「編集委員鵜飼哲夫のああ言えばこう聞く」8月22日の読売が夕刊で伝えていたのは「沖縄に眠る『戦場』掘る」をテーマに沖縄で遺骨収集のボランティアを続けるジャーナリスト、浜田哲二さん(62)と律子さん(60)夫婦が見つめる戦争とは―。
「世界の紛争見たが、自国のこと知らず」だったという哲二さん。「ちっちゃいお骨出てくると泣きながら」という律子さん。
転機は2002年戦没者の遺骨収集グループに同行したことで、取材の最終日、お礼を言おうとすると、「マスコミの人たちは戦後何年とか終戦の日とか、そんなときしか島に来ない。もし君たちに人の心があるなら、足元に埋もれているかもしれないお骨を一つでも掘り出してあげたらどうかな」という胸に刺さる言葉だった。
すぐに弟子入りした。
早期退職制度を利用して新聞社を退職し、浜田夫妻は世界遺産・白神山地がある青森県深浦町へ移住。毎年12月から5月の連休の頃まで、遺骨収集のために沖縄に滞在している。
沖縄で遺骨を掘る人といえば、映画にもなったガマフヤーの具志堅隆松さんだが、糸満市のガマで旧制・私立開南中の生徒が帽子につける校章を見つけたことで遺骨収集ボランティアとしての浜田さん夫妻も注目を集めた。
ガマフヤーの具志堅隆松さんが無私の人だとして、ジャーナリストだった浜田さんは遺骨収集を本にしたりということで仕事と大いに関係がある点が大きく異なる。
それでも、具志堅隆松さんとお目にかかり、一度は自分も遺骨を掘る作業に同行したいとお願いしたことがコロナ渦で実現せずに、後期高齢者になって心身共に急激に衰えてしまった自分と較べ、還暦くらいの世代である浜田さん夫妻の行動力には頭が下がる。
遺骨を掘ることができなかった自分と較べ、とにかく遺骨を掘っている浜田夫妻にはエールをおくりたい。
人にはそれぞれ立ち位置がある。
衰えてしまった自分ではあるが、戦争を語り継ぐことはできるので、学習したことを伝えていく。
2025年08月25日
2025年08月24日
抑留、空襲…鎮魂の「白菊」長岡の花火師
戦後80年 昭和百年 家族の記憶E最終回、8月18日の読売が伝えたのは日本の三大花火で知られる長岡の花火師嘉瀬誠次さんと長男晃さんが打ち上げる抑留、空襲…鎮魂の花火「白菊」だった。
長岡の花火師嘉瀬誠次さん(2023年に101歳で死去)は、43年に徴兵され、千島列島の重要拠点「松輪島」の守備隊に配属され、地上戦は行われず終戦を迎えた。
ソ連兵が上陸し、武装解除後、シベリアに連行され、抑留生活を送る。氷点下30度の極寒の中、樹木伐採やレンガ積みなどを強制労働させられた。
食事は豆が浮いたスープとパンひと切れ。3年後の帰国が叶い、花火師に復帰した。
90年7月、旧ソ連ハバロフスクでシベリアで斃れた戦友たちに鎮魂の花火「白菊」を打ち上げた。
2003年から長岡空襲の死者の命日にも白菊が打ち上げられるようになった。
父が彼岸の人となってからは、息子の晃さんが取り仕切っている。
「生きたくとも生きられなかった人々への思い。白菊はそれが父の体の奥底からにじみ出て形となったものだ」と語る晃さん。
8月1日、午後10時30分、信濃川の河川敷で打ち上げられた「白菊」。80年前のこの日、125機の米爆撃機B29が焼夷弾の雨を降らせた。市街地の8割が焼け、1489人の命を奪った。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で長岡を訪れたのは2017年8月のことだった。
佐渡金山で働く男たちのカネを巻き上げるためにできた水金遊郭の遊女、女郎たちの供養をするために佐渡に渡り、長岡を訪れて驚いたのは、空襲の犠牲者1489人ということで、全員の名前が明らかになっていることだった。
全国の慰霊碑を周っていて、こんなことは初めてのことだったからびっくりである。
一般的には、「約」と言うことで正確な数字はなかなかわからないからだ。
長岡の花火は日本三大花火だと耳にするが、花火に格別思い入れがあるわけでなし、実際見物したことはない。
それでも、同じ火薬を使うものとしては、爆弾とは異なり、危険は伴うにしても人々の心にそれぞれ思い出を残してくれる。
花火師で抑留経験があるからだろうか、長岡空襲の犠牲者の慰霊の日に「白菊」という特別な花火を打ち上げるというのは忘れがたきイベントである。
抑留はソ連、長岡空襲は米国であるが、抑留にしても、空襲にしても生き抜いてこられ、長岡市民に花火を打ち上げる花火師の嘉瀬誠次さん。その跡継ぎの嘉瀬晃さん。と長岡市民の心は一つ。
平和なればこその花火、掲載された写真で見る「白菊」は見事である。
長岡の花火師嘉瀬誠次さん(2023年に101歳で死去)は、43年に徴兵され、千島列島の重要拠点「松輪島」の守備隊に配属され、地上戦は行われず終戦を迎えた。
ソ連兵が上陸し、武装解除後、シベリアに連行され、抑留生活を送る。氷点下30度の極寒の中、樹木伐採やレンガ積みなどを強制労働させられた。
食事は豆が浮いたスープとパンひと切れ。3年後の帰国が叶い、花火師に復帰した。
90年7月、旧ソ連ハバロフスクでシベリアで斃れた戦友たちに鎮魂の花火「白菊」を打ち上げた。
2003年から長岡空襲の死者の命日にも白菊が打ち上げられるようになった。
父が彼岸の人となってからは、息子の晃さんが取り仕切っている。
「生きたくとも生きられなかった人々への思い。白菊はそれが父の体の奥底からにじみ出て形となったものだ」と語る晃さん。
8月1日、午後10時30分、信濃川の河川敷で打ち上げられた「白菊」。80年前のこの日、125機の米爆撃機B29が焼夷弾の雨を降らせた。市街地の8割が焼け、1489人の命を奪った。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で長岡を訪れたのは2017年8月のことだった。
佐渡金山で働く男たちのカネを巻き上げるためにできた水金遊郭の遊女、女郎たちの供養をするために佐渡に渡り、長岡を訪れて驚いたのは、空襲の犠牲者1489人ということで、全員の名前が明らかになっていることだった。
全国の慰霊碑を周っていて、こんなことは初めてのことだったからびっくりである。
一般的には、「約」と言うことで正確な数字はなかなかわからないからだ。
長岡の花火は日本三大花火だと耳にするが、花火に格別思い入れがあるわけでなし、実際見物したことはない。
それでも、同じ火薬を使うものとしては、爆弾とは異なり、危険は伴うにしても人々の心にそれぞれ思い出を残してくれる。
花火師で抑留経験があるからだろうか、長岡空襲の犠牲者の慰霊の日に「白菊」という特別な花火を打ち上げるというのは忘れがたきイベントである。
抑留はソ連、長岡空襲は米国であるが、抑留にしても、空襲にしても生き抜いてこられ、長岡市民に花火を打ち上げる花火師の嘉瀬誠次さん。その跡継ぎの嘉瀬晃さん。と長岡市民の心は一つ。
平和なればこその花火、掲載された写真で見る「白菊」は見事である。
2025年08月23日
ペリリュー島集団埋葬地で遺骨収集
戦後80年、海外での戦没者約240万人のうち、約112万柱は日本に帰っていない。今も遺骨の収集は続く。と8月15日の読売(編集委員加藤学)が特別面で玉砕の島ペリリュー島での遺骨収集の様子を写真と文章で伝えている。
パラオ・ペリリュー島の集団埋葬地で7月、遺骨収集派遣団員が遺骨収集をしている。
この島で戦死した日本兵は1万人に上る。厚生労働省が同島で遺骨収集を始めたのは1953年。2024年度末までに7799柱を収容したが、いまだに約2400柱が眠るとされる。
2024年9月、厚労省が米軍の資料を基に1086人を埋葬した集団埋葬地を特定した。12月から本格的に収集する作業が始まっている。
政府は2016年に遺骨収集を「国の責務」とする推進法を定め、対応を加速している。
ペリリュー島では年に4回の作業を行ってきたが、2026年度以降は毎月作業ができるように準備し、27年度末までに収容完了を目指す。
先の参議院議員選挙で極右の参政党が台頭し、靖国神社に揃ってお参りした云々。国民主権から戦前、戦中のような天皇主権に、と言いながら、天皇家には後継者がいるにもかかわらず、女系天皇は認めないなどと時代錯誤も甚だしいことを言っている。
天皇が靖国神社にお参りしないのはA級戦犯が合祀されたからで、天皇主権だと言いながら、天皇に従わないという理解に苦しむ行動をしている。
保守派、右寄りとされている政治家は、靖国神社へのお参りは大好きだが、千鳥ヶ淵にある国立戦没者墓苑へのお参りをしてきたというニュースが流れないのはお参りしていないからではないのか。
なぜ、靖国神社にばかり、お参りしたがり、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑にはいきたがらないのだろう。
戦争で死にたくないのに殺され、英霊だとして、勝手に靖国神社に祀る。戦没者と言えども、個人の意思がある。迷惑な話だ。
戦争で召集された父親は生きて帰ってきたからよいとしても、戦没し、骨も拾ってもらえないとなれば誰が戦争に協力するというのだ。
ペリリュー島では多数の犠牲者が出ていることからして、国の責務として、遺骨を収容しなければならない。
国のために戦った人たちに礼を尽くせ。
パラオ・ペリリュー島の集団埋葬地で7月、遺骨収集派遣団員が遺骨収集をしている。
この島で戦死した日本兵は1万人に上る。厚生労働省が同島で遺骨収集を始めたのは1953年。2024年度末までに7799柱を収容したが、いまだに約2400柱が眠るとされる。
2024年9月、厚労省が米軍の資料を基に1086人を埋葬した集団埋葬地を特定した。12月から本格的に収集する作業が始まっている。
政府は2016年に遺骨収集を「国の責務」とする推進法を定め、対応を加速している。
ペリリュー島では年に4回の作業を行ってきたが、2026年度以降は毎月作業ができるように準備し、27年度末までに収容完了を目指す。
先の参議院議員選挙で極右の参政党が台頭し、靖国神社に揃ってお参りした云々。国民主権から戦前、戦中のような天皇主権に、と言いながら、天皇家には後継者がいるにもかかわらず、女系天皇は認めないなどと時代錯誤も甚だしいことを言っている。
天皇が靖国神社にお参りしないのはA級戦犯が合祀されたからで、天皇主権だと言いながら、天皇に従わないという理解に苦しむ行動をしている。
保守派、右寄りとされている政治家は、靖国神社へのお参りは大好きだが、千鳥ヶ淵にある国立戦没者墓苑へのお参りをしてきたというニュースが流れないのはお参りしていないからではないのか。
なぜ、靖国神社にばかり、お参りしたがり、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑にはいきたがらないのだろう。
戦争で死にたくないのに殺され、英霊だとして、勝手に靖国神社に祀る。戦没者と言えども、個人の意思がある。迷惑な話だ。
戦争で召集された父親は生きて帰ってきたからよいとしても、戦没し、骨も拾ってもらえないとなれば誰が戦争に協力するというのだ。
ペリリュー島では多数の犠牲者が出ていることからして、国の責務として、遺骨を収容しなければならない。
国のために戦った人たちに礼を尽くせ。
2025年08月22日
南樺太で電話交換手が集団自決 稚内で慰霊祭
終戦後も続いたソ連軍の侵攻により、南樺太・真岡(現ロシア・サハリン州ホルムスク)の郵便局で女性電話交換手9人(当時17〜24歳)が集団自決した事件から80年を迎えた20日、9人の慰霊碑がある北海道稚内市で追悼の式典が開かれた。遺族や元同僚の親族、地元の高校生ら約240人が参列し、9人の肖像画が並ぶ祭壇に一輪菊を手向けながら 冥福を祈った。と21日の読売が伝えている。
9人は1945年8月20日朝、ソ連兵が迫る中でも真岡郵便局に残り、近隣の郵便局に戦況を伝えるなどの職務を全うした後、猛毒の青酸カリを飲んで自決した。沖縄戦の悲劇の象徴となった「ひめゆり学徒隊」になぞらえ、「北のひめゆり」とも呼ばれている。
参列者の一部は式典後、宗谷海峡を望む稚内公園に向かい、9人を悼む「九人の乙女の碑」(1963年設置)に手を合わせた。
9人の同僚で当日は非番だった金川一枝さん(2013年に83歳で死去)の次女・中間 真永さんは、自身が事件を題材に脚本・演出を手がけた舞台「九人の乙女〜氷雪の門」の公演を札幌市で3日前に終えたばかり。中間さんは公演が大好評だったことを伝えたといい、「9人に『やりきりました』と報告することを目標に頑張ってきたから……」と万感の様子で語った。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で稚内を訪れたのは2010年8月29日のことだった。
稚内公園にある「九人の乙女の碑」と1945年8月22日、樺太からの引き揚げ船の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が留萌の鬼鹿海岸沖で、ソ連の潜水艦に撃沈させられた三船殉難事件慰霊碑に手を合わせるためだ。
2025年の夏、思えば当時は還暦になって1年余だったから、元気だった。
稚内からレンタカーで宗谷岬にも行き、稚内から留萌までレンタカーで往復したが、衰えてしまった今なら考えられない。
世界広しと言えども、戦時中のソ連、現在のロシアはどうしても好きになれない国の筆頭格である。
南樺太真岡の郵便局電話交換手が青酸カリで集団自決をしたことを思えば、さぞや苦しかっただろうと気の毒でならない。
当時のソ連兵は女とみれば、所かまわず、マンドリンと呼ばれた機関銃をもってレイプしたことが証言されている。電話交換手は青酸カリを飲む苦しさを選択するほどソ連兵にレイプされたくなかったと推察する。
留萌沖で撃沈された小笠原丸には、元横綱の大鵬と母親が乗船していたが稚内で下船したから命拾いしたと伝えられている。大鵬の父親はウクライナ系だという説があり、そのウクライナに21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンが侵略戦争を仕掛けた。
なんだかんだ言っても、死んでしまってはお仕舞だから、電話交換手は上司がもっと早くに北海道に引き揚げさせるべきだった。
毎日、書き続け発信しているのは「自由のため」であるが、語り継ぐ戦争で戦争の性被害について取り上げることが多いのは、戦争では敗戦国の女性は性暴力の被害者にされてしまい、自由を奪われ、尊厳を傷つけられてしまうからだ。
9人の電話交換手もソ連兵の性暴力を恐れての集団自決だった。
9人は1945年8月20日朝、ソ連兵が迫る中でも真岡郵便局に残り、近隣の郵便局に戦況を伝えるなどの職務を全うした後、猛毒の青酸カリを飲んで自決した。沖縄戦の悲劇の象徴となった「ひめゆり学徒隊」になぞらえ、「北のひめゆり」とも呼ばれている。
参列者の一部は式典後、宗谷海峡を望む稚内公園に向かい、9人を悼む「九人の乙女の碑」(1963年設置)に手を合わせた。
9人の同僚で当日は非番だった金川一枝さん(2013年に83歳で死去)の次女・中間 真永さんは、自身が事件を題材に脚本・演出を手がけた舞台「九人の乙女〜氷雪の門」の公演を札幌市で3日前に終えたばかり。中間さんは公演が大好評だったことを伝えたといい、「9人に『やりきりました』と報告することを目標に頑張ってきたから……」と万感の様子で語った。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で稚内を訪れたのは2010年8月29日のことだった。
稚内公園にある「九人の乙女の碑」と1945年8月22日、樺太からの引き揚げ船の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が留萌の鬼鹿海岸沖で、ソ連の潜水艦に撃沈させられた三船殉難事件慰霊碑に手を合わせるためだ。
2025年の夏、思えば当時は還暦になって1年余だったから、元気だった。
稚内からレンタカーで宗谷岬にも行き、稚内から留萌までレンタカーで往復したが、衰えてしまった今なら考えられない。
世界広しと言えども、戦時中のソ連、現在のロシアはどうしても好きになれない国の筆頭格である。
南樺太真岡の郵便局電話交換手が青酸カリで集団自決をしたことを思えば、さぞや苦しかっただろうと気の毒でならない。
当時のソ連兵は女とみれば、所かまわず、マンドリンと呼ばれた機関銃をもってレイプしたことが証言されている。電話交換手は青酸カリを飲む苦しさを選択するほどソ連兵にレイプされたくなかったと推察する。
留萌沖で撃沈された小笠原丸には、元横綱の大鵬と母親が乗船していたが稚内で下船したから命拾いしたと伝えられている。大鵬の父親はウクライナ系だという説があり、そのウクライナに21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンが侵略戦争を仕掛けた。
なんだかんだ言っても、死んでしまってはお仕舞だから、電話交換手は上司がもっと早くに北海道に引き揚げさせるべきだった。
毎日、書き続け発信しているのは「自由のため」であるが、語り継ぐ戦争で戦争の性被害について取り上げることが多いのは、戦争では敗戦国の女性は性暴力の被害者にされてしまい、自由を奪われ、尊厳を傷つけられてしまうからだ。
9人の電話交換手もソ連兵の性暴力を恐れての集団自決だった。
2025年08月21日
旧日本軍の住民虐殺の久米島で追悼集会
太平洋戦争末期の沖縄戦に関し、組織的戦闘が終わった後の1945年6〜8月、旧日本軍が住民をスパイとみなして虐殺した事件が起きた沖縄県・久米島で20日、犠牲者の追悼集会が開かれた。参列者は黙とうをささげ、平和を祈った。犠牲者の顔などをかたどった彫刻も除幕された。と8月21日の共同通信が伝えている。
米軍は同年6月26日、久米島に上陸。日本軍は、米軍の捕虜となった後に解放された住民らをスパイとみなし、同27日から8月20日までの間に、子どもを含む20人を殺害した。
集会実行委員会の神里稔会長(74)が「再び起こさないよう反戦平和を誓う」とあいさつした。
「住民が密告、日本軍が気にくわない人を銃殺 沖縄・久米島は疑心暗鬼に 軍の加害に協力した負い目は今も」というタイトルで、8月20日の沖縄タイムスプラスが伝えるところによれば、久米島に配備された鹿山正隊長率いる日本海軍通信隊「鹿山隊」が、北原で9人もの住民を惨殺した事件は、島の人々を戦慄させた。米軍に拉致され、日本軍の情報を漏らしたとして、1945年6月29日(28日説あり)、拉致された青年と高齢男性に加え、その家族、区長と警防団長も刺殺した。
9人は手足を針金で縛られ、何度も刺されて絶命。最後は小屋に火を付けられた上、焼け焦げた遺体さえ「引き取る者も殺す」とのうわさが広がり、野ざらしにされた。これが久米島守備隊住民虐殺事件、所謂鹿山事件である。
鹿山は生き残り、戦後、自己保身の言い訳をしている。島の少女を連れまわし、逃亡していたという男。
この事件を含め、日本軍には沖縄県民を守るという意識が全くと言っていいほどなかったことが明らかである。
米国が人種差別の国であることから、同じゲルマン民族のドイツには原爆を使わず、カラードピープルのイエロージャップである日本人にはヒロシマ、ナガサキと二つも原爆を落とした。
同様に、日本人も琉球民族や先住民族であるアイヌ民族を差別してきた。
戦争だから、百歩譲って、沖縄を本土の防波堤にしたことは棚上げしても、琉球民族である沖縄県民を日米戦争に巻き込む以上、沖縄県民を守るということは軍隊として最低限やらなければならないことではないのか。
然るに、ガマに住民が逃げ込めば、赤子の泣き声で米軍に居場所がわかってしまうから、赤子を殺せと命じたし、米軍の投降の呼びかけに住民がガマから出て行こうとすれば、後ろから味方であるはずの日本軍兵士に撃たれた。
琉球民族には立派な人たちが少なくない。
戦争が終わって、あれほど住民を苦しめた日本軍ばかりでなく、鉄の暴風と呼ばれた艦砲射撃、火炎放射器で住民を兵隊と一緒に焼き殺した米軍兵士も一緒に平和の礎に名前を刻み追悼している。
まさに、ラグビーのノーサイドを思わせるような振る舞いである。
沖縄県民を集団自決に追い込んだのも日本軍である。
生きて虜囚の辱め・・・。ではない。非武装の住民を米軍は原則として殺したりはしない。
しかし、過ぎてしまったことは、反省して、二度と戦争を起こさない。巻き込まれないようにすることで犠牲者の御霊に約束するしかない。
戦争にならないように、巻き込まれないようにふだんから要注意である。
米軍は同年6月26日、久米島に上陸。日本軍は、米軍の捕虜となった後に解放された住民らをスパイとみなし、同27日から8月20日までの間に、子どもを含む20人を殺害した。
集会実行委員会の神里稔会長(74)が「再び起こさないよう反戦平和を誓う」とあいさつした。
「住民が密告、日本軍が気にくわない人を銃殺 沖縄・久米島は疑心暗鬼に 軍の加害に協力した負い目は今も」というタイトルで、8月20日の沖縄タイムスプラスが伝えるところによれば、久米島に配備された鹿山正隊長率いる日本海軍通信隊「鹿山隊」が、北原で9人もの住民を惨殺した事件は、島の人々を戦慄させた。米軍に拉致され、日本軍の情報を漏らしたとして、1945年6月29日(28日説あり)、拉致された青年と高齢男性に加え、その家族、区長と警防団長も刺殺した。
9人は手足を針金で縛られ、何度も刺されて絶命。最後は小屋に火を付けられた上、焼け焦げた遺体さえ「引き取る者も殺す」とのうわさが広がり、野ざらしにされた。これが久米島守備隊住民虐殺事件、所謂鹿山事件である。
鹿山は生き残り、戦後、自己保身の言い訳をしている。島の少女を連れまわし、逃亡していたという男。
この事件を含め、日本軍には沖縄県民を守るという意識が全くと言っていいほどなかったことが明らかである。
米国が人種差別の国であることから、同じゲルマン民族のドイツには原爆を使わず、カラードピープルのイエロージャップである日本人にはヒロシマ、ナガサキと二つも原爆を落とした。
同様に、日本人も琉球民族や先住民族であるアイヌ民族を差別してきた。
戦争だから、百歩譲って、沖縄を本土の防波堤にしたことは棚上げしても、琉球民族である沖縄県民を日米戦争に巻き込む以上、沖縄県民を守るということは軍隊として最低限やらなければならないことではないのか。
然るに、ガマに住民が逃げ込めば、赤子の泣き声で米軍に居場所がわかってしまうから、赤子を殺せと命じたし、米軍の投降の呼びかけに住民がガマから出て行こうとすれば、後ろから味方であるはずの日本軍兵士に撃たれた。
琉球民族には立派な人たちが少なくない。
戦争が終わって、あれほど住民を苦しめた日本軍ばかりでなく、鉄の暴風と呼ばれた艦砲射撃、火炎放射器で住民を兵隊と一緒に焼き殺した米軍兵士も一緒に平和の礎に名前を刻み追悼している。
まさに、ラグビーのノーサイドを思わせるような振る舞いである。
沖縄県民を集団自決に追い込んだのも日本軍である。
生きて虜囚の辱め・・・。ではない。非武装の住民を米軍は原則として殺したりはしない。
しかし、過ぎてしまったことは、反省して、二度と戦争を起こさない。巻き込まれないようにすることで犠牲者の御霊に約束するしかない。
戦争にならないように、巻き込まれないようにふだんから要注意である。
2025年08月20日
『流れる星は生きている』「子を生かす」母の戦い
『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫)の直木賞作家新田次郎(藤原寛人)と連れ合いで幼い子ども3人を連れて満州から朝鮮へと逃れた時の1年余を綴った『流れる星は生きている』で知られる藤原てい夫妻の戦後80年の家族の記憶Dが8月16日の読売で伝えられている。
満州国の観象台(気象台)の課長だった寛人さんは、1945年8月9日未明のソ連軍侵攻で職場から呼び出され、家族は鉄路で脱出させるということで、家族とは別離となった。
その後、中国の延吉で抑留されながら、機器修理の仕事を任され、特別な待遇を受けていたらしい。
夫妻の次男で数学者の藤原正彦さんは、『国家の品格』(新潮新書)などたくさんの著作で知られる。当時2歳だったが、戦後の両親を見て、「満州で別離となった母への負い目だけでなく、重労働を強いられ、飢えに苦しんだ抑留者たちへの後ろめたさを、父はずっと引きずって生きた」と話す。
もともとは穏やかな女性だったていさんは、満州脱出で「子を生かす」ための母の戦いを経て「猛女」に変身していたそうな。
五味川純平『人間の條件』(三一書房)を原作にTVドラマ化されたとき、主人公梶を演じたのが加藤剛だった。人間性豊かで、満州に渡って中国人を使う立場になっても、彼らに酷いことができない梶にピッタリの俳優だった。
梶からの影響で満州に関心を持ったのは中学生の時ではなかったか。
『流れる星は生きている』を買い求めて読んだのは満州に関心があったからだが、今思えば、若い頃は知識も浅くて、上っ面のことしか知らなかった。
藤原一家は、梶がそうであったように満蒙開拓団員ではなく、政府機関で働く満州のエリート層にあたるから取り残された満蒙開拓団とは異なり、いち早く脱出もできたと言っても過言ではない。
その後、満蒙開拓団のことを学習するうちに彼らが中国人の土地を奪ったも同然かつ、彼らを見下していたことが分かり、1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻で立場が逆転したのはある意味で当然のことだったといえるかもしれない。
逃避行でやせ細るばかりの子どもたちのために、物乞いをした時、出てきた女性は村八分を恐れながら<日本人をみんな恨んでいる。でも、あなた方には何の罪もない。私がこれからものを捨てるから、それを急いで拾いなさい>
藪に置かれた器にはたくさんのご飯と、漬物と味噌だった。
ていさんは、「私たちを救ってくれたのは、北朝鮮の貧乏なお百姓さんだった」と繰り返し子どもたちに語って聞かせた。とは『流れる星』にも書いてある。
梶のように満州で現地の人を虐めなかった人がいた一方で、虐めた日本人が大多数だった。
それでも、中国人や朝鮮人の中には、逃避行で困り抜いている人に手を差し伸べてくれた人がいたのである。
過去はやはり反省し、友好を深める努力をすることが大切だと教えられた。
満州国の観象台(気象台)の課長だった寛人さんは、1945年8月9日未明のソ連軍侵攻で職場から呼び出され、家族は鉄路で脱出させるということで、家族とは別離となった。
その後、中国の延吉で抑留されながら、機器修理の仕事を任され、特別な待遇を受けていたらしい。
夫妻の次男で数学者の藤原正彦さんは、『国家の品格』(新潮新書)などたくさんの著作で知られる。当時2歳だったが、戦後の両親を見て、「満州で別離となった母への負い目だけでなく、重労働を強いられ、飢えに苦しんだ抑留者たちへの後ろめたさを、父はずっと引きずって生きた」と話す。
もともとは穏やかな女性だったていさんは、満州脱出で「子を生かす」ための母の戦いを経て「猛女」に変身していたそうな。
五味川純平『人間の條件』(三一書房)を原作にTVドラマ化されたとき、主人公梶を演じたのが加藤剛だった。人間性豊かで、満州に渡って中国人を使う立場になっても、彼らに酷いことができない梶にピッタリの俳優だった。
梶からの影響で満州に関心を持ったのは中学生の時ではなかったか。
『流れる星は生きている』を買い求めて読んだのは満州に関心があったからだが、今思えば、若い頃は知識も浅くて、上っ面のことしか知らなかった。
藤原一家は、梶がそうであったように満蒙開拓団員ではなく、政府機関で働く満州のエリート層にあたるから取り残された満蒙開拓団とは異なり、いち早く脱出もできたと言っても過言ではない。
その後、満蒙開拓団のことを学習するうちに彼らが中国人の土地を奪ったも同然かつ、彼らを見下していたことが分かり、1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻で立場が逆転したのはある意味で当然のことだったといえるかもしれない。
逃避行でやせ細るばかりの子どもたちのために、物乞いをした時、出てきた女性は村八分を恐れながら<日本人をみんな恨んでいる。でも、あなた方には何の罪もない。私がこれからものを捨てるから、それを急いで拾いなさい>
藪に置かれた器にはたくさんのご飯と、漬物と味噌だった。
ていさんは、「私たちを救ってくれたのは、北朝鮮の貧乏なお百姓さんだった」と繰り返し子どもたちに語って聞かせた。とは『流れる星』にも書いてある。
梶のように満州で現地の人を虐めなかった人がいた一方で、虐めた日本人が大多数だった。
それでも、中国人や朝鮮人の中には、逃避行で困り抜いている人に手を差し伸べてくれた人がいたのである。
過去はやはり反省し、友好を深める努力をすることが大切だと教えられた。
2025年08月19日
「片腕しかなくさず 幸運」水木しげるさん
戦後80年 昭和百年 家族の記憶Bは部隊全滅後、爆撃で左腕を失うという凄惨な経験をしている漫画家水木しげるさん(本名武良茂、2015年に93歳で死去)で、8月14日の読売が伝えている。
晩年になるまで、戦争のことは話さなかったというのは、長女の原口尚子さん(62)と次女の武良悦子さん(58)姉妹だ。
戦争体験を描いた「総員玉砕せよ!」を発表したのは漫画家として成功した後の73年だ。
陽気な父親がしか知らなかった悦子さんは「読んで1週間ほどうちひしがれた」そうな。
21歳で南方の戦地に送られ、43年11月、豪州領ニューブリテン島に築いた拠点ラバウル防衛のために送り込まれたのが、二等兵の水木さんが所属する聯隊だった。
偵察要員として奥地に送り込まれた水木さんら10人ほどのうち、生き残ったのは水木さん一人だった。敵側につく部族に終われ、海を泳ぎ、密林を逃げ惑い帰還して待っていたのは、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだからお前も死ね!」という上官からの罵倒だった。
水木しげるさんの戦争体験はよく知られたことだから、当然、自分も知っていたが、改めて教えられたことがある。
軍隊内の私的制裁を作品にしたことで、「畳と初年兵 殴るほど良くなる」という私的リンチがまかり通っていたのが天皇の軍隊とされていた日本軍で、こんな軍隊は日本だけだ。
広陵高校野球部での私的制裁は明らかな刑法犯であるが、高野連も学校も被害者のことを全く考えもしなかった。
教育機関である高等学校で、これほどの暴力がまかり通るのは第一に監督が無能だからで、野球が強ければよいというものではない。
そもそも学校長が記者会見で刑法犯罪が行われてきた事実を隠蔽し、SNSで誹謗中傷されたことで生徒を守るためだという論旨のすり替えを行っていた。
無能な校長は学校内での刑法犯罪を野放しにし、被害生徒を救済しようともしなかったくせに、加害者を守ろうとするのは一昔前の日本の司法の世界とそっくりだ。
加害者の人権ばかり擁護する司法制度に風穴を開けたのは全国犯罪被害者の会(あすの会)の岡村勲代表幹事だった。被害者の人権を犯罪被害者等基本法で認めさせたのである。
話が逸れてしまったが、日本の軍隊の暴力の酷さは五味川純平『人間の條件』(三一書房)でも主人公の梶を通してしっかり描かれていた。
作家城山三郎さんは海軍での船内での暴力を告発していたことで知られる。
水木しげるさんは「人の死を悲しんでいる暇さえない場所にいて、片腕しかなくさず帰ってこられた。その幸運がわからんのですか」と壮絶な体験の取材を受けたとき語っている。
さらに、戦地を生き延びた幸運は「怪奇」に近いものだったらしい。
「総員玉砕せよ!」で訴える水木さんの戦争に対する見解は、異様な考えを持つ軍人たちの存在にある。
息のある兵士の指を切り、遺族のために遺骨を持ち帰ろうとする。幹部に自決を強いる。自ら死を選ぶ。部下を死の道連れにする・・・。
教育で洗脳するとこんな軍人たちが抜港するのかもしれない。
とにかく、戦争で片腕を失うも、無事帰国を果たした水木さん。
戦地から帰ってこられなかった戦没者たち。
本当の意味での反省がなされていないから、相も変わらず暴力事件が学校で起きているのではないか。
晩年になるまで、戦争のことは話さなかったというのは、長女の原口尚子さん(62)と次女の武良悦子さん(58)姉妹だ。
戦争体験を描いた「総員玉砕せよ!」を発表したのは漫画家として成功した後の73年だ。
陽気な父親がしか知らなかった悦子さんは「読んで1週間ほどうちひしがれた」そうな。
21歳で南方の戦地に送られ、43年11月、豪州領ニューブリテン島に築いた拠点ラバウル防衛のために送り込まれたのが、二等兵の水木さんが所属する聯隊だった。
偵察要員として奥地に送り込まれた水木さんら10人ほどのうち、生き残ったのは水木さん一人だった。敵側につく部族に終われ、海を泳ぎ、密林を逃げ惑い帰還して待っていたのは、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだからお前も死ね!」という上官からの罵倒だった。
水木しげるさんの戦争体験はよく知られたことだから、当然、自分も知っていたが、改めて教えられたことがある。
軍隊内の私的制裁を作品にしたことで、「畳と初年兵 殴るほど良くなる」という私的リンチがまかり通っていたのが天皇の軍隊とされていた日本軍で、こんな軍隊は日本だけだ。
広陵高校野球部での私的制裁は明らかな刑法犯であるが、高野連も学校も被害者のことを全く考えもしなかった。
教育機関である高等学校で、これほどの暴力がまかり通るのは第一に監督が無能だからで、野球が強ければよいというものではない。
そもそも学校長が記者会見で刑法犯罪が行われてきた事実を隠蔽し、SNSで誹謗中傷されたことで生徒を守るためだという論旨のすり替えを行っていた。
無能な校長は学校内での刑法犯罪を野放しにし、被害生徒を救済しようともしなかったくせに、加害者を守ろうとするのは一昔前の日本の司法の世界とそっくりだ。
加害者の人権ばかり擁護する司法制度に風穴を開けたのは全国犯罪被害者の会(あすの会)の岡村勲代表幹事だった。被害者の人権を犯罪被害者等基本法で認めさせたのである。
話が逸れてしまったが、日本の軍隊の暴力の酷さは五味川純平『人間の條件』(三一書房)でも主人公の梶を通してしっかり描かれていた。
作家城山三郎さんは海軍での船内での暴力を告発していたことで知られる。
水木しげるさんは「人の死を悲しんでいる暇さえない場所にいて、片腕しかなくさず帰ってこられた。その幸運がわからんのですか」と壮絶な体験の取材を受けたとき語っている。
さらに、戦地を生き延びた幸運は「怪奇」に近いものだったらしい。
「総員玉砕せよ!」で訴える水木さんの戦争に対する見解は、異様な考えを持つ軍人たちの存在にある。
息のある兵士の指を切り、遺族のために遺骨を持ち帰ろうとする。幹部に自決を強いる。自ら死を選ぶ。部下を死の道連れにする・・・。
教育で洗脳するとこんな軍人たちが抜港するのかもしれない。
とにかく、戦争で片腕を失うも、無事帰国を果たした水木さん。
戦地から帰ってこられなかった戦没者たち。
本当の意味での反省がなされていないから、相も変わらず暴力事件が学校で起きているのではないか。
2025年08月18日
父親を助けたガジュマル 「コカリナ」に伊江島
月に一度の映画館行き、8月に観た『木の上の軍隊』のモデルとなった沖縄県の伊江島の佐次田秀順さん(2009年91歳で死去)が隠れたガジュマルの大樹が2023年の台風で倒れた。落胆する佐次田さんの息子満さん(77)らに枝でコカリナを作ることを提案したのがコカリナ奏者の黒坂黒太郎さん(76)だった。
2025年7月に戦争体験者らが東京で開催したコンサート会場で、コカリナを手にガジュマルの樹上で生き延びた父親のこと、平和の尊さを訴えた満さんのことを8月14日の読売(貞末ヒトミ記者)が伝えている。
映画を観たとき、ガジュマルの樹上で2年 生還した兵の概要は書いている。
書いていなかったのは、伊江島は戦後も米軍が基地として島の3分の1を占拠したままだということ。
恥ずかしながら、知らなかったのである。
2024年、戦没者とみられる20人分の遺骨がみつかったばかりだ。
1959年6月30日、通っていた宮森小に米軍機が墜落して多くの子どもが亡くなった事故があった。
東京五輪開催の1964(昭和39)年4月28日、嘉手納基地から厚木基地に向かった米軍機が東京は町田市の民家に墜落事故を起こしたことを当時多感な中学生で覚えている自分としては、「沖縄の戦後は迎えていない」という満さんの気持ちを理解する。
30年ほど前、紙芝居を作り、学校に配った。卒業生らでつくるNPO法人「石川・宮森630会」で慰霊祭や写真展も開いている。
佐次田満さんはコカリナを手に「いつか戦争を『過去のもの』にするため、世界に沖縄の歴史や現状を伝え続けたい」と願っている。
米国との戦争に敗れてよかったのは、治安維持法がなくなったことだ。治安維持法d100年になるが、戦争に反対する人を捕まえ、拷問で虐殺した。こんな滅茶苦茶なことをやった国家権力がいくらかなりとも民主化されたこと。
佳くなかったのは、戦後80年経っても、日本が米国の植民地同然であること。
このことが一番顕著なのが沖縄であろう。
戦争をやってはいけないが、自国を守るのは自国の民であり、米軍ではないことだけは覚えておく必要がある。
日米同盟を見直し、日米地位協定の不平等を改正しなければならない。
2025年7月に戦争体験者らが東京で開催したコンサート会場で、コカリナを手にガジュマルの樹上で生き延びた父親のこと、平和の尊さを訴えた満さんのことを8月14日の読売(貞末ヒトミ記者)が伝えている。
映画を観たとき、ガジュマルの樹上で2年 生還した兵の概要は書いている。
書いていなかったのは、伊江島は戦後も米軍が基地として島の3分の1を占拠したままだということ。
恥ずかしながら、知らなかったのである。
2024年、戦没者とみられる20人分の遺骨がみつかったばかりだ。
1959年6月30日、通っていた宮森小に米軍機が墜落して多くの子どもが亡くなった事故があった。
東京五輪開催の1964(昭和39)年4月28日、嘉手納基地から厚木基地に向かった米軍機が東京は町田市の民家に墜落事故を起こしたことを当時多感な中学生で覚えている自分としては、「沖縄の戦後は迎えていない」という満さんの気持ちを理解する。
30年ほど前、紙芝居を作り、学校に配った。卒業生らでつくるNPO法人「石川・宮森630会」で慰霊祭や写真展も開いている。
佐次田満さんはコカリナを手に「いつか戦争を『過去のもの』にするため、世界に沖縄の歴史や現状を伝え続けたい」と願っている。
米国との戦争に敗れてよかったのは、治安維持法がなくなったことだ。治安維持法d100年になるが、戦争に反対する人を捕まえ、拷問で虐殺した。こんな滅茶苦茶なことをやった国家権力がいくらかなりとも民主化されたこと。
佳くなかったのは、戦後80年経っても、日本が米国の植民地同然であること。
このことが一番顕著なのが沖縄であろう。
戦争をやってはいけないが、自国を守るのは自国の民であり、米軍ではないことだけは覚えておく必要がある。
日米同盟を見直し、日米地位協定の不平等を改正しなければならない。
2025年08月17日
露兵供養 抑留の恩讐超え 玉木宏さん祖父
戦後80年 昭和百年 「露兵供養 抑留の恩讐越え」「『人は平等』墓守で体現」という見出しで俳優玉木宏さん(45)の祖父武雄さんの戦争の経験を語り継ぐ、8月13日の読売の家族の記憶Aについて書いておく。
満州(現中国東北部)の奉天で終戦を迎えた武雄さんは、武装解除後にシベリアに連行され、45年10月にチタ州(現ザバイカル地方)で抑留生活が始まった。
真冬の気温は氷点下40度。山林伐採に従事、仲間のうち約350人が最初の冬を越せずに命を落とした。
47年10月に抑留を終え、47年10月、古里に戻った。
古里隠岐諸島の西ノ島には日露戦争で流れ着いたロシア兵を島民がカネを出し合って弔った墓があり、いつの頃からか武雄さんは墓守をするようになっていく。供えるためのシキミは畑で育てた。
シベリア抑留から無事帰国できた武雄さんからみれば、「ロシア兵も祖国に帰りたかったであろう。ロシア兵は帰りたくとも帰れなかった。生きて帰ってこられた感謝の気持ちを込めて、せめて墓の世話はしてやりたい」とのことだった。
武雄さんの博愛精神は『海を越える愛』として、ロシアでドキュメンタリー映画が20年に完成した。
「人間はみな平等、兵士は国のため、義務を果たしに戦地に行くが、戦争をしたいわけではない。戦争は繰り返してはならない」とは武雄さんの思いである。
8月15日に全国公開された『雪風YUKIKAZE』で玉木宏さんは乗組員を演じる。
「祖父が厳しい時を経て、生き延びて命を繋いでくれたからこそ今がある」と玉木宏さん。
時代、国境、立場を超えて、次の世代へとつないでいきたい生き様がある。
沖縄戦で戦没、死没した人たちを敵味方、民族の区別なく平和の礎に刻む沖縄県民の博愛精神を何回となく誉めたことがある。
俳優玉木宏さんの祖父が自身の抑留体験を棚上げし、日露戦争で西ノ島に流れ着いたロシア兵を島民が弔った墓を守っていたのは立派な行いである。
本来、死んでしまえば、大概のことは赦されることからして、戦争であっても、死ねば弔ってやることが大切だ、
コロナの時、「自粛警察」なる嫌な言葉が流行ったことがある。
北朝鮮や中国では密告社会だからこんなに住みにくい世の中はありゃしない。
女性の参議院議員で一時的に選挙で票を集めた人物が、国会での責め口調が災いし、すっかり嫌われ者になり下がってしまった。
とてもマネできることではないが、抑留された恨みつらみを棚上げし、ロシア兵の墓守をしていた武雄さんは偉い。
シベリア抑留といえば、8月14日の読売が戦後80年つなぐ記憶D「抑留いかに生き残るか」「寒さ、重労働、飢え、次々落命」という見出しでその過酷さを伝えている。
そのシベリアから生き延びてきた武雄さんが恨みつらみを言わず、黙々とロシア兵の墓守をしていたというのはどう考えても素晴らしい。
宥恕の精神というか、赦すことの難しさを超えれば、互いに友好関係も築いて行けるかもしれない・
玉木宏さんは素晴らしい祖父を持ったものである。
満州(現中国東北部)の奉天で終戦を迎えた武雄さんは、武装解除後にシベリアに連行され、45年10月にチタ州(現ザバイカル地方)で抑留生活が始まった。
真冬の気温は氷点下40度。山林伐採に従事、仲間のうち約350人が最初の冬を越せずに命を落とした。
47年10月に抑留を終え、47年10月、古里に戻った。
古里隠岐諸島の西ノ島には日露戦争で流れ着いたロシア兵を島民がカネを出し合って弔った墓があり、いつの頃からか武雄さんは墓守をするようになっていく。供えるためのシキミは畑で育てた。
シベリア抑留から無事帰国できた武雄さんからみれば、「ロシア兵も祖国に帰りたかったであろう。ロシア兵は帰りたくとも帰れなかった。生きて帰ってこられた感謝の気持ちを込めて、せめて墓の世話はしてやりたい」とのことだった。
武雄さんの博愛精神は『海を越える愛』として、ロシアでドキュメンタリー映画が20年に完成した。
「人間はみな平等、兵士は国のため、義務を果たしに戦地に行くが、戦争をしたいわけではない。戦争は繰り返してはならない」とは武雄さんの思いである。
8月15日に全国公開された『雪風YUKIKAZE』で玉木宏さんは乗組員を演じる。
「祖父が厳しい時を経て、生き延びて命を繋いでくれたからこそ今がある」と玉木宏さん。
時代、国境、立場を超えて、次の世代へとつないでいきたい生き様がある。
沖縄戦で戦没、死没した人たちを敵味方、民族の区別なく平和の礎に刻む沖縄県民の博愛精神を何回となく誉めたことがある。
俳優玉木宏さんの祖父が自身の抑留体験を棚上げし、日露戦争で西ノ島に流れ着いたロシア兵を島民が弔った墓を守っていたのは立派な行いである。
本来、死んでしまえば、大概のことは赦されることからして、戦争であっても、死ねば弔ってやることが大切だ、
コロナの時、「自粛警察」なる嫌な言葉が流行ったことがある。
北朝鮮や中国では密告社会だからこんなに住みにくい世の中はありゃしない。
女性の参議院議員で一時的に選挙で票を集めた人物が、国会での責め口調が災いし、すっかり嫌われ者になり下がってしまった。
とてもマネできることではないが、抑留された恨みつらみを棚上げし、ロシア兵の墓守をしていた武雄さんは偉い。
シベリア抑留といえば、8月14日の読売が戦後80年つなぐ記憶D「抑留いかに生き残るか」「寒さ、重労働、飢え、次々落命」という見出しでその過酷さを伝えている。
そのシベリアから生き延びてきた武雄さんが恨みつらみを言わず、黙々とロシア兵の墓守をしていたというのはどう考えても素晴らしい。
宥恕の精神というか、赦すことの難しさを超えれば、互いに友好関係も築いて行けるかもしれない・
玉木宏さんは素晴らしい祖父を持ったものである。
2025年08月16日
9歳で戦争孤児 各地転々 家族の手紙支え
「東京で大きな空襲があった。お前のうちでは、お父さんとお母さん、お姉さん3人が亡くなった」
1945年5月初旬。当時9歳だった永田郁子さん(90)(埼玉県蕨市)は学校の先生からそう教えられ、ぼう然とした。生き残ったのは7歳上の兄だけだという。親のいない戦争孤児になった。と8月9日の読売が伝えている。
永田さんが通学していた深川区(現・江東区)の国民学校では戦況悪化を受け、3〜年生が新潟県に集団疎開していた。
深川区で鉄工所を営む両親と兄姉4人の7人家族。疎開先には、毎週のように家族から手紙が届いた。つらい時でも読めば前を向けた。宝物だった手紙は、大空襲が起きる少し前に途切れた。
46年3月、母方の祖父が来て愛知県の母の実家に引き取られた。
冷たい仕打ちに耐えられず、3か月で飛び出した。空襲後、金沢の高専に進学していた兄の下宿に居候。
兄が卒業後、男子寮に入ったため、行き場を失い、転々と路上生活を送るも、偶然、兄と再会できたことで浮浪児にならずにすんだ。
兄と再び暮らし、葛飾区の中学を卒業。学費や生活費が支給される看護学校で寮生活を送り、ようやく生活に困ることはなくなった。
永田さんは都内の病院で看護師として66歳まで働いた後、戦争孤児でつくる団体の会計事務を手伝った。2017年には団体の仲間が絵を描き、永田さんらの体験をつづった本「もしも魔法が使えたら〜戦争孤児11人の記憶〜」が出版された。しかし、語り部活動などをしてきた仲間は高齢化し、同年に団体は解散。永田さんは数年前から、小学校などで体験を話すようになった。
同日の読売の紙面では、孤児を救う民営施設として久留米村(現東久留米市)の民営施設「久留米勤労輔導学園のことが紹介されている。
戦後80年となる8月15日、アジア太平洋戦争の犠牲者に黙とうを捧げた。
8月15日、玉音放送後に出撃した宇垣特攻のことを書いたので、16日は東京大空襲で親を亡くし、孤児となった女性のことを書いている。
1948年2月に国が行った「全国孤児一斉調査」では孤児の総数約12万3500人で、うち戦争孤児は約2万8000人。東京の戦争孤児は約2000人。
TV局が『火垂るの墓』を毎年のように8月に放送してくれている気がするが、2025年の予定はわからないけれど、永田郁子さんと兄との話で、ここにも節子と清太がいたと思った。
元明星大学常勤教授で社会福祉士の藤井常文さん(76)によれば、孤児を救う民営施設は都内におよそ60、都外にも多数つくられた。
施設の数からみても、東京の戦争孤児はもっと多かったはずである。
東久留米の学園の園長を務めた中込友美さん(故人)は詩人で青少年の職業教育もしていた。
学園では、食料事情改善と職業訓練も兼ねて、畑を耕し、鶏や豚を飼った。
園生は里親に引き取られるなどして巣立っていった。
学園は50年5月に閉鎖を余儀なくされた。「GHQから農作業で孤児に労働を強いていると疑われ、解散させられた」という。
孤児になると世間は冷たい。肉親の縁者はもっと意地悪だ。
清太と節子をみればわかるはずだ。
孤児だけでは生きていかれない。
今、シングルマザーなどの家庭では、夏休みで給食がないから子どもば満足に食べられない。
子ども食堂で奮闘している心ある人達に救われているが、参議院議員選挙で台頭した極右の参政党の神谷党首は子ども食堂はいらないと言った云々と伝えられている。
選挙で消費税廃止を真剣に訴えたのはれいわ新選組の山本太郎代表だけだが、選挙の時だけ、消費税引き下げを公約した政党は選挙が終われば、れいわ新選組だけしか消費税のことを言わない。
戦後の食糧事情は孤児ばかりが苦しかったわけではないが、それでも、中込さんのように孤児の力になってくれた心ある人がいたことを語り継ぐとともに、戦争では子どもたちが一番苦しめられることから、戦争にならないように注意していかなければならない。
1945年5月初旬。当時9歳だった永田郁子さん(90)(埼玉県蕨市)は学校の先生からそう教えられ、ぼう然とした。生き残ったのは7歳上の兄だけだという。親のいない戦争孤児になった。と8月9日の読売が伝えている。
永田さんが通学していた深川区(現・江東区)の国民学校では戦況悪化を受け、3〜年生が新潟県に集団疎開していた。
深川区で鉄工所を営む両親と兄姉4人の7人家族。疎開先には、毎週のように家族から手紙が届いた。つらい時でも読めば前を向けた。宝物だった手紙は、大空襲が起きる少し前に途切れた。
46年3月、母方の祖父が来て愛知県の母の実家に引き取られた。
冷たい仕打ちに耐えられず、3か月で飛び出した。空襲後、金沢の高専に進学していた兄の下宿に居候。
兄が卒業後、男子寮に入ったため、行き場を失い、転々と路上生活を送るも、偶然、兄と再会できたことで浮浪児にならずにすんだ。
兄と再び暮らし、葛飾区の中学を卒業。学費や生活費が支給される看護学校で寮生活を送り、ようやく生活に困ることはなくなった。
永田さんは都内の病院で看護師として66歳まで働いた後、戦争孤児でつくる団体の会計事務を手伝った。2017年には団体の仲間が絵を描き、永田さんらの体験をつづった本「もしも魔法が使えたら〜戦争孤児11人の記憶〜」が出版された。しかし、語り部活動などをしてきた仲間は高齢化し、同年に団体は解散。永田さんは数年前から、小学校などで体験を話すようになった。
同日の読売の紙面では、孤児を救う民営施設として久留米村(現東久留米市)の民営施設「久留米勤労輔導学園のことが紹介されている。
戦後80年となる8月15日、アジア太平洋戦争の犠牲者に黙とうを捧げた。
8月15日、玉音放送後に出撃した宇垣特攻のことを書いたので、16日は東京大空襲で親を亡くし、孤児となった女性のことを書いている。
1948年2月に国が行った「全国孤児一斉調査」では孤児の総数約12万3500人で、うち戦争孤児は約2万8000人。東京の戦争孤児は約2000人。
TV局が『火垂るの墓』を毎年のように8月に放送してくれている気がするが、2025年の予定はわからないけれど、永田郁子さんと兄との話で、ここにも節子と清太がいたと思った。
元明星大学常勤教授で社会福祉士の藤井常文さん(76)によれば、孤児を救う民営施設は都内におよそ60、都外にも多数つくられた。
施設の数からみても、東京の戦争孤児はもっと多かったはずである。
東久留米の学園の園長を務めた中込友美さん(故人)は詩人で青少年の職業教育もしていた。
学園では、食料事情改善と職業訓練も兼ねて、畑を耕し、鶏や豚を飼った。
園生は里親に引き取られるなどして巣立っていった。
学園は50年5月に閉鎖を余儀なくされた。「GHQから農作業で孤児に労働を強いていると疑われ、解散させられた」という。
孤児になると世間は冷たい。肉親の縁者はもっと意地悪だ。
清太と節子をみればわかるはずだ。
孤児だけでは生きていかれない。
今、シングルマザーなどの家庭では、夏休みで給食がないから子どもば満足に食べられない。
子ども食堂で奮闘している心ある人達に救われているが、参議院議員選挙で台頭した極右の参政党の神谷党首は子ども食堂はいらないと言った云々と伝えられている。
選挙で消費税廃止を真剣に訴えたのはれいわ新選組の山本太郎代表だけだが、選挙の時だけ、消費税引き下げを公約した政党は選挙が終われば、れいわ新選組だけしか消費税のことを言わない。
戦後の食糧事情は孤児ばかりが苦しかったわけではないが、それでも、中込さんのように孤児の力になってくれた心ある人がいたことを語り継ぐとともに、戦争では子どもたちが一番苦しめられることから、戦争にならないように注意していかなければならない。
2025年08月15日
部下を道連れ 玉音放送後の宇垣特攻の理不尽さ
終戦を告げる1945年8月15日の玉音放送の後、当時21歳の大木正夫・上等飛行兵曹は「宇垣特攻」の一員として出撃し、戦死した。
子孫にあたる道脇紗知子さん(46)は、大木について調べるうち、共に戦火の時代を生きた元海軍軍人に出会った。と8月7日の読売(編集委員森太)が夕刊で伝えている。
宇垣特攻とは宇垣纒中将が玉音放送の5時間後、艦上爆撃機{彗星)11機にて隊員22人を率いて沖縄に向かった特攻。宇垣を含め18人が死亡した。偵察員だった大木は後席にいた。
「1人で死ねよ!」と叫んだ部下もいたらしい。部下を道連れにした身勝手な特攻だった。
道脇さんは、防衛研究所や軍事関係の書籍を手がける出版社に通い、元特攻隊員らを紹介してもらい、片っ端から手紙を書き、訪ね歩いた。
直接知る人に出会えないまま、2007年に自著『8月15日の特攻隊員』を出版した。
翌年、大木さんと海軍予科練で「竹馬の友」だった神馬文男さん(99)(札幌市)からはがきが届き、大木さんの話を聞くことができた。
神馬さんは1945年8月10日、乗っていた偵察機が日本海に墜落し、漂流した後、九死に一生を得た。
敗戦後は、シベリアの収容所に送られ、炭鉱労働や森林伐採の抑留生活。47年8月に帰国。
道脇さんのことを「戦争をよく調べ、本を書き、伝えてくれる行動力を尊敬している。それが死んだ大木を生かすことになる」と話す。
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)を買い求めて読んでいるので、宇垣特攻のことは知っていた。
中津留達雄達雄大尉が宇垣纒中将からの命令で、玉音放送後に指揮、出撃した宇垣特攻を知るには、まずこの本が参考になる。
兵学校の同期、関行男大尉がレイテ沖海戦で特攻一号として死に、玉音放送後、中津留達雄大尉が宇垣特攻の指揮官として死ぬのだ。
大木さんのことが書かれていたかどうか記憶にないが、道連れ特攻として知られる宇垣特攻で死んだ人は浮かばれない。
「1人で死ね!」と叫びたい気持ちを理解する。
特攻隊の創始者として、部下を死なせた責任を取って、8月16日に割腹自決をした大西瀧治郎中将の方がはるかに立派だ。聞くところによれば、介錯を拒否し、長く苦しみながら死んでいったという。
大木さんの子孫道脇紗知子さんにはエールをおくりたい。
元特攻隊員を探した情熱には頭が下がる。ここまでなかなかできない。
本を刊行したことも評価するが、子孫として先祖の玉音放送後の特攻について調べようとする姿勢が尊敬できる。
宇垣特攻は軍人幹部の身勝手さが証明される事件ではある。
文春オンラインによれば、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将は8月15日、指揮下の残存航空機すべてに対し、関東沖の米機動部隊に対する特攻を命じた。この日、木更津から出撃した神風特別攻撃隊第七御盾隊第四次流星隊の「流星」艦爆2機のうち1機を操縦していた小瀬本國雄飛行兵曹長によれば、寺岡長官は、「攻撃目標は、房総沖の敵機動部隊である。諸氏の必中を祈る」と訓示し、「君たちだけを死なせはしない、私も必ず後から行く」と明言した。
戦後もおめおめと生き残った汚い奴、うそつき。
軍人なんてこんなもので、こんな奴の命令で死んだ人間は浮かばれない。
子孫にあたる道脇紗知子さん(46)は、大木について調べるうち、共に戦火の時代を生きた元海軍軍人に出会った。と8月7日の読売(編集委員森太)が夕刊で伝えている。
宇垣特攻とは宇垣纒中将が玉音放送の5時間後、艦上爆撃機{彗星)11機にて隊員22人を率いて沖縄に向かった特攻。宇垣を含め18人が死亡した。偵察員だった大木は後席にいた。
「1人で死ねよ!」と叫んだ部下もいたらしい。部下を道連れにした身勝手な特攻だった。
道脇さんは、防衛研究所や軍事関係の書籍を手がける出版社に通い、元特攻隊員らを紹介してもらい、片っ端から手紙を書き、訪ね歩いた。
直接知る人に出会えないまま、2007年に自著『8月15日の特攻隊員』を出版した。
翌年、大木さんと海軍予科練で「竹馬の友」だった神馬文男さん(99)(札幌市)からはがきが届き、大木さんの話を聞くことができた。
神馬さんは1945年8月10日、乗っていた偵察機が日本海に墜落し、漂流した後、九死に一生を得た。
敗戦後は、シベリアの収容所に送られ、炭鉱労働や森林伐採の抑留生活。47年8月に帰国。
道脇さんのことを「戦争をよく調べ、本を書き、伝えてくれる行動力を尊敬している。それが死んだ大木を生かすことになる」と話す。
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)を買い求めて読んでいるので、宇垣特攻のことは知っていた。
中津留達雄達雄大尉が宇垣纒中将からの命令で、玉音放送後に指揮、出撃した宇垣特攻を知るには、まずこの本が参考になる。
兵学校の同期、関行男大尉がレイテ沖海戦で特攻一号として死に、玉音放送後、中津留達雄大尉が宇垣特攻の指揮官として死ぬのだ。
大木さんのことが書かれていたかどうか記憶にないが、道連れ特攻として知られる宇垣特攻で死んだ人は浮かばれない。
「1人で死ね!」と叫びたい気持ちを理解する。
特攻隊の創始者として、部下を死なせた責任を取って、8月16日に割腹自決をした大西瀧治郎中将の方がはるかに立派だ。聞くところによれば、介錯を拒否し、長く苦しみながら死んでいったという。
大木さんの子孫道脇紗知子さんにはエールをおくりたい。
元特攻隊員を探した情熱には頭が下がる。ここまでなかなかできない。
本を刊行したことも評価するが、子孫として先祖の玉音放送後の特攻について調べようとする姿勢が尊敬できる。
宇垣特攻は軍人幹部の身勝手さが証明される事件ではある。
文春オンラインによれば、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将は8月15日、指揮下の残存航空機すべてに対し、関東沖の米機動部隊に対する特攻を命じた。この日、木更津から出撃した神風特別攻撃隊第七御盾隊第四次流星隊の「流星」艦爆2機のうち1機を操縦していた小瀬本國雄飛行兵曹長によれば、寺岡長官は、「攻撃目標は、房総沖の敵機動部隊である。諸氏の必中を祈る」と訓示し、「君たちだけを死なせはしない、私も必ず後から行く」と明言した。
戦後もおめおめと生き残った汚い奴、うそつき。
軍人なんてこんなもので、こんな奴の命令で死んだ人間は浮かばれない。
2025年08月14日
「日本は負ける」特攻出撃した兄
【戦後80年】「『日本は負ける』兄の言葉 安曇野出身の特攻隊員上原良司さんと家族の記録 いま伝える『平穏な日常』の意味 #戦争の記憶」というタイトルでテレビ信州が8月14日のWEBで伝えている。
「日本は負けるよって。僕は死んでも靖国(神社)には 行かないから 天国に行くから って。(良司さんの言葉を)誰にも父や母にも話しませんでした。もうあの当時の日本のようにならないように努力してほしいって思ってます」とは妹の上原登志江さん。
兄との最後の思い出を語る上原登志江さん。95歳。安曇野で生まれ育った登志江さんは5人兄弟の末っ子。長男の良春さん、次男の龍男さんそして特攻隊員だった良司さん、3人の兄を、戦争で亡くした。
学徒動員で特攻隊員となり、終戦の3か月前に出撃…、帰らぬ人となった。
『明日は出撃です。あすは自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿は寂しいですが心中満足で一杯です』
戦没学生の手記を集めた「きけわだつみのこえ」、その巻頭に掲載された良司さんの遺書「所感」。出撃の前夜、「直接家族に届ける」と言われ原稿用紙7枚に書き残した。
『自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白です』
良司さんと2人の兄の母校、慶應義塾大学の都倉武之教授は、上原家に遺された“家族の記録”を調査し資料にまとめてきた。
戦後80年のこの夏、都倉教授は上原家の資料の展示を企画。兄弟の遺書や一家の日常を記録したおよそ100点が慶応大学のキャンパスに運び込まれた。
毎日、発信しているのは「自由のために」である。
生きていくには、食べなければならないし、食べれば排せつもする。
しかし、生きていくとき、これとは別に誰が何と言っても自由こそ一番大事で、この自由を奪うものこそ戦争だと考えてきた。
戦後80年、思えば、軍隊に支配された日本では、治安維持法を筆頭に市民は自由を奪われてしまった。
軍隊にいて、家族に手紙を書けば、検閲されるから、思うことが書けなかった。
だから、特攻隊員だった上原さんは、一番大事な自由を奪われはしたが、命を捨てる特攻で出撃するとき、検閲を逃れて、正直な気持ちを吐露できたのではないか。
上原良司さんは慶応義塾大学の学生で、自由の有難みがよくわかっていたはずである。
その彼が、靖国神社には行かない。天国に行くと言っている。
自由を奪った軍隊に対するこれ以上のレジスタンスはない。
戦争で特攻隊員として、死んでいった先人たちのお陰で、戦後80年、ある程度の自由には恵まれたが、ここにきて、その自由が再び、戦争で奪われようとしている。
何としても、自由を奪われてはならない。
「日本は負けるよって。僕は死んでも靖国(神社)には 行かないから 天国に行くから って。(良司さんの言葉を)誰にも父や母にも話しませんでした。もうあの当時の日本のようにならないように努力してほしいって思ってます」とは妹の上原登志江さん。
兄との最後の思い出を語る上原登志江さん。95歳。安曇野で生まれ育った登志江さんは5人兄弟の末っ子。長男の良春さん、次男の龍男さんそして特攻隊員だった良司さん、3人の兄を、戦争で亡くした。
学徒動員で特攻隊員となり、終戦の3か月前に出撃…、帰らぬ人となった。
『明日は出撃です。あすは自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿は寂しいですが心中満足で一杯です』
戦没学生の手記を集めた「きけわだつみのこえ」、その巻頭に掲載された良司さんの遺書「所感」。出撃の前夜、「直接家族に届ける」と言われ原稿用紙7枚に書き残した。
『自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白です』
良司さんと2人の兄の母校、慶應義塾大学の都倉武之教授は、上原家に遺された“家族の記録”を調査し資料にまとめてきた。
戦後80年のこの夏、都倉教授は上原家の資料の展示を企画。兄弟の遺書や一家の日常を記録したおよそ100点が慶応大学のキャンパスに運び込まれた。
毎日、発信しているのは「自由のために」である。
生きていくには、食べなければならないし、食べれば排せつもする。
しかし、生きていくとき、これとは別に誰が何と言っても自由こそ一番大事で、この自由を奪うものこそ戦争だと考えてきた。
戦後80年、思えば、軍隊に支配された日本では、治安維持法を筆頭に市民は自由を奪われてしまった。
軍隊にいて、家族に手紙を書けば、検閲されるから、思うことが書けなかった。
だから、特攻隊員だった上原さんは、一番大事な自由を奪われはしたが、命を捨てる特攻で出撃するとき、検閲を逃れて、正直な気持ちを吐露できたのではないか。
上原良司さんは慶応義塾大学の学生で、自由の有難みがよくわかっていたはずである。
その彼が、靖国神社には行かない。天国に行くと言っている。
自由を奪った軍隊に対するこれ以上のレジスタンスはない。
戦争で特攻隊員として、死んでいった先人たちのお陰で、戦後80年、ある程度の自由には恵まれたが、ここにきて、その自由が再び、戦争で奪われようとしている。
何としても、自由を奪われてはならない。
2025年08月13日
被爆の実相を語り継ぐ 投下の瞬間 思いはせて
戦後80年 被爆の実相を語り継ぐ―ノーベル賞受賞者を囲むフォーラムが7月20日、東京大学安田講堂で開催された。
ノーベル平和賞を2024年受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中煕巳代表委員、高見沢将林元軍縮会議代表部大使、ノンフィクション作家堀川惠子さんが基調講演を行った。
「核のタブー叫び続ける」、「立場対立 超える発想を」、「投下の瞬間 思いはせて」という見出しで、それぞれの立場から講演されているが、NHKで放送された爆心地から500b以内で被爆し、生き延びた78人の証言に激しく心を揺さぶられたので、「投下の瞬間、その下にいた人がどうなったか、私たちには想像力がある。ぜひ、思いをはせてほしい」と訴える堀川惠子さんにスポットを当てて紹介することにした。
広島生まれの広島育ちで広島のテレビ局で記者をしていた堀川さん。小さい頃から原爆や被爆者の話をたくさん聞かされ、辟易というか、嫌だと思っていた。
記者になって、広島平和記念公園で被爆者の山崎寛治さんに出会い、原爆投下時のことを聞き、被爆証言が「自分につながる人たちに起きた話なのだ」と、心に落ちた。
生き残った被爆者の証言を追っている時、広島平和記念公園内に原爆供養塔があり、原爆で亡くなった引き取り手のない遺骨が眠っていることに気づき、本当にやらなければいけないのは死者に向き合うことだと思って取材し『原爆供養塔』を2015年に刊行した。
7万人が眠っている原爆供養塔。その遺骨を家族に返す取り組みをしていた佐伯敏子さん。
「遺骨になった人は皆、あの日のままなのだ」と言った。
胸が詰まる思いがしたという堀川さん。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのは2008年のことになる。
陸軍の特攻隊の基地があった知覧を訪れた。
炎症性腸疾患クローン病の治療を理由に50代半ばを前に退職し、正規雇用で働いていた連れ合いを頼りに念願の「自由」を手に入れた。
手始めに、学生時代全共闘運動で卒論も書かずに卒業はさせてもらったが、もう一度、学ぼうと通教ではあるが、大学で勉強することにした。
卒論も書いて、還暦の頃には何とか卒業できたので、学んだことを活かし少しは世のためになることをやろうと考えた。
すると、せっかく手に入れた人生で一番大事だと思っている「自由」を奪われた人たちのために、その人たちの声を拾い、彼らに代わって世の中に発信していこうと考えた。
自由を奪われる一番の出来事といえば、戦争にほかならない。戦没者、死没者の慰霊をすることにした所以である。
堀川惠子さんが気づいたように、自分も生きている人より、何も言えなくされてしまった戦没者の声にこそ耳を傾けなければならないと気づいた。
2009年11月にヒロシマを訪れ、広島平和記念公園内を散策している時、導かれたように原爆供養塔を見つけた。
ヒロシマを訪れた人誰しもが手を合わせる原爆慰霊碑にも無論お参りはしたが、原爆供養塔には人が集まらないので、自分が心を込めてお参りするのはここしかないと思った。
ここに無縁仏が祀られていることを知り、益々、原爆供養塔の価値が自分にとって高くなった。
縁者が要れば、誰かがお参りしてくれるだろうが、無縁仏なれば、なかなか手を合わせてくれる人がいないのではないかと思った次第である。
堀川さんが「私たちには想像力がある」とおしゃっている。
自分は、いつも想像力を磨けと発信してきた。
想像力を磨くには、本を読み、映画を観ることが役立つ。
爆心地から500b以内で被爆した78人。
彼らが目撃した被爆者の悲惨な姿を想像するに絶対戦争はやってはいけないと思うはずだ。
ノーベル平和賞を2024年受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中煕巳代表委員、高見沢将林元軍縮会議代表部大使、ノンフィクション作家堀川惠子さんが基調講演を行った。
「核のタブー叫び続ける」、「立場対立 超える発想を」、「投下の瞬間 思いはせて」という見出しで、それぞれの立場から講演されているが、NHKで放送された爆心地から500b以内で被爆し、生き延びた78人の証言に激しく心を揺さぶられたので、「投下の瞬間、その下にいた人がどうなったか、私たちには想像力がある。ぜひ、思いをはせてほしい」と訴える堀川惠子さんにスポットを当てて紹介することにした。
広島生まれの広島育ちで広島のテレビ局で記者をしていた堀川さん。小さい頃から原爆や被爆者の話をたくさん聞かされ、辟易というか、嫌だと思っていた。
記者になって、広島平和記念公園で被爆者の山崎寛治さんに出会い、原爆投下時のことを聞き、被爆証言が「自分につながる人たちに起きた話なのだ」と、心に落ちた。
生き残った被爆者の証言を追っている時、広島平和記念公園内に原爆供養塔があり、原爆で亡くなった引き取り手のない遺骨が眠っていることに気づき、本当にやらなければいけないのは死者に向き合うことだと思って取材し『原爆供養塔』を2015年に刊行した。
7万人が眠っている原爆供養塔。その遺骨を家族に返す取り組みをしていた佐伯敏子さん。
「遺骨になった人は皆、あの日のままなのだ」と言った。
胸が詰まる思いがしたという堀川さん。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのは2008年のことになる。
陸軍の特攻隊の基地があった知覧を訪れた。
炎症性腸疾患クローン病の治療を理由に50代半ばを前に退職し、正規雇用で働いていた連れ合いを頼りに念願の「自由」を手に入れた。
手始めに、学生時代全共闘運動で卒論も書かずに卒業はさせてもらったが、もう一度、学ぼうと通教ではあるが、大学で勉強することにした。
卒論も書いて、還暦の頃には何とか卒業できたので、学んだことを活かし少しは世のためになることをやろうと考えた。
すると、せっかく手に入れた人生で一番大事だと思っている「自由」を奪われた人たちのために、その人たちの声を拾い、彼らに代わって世の中に発信していこうと考えた。
自由を奪われる一番の出来事といえば、戦争にほかならない。戦没者、死没者の慰霊をすることにした所以である。
堀川惠子さんが気づいたように、自分も生きている人より、何も言えなくされてしまった戦没者の声にこそ耳を傾けなければならないと気づいた。
2009年11月にヒロシマを訪れ、広島平和記念公園内を散策している時、導かれたように原爆供養塔を見つけた。
ヒロシマを訪れた人誰しもが手を合わせる原爆慰霊碑にも無論お参りはしたが、原爆供養塔には人が集まらないので、自分が心を込めてお参りするのはここしかないと思った。
ここに無縁仏が祀られていることを知り、益々、原爆供養塔の価値が自分にとって高くなった。
縁者が要れば、誰かがお参りしてくれるだろうが、無縁仏なれば、なかなか手を合わせてくれる人がいないのではないかと思った次第である。
堀川さんが「私たちには想像力がある」とおしゃっている。
自分は、いつも想像力を磨けと発信してきた。
想像力を磨くには、本を読み、映画を観ることが役立つ。
爆心地から500b以内で被爆した78人。
彼らが目撃した被爆者の悲惨な姿を想像するに絶対戦争はやってはいけないと思うはずだ。
2025年08月12日
日本軍の加害 “華僑粛清”
「人間がやることではない」日本軍が東南アジアで行った“華僑粛清”その実態という『日本軍が占領地で行った加害』をテーマとする、語り継ぐ戦争の立場から放っておけない記事を8月12日のWEBのテレ朝newsでみつけた。
シンガポールの中心部にある『血債の塔』。戦時中、日本軍によって命を奪われた多くの人の遺骨が眠っている。
かつて、この地で起きた悲劇の歴史。その実相を、幼き日の記憶として語り継ぐ沈素菲さん(89)。
1941(昭和16)年12月8日、真珠湾攻撃で米国との戦争に突入する日本軍は、予てから資源豊富なマレー半島に目をつけ、わずか2か月でシンガポールを陥落させ、中国大陸に侵略していた関東軍が苦戦していたことから、シンガポールの経済を支配しているとみなした華僑が中国軍に援助しているとみて、抗日分子として華僑の弾圧に乗り出した。
日本側の報告では5000人、一方、シンガポールでは5万人以上が粛清されたと、両者の言い分は異なるものの架橋を虐殺した事実は間違いないことが証言で補足されている。
シンガポール国立公文書館所蔵資料などによれば、日本軍「陣中日誌」に粛清の事実が記されている。
日本軍による粛清は、やがて、マレー半島各地へと波及する。
ゴム園を営んできた鄭来さん(90)。一家は弟二人だけ生き残った。体にはいまも、銃剣で刺された傷が残っている。銃剣は、背中から胸へ、突き抜けた。子どもまで殺そうとするなんて、人間のやることではない。と鄭来さん。
戦争で最も矛盾というか理不尽なのは、五味川純平『人間の條件』の主人公梶が満州で植民地に生きる日本の知識人として苦悶する姿だった。
部下として働く中国人に対し、同じ人間だという良心と国家権力から受ける恐怖の葛藤、やがて、召集されるや、今度は軍隊での怖ろしいまでの暴力と屈辱に遭う。戦争が終わるとソ連軍によってシベリア抑留されてしまうのだ。
愛する美千子との再会を夢見て、収容所を脱走するが、雪原に行き斃れてしまうのだ。
日本の兵隊が中国人女性に性的暴行を繰り返し、悪の限りを尽くす。
戦時中でも己の人間性を問う知識人梶はそういう日本兵と異なり、中国人女性を襲ったりはしない。
満州で、中国人に酷いことができない梶がシベリアに抑留され、収容所から脱走し、雪原に斃れるが、シベリア抑留でも、要領よく生き残った日本兵は無事帰国するのだ。
マレー半島で架橋を虐殺した日本兵全員が戦後の裁判で戦犯として罰せられたかどうか不明であるが、現実は冤罪で処罰されたとされている人物がいたことはメディアから伝えられているところである。
戦争における加害と被害を論じるとき、加害者と被害者が別々になることがほとんどだということにも理解し難い憤りを感じざるをえない。
加害者となった兵士が反撃され、酷い目に遭ったなら納得であるが、現実は加害とは無縁の市民が酷い目に遭っている。
ヒロシマ、ナガサキでの被爆者がその典型的な例だといえる。
非武装の一般市民だった被爆者たちは、戦地で敵に酷いことをしたわけでもない。ところが、米国から原爆投下され、一生苦しめられことになってしまった。
被爆者からみれば、戦争の被害者ではあるが、侵略先においては、日本人は性暴力などの加害者であり、マレー半島での住民虐殺に関与した加害者の一員とされてしまう。
満蒙開拓団が1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻によって、逃げ惑うことになった時、匿ってくれた中国人がいたことが証言されている。
助けてもらえた人は、開拓団の一員だった時、中国人に親切にしていたことで、その恩返しだと言われた云々だという。
日頃の行いが我が身に還ってくるということもある。
シンガポールの中心部にある『血債の塔』。戦時中、日本軍によって命を奪われた多くの人の遺骨が眠っている。
かつて、この地で起きた悲劇の歴史。その実相を、幼き日の記憶として語り継ぐ沈素菲さん(89)。
1941(昭和16)年12月8日、真珠湾攻撃で米国との戦争に突入する日本軍は、予てから資源豊富なマレー半島に目をつけ、わずか2か月でシンガポールを陥落させ、中国大陸に侵略していた関東軍が苦戦していたことから、シンガポールの経済を支配しているとみなした華僑が中国軍に援助しているとみて、抗日分子として華僑の弾圧に乗り出した。
日本側の報告では5000人、一方、シンガポールでは5万人以上が粛清されたと、両者の言い分は異なるものの架橋を虐殺した事実は間違いないことが証言で補足されている。
シンガポール国立公文書館所蔵資料などによれば、日本軍「陣中日誌」に粛清の事実が記されている。
日本軍による粛清は、やがて、マレー半島各地へと波及する。
ゴム園を営んできた鄭来さん(90)。一家は弟二人だけ生き残った。体にはいまも、銃剣で刺された傷が残っている。銃剣は、背中から胸へ、突き抜けた。子どもまで殺そうとするなんて、人間のやることではない。と鄭来さん。
戦争で最も矛盾というか理不尽なのは、五味川純平『人間の條件』の主人公梶が満州で植民地に生きる日本の知識人として苦悶する姿だった。
部下として働く中国人に対し、同じ人間だという良心と国家権力から受ける恐怖の葛藤、やがて、召集されるや、今度は軍隊での怖ろしいまでの暴力と屈辱に遭う。戦争が終わるとソ連軍によってシベリア抑留されてしまうのだ。
愛する美千子との再会を夢見て、収容所を脱走するが、雪原に行き斃れてしまうのだ。
日本の兵隊が中国人女性に性的暴行を繰り返し、悪の限りを尽くす。
戦時中でも己の人間性を問う知識人梶はそういう日本兵と異なり、中国人女性を襲ったりはしない。
満州で、中国人に酷いことができない梶がシベリアに抑留され、収容所から脱走し、雪原に斃れるが、シベリア抑留でも、要領よく生き残った日本兵は無事帰国するのだ。
マレー半島で架橋を虐殺した日本兵全員が戦後の裁判で戦犯として罰せられたかどうか不明であるが、現実は冤罪で処罰されたとされている人物がいたことはメディアから伝えられているところである。
戦争における加害と被害を論じるとき、加害者と被害者が別々になることがほとんどだということにも理解し難い憤りを感じざるをえない。
加害者となった兵士が反撃され、酷い目に遭ったなら納得であるが、現実は加害とは無縁の市民が酷い目に遭っている。
ヒロシマ、ナガサキでの被爆者がその典型的な例だといえる。
非武装の一般市民だった被爆者たちは、戦地で敵に酷いことをしたわけでもない。ところが、米国から原爆投下され、一生苦しめられことになってしまった。
被爆者からみれば、戦争の被害者ではあるが、侵略先においては、日本人は性暴力などの加害者であり、マレー半島での住民虐殺に関与した加害者の一員とされてしまう。
満蒙開拓団が1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻によって、逃げ惑うことになった時、匿ってくれた中国人がいたことが証言されている。
助けてもらえた人は、開拓団の一員だった時、中国人に親切にしていたことで、その恩返しだと言われた云々だという。
日頃の行いが我が身に還ってくるということもある。
2025年08月11日
原子雲の下を生き抜いて
NHKアーカイブス NHKスペシャル 「長崎の子・映像の記憶〜原子雲の下に生きて〜」を視聴することができたので書いておく。
「被爆直後から、日米両国のカメラマンによって映像で記録され続けてきた、長崎の子どもたち。原爆に傷つき、家族を失った彼らは、その後アメリカによる放射能被害の調査の対象とされた。さらに、社会の偏見や、子や孫への遺伝の不安の中で戦後を生きてきた。原爆によって幾重にも傷つけられ続けた子どもたちの真実を描いたドキュメンタリー。」と㏋にある。
被爆80年目の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、福山雅治のクスノキを城山小学校と山里小学校の児童が一緒に歌った。
ナガサキを訪れたのは2009年8月のことで、一度しか行くことができていないので、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚としては知らないことの方が多い。
爆心地から最も近い城山小学校が米国の原爆投下で被害に遭ったことは知っていたが、被爆クスノキやクスノキが歌になっていることや山里小学校のことは恥ずかしながら知らなかった。
県営の平和祈念公園の原爆資料館から下りながら、浦上天主堂を訪れたら、休館日で見学できなかったが、爆心地から最も近かった西に500bの城山小学校では、児童約1500人中、1400人が、北へ約700bの山里小学校では児童1581人中、約1300人がそれぞれ亡くなっているといわれている。
NHKが放送してくれたヒロシマで爆心地から半径500b内で奇跡的に生き延びた78人の証言について書いたが、「原子雲の下を生きて」は、爆心地から北へ約700bの山里小学校に在籍していた児童の証言を集め、後年の人生を取材し、伝えていたもので、被爆者の辛い、過酷な人生は予想を遥かに超えていた。
親を亡くし、親族に育てられた女性が自身のレイプ体験を語り、被爆者に対する周囲の差別が犯罪被害者となってもあったことを伝えていた。
顔の半分にケロイドが残っていた男性は、子どもが小さい頃、そのことを聞かれ、自身ではどうすることもできないケロイドを負った身を、早く天国の指定席に行きたいと、被爆者が生き抜くことの大変さを語っていた。
被爆体験を学校で語っていた女性は、生徒たちに何があっても生き抜いていかなければならないと諭していたが、実は妹が被爆者として、生きることに耐えられず、自死を選んでいたことが後でわかるのだった。
浦上天主堂が近いロケーションの地だからか、基督教というのか、カトリックというのか、墓参りした時、十字架が墓標だったことに驚かされた。
ヒロシマの78人の証言といい、ナガサキの山里小学校の児童の証言といい、生き延びた人たちの証言は貴重である。
どう考えても、爆心地から半径500b以内で生き延びることは不可能だし、爆心地から北へ約700bの山里小学校は夏休みだったから、児童は学校で被爆したわけでないにしても、通学エリアだから、近いことに変わりはない。
戦後80年のヒロシマ、ナガサキでの原爆慰霊祭が終わったが、戦後生まれの団塊の世代の一員としては、自分の人生が残り少ないと自覚しているからか、被爆しても生き延びてきた人たちに敬意を表する気持ちが増している。
そう、生きていくのは大変なことで、まして、被爆者という重い荷物を背負わされて生きて来られた人たちのことを思えば、なんとしても、戦争に巻き込まれてはならないし、核兵器を使われてはならない。
戦後80年の参議院議員選挙で、極右の参政党が台頭していることに恐怖を覚える。
天皇主権、基本的人権より国家主義、教育勅語、治安維持法、徴兵制と戦前の日本軍と同じ考えだということが分かった以上、なんとしても、これ以上の台頭を許さないために、非戦のれいわ新選組を応援し、戦争にならないようにしていかなければならない。
「被爆直後から、日米両国のカメラマンによって映像で記録され続けてきた、長崎の子どもたち。原爆に傷つき、家族を失った彼らは、その後アメリカによる放射能被害の調査の対象とされた。さらに、社会の偏見や、子や孫への遺伝の不安の中で戦後を生きてきた。原爆によって幾重にも傷つけられ続けた子どもたちの真実を描いたドキュメンタリー。」と㏋にある。
被爆80年目の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、福山雅治のクスノキを城山小学校と山里小学校の児童が一緒に歌った。
ナガサキを訪れたのは2009年8月のことで、一度しか行くことができていないので、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚としては知らないことの方が多い。
爆心地から最も近い城山小学校が米国の原爆投下で被害に遭ったことは知っていたが、被爆クスノキやクスノキが歌になっていることや山里小学校のことは恥ずかしながら知らなかった。
県営の平和祈念公園の原爆資料館から下りながら、浦上天主堂を訪れたら、休館日で見学できなかったが、爆心地から最も近かった西に500bの城山小学校では、児童約1500人中、1400人が、北へ約700bの山里小学校では児童1581人中、約1300人がそれぞれ亡くなっているといわれている。
NHKが放送してくれたヒロシマで爆心地から半径500b内で奇跡的に生き延びた78人の証言について書いたが、「原子雲の下を生きて」は、爆心地から北へ約700bの山里小学校に在籍していた児童の証言を集め、後年の人生を取材し、伝えていたもので、被爆者の辛い、過酷な人生は予想を遥かに超えていた。
親を亡くし、親族に育てられた女性が自身のレイプ体験を語り、被爆者に対する周囲の差別が犯罪被害者となってもあったことを伝えていた。
顔の半分にケロイドが残っていた男性は、子どもが小さい頃、そのことを聞かれ、自身ではどうすることもできないケロイドを負った身を、早く天国の指定席に行きたいと、被爆者が生き抜くことの大変さを語っていた。
被爆体験を学校で語っていた女性は、生徒たちに何があっても生き抜いていかなければならないと諭していたが、実は妹が被爆者として、生きることに耐えられず、自死を選んでいたことが後でわかるのだった。
浦上天主堂が近いロケーションの地だからか、基督教というのか、カトリックというのか、墓参りした時、十字架が墓標だったことに驚かされた。
ヒロシマの78人の証言といい、ナガサキの山里小学校の児童の証言といい、生き延びた人たちの証言は貴重である。
どう考えても、爆心地から半径500b以内で生き延びることは不可能だし、爆心地から北へ約700bの山里小学校は夏休みだったから、児童は学校で被爆したわけでないにしても、通学エリアだから、近いことに変わりはない。
戦後80年のヒロシマ、ナガサキでの原爆慰霊祭が終わったが、戦後生まれの団塊の世代の一員としては、自分の人生が残り少ないと自覚しているからか、被爆しても生き延びてきた人たちに敬意を表する気持ちが増している。
そう、生きていくのは大変なことで、まして、被爆者という重い荷物を背負わされて生きて来られた人たちのことを思えば、なんとしても、戦争に巻き込まれてはならないし、核兵器を使われてはならない。
戦後80年の参議院議員選挙で、極右の参政党が台頭していることに恐怖を覚える。
天皇主権、基本的人権より国家主義、教育勅語、治安維持法、徴兵制と戦前の日本軍と同じ考えだということが分かった以上、なんとしても、これ以上の台頭を許さないために、非戦のれいわ新選組を応援し、戦争にならないようにしていかなければならない。
2025年08月10日
爆心地から半径500b内、奇跡的に生き延びた78人の証言
NHKスペシャル戦後80年「広島グラウンドゼロ 爆心地500m 生存者たちの“原爆”」を視聴し、激しく心を揺さぶられたので書いておく。
「原爆の炸裂で、史上最悪の“死のゾーン”となった爆心地=グラウンドゼロ。広島で半径500m以内にいながら、奇跡的に生き延びた78人がいた。あの日、彼らは何を体験したか、そして戦後をどう生きたか。彼らが語った110時間に及ぶ証言テープが残されていた。刻まれていたのは、78人しか語ることができない爆心地の衝撃的な光景。最新科学で検証・映像化。そこから浮かび上がった核兵器がもたらした“極限の真実”とは―。」と㏋にある。
8月9日、午前11時2分、ナガサキへの米軍による原爆投下で犠牲となった人たちに黙とうを捧げた。
10日にはナガサキの原爆関連で書くべきところだが、どうしても書いておきたいことがある。
同じ被爆地ヒロシマで爆心地から半径500b以内にいながら、奇跡的に生き延びた78人がいて、彼らが体験した被爆の実相、目撃したものを最新科学、CGというのかで検証、映像化しているのを視聴して、被爆の恐ろしさに激しく心を揺さぶられた。
爆心地から半径500b以内といえば、普通なら生き延びられないはずだが、78人には、運があったのか、幸いにも生き延びることができた。
その証言は、いずれも被爆の実相を物語るもので、そのあまりにも悲惨さに気持ちが、溟い海に引き込まれそうになってしまった。
例えば、銀行の石段に残る「人影の石」はあまりにも有名だが、すぐ近くのコンクリートの建物に守られ、、耳が溶けたというか取れてしまうも生き延びた男性がいた。
モンペなどの衣類が高熱で肌に焼き付いてしまうとか、考えられないことが起きている。
苦しまないで被爆死してしまえば、まだしも、死ぬまでに苦しみ抜き、「水をくれ」とうめきながら、死んでいった被爆者の様子を伝える証言には、この世の地獄としか思えず、いくら米国が人種差別の国だから、ゲルマン民族のドイツには原爆を落とさず、カラードピープルでイエロージャップとバカにしてた日本だから原爆を投下、しかも、ヒロシマ、ナガサキと2回もだというのだから自分は米国政府を赦せず、反米だと立場を明らかにしている。
しかしながら、原爆投下から80年経ってしまったことを思えば、前を見て生きるしか術がない。
と考えれば、貴重な証言を残してくれた78人の証言を一人でも多くの世界の人々に語り継ぐことで、核兵器の恐ろしさを訴えることができるはずだ。
先般、観ている『黒川の女たち』で開拓団をソ連兵や中国人などからの略奪、性暴力から守って貰うために、ソ連軍の将校たちに助けを求め、その代償に性奴隷として差し出された開拓団の未婚の女性たち15人のうち、事実関係を証言した女性のことを取り上げていた。
満州(現中国東北部)や朝鮮半島で、ソ連兵や中国人や朝鮮人などから性暴力をされた女性は多いが、目撃証言はあるものの被害者自らが証言したものはほとんどない。
だから、性暴力の被害者が証言した黒川開拓団の女性の証言は貴重である。
同じように、爆心地から半径500b以内で助かった人たちが目撃した被爆者の実相は極めて価値が高い。
ヒロシマ、ナガサキと原爆資料館があって、ここに行けば、被爆の実相が理解できるようになっているが、NHKが放送してくれた証言+CGはTVの前に自分がいることを忘れさせ、現地にいるかの様な臨場感がある。
この証言を平和のために有効に活用してもらいたい。
8月4日の読売(小松大騎記者)夕刊によれば、爆心地から500b以内で被爆した近距離被爆者の生存者は爆心地から460bで被爆した友田典弘さん(89)だけになり、母校などで被爆について語っている。
「原爆の炸裂で、史上最悪の“死のゾーン”となった爆心地=グラウンドゼロ。広島で半径500m以内にいながら、奇跡的に生き延びた78人がいた。あの日、彼らは何を体験したか、そして戦後をどう生きたか。彼らが語った110時間に及ぶ証言テープが残されていた。刻まれていたのは、78人しか語ることができない爆心地の衝撃的な光景。最新科学で検証・映像化。そこから浮かび上がった核兵器がもたらした“極限の真実”とは―。」と㏋にある。
8月9日、午前11時2分、ナガサキへの米軍による原爆投下で犠牲となった人たちに黙とうを捧げた。
10日にはナガサキの原爆関連で書くべきところだが、どうしても書いておきたいことがある。
同じ被爆地ヒロシマで爆心地から半径500b以内にいながら、奇跡的に生き延びた78人がいて、彼らが体験した被爆の実相、目撃したものを最新科学、CGというのかで検証、映像化しているのを視聴して、被爆の恐ろしさに激しく心を揺さぶられた。
爆心地から半径500b以内といえば、普通なら生き延びられないはずだが、78人には、運があったのか、幸いにも生き延びることができた。
その証言は、いずれも被爆の実相を物語るもので、そのあまりにも悲惨さに気持ちが、溟い海に引き込まれそうになってしまった。
例えば、銀行の石段に残る「人影の石」はあまりにも有名だが、すぐ近くのコンクリートの建物に守られ、、耳が溶けたというか取れてしまうも生き延びた男性がいた。
モンペなどの衣類が高熱で肌に焼き付いてしまうとか、考えられないことが起きている。
苦しまないで被爆死してしまえば、まだしも、死ぬまでに苦しみ抜き、「水をくれ」とうめきながら、死んでいった被爆者の様子を伝える証言には、この世の地獄としか思えず、いくら米国が人種差別の国だから、ゲルマン民族のドイツには原爆を落とさず、カラードピープルでイエロージャップとバカにしてた日本だから原爆を投下、しかも、ヒロシマ、ナガサキと2回もだというのだから自分は米国政府を赦せず、反米だと立場を明らかにしている。
しかしながら、原爆投下から80年経ってしまったことを思えば、前を見て生きるしか術がない。
と考えれば、貴重な証言を残してくれた78人の証言を一人でも多くの世界の人々に語り継ぐことで、核兵器の恐ろしさを訴えることができるはずだ。
先般、観ている『黒川の女たち』で開拓団をソ連兵や中国人などからの略奪、性暴力から守って貰うために、ソ連軍の将校たちに助けを求め、その代償に性奴隷として差し出された開拓団の未婚の女性たち15人のうち、事実関係を証言した女性のことを取り上げていた。
満州(現中国東北部)や朝鮮半島で、ソ連兵や中国人や朝鮮人などから性暴力をされた女性は多いが、目撃証言はあるものの被害者自らが証言したものはほとんどない。
だから、性暴力の被害者が証言した黒川開拓団の女性の証言は貴重である。
同じように、爆心地から半径500b以内で助かった人たちが目撃した被爆者の実相は極めて価値が高い。
ヒロシマ、ナガサキと原爆資料館があって、ここに行けば、被爆の実相が理解できるようになっているが、NHKが放送してくれた証言+CGはTVの前に自分がいることを忘れさせ、現地にいるかの様な臨場感がある。
この証言を平和のために有効に活用してもらいたい。
8月4日の読売(小松大騎記者)夕刊によれば、爆心地から500b以内で被爆した近距離被爆者の生存者は爆心地から460bで被爆した友田典弘さん(89)だけになり、母校などで被爆について語っている。
2025年08月09日
原爆供養塔納骨者の名前を読み上げる
曽祖父2人が被爆者で、広島市出身の高垣慶太さん(23)(東京都)は6日午前、平和記念公園内の原爆供養塔前で、引き取り手がいないまま塔に納められた遺骨812人の名前を、仲間ら約30人と約2時間かけて一人ずつ読み上げた。「原爆で犠牲になった一人ひとりの命の重みを受け止めてほしい」との願いからだ。と8月6日の読売が伝えている。
曽祖父2人はそれぞれ、広島と長崎で被爆した。幼い頃に祖父母から聞き、生まれる前に亡くなった2人が被爆者だったとわかってはいたが、詳しいことは知らなかった。
広島と長崎で開業医だった二人は、「男女の見分けがつかないけが人らを治療した」と語っていた。
進学した崇徳高校で新聞部に入部し、多くの被爆者らに取材をした。3年生だった2020年には被爆75年の特集を企画。同校の前身である旧制崇徳中で、学徒動員中に犠牲となった生徒全512人の住所と学年を掲載した。「戦争で同世代の若者が多数、命を絶たれた事実を知ってもらいたかった」
2025年6月23日、「慰霊の日」に合わせて沖縄に行き、「平和の礎 」に刻銘された24万人余りの沖縄戦戦没者らの名前を読み上げる集いを見学した。数字で表現されることが多い犠牲者一人ひとりの人生が、戦争によって失われたことを実感した。「広島でもやってみては」と勧められた。
原爆供養塔には約7万人の遺骨が眠り、「ヒロシマの墓」と呼ばれる。遺骨の中には身元不明のもの以外に、名前はわかるが引き取り手のない812柱があり、広島市のホームページで名簿が公表されていた。「犠牲者の数だけ悲しみがあったことや平和の尊さを考える機会になれば」と、読み上げの集いを計画した。
供養塔を管理する団体の代表で、胎内被爆者の畑口実さん(79)も「若者の力で供養塔の存在が広く伝えられるのはありがたい」と後押ししてくれた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、地上戦で住民の多くに犠牲者が出た沖縄を訪れたとき、感心、感動したのは平和祈念公園にある沖縄戦の戦没者、死没者の敵味方、民族という違いを乗り越え犠牲者の名前を慰霊碑「平和の礎」に刻銘していることだった。
一般的に、敵の戦没者、死没者を祀るという考え方に行き着くには関係者に互いに戦争の犠牲者だという意識がなければありえないことである。
沖縄県民はそもそも本土の人間から差別され、沖縄戦では本土の防波堤とされ、米軍の本土攻撃の時間稼ぎとされたため、守備隊32軍が南部に逃亡する際、軍民混在であったため、県民の犠牲者が滅茶苦茶に増えた。
しかも、県民だけなら、米軍は降参すれば、命は助けてくれたが、日本軍は沖縄県民を盾にしたため、ガマに隠れて、米軍に投降しようとすれば、県民は日本軍に後ろから撃たれて殺された。
ガマで赤子が泣けば、殺せと日本軍兵士に命令された。
日本軍は県民を守る意識は全くなかったと言わざるをえない。
満蒙開拓団の人たちが棄民として関東軍に見捨てられたのと同じことである。
沖縄県民が立派だったのは、自分たちを守らず、道連れにした日本軍、鉄の暴風と呼ばれる艦砲射撃に守られて上陸するや、火炎放射器で情け容赦なくガマに隠れていた県民と日本軍兵士を焼き殺した米軍兵士にも、戦争が終わり、ノーサイドとなってからは恨み言を言うでなし、慰霊碑に刻銘し、死者を祀っているのである。
さらに、沖縄県民の偉大さは、刻銘された24万有余の戦没者、死没者の名前を読み上げることで、犠牲者一人ひとりの人生に寄り添っていることだ。
このことに触発された高垣慶太さんが原爆供養塔で引き取り手がいないまま塔に納められた遺骨812人の名前を読み上げたのは、協力した人たちも含め素晴らしい試みだった。
エールをおくりたい。
先の大戦後にソ連、モンゴルに抑留され、死亡した人々の名前を読み上げる追悼行事が、2024年8月23日から4日間、オンラインで行われることを以前書いている。
8歳の小学3年生から、90歳代の抑留経験者まで約100人がこの行事に参加する。帰国を夢見ながら、異郷の地で無念の最期を迎えた人々のうち、4万6655人の氏名が読み上げられる。
ミッドウェー海戦で敵味方なく犠牲となった人たちの名前を調べ上げた作家澤地久枝さん。
シベリア抑留死亡者名簿を綴った村山常雄さん。
旧ソ連・モンゴルでの抑留の死亡者5万5000人のうち、約1万5000人の身元が特定されていないことに対し、読売新聞記者として、命を賭してこの問題に取り組んだのが井手裕彦さん。
国際政治学者で多摩大准教授小林昭菜さん(42)が日本人捕虜の数を61万T237人とロシアでの調査の結果で調べあげている。
「生きているだけで価値がある」と個人の尊厳を訴えるれいわ新選組の山本太郎代表。日本国憲法の看板である国民主権、基本的人権より、天皇主権、国家主義の極右政党参政党が勢力を伸ばした参議院議員選挙。
高垣慶太さんが米軍の原爆投下で犠牲となった原爆供養塔に納骨されている人たちに思いを寄せていることを知り、戦没、死没者の一人ひとりの名前、人生にこだわった先人たちのことを思いつくままに挙げてみた。
一人の命を大切にしなかった戦前、戦中の日本。
敗戦で手に入れた命の大切さを取り戻したからには、二度と命が粗末にされない社会でなければならない。
曽祖父2人はそれぞれ、広島と長崎で被爆した。幼い頃に祖父母から聞き、生まれる前に亡くなった2人が被爆者だったとわかってはいたが、詳しいことは知らなかった。
広島と長崎で開業医だった二人は、「男女の見分けがつかないけが人らを治療した」と語っていた。
進学した崇徳高校で新聞部に入部し、多くの被爆者らに取材をした。3年生だった2020年には被爆75年の特集を企画。同校の前身である旧制崇徳中で、学徒動員中に犠牲となった生徒全512人の住所と学年を掲載した。「戦争で同世代の若者が多数、命を絶たれた事実を知ってもらいたかった」
2025年6月23日、「慰霊の日」に合わせて沖縄に行き、「平和の礎 」に刻銘された24万人余りの沖縄戦戦没者らの名前を読み上げる集いを見学した。数字で表現されることが多い犠牲者一人ひとりの人生が、戦争によって失われたことを実感した。「広島でもやってみては」と勧められた。
原爆供養塔には約7万人の遺骨が眠り、「ヒロシマの墓」と呼ばれる。遺骨の中には身元不明のもの以外に、名前はわかるが引き取り手のない812柱があり、広島市のホームページで名簿が公表されていた。「犠牲者の数だけ悲しみがあったことや平和の尊さを考える機会になれば」と、読み上げの集いを計画した。
供養塔を管理する団体の代表で、胎内被爆者の畑口実さん(79)も「若者の力で供養塔の存在が広く伝えられるのはありがたい」と後押ししてくれた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、地上戦で住民の多くに犠牲者が出た沖縄を訪れたとき、感心、感動したのは平和祈念公園にある沖縄戦の戦没者、死没者の敵味方、民族という違いを乗り越え犠牲者の名前を慰霊碑「平和の礎」に刻銘していることだった。
一般的に、敵の戦没者、死没者を祀るという考え方に行き着くには関係者に互いに戦争の犠牲者だという意識がなければありえないことである。
沖縄県民はそもそも本土の人間から差別され、沖縄戦では本土の防波堤とされ、米軍の本土攻撃の時間稼ぎとされたため、守備隊32軍が南部に逃亡する際、軍民混在であったため、県民の犠牲者が滅茶苦茶に増えた。
しかも、県民だけなら、米軍は降参すれば、命は助けてくれたが、日本軍は沖縄県民を盾にしたため、ガマに隠れて、米軍に投降しようとすれば、県民は日本軍に後ろから撃たれて殺された。
ガマで赤子が泣けば、殺せと日本軍兵士に命令された。
日本軍は県民を守る意識は全くなかったと言わざるをえない。
満蒙開拓団の人たちが棄民として関東軍に見捨てられたのと同じことである。
沖縄県民が立派だったのは、自分たちを守らず、道連れにした日本軍、鉄の暴風と呼ばれる艦砲射撃に守られて上陸するや、火炎放射器で情け容赦なくガマに隠れていた県民と日本軍兵士を焼き殺した米軍兵士にも、戦争が終わり、ノーサイドとなってからは恨み言を言うでなし、慰霊碑に刻銘し、死者を祀っているのである。
さらに、沖縄県民の偉大さは、刻銘された24万有余の戦没者、死没者の名前を読み上げることで、犠牲者一人ひとりの人生に寄り添っていることだ。
このことに触発された高垣慶太さんが原爆供養塔で引き取り手がいないまま塔に納められた遺骨812人の名前を読み上げたのは、協力した人たちも含め素晴らしい試みだった。
エールをおくりたい。
先の大戦後にソ連、モンゴルに抑留され、死亡した人々の名前を読み上げる追悼行事が、2024年8月23日から4日間、オンラインで行われることを以前書いている。
8歳の小学3年生から、90歳代の抑留経験者まで約100人がこの行事に参加する。帰国を夢見ながら、異郷の地で無念の最期を迎えた人々のうち、4万6655人の氏名が読み上げられる。
ミッドウェー海戦で敵味方なく犠牲となった人たちの名前を調べ上げた作家澤地久枝さん。
シベリア抑留死亡者名簿を綴った村山常雄さん。
旧ソ連・モンゴルでの抑留の死亡者5万5000人のうち、約1万5000人の身元が特定されていないことに対し、読売新聞記者として、命を賭してこの問題に取り組んだのが井手裕彦さん。
国際政治学者で多摩大准教授小林昭菜さん(42)が日本人捕虜の数を61万T237人とロシアでの調査の結果で調べあげている。
「生きているだけで価値がある」と個人の尊厳を訴えるれいわ新選組の山本太郎代表。日本国憲法の看板である国民主権、基本的人権より、天皇主権、国家主義の極右政党参政党が勢力を伸ばした参議院議員選挙。
高垣慶太さんが米軍の原爆投下で犠牲となった原爆供養塔に納骨されている人たちに思いを寄せていることを知り、戦没、死没者の一人ひとりの名前、人生にこだわった先人たちのことを思いつくままに挙げてみた。
一人の命を大切にしなかった戦前、戦中の日本。
敗戦で手に入れた命の大切さを取り戻したからには、二度と命が粗末にされない社会でなければならない。
2025年08月08日
平和記念式典で石破首相に教えられた歌人の歌
「『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり』。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。」
1945年8月6日、米軍によってヒロシマに原爆が投下されてから80年の平和記念式典での石破首相のあいさつの結びで引用された歌人正田篠枝さんの歌である。
2009年11月、2015年4月の2回平和記念公園を訪れているが、感性が鈍ってしまったのか石破首相に教えられるまで「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」のことは知らなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚ではあるが、ヒロシマ、ナガサキそして地上戦の沖縄には慰霊碑がたくさんあって、名の知られた場所は知っていても、慰霊碑の存在のうち、その多くの名前や場所は知らない。
参議院議員議員選挙で極右の参政党が台頭し、自民党の支持者でも右寄りの人や党の実態をよく知らないまま投票した人が多かったことに怖ろしくなってしまった。
参議院議員選挙では、非戦のれいわ新選組から、安全保障問題のエキスパートである伊勢崎賢治さんが当選。毒蝮三太夫に似ているので親しみを込めて、れいわ新選組の毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんと紹介してきた。
伊勢崎さんは石破首相とは旧知の間柄ということで、石破首相が非戦の人だとわかった。
選挙後、石破首相をやめさせようとする自民党の裏金議員などからの圧力が強くなっている時だから、石破首相に辞めないで頑張れという有権者からの声もたくさん寄せられている。
ヒロシマの平和祈念式典での首相のあいさつで心を動かされたことはほとんど記憶にない。
しかし、戦後80年の式典でのあいさつで、国民学校の教師と子どもたちのことを歌った歌人・正田篠枝さんの歌が引用されたことで、石破首相の非戦の思いが伝わり、心を揺さぶられた。
戦争に反対、特に、米軍の代わりに自衛隊を中国と戦わせようと企図する米国の思惑に乗せられないように伊勢崎さんと石破首相の行動を見つめながら、平和を訴えている自分としては、石破首相を応援している。
靖国神社にばかり行きたがる自民党の女性議員が首相の座を狙っていると伝えられているので、非戦でない人の総理はみたくない。
戦争で、一番の犠牲者となるのは弱い立場の子どもたちと教師たちだから、このことが分かっている総理なら、何とか戦争にならないように頑張ってくれるのではないかと期待している。
8月6日、朝8時15分、原爆犠牲者に黙とうを捧げ、『木の上の軍隊』を観て、非戦の思いを強くしてきた。
被爆者がだんだん退場していくが、なんとしても、戦争にまきこまれてはならない。
1945年8月6日、米軍によってヒロシマに原爆が投下されてから80年の平和記念式典での石破首相のあいさつの結びで引用された歌人正田篠枝さんの歌である。
2009年11月、2015年4月の2回平和記念公園を訪れているが、感性が鈍ってしまったのか石破首相に教えられるまで「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」のことは知らなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚ではあるが、ヒロシマ、ナガサキそして地上戦の沖縄には慰霊碑がたくさんあって、名の知られた場所は知っていても、慰霊碑の存在のうち、その多くの名前や場所は知らない。
参議院議員議員選挙で極右の参政党が台頭し、自民党の支持者でも右寄りの人や党の実態をよく知らないまま投票した人が多かったことに怖ろしくなってしまった。
参議院議員選挙では、非戦のれいわ新選組から、安全保障問題のエキスパートである伊勢崎賢治さんが当選。毒蝮三太夫に似ているので親しみを込めて、れいわ新選組の毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんと紹介してきた。
伊勢崎さんは石破首相とは旧知の間柄ということで、石破首相が非戦の人だとわかった。
選挙後、石破首相をやめさせようとする自民党の裏金議員などからの圧力が強くなっている時だから、石破首相に辞めないで頑張れという有権者からの声もたくさん寄せられている。
ヒロシマの平和祈念式典での首相のあいさつで心を動かされたことはほとんど記憶にない。
しかし、戦後80年の式典でのあいさつで、国民学校の教師と子どもたちのことを歌った歌人・正田篠枝さんの歌が引用されたことで、石破首相の非戦の思いが伝わり、心を揺さぶられた。
戦争に反対、特に、米軍の代わりに自衛隊を中国と戦わせようと企図する米国の思惑に乗せられないように伊勢崎さんと石破首相の行動を見つめながら、平和を訴えている自分としては、石破首相を応援している。
靖国神社にばかり行きたがる自民党の女性議員が首相の座を狙っていると伝えられているので、非戦でない人の総理はみたくない。
戦争で、一番の犠牲者となるのは弱い立場の子どもたちと教師たちだから、このことが分かっている総理なら、何とか戦争にならないように頑張ってくれるのではないかと期待している。
8月6日、朝8時15分、原爆犠牲者に黙とうを捧げ、『木の上の軍隊』を観て、非戦の思いを強くしてきた。
被爆者がだんだん退場していくが、なんとしても、戦争にまきこまれてはならない。
2025年08月07日
『木の上の軍隊』
月に一度の映画館行き、8月は平一紘監督、堤真一、山田裕貴ダブル主演『木の上の軍隊』を観てきた。
1945年4月16日、米軍が上陸した沖縄慶良間諸島伊江島を舞台に日本軍守備隊32軍との6日間の攻防の末、伊江島は米軍の占領下に置かれた。
米軍上陸を前に、島では滑走路を建設する突貫工事が行われていたが、米軍上陸で米軍に滑走路を使われまいと滑走路が爆破された。
圧倒的な戦力差で上陸してきた米軍は守備隊などものともせず、蹴散らして六日間で島を占領してしまう。
殺される寸前で、ガジュマルの大樹の上に身を隠した沖縄出身の新兵安慶名セイジュンと上官の将校山下は木の上を根城に2年間も生き延びるのだった。
佐次田秀順さんと山口静雄さん二人がモデルとなった実話を基に劇作家井上ひさしの原案の舞台劇を映画化した作品である。
沖縄戦は圧倒的な戦力差の戦いで、「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になることを禁じられた兵士ではなく、捕虜になると米兵に酷いことをされると洗脳されていた住民たちの中に集団自決をした人たちがいた。
集団自決といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2016年8月に慶良間諸島渡嘉敷島を訪れ、集団自決の場所でお参りしている。
座間味島、渡嘉敷島そして伊江島とどこに行くか迷ったが渡嘉敷島にした。
集団自決といえば、読谷村のチビチリガマにも行き、犠牲者のご冥福を祈っている。
戦後、グアム島から横井正一さんが、ルバング島から小野田寛郎さんが帰国を果たし、戦後80年の今となっては、よく死なないで生きていたものだと感心しきりである。
東南アジアなどでは残留日本兵を欧州の植民地からの独立運動に引き入れようとしたという話を耳にしたことがある。
伊江島でガジュマルの樹上で生き延びた二人が飢餓にさぞや苦しめられたことだろうと思ったら、進駐してきた米軍の捨てた食料、缶詰などを食していたことを知り、サバイバルとは、敵の食料を頂戴することも有りかと感嘆した。
『父と暮らせば』の井上ひさしさんだから、安慶名が天に召された母親と親友与那嶺とが親しく会話するシーンで、劇作家はこの世とあの世の行き来が自由自在であることの素晴らしを教えてくれた。
戦争では何としても生き残らなければダメで、ために、大いに参考になる話だった。
1945年4月16日、米軍が上陸した沖縄慶良間諸島伊江島を舞台に日本軍守備隊32軍との6日間の攻防の末、伊江島は米軍の占領下に置かれた。
米軍上陸を前に、島では滑走路を建設する突貫工事が行われていたが、米軍上陸で米軍に滑走路を使われまいと滑走路が爆破された。
圧倒的な戦力差で上陸してきた米軍は守備隊などものともせず、蹴散らして六日間で島を占領してしまう。
殺される寸前で、ガジュマルの大樹の上に身を隠した沖縄出身の新兵安慶名セイジュンと上官の将校山下は木の上を根城に2年間も生き延びるのだった。
佐次田秀順さんと山口静雄さん二人がモデルとなった実話を基に劇作家井上ひさしの原案の舞台劇を映画化した作品である。
沖縄戦は圧倒的な戦力差の戦いで、「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になることを禁じられた兵士ではなく、捕虜になると米兵に酷いことをされると洗脳されていた住民たちの中に集団自決をした人たちがいた。
集団自決といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2016年8月に慶良間諸島渡嘉敷島を訪れ、集団自決の場所でお参りしている。
座間味島、渡嘉敷島そして伊江島とどこに行くか迷ったが渡嘉敷島にした。
集団自決といえば、読谷村のチビチリガマにも行き、犠牲者のご冥福を祈っている。
戦後、グアム島から横井正一さんが、ルバング島から小野田寛郎さんが帰国を果たし、戦後80年の今となっては、よく死なないで生きていたものだと感心しきりである。
東南アジアなどでは残留日本兵を欧州の植民地からの独立運動に引き入れようとしたという話を耳にしたことがある。
伊江島でガジュマルの樹上で生き延びた二人が飢餓にさぞや苦しめられたことだろうと思ったら、進駐してきた米軍の捨てた食料、缶詰などを食していたことを知り、サバイバルとは、敵の食料を頂戴することも有りかと感嘆した。
『父と暮らせば』の井上ひさしさんだから、安慶名が天に召された母親と親友与那嶺とが親しく会話するシーンで、劇作家はこの世とあの世の行き来が自由自在であることの素晴らしを教えてくれた。
戦争では何としても生き残らなければダメで、ために、大いに参考になる話だった。
2025年08月06日
被爆クスノキ
8月5日のNHKクローズアップ現代「“我が魂は奪われはしない” 福山雅治 響き合う歌と平和」を視聴できたので書いておく。「自分の歌を子どもたちが合唱するなんて、一番驚いているのは僕自身」。福山さんがそう語る「クスノキ」は2014年の発表以来、「平和の歌」として多くの人に歌い継がれ、学校の授業でも使われている。原爆で焼かれても再び芽吹き、希望や平和の象徴となった「被爆クスノキ」と長年向き合って曲が完成するまでの誕生秘話。いまだ世界では核の脅威が去らず暴力の連鎖が続く中、「歌の力」でメッセージを届けることの意味を聞く」と㏋にある。
恥ずかしながら「被爆クスノキ」のことも歌のことも知らなかった。
8月6日、本日は人種差別の国米国によってヒロシマに原爆が投下された日で、被爆アオギリのことは知っていた。被爆アオギリが歌になっているかどうかわからないが、平和への願いをナガサキで被爆クスノキに託した福山雅治さんはアーティストとして語り継がれることになるだろう。
クスノキといえば、生まれ育った首都圏の田舎町の寺で、せっかくのクスノキを伐採してしまい落胆していた。世の常ではあるが関わる人間によって、こうも違う結果が出ることにショックを受けている。
住宅開発で伐採されてしまうところを寺が受け入れて、寺のシンボルツリーになるところだった。
持ち込んだ寺の世話人と受け入れた寺側の世話人との間で何があったのか不明であるが、何があったにしても、クスノキに罪があるわけでなし、地球温暖化を防止するために役立つクスノキを伐採するとは非道なことをするものだ。
今夏、雨が降らず、毎日、体温を超えるような厳しい暑さが続いている時、クスノキの下にいれば、木陰で涼しいし、風があれば、クスノキが涼風を送ってくれた。
ついでに書くなら、寺の境内で春になると見事に咲き誇った桜も伐採してしまった。
民主主義の時代だから、寺で世話人がクスノキや桜を伐採しようがしまいが余計な口出しはできない。
被爆地ナガサキといえば、著名人ですぐに名前が出てくるのは美輪明宏さんだが、世代交代したとしても、被爆クスノキと福山雅治さんがいる。
本日、被爆の犠牲者に黙とうをささげたヒロシマでは、すぐに名前が出てくるのは被爆アオギリとプロ野球の張本勲さんであるが、世代交代した人の名前がでてこない。
「長崎の鐘」、「クスノキ」とナガサキは歌で語り継がれていくが、ヒロシマでは、「夏の花」の原民喜、「はだしのゲン」の中沢啓治、そして『夢千代日記』の早坂暁と小説や漫画、ドラマなどで語り継がれていくのかもしれない。
恥ずかしながら「被爆クスノキ」のことも歌のことも知らなかった。
8月6日、本日は人種差別の国米国によってヒロシマに原爆が投下された日で、被爆アオギリのことは知っていた。被爆アオギリが歌になっているかどうかわからないが、平和への願いをナガサキで被爆クスノキに託した福山雅治さんはアーティストとして語り継がれることになるだろう。
クスノキといえば、生まれ育った首都圏の田舎町の寺で、せっかくのクスノキを伐採してしまい落胆していた。世の常ではあるが関わる人間によって、こうも違う結果が出ることにショックを受けている。
住宅開発で伐採されてしまうところを寺が受け入れて、寺のシンボルツリーになるところだった。
持ち込んだ寺の世話人と受け入れた寺側の世話人との間で何があったのか不明であるが、何があったにしても、クスノキに罪があるわけでなし、地球温暖化を防止するために役立つクスノキを伐採するとは非道なことをするものだ。
今夏、雨が降らず、毎日、体温を超えるような厳しい暑さが続いている時、クスノキの下にいれば、木陰で涼しいし、風があれば、クスノキが涼風を送ってくれた。
ついでに書くなら、寺の境内で春になると見事に咲き誇った桜も伐採してしまった。
民主主義の時代だから、寺で世話人がクスノキや桜を伐採しようがしまいが余計な口出しはできない。
被爆地ナガサキといえば、著名人ですぐに名前が出てくるのは美輪明宏さんだが、世代交代したとしても、被爆クスノキと福山雅治さんがいる。
本日、被爆の犠牲者に黙とうをささげたヒロシマでは、すぐに名前が出てくるのは被爆アオギリとプロ野球の張本勲さんであるが、世代交代した人の名前がでてこない。
「長崎の鐘」、「クスノキ」とナガサキは歌で語り継がれていくが、ヒロシマでは、「夏の花」の原民喜、「はだしのゲン」の中沢啓治、そして『夢千代日記』の早坂暁と小説や漫画、ドラマなどで語り継がれていくのかもしれない。