1945年3月10日未明、蔵王連峰・不忘山(1705メートル、宮城県七ケ宿町)に3機の米爆撃機が墜落し、米兵34人全員が死亡した。出来事を記憶にとどめようと、地元の人たちがふもとにつくった公園が開園10年を迎え、5月25日に記念式典が開かれた。かつての敵味方を超え、日米の関係者が犠牲者を悼んだ。と5月26日の朝日新聞(石橋英昭編集委員)がWEBで伝えていた。
9月17日の読売(木内惇平記者)が慰霊を続けてきた住民団体が墜落事故の証言や追悼文をまとめた冊子「不忘の碑」を64年ぶりに復刻。
地元の中高生を対象に平和について考える作文コンクールを実施し、次世代に伝えようとしている。
「人間は皆兄弟だ。永遠の平和を祈りたい」と山頂付近に慰霊碑「不忘の碑」を建立。このことを記念して制作されたのが同名の冊子である。
慰霊建立にも関わった白石で建設会社を経営する高橋良夫さんが2015年、約5000万円の私財を投じて10fの土地に「不忘平和記念公園」を整備。
息子の敬さんは、「戦後の貧しい暮らしの中、おやじはアメリカの食料支援に感謝していた。その恩に報いたかったんでしょうね」と話す。
「不忘の碑」といえば、東京は調布市の延浄寺に国策に騙され、政府や日本軍に棄民とされた満蒙開拓団と同じことを繰り返さないようにとの思いで慰霊碑が建立されている。
2016年3月11日に訪れてお参りしている。
蔵王連峰の不忘山に米軍のB29が3機墜落したことは知らなかった。
非武装の民間人をジェノサイドで狙っただけでなく都市を焦土と化した鬼畜米兵ということで、普通に考えれば弔うとか慰霊碑を建立することにはならない。
ところが、「人間皆兄弟だ。永遠の平和を祈りたい」と米兵を弔い、慰霊碑を建立した高邁な精神を持つ人たちが東北の田舎町にはいたということになる。
親鸞聖人は悪人でも死ねば許されるという「悪人正機」と呼ばれる考えを教示していることから、浄土真宗というか、仏教の世界でなら、空襲、空爆でジェノサイドに関わったとしても、墜落死してしまえば、憎しみは消えるということもあるかもしれない。
不忘ということでいえば、忘れるという言葉は使い方で心の動きが表現される。
忘れる、忘れてはいけない、忘れられない、忘れなくてはいけない、忘れないで、思いつくままに挙げてみた。
不忘だから、忘れてはいけないということになるだろうか。
命令で動く軍人だから、彼らを憎むというより、戦争がよくないということになれば、赦す気持ちになれたのかもしれない。
沖縄の平和の礎も、敵味方の区別なく、沖縄戦の犠牲者の名前が刻まれている。
憎しみを持ち続けるのは辛いが、かといって、やられた側は簡単にやられたことを忘れられない。
空襲、空爆、原爆、ソ連兵による性暴力、シベリア抑留・・・。
2025年09月20日
2025年09月18日
露侵略 立ち上がる若者 戦災がれき遠隔撤去技術支援
ズームアップとネーミングされた写真で訴える紙面が読売(富田大介記者)の夕刊にある。その9月8日はロシアの軍事侵略で苦境に立たされているウクライナのキーウで活動するフォトジャーナリストアンナ・ドネツさん(18)。
「何が起きているのか、その真実を伝えるのが私の使命」だといい、大学でジャーナリズムを学びながら撮影を続ける日々だという姿がアップで被写体となって紙面の半分を占める。
自分が切り取った現実は,SNSやオンライン媒体であっという間に世界をかけめぐる。
「この国の未来は私たちの世代にかかっている』写真の力を信じ、理不尽な日常を記録し続ける。
1991年の独立後に生まれ、自由と民主主義の下で育った若者たちが今、自国の未来を思い、行動を起こしている。
ウクライナの伝統楽器バンドゥ―ラを奏でる二人の若き女性も被写体となっていた。
ロシアの軍事侵略で都市を強奪され、街を破壊され、女性は性的暴行され、子どもたちは拉致されたというニュースが流れている中で、戦災がれきを無人重機で安全・迅速に撤去する技術を日本政府国土交通省が支援に乗り出す。と9月9日の読売が夕刊で伝えている。
戦後80年、この間何とか戦争に巻き込まれず、平和が保てたのは、日本国憲法第9条のお陰である。
ところが、平和な日々を過ごしていたであろうウクライナの人々が2022年2月24日、さぞや驚いたであろうロシアの軍事侵略が始まり、ウクライナの人たちは国土を防衛し、独立以降せっかく手に入れた自由を守り抜くため武器を持って立ち上がった。
第二次世界大戦後ソビエト連邦共和国の一つとされ、1991年、ようやく自由と民主主義を手に入れたかと思えば、独立された側のロシアはウクライナが自由と民主主義の陣営に行くことを認めたくなかったのか、クリミア半島を強奪し、やがては、軍事侵略を始めた。
1941年12月8日、日本が米国との戦争に突入してから、1945年8月15日、玉音放送で無条件降伏を受け入れるまで3年8か月である。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵略してから3年7か月になろうかという2025年9月、よくウクライナは持ちこたえた。
米国と欧州の支援がなければ、とても、今日まで持ちこたえることはできなかったであろうが、ウクライナで、学生ジャーナリストが軍事侵略を続けるロシアの悪業を写真に撮影し、SNSで発信していることを高く評価したい。
イスラエルがパレスチナのハマスの皆殺しを企図し、滅茶苦茶な攻撃をしているが、『ノー・アザー・ランド故郷は他にない』でパレスチナの青年がイスラエルの青年と交流する中で、イスラエルがパレスチナでやっている非人道的な仕打ちを撮影し、世界に発信しているのを観て、ユダヤ人が大嫌いになりそうだ。
文章でも石牟礼道子『苦界浄土』(講談社文庫)で水俣病でも胎児性水俣病患者の様子を知り、心が激しく揺さぶられた。
写真になるとユージン・スミス『入浴する智子と母親』では圧倒的な力で胎児性水俣病に苦しめられる人々への支援を国がしないことに怒りを覚える。
ウクライナの窮状を写真で撮影することで、世界の心ある人たちにウクライナへの支援に目を向けさせることができるはずだ。
日本政府が戦争の支援はできなくとも、復興の支援ならいくらでもできるので、できることから、ウクライナの支援を進めてもらうことを大いに支持する。
満州や朝鮮半島での日本人女性に対するソ連兵の性的暴行、シベリア抑留とソ連、ロシアはどうしても好きになれない国であり、世界陸上にもロシアが参加できないように、何とかロシアが衰退することを祈るばかりだ。
「何が起きているのか、その真実を伝えるのが私の使命」だといい、大学でジャーナリズムを学びながら撮影を続ける日々だという姿がアップで被写体となって紙面の半分を占める。
自分が切り取った現実は,SNSやオンライン媒体であっという間に世界をかけめぐる。
「この国の未来は私たちの世代にかかっている』写真の力を信じ、理不尽な日常を記録し続ける。
1991年の独立後に生まれ、自由と民主主義の下で育った若者たちが今、自国の未来を思い、行動を起こしている。
ウクライナの伝統楽器バンドゥ―ラを奏でる二人の若き女性も被写体となっていた。
ロシアの軍事侵略で都市を強奪され、街を破壊され、女性は性的暴行され、子どもたちは拉致されたというニュースが流れている中で、戦災がれきを無人重機で安全・迅速に撤去する技術を日本政府国土交通省が支援に乗り出す。と9月9日の読売が夕刊で伝えている。
戦後80年、この間何とか戦争に巻き込まれず、平和が保てたのは、日本国憲法第9条のお陰である。
ところが、平和な日々を過ごしていたであろうウクライナの人々が2022年2月24日、さぞや驚いたであろうロシアの軍事侵略が始まり、ウクライナの人たちは国土を防衛し、独立以降せっかく手に入れた自由を守り抜くため武器を持って立ち上がった。
第二次世界大戦後ソビエト連邦共和国の一つとされ、1991年、ようやく自由と民主主義を手に入れたかと思えば、独立された側のロシアはウクライナが自由と民主主義の陣営に行くことを認めたくなかったのか、クリミア半島を強奪し、やがては、軍事侵略を始めた。
1941年12月8日、日本が米国との戦争に突入してから、1945年8月15日、玉音放送で無条件降伏を受け入れるまで3年8か月である。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵略してから3年7か月になろうかという2025年9月、よくウクライナは持ちこたえた。
米国と欧州の支援がなければ、とても、今日まで持ちこたえることはできなかったであろうが、ウクライナで、学生ジャーナリストが軍事侵略を続けるロシアの悪業を写真に撮影し、SNSで発信していることを高く評価したい。
イスラエルがパレスチナのハマスの皆殺しを企図し、滅茶苦茶な攻撃をしているが、『ノー・アザー・ランド故郷は他にない』でパレスチナの青年がイスラエルの青年と交流する中で、イスラエルがパレスチナでやっている非人道的な仕打ちを撮影し、世界に発信しているのを観て、ユダヤ人が大嫌いになりそうだ。
文章でも石牟礼道子『苦界浄土』(講談社文庫)で水俣病でも胎児性水俣病患者の様子を知り、心が激しく揺さぶられた。
写真になるとユージン・スミス『入浴する智子と母親』では圧倒的な力で胎児性水俣病に苦しめられる人々への支援を国がしないことに怒りを覚える。
ウクライナの窮状を写真で撮影することで、世界の心ある人たちにウクライナへの支援に目を向けさせることができるはずだ。
日本政府が戦争の支援はできなくとも、復興の支援ならいくらでもできるので、できることから、ウクライナの支援を進めてもらうことを大いに支持する。
満州や朝鮮半島での日本人女性に対するソ連兵の性的暴行、シベリア抑留とソ連、ロシアはどうしても好きになれない国であり、世界陸上にもロシアが参加できないように、何とかロシアが衰退することを祈るばかりだ。
2025年09月17日
供養されていない英霊に「忘れていない」と伝える
「戦後」の終止符 まだ遠く」という見出しで9月13日の読売(鈴木雄一論説委員)が夕刊のとれんどというコラムに「全国ソロモン会」36人がガダルカナル島、通称餓島で行われた慰霊法要に列席したことと遺骨収集の遅れについて書いている。
一行を率いたのは同会常任理事の崎津寛光さん(53)。東京は浅草の日蓮宗の壽仙院の住職でもある。
崎津さんは餓島の関係者ではない。「戦死者の慰霊供養こそが仏教の勤めではないか」。と島を訪れるようになった。同会入会後ボランティアの派遣隊を結成し、現地の協力を得ながら600柱以上を収容した。訪問は30回近くになり、現地村落との親善にも努めてきた。
16年遺骨収容を国の責務と定めた法律が成立した。
収容可能とされる約59万柱のうち、法施行後の実績は4000柱に満たない。身元を特定するためのDNA鑑定に時間がかかることなどが理由だという。
餓島にも6000余柱が残されている。
仏教者でもある崎津さんは「供養されていない英霊に『忘れていない』と伝える意味もあるんです」と語る。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のために行脚を続けてきたのは戦没者、死没者に『忘れていない』という心持からである。
各地の慰霊碑を訪ね歩いていた時、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養もしてきた。
遊女、女郎と呼ばれし女性たちには生きた証しさえない女性が少なくないが、数少ない慰霊碑、供養塔に残されている女性たちにも『忘れていないよ』という自分の想いがある。
医師はアフガンで殺された中村哲さんのような世のため、人のために身を犠牲にして尽くす高邁な心を持った人が少なくない。
ところが、人が死んだとき、あの世への旅立ちを見届ける仏教者にも本来立派な僧侶がいるはずだが、知る限り少ない。
浅草壽仙院の崎津寛光住職は「戦没者の慰霊供養こそが仏教者の勤めではないか」と自分と同じ考えに辿り着いたというので、嬉しくなって書いている。
「日蓮宗のお題目は『南無妙法蓮華経』と唱えます。南無とは帰依することで、法華経の教えに心から従いますという意味です。
日蓮聖人は、このお題目を口で唱えることによって私たちの身体そのものが仏となり、この世がそのまま浄土の世界になるという教えを説いています」とは寺の㏋で住職が説いていることだ。
浄土宗の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽浄土に行かれると説く。
戦争で戦没した人たちの慰霊をする。遺骨を収集する。
すべからく、感謝の気持ちと忘れていないという意思表示とその実践である。
一行を率いたのは同会常任理事の崎津寛光さん(53)。東京は浅草の日蓮宗の壽仙院の住職でもある。
崎津さんは餓島の関係者ではない。「戦死者の慰霊供養こそが仏教の勤めではないか」。と島を訪れるようになった。同会入会後ボランティアの派遣隊を結成し、現地の協力を得ながら600柱以上を収容した。訪問は30回近くになり、現地村落との親善にも努めてきた。
16年遺骨収容を国の責務と定めた法律が成立した。
収容可能とされる約59万柱のうち、法施行後の実績は4000柱に満たない。身元を特定するためのDNA鑑定に時間がかかることなどが理由だという。
餓島にも6000余柱が残されている。
仏教者でもある崎津さんは「供養されていない英霊に『忘れていない』と伝える意味もあるんです」と語る。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のために行脚を続けてきたのは戦没者、死没者に『忘れていない』という心持からである。
各地の慰霊碑を訪ね歩いていた時、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養もしてきた。
遊女、女郎と呼ばれし女性たちには生きた証しさえない女性が少なくないが、数少ない慰霊碑、供養塔に残されている女性たちにも『忘れていないよ』という自分の想いがある。
医師はアフガンで殺された中村哲さんのような世のため、人のために身を犠牲にして尽くす高邁な心を持った人が少なくない。
ところが、人が死んだとき、あの世への旅立ちを見届ける仏教者にも本来立派な僧侶がいるはずだが、知る限り少ない。
浅草壽仙院の崎津寛光住職は「戦没者の慰霊供養こそが仏教者の勤めではないか」と自分と同じ考えに辿り着いたというので、嬉しくなって書いている。
「日蓮宗のお題目は『南無妙法蓮華経』と唱えます。南無とは帰依することで、法華経の教えに心から従いますという意味です。
日蓮聖人は、このお題目を口で唱えることによって私たちの身体そのものが仏となり、この世がそのまま浄土の世界になるという教えを説いています」とは寺の㏋で住職が説いていることだ。
浄土宗の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽浄土に行かれると説く。
戦争で戦没した人たちの慰霊をする。遺骨を収集する。
すべからく、感謝の気持ちと忘れていないという意思表示とその実践である。
2025年09月16日
遊郭にいた女性たちの被爆体験が語られず
戦争や原爆をジェンダーの視点から考える市民講座「ジェンダーの視点でみる語られない『原爆』」が、広島市中区で6日にあった。広島市立大学広島平和研究所の四條知恵准教授が講演し、被爆当時、遊郭にいた女性たちの体験が語られていないことに触れ、「いまだに語られない被害があり、それは現在私たちが生きる社会にもつながっている」と説いた。9月15日の朝日新聞(遠藤花記者)のWEBで見つけた。
四條准教授は原爆被害の記憶研究が専門。四條准教授によると、市内で遊郭を経営していた男性の体験記は残っているものの、働いていた女性の体験記は見つかっていないという。
四條准教授は、市が編集した「広島原爆戦災誌」にも遊郭の女性たちに関する記述が少ないと指摘。1956年の売春防止法制定以降、差別的な視線が強まったため、体験が積極的に語られず記録も残らなかったのではないかと分析した。
遊郭と言うところは吉原を例にすれば、お歯黒どぶで囲われ、遊女、女郎と呼ばれた女性たちが逃亡できないように囲われていた。
大阪の飛田新地では嘆きの壁という名で今も一部残っている。
死ぬまで搾取され続けた女性たちが梅毒その他で死ねば、吉原なら投げ込み寺と呼ばれている浄閑寺に投げ捨てられた。
原爆も含めた日本の街への空爆で、ために女性たちの多くが逃げ遅れ焼け死んだ。
「B29空爆 歯止めなく」という見出しで北は青森から南は鹿児島までの空爆を受けた都市名、犠牲者数を戦後77年の語り継ぐ戦争で2022年月8月13日の読売が伝えている。
一方、日本全国にあった遊郭と空爆を受けた都市との関連は調べないと書けないが、木造建築で住宅が密集していたことを考慮すると空爆されれば、火災が発生してしまうことは容易に想像できる。
吉原の女性たちの手記などは、新吉原女子保険組合・関根弘編『赤線従業婦の手記 明るい谷間』(土曜美術社)を買い求めているので手許にあるが、詩、短歌、俳句そして作文などが綴られている。
谷川健一編『近代民衆の記録 3 娼婦』(新人物往来社)が手許にあるが、和田芳子『遊女日記』、森光子『光明に芽ぐむ日』住谷悦治編『街娼の記録』に街娼の手記がある。
遊女日記では梅毒の検査、梅毒に罹患して入院治療の様子などを書いているし、光明に芽ぐむ日では、吉原に売られ、やがて逃亡して、柳原白蓮宅に駆け込んだことなどが綴られている。
原爆では生き残ることが難しいので、遊郭にいた女性たちが語るのは難しいと思うが、空爆では籠の鳥のよう境遇から逃げ遅れて焼け死んだ可能性が高いことと、生き残ったとしても、自らの職業を明かすには勇気がいたであろうと思われる。
自分のことを綴った和田芳子さん、森光子さんにしても書くことで気持ちを奮い立たせていたのかなと思えば、勇気だけでなく、境遇と社会に対しての不満みたいなものがあったのかと推察する。
名古屋の中村遊郭にある中村観音は名古屋空襲、空爆で焼死した遊女、女郎の遺灰も塗りこめられている。
言葉では語れなくとも、観音様の体に彼女たちの無念の思いが込められていると考えているのは自分だけか。
四條准教授は原爆被害の記憶研究が専門。四條准教授によると、市内で遊郭を経営していた男性の体験記は残っているものの、働いていた女性の体験記は見つかっていないという。
四條准教授は、市が編集した「広島原爆戦災誌」にも遊郭の女性たちに関する記述が少ないと指摘。1956年の売春防止法制定以降、差別的な視線が強まったため、体験が積極的に語られず記録も残らなかったのではないかと分析した。
遊郭と言うところは吉原を例にすれば、お歯黒どぶで囲われ、遊女、女郎と呼ばれた女性たちが逃亡できないように囲われていた。
大阪の飛田新地では嘆きの壁という名で今も一部残っている。
死ぬまで搾取され続けた女性たちが梅毒その他で死ねば、吉原なら投げ込み寺と呼ばれている浄閑寺に投げ捨てられた。
原爆も含めた日本の街への空爆で、ために女性たちの多くが逃げ遅れ焼け死んだ。
「B29空爆 歯止めなく」という見出しで北は青森から南は鹿児島までの空爆を受けた都市名、犠牲者数を戦後77年の語り継ぐ戦争で2022年月8月13日の読売が伝えている。
一方、日本全国にあった遊郭と空爆を受けた都市との関連は調べないと書けないが、木造建築で住宅が密集していたことを考慮すると空爆されれば、火災が発生してしまうことは容易に想像できる。
吉原の女性たちの手記などは、新吉原女子保険組合・関根弘編『赤線従業婦の手記 明るい谷間』(土曜美術社)を買い求めているので手許にあるが、詩、短歌、俳句そして作文などが綴られている。
谷川健一編『近代民衆の記録 3 娼婦』(新人物往来社)が手許にあるが、和田芳子『遊女日記』、森光子『光明に芽ぐむ日』住谷悦治編『街娼の記録』に街娼の手記がある。
遊女日記では梅毒の検査、梅毒に罹患して入院治療の様子などを書いているし、光明に芽ぐむ日では、吉原に売られ、やがて逃亡して、柳原白蓮宅に駆け込んだことなどが綴られている。
原爆では生き残ることが難しいので、遊郭にいた女性たちが語るのは難しいと思うが、空爆では籠の鳥のよう境遇から逃げ遅れて焼け死んだ可能性が高いことと、生き残ったとしても、自らの職業を明かすには勇気がいたであろうと思われる。
自分のことを綴った和田芳子さん、森光子さんにしても書くことで気持ちを奮い立たせていたのかなと思えば、勇気だけでなく、境遇と社会に対しての不満みたいなものがあったのかと推察する。
名古屋の中村遊郭にある中村観音は名古屋空襲、空爆で焼死した遊女、女郎の遺灰も塗りこめられている。
言葉では語れなくとも、観音様の体に彼女たちの無念の思いが込められていると考えているのは自分だけか。
2025年09月15日
「書き残しておかないと『なかったことに』されてしまう」
「戦禍の記憶 書いて残す」という見出しで、江原桂都記者のコラムが「東京春秋」というタイトルのコラム328回ということで9月7日の読売で見つけた。
「書き残しておかないと『なかったことに』なってしまうでしょ」と記者の心を揺さぶった一言を発したのは『戦争孤児と戦後児童保護の歴史―台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち』(明石書店)の著者藤井常文さんだ。
取材で出会い、啓発された江原記者は戦禍の記憶を書いて残すことを大切にしていくと誓う。
都の児童福祉施設などで約40年間働いてきた藤井さんはこの本を自費出版した。
自らが働いてきた施設のルーツとなる戦争孤児施設に関心を持ったのは30代の頃で、児童福祉施設の果たしている役割や歴史を深く掘り下げたいと思ったそうな。
生きていくことさえ難しかった子どもたちを受け入れ、育ててきた人々がいた事実の数々が埋もれていることを残念に思ったとも話す。
上坪隆『水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録』(現代史出版会、徳間書店)を買い求めて読んだのは80年代の頃だったか。
「聖福寮の孤児たち」では身寄りの無い引揚孤児達と保育にあたる人々の記録。「水子の譜うた」ではソ連兵などからの性的暴行により妊娠、あるいは梅毒に罹患したた引揚女性たちを救済する二日市保養所のことを伝える。
語り継ぐ戦争の立場に立つ自分を導いたのは五味川純平『人間の條件』(三一書房)の主人公梶で、TVドラマで演じた加藤剛の影響大であることは何回となく書いている。
満蒙開拓団とシベリア抑留に関心が向いたのは、梶だけでなく、二日市保養所で妊娠中絶手術や梅毒の治療を受けた女性とスタッフの影響が何と言っても大きい。
二日市保養所跡を訪れたのは2009年の8月のことだった。
羽田から博多に着いたのだから、引揚孤児の聖福寮が境内にあった聖福寺に立ち寄るべきだったが、当時は引揚孤児のことより妊娠中絶手術をした二日市保養所のことしか目が向かなかった。
博多には福岡市市民福祉プラザ1階で『資料展「引揚港・博多」が大いに参考になるにもかかわらず、このことを知らなかったのは不覚である。
横浜に住む親族、もう亡くなってしまったが、戦災孤児の面倒を見ていたことを知ったのはご当人が亡くなってからのことで、生きているうちに知っていれば、いろいろ教えてもらえたはずで心残りである。
悔いることはいくらでもあるが、学校を卒業して、社会人になって、シベリア抑留から引き揚げてきた大正生まれの地域の実力者と仕事で知り合った。
今なら、いろいろ教えてもらえただろうに、当時はこちらが勉強不足で、質問することさえできなかった。
江原記者ではないが、書き残してもらえば、読むことで知ることもできるが、なければ、事実関係を確かめることもできなくなってしまう。
書き残すことの大事さがよくわかる出来事ではある。
「書き残しておかないと『なかったことに』なってしまうでしょ」と記者の心を揺さぶった一言を発したのは『戦争孤児と戦後児童保護の歴史―台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち』(明石書店)の著者藤井常文さんだ。
取材で出会い、啓発された江原記者は戦禍の記憶を書いて残すことを大切にしていくと誓う。
都の児童福祉施設などで約40年間働いてきた藤井さんはこの本を自費出版した。
自らが働いてきた施設のルーツとなる戦争孤児施設に関心を持ったのは30代の頃で、児童福祉施設の果たしている役割や歴史を深く掘り下げたいと思ったそうな。
生きていくことさえ難しかった子どもたちを受け入れ、育ててきた人々がいた事実の数々が埋もれていることを残念に思ったとも話す。
上坪隆『水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録』(現代史出版会、徳間書店)を買い求めて読んだのは80年代の頃だったか。
「聖福寮の孤児たち」では身寄りの無い引揚孤児達と保育にあたる人々の記録。「水子の譜うた」ではソ連兵などからの性的暴行により妊娠、あるいは梅毒に罹患したた引揚女性たちを救済する二日市保養所のことを伝える。
語り継ぐ戦争の立場に立つ自分を導いたのは五味川純平『人間の條件』(三一書房)の主人公梶で、TVドラマで演じた加藤剛の影響大であることは何回となく書いている。
満蒙開拓団とシベリア抑留に関心が向いたのは、梶だけでなく、二日市保養所で妊娠中絶手術や梅毒の治療を受けた女性とスタッフの影響が何と言っても大きい。
二日市保養所跡を訪れたのは2009年の8月のことだった。
羽田から博多に着いたのだから、引揚孤児の聖福寮が境内にあった聖福寺に立ち寄るべきだったが、当時は引揚孤児のことより妊娠中絶手術をした二日市保養所のことしか目が向かなかった。
博多には福岡市市民福祉プラザ1階で『資料展「引揚港・博多」が大いに参考になるにもかかわらず、このことを知らなかったのは不覚である。
横浜に住む親族、もう亡くなってしまったが、戦災孤児の面倒を見ていたことを知ったのはご当人が亡くなってからのことで、生きているうちに知っていれば、いろいろ教えてもらえたはずで心残りである。
悔いることはいくらでもあるが、学校を卒業して、社会人になって、シベリア抑留から引き揚げてきた大正生まれの地域の実力者と仕事で知り合った。
今なら、いろいろ教えてもらえただろうに、当時はこちらが勉強不足で、質問することさえできなかった。
江原記者ではないが、書き残してもらえば、読むことで知ることもできるが、なければ、事実関係を確かめることもできなくなってしまう。
書き残すことの大事さがよくわかる出来事ではある。
2025年09月12日
募る望郷 ソ連占領国後 暗夜の脱出
戦後80年 昭和百年で読売が力を入れて伝える語り継ぐ戦争。9月9日(波多江一郎記者)はアジア太平洋戦争で日本が降伏した後も侵攻を続け、北海道の半分を強奪しようと目論んだ強盗、捕虜の抑留、強制労働国家スターリンのソ連軍によって1945年9月上旬までに占領された北方領土。約1万7000人が暮らしていた。
千島歯舞諸島居住者連盟によると、7月末時点の元島民は4897人で、平均年齢は89・6歳に達する。
国後島から根室に引き揚げた佐々木タエさん(88)。4歳の時、漁船の転覆事故で父親を亡くしている。
記憶をたどると、1945年7月中旬、空襲で約400人が犠牲となった対岸の根室が炎に包まれたのを目撃している。
45年9月下旬の夜、島から60`先の対岸の根室を目指し、祖父母や母たち8人で小舟に乗り込み、沖で漁船と落ち合うと、はしごをよじ登ろうとした時、小舟が波で上下に揺れ、「海に落ちる」と身が縮んだが、手をひっぱられ漁船に転がり込んだ。
空襲で市街地の8割が焼けた根室から知人を頼って釧路方面に行き、物置小屋や納屋を転々とした。
戦争で母親の弟が戦死し、息子を亡くした祖母は心を病み、川に身を投げた。
18歳で銀行員になり、結婚して2人の娘にも恵まれた佐々木さん。
北方4島の返還運動に加わり、日露自由訪問で2014年と2016年に国後島を訪れた。
語り部をしながら、ロシアが2022年2月24日、ウクライナに侵攻、侵略したことが国後島の占領と重なる。
ウクライナに平和が訪れるように願っている。
人間あきらめてはダメだ。とは古来から言い伝えられていることである。
日本とロシアの間では日露戦争があったくらいで、ロシアの前身ソ連のスターリンは日露戦争で日本が手にした権益をすべて奪い返すという目的があったとされている。
その上で、北海道の半分を強奪し、不凍港を手に入れ、シベリアから、日本海太平洋に出ることを考えていたという説がある。
1945年8月9日未明、樺太や千島列島に侵攻侵略してきたソ連軍が玉音放送後も攻撃の手を緩めなかったことに対し、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官・樋口季一郎陸軍中将の命令で千島列島の占守島の守備隊戦車11聯隊が懸命に戦い、ソ連軍の南下を引き延ばしたため、北海道には米軍が先に進駐できたことから、北海道は無事日本の領土だった。
日露間には、過去の歴史で対立関係にあったにもかかわらず。、愚か者たちがソ連に和平交渉の仲介を恃もうとしたことがあった。
戦後になって数十年、強盗国家が奪った領土を還すはずがないにもかかわらず、またしても愚か者が2島返還だなどと交渉した云々と伝えられ怒り心頭だった。
ウクライナのクリミア半島を強奪したロシア。元はといえば、北海道の強奪を目論んだように海に出ることが優先課題だった。
21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナ侵略で占領した土地をまたしても強奪した。
あきらめてはいけないというのは、ロシアに強奪された北方領土を返還せよとことあるごとに訴え続けることが大事だということ。
自分たちの領土だったということで、長い歴史をみれば、ロシアが衰退したり、疫病が流行ったりすることだってあるかもしれない。
怨念という言葉は好きではないが、満州などでのソ連兵による性暴力、シベリア抑留、ウクライナ侵略という事実に対し、天罰が下ることを祈り続けることはできるはずだ。
千島歯舞諸島居住者連盟によると、7月末時点の元島民は4897人で、平均年齢は89・6歳に達する。
国後島から根室に引き揚げた佐々木タエさん(88)。4歳の時、漁船の転覆事故で父親を亡くしている。
記憶をたどると、1945年7月中旬、空襲で約400人が犠牲となった対岸の根室が炎に包まれたのを目撃している。
45年9月下旬の夜、島から60`先の対岸の根室を目指し、祖父母や母たち8人で小舟に乗り込み、沖で漁船と落ち合うと、はしごをよじ登ろうとした時、小舟が波で上下に揺れ、「海に落ちる」と身が縮んだが、手をひっぱられ漁船に転がり込んだ。
空襲で市街地の8割が焼けた根室から知人を頼って釧路方面に行き、物置小屋や納屋を転々とした。
戦争で母親の弟が戦死し、息子を亡くした祖母は心を病み、川に身を投げた。
18歳で銀行員になり、結婚して2人の娘にも恵まれた佐々木さん。
北方4島の返還運動に加わり、日露自由訪問で2014年と2016年に国後島を訪れた。
語り部をしながら、ロシアが2022年2月24日、ウクライナに侵攻、侵略したことが国後島の占領と重なる。
ウクライナに平和が訪れるように願っている。
人間あきらめてはダメだ。とは古来から言い伝えられていることである。
日本とロシアの間では日露戦争があったくらいで、ロシアの前身ソ連のスターリンは日露戦争で日本が手にした権益をすべて奪い返すという目的があったとされている。
その上で、北海道の半分を強奪し、不凍港を手に入れ、シベリアから、日本海太平洋に出ることを考えていたという説がある。
1945年8月9日未明、樺太や千島列島に侵攻侵略してきたソ連軍が玉音放送後も攻撃の手を緩めなかったことに対し、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官・樋口季一郎陸軍中将の命令で千島列島の占守島の守備隊戦車11聯隊が懸命に戦い、ソ連軍の南下を引き延ばしたため、北海道には米軍が先に進駐できたことから、北海道は無事日本の領土だった。
日露間には、過去の歴史で対立関係にあったにもかかわらず。、愚か者たちがソ連に和平交渉の仲介を恃もうとしたことがあった。
戦後になって数十年、強盗国家が奪った領土を還すはずがないにもかかわらず、またしても愚か者が2島返還だなどと交渉した云々と伝えられ怒り心頭だった。
ウクライナのクリミア半島を強奪したロシア。元はといえば、北海道の強奪を目論んだように海に出ることが優先課題だった。
21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナ侵略で占領した土地をまたしても強奪した。
あきらめてはいけないというのは、ロシアに強奪された北方領土を返還せよとことあるごとに訴え続けることが大事だということ。
自分たちの領土だったということで、長い歴史をみれば、ロシアが衰退したり、疫病が流行ったりすることだってあるかもしれない。
怨念という言葉は好きではないが、満州などでのソ連兵による性暴力、シベリア抑留、ウクライナ侵略という事実に対し、天罰が下ることを祈り続けることはできるはずだ。
2025年09月08日
模擬原爆18都府県に49発
戦後80年 昭和百年で読売(波多江一郎記者)が伝える語り継ぐ戦争、その8月4日は模擬原爆、埋もれた悲劇だった。
ナガサキで使用された原爆「ファットマン」とほぼ同じ重さの1万ポンド(4・5d)爆弾で18都府県に49発投下されたと紙面に解説があった。
内部には通常の爆弾が詰め込まれていたが、着弾時にクレーターができるほどの威力があった。
戦後、模擬原爆の存在に光を当てたのは愛知県の市民グループ(「春日井の戦争を記録する会」だった。
1986年に中学教諭らで結成した同会は米軍が本土爆撃の効果を検証した調査団の報告書を精査し、終戦前日の45年8月14日、春日井市が狙われた空襲を調べていくうち、報告書の記述の脇に「スペシャル17番」という単語があることに気づいた。
研究者らの間ではヒロシマとナガサキに投下された原爆は「スペシャル13番」と同じく16番と知られているのだ。同会の金子力さん(74)は「春日井の空襲と原爆は関連している」と直感したそうな。
「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三さん(75)(山口県周南市)も加わり、読み解くうちに、B29が原爆と同じ形状で同質量の模擬原爆を搭載し、極秘裏に日本上空で投下訓練を繰り返していたことを突き止めた。
18都府県で計49発が投下されていて、このうち46発は着弾地点まで特定した。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で新潟県長岡を訪れたのは2017年8月のことだった。
長岡は驚いたことに米軍による空襲、空爆の犠牲者の名前を特定している珍しい街である。
全国でも自分が知る限り長岡だけではないか。
ここで、さらに驚いたのは原爆の標的に長岡がされていたことを知ったときである。
1945年7月20日に長岡に模擬原爆が投下されたということを知った。長岡空襲の12日前のことだという。
長岡空襲の資料館はささやかな施設であるが、空襲の犠牲者の特定と模擬原爆の投下された街ということで大いに勉強になった。
春日井といえば、東海テレビ『人生フルーツ』を観たとき、春日井市高蔵寺ニュータウンの一隅にある住居で暮らす建築家津端修一、英子夫妻の生活を垣間見ることができ、こういう暮らしもいいなと思った。
残念ながら、春日井市に行く用事がなかったので、詳しいことは不明ながら、津端さんの庭の樹木の多さにこれぞ人の棲み処だと感心したものである。
そう、東海テレビといえば、名張の毒ぶどう酒事件のえん罪を訴えながらも、八王子の医療刑務所で死亡した奥西勝さんの無念の思いと再審請求を引き継いだ岡美代子さんの活動を描いた『いもうとの時間』を制作し、この映画を観て、冤罪を再確認したものである。
とにかく、原爆投下されたのはヒロシマ、ナガサキであるが、ほかにも候補地はいくらでもあったことになる。
軍が降参するのが遅かったために、原爆を二つも落とされてしまった日本。
米軍だけの責任ではなく、日本軍にも責任があるというのが自分の考えである。
ナガサキで使用された原爆「ファットマン」とほぼ同じ重さの1万ポンド(4・5d)爆弾で18都府県に49発投下されたと紙面に解説があった。
内部には通常の爆弾が詰め込まれていたが、着弾時にクレーターができるほどの威力があった。
戦後、模擬原爆の存在に光を当てたのは愛知県の市民グループ(「春日井の戦争を記録する会」だった。
1986年に中学教諭らで結成した同会は米軍が本土爆撃の効果を検証した調査団の報告書を精査し、終戦前日の45年8月14日、春日井市が狙われた空襲を調べていくうち、報告書の記述の脇に「スペシャル17番」という単語があることに気づいた。
研究者らの間ではヒロシマとナガサキに投下された原爆は「スペシャル13番」と同じく16番と知られているのだ。同会の金子力さん(74)は「春日井の空襲と原爆は関連している」と直感したそうな。
「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三さん(75)(山口県周南市)も加わり、読み解くうちに、B29が原爆と同じ形状で同質量の模擬原爆を搭載し、極秘裏に日本上空で投下訓練を繰り返していたことを突き止めた。
18都府県で計49発が投下されていて、このうち46発は着弾地点まで特定した。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で新潟県長岡を訪れたのは2017年8月のことだった。
長岡は驚いたことに米軍による空襲、空爆の犠牲者の名前を特定している珍しい街である。
全国でも自分が知る限り長岡だけではないか。
ここで、さらに驚いたのは原爆の標的に長岡がされていたことを知ったときである。
1945年7月20日に長岡に模擬原爆が投下されたということを知った。長岡空襲の12日前のことだという。
長岡空襲の資料館はささやかな施設であるが、空襲の犠牲者の特定と模擬原爆の投下された街ということで大いに勉強になった。
春日井といえば、東海テレビ『人生フルーツ』を観たとき、春日井市高蔵寺ニュータウンの一隅にある住居で暮らす建築家津端修一、英子夫妻の生活を垣間見ることができ、こういう暮らしもいいなと思った。
残念ながら、春日井市に行く用事がなかったので、詳しいことは不明ながら、津端さんの庭の樹木の多さにこれぞ人の棲み処だと感心したものである。
そう、東海テレビといえば、名張の毒ぶどう酒事件のえん罪を訴えながらも、八王子の医療刑務所で死亡した奥西勝さんの無念の思いと再審請求を引き継いだ岡美代子さんの活動を描いた『いもうとの時間』を制作し、この映画を観て、冤罪を再確認したものである。
とにかく、原爆投下されたのはヒロシマ、ナガサキであるが、ほかにも候補地はいくらでもあったことになる。
軍が降参するのが遅かったために、原爆を二つも落とされてしまった日本。
米軍だけの責任ではなく、日本軍にも責任があるというのが自分の考えである。
2025年09月07日
戦争における理不尽さが凝縮された満州
「風船爆弾をつくった 機関銃持ったソ連兵が家に押し入り くぐりぬけた死線」というタイトルで9月7日の産経新聞のWEBが満州での出来事を伝えていて興味深かった。
1945(昭和20)年、終戦の8月15日を過ぎても戦争が終結しない地域があった。ソ連が8月9日に現在の中国東北部にあった「満州国」へ侵攻。9月まで戦闘が続き、シベリア抑留や中国残留孤児などその後の悲劇を招いた。戦後80年、当時を知る関係者は年々少なくなっているなか、満州で10代を過ごした90代の女性3人に語ってもらった。長い年月がたったが、現地での暮らしが敗戦で一転した、厳しい現実を忘れてはいなかった。満州の生き証人≠フ貴重な証言を紹介する。
3人は滝田和子さん(98)=兵庫県西宮市、ア山ひろみさん(95)=高知市、広沢嘉代子さん(92)=大阪市
父が警察関係の幹部だったのでソ連兵に連れていかれました。12歳離れた長兄も連れていかれ、帰ってきませんでした。兄は約3年間、シベリアに抑留されていました。とは滝田さん。
ソ連兵の物とりには2回入られましたよ。女性はみんな丸刈りにして男の格好をするようにしていましたけど、向こうの兵隊は知っているので、胸を触ってくるんです。近くの女子寮では女性が裸で飛び降りて逃げる事件もありましたよ。
気球をつくると思っていました…。直径5〜6メートルの風船。重労働だった。と当時はわからなかった風船爆弾を学徒動員で作っていたという崎山さん。
新京の官庁街にあった家にソ連兵が土足で踏み込んできて、荒らされました。あわてて天井裏に逃げ隠れました。その後は女性と分からないよう頭を丸刈りに。
母親からは「もしものために」とお守り袋を渡され、見るとその中に青酸カリが入ってた。一度、家の庭にマンドリンと呼ばれる機関銃を担いだソ連兵が現れ、青酸カリを使う覚悟をしたことがあります。隠れていて気づかれず、使わずに済みました。
ソ連参戦を知らなくて学校に行ったら、2、3人しかいませんでした。軍隊関係の子はわかっていたのか、みんな避難していたんですよ。という広沢さん。
うちにもピストルを構えたソ連兵が来ました。でも母が肝っ玉母さん≠ナした。にっこり笑って握手してスープを飲ませたら喜んで何もとらずに帰っていき、それから毎日3人くらいで「ママ」と言ってはやってきました。母が白系ロシア人のメイドから料理を習っていたのがよかったのでしょう。周りは戦々恐々でしたが、うちは彼らが遊びにきていたことで平和でした。引き揚げまでの間は、母のおかげで比較的安心して暮らせた思いが残っています。
でも、夜は怖いから天井裏で寝ていましたし、髪を切って顔に炭を塗ったりしました。
語り継ぐ戦争の立場から、満州侵略で中国人の土地を取り上げたも同然で満蒙開拓団が入植し、アジア太平洋戦争の戦況が不利になった1945年8月9日未明、ソ連軍が侵攻、侵略してきた満州では〜傀儡政権とは言いながら、関東軍がいて、国だから役所があり、警察があって、南満州鉄道があり、満蒙開拓団の人たちが入植していたから、日本人の引き揚げを一括りにして語ることは正確とは言い難い。
ソ連軍が侵攻してきたことをいち早く察知した軍関係者、満州国の役人などは引き揚げも比較的早かった。
ところが、ソ満国境近くに関東軍を補完するような役割をさせるべく入植させられた開拓団は簡単には逃げられず、集団自決の話があちこちで流れた。
さらに、開拓団とは異なり、満州にあっては、都市部というか大きな街にいた3人は開拓団員と較べれば、はるかに恵まれていた。
3人は98歳、95歳、92歳という年齢だから80年前ということを考慮すると18歳と15歳、12歳ということになり、12歳はともかく、18歳ともなれば、ソ連兵に性的暴行されやすい年齢だから、大変だったろうと推察する。
印象に残ったのは広沢さんの母親がソ連兵をスープでもてなしたから、家族が無事だったと証言していることだ。
銃やマンドリンと呼ばれた機関銃を突き付けられれば、笑顔で歓待することは極めて難しい。
にもかかわらず、白系ロシア人のメイド仕込みのスープだったから喜ばれたらしいが、まさに、肝っ玉母さんそのものである。
満州からの引き揚げで、日本人女性が性的暴行されるのを目撃した話は履いて捨てるほどだが、被害者が語っていることはほとんどない。
『黒川の女たち』を観て、ソ連の将校たちに開拓団を守ってもらう代償に15人の開拓団の娘たちが性奴隷として差し出されたことを証言した人たちには本当の勇気があると称えたい。
満州からの引き揚げとは言うものの、それぞれの立場で苦労も異なるようだ。
1945(昭和20)年、終戦の8月15日を過ぎても戦争が終結しない地域があった。ソ連が8月9日に現在の中国東北部にあった「満州国」へ侵攻。9月まで戦闘が続き、シベリア抑留や中国残留孤児などその後の悲劇を招いた。戦後80年、当時を知る関係者は年々少なくなっているなか、満州で10代を過ごした90代の女性3人に語ってもらった。長い年月がたったが、現地での暮らしが敗戦で一転した、厳しい現実を忘れてはいなかった。満州の生き証人≠フ貴重な証言を紹介する。
3人は滝田和子さん(98)=兵庫県西宮市、ア山ひろみさん(95)=高知市、広沢嘉代子さん(92)=大阪市
父が警察関係の幹部だったのでソ連兵に連れていかれました。12歳離れた長兄も連れていかれ、帰ってきませんでした。兄は約3年間、シベリアに抑留されていました。とは滝田さん。
ソ連兵の物とりには2回入られましたよ。女性はみんな丸刈りにして男の格好をするようにしていましたけど、向こうの兵隊は知っているので、胸を触ってくるんです。近くの女子寮では女性が裸で飛び降りて逃げる事件もありましたよ。
気球をつくると思っていました…。直径5〜6メートルの風船。重労働だった。と当時はわからなかった風船爆弾を学徒動員で作っていたという崎山さん。
新京の官庁街にあった家にソ連兵が土足で踏み込んできて、荒らされました。あわてて天井裏に逃げ隠れました。その後は女性と分からないよう頭を丸刈りに。
母親からは「もしものために」とお守り袋を渡され、見るとその中に青酸カリが入ってた。一度、家の庭にマンドリンと呼ばれる機関銃を担いだソ連兵が現れ、青酸カリを使う覚悟をしたことがあります。隠れていて気づかれず、使わずに済みました。
ソ連参戦を知らなくて学校に行ったら、2、3人しかいませんでした。軍隊関係の子はわかっていたのか、みんな避難していたんですよ。という広沢さん。
うちにもピストルを構えたソ連兵が来ました。でも母が肝っ玉母さん≠ナした。にっこり笑って握手してスープを飲ませたら喜んで何もとらずに帰っていき、それから毎日3人くらいで「ママ」と言ってはやってきました。母が白系ロシア人のメイドから料理を習っていたのがよかったのでしょう。周りは戦々恐々でしたが、うちは彼らが遊びにきていたことで平和でした。引き揚げまでの間は、母のおかげで比較的安心して暮らせた思いが残っています。
でも、夜は怖いから天井裏で寝ていましたし、髪を切って顔に炭を塗ったりしました。
語り継ぐ戦争の立場から、満州侵略で中国人の土地を取り上げたも同然で満蒙開拓団が入植し、アジア太平洋戦争の戦況が不利になった1945年8月9日未明、ソ連軍が侵攻、侵略してきた満州では〜傀儡政権とは言いながら、関東軍がいて、国だから役所があり、警察があって、南満州鉄道があり、満蒙開拓団の人たちが入植していたから、日本人の引き揚げを一括りにして語ることは正確とは言い難い。
ソ連軍が侵攻してきたことをいち早く察知した軍関係者、満州国の役人などは引き揚げも比較的早かった。
ところが、ソ満国境近くに関東軍を補完するような役割をさせるべく入植させられた開拓団は簡単には逃げられず、集団自決の話があちこちで流れた。
さらに、開拓団とは異なり、満州にあっては、都市部というか大きな街にいた3人は開拓団員と較べれば、はるかに恵まれていた。
3人は98歳、95歳、92歳という年齢だから80年前ということを考慮すると18歳と15歳、12歳ということになり、12歳はともかく、18歳ともなれば、ソ連兵に性的暴行されやすい年齢だから、大変だったろうと推察する。
印象に残ったのは広沢さんの母親がソ連兵をスープでもてなしたから、家族が無事だったと証言していることだ。
銃やマンドリンと呼ばれた機関銃を突き付けられれば、笑顔で歓待することは極めて難しい。
にもかかわらず、白系ロシア人のメイド仕込みのスープだったから喜ばれたらしいが、まさに、肝っ玉母さんそのものである。
満州からの引き揚げで、日本人女性が性的暴行されるのを目撃した話は履いて捨てるほどだが、被害者が語っていることはほとんどない。
『黒川の女たち』を観て、ソ連の将校たちに開拓団を守ってもらう代償に15人の開拓団の娘たちが性奴隷として差し出されたことを証言した人たちには本当の勇気があると称えたい。
満州からの引き揚げとは言うものの、それぞれの立場で苦労も異なるようだ。
2025年09月06日
戦没者の慰霊と戦争を語り継ぐ施設
関東大震災から102年となる9月1日、1923年の関東大震災で亡くなったおよそ5万8000人の遺骨が納められている東京・墨田区の「東京都慰霊堂」では、法要が営まれた。とメディアが伝えている。
NHKや毎日新聞などによれば、遺族の代表らおよそ190人が参列した。
一方、慰霊堂のすぐ隣では、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマにより虐殺された朝鮮人の犠牲者を追悼する式典も行われた。
この式典には、歴代の都知事が追悼文を寄せていたが、小池知事は9年連続で追悼文の送付を見送っている。
「東京都慰霊堂」といえば、1948(昭和23)年から東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。
語り継ぐ戦争だから、東京大空襲の犠牲者が合祀されているというからにはお参りしなければならない。ということで、2015年8月に訪れ、お参りしている。
都知事に選ばれた人は、なぜか、東京に大空襲の犠牲者の資料館を建築しようとはしないのは何故だろうか。
人口が多い分、戦争の実相を伝えたくない歴史修正主義者が多いことも遠因しているかもしれない。
原爆が投下されたヒロシマ、ナガサキ、そして、地上戦で多くの犠牲者が出た沖縄、それぞれ資料館があるというのに東京大空襲で多数の犠牲者が出ているにもかかわらず、関東大震災の犠牲者と合祀というのは納得が
いかない。
8月2日の読売(大塚美智子記者)によれば、都戦没者霊苑(文京区春日)で戦没者の遺品を集めた「遺品展示室」の見学ツアーが開かれていると伝えていた。
何たる偶然のことか。
炎症性腸疾患クローン病で50代半ばを前に退職し、念願の自由を手に入れた時、通教ではあるがもう一度勉強してみようと入学し、この大学の文京区春日の理工学部校舎にスクーリングで行ったことがあり、その昼休みに近くの都戦没者霊苑に入ってみたのである。
今思えば、霊苑で戦没者の遺品展示や語り部たちの証言を聞くことができるとは当時は全く思いもよらないことだった。
戦没者の墓苑といえば、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑があり、ヒロシマには原爆供養塔があり、ナガサキには長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂があり、沖縄には平和の礎がある。
ヒロシマ、ナガサキには国立の被爆死者の慰霊施設もできている。
資料館といえば国立しょうけい館 戦傷病者史料館、シベリア抑留と引き揚げを主とした平和祈念展示資料館を国が都に委託、ヒロシマ、ナガサキ、沖縄とそれぞれ資料館がある。
東京大空襲・戦災資料センターが東京江東区にあって、東京大空襲をしっかり語り継いでいるが、都立というわけではないところに、東京都知事の戦争への向き合い方がわかる。
東京都の慰霊堂はあくまでも関東大震災の犠牲者を祀る施設だから、東京大空襲の犠牲者の墓苑は、東京文京区春日にある東京都戦没者霊苑だと考えればいいということなのか。
とにかく、A級戦犯合祀後、天皇がお参りしない靖国神社ではなく、誰でもが戦没者を悼む施設として千鳥ヶ淵の墓苑のPRが必要ではないか。
NHKや毎日新聞などによれば、遺族の代表らおよそ190人が参列した。
一方、慰霊堂のすぐ隣では、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマにより虐殺された朝鮮人の犠牲者を追悼する式典も行われた。
この式典には、歴代の都知事が追悼文を寄せていたが、小池知事は9年連続で追悼文の送付を見送っている。
「東京都慰霊堂」といえば、1948(昭和23)年から東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。
語り継ぐ戦争だから、東京大空襲の犠牲者が合祀されているというからにはお参りしなければならない。ということで、2015年8月に訪れ、お参りしている。
都知事に選ばれた人は、なぜか、東京に大空襲の犠牲者の資料館を建築しようとはしないのは何故だろうか。
人口が多い分、戦争の実相を伝えたくない歴史修正主義者が多いことも遠因しているかもしれない。
原爆が投下されたヒロシマ、ナガサキ、そして、地上戦で多くの犠牲者が出た沖縄、それぞれ資料館があるというのに東京大空襲で多数の犠牲者が出ているにもかかわらず、関東大震災の犠牲者と合祀というのは納得が
いかない。
8月2日の読売(大塚美智子記者)によれば、都戦没者霊苑(文京区春日)で戦没者の遺品を集めた「遺品展示室」の見学ツアーが開かれていると伝えていた。
何たる偶然のことか。
炎症性腸疾患クローン病で50代半ばを前に退職し、念願の自由を手に入れた時、通教ではあるがもう一度勉強してみようと入学し、この大学の文京区春日の理工学部校舎にスクーリングで行ったことがあり、その昼休みに近くの都戦没者霊苑に入ってみたのである。
今思えば、霊苑で戦没者の遺品展示や語り部たちの証言を聞くことができるとは当時は全く思いもよらないことだった。
戦没者の墓苑といえば、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑があり、ヒロシマには原爆供養塔があり、ナガサキには長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂があり、沖縄には平和の礎がある。
ヒロシマ、ナガサキには国立の被爆死者の慰霊施設もできている。
資料館といえば国立しょうけい館 戦傷病者史料館、シベリア抑留と引き揚げを主とした平和祈念展示資料館を国が都に委託、ヒロシマ、ナガサキ、沖縄とそれぞれ資料館がある。
東京大空襲・戦災資料センターが東京江東区にあって、東京大空襲をしっかり語り継いでいるが、都立というわけではないところに、東京都知事の戦争への向き合い方がわかる。
東京都の慰霊堂はあくまでも関東大震災の犠牲者を祀る施設だから、東京大空襲の犠牲者の墓苑は、東京文京区春日にある東京都戦没者霊苑だと考えればいいということなのか。
とにかく、A級戦犯合祀後、天皇がお参りしない靖国神社ではなく、誰でもが戦没者を悼む施設として千鳥ヶ淵の墓苑のPRが必要ではないか。
2025年09月05日
遺族会の活動 孫世代が引き継ぐ
戦没者遺族でつくる日本遺族会(東京)の支部にあたる47都道府県遺族会のうち、4割を超える20団体が高齢化に伴う会員の減少を理由に、一部の活動を中止・縮小したことが読売新聞の調査でわかった。7団体が活動休止や解散を検討していることも判明。戦争の記憶の継承が困難になっている実態を改めて示した。と8月15日の読売が伝えていた。
調査結果などによると、全遺族会の会員総数は、令和が始まった2019年は計約57万世帯で、今年は計約35万世帯に減った。従来の活動のうち一つでも中止・縮小したのは20団体。海外での慰霊巡拝が中止されたり、国内での遺骨収集が休止されたりした。
日本遺族会は「結成当初、組織の中心は戦没者の父母やきょうだいの世代で、会員数が減るのは自然なことだ。遺族の記憶を伝承し、平和を希求する活動を戦後100年まで続けることを目標に掲げており、愚直に『戦争の悲惨さ、平和の尊さ』を訴え続けたい」としている。
山形市に住む寒河江幸子さん(84)の父は先の大戦中、フィリピンで戦死した。出征は寒河江さんが物心つく前だったため、父の記憶はない。
祖父母、母、弟との5人暮らしになった。一家の大黒柱を失い、母は河原の土砂採取や、げたの行商で懸命に働いたが、生活は苦しかった。寒河江さんが小学校に入学する時は、母が自分の着物をほどいて上着とズボンを作ってくれた。食卓に出てきた大根飯はほとんどが大根で、幼い弟は嫌がって泣いた。と毎日新聞の取材に応えている。
寒河江さんは遺族会の集まりで同じ境遇の女性たちと話す時、心が休まるという。「『貧乏したよ』と言うと『私だって』と返してくれる。みんな苦労したから、お互いの気持ちが分かるんです」
その山形県の遺族会に青年部ができ、活動を引き継いでいるという。
戦争ほど矛盾に満ちたものはないのではないか。
昭和100年、治安維持法制定から100年、特高警察が跋扈し、戦争に反対できないようにした上で、自分たちだけ武装している軍人が手柄を立てようと、満州に侵略した関東軍が起こした盧溝橋事件がアジア太平洋戦争の始まりだという説がある。
日本の侵略を容認しない米国に対し、国力のあまりにも違いすぎることを棚上げし、米国との戦争を始めてしまった軍部。
その軍部でも学校の勉強だけは滅茶苦茶に優秀な軍人が戦争を企図、推進する大本営に集められ、作戦を練った。
資源を求める日本は、満州だけでなく、東南アジアにまで戦線を拡大したため、兵站を狙い撃ちする米軍の攻撃で兵士たちへの補給が途絶え、飢餓に苦しむ兵士たちが続出し、餓島と呼ばれたガダルカナル島、兵士同士が殺し合いをし、肉を食べたのではないかと推察されているレイテ島、ニューギニア、そして、白骨街道で知られるインパール作戦と敵との交戦ではなくマラリアなどの感染症や餓死者が多く出た。
ところが、戦争の大きな矛盾として、大本営の軍人は仕出しの弁当を食べていたという説もあるし、国内では軍人たちは食べることに不自由しなかったばかりか、最前線でも、指揮官幹部たちが餓死した話は全くない。
玉音放送後、武装解除してしまった兵士たちはシベリアに連行され、抑留され、飢餓に苦しみながら、極寒の中、伐採や鉄道建設の強制労働をさせられた。
ソ連軍は、抑留中も日本の軍隊の階級制度をうまく利用したため、ここでも、大変だったのは兵士たちだった。
大黒柱を召集、徴兵された家族は銃後の守りなどと呼ばれていたが、大黒柱が帰国できた家庭はまだしも、働き手が戦没してしまった寒河江幸子さんの家庭では、大根飯という「おしん」みたいな貧しさで生きていくのもやっとという有り様だった。
戦争ではだれが何と言っても一番大変なのは親が戦没した子どもと女性たちである。
親がいなければ、清太と節子みたいに子どもだけでは生きていくのは難しい。
女性たちは、戦場であれ、戦後であれ戦争に敗れれば、性的暴行されることはベルリンや満州で証明されているばかりか、進駐してきた兵士たちから性的暴行される。
基地ができれば、小学生の女児だって容赦なく米兵3人に性的暴行されている。
こういう事実を語り伝え、戦争に反対していくのが遺族会の役割りだとすれば、遺族も孫世代につないでいくことが求められているのではないか。
調査結果などによると、全遺族会の会員総数は、令和が始まった2019年は計約57万世帯で、今年は計約35万世帯に減った。従来の活動のうち一つでも中止・縮小したのは20団体。海外での慰霊巡拝が中止されたり、国内での遺骨収集が休止されたりした。
日本遺族会は「結成当初、組織の中心は戦没者の父母やきょうだいの世代で、会員数が減るのは自然なことだ。遺族の記憶を伝承し、平和を希求する活動を戦後100年まで続けることを目標に掲げており、愚直に『戦争の悲惨さ、平和の尊さ』を訴え続けたい」としている。
山形市に住む寒河江幸子さん(84)の父は先の大戦中、フィリピンで戦死した。出征は寒河江さんが物心つく前だったため、父の記憶はない。
祖父母、母、弟との5人暮らしになった。一家の大黒柱を失い、母は河原の土砂採取や、げたの行商で懸命に働いたが、生活は苦しかった。寒河江さんが小学校に入学する時は、母が自分の着物をほどいて上着とズボンを作ってくれた。食卓に出てきた大根飯はほとんどが大根で、幼い弟は嫌がって泣いた。と毎日新聞の取材に応えている。
寒河江さんは遺族会の集まりで同じ境遇の女性たちと話す時、心が休まるという。「『貧乏したよ』と言うと『私だって』と返してくれる。みんな苦労したから、お互いの気持ちが分かるんです」
その山形県の遺族会に青年部ができ、活動を引き継いでいるという。
戦争ほど矛盾に満ちたものはないのではないか。
昭和100年、治安維持法制定から100年、特高警察が跋扈し、戦争に反対できないようにした上で、自分たちだけ武装している軍人が手柄を立てようと、満州に侵略した関東軍が起こした盧溝橋事件がアジア太平洋戦争の始まりだという説がある。
日本の侵略を容認しない米国に対し、国力のあまりにも違いすぎることを棚上げし、米国との戦争を始めてしまった軍部。
その軍部でも学校の勉強だけは滅茶苦茶に優秀な軍人が戦争を企図、推進する大本営に集められ、作戦を練った。
資源を求める日本は、満州だけでなく、東南アジアにまで戦線を拡大したため、兵站を狙い撃ちする米軍の攻撃で兵士たちへの補給が途絶え、飢餓に苦しむ兵士たちが続出し、餓島と呼ばれたガダルカナル島、兵士同士が殺し合いをし、肉を食べたのではないかと推察されているレイテ島、ニューギニア、そして、白骨街道で知られるインパール作戦と敵との交戦ではなくマラリアなどの感染症や餓死者が多く出た。
ところが、戦争の大きな矛盾として、大本営の軍人は仕出しの弁当を食べていたという説もあるし、国内では軍人たちは食べることに不自由しなかったばかりか、最前線でも、指揮官幹部たちが餓死した話は全くない。
玉音放送後、武装解除してしまった兵士たちはシベリアに連行され、抑留され、飢餓に苦しみながら、極寒の中、伐採や鉄道建設の強制労働をさせられた。
ソ連軍は、抑留中も日本の軍隊の階級制度をうまく利用したため、ここでも、大変だったのは兵士たちだった。
大黒柱を召集、徴兵された家族は銃後の守りなどと呼ばれていたが、大黒柱が帰国できた家庭はまだしも、働き手が戦没してしまった寒河江幸子さんの家庭では、大根飯という「おしん」みたいな貧しさで生きていくのもやっとという有り様だった。
戦争ではだれが何と言っても一番大変なのは親が戦没した子どもと女性たちである。
親がいなければ、清太と節子みたいに子どもだけでは生きていくのは難しい。
女性たちは、戦場であれ、戦後であれ戦争に敗れれば、性的暴行されることはベルリンや満州で証明されているばかりか、進駐してきた兵士たちから性的暴行される。
基地ができれば、小学生の女児だって容赦なく米兵3人に性的暴行されている。
こういう事実を語り伝え、戦争に反対していくのが遺族会の役割りだとすれば、遺族も孫世代につないでいくことが求められているのではないか。
2025年09月04日
沖縄米兵による12歳少女性的暴行事件から30年
沖縄県でアメリカ軍の兵士たちによって少女が暴行された事件が起きてから、9月4日で30年。当時、沖縄では事件に対する大規模な抗議活動が行われたが、いまもなおアメリカ軍の関係者による事件は後を絶たず、県は過重な基地負担の軽減を求め続けている。と9月4日のNHKが伝えている。
1995年9月4日、沖縄県でアメリカ軍の兵士ら3人によって少女が暴行される事件が起き、警察は逮捕状を取って3人の引き渡しを求めたが、日米地位協定を理由に拒否され、県内では事件に対する大規模な抗議活動が行われた。
アメリカ軍は綱紀粛正と再発防止に向けて対策をとったものの、2016年には性的暴行をしようとした軍属によって20歳の女性が殺害されるなど、凶悪な事件は後を絶たない 。
警察によれば、沖縄県内で起きたアメリカ軍の関係者による事件のうち、殺人や強盗、性暴力といった「凶悪犯」での検挙は、1995年から2024年までの間で123人に上っている。
語り継ぐ戦争という立場で発信しているから、戦争に敗れた国の悲哀を嫌というほど考えさせられるのが米軍基地の街での米兵による性暴力事件である。
米軍基地の7割が集中する沖縄は無論のこと、厚木、横須賀、座間そして相模総合補給廠と知る人ぞ知る米軍基地の多いのが神奈川県だ。
人種差別の国米国は白人と有色人種のカラードピープルであるアフリカ系、ヒスパニック系、中国などアジア系との間における差別の歴史が続く。
白人に差別されてきたアフリカ系が何とカラードピープルの日本人をジャップとして差別し、性暴力をすることに怒りを覚える。
米軍の兵士が12歳の女児、少女を3人で性的暴行しても、戦争に敗れた日本政府は抗議もできない。
A級戦犯が何の取引があったが不明であるが、罪に問われず、その後、60年安保を指揮している。
郵政民営化を強行に実現した首相とその息子も米国との関係が異常に緊密である点も疑念を抱かざるをえない。
郵政民営化で何かいいことがあっただろうか。否である。
不平等だと指摘されながら、自民党政権は日米地位協定を改めようとすらしていない。
米国内の基地の近くで少女に3人の兵士が性暴力したら、大騒ぎになるはずだ。
日米地位協定に関しては、先の参議院議員選挙でれいわ新選組から伊勢崎賢治さんが国会に送られたので、不平等を改めてくれるのではないかと期待しているが、政府自民党がやる気がないからどうなることやら。
敗戦後80年、女児米兵ら3人による性的暴行事件から30年。
ちっとも変わらない基地の街における女性の安全。米兵が日本を守らないことが証明されているにもかかわらず、相変わらず、自民党政権は米軍が守ってくれるなどと平気で市民を騙す。
米兵はやはり、鬼畜だったのか。
1995年9月4日、沖縄県でアメリカ軍の兵士ら3人によって少女が暴行される事件が起き、警察は逮捕状を取って3人の引き渡しを求めたが、日米地位協定を理由に拒否され、県内では事件に対する大規模な抗議活動が行われた。
アメリカ軍は綱紀粛正と再発防止に向けて対策をとったものの、2016年には性的暴行をしようとした軍属によって20歳の女性が殺害されるなど、凶悪な事件は後を絶たない 。
警察によれば、沖縄県内で起きたアメリカ軍の関係者による事件のうち、殺人や強盗、性暴力といった「凶悪犯」での検挙は、1995年から2024年までの間で123人に上っている。
語り継ぐ戦争という立場で発信しているから、戦争に敗れた国の悲哀を嫌というほど考えさせられるのが米軍基地の街での米兵による性暴力事件である。
米軍基地の7割が集中する沖縄は無論のこと、厚木、横須賀、座間そして相模総合補給廠と知る人ぞ知る米軍基地の多いのが神奈川県だ。
人種差別の国米国は白人と有色人種のカラードピープルであるアフリカ系、ヒスパニック系、中国などアジア系との間における差別の歴史が続く。
白人に差別されてきたアフリカ系が何とカラードピープルの日本人をジャップとして差別し、性暴力をすることに怒りを覚える。
米軍の兵士が12歳の女児、少女を3人で性的暴行しても、戦争に敗れた日本政府は抗議もできない。
A級戦犯が何の取引があったが不明であるが、罪に問われず、その後、60年安保を指揮している。
郵政民営化を強行に実現した首相とその息子も米国との関係が異常に緊密である点も疑念を抱かざるをえない。
郵政民営化で何かいいことがあっただろうか。否である。
不平等だと指摘されながら、自民党政権は日米地位協定を改めようとすらしていない。
米国内の基地の近くで少女に3人の兵士が性暴力したら、大騒ぎになるはずだ。
日米地位協定に関しては、先の参議院議員選挙でれいわ新選組から伊勢崎賢治さんが国会に送られたので、不平等を改めてくれるのではないかと期待しているが、政府自民党がやる気がないからどうなることやら。
敗戦後80年、女児米兵ら3人による性的暴行事件から30年。
ちっとも変わらない基地の街における女性の安全。米兵が日本を守らないことが証明されているにもかかわらず、相変わらず、自民党政権は米軍が守ってくれるなどと平気で市民を騙す。
米兵はやはり、鬼畜だったのか。
2025年09月03日
軍神とか英霊とか、死んだら帰ってこられない
NHKが放送した「軍神と記者 特攻 封じられた本心」について語り継ぐ戦争の立場から書いておきたい。
「昭和19年10月、初めて組織的に行われた特攻。口火を切ったのは愛媛県出身の関行男。“軍神”とあがめられ、その後に続くように多くの命が犠牲になった。関が“軍神”と呼ばれるきっかけとなったのは元海軍報道班員・小野田政が書いた記事。今回見つかった取材ノートや資料などから、関の言葉をありのままに伝えられなかった経緯が浮かび上がってきた。小野田の回想をドラマで再現しながら軍神と記者それぞれの『本心』に迫る。」と㏋にある。
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮社)を買い求めて読んだとき、特攻隊員第一号として選ばれた関行男大尉の名前を知った。
玉音放送後の特攻として、宇佐海軍航空隊基地から沖縄方面に向けて宇垣纒海軍中将が道連れにした特攻隊の指揮官が中津留達雄大尉で、二人は海軍兵学校の同期生だったというのだ。
何とも不思議なめぐりあわせで、その二人が最初の特攻と最後、しかも、玉音放送後の特攻の指揮官として死ななければならない運命だったとは。
確か、二人とも結婚していたはずである。
元海軍報道班員小野田政のことは初めて知ったが、特攻隊員を軍神と崇め奉る軍隊に協力した記者として、覚えておきたい。
新聞はいつの時代も真実を報道をしない。
これはスポンサーで成り立っている新聞の宿命であろうか。
記者は偉そうなことを言っても、権力を批判できない。
消費税率アップの時、財務省と何を取引したのか新聞は税率を上げないようにできた。
永く購読している読売、自分が生まれれる前からだから昭和と同じくらいの年数購読していることになるはずだ。
その新聞が、戦争の時、軍部に協力し、戦意高揚のために果たした役割は大きい。
関行男大尉のことを軍神だとした軍に媚を売る記事は戦時中だからと言い訳しても通らない。
自分が知る限り、関行男大尉という人物は残された写真でみるとおり、意志の強さを思わせる顔をしていて、部下の訓練にも厳しかったと耳にする。
記憶違いでなければ、教官という立場のパイロットで、自分が特攻で行くようでは日本は負けると言った云々と耳にしたことがある。
一方の中津留達雄大尉は同期生の関行男大尉が華々しく散華したことをニュースで知り、玉音放送も流れたから命拾いしたと思ったと推察するが、その時、上官の宇垣纒海軍中将が自決できなくて、特攻機で死にゆくお供を命ぜられるのだ。
敗戦後、特攻隊で運よく生き残った人々が帰ってきたニュースを見た関行男大尉の母親が息子が生きていてくれたらとどんなにか願ったことかと思うと気の毒でならない。
軍神の家に敗戦後、石を投げ込んだ不届き者がいたことが許せない。
軍神なんて、軍隊が士気を鼓舞するために書かせたことで、靖国神社に祀り英霊とすることとちっとも変わらない。
戦争でもなんでも、生きていてこそである。
死んだ人間は帰ってこられない。
「昭和19年10月、初めて組織的に行われた特攻。口火を切ったのは愛媛県出身の関行男。“軍神”とあがめられ、その後に続くように多くの命が犠牲になった。関が“軍神”と呼ばれるきっかけとなったのは元海軍報道班員・小野田政が書いた記事。今回見つかった取材ノートや資料などから、関の言葉をありのままに伝えられなかった経緯が浮かび上がってきた。小野田の回想をドラマで再現しながら軍神と記者それぞれの『本心』に迫る。」と㏋にある。
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮社)を買い求めて読んだとき、特攻隊員第一号として選ばれた関行男大尉の名前を知った。
玉音放送後の特攻として、宇佐海軍航空隊基地から沖縄方面に向けて宇垣纒海軍中将が道連れにした特攻隊の指揮官が中津留達雄大尉で、二人は海軍兵学校の同期生だったというのだ。
何とも不思議なめぐりあわせで、その二人が最初の特攻と最後、しかも、玉音放送後の特攻の指揮官として死ななければならない運命だったとは。
確か、二人とも結婚していたはずである。
元海軍報道班員小野田政のことは初めて知ったが、特攻隊員を軍神と崇め奉る軍隊に協力した記者として、覚えておきたい。
新聞はいつの時代も真実を報道をしない。
これはスポンサーで成り立っている新聞の宿命であろうか。
記者は偉そうなことを言っても、権力を批判できない。
消費税率アップの時、財務省と何を取引したのか新聞は税率を上げないようにできた。
永く購読している読売、自分が生まれれる前からだから昭和と同じくらいの年数購読していることになるはずだ。
その新聞が、戦争の時、軍部に協力し、戦意高揚のために果たした役割は大きい。
関行男大尉のことを軍神だとした軍に媚を売る記事は戦時中だからと言い訳しても通らない。
自分が知る限り、関行男大尉という人物は残された写真でみるとおり、意志の強さを思わせる顔をしていて、部下の訓練にも厳しかったと耳にする。
記憶違いでなければ、教官という立場のパイロットで、自分が特攻で行くようでは日本は負けると言った云々と耳にしたことがある。
一方の中津留達雄大尉は同期生の関行男大尉が華々しく散華したことをニュースで知り、玉音放送も流れたから命拾いしたと思ったと推察するが、その時、上官の宇垣纒海軍中将が自決できなくて、特攻機で死にゆくお供を命ぜられるのだ。
敗戦後、特攻隊で運よく生き残った人々が帰ってきたニュースを見た関行男大尉の母親が息子が生きていてくれたらとどんなにか願ったことかと思うと気の毒でならない。
軍神の家に敗戦後、石を投げ込んだ不届き者がいたことが許せない。
軍神なんて、軍隊が士気を鼓舞するために書かせたことで、靖国神社に祀り英霊とすることとちっとも変わらない。
戦争でもなんでも、生きていてこそである。
死んだ人間は帰ってこられない。
2025年09月02日
開発者家族と原爆、人間爆弾「桜花」
戦後80年 昭和百年 被爆を語るということで8月31日の読売(山下佳穂記者)が原子爆弾の開発を主導し、原爆の父とされる物理学者ロバート・オッペンハイマーの孫チャールズ・オッペンハイマーさん(50)が2024年6月、被爆地ヒロシマを訪れ、被爆者小倉桂子さんと面会したことなど原爆の開発者の家族だからこその思いや非核運動などについて聞いている。
宇佐海軍航空隊の特攻と宇佐市塾における語り継ぐ戦争を大分出身の俳優財前直見さんが紹介するドキュメンタリーについて書いたが、人間爆弾「桜花」のことを書かなかったので、書いておきたい。
人間爆弾「桜花」の開発設計者三木忠直さんのご家族が人間の命を大事にしない兵器を開発設計して非難されていることに関し、戦後、三木さんが鉄道技術研究所に移り、飛行機の技術を鉄道の開発に生かし、東海道新幹線の流線形のデザインに応用された。
さらには、新宿から箱根に行くとき乗る小田急線ロマンスカーの開発にも関わっていたことが明らかにされた。
オッペンハイマーさんのことが映画化されたとき、原爆の開発者に批判的な立場だった自分は映画を観る気もしなかった。
しかし、今となってはまたしても後悔している。
またしてもと書いたのは、人間魚雷『回天』を映画化した『出口のない海』も主演の俳優が世間をお騒がせしていたことなどで、見逃してしまったからだ。
こちらは語り継ぐ戦争の立場から、リバイバル上映があれば、なんとしても観ておきたいと願っている。
記憶に間違いがなければ、陸軍登戸研究所の研究から電子レンジが生まれたと耳にしたことがある。
陸軍登戸研究所(現明治大学平和教育登戸研究所資料館)を訪れたのは2013年10月25日の雨が降っているときだった。
731部隊展を開催していたから語り継ぐ戦争の参考にするためである。
戦争のために兵器その他の研究に力が入るか、カネが使われるかであろうが、どっちにしても電子レンジはどこの家庭にもある優れモノであり、生活必需品の筆頭格だと言っても過言ではない。
優秀な研究者はオウム真理教の教祖に洗脳されたとは言いながら、サリンをつくってしまった。
彼が道を踏み外さなければ、絶対人類に役立つ研究ができたであろうと確信するだけにもったいないことをした。
原爆を作ることに携わっていた人物の家族が自らの祖父のこととはいえ、ヒロシマを訪れたのは佳いことだが、原爆を作り、投下された被爆者からみれば訪れただけでは納得はできないのではいか。
三木さんはその有能さから桜花の開発から転じ、世のため人のために新幹線の開発に尽力されたことは素晴らしい。
名誉挽回というか汚名返上というか、人間反省することは大事なことである。
それでも、原爆投下、桜花という特攻兵器を使おうとしたことは人間の命を大事に思わない所業であり、非難に値する。
宇佐海軍航空隊の特攻と宇佐市塾における語り継ぐ戦争を大分出身の俳優財前直見さんが紹介するドキュメンタリーについて書いたが、人間爆弾「桜花」のことを書かなかったので、書いておきたい。
人間爆弾「桜花」の開発設計者三木忠直さんのご家族が人間の命を大事にしない兵器を開発設計して非難されていることに関し、戦後、三木さんが鉄道技術研究所に移り、飛行機の技術を鉄道の開発に生かし、東海道新幹線の流線形のデザインに応用された。
さらには、新宿から箱根に行くとき乗る小田急線ロマンスカーの開発にも関わっていたことが明らかにされた。
オッペンハイマーさんのことが映画化されたとき、原爆の開発者に批判的な立場だった自分は映画を観る気もしなかった。
しかし、今となってはまたしても後悔している。
またしてもと書いたのは、人間魚雷『回天』を映画化した『出口のない海』も主演の俳優が世間をお騒がせしていたことなどで、見逃してしまったからだ。
こちらは語り継ぐ戦争の立場から、リバイバル上映があれば、なんとしても観ておきたいと願っている。
記憶に間違いがなければ、陸軍登戸研究所の研究から電子レンジが生まれたと耳にしたことがある。
陸軍登戸研究所(現明治大学平和教育登戸研究所資料館)を訪れたのは2013年10月25日の雨が降っているときだった。
731部隊展を開催していたから語り継ぐ戦争の参考にするためである。
戦争のために兵器その他の研究に力が入るか、カネが使われるかであろうが、どっちにしても電子レンジはどこの家庭にもある優れモノであり、生活必需品の筆頭格だと言っても過言ではない。
優秀な研究者はオウム真理教の教祖に洗脳されたとは言いながら、サリンをつくってしまった。
彼が道を踏み外さなければ、絶対人類に役立つ研究ができたであろうと確信するだけにもったいないことをした。
原爆を作ることに携わっていた人物の家族が自らの祖父のこととはいえ、ヒロシマを訪れたのは佳いことだが、原爆を作り、投下された被爆者からみれば訪れただけでは納得はできないのではいか。
三木さんはその有能さから桜花の開発から転じ、世のため人のために新幹線の開発に尽力されたことは素晴らしい。
名誉挽回というか汚名返上というか、人間反省することは大事なことである。
それでも、原爆投下、桜花という特攻兵器を使おうとしたことは人間の命を大事に思わない所業であり、非難に値する。
2025年09月01日
宇佐海軍航空隊基地と特攻 宇佐市塾が語り継ぐ
終戦80年企画『財前直見 知られざる“特攻の町” 我が故郷 戦争の記憶』8月31日BSフジが放送した内容に心を揺さぶられたので書いておく。
「玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
戦争は終わっていたのに、一体なぜなのか。
知られざる“特攻の町”宇佐の真実を、大分出身の俳優・財前直見がひもといていく。
当時の滑走路や掩体壕など、今も町に残る基地の痕跡。この町から出撃した若き“特攻学徒兵”が書き綴った日記と、息子を特攻へと送り出す母親の思い。
さらに米軍の戦闘機が空襲の際に撮影していた“ガンカメラ映像”の解析に尽力する地元住民の取り組みも紹介する。
一方、玉音放送後に飛び立った“最後の特攻隊”の真実を20年以上にわたって追い続ける女性や、米軍から「人間爆弾」と呼ばれた究極の特攻兵器「桜花」を開発した技術者の、苦悩に満ちたその後の人生を取材。
戦争を直接経験した人々が減っていく中で、当時を知らない世代が“特攻”にどう向き合い、どう語り継ぐのか。
戦後80年の節目に、「知られざる特攻の町・宇佐」を通して、その真実を見つめ直すドキュメンタリー」と㏋にある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で宇佐を訪れたのは2012年5月、目に青葉という新緑が印象に残る季節のことだった。
同行してくれている家族へのサービスで、湯布院に泊まり、タクシーで耶馬渓や青の洞門を観て宇佐に行ったので、慰霊の旅としては事前の調査が不十分だったこともあったかして、時間が足りなかったが、一番の収穫は豊の国宇佐市塾平田崇英塾頭にお目にかかることができ、ご教示を受けられたことである。
教覚寺第二十代住職ということで寺を訪ねると、慰霊の旅ということもあってのことか、歓待していただいた。
俳優大河内伝次郎との縁や横綱双葉山、作家横光利一の出身地であることなども余談ではあるが知ることができた。
平松守彦知事が提唱した「一村一品運動」から人材育成としてできたのが「宇佐市塾」らしいが、大分に宇佐海軍航空隊基地があったことから、塾で、語り継ぐ戦争として特攻隊のことを伝えている。
エールをおくりたい。
尺八の先輩が宇佐海軍航空隊基地で特攻隊が飛び立つのを帽子を振って見送ったとのことで、慰霊の旅というなら、是非、一度は宇佐にと薦められて訪ねたというわけである。
玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)を買い求めて読み、それまで全く知らなかった事実に心を激しく揺さぶられた。
特攻隊に出撃命令をしていた宇垣纒海軍中将が部下の中津留達雄大尉に命令し、玉音放送後であるにもかかわらず、部下を道連れに沖縄方面に特攻したのである。
命令された中津留達雄大尉は玉音放送後であることを考慮し、米軍艦船に特攻することはなかったらしい。
縦社会の軍隊では、上官の命令となれば、部下は従わなければならないし、中津留達雄大尉と同行した特攻隊員は気の毒というしかない。
その中津留達雄さんは大分県出身だという。
玉音放送後の特攻に血縁者がいたことから、疑念を抱いた福島県郡山市の道脇紗知さんが、特攻隊員に手紙を送り、生存者の証言を得たことはすでに書いている。
その道脇さんが宇佐を訪ねるのを見て、しっかり特攻隊のことが語り継がれていくことができそうで安堵した。
戦闘機を隠す掩体壕も見学したが、全国を探しても、もう残っている掩体壕は少ないのではないか。
俳優財前直見さんは大分で農業をしていると耳にしたことがある。
著名な人が戦争を語り継ぐことで、影響力を行使してほしい。
「玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
戦争は終わっていたのに、一体なぜなのか。
知られざる“特攻の町”宇佐の真実を、大分出身の俳優・財前直見がひもといていく。
当時の滑走路や掩体壕など、今も町に残る基地の痕跡。この町から出撃した若き“特攻学徒兵”が書き綴った日記と、息子を特攻へと送り出す母親の思い。
さらに米軍の戦闘機が空襲の際に撮影していた“ガンカメラ映像”の解析に尽力する地元住民の取り組みも紹介する。
一方、玉音放送後に飛び立った“最後の特攻隊”の真実を20年以上にわたって追い続ける女性や、米軍から「人間爆弾」と呼ばれた究極の特攻兵器「桜花」を開発した技術者の、苦悩に満ちたその後の人生を取材。
戦争を直接経験した人々が減っていく中で、当時を知らない世代が“特攻”にどう向き合い、どう語り継ぐのか。
戦後80年の節目に、「知られざる特攻の町・宇佐」を通して、その真実を見つめ直すドキュメンタリー」と㏋にある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で宇佐を訪れたのは2012年5月、目に青葉という新緑が印象に残る季節のことだった。
同行してくれている家族へのサービスで、湯布院に泊まり、タクシーで耶馬渓や青の洞門を観て宇佐に行ったので、慰霊の旅としては事前の調査が不十分だったこともあったかして、時間が足りなかったが、一番の収穫は豊の国宇佐市塾平田崇英塾頭にお目にかかることができ、ご教示を受けられたことである。
教覚寺第二十代住職ということで寺を訪ねると、慰霊の旅ということもあってのことか、歓待していただいた。
俳優大河内伝次郎との縁や横綱双葉山、作家横光利一の出身地であることなども余談ではあるが知ることができた。
平松守彦知事が提唱した「一村一品運動」から人材育成としてできたのが「宇佐市塾」らしいが、大分に宇佐海軍航空隊基地があったことから、塾で、語り継ぐ戦争として特攻隊のことを伝えている。
エールをおくりたい。
尺八の先輩が宇佐海軍航空隊基地で特攻隊が飛び立つのを帽子を振って見送ったとのことで、慰霊の旅というなら、是非、一度は宇佐にと薦められて訪ねたというわけである。
玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)を買い求めて読み、それまで全く知らなかった事実に心を激しく揺さぶられた。
特攻隊に出撃命令をしていた宇垣纒海軍中将が部下の中津留達雄大尉に命令し、玉音放送後であるにもかかわらず、部下を道連れに沖縄方面に特攻したのである。
命令された中津留達雄大尉は玉音放送後であることを考慮し、米軍艦船に特攻することはなかったらしい。
縦社会の軍隊では、上官の命令となれば、部下は従わなければならないし、中津留達雄大尉と同行した特攻隊員は気の毒というしかない。
その中津留達雄さんは大分県出身だという。
玉音放送後の特攻に血縁者がいたことから、疑念を抱いた福島県郡山市の道脇紗知さんが、特攻隊員に手紙を送り、生存者の証言を得たことはすでに書いている。
その道脇さんが宇佐を訪ねるのを見て、しっかり特攻隊のことが語り継がれていくことができそうで安堵した。
戦闘機を隠す掩体壕も見学したが、全国を探しても、もう残っている掩体壕は少ないのではないか。
俳優財前直見さんは大分で農業をしていると耳にしたことがある。
著名な人が戦争を語り継ぐことで、影響力を行使してほしい。
2025年08月31日
疎開 ひもじさで涙 二度と戦争はダメだ!
太平洋戦争中、米軍による日本本土への空襲の危険が高まると、政府は都市部に住む児童を地方に避難させる「集団疎開」を進めた。家族と離れ、すきっ腹を抱えて不衛生な暮らしを強いられた日々は、80年たった今も体験者の脳裏に焼き付いている。と8月26日の読売(水野祥記者)が伝えている。
東京下谷で生まれ育った井上隆夫さん(87)(栃木県小山市)が1945年3月下旬、身を寄せたのは福島会津の温泉旅館だった。
茶碗の底が透けるほどしか盛られないご飯。肉や魚は一切でない。
空腹を満たすため、近くの山でワラビやゼンマイを探し、簡単に捕まえられるアブラゼミや持参した整腸剤も食べたそうな。
「長い人生で疎開での空腹は最もつらい出来事だった」と話す井上さん。
東京の大森の国民学校の3年生50人を引率し、静岡熱海に集団疎開した元教員白石美津子さん(98)(東京大田区)「ノミが乱舞する劣悪な環境にぞっとした」と語る。
自分たちだけ武装している軍隊には誰も逆らえない。
治安維持法と特高警察だから、戦争に反対することすらできない。
戦後80年、昭和百年の2025年、今思えば、5・15事件、2・26事件という軍部によるクーデターが転機となったことは確かであるが、治安維持法が施行から100年になることを思えば、この法律を成立させてしまったことが大きな間違いだったことは明らかである。
戦後80年、新たな戦争前夜と呼ばれている今、日本国憲法に緊急事態条項を加えて、市民の思想、信条の自由、表現、言論の自由を奪おうとしている勢力が台頭しているが、第二の治安維持法の役割りを果たす自由を規制するこの動きを断固阻止しなければならない。
さて、戦争で一番苦しめられるのは弱い立場の人間であることは間違いない。
清太と節子の兄妹が生きたくとも生きられなかったことで、この事実を証明してくれたのが『火垂るの墓』の野坂昭如さんであり、アニメ化してくれた高畑勲さんだ。
姉の立場から疎開した妹と父と娘の愛を教えてくれたのは『字のないはがき』の向田邦子さんである。
教科書に採用されているらしいが、疎開の大変さをこれほどわかりやすく教えてくれている書物があっただろうか。
戦争で大変なのは、人間だけではない。
アフリカやインドから動物を人間の都合で勝手に連れて来て、動物園で見世物に晒し、空襲で逃げ出したら危険だから、と上野動物園ではぞうさんが殺されたことを教えてくれたのは『かわいそうなぞう』でラジオで8月15日に朗読し続け、大事なことを教えてくれた秋山ちえ子さん。絵本は作: 土家 由岐雄、絵: 武部 本一郎さんだ。
食料の問題でも、食料自給率が30%台と低いから、外国から輸入できなくなれば、すぐに、食糧難がやってくる。
コメ余りだから減反政策だと言い、政府に従っていたら、突然、コメ不足だと令和の米騒動が始まった。
覇権争いをしている米中は、中国が武力を行使して台湾統一を実行したら、米国は日本に米国の代理戦争をさせようと目論む。
日本は中国と戦争なんかやる力がない。
台湾に援助するのは東日本大震災でお世話になったから当然のこととして、戦争をするわけにはいかない。
戦争だけは言い訳無用でダメだ。
東京下谷で生まれ育った井上隆夫さん(87)(栃木県小山市)が1945年3月下旬、身を寄せたのは福島会津の温泉旅館だった。
茶碗の底が透けるほどしか盛られないご飯。肉や魚は一切でない。
空腹を満たすため、近くの山でワラビやゼンマイを探し、簡単に捕まえられるアブラゼミや持参した整腸剤も食べたそうな。
「長い人生で疎開での空腹は最もつらい出来事だった」と話す井上さん。
東京の大森の国民学校の3年生50人を引率し、静岡熱海に集団疎開した元教員白石美津子さん(98)(東京大田区)「ノミが乱舞する劣悪な環境にぞっとした」と語る。
自分たちだけ武装している軍隊には誰も逆らえない。
治安維持法と特高警察だから、戦争に反対することすらできない。
戦後80年、昭和百年の2025年、今思えば、5・15事件、2・26事件という軍部によるクーデターが転機となったことは確かであるが、治安維持法が施行から100年になることを思えば、この法律を成立させてしまったことが大きな間違いだったことは明らかである。
戦後80年、新たな戦争前夜と呼ばれている今、日本国憲法に緊急事態条項を加えて、市民の思想、信条の自由、表現、言論の自由を奪おうとしている勢力が台頭しているが、第二の治安維持法の役割りを果たす自由を規制するこの動きを断固阻止しなければならない。
さて、戦争で一番苦しめられるのは弱い立場の人間であることは間違いない。
清太と節子の兄妹が生きたくとも生きられなかったことで、この事実を証明してくれたのが『火垂るの墓』の野坂昭如さんであり、アニメ化してくれた高畑勲さんだ。
姉の立場から疎開した妹と父と娘の愛を教えてくれたのは『字のないはがき』の向田邦子さんである。
教科書に採用されているらしいが、疎開の大変さをこれほどわかりやすく教えてくれている書物があっただろうか。
戦争で大変なのは、人間だけではない。
アフリカやインドから動物を人間の都合で勝手に連れて来て、動物園で見世物に晒し、空襲で逃げ出したら危険だから、と上野動物園ではぞうさんが殺されたことを教えてくれたのは『かわいそうなぞう』でラジオで8月15日に朗読し続け、大事なことを教えてくれた秋山ちえ子さん。絵本は作: 土家 由岐雄、絵: 武部 本一郎さんだ。
食料の問題でも、食料自給率が30%台と低いから、外国から輸入できなくなれば、すぐに、食糧難がやってくる。
コメ余りだから減反政策だと言い、政府に従っていたら、突然、コメ不足だと令和の米騒動が始まった。
覇権争いをしている米中は、中国が武力を行使して台湾統一を実行したら、米国は日本に米国の代理戦争をさせようと目論む。
日本は中国と戦争なんかやる力がない。
台湾に援助するのは東日本大震災でお世話になったから当然のこととして、戦争をするわけにはいかない。
戦争だけは言い訳無用でダメだ。
2025年08月30日
兵士が同僚を殺し、その肉を・・・シベリア抑留
「食糧難で兵士が同僚を殺し、その肉を…『戦争なんてするもんじゃない』シベリア抑留を経験した101歳の村山元威さんの証言」BSN新潟 NEWS & LIVE『ゆうなび』2025年6月11日放送をYouTubeで知った。
関東軍電信第17聯隊に入隊し、満州の牡丹江で通信業務に就き、敦化で捕虜になり、「ダモイ・トウキョウ」という言葉に騙されシベリアに送られた。
収容所は自分たちが樹木を伐採して、建築させられる。それまではテントでの生活だった。
飢えと寒さと重労働の収容所生活で、一番つらかったのは食糧不足で、黒パン1枚とカーシャというスープだけでは生きていくのもやっとのことだった。
最初の冬を越すのが大変で、大勢亡くなったが、脳裏に焼き付いた事件があった。
衛生兵二人がもう一人を連れて収容所を脱走した。二人が誘った男を殺して食料にするため尻の肉を削ぎ落したというのだ。
二人は捕まり、銃殺刑で処刑され、3人は収容所前に晒された。
皆で歌を歌ったり、木のスプーンを作るなど4年間を耐え、49年8月、25歳で帰国した。
東京羽村の石田文司さん(2024年100歳で死去)の遺品から、抑留時の衣服が見つかったが、服の裏には別人の名前が記されていた。と8月27日の読売(鈴木章功記者)が戦後80年の語り継ぐ戦争で伝えている。
寒さから逃れるため、死んだ仲間の衣服を脱がせて、身に着けていたというのだ。
大岡昇平『野火』を原作に塚本晋也監督が映像化した『野火』を観たとき、飢餓に苦しむ兵隊がサルの肉だと称して兵隊を殺してその肉を…。というシーンが出てくる。
シベリア抑留では以前、耳にしたことがあるが、人間生きるためなら、なんでもする。
本来タブーであるはずの人間の肉に目を付けた兵隊は弱い兵隊を殺して共食いしてしまうのだ。
戦地で女性に平然と性暴力を加える兵隊は生き残り、そんなことはできないし、やるつもりがない知識人の梶は生き残れないのだ。
作家五木寛之さんは、読売で証言していたことがある、満州や朝鮮半島から引き揚げてきた人たちは悪人だと自らのことを自重しながら語っている。
他人を蹴落としてでも、列車に乗り、トラックに乗り、引き揚げ船に乗らなければ帰ってこられなかったからだ。当然、食べるものがなければ、奪ってでも、盗んででも手に入れなければ生きられなかった。
アジア太平洋戦争では、戦没者と言っても、実相は砲弾や銃弾で殺された人と較べ、飢餓、マラリア、発疹チフスなどの感染症で亡くなった人が多かった。
餓島と呼ばれたガダルカナル島、白骨街道と呼ばれたインパール作戦、ニューギニアそして野火のレイテ島などが知られているが、1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻で逃避行を続けることになる満蒙開拓団や戦後、シベリアに連行され、抑留された人たちも飢餓を経験している。
団塊の世代の一員である自分は本当の意味での飢餓など経験したことがないから、食べられなくなったらどうなるか想像するだけである。
金一族だけが富を独り占めし、首領だけが太っている北朝鮮では脱北を描いた『クロッシング』では貧しい民が愛犬を殺して食べるシーンがあった。
『火垂るの墓』の清太と節子などの孤児は生きていくのがやっとだった。
戦後の食糧難の時代、買い出しに出た女性たちは着物などで代金を支払ったらしいが、想像するに体で代金を支払わされた女性だっていたはずである。
食べるものを手に入れるためなら、貞操などと言ってられないからだ。
飢餓はつらいだろうと思うのは、シベリア抑留で黒パンを切り分けるときの様子をジオラマが見せてくれたのは舞鶴の引揚記念館だったか東京新宿の平和祈念展示資料館だったか。
いつ殺し合いが起きても不思議ではないほどの迫力だった。
人間が人の心を捨て去るのも飢餓では当然のことだとしか思えない。
関東軍電信第17聯隊に入隊し、満州の牡丹江で通信業務に就き、敦化で捕虜になり、「ダモイ・トウキョウ」という言葉に騙されシベリアに送られた。
収容所は自分たちが樹木を伐採して、建築させられる。それまではテントでの生活だった。
飢えと寒さと重労働の収容所生活で、一番つらかったのは食糧不足で、黒パン1枚とカーシャというスープだけでは生きていくのもやっとのことだった。
最初の冬を越すのが大変で、大勢亡くなったが、脳裏に焼き付いた事件があった。
衛生兵二人がもう一人を連れて収容所を脱走した。二人が誘った男を殺して食料にするため尻の肉を削ぎ落したというのだ。
二人は捕まり、銃殺刑で処刑され、3人は収容所前に晒された。
皆で歌を歌ったり、木のスプーンを作るなど4年間を耐え、49年8月、25歳で帰国した。
東京羽村の石田文司さん(2024年100歳で死去)の遺品から、抑留時の衣服が見つかったが、服の裏には別人の名前が記されていた。と8月27日の読売(鈴木章功記者)が戦後80年の語り継ぐ戦争で伝えている。
寒さから逃れるため、死んだ仲間の衣服を脱がせて、身に着けていたというのだ。
大岡昇平『野火』を原作に塚本晋也監督が映像化した『野火』を観たとき、飢餓に苦しむ兵隊がサルの肉だと称して兵隊を殺してその肉を…。というシーンが出てくる。
シベリア抑留では以前、耳にしたことがあるが、人間生きるためなら、なんでもする。
本来タブーであるはずの人間の肉に目を付けた兵隊は弱い兵隊を殺して共食いしてしまうのだ。
戦地で女性に平然と性暴力を加える兵隊は生き残り、そんなことはできないし、やるつもりがない知識人の梶は生き残れないのだ。
作家五木寛之さんは、読売で証言していたことがある、満州や朝鮮半島から引き揚げてきた人たちは悪人だと自らのことを自重しながら語っている。
他人を蹴落としてでも、列車に乗り、トラックに乗り、引き揚げ船に乗らなければ帰ってこられなかったからだ。当然、食べるものがなければ、奪ってでも、盗んででも手に入れなければ生きられなかった。
アジア太平洋戦争では、戦没者と言っても、実相は砲弾や銃弾で殺された人と較べ、飢餓、マラリア、発疹チフスなどの感染症で亡くなった人が多かった。
餓島と呼ばれたガダルカナル島、白骨街道と呼ばれたインパール作戦、ニューギニアそして野火のレイテ島などが知られているが、1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻で逃避行を続けることになる満蒙開拓団や戦後、シベリアに連行され、抑留された人たちも飢餓を経験している。
団塊の世代の一員である自分は本当の意味での飢餓など経験したことがないから、食べられなくなったらどうなるか想像するだけである。
金一族だけが富を独り占めし、首領だけが太っている北朝鮮では脱北を描いた『クロッシング』では貧しい民が愛犬を殺して食べるシーンがあった。
『火垂るの墓』の清太と節子などの孤児は生きていくのがやっとだった。
戦後の食糧難の時代、買い出しに出た女性たちは着物などで代金を支払ったらしいが、想像するに体で代金を支払わされた女性だっていたはずである。
食べるものを手に入れるためなら、貞操などと言ってられないからだ。
飢餓はつらいだろうと思うのは、シベリア抑留で黒パンを切り分けるときの様子をジオラマが見せてくれたのは舞鶴の引揚記念館だったか東京新宿の平和祈念展示資料館だったか。
いつ殺し合いが起きても不思議ではないほどの迫力だった。
人間が人の心を捨て去るのも飢餓では当然のことだとしか思えない。
2025年08月29日
女性記者の遺体 隠せぬ拷問痕「法の裁きを」
ロシアによるウクライナ侵略で犠牲者が増え続ける中、露側で拘束中に命が尽きた捕虜や市民は「遺体交換」で返還されている。無言の帰国を果たした遺体には、ロシアで受けた拷問の痕跡など、戦争犯罪の手がかりも残されている。と8月26日の読売(キーウ 倉茂由美子記者)が伝えている。
ウクライナ人記者ビクトリア・ロシチナさん(当時27歳)は、2022年、米国拠点の「国際女性メディア財団」の「勇気あるジャーナリズム賞」を受賞するなど、ウクライナ侵略での報道が国際的に評価されていた。23年8月、露占領下の南部ザポリージャ州エネルホダルで取材中、露当局に拘束され、収容中に死亡したとされる。
遺体の入った袋には「身元不明の男性」を示す「NM」と記載されていたが、DNA鑑定などで女性のロシチナさんだと判明。長かった髪はそられ、脚にはやけどや切り傷があり、 肋骨ろっこつ は折れるなど、明らかに拷問を受けた傷があった。
さらに、脳や眼球、気管の一部が摘出されていた。絞殺された際、その痕跡が残るとされる部位だった。
ロシアのウクライナ侵略から3年半、ロシア政府がいかに酷いことをするか証明する出来事が伝えられている。
語り継ぐ戦争ではあるが、アジア太平洋戦争の実相を伝えるために書いている。
ところが、2022年2月24日、21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンがクリミア半島強奪だけでは満足せず、突如、ウクライナに侵攻、侵略戦争を始めた。
アジア太平洋戦争とは一見無関係に思われる向きもあるかもしれないが、ロシアこそ、その前身のソ連の軍隊が日本やドイツにやった悪名高き蛮行、ベルリンや満州、朝鮮半島などにおける女性に対する性的暴行犯罪とシベリア抑留での強制労働と戦争犯罪で法の裁きを受けて来なかったことから、武力でやりたい放題のことをやってきた。
ソ連時代のスターリンの再来、プーチンは自分に批判的な人たちを手下に命令して、殺してきた。
2006年10月、女性記者アンナ・ポリトコフスカヤさん。2024年2月、反政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイさんが北極圏の刑務所で殺された。
やったのは手下だから、当然のことながらプーチンがやった証拠はないが、2人が死ぬことで最も都合の良いのがプーチンだから、裁判ではないから結果的にそうなる。
世の中に神が存在するかどうか。子どもの頃から考えてきた。
天罰という言葉があるし、罰当たりなどと言う言葉もあるが、スターリン、プーチン、金一族など独裁者と言われている人間がやりたい放題で、止めることができないとするなら、神は存在しないと断言できる。
しかし、見方を変えてみれば、独裁者でも人間だからいずれは死ぬ。
死ねば、もう誰も殺すことはできなくなる。
ウクライナの女性記者ビクトリア・ロシチナさんと敢えて女性としているのは、アンナ・ポリトコフスカヤさんも女性記者だったからで、男性にはここまでの度胸も意気地もない。
治安維持法違反容疑で捕まった女性が取り調べで全裸にされ、女性の大事な部分を焼かれるという屈辱的な拷問、凌辱を受けたことを訴えていたとき、特高警察官というのはまともな人間ではなかったことが証明されている。
ビクトリア・ロシチナさんへの拷問の実相を調査しているのも、同じく女性記者のヤニナ・コルニエンコさんで、当然、ロシアから命を狙われるだろうから、勇気がある。
「責任を追及し、法の裁きを」受けさせる必要があるが、危険と板挟みでもウクライナのために殺害されたヤニナ・コルニエンコさんの勇気を称え、一日も早く、戦争が終結することを祈っている。
ウクライナ人記者ビクトリア・ロシチナさん(当時27歳)は、2022年、米国拠点の「国際女性メディア財団」の「勇気あるジャーナリズム賞」を受賞するなど、ウクライナ侵略での報道が国際的に評価されていた。23年8月、露占領下の南部ザポリージャ州エネルホダルで取材中、露当局に拘束され、収容中に死亡したとされる。
遺体の入った袋には「身元不明の男性」を示す「NM」と記載されていたが、DNA鑑定などで女性のロシチナさんだと判明。長かった髪はそられ、脚にはやけどや切り傷があり、 肋骨ろっこつ は折れるなど、明らかに拷問を受けた傷があった。
さらに、脳や眼球、気管の一部が摘出されていた。絞殺された際、その痕跡が残るとされる部位だった。
ロシアのウクライナ侵略から3年半、ロシア政府がいかに酷いことをするか証明する出来事が伝えられている。
語り継ぐ戦争ではあるが、アジア太平洋戦争の実相を伝えるために書いている。
ところが、2022年2月24日、21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンがクリミア半島強奪だけでは満足せず、突如、ウクライナに侵攻、侵略戦争を始めた。
アジア太平洋戦争とは一見無関係に思われる向きもあるかもしれないが、ロシアこそ、その前身のソ連の軍隊が日本やドイツにやった悪名高き蛮行、ベルリンや満州、朝鮮半島などにおける女性に対する性的暴行犯罪とシベリア抑留での強制労働と戦争犯罪で法の裁きを受けて来なかったことから、武力でやりたい放題のことをやってきた。
ソ連時代のスターリンの再来、プーチンは自分に批判的な人たちを手下に命令して、殺してきた。
2006年10月、女性記者アンナ・ポリトコフスカヤさん。2024年2月、反政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイさんが北極圏の刑務所で殺された。
やったのは手下だから、当然のことながらプーチンがやった証拠はないが、2人が死ぬことで最も都合の良いのがプーチンだから、裁判ではないから結果的にそうなる。
世の中に神が存在するかどうか。子どもの頃から考えてきた。
天罰という言葉があるし、罰当たりなどと言う言葉もあるが、スターリン、プーチン、金一族など独裁者と言われている人間がやりたい放題で、止めることができないとするなら、神は存在しないと断言できる。
しかし、見方を変えてみれば、独裁者でも人間だからいずれは死ぬ。
死ねば、もう誰も殺すことはできなくなる。
ウクライナの女性記者ビクトリア・ロシチナさんと敢えて女性としているのは、アンナ・ポリトコフスカヤさんも女性記者だったからで、男性にはここまでの度胸も意気地もない。
治安維持法違反容疑で捕まった女性が取り調べで全裸にされ、女性の大事な部分を焼かれるという屈辱的な拷問、凌辱を受けたことを訴えていたとき、特高警察官というのはまともな人間ではなかったことが証明されている。
ビクトリア・ロシチナさんへの拷問の実相を調査しているのも、同じく女性記者のヤニナ・コルニエンコさんで、当然、ロシアから命を狙われるだろうから、勇気がある。
「責任を追及し、法の裁きを」受けさせる必要があるが、危険と板挟みでもウクライナのために殺害されたヤニナ・コルニエンコさんの勇気を称え、一日も早く、戦争が終結することを祈っている。
2025年08月28日
治安維持法施行から100年 哲学者三木清も獄死
1945年10月15日、戦前・戦中の思想弾圧に猛威を振るった治安維持法が廃止された。命じたのはマッカーサー率いる連合国軍総司令部(GHQ)。指令の背後には、直前に発覚したある人物の死があった。と8月13日の毎日新聞が伝えている。
『人生論ノート』などの著作で知られる哲学者・三木清(1897〜1945年)。治安維持法違反容疑で逮捕されて東京・豊多摩刑務所の独房に勾留されると、劣悪な環境下で寄生虫感染症を患い衰弱死した。死亡日は、日本の無条件降伏からひと月半近くもたった45年9月26日。
1929年3月5日、治安維持法の暴走に歯止めをかけるため、危険を承知で抵抗を続けた政治家「山宣」の愛称で親しまれた労農党所属の衆院議員、山本宣治(1889〜1929年)が暗殺された、と7月23日の毎日新聞(石川将来記者)が伝えている。
暴走した悪法「治安維持法」制定100年「屈辱的な拷問受けた」弾圧された女性たち【報道特集】|TBS NEWS DIGがYouTubeにあったが、治安維持法違反で検挙された女性が全裸にされ、大事なところを焼かれる辱めを受けたことを証言していた。
治安維持法といえば、虐殺された作家、小林多喜二『蟹工船』(新潮文庫)を買い求めて読んでいる。
山田火砂子監督、寺島しのぶ主演『母 小林多喜二の母の物語』も観ているので、治安維持法違反容疑で捕まり、取り調べで特高警察に虐殺された小林多喜二の偉大さも学習している。
映画で激しく心を揺さぶられたのは廓清というか廃娼運動を支持してきた自分としては、多喜二が廃娼しようとする女性を救うシーンがあったときである。
多喜二は女郎、娼婦と呼ばれた弱い立場の女性の味方だった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚の折、女郎、娼婦と呼ばれし、自由を奪われた女性たちの供養もしてきたので、小林多喜二の人間性を知り、嬉しくなったと同時に、特高警察関係者に天罰が下ることを願ったものである。
山田洋次監督、吉永小百合主演『母べえ』では原作者野上照代の母を描いているが、夫が治安維持法違反で捕まってしまう。この映画でも治安維持法の恐ろしさが伝わってきた。
日本国憲法に緊急事態条項だなどと言いながら、市民の人権を抑圧しようと目論む保守派勢力が増えてしまった日本。
治安維持法という法律とこの法律を盾にした特高警察の恐ろしさは、共産主義というイデオロギーなど関係なく、戦争に反対しただけで捕まってしまうという滅茶苦茶な法律だった。
がさ入れと呼ばれる家宅捜索で、関係の本があっただけで、有罪にされるという出鱈目なことが国家権力の強権でなされた。
自由主義者であることを公言している自分としては、治安維持法、緊急事態条項など自分から表現の自由などを奪う悪法が二度と制定されないように選挙では、れいわ新選組の山本太郎代表を応援している。
女性を取り調べで全裸にし、大事なところを焼くなどと辱めをするのはまともな人間のやることではない。
日本人女性に性暴力を繰り返したソ連の兵隊と少しも変わらないではないか。
特高警察を二度と跋扈させてはならない。
『人生論ノート』などの著作で知られる哲学者・三木清(1897〜1945年)。治安維持法違反容疑で逮捕されて東京・豊多摩刑務所の独房に勾留されると、劣悪な環境下で寄生虫感染症を患い衰弱死した。死亡日は、日本の無条件降伏からひと月半近くもたった45年9月26日。
1929年3月5日、治安維持法の暴走に歯止めをかけるため、危険を承知で抵抗を続けた政治家「山宣」の愛称で親しまれた労農党所属の衆院議員、山本宣治(1889〜1929年)が暗殺された、と7月23日の毎日新聞(石川将来記者)が伝えている。
暴走した悪法「治安維持法」制定100年「屈辱的な拷問受けた」弾圧された女性たち【報道特集】|TBS NEWS DIGがYouTubeにあったが、治安維持法違反で検挙された女性が全裸にされ、大事なところを焼かれる辱めを受けたことを証言していた。
治安維持法といえば、虐殺された作家、小林多喜二『蟹工船』(新潮文庫)を買い求めて読んでいる。
山田火砂子監督、寺島しのぶ主演『母 小林多喜二の母の物語』も観ているので、治安維持法違反容疑で捕まり、取り調べで特高警察に虐殺された小林多喜二の偉大さも学習している。
映画で激しく心を揺さぶられたのは廓清というか廃娼運動を支持してきた自分としては、多喜二が廃娼しようとする女性を救うシーンがあったときである。
多喜二は女郎、娼婦と呼ばれた弱い立場の女性の味方だった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚の折、女郎、娼婦と呼ばれし、自由を奪われた女性たちの供養もしてきたので、小林多喜二の人間性を知り、嬉しくなったと同時に、特高警察関係者に天罰が下ることを願ったものである。
山田洋次監督、吉永小百合主演『母べえ』では原作者野上照代の母を描いているが、夫が治安維持法違反で捕まってしまう。この映画でも治安維持法の恐ろしさが伝わってきた。
日本国憲法に緊急事態条項だなどと言いながら、市民の人権を抑圧しようと目論む保守派勢力が増えてしまった日本。
治安維持法という法律とこの法律を盾にした特高警察の恐ろしさは、共産主義というイデオロギーなど関係なく、戦争に反対しただけで捕まってしまうという滅茶苦茶な法律だった。
がさ入れと呼ばれる家宅捜索で、関係の本があっただけで、有罪にされるという出鱈目なことが国家権力の強権でなされた。
自由主義者であることを公言している自分としては、治安維持法、緊急事態条項など自分から表現の自由などを奪う悪法が二度と制定されないように選挙では、れいわ新選組の山本太郎代表を応援している。
女性を取り調べで全裸にし、大事なところを焼くなどと辱めをするのはまともな人間のやることではない。
日本人女性に性暴力を繰り返したソ連の兵隊と少しも変わらないではないか。
特高警察を二度と跋扈させてはならない。
2025年08月27日
命より大切にされるべきものなどない
語り継ぐ戦争で、樺太の真岡の郵便局でソ連兵からの性暴力を恐れた電話交換手9人が青酸カリで集団自決し、戦後80年の慰霊祭が8月20日稚内で行われたことを書いている。
同じ樺太では、終戦二日後の8月17日、恵須取にあった太平炭鉱病院で働いていた看護師23人がソ連兵からの性暴力を恐れ、集団自決し、6人が亡くなった。
鎮魂と石に刻まれた慰霊碑が札幌護国神社にあり、慰霊祭が行われている。と2022年8月17日のHBC放送が伝えていた。
終戦翌日の16日未明、ソビエト軍は恵須取を爆撃。看護師たちは運び込まれるけが人の手当を続け、避難したのは夕方だった。
生き残った副看護師長鳴海寿美さんの手記 「患者さんの枕元に治療薬を配置し、再会を約束して壕を出、追い立てられるように神社の山へ登ったのです」
夜の10時ごろ、ソビエト軍が近くまで迫り、行く手が阻まれたということで、いよいよの時が来たと覚悟を決めた。普段から、命より貞操を守れと教育されていたこともあった。
毎日書き続け、発信しているのは「自由のため」である。
自由を奪われた人の筆頭に戦没者が頭に浮かび、次いで、戦火の渦中における自由と尊厳を奪われる性暴力の被害者のことが戦争における性被害ということで書いておかなければならない大事なことだと考えるに至った。
樺太では9人の電話交換手、6人の看護師が集団自決で亡くなっている。
彼女たちはソ連兵に性暴力されたわけではないにもかかわらず、集団自決を選択してしまったのは、やはり、当時の日本の教育の結果ではないか。
戦時中の性暴力被害としては、先般観ている『黒川の女たち』で、性暴力被害者として初めてといってもいいであろうが名乗りを上げたことが注目されることになった。
ソ連兵や中国人などからの略奪、性暴力から開拓団員を守ってもらうためにソ連軍将校を恃むことにし、その見返りとして、15人の娘たちが性奴隷として差し出された。
性被害は2か月ほど続いたが、梅毒などで亡くなった5人を除いて、多くの開拓団員が引き揚げて来られたのは彼女たちの犠牲のお陰である。
戦時中の一番悲惨な性暴力事件は敦化事件(日満パルプ事件)として語り継がれている1945年8月27日に起きたソ連兵による社宅での日本人女性集団性暴力事件である。
ソ連兵による性暴力が連日続き、ついに、被害者の女性たちが集団自決した凄惨な性暴力事件である。
語り継ぐ戦争ではあるが、あまりにも凄惨な事件なので、書くのを躊躇っていたが、一度はきちんと書かなければならないとは考えていた。
戦争における性暴力はどこの軍隊でも起こしているが、一番酷かったのがソ連軍兵士だったと断言できる。
日本兵も性暴力の加害者としては酷いものだったが、ソ連兵は衆人環視、つまり、電車内であろうが、道路であろうが、機関銃を手にして、性暴力をしたので、止めることができなかった。
止めれば、撃ち殺されてしまうからだ。
樺太の電話交換手、看護師、満蒙開拓団の女性とソ連兵からの性暴力から逃れようと集団自決を選択しているが、後期高齢者となってしまった自分としては、黒川開拓団の性奴隷とされた女性たちのように生き延びた女性たちの凄みに感心するばかりである。
貞操観念は教育されたことであるにしても、恥を忍んでも生きる方が困難であり、勇気があるような気がしてならない。
同じ樺太では、終戦二日後の8月17日、恵須取にあった太平炭鉱病院で働いていた看護師23人がソ連兵からの性暴力を恐れ、集団自決し、6人が亡くなった。
鎮魂と石に刻まれた慰霊碑が札幌護国神社にあり、慰霊祭が行われている。と2022年8月17日のHBC放送が伝えていた。
終戦翌日の16日未明、ソビエト軍は恵須取を爆撃。看護師たちは運び込まれるけが人の手当を続け、避難したのは夕方だった。
生き残った副看護師長鳴海寿美さんの手記 「患者さんの枕元に治療薬を配置し、再会を約束して壕を出、追い立てられるように神社の山へ登ったのです」
夜の10時ごろ、ソビエト軍が近くまで迫り、行く手が阻まれたということで、いよいよの時が来たと覚悟を決めた。普段から、命より貞操を守れと教育されていたこともあった。
毎日書き続け、発信しているのは「自由のため」である。
自由を奪われた人の筆頭に戦没者が頭に浮かび、次いで、戦火の渦中における自由と尊厳を奪われる性暴力の被害者のことが戦争における性被害ということで書いておかなければならない大事なことだと考えるに至った。
樺太では9人の電話交換手、6人の看護師が集団自決で亡くなっている。
彼女たちはソ連兵に性暴力されたわけではないにもかかわらず、集団自決を選択してしまったのは、やはり、当時の日本の教育の結果ではないか。
戦時中の性暴力被害としては、先般観ている『黒川の女たち』で、性暴力被害者として初めてといってもいいであろうが名乗りを上げたことが注目されることになった。
ソ連兵や中国人などからの略奪、性暴力から開拓団員を守ってもらうためにソ連軍将校を恃むことにし、その見返りとして、15人の娘たちが性奴隷として差し出された。
性被害は2か月ほど続いたが、梅毒などで亡くなった5人を除いて、多くの開拓団員が引き揚げて来られたのは彼女たちの犠牲のお陰である。
戦時中の一番悲惨な性暴力事件は敦化事件(日満パルプ事件)として語り継がれている1945年8月27日に起きたソ連兵による社宅での日本人女性集団性暴力事件である。
ソ連兵による性暴力が連日続き、ついに、被害者の女性たちが集団自決した凄惨な性暴力事件である。
語り継ぐ戦争ではあるが、あまりにも凄惨な事件なので、書くのを躊躇っていたが、一度はきちんと書かなければならないとは考えていた。
戦争における性暴力はどこの軍隊でも起こしているが、一番酷かったのがソ連軍兵士だったと断言できる。
日本兵も性暴力の加害者としては酷いものだったが、ソ連兵は衆人環視、つまり、電車内であろうが、道路であろうが、機関銃を手にして、性暴力をしたので、止めることができなかった。
止めれば、撃ち殺されてしまうからだ。
樺太の電話交換手、看護師、満蒙開拓団の女性とソ連兵からの性暴力から逃れようと集団自決を選択しているが、後期高齢者となってしまった自分としては、黒川開拓団の性奴隷とされた女性たちのように生き延びた女性たちの凄みに感心するばかりである。
貞操観念は教育されたことであるにしても、恥を忍んでも生きる方が困難であり、勇気があるような気がしてならない。
2025年08月26日
シベリア抑留の実態解明と瀬島龍三スパイ説
NHK時論公論「シベリア抑留 道半ばの実態解明 今後は」が8月22日放送され、視聴することができたので語り継ぐ戦争の立場から書いておく。
「戦後80年の8月15日「終戦の日」は過ぎましたが、戦争体験者の苦難の中には、終戦後に始まったものもありました。そのひとつが、いわゆる「シベリア抑留」です。80年前の1945年8月23日に旧ソビエトが出した指令に基づいて元日本兵などが抑留され、過酷な労働を強いられ多くの人が命を落としましたが、犠牲者の正確な数など全容はいまだわからず、多くの課題が残されています。今回は「シベリア抑留」の実態解明の道のりと、今後について考えます」と㏋にある。
厚生労働省によると、抑留された人は約57万5000人で、その1割ほど、約5万5000人が死亡したとされている。生き抜いた人の多くは抑留が3年から4年、最も長い人は11年にも及ぶ。
ダイヤモンドオンライン 共同通信社社会部編「シベリア抑留に『日ソ密約』はあったのか?瀬島龍三による『あってはならない歴史の改竄』とは」をネットで見つけた。シベリア抑留の実態解明のカギを握る男、ソ連のスパイだと信じているのは自分だけだろうか。
『シベリア抑留』の実態解明がなされていない証拠に抑留者の人数がある。
2014年に88歳で亡くなった元抑留者の村山常雄さんが作った名簿。亡くなった仲間たちのため、政府に提供された名簿や自らシベリアの墓地で書き写してきた名前などをもとに、11年かけて約4万6300人分の氏名や死亡場所などをまとめホームページで公開。
その村山さんに影響を受けたという関東学院大学准教授小林昭菜さんがロシアの公文書館なども含め調査した結果では抑留者は61万1237人。
アジア太平洋戦争に関し、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を2008年から2019年まで続け、コロナ渦で出かけられなくなっている間に後期高齢者となり、心身共に著しく衰えてしまったが、自分にとって、シベリア抑留は満蒙開拓と並んで最大の関心事である。
五味川純平『人間の條件』(三一書房)を原作とするTVドラマで、主人公梶を演じた加藤剛が最愛の人美千子に会いたいと抑留中の収容所を脱走するも、願いがかなうことはなく、凍土に倒れた体に降りしきる雪が積もっていくシーンは今でも落涙するほど梶に感化されてしまったからだ。
そのシベリア抑留に関しては山崎豊子『不毛地帯』(新潮文庫)を買い求めて読んでいるが、一般に主人公の壱岐正元陸軍中佐のモデルだと思われている瀬島隆三元陸軍中佐に関して、複数の人物から造形したもので、瀬島隆三だけがモデルだというのは誤りだと作者は言っている。
共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)の一部を抜粋・編集したものです。この本は1999年に新潮文庫から刊行されたものの復刊です。とはじめに断りがある。
全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版された『シベリア抑留秘史』日本語訳の単行本には、原文にない「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の十六字が「然るべき取り扱い、給養、医療」の後に加筆されていた。
あってはならない歴史的文書の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった。全抑協会長斎藤六郎(1995年12月、72歳で死亡)が言う。手の込んだ加筆を瀬島さんがするとは思わなかった。
財務省の公文書改竄が騒がれたことがあるが、文書を改竄するのは後ろめたいことがあるからに決まっている。
この一事でもって瀬島龍三がソ連のスパイだったことが裏付けられるが、かつて,A級戦犯だった岸信介元首相だって、米国のスパイだった可能性が高かった。
理由は簡単である。
シベリアに抑留されてしまえば、帰国できる保障はない。帰国できるならスパイにでもなんでもなるだろうし、極東裁判、東京裁判で死刑もあるかもしれないA級戦犯から逃れられるなら米国のスパイにだってなるだろう。
人間なんて本当に弱いものである。
日本兵をシベリア抑留し、強制労働させるように命令したのはスターリンだが、一部に、日本政府や軍幹部はシベリア抑留を賠償の一部として容認したのではないかという疑惑があるのだ。
戦争の勝者に敗者が何かいえるはずもないが、シベリア抑留しようとしているソ連に将兵を日本に帰すように発言してもいないことをさも、申し入れしたかのように文書を改竄するなんて怪しいものではある。
「戦後80年の8月15日「終戦の日」は過ぎましたが、戦争体験者の苦難の中には、終戦後に始まったものもありました。そのひとつが、いわゆる「シベリア抑留」です。80年前の1945年8月23日に旧ソビエトが出した指令に基づいて元日本兵などが抑留され、過酷な労働を強いられ多くの人が命を落としましたが、犠牲者の正確な数など全容はいまだわからず、多くの課題が残されています。今回は「シベリア抑留」の実態解明の道のりと、今後について考えます」と㏋にある。
厚生労働省によると、抑留された人は約57万5000人で、その1割ほど、約5万5000人が死亡したとされている。生き抜いた人の多くは抑留が3年から4年、最も長い人は11年にも及ぶ。
ダイヤモンドオンライン 共同通信社社会部編「シベリア抑留に『日ソ密約』はあったのか?瀬島龍三による『あってはならない歴史の改竄』とは」をネットで見つけた。シベリア抑留の実態解明のカギを握る男、ソ連のスパイだと信じているのは自分だけだろうか。
『シベリア抑留』の実態解明がなされていない証拠に抑留者の人数がある。
2014年に88歳で亡くなった元抑留者の村山常雄さんが作った名簿。亡くなった仲間たちのため、政府に提供された名簿や自らシベリアの墓地で書き写してきた名前などをもとに、11年かけて約4万6300人分の氏名や死亡場所などをまとめホームページで公開。
その村山さんに影響を受けたという関東学院大学准教授小林昭菜さんがロシアの公文書館なども含め調査した結果では抑留者は61万1237人。
アジア太平洋戦争に関し、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を2008年から2019年まで続け、コロナ渦で出かけられなくなっている間に後期高齢者となり、心身共に著しく衰えてしまったが、自分にとって、シベリア抑留は満蒙開拓と並んで最大の関心事である。
五味川純平『人間の條件』(三一書房)を原作とするTVドラマで、主人公梶を演じた加藤剛が最愛の人美千子に会いたいと抑留中の収容所を脱走するも、願いがかなうことはなく、凍土に倒れた体に降りしきる雪が積もっていくシーンは今でも落涙するほど梶に感化されてしまったからだ。
そのシベリア抑留に関しては山崎豊子『不毛地帯』(新潮文庫)を買い求めて読んでいるが、一般に主人公の壱岐正元陸軍中佐のモデルだと思われている瀬島隆三元陸軍中佐に関して、複数の人物から造形したもので、瀬島隆三だけがモデルだというのは誤りだと作者は言っている。
共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)の一部を抜粋・編集したものです。この本は1999年に新潮文庫から刊行されたものの復刊です。とはじめに断りがある。
全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版された『シベリア抑留秘史』日本語訳の単行本には、原文にない「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の十六字が「然るべき取り扱い、給養、医療」の後に加筆されていた。
あってはならない歴史的文書の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった。全抑協会長斎藤六郎(1995年12月、72歳で死亡)が言う。手の込んだ加筆を瀬島さんがするとは思わなかった。
財務省の公文書改竄が騒がれたことがあるが、文書を改竄するのは後ろめたいことがあるからに決まっている。
この一事でもって瀬島龍三がソ連のスパイだったことが裏付けられるが、かつて,A級戦犯だった岸信介元首相だって、米国のスパイだった可能性が高かった。
理由は簡単である。
シベリアに抑留されてしまえば、帰国できる保障はない。帰国できるならスパイにでもなんでもなるだろうし、極東裁判、東京裁判で死刑もあるかもしれないA級戦犯から逃れられるなら米国のスパイにだってなるだろう。
人間なんて本当に弱いものである。
日本兵をシベリア抑留し、強制労働させるように命令したのはスターリンだが、一部に、日本政府や軍幹部はシベリア抑留を賠償の一部として容認したのではないかという疑惑があるのだ。
戦争の勝者に敗者が何かいえるはずもないが、シベリア抑留しようとしているソ連に将兵を日本に帰すように発言してもいないことをさも、申し入れしたかのように文書を改竄するなんて怪しいものではある。