別攻撃の犠牲や『軍隊は住民を守らない』という教訓が生まれた原因は何か。私たちは考え続けなければならない」
歴代知事の平和宣言であるが、「沖縄全戦没者追悼式」で沖縄県知事が読むことはメディアで紹介されていたので知っていたが、他人事でなくなったのは、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄戦の実相を学習してきたからだ。
1990年に就任した大田昌秀氏は学徒隊「鉄血勤皇隊」に動員され、戦場や学友の死を目の当たりにした。1991年の宣言では「戦争になってから平和を叫んでも遅すぎるのだ」と主張。1993年には、近隣諸国への日本軍の「加害」にも言及した。
沖縄県営平和祈念公園にある沖縄県平和祈念資料館内にある沖縄戦を模したジオラマで、日本兵が沖縄県民に銃口を向けていたのが、県知事が交代したら、銃口の向きが変わったという有名な話がある。
無論、気づいた人がいて、論議を呼び、元通りになったのかもしれないが、結果の確認はできていない。
ひめゆり平和祈念資料館の展示で歴史の歪曲を企図したのか事実とは異なる発言をした西田昌司参議院議員とその発言に同調した参政党の神谷代表のような右寄り政治家がいて、事実を曲げようとしているとしか思えない。参政党は憲法を国民主権から天皇主権に改めようとしていると耳にしたことがあるくらい、ライトウイングだから騙されているととんでもないことになってしまう。
こういう時、鉄血勤皇隊の隊員にさせられた師範学校男子部の生徒だった大田昌秀さんが健在であれば、西田発言のようなことは起きなかったかもしれない。
沖縄戦を戦い、生き延びた大田昌秀さんに戦争体験がない男が偉そうにものがいえるわけがない。
戦時中、日本軍などがやった加害責任について、発言できるのも鉄血勤皇隊の生き残りである大田昌秀さんなればこそである。
沖縄戦で住民を守るために存在する日本軍が住民を虐殺したことは、取り返しがつかない犯罪である。
国家のために否応なく沖縄戦に巻き込まれてしまった沖縄県民にとって、まさか、日本軍から虐殺されるとは思いもよらないことであっただろう。
こんなでたらめな軍隊が存在したことが怖ろしい。
満州では関東軍に見捨てられた満蒙開拓団の人々が集団自決に追い込まれた。
その満州の関東軍から沖縄の守備隊に加わった兵士たちは、沖縄県民を中国人と同じように蔑視していたことも語り継いでいかなければならない。
とにかく、日本が米国の戦争に巻き込まれそうになっているのは、米軍基地があるからで、関税で要求が高いなら、日米同盟解消に向けて、議論を深め、米軍基地の返還を求めたい。
2025年07月05日
本土決戦に備え 少年動員 戦争を終わらせるのは至難
80年前の夏、日本各地で「本土決戦」に向けて緊張が高まっていた。海空戦力が壊滅する中で、軍は少年や女性も大量に動員し、地上で連合国軍を迎え撃つ「最後の戦い」に備えた。当時の生徒らが、切迫する時代の空気を証言した。と戦後80年 昭和百年の連載で7月1日の読売(水野祥、小林隼記者)が伝えている。
本土決戦に備え、15〜60歳の男性と17〜40歳の女性を「国民義勇戦闘隊」に組み込む義勇兵役法が公布されたのは6月23日、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終結した日だ。当時の日本の人口約7200万人のうち、約2800万人を動員する算段で、逃れようとすれば、処罰された。
大戦末期の鹿児島県川辺町(現南九州市)で受けた軍事教練の様子を証言するのは前橋竹之さん(93)だ。「ずっと戦争が身近にあったから疑問を感じることはなかった。日本全体が戦争に流されていた」
宮崎県高鍋町の前村二三さん(91)は、学校で集団自決の方法を教わった。地元の中学で講演した時、「もう少し戦争が長引けば、君たちの祖父母は亡くなり、君たちもいなかったかもしれない。
語り継ぐ戦争では、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件から、1941(昭和16)年12月8日の日米開戦、1945(昭和20)年8月15日、天皇がポツダム宣言の受託、無条件降伏し、アジア太平洋戦争は終わった。
最後まで戦争継続を主張する陸軍の出方次第では本土決戦が起きた可能性がある。
防衛省の防衛研究所の千々和泰明・国際紛争史研究室長(46)は「戦争が始まってしまえば、ロシアvs.ウクライナ、ハマスvs.イスラエルと、戦争を終わらせるのは難しい。外交に力を入れ、合理的な安全保障戦略を立てることで戦争を防がなくてはならない」と強調している。そのとおりだ。
戦後80年の2025年の夏、参議院議員選挙が公示された。
期日前投票で、必ず投票してきたのは米国の戦争にまきこまれないためである。
自分の考え方に近い候補者として、選挙区選挙では神奈川県であるが、れいわ新選組の三好亮さん。比例選挙では同じく毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんである。
自民党とその補完勢力が親米であることに対し、二人は米国追随型、米国の植民地あるいは保護領のような日本を真の独立国家にするために頑張ると訴えている。
二人とも、日米地位協定の不平等な点を改正しよう。日本の空を米軍から取り戻そうとも言っているところが心強い。
三好さんは外務省の職員として、ロシア大使館に勤務していたことからロシア語が使えるし、台湾に留学していたから中国語も使えるということで、日本の隣国で、ただ嫌いだと言っていられないエネルギー大国ロシアと輸出入で切っても切れない中国と上手につきあっていかなければならない日本の政治家に欠かせない資質がある。
三好さんを一推しに推しているのはピアノが弾けて、空手を嗜む文化芸術に明るいからで、その演奏は見事なものである。
これまで、国政選挙の候補者で、米国追随型外交ではだめだと明確に発言していた人を知らない。
語り継ぐ戦争で、反米という立場を明らかにしてきたが、米国の戦争に加担させられないようにしていくことが一番求められている。
戦争に巻き込まれないようにしていかなければならない。
というわけで、神奈川県に住む親しい女性4人にお願いしてあるが、何とか当選してもらいたい。
本土決戦に備え、15〜60歳の男性と17〜40歳の女性を「国民義勇戦闘隊」に組み込む義勇兵役法が公布されたのは6月23日、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終結した日だ。当時の日本の人口約7200万人のうち、約2800万人を動員する算段で、逃れようとすれば、処罰された。
大戦末期の鹿児島県川辺町(現南九州市)で受けた軍事教練の様子を証言するのは前橋竹之さん(93)だ。「ずっと戦争が身近にあったから疑問を感じることはなかった。日本全体が戦争に流されていた」
宮崎県高鍋町の前村二三さん(91)は、学校で集団自決の方法を教わった。地元の中学で講演した時、「もう少し戦争が長引けば、君たちの祖父母は亡くなり、君たちもいなかったかもしれない。
語り継ぐ戦争では、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件から、1941(昭和16)年12月8日の日米開戦、1945(昭和20)年8月15日、天皇がポツダム宣言の受託、無条件降伏し、アジア太平洋戦争は終わった。
最後まで戦争継続を主張する陸軍の出方次第では本土決戦が起きた可能性がある。
防衛省の防衛研究所の千々和泰明・国際紛争史研究室長(46)は「戦争が始まってしまえば、ロシアvs.ウクライナ、ハマスvs.イスラエルと、戦争を終わらせるのは難しい。外交に力を入れ、合理的な安全保障戦略を立てることで戦争を防がなくてはならない」と強調している。そのとおりだ。
戦後80年の2025年の夏、参議院議員選挙が公示された。
期日前投票で、必ず投票してきたのは米国の戦争にまきこまれないためである。
自分の考え方に近い候補者として、選挙区選挙では神奈川県であるが、れいわ新選組の三好亮さん。比例選挙では同じく毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんである。
自民党とその補完勢力が親米であることに対し、二人は米国追随型、米国の植民地あるいは保護領のような日本を真の独立国家にするために頑張ると訴えている。
二人とも、日米地位協定の不平等な点を改正しよう。日本の空を米軍から取り戻そうとも言っているところが心強い。
三好さんは外務省の職員として、ロシア大使館に勤務していたことからロシア語が使えるし、台湾に留学していたから中国語も使えるということで、日本の隣国で、ただ嫌いだと言っていられないエネルギー大国ロシアと輸出入で切っても切れない中国と上手につきあっていかなければならない日本の政治家に欠かせない資質がある。
三好さんを一推しに推しているのはピアノが弾けて、空手を嗜む文化芸術に明るいからで、その演奏は見事なものである。
これまで、国政選挙の候補者で、米国追随型外交ではだめだと明確に発言していた人を知らない。
語り継ぐ戦争で、反米という立場を明らかにしてきたが、米国の戦争に加担させられないようにしていくことが一番求められている。
戦争に巻き込まれないようにしていかなければならない。
というわけで、神奈川県に住む親しい女性4人にお願いしてあるが、何とか当選してもらいたい。