2026年08月13日

転落事故 家族が支えに

 「時代の証言者」という長く続く連載が読売にある。
 著名人が語る人生録と解釈しているが、興味のある人物や興味のあることが書かれている時は読んできた。 
 その8月11日、「柔の道を生きる」 山下泰裕 28 を読んで激しく心を揺さぶられた。

 柔道の世界で、その名を知らない人はいないというほどのビッグネームで、五輪の金メダリスト、全日本柔道連盟と日本オリンピック委員会(JOC)会長を務めていた山下さんが箱根の露天風呂で、2bくらい転落する事故で首の骨を折り、頚髄損傷で車いす生活を余儀なくされるようになった顛末を告白していたのだ。
 
 IPS細胞の治験にも参加するなど現代の医学最前線の治療を受けても、思うようにはならず、左手が少し動くだけで、首から下は動かない。苦しくてこのまま終わるのかな、それも人生と考えたこともあるという。

 山下さんを励ましてくれたのは家族だ。「生かされたのは何かやるやるべきことがあるからだ。役割りを果たすためにも社会復帰を目指そう」病院に来て懸命にそう語りかけてくれたのは妻と娘だった。
 自分より重度になると自発呼吸ができなくなる。今の形で生かされたことに、何かの意味があるのではないか。運不運や挫折は誰もが体験する。違いは起きたことをどう受け止めるかだ。そう考え前を向けるようになったというのだ。
 人生を振り返り、妻への配慮やいたわりが少なすぎた。人生で一番の反省点だという。
 次男が自閉症で、彼の存在は強者の論理ばかりで物事を進めてきたかつての自分の見方を見事に崩してくれた。人間らしさとは何かを教えてくれた。
 体が動かなくなって、それなのにほんのりとした温かみを感じる。自分がもっと大切にしなければいけなかった妻や家族の温かみである。
 自分は幸せなのかもしれない。
 生きていて佳かった。
 両手両足は動かずとも、生かされている有難みを感じるのは間違いなく今の方が多い。と結ぶ。


 語り継ぐ戦争だから、戦没、死没した人たち。負傷はしつつも傷痍軍人として何とか帰国を果たした人達。そして、戦争で精神が壊れてしまった人たちがいることを彼らに代わって発信するようにしてきた。

 山下さんといえば、柔道界においては勝者というか、強者の論理で物事を進めてきたとご本人が明かしている。
 その山下さんが事故で車いす生活を余儀なくされるようになって、支えてくれる家族に過去の至らなさと感謝の気持ちを公の場で表明している。

 れいわ新選組の山本太郎代表は政界引退とれいわ新選組の党名変更を仲間に託した。
 山本太郎代表は「生きているだけで価値がある」社会を作るということをスローガンに新しい政治を切り開いてきた。
 跡を継いだ「いのち」の山本ジョージ代表は党名に生きていることをそのままに「いのち」を党名にした。
 山本太郎代表は重度障害のある舩後さん、木村さん、天畠さんを特定枠を使い、国会に送り込むことに成功し、重度の障がい者でも、国会で活躍できることを証明してくれた。

 今、重度の障がい者になった山下さんにはれいわ新選組の精神を受け継ぐ「いのち」の山本ジョージさんとタッグを組み、「生きているだけで価値がある」そんな社会を作るための礎になってもらいたい。

 障がい者になる前の山下さんは選挙なら当然、強者の論理を進める自民党だったはずだが、今の山下さんは弱者のために頑張るように柔の神様が新しい命を与えてくれたのではなかったか。

 山下さんは「運不運や挫折は誰もが体験する。違いは起きたことをどう受け止めるかだ」と前を向けるようになったのは家族のお陰だと語っている。

 強者としての山下さんではなく、弱者としての山下さんと支える家族にこそエールをおくりたい。

 人は誰しも佳いときは長く続かない。
 アクシデントも当然起きるだろう。
 アクシデントが起きて、その人の真価が試されるのだろう。

2026年08月12日

原爆裁判 国際法違反判決 被爆者と弁護士たちの闘い

 NHKBSスペシャル「原爆裁判―被爆者と弁護士たちの闘い」の再放送があったらしい。

 「原爆は国際法違反である。1963年、東京地裁で画期的な判決が下された。「原爆裁判」。のちに、国際司法裁判所の勧告的な意見へとつながり、世界に核兵器の違法性を問う流れを生んだ。
 番組では、岡本尚一弁護士の資料をもとに原告の被爆者5人を追跡。母が原告であったことを初めて知った時田百合子さん。「下田ケース」として世界に知られた下田隆一さんの孫義則さんの証言から被爆者と弁護士たちの闘いを見つめる、」と㏋にある。


 語り継ぐ戦争であるが、まだまだ知らないことの方が圧倒的に多いことを思い知ることになった原爆裁判。
 原爆投下の違法性、被爆者への損害賠償を求めて提訴され、米国の植民地同様の日本における裁判所が頑張って、三淵嘉子裁判官らが国際法違反であるとの判決を下した画期的なできごとである。

 語り継ぐ戦争は、そもそも自分の生き方の問題である。
 矛盾だらけというか、必ずしも善が悪に勝つわけではないにしても、力が正義とばかりに攻撃する側に対し、攻撃された側が救いを求める手立ては事実上ないようなものである。
 国際紛争を解決するために、国連があり、国際司法裁判所があり、戦争犯罪を犯した個人を訴追する国際刑事裁判所がある。
 ウクライナに侵略し、兵士が性暴力犯罪を犯し、子どもを拉致したりした責任を追及されたプーチン大統領に国際刑事裁判所から有罪の判決が出ても、現実には捕まえることは難しい。
 もう一人の独裁者トランプ大統領は、自分のいうことをきかない国際関係機関の分担金の支払いを拒否し、その活動を妨害している。

 では、侵略戦争を防止することができない国連はあっても意味がないのかといえば、そんなことはない。
 当然、国際刑事裁判所から「Wanted」と指名手配されているプーチン大統領は自国にいる限りは安全だが、国外に出れば、逮捕される危険性が高くなるのだ。

 8月12日のまいあさラジオで、シリアの独裁者でロシアに逃亡、亡命したアサド元大統領にシリアの法廷で死刑判決が言い渡されたことを伝えている。
 ロシアが身柄を引き渡すかどうかわからないが、プーチン大統領が辞めれば、どうなるかわからない。
 だから、この死刑判決は大いに意義がある。
 何しろ、独裁者で人殺しであることは間違いないわけだから、何としても、死刑にしなければ、殺された多くの反政府の市民が納得しない。

 さて、原爆裁判である。
 原爆は非武装の市民を無差別に殺戮した戦争犯罪であるから、国際法に違反するなんて誰にだってわかることだ。
 ただ、国際法に反しているからといって、損害賠償など実効性を問われれば、被爆死した人たちから見れば、何も変わらない。
 それでも、国際法に反していることが定説となれば、核兵器を使いたがっているプーチン大統領にとって少しは歯止めの役目を果たしてくれるかもしれない。

 生きていた時代は誰も手出しができなかったソ連の独裁者スターリンの評価は歴史の中で見れば、殺人鬼に過ぎない。
 原爆を正当化する米国人だって、被爆の実相を知らないから、戦争を早く終わらせるためだったなどと言い訳しているが、ヒロシマ、ナガサキでの被爆者の実相を知れば、心ある人間なら、原爆投下はジェノサイドに過ぎないことがわかるはずだ。

 原爆裁判で名を遺した下田隆三弁護士たちは本当によくやってくれた。三淵嘉子裁判官も。
 死んでから、人は評価されることだってある。

 原爆投下の違法性と被爆者への損害賠償を求めて立ち上がった人たちに敬意を表したい。

2026年08月11日

切り捨てられた在韓被爆者の戦後

 NHK ETV特集「切り捨てられた被爆者、在韓被爆者の81年」を視聴することができたので書いておく。

 「81年前、米軍によってヒロシマ、ナガサキに投下された原子爆弾。当時、日本の植民地下にあった朝鮮半島出身者の多くも被爆した。
 その内2万人が帰還したとされる。しかし。彼らは戦後長く、日韓両政府から支援を受けられぬまま、貧困や差別、病に苦しみ続けた。
 近年、機密解除された文書から、日本政府がいかにし被爆者の間に線引きをしていたのか、詳細が明らかになってきた。
 国家の狭間で翻弄されてきた被爆者の戦後をみつめる。」と㏋にある。


 2009年8月にナガサキ、同年11月にヒロシマを訪れた時、朝鮮半島出身者の被爆犠牲者の慰霊碑を見つけた。
 植民地にされるということの意味がよく分かったのはプロレスの力道山だった。子どもの頃のヒーロー力道山は朝鮮半島出身者であることを隠していた。
 もし、朝鮮半島出身者だとわかってしまえば、日本のヒーローにはなれないからだ。
 プロ野球で400勝という不滅の大記録を保持する投手金田は先祖が朝鮮半島出身者であるが、出自を明らかにすることは現役時代には考えられないことだった。
 バッターで3000本のヒットを打った張本は在日で、ヒロシマで被爆していることを晩年になって明らかにしている。
 余談であるが、世界のホームラン王は台湾と日本人とのハーフであり、優れた選手に出自など全く関係ないが、朝鮮半島出身者が自らの出自を明らかにできなかったところに植民地下にあることの意味を考えさせれるできごとではある。

 公言しているように民族差別も含め、被爆者、水俣病、ハンセン病、エイズ、そして、出身の街による出自などによる差別をしないことにしている。

 そもそも、原爆投下が米国人による民族差別であることを訴えてきたが、ドイツには原爆を投下せず、日本にだけ原爆を落としたことがそもそもイエロージャップと蔑み、馬鹿にしてきたからではないのか。
 戦後も、日米安保、日米地位協定という不平等条約により植民地化され、傀儡化されている日本政府は米国に全く逆らえない。
 だから、朝鮮半島出身者の気持ちが自分にはよく理解できるのだ。
 
 日本人は真に身勝手な人が多い。
 家族の生活のために、身を売った女たちが戦前、戦後の日本にはいた。
 身を売った先がボルネオなどの海外である場合、「からゆき」「からゆきさん」と呼ばれたが、彼女たちが年季が明けて帰国しても、周囲から差別された。
 遊郭に売られた女たちにも同じことが言える。一度その世界に足を踏み入れると周囲から差別される。
 戦後米兵に身を売ったパンパンと呼ばれた女たちも差別された。

 被爆した朝鮮半島出身者が不当に差別され、被爆者手帳を交付されないことは絶対許されない。
 偶々、植民地化されたが、戦時中は特攻隊員として出撃した朝鮮半島出身者だっていたのだ。

 韓国人男性と結婚して渡韓し、身寄りをなくした日本人女性を長年保護・支援してきた福祉施設慶州ナザレ園が韓国にある。

 日本にいたときの理由や韓国に帰還した事情はともかく、日本で被爆した以上、日本人と同じ条件で治療が受けられなければおかしい。

 差別する側、差別する側、冷静に考えてみれば、紙一重のことではないか。
 困ったときはお互い様の気持ちが何より大事である。

2026年08月10日

米軍に原爆投下されて81年の長崎原爆の日

 米軍によって原爆が投下されてから被爆81年の「長崎原爆の日」となった9日、長崎市の平和公園で営まれた平和祈当時念式典には長崎県内外から被爆者や遺族、関係者が訪れ、先立った家族や仲間をしのび、多くの犠牲者を悼んだ。各地で追悼行事も行われ、参加者らは被爆について次世代に語り継ぎ、核兵器のない平和な世界の実現へ歩みを進めることを誓った。とメディアが伝えている。

 8月10日の読売によれば、平和祈念式典には初めて参列した東京都の遺族代表四辻美智子さん(85)は長崎市出身。爆心地から約1・5`の自宅付近で被爆した。
 東京在住の被爆者の団体「東友会」のメンバーでもある。「地元の思いを間近に感じることができた。時間がある限り平和に向けた活動に参加したい」と決意を新たにしていた。
 当時、4歳で何も覚えていないとは言うものの阪神淡路大震災の火災を伝えるTVを視聴していたとき、突然、人が焼ける臭いがしてきたという。多数の被爆者が焼け死んだときのことを体は覚えていたことになる。


 高市首相があいさつで。我が国の非核三原則について説明したが、これを堅持するとはついに約束しなかった。
 台湾有事では中国と戦争する構えを見せているのだから、核兵器を持とうと考えているということになろうか。
 30代の頃、村山内閣の時代、戦争における加害責任について、「反省を求められるいわれもない」と高市首相は平然と語ったそうな。

 当時のことを覚えている。嫌な女の議員だなと思ったが、まさか、後年首相になるとは思いもよらないことだった。
 人の痛みがわからない、わかろうとしない人間に被爆者の供養のイベントに出席してほしくない。
 ヒロシマで「高市は公園から出て行け!」とヤジられたらしいが、ヤジった人の気持ちが理解できる。

 侵略戦争で、自分がやったわけではないから、「反省を求められるいわれもない」と本当に考えているとするなら、リーダーの器ではない。
「高市辞めろ!」と叫ぶデモに集まる人の気持ちが理解できる。
 首相の人間性がよくわかったので、退陣を求めたい。

2026年08月09日

被爆を語り継ぐ被爆2世、3世

 英語で証言活動を行う被爆者の小倉桂子さん(89)の長男史郎さん(59)(広島市)が2026年春、外国人観光客向けの平和ガイドを始めた。「世界で平和の種を蒔いてきた母の人生を伝えていく」と誓う。と8月7日に読売が伝えている。

 被爆3世の東京大学4年牟田悠一郎さん(23)(東京文京区)は海外からの式典参列者の通訳を務めた。
 12年前に式典のこども代表として「平和への誓い」を読み上げて以来、平和と向き合い続けてきた。と同じ読売の8月6日の夕刊が伝えている。

 小倉桂子さんは8歳のとき、爆心地から約2・4`で被爆し、爆風で飛ばされるも大きなけがはなかった。
 広島平和記念資料館第3代館長を務めた夫の馨さんが1979年59歳で死去したのを機に、主婦だった桂子さんに海外からヒロシマの案内や通訳の依頼が来るようになった。独学で英語の腕を磨き、現在も世界各地で証言活動をしている。
 史郎さんは高齢の母を案じ、2022年に米国の大学で証言する桂子さんに初めて付き添った。
 桂子さんの話を聴き、父親が被爆者にインタビューした書籍を読んで、ヒロシマについて学んだ。
 2026年3月、会社を退職し、平和ガイドをスタート。

 牟田さんの祖父は爆心地から約1・8`で被爆。祖父の話を聴き、被爆が身近なものになっていく。
 こども代表に選ばれて以降、「自分が平和について何ができるのか」考えるきっかけとなった。 
 高校生のとき、核兵器廃絶を訴える「高校生平和大使」として活動した。
 大学生になって、核拡散防止条約(NPT)再検討会議のために渡米した被爆2世の通訳を務めた。
 海外からの式典参加者のために通訳を務めた牟田さんは「あらゆる人に被爆を我が事として捉えてほしい」と願う。


 よほど想像力が豊かでないと、被爆を我が事として捉えられる人は少ない。
 本を読み、映画を観て想像力を磨いてきたから、被爆を我が事として捉えているが、それでも、体験というのか経験者にははるかに及ばない。

 戦後81年の2026年。今頃と言われると苦しいが、中沢啓二『はだしのゲン』(汐文社)を買い求めて読むことができた。
 石牟礼道子『苦界浄土』(講談社文庫)を買い求めて読んだのも遅くて、自分の体たらくに恥ずかしさを覚える。
 込山正徳監督ドキュメンタリー『はだしのゲンはまだ怒っている』を観たのがきっかけであったが、映画を観たことで、原作を読んでいないことに気づかされた。
 ヒロシマの原爆を語るには『はだしのゲン』や『はだしのゲンはまだ怒っている』を観ていないと話にならないと断言できる。
 長く生きて、お迎えが近くなってから読んでも仕方ないということは全くない。
 生きている限り、いつ読んでも遅くはない。
 読んでいないことの方が恥ずかしいし、何のために生きているのかレベルを疑われてしまう。
 団塊の世代の一員で、戦争に反対、平和を希求するのは当然のことである。

 戦後、平和の危機的状況を招いている高市政権を打倒し、壊憲をさせてはならない。
 次世代に対し、我々世代の責任として、何としても高市政権を倒さなければならない。

2026年08月08日

ヒロシマのこどもとして行動する責任

 8月6日、広島市の平和記念公園で開かれた平和記念式典で、広島市立高須小学校6年の柿崎由宇さんと同市立高南小学校6年の河野和希さんが「平和への誓い」を読み上げた。

 私たちには、被爆体験を直接聴くことができる最後の世代として、当時の記憶を事実として受け止める使命がある。
 目をそらさず、知ろうとすること。
 悲しい現実でも向き合うこと。
 そこには、「生きたかった人々」、「生き続けた人々」の思いがある。

 私たちには、広島のこどもとして、行動する責任がある。
 相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。
 平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。

 一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなる。

 平和とは、誰かからあたえられるものでなく、世界中の人々で創り上げるもの。
 こどもである私たちも、その一員として平和への一歩を踏み出す。
 かけがえのない「大切なもの」を、確かな希望を、未来へ届けるために。

 8月6日の読売夕刊によれば、柿崎さんは父の転勤で1年生の夏休みに東京から転校。初めての登校は広島市が平和学習の登校日とする8月6日だった。

 広島の平和学習の成果だろうか、小学生の「平和への誓い」としては、あまりも見事なもので、大いに勉強させてもらった。朝日新聞などメディアで紹介されていたので、語り継ぐ戦争の立場から、感謝の気持ちを込めて一部を紹介させてもらった。

 平和を希求する人々の理念が込められている日本国憲法を壊憲し、台湾有事には中国と戦争をするという高市首相と同じ人間でありながら、どうしてこうも平和への取り組み姿勢が違うのか。

 高市首相は総務大臣の時、TV局などが自分たちを批判する番組を放送するなら免許を取り上げると恫喝したことで知られる。
 SNSを使って、他者を誹謗中傷というかネガティブキャンペーンのようなことをやるし、平気でうそをつく。
 首相あいさつの時、会場から「高市は公園から出ていけ」とヤジが飛んだが、人柄がよい人物なら、こんなヤジを飛ばす人間はいない。
 語り継ぐ戦争の立場から、真摯に平和を願う子どもたちに期待するよりない。

 米軍に原爆を投下され、多くの人たちが被爆したヒロシマ、ナガサキ県民。地上戦で味方のはずの日本軍に守ってもらえず、米軍の鉄の暴風と呼ばれた艦砲射撃や火炎放射器で焼かれた沖縄県民。それぞれ平和教育がなされ、戦争に反対する土壌ができている。

 柿崎さんは東京からヒロシマに来た意味を胸に「平和への誓い」を読み上げてくれた。
 河野君は柿崎さんと異なり、ヒロシマが故郷としての思いを胸に一緒に力強く平和への誓いをアピールしてくれた。

 被爆体験者が退場しても、語り継がれた被爆体験は子どもたちが次世代に語り継いでくれるはずだ。
 二人を筆頭に、平和学習に取り組む関係者にエールをおくりたい。

2026年08月07日

『原爆資料館 語り継ぐものたち』

 月に一度の映画館行き、8月は、斎藤俊幸、立川直樹監督のドキュメンタリー『原爆資料館 語り継ぐものたち』を観てきた。

 昨、8月6日は1945(昭和20)年のこの日の朝、鬼畜米英の米軍によってヒロシマに原爆が投下されてから81年で、犠牲者を慰霊するイベントが開催されている。

 偶々、映画館が今日からこの作品を上映してくれたので、観てきたというわけだ。
 2009年11月、初めてヒロシマを訪れ、2015年4月再度ヒロシマを訪れることができた。
 原爆資料館は通称であって、正式には広島平和記念資料館だ。

 2回訪れても、TVの「ブラタモリ」のようなガイドがつくわけではないから、観光地のお定まりのとりあえず行ってきた状態だったから、一度、きちんと客観的に見学してみたかった。

 映画で印象に残ったのは、自分なりの原爆資料館における大きな出来事として、原爆資料館の沿革とでも呼べばいいのか。初代館長長岡省吾の被爆資料収集への取り組みがやがて原爆資料館建設へと被爆を語り継ぐ施設の建設ににつながったこと。
 自身が被爆者で、7代目の館長高橋昭博がオバマ大統領などに原爆資料館の見学を薦める手紙を綴ったこと。
 結果、2016年、ついにオバマ米国大統領のヒロシマ訪問が実現した。

 2023年には、G7サミットがヒロシマで開催されたが、原爆資料館見学は岸田内閣のアリバイ作りのような形で終わった。
 それでも、G7首脳がヒロシマにやってきて、形だけとはいいながらも、原爆資料館に入館した意義はあったはずである。

 原爆資料館の語り継ぐものたちは、被爆し、無念の思いを訴えることもできず死にゆくよりなかったが、その思いは無言ではあっても衣類など遺品を通じ、明らかに原爆の実相を伝えている。

 沖縄戦で県民を守る意思が全くなかった日本軍は県民に銃口を向け、投降しようとするものなら、後ろから撃ち殺した。
 沖縄の摩文仁の資料館で、県民に銃口を向ける日本兵のジオラマを観たとき、沖縄戦の真実を知ることができた。

 舞鶴の引揚記念館や、新宿の平和祈念展示資料館では、シベリアに抑留された兵士の様子、黒パンを切り分けるときの命がけの食料分配の様子に過酷な抑留生活の一端が伝わってきた。

 G7の首脳だって、人間である。
 心ある人間なら、首脳を退任してから、もう一度来日し、ヒロシマ、ナガサキを訪れる可能性がある。

 語り継ぐ戦争で、ヒロシマ、ナガサキの原爆資料館を見学した時の激しく心を揺さぶられた時の感情は死ぬまで忘れることはない。
 歴代館長、学芸員などスタッフの皆さんにエールをおくりたい。
 佳い映画だった。ひとりでも多くの人にお薦めしたい。

2026年08月06日

ヒロシマ、ナガサキで二重被爆した163人の運命

 「NHK二重被爆―知られざる163人の運命」を視聴して、1945(昭和20)年8月6日、米軍がヒロシマに投下した原爆に被爆し、理由あってナガサキに向かった人が今度は8月9日、米軍がナガサキに投下した原爆にまたも被爆したというアンラッキーな運命の人が163人もいたと知り驚いた。


 二重被爆者として知られるのは山口彊さん。公式に認定されているので知っていた。
 長崎の三菱造船に勤務し、広島に出張を命ぜられ、8月6日に被爆するも、勤務先の三菱造船に戻るや、今度は長崎で被爆してしまうのだ。
 こんなことがあるのか、俄かに信じがたい話であるが、長崎と広島は造船の街だから、造船つながりでなら、理解できる話である。

 2006年、青木亮監督ドキュメンタリー『二重被爆』に出演したことで世界に知られるも、生憎見逃してしまった。
 月に一度の映画館行きで、ドキュメンタリー作品を主に映画を観てきたが、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのが2008年のことだから、、当時は、観る映画作品の情報がきちんと収集できていなかったのであろうか。

 運で物事を片付けるのは甚だ不謹慎であることを承知の上で、人生って明日のことは誰にも分らないことから、運としか表現のしようがない。

 二重被爆者山口彊さんは2010年1月、93歳で亡くなっている。
 著名人の被爆者で、ナガサキで被爆した美輪明宏さんは2026年6月、91歳で亡くなっている。

 運というか運命といえば、被爆者で体調不良を抱えながらも、90歳まで生きられたのは、二人には被爆者として体験を語り継ぐ役割が託されたのではないか。

 二重被爆者という一般的には考えられないことが起きてしまうのも人生というものかもしれない。

2026年08月05日

島に眠る被爆者の遺骨捜し、箏の音色で供養

 被爆81年ということで、瀬戸内海の似島(広島市南区)に眠る被爆者の遺骨を捜し続ける広島大平和センター研究員の嘉陽礼文さん(48)の姿があった。
 島の夕暮れ時、寄せては返す波音とともに慰霊の気持ちを込めて奏でる嘉陽さんの箏の音が響いた。
 80年以上の月日が経過した今も、多くの人たちが弔われることなくこの場所に眠る。という写真とキャプション付きで紹介されていて、心を揺さぶられたので書いておく。
 8月3日、読売(渡辺恭晃記者)が夕刊のズームアップの紙面で伝えてくれた7月上旬の似島でのひとコマである。

 沖縄出身の嘉陽さんにも、沖縄戦で犠牲となり、遺骨が見つかっていない親族がおり、他人事ではないと感じるそうな。
 箏の演奏はこれまでにミャンマーや平和記念公園の原爆供養塔前などで行ったことがあり、似島でも「人としてできることをしたい」と初めて奏でた。
 3日後、強い日差しの下、スコップで遺骨を掘り起こそうとしている嘉陽さんの姿があった。
 「弔われることなく埋もれたままの人たちがいる限り、あの戦争は終わっていない」と嘉陽さんの活動に区切りはない。


 似島に多くの被爆者が運び込まれたことを知らなかった。
 40代後半で遺骨を収集する。慰霊のために箏を奏でる。嘉陽さんに激しく心を揺さぶられた。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのは2008年、還暦の頃だったから、自分より早く動き出している嘉陽さんにはまだまだ時間がある。

 平和記念公園の原爆供養塔の前で、自分も嘉陽さんと同じことを考え、「自分のできることで慰霊したい」と経を唱える代わりに尺八を吹いた。
 尺八と箏、奇しくも同じ邦楽器であるが、箏は持ち運ぶのが大変だから、慰霊のためとはいいながらよく奏でる気持ちになられたものだと感心しきりである。

 嘉陽さんの出身県、沖縄では遺骨収集といえば、ガマフヤーの具志堅隆松さんが奮闘されていて、ご一緒させていただくことになっていたが、コロナ渦で出かけるのもままならない間に、心身共に衰えてしまい、実現できないまま今日に至る。

 思い立ったが吉日という言葉があるが、やろうと思った時にやらないと後悔することになる。
 人生って思い通りにならないことは百も承知のはずだったが残念でならない。

 ズームアップというタイトルからして、写真が切り取る人生模様であるが、遺骨を掘る、夕暮れ時、遺骨を掘ったその場所で寄せては返す波の音をBGMに箏を奏でる姿は激しく心を揺さぶられた。

 嘉陽さんにエールをおくりたい。

2026年07月31日

東京都原爆犠牲者追悼のつどい

 広島、長崎の原爆犠牲者を追悼する「東京都原爆犠牲者追悼のつどい」が26日、東京都葛飾区で開かれ、都内に住む被爆者や遺族ら約220人が参加した。とメディアが伝えている。

 7月26日の東京新聞WEBによれば、都内の被爆者団体「東友会」の家島昌志代表理事(84)は「被爆者は人間としてあるまじき死と生を余儀なくされた。決して忘れることはできない」と強調し、日本政府に反核の国際世論をリードする取り組みを求めた。
 献花した東京都大田区の四辻美智子さん(85)は、長崎市の爆心地から1・5`で4歳の時に被爆した。「当時の恐怖を今でも思い出す。再び被爆者をつくってはいけないと、死ぬまで訴えたい」と力を込めた。
 参加した小池百合子都知事は「今日の平和が原爆の犠牲者とご遺族のご苦労の上に築かれたことを語り継いでいかなければならない」と述べた。

 脳性麻痺による障害がある埼玉県秩父市のアーティスト恩田敏夫さん(48)が原爆ドームの模型や絵の制作を約30年にわたって続けてきたことを7月28日の読売(岡本与志紀記者)が夕刊で伝えている。


 ヒロシマ、ナガサキに米軍によって原爆が投下されてから81年。あのときの8月がやってくる。
 語り継ぐ戦争だから、被爆者のことを思えば、何回でも書かずにはいられない。

 ヒロシマで原爆といえば、原爆ドームというくらい馴染みがある建物であるが、本物が解体されるようなことがあった時のためにも模型を作っておいてくれれば歴史を伝える価値がある。
 恩田さんのハンディを抱えながらのチャレンジに敬意を表したい。

 被爆者といえど、大都市東京に移り住んでいる人がいることは、被団協の事務局長のことを知っているので、それなりの人々がいるだろうと思っていた。慰霊祭が開催されるのは当然のことである。

 慰霊祭は、原爆犠牲者慰霊碑のある葛飾区青戸平和公園に近い、テクノプラザかつしかで開催されていると耳にしたが、葛飾は柴又の帝釈天に行ったことがあるくらいで、青戸平和公園に慰霊碑があることは知らなかったし、無論行ったことはない。

 原爆犠牲者の慰霊碑があると知ったので、何とか訪ねてみたい。
 
 熊本にまたしても震度7の大地震があったが、高市首相が台湾問題の国会答弁で、中国に喧嘩を売り、戦争前夜の様相を呈している今だからこそ、戦争犠牲者、原爆犠牲者などの存在が重みを増している。
 戦争への道を阻むのは戦争の犠牲者の力であるから、彼らへのお参りが重要性を増すのだ。

2026年07月24日

連合国軍兵士連行 敗戦で責任を問われる

 「碑を巡る」というタイトルで、横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦死者の墓碑を「捕虜眠る思いやり象徴の場」という見出しで。7月7日の読売(安楽泰人記者)取り上げている。
 その紙面で、「連合軍兵士連行 3万5000人以上」という見出しで、日本に連行された捕虜が、全国各地に約130か所設けられた収容所に収容され、採鉱や造船、農業などの強制労働に従事したことを伝えている。

 捕虜の人道的な扱いを定めた1929年の「捕虜の待遇に関する条約を日本は批准していない。
 捕虜虐待や民間人殺害を行った人物が「BC級戦犯」として罪に問われ、起訴された5700人のうち、920人が処刑された。外国人捕虜を調査する民間団体POW研究会によると横浜裁判で判決の出た事件327件のうち242件、起訴された1037人のうち528人が捕虜収容所の関係者だった。
 収容所の職員は、直江津で8人、満島で6人、大牟田では4人が死刑となった。
 多数の死者を出した事例として、42年4月、フィリピンルソン島のバターン半島で米軍とフィリピン軍の捕虜約7万人を歩かせた「バターン死の行進」があり、米陸軍によると米軍約1000人、比軍約9000人の計約1万人が亡くなったとされる。

 1945年8月、岩手県釜石市で米国艦隊などの艦砲射撃を受け、41歳で亡くなった英国人男性の墓碑。「あなたの記憶は私たちの心の中にある。あなたを深く愛した私たちは決して忘れない」と墓碑には刻まれている。
 墓碑に刻まれた文字の情報を基にナガサキの原爆投下で爆心地から1・7`の地点で建物の下敷きとなって圧死した人。北海道の収容所では、飢えに苦しむ余り、炊事場から魚を盗んだ罰として真冬の営倉に入れられ、寒さで衰弱死した人。


 英国を主とする英連邦が日本で亡くなった人たちを丁重に弔い、墓碑を建立して慰霊や供養をしていることを知った。
 然るに、日本はどうだろう。
 いかに侵略戦争だったからといいながら、戦地に置き去りにされたまま、遺骨の収容さえもしてもらえていない。
 日本軍部に同調する者たちは靖国神社にばかりお参りしたがり、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑を訪れようとはしない。
 靖国神社にA級戦犯が合祀されてから、日本軍部に同調する者たちの靖国参りが勢いを増している。
 軍部に利用された天皇はA級戦犯が合祀されてからは靖国にお参りしていない。
 その天皇の娘愛子さまを天皇にさせないように企図している勢力は靖国参拝組だから、天皇に対する嫌がらせ、弓を引いているのではないか。
 右翼と呼ばれている人たちが真に天皇のことを思うなら、当然、天皇の気持ちを考え、愛子天皇に反対する勢力を倒してくれるものと信じていたが、どうも、日本の右翼は親米かつ、自民党支持のようだから、そんな願いは期待する方が無理というものだろう。

 アジア太平洋戦争の時、日本の軍部ほど人間の命を大事にしなかった軍部は世界になかったであろう。
 まず、命を大事にしない人間は、自分は死なないくせに、市民には死ぬことを強要する。

 好戦派の高市首相などはその典型ではないか。

2026年07月19日

硫黄島戦禍後世に 高校生ら訪問

 戦争体験者が少なくなる中、記憶を継承していくため、戦後80年の節目に厚生労働省が実施した作文コンクール受賞者の高校生らが18日、太平洋戦争の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)を訪れた。と7月18日のJIJI.COMや19日のNHKマイあさラジオで伝えている。

 硫黄島は慰霊事業などを除き、民間人の立ち入りが制限されている。
 硫黄島に到着した高校生らは、天山地区にある戦没者慰霊碑で黙とうした。高校3年の弟子丸香里奈さん(17)=鹿児島市=が代表して白い花束を供えて献水し、他の参加者も白菊を1本ずつ供えた。その後、兵団司令部壕)、遺骨収集や調査の現場を見学し、激しい戦闘が行われた摺鉢山も訪れた。
 
 弟子丸さんは「私たちができるのはこの経験を伝えること。今も戦争をしている国があり、平和について世界中で学んでほしい」と訴えた。高校3年生の小田島誠慈さん(17)=埼玉県坂戸市=は「日本本土を守るんだという決意を持って亡くなられたと思うと、遺骨を残したままにしておくのは申し訳ない。まだ残っている方を早く帰してあげたい」と戦没者に思いをはせた。

 7月17日の読売(高田結奈記者)夕刊によれば、小田島さんは曽祖父がシベリア抑留され、過酷な抑留体験を父親から伝えられた。シベリアでの伐採作業に使った手袋を平和祈念展示資料館に寄贈していることから、同館を訪れ、手袋を実際に見学し、「曾祖父に出会えた気がした」と振り返る。


 日米合わせて2万7000人以上が戦死した硫黄島は太平洋戦争の最大の激戦地の一つ。
 実は職場の上司の父親が何と硫黄島で戦死しているということで、拝礼式に硫黄島に行っているとのこと。語り継ぐ戦争ということでは、息子を拝礼式に同行していることも耳にしている。
 硫黄島で戦死していることは、退職後に知り、手紙を出したら、返信を頂戴している。

 クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』を観ているので、硫黄島の戦いについては、少しは学習することができた。 
 映画を観て、島の名前が硫黄島というくらいだから島の特殊性というのか、自然の厳しさの中での戦いで戦没した兵士たちのことを知り、遺骨が収集できていないことから何としても、遺骨を日本に帰してやりたいと願っている。

 弟子丸香里奈さん、小田島誠慈さんはともに高校生だし、その他も大学生のようだから、語り継ぐ戦争の立場からは今回の貴重な経験を一人でも多くの人に伝えてもらいたい。

 多くの国民の反対を平然と無視し、男尊女卑で天皇の娘愛子様を天皇にさせないようにするため、国会で皇室典範が改められてしまった。
 アジア太平洋戦争では、軍部が天皇を利用し、戦争の責任を問われそうになった天皇は日本国憲法で象徴となり、戦没者の慰霊の旅を重ね、平和のために尽力されてきた。
 平和のために尽力する象徴天皇をたかが政治家が偉そうに娘の即位をさせないとは許しがたい暴挙で、軍部と全く変わらない。

 7月16日、渋谷で高市早苗やめろデモ、壊憲反対デモが開催された。
 中国と戦争をやろうとしている高市首相はあの時の軍部と同じ。
 象徴天皇にいちゃもんをつけ、天皇に弓を引く高市首相を辞めさせなければ日本に希望はない。

2026年07月17日

終わらぬビルマ戦線

 「広角/多角」と題するコラムで、「戦後81年の夏 終わらぬビルマ戦線」というテーマで、戦争の悲惨さを7月12日の読売(深沢淳一取締役編集委員)が伝えていたので、語り継ぐ戦争の立場から書いておく。

 ミャンマーには太平洋戦争の痕跡が驚くほど残っている。独立以来続く内戦などで置き去りにされた遺物は、80年前の記憶をリアルに語りかけてくる。 
 ビルマと呼ばれていた当時、13万人を超える日本兵がビルマ戦線で戦死した。ビルマといえば、軍幹部が食料の補給体制を無視して断行し、壊滅的な犠牲を招いたインパール作戦が語り継がれている。
 兵士が命令で進軍し、退却した街道には白骨街道と呼ばれるほど多くの兵士の骸が栄養失調やマラリアで20〜30bおきに草生す屍となったほどである。
 インパール作戦と共に語り継がれるのは、連合国軍捕虜とアジア人労働者を酷使して突貫で建設した泰緬鉄道で、戦争末期にはタイへの退路になった。
 日本兵の遺骨が多く残る少数民族の勢力地域。少数民族の支援を続ける井本勝幸さんに14年前から協力し、GPSで125柱の位置を記録した。1万3000柱以上の遺骨の手がかりも集めた。
 政府は位置がわかる遺骨をすぐに各勢力から受け取るべきだ。と結ぶ。


 インバール作戦で万死に値するリーダーとして、語り継がれているのが牟田口廉也中将である。
 戦後もおめおめと生き残った将官として、語り継がれているが、考えてみれば、戦争になって、死ぬのは兵士で、軍幹部は戦後もおめおめと生き恥をさらしていることを教えてくれる生きた教材でもあった。

 竹山道雄『ビルマの竪琴』(新潮文庫)を買い求めて読んだのはいつのことだったか。
 映画『ビルマの竪琴』をTVで放送してくれたのを視聴した時も心を揺さぶられた。竪琴の名手だった水島上等兵がビルマ戦線で戦死した仲間の供養をするためにビルマに残る話だった。「水島!一緒に帰ろう!」と戦友が呼びかけたと記憶する。水島は安井昌二が演じていたから、相当古い作品だった。
 竪琴で演奏してくれたのは、埴生の宿だった。

 還暦を過ぎて、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めてから、アジア太平洋戦争のことを学習するようになって、インパール作戦のことを知ったくらい、無知というか、戦争のことは知らないことばかりだった。

 インパール作戦のことを知り、捕虜を死なせてまで工事を急がせた泰緬鉄道のことを知り、今になって、水島上等兵の気持ちが理解できるようになったのは、自分で戦没者の供養の旅をしているからである。

 同時に、戦後81年経って、日本がこれほどまでにダメな国になり、右傾化し好戦派が増えてしまうとは信じられないほどで、自分が生きている間はともかく、いずれ、再び戦争を起こすことだけは間違いないとみている。

 戦争に反対し、平和を希求する立場としては、ビルマ戦線で、白骨街道で斃れた人たちのことをきちんと伝えることで、戦争の悲惨さを一人でも多くの人に知ってもらいたいと願う。

2026年07月14日

宇都宮空襲 戦災展 千人針など記憶伝える

 620人以上が死亡した1945年7月12日の宇都宮空襲から81年となるのを前に、「うつのみやの戦災展」が宇都宮市の宇都宮城址公園清明館で始まった。新たに発見された同市出身の旧海軍軍人の「千人針」をはじめ、戦時下の記録や遺品など約50点を展示し、戦争の記憶を伝えている。8月31日まで。と7月11日の毎日新聞(白川徹記者)WEBが伝えている。

 展示を手がけた市文化都市推進課の大塚雅之さんによると、今回新たに見つかったのは同市出身で旧日本海軍の「機上整備員」だった片山雄さん(1925〜2005年)が所持していた千人針。義理の息子で同市在住の吉成隆志さん(68)がこのほど、市に寄贈した。
 このことを今朝のマイあさラジオが伝えてくれた。

 宇都宮空襲は1945(昭和20)年7月12日、アメリカ軍の爆撃機B29、133機による爆弾は1万5百個で、現在の宇都宮市立中央小学校を中心に半径1・2㌖の範囲に落とされ、罹災者47,976人、罹災世帯数10,603世帯、死者628人、負傷者約1,150人、焼失戸数9,490戸とされている。

 北関東の都市、栃木県宇都宮市には70年代に一度、2000年代にもう一度訪れている。
 前者は仕事で、後者は藤原道山、善養寺惠介の尺八の演奏を聴きに行った。
 語り継ぐ戦争で訪れていれば、ゆっくり市内を巡ったりするが、街を見学する余裕はなかったので感想を述べることができないのが残念である。

 宇都宮空襲の戦災展で「千人針」のことが紹介されたので語り継ぐ戦争の立場から書いておく。
 一枚の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺して縫い玉をつくり,武運と無事を祈って出征兵士に贈ったもの。日清・日露戦争の頃に始まったという。
 武運長久を祈る民間信仰であるが、早く言えば、神頼みである。

 安倍、高市と好戦的な内閣が憲法を改めて、日本を戦争へ戦争へとかじ取りをしている。
 そんな2026年7月9日、記者会見でれいわ新選組の山本太郎代表が代表の辞任と政界からの引退を表明した。
 議員辞職の際、病気であることが明らかにされていたので、病気治療に専念するためだそうな。
 山本太郎代表は過去から今日まで不世出の政治家で、成し遂げた功績は後世に語り継がれる稀有な政治家である。
 戦争に巻き込まれないようにするため、国会に反戦、平和の学者かつ実践してきた伊勢崎賢治さんを送り込んでいるので、彼、毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんが国会で何とか戦争に巻き込まれないように頑張ってくれることを期待している。
 れいわ新選組が解散することになったので、伊勢崎賢治さんを代表にまとまり、平和と人権を守る政党に生まれ変わって活躍してくれることを願っている。
 「千人針」に込められた女性たちの願いはいつの時代も健在であるが、今、戦争前夜みたいな状況になりつつあるときだから、「千人針」に込めるような気持ちで男尊女卑、女性を馬鹿にしている高市政権に戦争反対を強く願い訴えてもらいたい。

2026年07月06日

追悼 美輪明宏さん「愛と祈りの歌」

 6月20日、唯一無二の表現者だと称えられていた美輪明宏さんが亡くなった。91歳だった。
 美輪明宏さんをしのんで、NHKが特番「美輪明宏 愛と祈りの歌」を放送してくれたので書いておく。

 10歳のとき、ナガサキで被爆した美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」と作詞、作曲した時の思いを知ったとき激しく心を揺さぶられた。

 2016年1月4日の読売「時代の証言者」によれば、「歌には2人のモデルがいます。1人は、小学2年の時の同級生のお母さん。授業参観の日、建設現場で働くその方は、はっぴに前掛けをして、隅っこで小さくなっていました。休み時間、子供が鼻水をたらしているのに気づき、抱き寄せ、口でずずっとすすり、窓からぴっと吐き出したのです。「うわあ、汚い」と、周囲の母親は眉をひそめました。私の印象は違います。母親の強い情愛を感じ、お母さんが如来様みたいに輝いて見えたのです。」
 美輪さんは2歳のとき、母親を亡くしていたので、母と子の親子関係が羨ましかったとも。


 「ヨイトマケの唄」といえば、同じ建設現場で働く労働者のことを歌った岡林信康「山谷ブルース」を思い出すが、ヨイトマケの母ちゃんの迫力にはとても及ばない。
 母ちゃんは建設現場で足を引きずっていたらしい。それでも、子どもが来ると毅然として弱いところは見せなかったそうな。

 自由のために発信し始めた初期の頃、2010年に美輪明宏さんの「祖国と女達」という従軍慰安婦のことを歌ったことを取り上げて以降、愛と祈りの表現者として、尊敬する立場から何回か書いている。

 ナガサキに原爆が投下されたとき、美輪さんが目撃した被爆の惨状は筆舌に尽くしがたいほどで、読売だったと思うが、証言された内容は脳裏に焼き付いていたにちがいない。
 この世に神様が存在するとするなら、被爆者でこれだけ生きられたのは、惨状を伝える使命が与えられたからだと推察する。

 語り継ぐ戦争で、次世代に戦争の惨禍を伝えたいと願っているが、自分が生きているうちに、まさかこれほどまでに日本がダメになるとは想像もできないことだった。

 メディアが先頭に立ち、右傾化を進めたからか、選挙で愛国者ではない自民党と補完勢力が圧勝し、愛子様を絶対天皇にさせないという男尊女卑の時代錯誤甚だしいことを言いだし、決めてしまおうとまでやり始めた。

 そんな時代にあって、反戦、平和の立場から愛と祈りの稀有な表現者として大きな影響力があった美輪さんの訃報が流れたのは、岐路に立つ日本にとって大きなダメージとなりそうである。

 このままでは日本はだめになってしまうだろう。
 ヨイトマケの母ちゃんのことを思えば、女性こそ国の宝であり、愛子様を天皇にさせないと画策する自民党と補完勢力は売国奴以外の何者でもない。日本から出て行き、さっさと米国でもどこでも行ったらいい。

 戦争の悲惨さを語り、平和を願う人がどんどん舞台から退場してしまう。
 ご冥福を祈りたい。

2026年06月27日

全戦没者慰霊式の前に「沖縄平和祈願慰霊大行進」

 6月23日の沖縄慰霊の日は過ぎてしまったが、語り継ぐ戦争の立場からはまだ書いていなかったことが見つかったので書いておく。
 慰霊の日に開催される「沖縄全戦没者慰霊式」の前、沖縄県遺族連合会主催「沖縄平和祈願慰霊大行進」の第65回が行われた。
 糸満市のひめゆり平和祈念資料館前から慰霊式会場の摩文仁の平和祈念公園までの約4キロの道のりを戦没者に思いを寄せながら歩くというイベントである。


 1985年に初めて訪れた沖縄。その後、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れること3回、計4回も訪れていながら、地図が頭に入っていなくて今頃反省してもどうにもならないが、平和祈願慰霊大行進でスタート地点となったひめゆり平和祈念資料館から約4`だという平和祈念公園までの道のりが頭に浮かばず、やむを得ず、地図で検索せざるをえなかった。
 すると国道331号を歩けば平和祈念公園にたどりつけることがわかった。
 タクシーで周っているつけが回ってのことだが、さりとて、交通アクセスの点でタクシー以外考えられなかった。4`ならば、若ければ歩いてみるという選択肢もないではなかったかもしれない。

 佐賀県の遺族会が平和祈願慰霊大行進に参加したルポをWEBで伝えてくれているのを見たら、遍路みたいに白装束で横断幕をもって歩いていた。
 そこに、平和祈念公園内にある沖縄戦の佐賀県戦没者の碑「はがくれの碑」にもお参りしたことが記してあった。

 佐賀県戦没者の碑「はがくれの碑」で思い出したことがある。
 平和祈念公園内には、沖縄戦で戦没した敵味方、民族関係なくすべての名前が平和の礎に刻まれている。
 その近くに、戦没者の出身都道府県別に46都道府県の慰霊碑があるのだ。
 とはいうものの、全部確認したわけではない。

 そういえば、同じ街に住み、親しくしている人の親族が平和の礎に名前が刻まれていることから、お参りに行ったということを耳にしたことがある。
 身近なところでも、沖縄戦で戦没した人がいるということになる。

 遺族会による「平和祈願慰霊大行進」のことはほとんど報道されることがなかった。65回も行われていたにもかかわらずである。

 報道されなかったから知らなかったということではないが、もっと広く知ってもらう価値があるイベントではないか。

 それにつけても、沖縄戦に関して知らないことばかりで、学習が足りないと自省の念に駆られる。
 本土の防波堤にされた沖縄は米軍基地の数と面積からして、再びの戦争になれば、日本で一番危険な地域になってしまう。

 それだけに、平和教育が大事であるし、地上戦の犠牲者のことを語り継いでいかなければならない。

2026年06月26日

中2亀谷さん 平和の詩 曽祖母の傷 生き抜いた証

 戦後81年の沖縄の慰霊の日に行われた「沖縄全戦没者追悼式」の事をもう少し書いておきたい。
 自民党と補完勢力が天皇の娘である愛子様を天皇にさせないという滅茶苦茶なことを企み、明治に決まった皇室典範の男系を拠り所に男女平等の世界の趨勢に反することを決めようとしていることに対し、厳しく批判をしてきた。

 今の高市内閣は戦前の軍部とそっくりの強権政治をやっていてけしからんことこの上ない。
 戦前の軍部が天皇を利用して戦争を進めたことに対し、戦争を企図している高市内閣は天皇が反戦主義であることから、その影響力を排除しようとしている。
 日本国憲法で象徴とされた天皇は二度と政治利用されないようになっているが、先の大戦で犠牲となった戦没者の慰霊の旅を親子ともども続けて来られた。
 高市政権が進めている軍国日本の復活に対し、当然、天皇は反対の立場であることは明らかである。
 高市政権を支持している自民党と補完勢力は自分たちが進めている軍国日本に反対の立場である天皇の発言を封じるため、天皇の思いを受け継ぐ愛子天皇を阻止しようとしているのではないか。

 日本で一番戦争に反対するであろう沖縄県民の慰霊の日だからこそ、米軍との地上戦の巻き添えを食らった沖縄県民の声を伝えたい。
 沖縄全戦没者追悼式で、豊見城市立豊崎中2年亀谷琉奈さん(14)が平和の詩を読み上げることを6月23日の読売が夕刊で伝えていた。
 亀谷さんには今は亡き曽祖母がいて、右太ももに10aくらいの傷痕があった。5歳のとき傷痕について尋ねたことから、沖縄戦のことを聞いたことがあるという。
 戦時中のこと、恐怖と不安で曽祖母は握っていた石で太ももをこすってしまい、血だらけになってしまったそうな。
 この傷痕を曽祖母が生き抜いた証として、平和と命の尊さへの思いを込めた。

 鉄の暴風と呼ばれて恐れられた米軍の艦砲射撃、空襲、空爆。<どれほど怖かっただろう どれほど苦しかっただろう 生きたい 死にたくない その思いだけで 曽祖母は必死に生き延びた>と思いやるのだ。

 本土の中学生と言えば、ほとんどが核家族で祖父母や曽祖母と同居の経験がある人は少ないだろう。
 戦争の体験を聴くことができた人もほとんどいないにちがいない。

 語り継ぐ戦争という立場の自分は、父親が召集され、戦地に送られ、運よく、無事に帰国してから生まれた。
 父親が戦争で生き抜いてくれたから、今があることを思えば、自分の子どもには語り継ぐ戦争で、知覧、ナガサキ、ヒロシマそして沖縄と同行してもらい特攻隊、原爆、地上戦、ひめゆりなどの学徒動員などを伝えてきた。

 地上戦を戦い、一家全滅、集団自決、敗戦後の米軍統治、基地が集中している島であればこそ、沖縄県民は二度と戦争に巻き込まれるのはご免だと思っているはずである。

 教育の力は大きい。
 沖縄戦の悲惨さを語り継いでいかなければならない所以である。

2026年06月25日

渡嘉敷島の集団自決で生き残った男性の証言

 沖縄の慰霊の日に行われた「沖縄全戦没者追悼式」の模様を伝える6月23日の読売夕刊のコラム「よみうり寸評」に児童文学作家灰谷健次郎さんの『太陽の子』(理論社)のことが紹介されていた。
 神戸の琉球料理店の娘ふうちゃんが心の病に苦しむ父親から体験した沖縄戦のことを聞き、知っていくという物語だった。
 本の紹介の途中、読売西部本社版で渡嘉敷島で起きた住民の集団自決から生き残った男性の体験を伝えていた記事に触れ、「米軍が迫る中、親戚にこん棒で殴られ、母は亡くなり、自身も頭に傷が残った。その傷を『母と自分をつなぐ唯一の証し』と語る」と概要を教えてくれた。

 自分の目で確かめてみたくなり、6月20日の読売の記事を読んでみた。

 沖縄本島の西方約30キロに浮かぶ沖縄県・ 慶良間諸島の渡嘉敷島(渡嘉敷村)。島北部の山中に、地元で「玉砕場」と呼ばれる場所がある。米軍が島に上陸した翌日の1945年3月28日、一帯では極限状態に置かれた親族らが互いを手にかける「集団自決」が相次いだ。

 島に住む金城健一さん(83)は当時2歳。親族から戦後に聞いた話によると、金城さんをおんぶした母文子さん(当時24歳)は米軍から逃れようと、同じ集落の住民の後を追うように移動。たどり着いたのが、自宅から約5キロ離れた山あいにある玉砕場だった。
 親族同士が鎌で切りつけ合ったり、縄で首を絞め合ったりした。文子さんと金城さんには、こん棒が振り下ろされた。金城さんが一命をとりとめたのは母がかばってくれたからだ。と信じているという。

 県史などによると、渡嘉敷島では330人、座間味島では234人が集団自決で亡くなったとされる。
 沖縄戦では、集団自決などで一家全員が犠牲となったケースも目立つ。県遺族連合会が約30年前、戦後50年に合わせて戦没者名簿を基に一家全滅について調べたところ、確認できただけで1062世帯に上った。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、沖縄戦における集団自決された人々の供養のため、渡嘉敷島を訪れたのは2016年の8月のことだから、もう、10年も経ってしまった。
 島を案内してもらうためにガイドを探し、ご縁があったのか米田さん。彼に依頼できたことが忘れられない出来事になっている。
 本島のときは個人タクシー兼ガイドの外間さんにお世話になっていたが、初めての島で、レンタカーを運転するなんて危ないなと案じていたら、ルール違反らしいが、危ないから運転してくれるということで、集団自決の慰霊碑がある場所など島内を案内していただいた。

 「玉砕場」と呼ばれている集団自決場所に行く、まあ、入口とでも呼べばいいだろうか。そこに慰霊碑があり、そこで、「手向」を吹いた。

 地元に暮らす米田さんは懇切丁寧に案内をしてくれ、島の守備隊と従軍慰安婦の話など大いに学習させていただいた。

 集団自決と一家全滅というのは沖縄戦ならではの悲劇というのか、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚でも激しく心を揺さぶられた。

 集団自決と言えば、語り継ぐ戦争では満州(現中国東北部)における1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻により、逃げ惑う満蒙開拓団など邦人たちが集団自決したことで学習はしていた。

 日本の軍国教育が敵兵、米兵やソ連兵に捕まると、男は殺され、女は凌辱(レイプ)される。というものだったから、絶望すると、自殺することを選ばざるをえなくなったということである。

 しかし、満州では黒川開拓団のように団員の娘たちをソ連軍将校に性奴隷として差し出し、無事引き揚げてきた例もある。

 沖縄では、読谷村のチビチリガマとシムクガマで明暗が分かれた事実がある。
 ハワイ帰りで英語が理解できる人がいたシムクガマは米軍に投降し、集団自決から逃れるも、チビチリガマでは集団自決してしまったのである。

 一家全滅と集団自決は、命を大事にする教育がいかに重要であるか、考えさせられるできごとである。
 灰谷健次郎『太陽の子』(理論社)は買い求めて読んでいる。著者の思いが伝わる沖縄戦のこと、沖縄戦で亡くなったすべての戦没者の死があって、自分が生きている今があるということの意味を肝に銘じ、高市首相の企図する戦争を阻止しなければならない。

2026年06月24日

高市総理スピーチ 沖縄県民怒りのヤジの嵐

 「戦争反対!」「9条を守れ!」「24万人に謝ってこい!」沖縄「慰霊の日」高市総理のスピーチにヤジの嵐というタイトルで、6月23日のABEMA TIMESが伝えていたことについて、語り継ぐ戦争の立場から書いておく。

 23日、沖縄は先の大戦末期の沖縄戦で犠牲になった人々を悼む「慰霊の日」を迎えた。糸満市摩文仁の平和祈念公園では「沖縄全戦没者追悼式」が営まれ、玉城デニー知事や高市総理らが参列し、正午には犠牲者に黙とうがささげられた。式典で高市総理がスピーチをした際、総理の言葉を遮るように多くのヤジが飛び交う一幕があった。


 沖縄における「沖縄全戦没者追悼式」は、年間でも一番大きなイベントである。 
 追悼式だから、厳粛なもので本来、来賓である総理のスピーチにヤジなんて考えられないことである。
 ところが、会場でヤジが飛ぶ、それも、ヤジの嵐だというのだから自分がヤジを受ける立場であったならと考えたら、当然、どうしてなのか考えてみるはずだ。
 
 ところが、高市首相は他候補中傷動画などの国会答弁でうそつきであることが明らかになっていて、いくらヤジられても動ずることはないだろうとみているが、内心は、穏やかではないであろう。
 官僚が書いた作文にしても、やっていること、言っていることとの乖離がこれほどまでにあるとヤジを飛ばした人たちの気持ちが理解できてしまう。
 沖縄の人を困らせている一番の元凶は米軍と米軍基地その裏付けとなっている日米地位協定、日米合同委員会であるから、目を本国の米国に向けてみる。

 米国は欧州の人間が移民となってやってきて、インドだと思って上陸し、原住民のことをインディアンと呼び得意の二枚舌で居留地に追い込み、建国した国である。
 「白人二枚舌、インディアン嘘つかない」と誠実だった彼らは騙され、居留地に追いやられてしまった。

 沖縄県民がインディアンと同じように「高市首相二枚舌、沖縄県民嘘つかない」と言っているのは米軍のために辺野古に新基地がつくられてしまうからだ。

 軍需産業のためにか、はたまた、隷従している米国のためにか「台湾有事に参戦する」と国会答弁し、中国の習近平主席を激怒させたのは、案外本心で、戦争を企図しているとしか思えない。

 スピーチでいくら平和だとか県民の犠牲だとか耳に心地よい言葉を並べても、心がないからヤジを抑える力がない。
 まあ、人徳がないのは、日曜討論をドタキャンしたり、NHKを恫喝したりした過去を県民は忘れていないからだろう。

 高市首相はじめ、自民党と補完勢力の政治家は魂魄の塔や、沖縄戦で一家全滅した屋敷跡に経つ、供養のための参拝所にお参りしたことがないだろう。

 沖縄県民に申し訳なかったという気持ちなどないのに言葉だけ並べてもヤジが飛ぶだけだ。
 総理に心があれば、ヤジを飛ばす県民などいないということを書いておく。

 沖縄戦で犠牲となられたすべての皆さんに供養の祈りを捧げる。というのが語り継ぐ戦争という立場の自分なりの生き方である。

2026年06月23日

『黒牢城』

 月に一度の映画館行き、6月は台湾映画『霧のごとく』を月初めに観ているが、どうしても観ておかなければならない作品として、黒沢清監督『黒籠城』を観てきた。
 原作は、第166回直木賞と第12回山田風太郎賞をダブル受賞した米澤穂信による同名ミステリー小説である。
 昔、映画を観てから読むか、読んでから観るかというコピーが流行ったことがあったが、心身ともに衰えてしまい、残念ながら読書量が大幅に減っていて、読んでいないばかりか、この方面に関して疎くなってしまった。

 時代小説と言えば、山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平、北原亞以子そして、乙川優三郎と読んできたし、これらの作品がかなり映像化されていて、観た作品も少なくない。

 さて、黒牢城は、織田信長に反旗を翻し、有岡城に籠城した家臣荒木村重と説得に派遣されるも城内の牢に幽閉された軍師黒田官兵衛を中心にした物語。
 織田軍勢に包囲され、先行きの見通しが立たない城内で起きる不審な出来事の解決に挑む城主は、幽閉している軍師黒田官兵衛の知恵を借りるべく、犯人捜しの助言を依頼するのだ。
 詳しいストーリーは未だ観ていない人の興趣を削ぐことになるから省略する。

 織田信長は長島の一向一揆、比叡山焼き討ちなど抵抗勢力を残忍にも皆殺しにしたことで知られる武将である。現代になぞらえれば、スターリン、ポル・ポト、金一族、そして毛沢東などの独裁者に似ている。

 因果応報というべきか、最期は家臣の明智光秀に本能寺で殺されるが、首を取られないために己の体に火を放ったことで知られる。

 映画を鑑賞して、大きな影響を受けたこととして、抵抗勢力を皆殺しにした信長と対比させるかのように謀反を起こした家臣の荒木村重が簡単に命を奪うことをしないというように描かれていて、そのコントラストで荒木村重に神というか佛というかの加護があるのかもしれないとスクリーンに目を奪われた。

 その上で、茶人としての素養があったのか茶道具を大事にしていたことが伝わってきたのは、村重を演じた俳優本木雅弘がお点前を見せてくれるシーンがあるのだが、所作が美しく決まっていて、役者というくらいだから、見事なものだと感心した次第である。

 その伴侶千代保を演じた吉高由里子が長島一向一揆の唯ひとりともいえる生き残りだということがわかるのだが、戦国の時代から幕末まで、敗軍の女性は性奴隷にされたり、皆殺しにされるなど男たち以上に過酷な運命に翻弄されるのだ。
 幕末の会津の女性たちが官軍だとされた薩長などの兵士になぶりものにされた史実からもうかがえる。
 このことは先の大戦においても同様の悲劇として起きている。

 命を簡単に奪う信長、殺す必要がないと躊躇う村重。二人を観ていると、なんとなく天罰という言葉が空から降ってくるような気がする。

 興味深い佳い作品だった。
 この映画をたくさんの命が奪われた沖縄戦の沖縄慰霊の日に観ることができたことが忘れられないことになりそうだ。