月に一度の映画館行き、9月は、坂東玉三郎演出、主演、鼓動共演のシネマ歌舞伎『幽玄』を観てきた。
月に一度とはいいながら、無農薬での野菜づくり、草むしり、虫取りで忙しく、映画館に行ける日時が限られている関係で、観たい映画が必ずしも観られるわけではないが、シネマ歌舞伎は、普段なかなか観られない芝居が映画館という身近な場所で2100円で観られるのでありがたい。
『幽玄』は歌舞伎界の女形というより、歌舞伎界のトップランナーで追随するものがいない坂東玉三郎という稀有な役者が佐渡島を本拠地にする太鼓集団鼓動の指導をして17年、過去、公演された作品とは視点を変え、能の世界から、羽衣、娘道成寺、石橋の三作品を玉三郎が鼓動の太鼓で演じると、2000円で買い求めた資料に書いてある。
能については恥ずかしながら勉強不足であるが、羽衣は、三保の松原で天から舞い降りた天女が木にかけていた羽衣を漁師に取られてしまい、舞姿を見せるから、返してほしいと頼むというような筋書きだ。
娘道成寺は、恋の妄執の話で、鐘を見せてほしいと女人禁制の寺にやってきた白拍子が舞姿を見せることで許可を得て、舞を披露するうちに鐘の中に入ってしまい、出てきたときは男女だったというような情炎の物語である。
石橋は、中国の清涼山にある石橋を渡ろうとする法師の前に、童子が現れ、神仏の加護なしには渡れないからしばらく待てというと、やがて、獅子が現れて…。という話だった。
石橋(しゃっきょうと読む)は筝曲にあるので、知っていたが、そういえば、太鼓集団の鼓動のメンバー3人のうち、2人は女性に見えたが、箏を演奏したし、笛を吹く人もいたくらい、皆芸達者だということを知った。
鼓動の本拠地佐渡島といえば、語り継ぐ戦争と遊女、女郎と呼ばれし女性たちへの供養で2017年の8月に訪れているが、鼓動の本拠地には行かれなかった。
しかし、過去、佐渡島で活動した鬼太鼓座のことを紹介した映画を観ているので、佐渡の風土と和太鼓が妙に似合っていることは知っている。
その昔、佐渡金山で働く鉱山労働者の稼いだカネをまきあげるべく、つくられた佐渡の水金遊廓。
廓で働く女郎と金山で働く無宿人の恋を描いた津村節子『海鳴』(文春文庫)を読んで、とうとう、佐渡島に渡ってしまったが、せっかく佐渡に行ったにもかかわらず、鼓動の見学まではできなかったのが残念である。
シネマ歌舞伎『幽玄』というタイトル通り、玉三郎が日本の美を教えてくれたが、この人には早く文化勲章をあげるべきではないか。
2019年09月29日
2019年09月10日
日本の美 庭園
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、この10年、日本全国の慰霊碑を周り、追悼、供養のためにお参りしてきた。
訪ねた街では、戦没者ばかりでなく、虐げられし民、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの慰霊碑があれば、併せてお参りしている。
ただ、自分はこれで、旅の目的を果たしたことになるが、一緒に歩いてくれている連れ合いへの慰労を兼ねて、温泉地に泊ったり、神社仏閣へのお参り、拝観、観光などもしてきた。
神社仏閣では、仏像や文化財よりも庭園に興味関心を持っていて、庭園があれば必ず眺めさせてもらう。
庭園といえば、9月1日の読売、文化の紙面、「本よみうり堂」で「涼を感じる庭編」と題し、枡野俊明さんが水野克比古さんの写真集『京都・禅寺の名庭』(光村推古書院)の書評を担当している。
枡野さんは横浜市にある曹洞宗の禅寺建功寺の住職で、庭園のデザインをすることで知られた人物である。
確か、NHKのEテレだったかで庭園を取り上げていたときに出演していて、この番組を視聴し、名前は知っていた。
わが家は首都圏の田舎町にあって、旧家で、素封家として知られる本家からの分家で、昔のことだから、財産を分けてもらったわけがあったわけではなく、商売で成功した祖父が子どもがいない分の楽しみに庭に池を作り、鯉に餌をやっていたらしい。
池の周囲に松や伽羅や紅葉、モチノキなどを植えていたので、さほど広くはないが、植木職人が毎年、刈込に来ていた。
ところが、方丈記ではないが、没落というのか、件の池は自分が物心ついた時には壊れてしまい、土蔵は漆喰の壁に野球のボールをぶつけて壊してしまい、松、伽羅、紅葉みな枯れてしまい、今では見る影もない、情けない状態になっている。
ただし、昨日の台風15号の大雨がその壊れた池にたまり、雨水の排水池として役立ってはいる。
しかし、子ども心にこの庭で育ったから、長じて庭園に関心を持ることになったのだろう。
庭園の素人ではあるが、日本の庭園は池の周りを歩き、眺める池泉回遊式と呼ばれるものと、禅寺の庭にみられる砂利と石の枯山水と呼ばれるものがあり、枯山水の庭園は、「簡素の美 心の境地」だと枡野さん。
水野さんの写真集では、大徳寺の塔頭大仙院、天竜寺の曹源池庭園、竜安寺の方丈庭園と日本の名園とされている庭園のことが書評で取り上げられていたが、この3カ所は若い頃、一度行ったことがあるが、死ぬまでにもう一度眺めておきたいと意欲がわいてきた。
庭園は写真集で見るのも一興だが、現地に行き、ゆっくり何も考えずに眺めるというのは至福のときである。
訪ねた街では、戦没者ばかりでなく、虐げられし民、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの慰霊碑があれば、併せてお参りしている。
ただ、自分はこれで、旅の目的を果たしたことになるが、一緒に歩いてくれている連れ合いへの慰労を兼ねて、温泉地に泊ったり、神社仏閣へのお参り、拝観、観光などもしてきた。
神社仏閣では、仏像や文化財よりも庭園に興味関心を持っていて、庭園があれば必ず眺めさせてもらう。
庭園といえば、9月1日の読売、文化の紙面、「本よみうり堂」で「涼を感じる庭編」と題し、枡野俊明さんが水野克比古さんの写真集『京都・禅寺の名庭』(光村推古書院)の書評を担当している。
枡野さんは横浜市にある曹洞宗の禅寺建功寺の住職で、庭園のデザインをすることで知られた人物である。
確か、NHKのEテレだったかで庭園を取り上げていたときに出演していて、この番組を視聴し、名前は知っていた。
わが家は首都圏の田舎町にあって、旧家で、素封家として知られる本家からの分家で、昔のことだから、財産を分けてもらったわけがあったわけではなく、商売で成功した祖父が子どもがいない分の楽しみに庭に池を作り、鯉に餌をやっていたらしい。
池の周囲に松や伽羅や紅葉、モチノキなどを植えていたので、さほど広くはないが、植木職人が毎年、刈込に来ていた。
ところが、方丈記ではないが、没落というのか、件の池は自分が物心ついた時には壊れてしまい、土蔵は漆喰の壁に野球のボールをぶつけて壊してしまい、松、伽羅、紅葉みな枯れてしまい、今では見る影もない、情けない状態になっている。
ただし、昨日の台風15号の大雨がその壊れた池にたまり、雨水の排水池として役立ってはいる。
しかし、子ども心にこの庭で育ったから、長じて庭園に関心を持ることになったのだろう。
庭園の素人ではあるが、日本の庭園は池の周りを歩き、眺める池泉回遊式と呼ばれるものと、禅寺の庭にみられる砂利と石の枯山水と呼ばれるものがあり、枯山水の庭園は、「簡素の美 心の境地」だと枡野さん。
水野さんの写真集では、大徳寺の塔頭大仙院、天竜寺の曹源池庭園、竜安寺の方丈庭園と日本の名園とされている庭園のことが書評で取り上げられていたが、この3カ所は若い頃、一度行ったことがあるが、死ぬまでにもう一度眺めておきたいと意欲がわいてきた。
庭園は写真集で見るのも一興だが、現地に行き、ゆっくり何も考えずに眺めるというのは至福のときである。
2019年09月03日
和紙材料ピンチ トロロアオイ農家生産中止か
伝統的な手すき和紙づくりの存続が危機を迎えている。とメデイアが伝えている。
読売が7月30日に、朝日が6月9日にそれぞれ伝えていた。
朝日DIGITALによれば、生産に不可欠なトロロアオイを栽培する茨城県小美玉市の農家5戸が、来年で作付けをやめる方針を決めたからだ。この5戸で全国生産の7、8割を占めており、和紙生産者には大打撃になりかねない。
作付けをやめる最大の理由は高齢化と重労働だ。5戸の農家はいずれも60代〜70代半ば。
2018年、全員で協議のうえ「これ以上続けるのは難しい」と判断した。昨秋の出荷の際、2020年秋以降は生産できないと伝える文書を添えた。
トロロアオイはアオイ科の植物で、秋に収穫する。根からつくる「ねり」は手すき和紙づくりに欠かせない。
日本特産農産物協会のまとめでは、16年度の国内生産量の87%(17トン)、17年度の同67%(13トン)を、小美玉市小川地区で栽培している。
栽培が大変なのは機械化が難しいからだ。商品となる根の部分を太くするために新芽を摘み取る「芽かき」は、夏の炎天下に手作業で行う。農薬に弱く除草剤が使えないため、草取りも手作業だ。重労働が嫌われ、繁忙期のパート従業員を集めるのにも苦労しているという。
同市では約30年前、約50戸が栽培していたという。その後減り続け、ここ数年は、和紙生産者の需要を満たせない状態が続いてきた。以前から農協に苦境を訴えてきたが、国や県から補助金などの支援はないという。
朗報もある。
読売によれば、福井県和紙工業協同組合の五十嵐康三副理事長らが栽培方法を学びに5月、小美玉の農家田上進さん(63)を訪れたという。
和紙や漆を共同で守る試みが始まっていると8月20日の読売が文化財継承の今その2、「つなぐ」で取り上げている。
ここには、トロロアオイのことは書いてなかったが、ユネスコの無形文化遺産に日本の和紙が指定されたことで脚光を浴びるようになった和紙の材料がピンチだというのは放っておけない。
「越前鳥の子紙」、「美濃紙」、石州半紙」がネリにトロロアオイを用いる必要があるというのだから、それぞれの地域でトロロアオイを生産するしかない。
やる気になれば、できないことはないはずだ。
グローバル化だと言い、米国を中心とする多国籍企業がカネ儲けのため、米国政府を動かし、属国となってしまった日本政府を思いのままに操り、横浜にカジノをつくるという。
反米の自分は絶対反対だが、旗振り役が横浜を選挙で地盤とする官房長官だというから決まってしまうかもしれない。
カネ儲けというのは実によろしくない。
和紙はカネ儲けとは程遠いが、歴史を積み重ね、記録が遺されてきたのは和紙があったからである。
パソコンだからペーパーレスだなどといっても、印刷するときは、紙が必要で再生紙では、やがて、変色し、長持ちしない。
若い頃書道をたしなんでいたから、和紙についてはよく知っているし、日本大好き人間の一人だから、障子紙、ふすま、ランプシェードと和紙の効用についてもよく知っているつもりだ。
和紙は日本の宝である。
国策で保護する必要があるものだ。
読売が7月30日に、朝日が6月9日にそれぞれ伝えていた。
朝日DIGITALによれば、生産に不可欠なトロロアオイを栽培する茨城県小美玉市の農家5戸が、来年で作付けをやめる方針を決めたからだ。この5戸で全国生産の7、8割を占めており、和紙生産者には大打撃になりかねない。
作付けをやめる最大の理由は高齢化と重労働だ。5戸の農家はいずれも60代〜70代半ば。
2018年、全員で協議のうえ「これ以上続けるのは難しい」と判断した。昨秋の出荷の際、2020年秋以降は生産できないと伝える文書を添えた。
トロロアオイはアオイ科の植物で、秋に収穫する。根からつくる「ねり」は手すき和紙づくりに欠かせない。
日本特産農産物協会のまとめでは、16年度の国内生産量の87%(17トン)、17年度の同67%(13トン)を、小美玉市小川地区で栽培している。
栽培が大変なのは機械化が難しいからだ。商品となる根の部分を太くするために新芽を摘み取る「芽かき」は、夏の炎天下に手作業で行う。農薬に弱く除草剤が使えないため、草取りも手作業だ。重労働が嫌われ、繁忙期のパート従業員を集めるのにも苦労しているという。
同市では約30年前、約50戸が栽培していたという。その後減り続け、ここ数年は、和紙生産者の需要を満たせない状態が続いてきた。以前から農協に苦境を訴えてきたが、国や県から補助金などの支援はないという。
朗報もある。
読売によれば、福井県和紙工業協同組合の五十嵐康三副理事長らが栽培方法を学びに5月、小美玉の農家田上進さん(63)を訪れたという。
和紙や漆を共同で守る試みが始まっていると8月20日の読売が文化財継承の今その2、「つなぐ」で取り上げている。
ここには、トロロアオイのことは書いてなかったが、ユネスコの無形文化遺産に日本の和紙が指定されたことで脚光を浴びるようになった和紙の材料がピンチだというのは放っておけない。
「越前鳥の子紙」、「美濃紙」、石州半紙」がネリにトロロアオイを用いる必要があるというのだから、それぞれの地域でトロロアオイを生産するしかない。
やる気になれば、できないことはないはずだ。
グローバル化だと言い、米国を中心とする多国籍企業がカネ儲けのため、米国政府を動かし、属国となってしまった日本政府を思いのままに操り、横浜にカジノをつくるという。
反米の自分は絶対反対だが、旗振り役が横浜を選挙で地盤とする官房長官だというから決まってしまうかもしれない。
カネ儲けというのは実によろしくない。
和紙はカネ儲けとは程遠いが、歴史を積み重ね、記録が遺されてきたのは和紙があったからである。
パソコンだからペーパーレスだなどといっても、印刷するときは、紙が必要で再生紙では、やがて、変色し、長持ちしない。
若い頃書道をたしなんでいたから、和紙についてはよく知っているし、日本大好き人間の一人だから、障子紙、ふすま、ランプシェードと和紙の効用についてもよく知っているつもりだ。
和紙は日本の宝である。
国策で保護する必要があるものだ。
2019年01月24日
荒れる竹林 過疎化で放置 竹の用途を考える
所有者による手入れが行き届かず、放置された竹林が全国的に拡大し続けている。竹林は大雨によって地滑りが起こりやすくなるほか、周りの植物の成長を脅かして生態系に悪影響を及ぼすとされる。
こうした危険性を軽減するため、竹林を整備し、伐採した竹を有効活用する動きも出ている。と1月10日の読売が伝えている。
読売によれば、2018年12月中旬熊本県和水町で竹林が地滑りを起こしたが、熊本県森林保全課の山辺峰人課長補佐は「放置された竹林の対策が必要だが、有効な手立てはない」と話す。
17日から風邪かなと思っていたら、翌日から熱発で不調ではあったものの連れ合いが臥せってしまったため何とか頑張ったが、19日にインフルと診断され、そのまま隔離状態で21日まで臥せっていて、ようやく起き出した。
それでも、何とか、快方に向かっているようだが、相変わらず、薬の後遺症で眠りが浅く、持病のクローン病の関係もあって体調はよろしくない。
そんなとき、出勤途上の37歳の女性がインフルの影響か、ホームから線路に転倒し、電車にはねられたニュースが流れて、インフルでも休めないのだと思い知らされ、自分も気持ちを強く持たなければと思い直す。
さて、竹林が手入れが行き届かず、地滑りの原因になっているからということで、竹林バッシングの雰囲気であるが、ここで、竹について、擁護しておきたい。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、全国の慰霊碑を周ってきたが、慰霊碑の前で般若心経などを唱える代わりに自分が虚無僧尺八の世界で伝承されてきた曲を演奏してきた。
この尺八が竹に5つの穴を開けたもので、歌口と呼ばれるところから息を吹き込み、音を鳴らすという楽器だから、竹のお世話にいつもなっている。
竹にはいろいろ種類があり、尺八は真竹で、竹の子を食すのは孟宗竹だ。
竹は成長が早く、繁茂するから、昔から日本では竹細工が盛んである。
麹を使った食材を活用してきたわが国では、みそ、しょうゆ、酒造りが盛んにおこなわれてきたが、そのとき、使われてきたのが木の樽というか桶で、その樽を締めてきた箍が竹である。
桶にもいろいろあり、おひつや手桶など身近なものもある。
桶の命は箍であるといってもいいくらいで、木の桶を箍がしっかり締めてくれてこそ桶が役立つ。
竹細工は以前、取り上げたこともあるが、越前竹人形とか京都の嵯峨野、大分湯布院など日本全国にあるが、工芸品として笊など用途は多い。
竹は炭としても使われている。
このように使われてきたのだから、きちんと竹林を管理させ、有効に活用していく必要があるだろう。
こうした危険性を軽減するため、竹林を整備し、伐採した竹を有効活用する動きも出ている。と1月10日の読売が伝えている。
読売によれば、2018年12月中旬熊本県和水町で竹林が地滑りを起こしたが、熊本県森林保全課の山辺峰人課長補佐は「放置された竹林の対策が必要だが、有効な手立てはない」と話す。
17日から風邪かなと思っていたら、翌日から熱発で不調ではあったものの連れ合いが臥せってしまったため何とか頑張ったが、19日にインフルと診断され、そのまま隔離状態で21日まで臥せっていて、ようやく起き出した。
それでも、何とか、快方に向かっているようだが、相変わらず、薬の後遺症で眠りが浅く、持病のクローン病の関係もあって体調はよろしくない。
そんなとき、出勤途上の37歳の女性がインフルの影響か、ホームから線路に転倒し、電車にはねられたニュースが流れて、インフルでも休めないのだと思い知らされ、自分も気持ちを強く持たなければと思い直す。
さて、竹林が手入れが行き届かず、地滑りの原因になっているからということで、竹林バッシングの雰囲気であるが、ここで、竹について、擁護しておきたい。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、全国の慰霊碑を周ってきたが、慰霊碑の前で般若心経などを唱える代わりに自分が虚無僧尺八の世界で伝承されてきた曲を演奏してきた。
この尺八が竹に5つの穴を開けたもので、歌口と呼ばれるところから息を吹き込み、音を鳴らすという楽器だから、竹のお世話にいつもなっている。
竹にはいろいろ種類があり、尺八は真竹で、竹の子を食すのは孟宗竹だ。
竹は成長が早く、繁茂するから、昔から日本では竹細工が盛んである。
麹を使った食材を活用してきたわが国では、みそ、しょうゆ、酒造りが盛んにおこなわれてきたが、そのとき、使われてきたのが木の樽というか桶で、その樽を締めてきた箍が竹である。
桶にもいろいろあり、おひつや手桶など身近なものもある。
桶の命は箍であるといってもいいくらいで、木の桶を箍がしっかり締めてくれてこそ桶が役立つ。
竹細工は以前、取り上げたこともあるが、越前竹人形とか京都の嵯峨野、大分湯布院など日本全国にあるが、工芸品として笊など用途は多い。
竹は炭としても使われている。
このように使われてきたのだから、きちんと竹林を管理させ、有効に活用していく必要があるだろう。
2018年12月29日
「日本美を守り伝える『紡ぐプロジェクト』
日本美を守り伝える『紡ぐプロジェクト』−皇室の至宝・国宝プロジェクトーが始まることになったと11月30日の読売が伝えている。
文化庁のHPによれば、「文化庁,宮内庁及び株式会社読売新聞グループ本社は、日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」を共同で進めることに合意した。
国宝・重要文化財及び宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵される皇室ゆかりの優品の特別展を開催。
特別展などプロジェクトの収益を活かした文化財修理から美術品を紹介する多言語ポータルサイトの開設運営までを一体的に行う国内初の取組で、平成と次の時代を紡ぐ。」
年の瀬に行く年を振り返ってみて、日本の文化財保護という面で、たいへん、佳いニュースが流れたことを書いておきたい。
国宝、文化財などを展示した収益を、修理に回す、「保存・修理・公開」を一体にするのに、読売が協力するというものである。
読売新聞を生まれる前から購読してきたが、朝日、毎日、読売、産経、東京の中でも、産経と並んで保守的とされ、政治部の記事はまるで安倍自公内閣の機関紙のようで、政権を批判する立場であるはずのジャーナリズムの世界からみれば、情けないダメ新聞である。
内閣の番頭に命じられ、政権に批判的な前川文科省事務次官のことを公安が後をつけまわし調べあげたが、法律に反することなどしていないにもかかわらず、番頭の言うがままにネガテイヴな記事として、個人を貶める記事を掲載して、大いに市民から批判を招いたのも2018年のメデイアの世界で一番のニュースであり、読者を失望させた責任は重大だ。
語り継ぐ戦争で、戦時中、読売が軍の宣伝機関に成り下がり、イケイケで市民を煽った反省もない。
しかし、社会部などは相変わらず、優れた連載などを掲載しており、批判は批判として、佳いこともしているその例として、文化財の修理、保存する費用を公開した時の入場料で賄う、その事業に読売が一役買うというのは大いに結構なことである。
文化財は宝である。
森友に国有財産を不当な価格で払い下げした財務省の役人は売国奴と言われてんも仕方ないと思うが、文化財も国の財産であり、不当に払下げされてはいけないし、大事に保存していく必要がある。
こちらは長い歴史の中で、傷むものだから、修理が欠かせず、その費用の負担をどうするか誰でもわかることで、鑑賞する人が負担の一助を担うというのは理解できることで、文化庁の考えに賛同する。
文化財は長い年月を経て、今日に至るということを考えたとき、市民も協力して、次世代に伝えていかなければならない。
まあ、語り継ぐ戦争と同じで、今の世代の責務である。
文化庁のHPによれば、「文化庁,宮内庁及び株式会社読売新聞グループ本社は、日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」を共同で進めることに合意した。
国宝・重要文化財及び宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵される皇室ゆかりの優品の特別展を開催。
特別展などプロジェクトの収益を活かした文化財修理から美術品を紹介する多言語ポータルサイトの開設運営までを一体的に行う国内初の取組で、平成と次の時代を紡ぐ。」
年の瀬に行く年を振り返ってみて、日本の文化財保護という面で、たいへん、佳いニュースが流れたことを書いておきたい。
国宝、文化財などを展示した収益を、修理に回す、「保存・修理・公開」を一体にするのに、読売が協力するというものである。
読売新聞を生まれる前から購読してきたが、朝日、毎日、読売、産経、東京の中でも、産経と並んで保守的とされ、政治部の記事はまるで安倍自公内閣の機関紙のようで、政権を批判する立場であるはずのジャーナリズムの世界からみれば、情けないダメ新聞である。
内閣の番頭に命じられ、政権に批判的な前川文科省事務次官のことを公安が後をつけまわし調べあげたが、法律に反することなどしていないにもかかわらず、番頭の言うがままにネガテイヴな記事として、個人を貶める記事を掲載して、大いに市民から批判を招いたのも2018年のメデイアの世界で一番のニュースであり、読者を失望させた責任は重大だ。
語り継ぐ戦争で、戦時中、読売が軍の宣伝機関に成り下がり、イケイケで市民を煽った反省もない。
しかし、社会部などは相変わらず、優れた連載などを掲載しており、批判は批判として、佳いこともしているその例として、文化財の修理、保存する費用を公開した時の入場料で賄う、その事業に読売が一役買うというのは大いに結構なことである。
文化財は宝である。
森友に国有財産を不当な価格で払い下げした財務省の役人は売国奴と言われてんも仕方ないと思うが、文化財も国の財産であり、不当に払下げされてはいけないし、大事に保存していく必要がある。
こちらは長い歴史の中で、傷むものだから、修理が欠かせず、その費用の負担をどうするか誰でもわかることで、鑑賞する人が負担の一助を担うというのは理解できることで、文化庁の考えに賛同する。
文化財は長い年月を経て、今日に至るということを考えたとき、市民も協力して、次世代に伝えていかなければならない。
まあ、語り継ぐ戦争と同じで、今の世代の責務である。
2018年10月04日
陶芸と布製品の作品展
昨日、知人の奥方が友人と二人で陶芸と布の作品展を開いているということで行ってきた。
知人は自分よりやや先輩ながら、団塊の世代で、奥方の詳しい年齢は知らなかったが、60代だろうか、見目麗しく、おしとかやという今や、死語ではないかという言葉を思い出してしまったほどである。
容姿はともかく、驚いたのは、並べられている作品の繊細さで、陶芸教室に通い、抹茶碗だけ作り続けたが、落伍してしまった自分から見れば、わずか7年のキャリアだというから、これまた信じられず、よほど、適性があったのだろうとみた。
せっかくだからと、土産に作品を買い求めたが、今も、続けられたと仮定しても、自分にはとてもできないし、やろうとも思わないオリジナルな技なのである。
陶芸は、土と火の芸術である。
土を練り、成形し、素焼き、灰でつくった釉薬をかけ、1000度を超すような高温で長時間焼くわけだが、成形した土にどんな意匠を凝らすかは腕のみせどころで、その意匠が細かい作業で、こつこつと仕上げた様子が伝わってきたから、ただただ、感心するばかりだった。
ギャラリ―内の壁面には、もう一人の女性がつくったという大きなパッチワークキルト、話を訊いてみれば、NHKで放送したテキストで独習したということ。
こちらもびっくりで、はじめは気づかなかったが、反対側の壁面には自分で糸を撚り合わせた布を壁掛けのように飾り、着物をほどいて作ったというバッグが並べられていたのである。
知人の奥方は、友人が来られていた由で、作品を仕上げるときのことを少しばかり、聞いただけだったが、布の作者にはいろいろ質問し、実に興味深いことを訊きだしてしまった。
手に職、自立ということもあったのだろうか、教員をしていた由で、体調を崩してしまい、定年前、50代になって仕事を辞めたが、その後、連れ合いを亡くし、元気をなくした。
このとき、出会ったのが布製品だったというのである。
実は、結城の出身で自宅に織り機があり、子どもの頃から母親手作りの洋服を身に着けていて、姉もその方面に進み、自分も大学を出てから、そちら方面に進みたくなったが、親から反対され、実現しなかったそうな。
今の自分の作品は生活の糧とするにはまだまだ未熟であるが、今や、これが私の生きがいになっている。
伝統工芸というか、親が受け継いできたものを何とか受け継いでいきたいし、日本全国にある伝統工芸すべてに共通していると思うが、皆、継承していってほしいと願っているという。
このことは、毎日、書き続けている中で、時折、自分が伝統工芸、伝統芸能のことを取り上げていることにつながるわけで、趣味とはいえ、実践している人にこんな形で巡り合え、嬉しくなってしまったというわけ。
ただし、加齢で視力が低下ということが大きな問題で、大きなルーペが必要みたいだから、自分が身近にいれば、プレゼントするところだが、何とかこの素晴らしい手工芸を続けてほしいものだと願うばかりである。
シニア世代の生き方を考えるときの一つの参考になることではないか。
知人は自分よりやや先輩ながら、団塊の世代で、奥方の詳しい年齢は知らなかったが、60代だろうか、見目麗しく、おしとかやという今や、死語ではないかという言葉を思い出してしまったほどである。
容姿はともかく、驚いたのは、並べられている作品の繊細さで、陶芸教室に通い、抹茶碗だけ作り続けたが、落伍してしまった自分から見れば、わずか7年のキャリアだというから、これまた信じられず、よほど、適性があったのだろうとみた。
せっかくだからと、土産に作品を買い求めたが、今も、続けられたと仮定しても、自分にはとてもできないし、やろうとも思わないオリジナルな技なのである。
陶芸は、土と火の芸術である。
土を練り、成形し、素焼き、灰でつくった釉薬をかけ、1000度を超すような高温で長時間焼くわけだが、成形した土にどんな意匠を凝らすかは腕のみせどころで、その意匠が細かい作業で、こつこつと仕上げた様子が伝わってきたから、ただただ、感心するばかりだった。
ギャラリ―内の壁面には、もう一人の女性がつくったという大きなパッチワークキルト、話を訊いてみれば、NHKで放送したテキストで独習したということ。
こちらもびっくりで、はじめは気づかなかったが、反対側の壁面には自分で糸を撚り合わせた布を壁掛けのように飾り、着物をほどいて作ったというバッグが並べられていたのである。
知人の奥方は、友人が来られていた由で、作品を仕上げるときのことを少しばかり、聞いただけだったが、布の作者にはいろいろ質問し、実に興味深いことを訊きだしてしまった。
手に職、自立ということもあったのだろうか、教員をしていた由で、体調を崩してしまい、定年前、50代になって仕事を辞めたが、その後、連れ合いを亡くし、元気をなくした。
このとき、出会ったのが布製品だったというのである。
実は、結城の出身で自宅に織り機があり、子どもの頃から母親手作りの洋服を身に着けていて、姉もその方面に進み、自分も大学を出てから、そちら方面に進みたくなったが、親から反対され、実現しなかったそうな。
今の自分の作品は生活の糧とするにはまだまだ未熟であるが、今や、これが私の生きがいになっている。
伝統工芸というか、親が受け継いできたものを何とか受け継いでいきたいし、日本全国にある伝統工芸すべてに共通していると思うが、皆、継承していってほしいと願っているという。
このことは、毎日、書き続けている中で、時折、自分が伝統工芸、伝統芸能のことを取り上げていることにつながるわけで、趣味とはいえ、実践している人にこんな形で巡り合え、嬉しくなってしまったというわけ。
ただし、加齢で視力が低下ということが大きな問題で、大きなルーペが必要みたいだから、自分が身近にいれば、プレゼントするところだが、何とかこの素晴らしい手工芸を続けてほしいものだと願うばかりである。
シニア世代の生き方を考えるときの一つの参考になることではないか。
2018年09月09日
九谷焼生地粘土業者操業再開
日本の伝統芸能、伝統工芸をこよなく愛する日本人の一人として、支援を呼びかける発信をしてきたが、8月25日の読売夕刊の「九谷焼支える土 復活」という見出しが目に留まった。
読売によれば、2月の大雪による被害で工場を閉鎖していた九谷焼生地の粘土業者「二股製土所」(石川県小松市)二股裕代表が今夏、5カ月ぶりに操業を再開したというもの。
一時は廃業も検討したが、産地でわずか2軒しかない粘土業者の復活を願う作家や職人から後押しされ、工場の再建にこぎつけたそうな。
今年の冬、北陸地方は金沢市の降雪量が313aに達したという大雪に見舞われ、二股さんの工場の屋根が雪の重みで崩落し、製土工場の廃止も考えたという。
県によると、九谷焼の売り上げは1990年度の165億円から、2014年度は46億円に激減。かつて10軒ほどあった粘土業者の閉鎖が相次ぎ、2軒にまで減り、かつて、最盛期には10人いた従業員も妻の慶子さんを残すのみとなってしまった。
九谷焼は地元小松市で採れる陶石を砕いて粘土状にした生地に色絵をつけて焼き上げる。
陶芸は好きで、作陶を習ったこともあるが、同じ土いじりの畑が忙しく、両立を諦めた。
教室に通っているとき、薪窯で焼いてもらった湯飲みを愛用しているくらいだし、若い頃、陶芸の全集、(平凡社だったか)を買い求めていたくらいだから、もっと、やりたかったが、あれもこれもというわけにもいかない。
今では、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れた地で、焼き物を土産に買い求めて、自宅で眺めたリ、陶芸の好きな知人への土産に買い求めたりしている。
若い頃、仕事で松任市(今は白山市というのか)を訪れたことがあり、母親に九谷焼の湯飲み、(確か片手くらい)を買い求めたら、絵柄が美しいので喜ばれたが、寄る年波で割ってしまったことを思い出す。
色絵が美しいといえば、知覧を訪ねたとき、薩摩焼の沈壽官さんのところまで見学に行ったことがある。
薩摩焼も色絵が美しく、母親に湯呑を買い求めたら、これもまた大いに喜ばれた。
有田、伊万里、清水など色絵が美しい焼き物の産地があるが、九谷は色絵が美しいということでは、他の産地の製品と並ぶ。
記者が取り上げてくれたのが、九谷焼の縁の下の力持ちである粘土業者のことだったから、余計嬉しいではないか。
表で光り輝くものには、皆裏方がいて、それを支えているのである。
戦没者慰霊で、無縁仏の慰霊碑、遊女、女郎などの供養で墓で手を合わせてきたのも、お参りする人がほとんどいないからということに通じるのではないか。
読売によれば、2月の大雪による被害で工場を閉鎖していた九谷焼生地の粘土業者「二股製土所」(石川県小松市)二股裕代表が今夏、5カ月ぶりに操業を再開したというもの。
一時は廃業も検討したが、産地でわずか2軒しかない粘土業者の復活を願う作家や職人から後押しされ、工場の再建にこぎつけたそうな。
今年の冬、北陸地方は金沢市の降雪量が313aに達したという大雪に見舞われ、二股さんの工場の屋根が雪の重みで崩落し、製土工場の廃止も考えたという。
県によると、九谷焼の売り上げは1990年度の165億円から、2014年度は46億円に激減。かつて10軒ほどあった粘土業者の閉鎖が相次ぎ、2軒にまで減り、かつて、最盛期には10人いた従業員も妻の慶子さんを残すのみとなってしまった。
九谷焼は地元小松市で採れる陶石を砕いて粘土状にした生地に色絵をつけて焼き上げる。
陶芸は好きで、作陶を習ったこともあるが、同じ土いじりの畑が忙しく、両立を諦めた。
教室に通っているとき、薪窯で焼いてもらった湯飲みを愛用しているくらいだし、若い頃、陶芸の全集、(平凡社だったか)を買い求めていたくらいだから、もっと、やりたかったが、あれもこれもというわけにもいかない。
今では、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れた地で、焼き物を土産に買い求めて、自宅で眺めたリ、陶芸の好きな知人への土産に買い求めたりしている。
若い頃、仕事で松任市(今は白山市というのか)を訪れたことがあり、母親に九谷焼の湯飲み、(確か片手くらい)を買い求めたら、絵柄が美しいので喜ばれたが、寄る年波で割ってしまったことを思い出す。
色絵が美しいといえば、知覧を訪ねたとき、薩摩焼の沈壽官さんのところまで見学に行ったことがある。
薩摩焼も色絵が美しく、母親に湯呑を買い求めたら、これもまた大いに喜ばれた。
有田、伊万里、清水など色絵が美しい焼き物の産地があるが、九谷は色絵が美しいということでは、他の産地の製品と並ぶ。
記者が取り上げてくれたのが、九谷焼の縁の下の力持ちである粘土業者のことだったから、余計嬉しいではないか。
表で光り輝くものには、皆裏方がいて、それを支えているのである。
戦没者慰霊で、無縁仏の慰霊碑、遊女、女郎などの供養で墓で手を合わせてきたのも、お参りする人がほとんどいないからということに通じるのではないか。
2018年08月08日
「見番」新築で、街の活性化なるか
昨日、9月に開催する予定の第3回の尺八ライヴに協力させてもらうため、リハーサルに帯同した。
予算の関係で、合奏相手の箏の演奏家をプロに頼めず、代わりに連れ合いが合奏させてもらうということで、主催者側の強みで、かなり無理を通して実現させているが、関係者だけの観客にはそれでも大いに喜ばれている。
さて、首都圏の田舎町に生まれ育ったから、東京23区は無論のこと、東京の市部、横浜、鎌倉などの神奈川などの街の動静にも大いに関心を持ってきた。
東京の市部で歴史のある街、広くて、人口が多い街といえば、八王子であるが、街づくりが上手くいかなかったのか、今や、市部で一番賑やかな街は立川になってしまった。
その証拠に、駅前は賑やかでなく、東京地裁の支部がいつの間にか八王子から立川に移転している。
しかし、絹織物の産地として、歴史のある街だから、その昔の八王子には接客業のプロ、芸妓衆が最盛期には215人を数えたが、絹織物産業の衰退共に芸妓衆の数も80年代には9人にまで減ってしまった。
危機感を抱いた人たち、置屋「ゆき乃恵」をとりしきるめぐみさんらが八王子芸妓の復活を呼びかけ、現在は21人にまで回復し、花街を支える八王子三業組合の事務所「見番」が60年ぶりに新築されたと7月29日の読売が伝えていたそうな。
基地の街だった立川には、戦後、米軍の進駐と共に生活のために米兵相手に春を鬻いだパンパンと呼ばれた女性たちが多数いた。
同じような、接客業ではあるが、三味線、踊りと芸を身に着け、それなりの矜持を抱いた女性たちと躰を張って、星の流れをみつめて生きてきた女性たち。
あれから幾星霜、基地の街では、米軍からの基地返還が進み、併せて、国営の昭和記念公園を誘致し、モノレールの駅を誘致、国営の病院(今は独立行政法人かも?)あり、さらに、北口の駅前開発に成功し、ついに、正月の箱根駅伝の予選会を誘致するまでになった立川。
一方の八王子はといえば、駅前の開発が上手くいかなかったようで、中央線と京王線があるにもかかわらず、両駅が離れていて、不便この上なく、東京地裁の支部も立川に移転されてしまうという事態にようやく、危機感を募らせたのが、行政ではなく、芸妓衆だった。
絹織物の所謂繊維業の衰退といっても、栄枯盛衰はいずこの世界でもつきもので、伝統あるものは、そこから、関係者の工夫と努力で盛り上げていけばいいのである。
その点、接客業のプロの存在は心強い。
接客業はどこの街にもあるが、芸妓衆はいきなり連れてきて、街に馴染むというものではないから、伝統の力で、続いてきた接客業を盛り立てることで、街の活性化にもつながるというものではないか。
「自由のために」毎日書いているが、伝統芸能、伝統工芸は日本大好き人間の一人として、よく取り上げてきた。
花街には、芸妓と、自由を奪われ、廓で生きることを余儀なくされている女郎とよばれし女性たちがいた。
芸妓の所属している置屋、料理屋、待合などの三業種の組合の事務所とされる「見番」は、「検番」とも書くが、三味線や踊りの稽古などをする芸妓にとって、大事な稽古場でもある。
八王子芸妓を盛り立てようと、読売の記者もよく記事にしてきたみたいだが、八王子では接客業のプロをとりあえず、観光資源としていくらしい。
芸妓には伝統芸能の担い手としてエールをくりたい。
若い人の就活に、接客業の一つとして、各地での芸妓への就職ということも選択肢の一つになることを伝えてきた。
これからの日本は景観と神社仏閣などの豊かな観光資源と共に祭りや伝統芸能、工芸など人々が織りなすものに芸妓のおもてなしが加味され、観光客が世界中からやってくるだろうと見込まれる。
卒業した大学の名前を聞くと、恐れ入る演奏家も安定した仕事を捨て、芸能の道に進んだとのことだが、生活の安定とは程遠く、何とか、力になってやりたいと応援してきた。
芸の道は厳しいが、それでも好きなことで食べていけるなら、それはそれで、いいのではないか。
予算の関係で、合奏相手の箏の演奏家をプロに頼めず、代わりに連れ合いが合奏させてもらうということで、主催者側の強みで、かなり無理を通して実現させているが、関係者だけの観客にはそれでも大いに喜ばれている。
さて、首都圏の田舎町に生まれ育ったから、東京23区は無論のこと、東京の市部、横浜、鎌倉などの神奈川などの街の動静にも大いに関心を持ってきた。
東京の市部で歴史のある街、広くて、人口が多い街といえば、八王子であるが、街づくりが上手くいかなかったのか、今や、市部で一番賑やかな街は立川になってしまった。
その証拠に、駅前は賑やかでなく、東京地裁の支部がいつの間にか八王子から立川に移転している。
しかし、絹織物の産地として、歴史のある街だから、その昔の八王子には接客業のプロ、芸妓衆が最盛期には215人を数えたが、絹織物産業の衰退共に芸妓衆の数も80年代には9人にまで減ってしまった。
危機感を抱いた人たち、置屋「ゆき乃恵」をとりしきるめぐみさんらが八王子芸妓の復活を呼びかけ、現在は21人にまで回復し、花街を支える八王子三業組合の事務所「見番」が60年ぶりに新築されたと7月29日の読売が伝えていたそうな。
基地の街だった立川には、戦後、米軍の進駐と共に生活のために米兵相手に春を鬻いだパンパンと呼ばれた女性たちが多数いた。
同じような、接客業ではあるが、三味線、踊りと芸を身に着け、それなりの矜持を抱いた女性たちと躰を張って、星の流れをみつめて生きてきた女性たち。
あれから幾星霜、基地の街では、米軍からの基地返還が進み、併せて、国営の昭和記念公園を誘致し、モノレールの駅を誘致、国営の病院(今は独立行政法人かも?)あり、さらに、北口の駅前開発に成功し、ついに、正月の箱根駅伝の予選会を誘致するまでになった立川。
一方の八王子はといえば、駅前の開発が上手くいかなかったようで、中央線と京王線があるにもかかわらず、両駅が離れていて、不便この上なく、東京地裁の支部も立川に移転されてしまうという事態にようやく、危機感を募らせたのが、行政ではなく、芸妓衆だった。
絹織物の所謂繊維業の衰退といっても、栄枯盛衰はいずこの世界でもつきもので、伝統あるものは、そこから、関係者の工夫と努力で盛り上げていけばいいのである。
その点、接客業のプロの存在は心強い。
接客業はどこの街にもあるが、芸妓衆はいきなり連れてきて、街に馴染むというものではないから、伝統の力で、続いてきた接客業を盛り立てることで、街の活性化にもつながるというものではないか。
「自由のために」毎日書いているが、伝統芸能、伝統工芸は日本大好き人間の一人として、よく取り上げてきた。
花街には、芸妓と、自由を奪われ、廓で生きることを余儀なくされている女郎とよばれし女性たちがいた。
芸妓の所属している置屋、料理屋、待合などの三業種の組合の事務所とされる「見番」は、「検番」とも書くが、三味線や踊りの稽古などをする芸妓にとって、大事な稽古場でもある。
八王子芸妓を盛り立てようと、読売の記者もよく記事にしてきたみたいだが、八王子では接客業のプロをとりあえず、観光資源としていくらしい。
芸妓には伝統芸能の担い手としてエールをくりたい。
若い人の就活に、接客業の一つとして、各地での芸妓への就職ということも選択肢の一つになることを伝えてきた。
これからの日本は景観と神社仏閣などの豊かな観光資源と共に祭りや伝統芸能、工芸など人々が織りなすものに芸妓のおもてなしが加味され、観光客が世界中からやってくるだろうと見込まれる。
卒業した大学の名前を聞くと、恐れ入る演奏家も安定した仕事を捨て、芸能の道に進んだとのことだが、生活の安定とは程遠く、何とか、力になってやりたいと応援してきた。
芸の道は厳しいが、それでも好きなことで食べていけるなら、それはそれで、いいのではないか。
2018年07月21日
戦禍乗り越えた沖縄文化を後世に
1980年代に始まった首里城復元プロジェクトに当初から携わってきた高良倉吉琉球大学名誉教授が7月11日の読売「論点」に登場し、「戦禍を乗り越え、発展してきた沖縄の文化を後世に受け継いでいくことが求められている」と沖縄戦に関心を持つ立場として興味深いことを述べられていた。
高良名誉教授によれば、「2017年春、沖縄県教育委員会が研究者を動員して、沖縄県史の各論として沖縄戦を刊行している。
沖縄では、立場や主義主張はともかく、沖縄を語る原点に共有すべき歴史的事実として沖縄戦が厳然と横たわる。
沖縄戦では住民の4人に1人が命を失った。生き延びた4人に3人が戦後の沖縄、米軍統治や「基地オキナワ」という現実に生活者として向き合った。
沖縄芸能の担い手たち、沖縄空手の継承者たち、染織や陶芸、漆器など伝統工芸の担い手たちも戦後、それぞれ活動を始めたのである。
技芸や記憶としての無形文化遺産はそれを担う人材が生き続けるかぎり、過酷な沖縄戦でも絶やすことはできなかった。
沖縄芸能の担い手たちが見せたのは、したたかで、しなやかな文化的応対だった。
芸能や工芸の担い手たちは、自分という存在を工夫しながら発揮できるソフトパワーを堅持していたが、その原点は450年に渡って存続した琉球王国であった。
その拠り所が首里城であり、だから、首里城の復元が価値があり、沖縄の文化を後世に受け継いでいくことが求められる」と結ぶ。
自分と沖縄との関わりの原点は、やはり、沖縄戦である。
父親が遺してくれたのであろう、石野徑一郎『ひめゆりの塔』(河出書房市民文庫)、昭和26年に初版で、28年に7版とある。たぶん、中学生の時に読んで心を揺さぶられたからだ。
1953年に今井正監督で映画化された『ひめゆりの塔』の原作だから香川京子と津島恵子の美しい女学生姿の写真が表紙にある。
この映画はTVで放送したときに観ている。
その後、1995年に神山征二郎監督で映画されたときの原作は仲宗根政善の『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』であるが、こちらは映画館で観た。
沖縄に都合4回行っているので、復元した首里城にも運転手兼ガイド氏の案内で行ったことがあるが、やはり、かつて450年も琉球王国があったというくらいだから、日本とは異なる文化が伝承されているので、この文化をぜひとも、きちんと伝承してほしいと願う。
先だって、「軍隊は女性を守らないin沖縄」のパネル展を観てきたが、沖縄は、戦争中は日本軍に酷い目に遭わされ、戦後は、進駐してきた米兵に多くの女性たちが性的暴行されてきた。
鬼畜米兵は、沖縄の女児に襲いかかるという本国でも絶対許されない卑劣な性犯罪を多発させてもいる。
しかし、沖縄の市民は、米国の統治下においても、辺野古の美しい海を米国によって、無理やり性的暴行されるかのように埋め立てられてしまう2018年の今も、いかに理不尽な目に遭っても、沖縄戦を生き延び、伝統芸能や工芸に向かってきたしたたかさ、しなやかさで自分たちが先祖から受け継いできた文化を大事にしてきた。
先祖供養の芸能エイサー、武道の世界でその名が轟く沖縄空手、芭蕉布、紅型染め、壺屋焼などの伝統工芸品、どれをとっても、沖縄の風土とそこで生きてきた人々が育んできた琉球魂が伝わってくる芸能、武道、逸品ばかりである。
沖縄が戦時中から、戦後の今日まで、本土の犠牲にされ、満蒙開拓団員の如く、棄民とされてきたが、県民はよくぞこらえてくれたものである。
沖縄に自然の力そのままに光が当たり、米軍基地のない沖縄、青い海の沖縄を取り戻せるように神に祈りたい。
高良名誉教授によれば、「2017年春、沖縄県教育委員会が研究者を動員して、沖縄県史の各論として沖縄戦を刊行している。
沖縄では、立場や主義主張はともかく、沖縄を語る原点に共有すべき歴史的事実として沖縄戦が厳然と横たわる。
沖縄戦では住民の4人に1人が命を失った。生き延びた4人に3人が戦後の沖縄、米軍統治や「基地オキナワ」という現実に生活者として向き合った。
沖縄芸能の担い手たち、沖縄空手の継承者たち、染織や陶芸、漆器など伝統工芸の担い手たちも戦後、それぞれ活動を始めたのである。
技芸や記憶としての無形文化遺産はそれを担う人材が生き続けるかぎり、過酷な沖縄戦でも絶やすことはできなかった。
沖縄芸能の担い手たちが見せたのは、したたかで、しなやかな文化的応対だった。
芸能や工芸の担い手たちは、自分という存在を工夫しながら発揮できるソフトパワーを堅持していたが、その原点は450年に渡って存続した琉球王国であった。
その拠り所が首里城であり、だから、首里城の復元が価値があり、沖縄の文化を後世に受け継いでいくことが求められる」と結ぶ。
自分と沖縄との関わりの原点は、やはり、沖縄戦である。
父親が遺してくれたのであろう、石野徑一郎『ひめゆりの塔』(河出書房市民文庫)、昭和26年に初版で、28年に7版とある。たぶん、中学生の時に読んで心を揺さぶられたからだ。
1953年に今井正監督で映画化された『ひめゆりの塔』の原作だから香川京子と津島恵子の美しい女学生姿の写真が表紙にある。
この映画はTVで放送したときに観ている。
その後、1995年に神山征二郎監督で映画されたときの原作は仲宗根政善の『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』であるが、こちらは映画館で観た。
沖縄に都合4回行っているので、復元した首里城にも運転手兼ガイド氏の案内で行ったことがあるが、やはり、かつて450年も琉球王国があったというくらいだから、日本とは異なる文化が伝承されているので、この文化をぜひとも、きちんと伝承してほしいと願う。
先だって、「軍隊は女性を守らないin沖縄」のパネル展を観てきたが、沖縄は、戦争中は日本軍に酷い目に遭わされ、戦後は、進駐してきた米兵に多くの女性たちが性的暴行されてきた。
鬼畜米兵は、沖縄の女児に襲いかかるという本国でも絶対許されない卑劣な性犯罪を多発させてもいる。
しかし、沖縄の市民は、米国の統治下においても、辺野古の美しい海を米国によって、無理やり性的暴行されるかのように埋め立てられてしまう2018年の今も、いかに理不尽な目に遭っても、沖縄戦を生き延び、伝統芸能や工芸に向かってきたしたたかさ、しなやかさで自分たちが先祖から受け継いできた文化を大事にしてきた。
先祖供養の芸能エイサー、武道の世界でその名が轟く沖縄空手、芭蕉布、紅型染め、壺屋焼などの伝統工芸品、どれをとっても、沖縄の風土とそこで生きてきた人々が育んできた琉球魂が伝わってくる芸能、武道、逸品ばかりである。
沖縄が戦時中から、戦後の今日まで、本土の犠牲にされ、満蒙開拓団員の如く、棄民とされてきたが、県民はよくぞこらえてくれたものである。
沖縄に自然の力そのままに光が当たり、米軍基地のない沖縄、青い海の沖縄を取り戻せるように神に祈りたい。
2018年05月19日
深江の菅笠づくり
文化財の保存・修復に多大な貢献をした個人や団体を顕彰する「第12回読売あをによし賞」本賞に菅笠をはじめとする伝統的な菅細工の製作技術を継承してきた「深江菅細工保存会」が選ばれたと5月2日の読売が伝えていた。
読売によれば、大阪市東成区深江地区で、16人の会員がカヤツリグサ科の植物カサスゲを使って菅笠や円座、釜敷きなどの菅細工を作り、小学生らに技法を教えているという。
会長の島谷真由美さん(53)は、「地域ぐるみでコツコツ続けてきた活動が評価され、大変光栄。伝統文化を継承する使命感、責任感が増しました」と喜んでいるそうな。
深江の菅笠づくりは第11代垂仁天皇の頃、大和の国で菅加工を職能とした笠縫氏が湿地帯で菅が豊富だった深江に移住したのが起源だと伝わる。
竹の骨組みに約150本の菅を1本づつ縫い込んでいく。直径50aの笠を作るのに約5000針、30時間はかかるという。
熟練した技術が求められ、1人前になるのに5年は必要だというから、農閑期の女性が担ってきた仕事としては、たいへんな労力だったのであろう。
こうもり傘の普及などで需要が減少するや、50年代には菅田が姿を消し、80年代には菅細工を作るのは島谷さんの母親幸田正子さん(80)だけになってしまった。
「技術が途絶えてしまうと危機感を募らせた幸田さんは88年に保存会を結成。07年には地元の公園に菅田を復元、その後、大阪市の指定文化財、大阪府の伝統工芸品になっている。
菅笠といえば、越中福岡の菅笠が有名で、国の重要無形民俗文化財に指定されているくらいで、そのシェアも90%だというから、知名度では劣るかもしれないが、深江の菅笠づくりの方も伝統があり、伝承されていってほしい。
面積は狭くとも、畑で有機無農薬の野菜作りをしているから、農作業で、菅笠を被ってみたいとも思っているが、風が強いと顎のところで縛らないと飛ばされてしまうのが煩わしい。
菅笠はじめ、被り物は昔からいろいろあった。
尺八を吹くから、虚無僧が被った天蓋と呼ばれる深編笠にも関心がないわけではないが、托鉢などしないから、買い求めるところまでいかない。
ということで、需要が少ないというのは仕方ないことだが、菅細工は笠だけではないので、技術を伝承させることには大いにエールをおくる。
統計を確認したわけではないが、手仕事、細工物に関わってきた人が認知症になったということを耳にしたことがない。
これからは、認知症対策として、若い頃から、伝統工芸に携わる人を増やしていくことも行政は考えた方がいいのではないか。
連れ合いの母親は、先年旅立ったが、生前、手工芸というのか、弁当を入れる袋など皆、手製でつくっていて、だからか、躰は衰えても、頭ははっきりしていた。
ここに、認知症対策のポイントがあるとみているが、さて、どうだろうか。
読売によれば、大阪市東成区深江地区で、16人の会員がカヤツリグサ科の植物カサスゲを使って菅笠や円座、釜敷きなどの菅細工を作り、小学生らに技法を教えているという。
会長の島谷真由美さん(53)は、「地域ぐるみでコツコツ続けてきた活動が評価され、大変光栄。伝統文化を継承する使命感、責任感が増しました」と喜んでいるそうな。
深江の菅笠づくりは第11代垂仁天皇の頃、大和の国で菅加工を職能とした笠縫氏が湿地帯で菅が豊富だった深江に移住したのが起源だと伝わる。
竹の骨組みに約150本の菅を1本づつ縫い込んでいく。直径50aの笠を作るのに約5000針、30時間はかかるという。
熟練した技術が求められ、1人前になるのに5年は必要だというから、農閑期の女性が担ってきた仕事としては、たいへんな労力だったのであろう。
こうもり傘の普及などで需要が減少するや、50年代には菅田が姿を消し、80年代には菅細工を作るのは島谷さんの母親幸田正子さん(80)だけになってしまった。
「技術が途絶えてしまうと危機感を募らせた幸田さんは88年に保存会を結成。07年には地元の公園に菅田を復元、その後、大阪市の指定文化財、大阪府の伝統工芸品になっている。
菅笠といえば、越中福岡の菅笠が有名で、国の重要無形民俗文化財に指定されているくらいで、そのシェアも90%だというから、知名度では劣るかもしれないが、深江の菅笠づくりの方も伝統があり、伝承されていってほしい。
面積は狭くとも、畑で有機無農薬の野菜作りをしているから、農作業で、菅笠を被ってみたいとも思っているが、風が強いと顎のところで縛らないと飛ばされてしまうのが煩わしい。
菅笠はじめ、被り物は昔からいろいろあった。
尺八を吹くから、虚無僧が被った天蓋と呼ばれる深編笠にも関心がないわけではないが、托鉢などしないから、買い求めるところまでいかない。
ということで、需要が少ないというのは仕方ないことだが、菅細工は笠だけではないので、技術を伝承させることには大いにエールをおくる。
統計を確認したわけではないが、手仕事、細工物に関わってきた人が認知症になったということを耳にしたことがない。
これからは、認知症対策として、若い頃から、伝統工芸に携わる人を増やしていくことも行政は考えた方がいいのではないか。
連れ合いの母親は、先年旅立ったが、生前、手工芸というのか、弁当を入れる袋など皆、手製でつくっていて、だからか、躰は衰えても、頭ははっきりしていた。
ここに、認知症対策のポイントがあるとみているが、さて、どうだろうか。
2018年05月11日
「信三郎帆布」のものづくり
夕べ、5月10日の「カンブリア宮殿」が面白かったので書いておく。
帆布を使ったバッグで関心のある人なら誰でも知っているブランド京都の一澤信三郎の主が出演し、帆布を使った製品販売のこだわりを村上龍に問われ、吐露していたのである。
番組のHPによれば、「京都に1軒だけ。オンライン販売なし。社員は全員職人を兼ねる。売っているのは帆布のカバンが中心。けれど長年の熱烈なファンに支えられる老舗。「お家騒動」の時代を経て自社ブランド「一澤信三郎帆布」を立ち上げ、復活。100年前の創業当時と変わらないビジネススタイル。時代に遅れ続ける老舗カバンが愛される秘密に迫る。」というもの。
お家騒動も過去のこととはいえ、世間を騒がせたから、その方面に興味のある人なら、よく知っているだろう。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を巡礼のように訪ね始めてから、頭を丸め煩悩を捨て去ったはずだが、実際には、これが難しい。
身だしなみは加齢とともに、しゃれっ気などとっくになくなったが、実用面では、便利さを優先しつつ、それなりのこだわりもある。
信三郎帆布というわけにはいかないが、自分が愛用しているバッグも布製で、色は赤、肩にかけ持ち歩けるようになっている。
出かけるとき、身に着けるジャケットに似合うかどうかわからない。
実は刑務所の受刑者がつくったもので、受刑者の更生のために買い求め、更生を願い、持ち歩いてきた。
他の人が持っていないので、変り者だと自覚している自分としては結構気に入っている。
書いておきたかったのは、ネット販売はやらない、生産者と消費者というか、使用者の距離が近い分、流通経費が掛からない、支店もつくらないという一見時代遅れともいうべき商法ながら、根強い人気に支えられ売れ行きは好調だという点である。
月に一度出かける映画館で、あるとき、茂木綾子監督ドキュメンタリー映像詩『島の色 静かな声』という映画のプログラムを頂戴したのが手許にあり、沖縄の西表島で繭から絹糸を紡ぎ、植物を使い染色し、機を織る芭蕉布の作家石垣昭子さんとその連れ合い石垣金星にスポットを当てて、映画を作り、上映されたらしい。
その石垣昭子さんが、ゴミになるようなものはつくりたくないと、機を織るときの気持ちを述べられている。」
全く、そのとおりで、信三郎帆布も傷めば修理してくれるということで、米国型使い捨て社会とは全く正反対の道を行く。
石垣昭子さんの芭蕉布、信三郎帆布共に、これからの日本のものづくりの一つの形を示唆する。
バッグといえば、カネがあれば、自分の連れ合いなどは、すぐにフランスやイタリアのブランドバッグをほしがりそうだが、そういうブランドに全く興味、関心がない自分としては、信三郎帆布を持ち歩くようなこだわりは大好きだ。
当然、それなりの値段がするはずだが、一つくらい持っていたいような気がしないでもない。
ただし、刑務所の受刑者がつくったバッグは、犯罪被害者支援を訴え、究極の犯罪被害者支援は犯罪を減らすことだ、為に、受刑者の更生が重要だという持論を唱える自分としては、こちらも持ち続けていくつもりである。
帆布を使ったバッグで関心のある人なら誰でも知っているブランド京都の一澤信三郎の主が出演し、帆布を使った製品販売のこだわりを村上龍に問われ、吐露していたのである。
番組のHPによれば、「京都に1軒だけ。オンライン販売なし。社員は全員職人を兼ねる。売っているのは帆布のカバンが中心。けれど長年の熱烈なファンに支えられる老舗。「お家騒動」の時代を経て自社ブランド「一澤信三郎帆布」を立ち上げ、復活。100年前の創業当時と変わらないビジネススタイル。時代に遅れ続ける老舗カバンが愛される秘密に迫る。」というもの。
お家騒動も過去のこととはいえ、世間を騒がせたから、その方面に興味のある人なら、よく知っているだろう。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を巡礼のように訪ね始めてから、頭を丸め煩悩を捨て去ったはずだが、実際には、これが難しい。
身だしなみは加齢とともに、しゃれっ気などとっくになくなったが、実用面では、便利さを優先しつつ、それなりのこだわりもある。
信三郎帆布というわけにはいかないが、自分が愛用しているバッグも布製で、色は赤、肩にかけ持ち歩けるようになっている。
出かけるとき、身に着けるジャケットに似合うかどうかわからない。
実は刑務所の受刑者がつくったもので、受刑者の更生のために買い求め、更生を願い、持ち歩いてきた。
他の人が持っていないので、変り者だと自覚している自分としては結構気に入っている。
書いておきたかったのは、ネット販売はやらない、生産者と消費者というか、使用者の距離が近い分、流通経費が掛からない、支店もつくらないという一見時代遅れともいうべき商法ながら、根強い人気に支えられ売れ行きは好調だという点である。
月に一度出かける映画館で、あるとき、茂木綾子監督ドキュメンタリー映像詩『島の色 静かな声』という映画のプログラムを頂戴したのが手許にあり、沖縄の西表島で繭から絹糸を紡ぎ、植物を使い染色し、機を織る芭蕉布の作家石垣昭子さんとその連れ合い石垣金星にスポットを当てて、映画を作り、上映されたらしい。
その石垣昭子さんが、ゴミになるようなものはつくりたくないと、機を織るときの気持ちを述べられている。」
全く、そのとおりで、信三郎帆布も傷めば修理してくれるということで、米国型使い捨て社会とは全く正反対の道を行く。
石垣昭子さんの芭蕉布、信三郎帆布共に、これからの日本のものづくりの一つの形を示唆する。
バッグといえば、カネがあれば、自分の連れ合いなどは、すぐにフランスやイタリアのブランドバッグをほしがりそうだが、そういうブランドに全く興味、関心がない自分としては、信三郎帆布を持ち歩くようなこだわりは大好きだ。
当然、それなりの値段がするはずだが、一つくらい持っていたいような気がしないでもない。
ただし、刑務所の受刑者がつくったバッグは、犯罪被害者支援を訴え、究極の犯罪被害者支援は犯罪を減らすことだ、為に、受刑者の更生が重要だという持論を唱える自分としては、こちらも持ち続けていくつもりである。
2018年04月21日
着物で街を歩く
「いま風 水曜日」「粋」と題し、読売が連載しているが、4月11日にNPO法人代表藤井美登利さんをナビゲーターに小江戸として、近年よく旅番組などで紹介されている埼玉県は川越で、着物を着て街に出ようと呼びかけている。
藤井さんは欧州の航空会社で働き、観光で訪れた川越をすっかり気に入り、都内から転居し、2001年から川越のタウン誌「小江戸物語」を発行しているそうな。
紙面には、着物姿が素敵な藤井さんが川越の街を友人と散策し、買い物を楽しんでいる様子が写されていて、確かに、川越の街に着物がよく似合っていることが理解できる。
藤井さんは18年前から「着物を身近な暮らしに取り戻したい」と着物姿で川越の街を散歩する集まりを開いている。
着物というと高額なイメージがあるが、カジュアルな木綿や中古品なら数千円から手に入れることはできるし、手持ちの着物がなければ、借りてもいい。
古い街並みのある観光地なら着物のレンタルショップがあるところも多く、手ぶらで訪れても、着物姿になることができるという。
「まずは、自宅や実家のタンスで眠っている着物を思い出してみることから始めませんか」と藤井さん。
日本大好き人間の一人として、日本の伝統工芸や伝統芸能など日本の文化に関係するものとして、織物を取り上げたときだったか、着物のことも書いたことがあるような気がする。
近年、日本の佳さを外国人に教えてもらう事例が少なくない。
日本の古民家の水回り、トイレや暖房などをリフォームし、住みよくして提供しているドイツ人のカールさん、京都大原に居をを構え、大都会に出られる交通アクセスのよさと四季の豊かさがある日本の山里暮らしの楽しさを教えてくれているイギリス人のベニシアさん。
夏目漱石の研究で知られる米国人のキャンベルさんは、民芸に関心があるとのことで、TV番組に出演するとき、着物姿だった。とりあえず、思いつくままに3人の名前が挙がる。
着物は今や、歌舞伎などの古典芸能や職人、芸妓など接客業など職業とかかわりの深い人たちのものとなってしまった感がなきにしも非ずであるが、職業とは関係なく、単純に着物姿を楽しむ人がいることを知り嬉しくなってしまった。
京都、奈良、鎌倉など古都と呼ばれる街、そして、少し異なる雰囲気であるが、小江戸と称される川越といずれも着物姿がよく似合う。
齢を重ね、もう何時お迎えが来てもおかしくないが、そろそろ、自分にしても、連れ合いにしても、タンスに眠る母親の着物にもう一度、光を当ててやりたいと願っている。
ふだんの生活では、余裕がないと着物姿になれないが、若い頃みたTVドラマの父親のように仕事が終わった夕方以降は何とか着物を着られるように心がけ、その第一歩として、作務衣を着てみようかな思案している。
こちらは、煩悩を捨て去るため、頭を丸めているからお似合いとなるかも。
藤井さんは欧州の航空会社で働き、観光で訪れた川越をすっかり気に入り、都内から転居し、2001年から川越のタウン誌「小江戸物語」を発行しているそうな。
紙面には、着物姿が素敵な藤井さんが川越の街を友人と散策し、買い物を楽しんでいる様子が写されていて、確かに、川越の街に着物がよく似合っていることが理解できる。
藤井さんは18年前から「着物を身近な暮らしに取り戻したい」と着物姿で川越の街を散歩する集まりを開いている。
着物というと高額なイメージがあるが、カジュアルな木綿や中古品なら数千円から手に入れることはできるし、手持ちの着物がなければ、借りてもいい。
古い街並みのある観光地なら着物のレンタルショップがあるところも多く、手ぶらで訪れても、着物姿になることができるという。
「まずは、自宅や実家のタンスで眠っている着物を思い出してみることから始めませんか」と藤井さん。
日本大好き人間の一人として、日本の伝統工芸や伝統芸能など日本の文化に関係するものとして、織物を取り上げたときだったか、着物のことも書いたことがあるような気がする。
近年、日本の佳さを外国人に教えてもらう事例が少なくない。
日本の古民家の水回り、トイレや暖房などをリフォームし、住みよくして提供しているドイツ人のカールさん、京都大原に居をを構え、大都会に出られる交通アクセスのよさと四季の豊かさがある日本の山里暮らしの楽しさを教えてくれているイギリス人のベニシアさん。
夏目漱石の研究で知られる米国人のキャンベルさんは、民芸に関心があるとのことで、TV番組に出演するとき、着物姿だった。とりあえず、思いつくままに3人の名前が挙がる。
着物は今や、歌舞伎などの古典芸能や職人、芸妓など接客業など職業とかかわりの深い人たちのものとなってしまった感がなきにしも非ずであるが、職業とは関係なく、単純に着物姿を楽しむ人がいることを知り嬉しくなってしまった。
京都、奈良、鎌倉など古都と呼ばれる街、そして、少し異なる雰囲気であるが、小江戸と称される川越といずれも着物姿がよく似合う。
齢を重ね、もう何時お迎えが来てもおかしくないが、そろそろ、自分にしても、連れ合いにしても、タンスに眠る母親の着物にもう一度、光を当ててやりたいと願っている。
ふだんの生活では、余裕がないと着物姿になれないが、若い頃みたTVドラマの父親のように仕事が終わった夕方以降は何とか着物を着られるように心がけ、その第一歩として、作務衣を着てみようかな思案している。
こちらは、煩悩を捨て去るため、頭を丸めているからお似合いとなるかも。
2018年04月12日
日本の屋根を考える
NHKが放送している「美の壺」という日本の伝統工芸を愛する者にとっては、大いにエールを送りたい番組がある。
視聴しているわけではないが、先般、日本の屋根のことをとりあげていたらしい。
番組のHPによれば、「ある時は雨や風をしのぐ役割として、またある時は建物の「顔」として存在感を放つ「屋根」。
京都・東寺の屋根に使われるヒノキの皮むきや、ふき替え作業の匠の技。1400年前に作られた現役の瓦とは?建築家・隈研吾さん、彫刻家・名和晃平さんが生み出す、伝統と現代が融合した現代の屋根とは?!さまざまな屋根の魅力に迫る。」と内容が要約されていた。
5月近くになると、子どもの頃、「こいのぼり」♪甍の波と 雲の波♪作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎を歌ったものだが、このとき、甍の意味など考えたこともなかった。
その後、『方丈記』の大好きな一節、「無常のことわり」の部分で、「玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍を争える」というところの甍とは屋根を意味していることを知った次第である。
その後、甍のことを何となく、瓦屋根と思い込んでいたが、方丈記の書かれた時代に目をやれば、瓦屋根だと様相が異なると解説に書いてあった。
実はわが家にある古い家は、昭和の初めに建築された平屋の日本家屋で、当時は、屋根が重くなるからとスレート瓦と銅を使っていたらしいのだが、父親が亡くなってから、屋根が壊れ、ふつうの瓦と金属の屋根に替えた。あれから、もう40年は経つだろうか。
このままだと、東日本大震災クラスの地震があれば、建物が倒壊する恐れがあるため、今、葺き替えの資金を何とかしたいと思案している。
そんなわけで、屋根には大いに関心があるというわけ。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国を周っているから、神社仏閣にもよく立ち寄る。
そんな時、建物の屋根に目が向く。
小林茂監督のドキュメンタリー映画『風の波紋』では、越後の妻有の山村で、茅葺き屋根の葺き替えを住民が総出で協力して成し遂げていた。
神社、仏閣では、瓦を使ったり、金属を使ったり、それぞれであるが、同じ金属でも銅を使っているから、年数が経つと、緑青が湧き、錆びないので、塗装の必要がない。
東寺で使っているという、ヒノキの皮を使った屋根は一般的には茶室にも使われているが、これは、もう滅多に見かけないだけに、職人の技は、貴重である。
屋根の材質に美的なものを感じていたのが、これからは、太陽光を活用するためにソーラーパネルを敷き詰めることになっていくだろうから、様相も変わっていく。
『方丈記』によれば、ゆく河の流れは絶えずして、もとの水にあらずで、住宅も元のままにあるというのは非常に少ないそうな。
たかが屋根ではないのである。
路上生活者になってしまえば、雨露をしのげる、という有難味を日々感じさせてくれることになるからだ。
視聴しているわけではないが、先般、日本の屋根のことをとりあげていたらしい。
番組のHPによれば、「ある時は雨や風をしのぐ役割として、またある時は建物の「顔」として存在感を放つ「屋根」。
京都・東寺の屋根に使われるヒノキの皮むきや、ふき替え作業の匠の技。1400年前に作られた現役の瓦とは?建築家・隈研吾さん、彫刻家・名和晃平さんが生み出す、伝統と現代が融合した現代の屋根とは?!さまざまな屋根の魅力に迫る。」と内容が要約されていた。
5月近くになると、子どもの頃、「こいのぼり」♪甍の波と 雲の波♪作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎を歌ったものだが、このとき、甍の意味など考えたこともなかった。
その後、『方丈記』の大好きな一節、「無常のことわり」の部分で、「玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍を争える」というところの甍とは屋根を意味していることを知った次第である。
その後、甍のことを何となく、瓦屋根と思い込んでいたが、方丈記の書かれた時代に目をやれば、瓦屋根だと様相が異なると解説に書いてあった。
実はわが家にある古い家は、昭和の初めに建築された平屋の日本家屋で、当時は、屋根が重くなるからとスレート瓦と銅を使っていたらしいのだが、父親が亡くなってから、屋根が壊れ、ふつうの瓦と金属の屋根に替えた。あれから、もう40年は経つだろうか。
このままだと、東日本大震災クラスの地震があれば、建物が倒壊する恐れがあるため、今、葺き替えの資金を何とかしたいと思案している。
そんなわけで、屋根には大いに関心があるというわけ。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国を周っているから、神社仏閣にもよく立ち寄る。
そんな時、建物の屋根に目が向く。
小林茂監督のドキュメンタリー映画『風の波紋』では、越後の妻有の山村で、茅葺き屋根の葺き替えを住民が総出で協力して成し遂げていた。
神社、仏閣では、瓦を使ったり、金属を使ったり、それぞれであるが、同じ金属でも銅を使っているから、年数が経つと、緑青が湧き、錆びないので、塗装の必要がない。
東寺で使っているという、ヒノキの皮を使った屋根は一般的には茶室にも使われているが、これは、もう滅多に見かけないだけに、職人の技は、貴重である。
屋根の材質に美的なものを感じていたのが、これからは、太陽光を活用するためにソーラーパネルを敷き詰めることになっていくだろうから、様相も変わっていく。
『方丈記』によれば、ゆく河の流れは絶えずして、もとの水にあらずで、住宅も元のままにあるというのは非常に少ないそうな。
たかが屋根ではないのである。
路上生活者になってしまえば、雨露をしのげる、という有難味を日々感じさせてくれることになるからだ。
2018年03月30日
東京の無形文化財 村山大島紬
東京の瑞穂町に伝わる伝統的織物「村山大島紬」の講演とファッションショーが同町の郷土資料館「けやき館で、3月24日に開かれると同日の読売が伝えていた。
読売によれば、村山大島紬は、同町や武蔵村山市で生産されてきた絹織物で、多彩な模様が特徴。都の無形文化財にも指定されている。
けや木館のHPによれば、村山大島紬は日本三大紬の一つに数えられる民芸紬で、瑞穂町では大正8年に本格的に生産を開始した。その人気は今でも変わらず、瑞穂を代表する伝統工芸である。
講演会では、実際に村山大島紬を作られていた職人さん(村山大島紬伝承会の方々)から、伝統や製造工程など職人しかわからないことや、村山大島紬への思いを伺うことができたそうな。
折々、日本の伝統工芸、伝統芸能などを取り上げてきたが、今回は、東京の紬、村山大島紬である。
紬といえば、すぐに浮かぶのが結城紬であり、大島ということになろうか。
ところが、何の世界でもそうだが、三大紬ということになれば、いろいろな意見があるかもしれない。
紬といえば、思いつくままに、久米島、上田、米沢、郡上、塩沢、そして牛首紬というのもあったような気がする。
村山大島紬というくらいだから、大島紬の範疇に数えられるのかもしれない。
着物は日本が世界に誇る伝統の民族衣装であるが、なかなか着る機会がない。
そういえば、2015年の年末に寺で、一度袴をつけたことを思い出した。
滅多に着ることがないので、以前は自分で袴を着けたのにそのときは着付けを手伝ってもらった。
紬の着物は持っていないが、公式には着用しないと母親に教えてもらったことがある。
つくる手間を考えれば高価なことは理解できるが、カネ持ちの道楽みたいでは、需要面で心配である。
やはり、伝統工芸を護り育てていくには、需要面が大事なので、もっと、着物を買い求める、身につける機会が身近にある社会にしていかなければならない。
読売によれば、村山大島紬は、同町や武蔵村山市で生産されてきた絹織物で、多彩な模様が特徴。都の無形文化財にも指定されている。
けや木館のHPによれば、村山大島紬は日本三大紬の一つに数えられる民芸紬で、瑞穂町では大正8年に本格的に生産を開始した。その人気は今でも変わらず、瑞穂を代表する伝統工芸である。
講演会では、実際に村山大島紬を作られていた職人さん(村山大島紬伝承会の方々)から、伝統や製造工程など職人しかわからないことや、村山大島紬への思いを伺うことができたそうな。
折々、日本の伝統工芸、伝統芸能などを取り上げてきたが、今回は、東京の紬、村山大島紬である。
紬といえば、すぐに浮かぶのが結城紬であり、大島ということになろうか。
ところが、何の世界でもそうだが、三大紬ということになれば、いろいろな意見があるかもしれない。
紬といえば、思いつくままに、久米島、上田、米沢、郡上、塩沢、そして牛首紬というのもあったような気がする。
村山大島紬というくらいだから、大島紬の範疇に数えられるのかもしれない。
着物は日本が世界に誇る伝統の民族衣装であるが、なかなか着る機会がない。
そういえば、2015年の年末に寺で、一度袴をつけたことを思い出した。
滅多に着ることがないので、以前は自分で袴を着けたのにそのときは着付けを手伝ってもらった。
紬の着物は持っていないが、公式には着用しないと母親に教えてもらったことがある。
つくる手間を考えれば高価なことは理解できるが、カネ持ちの道楽みたいでは、需要面で心配である。
やはり、伝統工芸を護り育てていくには、需要面が大事なので、もっと、着物を買い求める、身につける機会が身近にある社会にしていかなければならない。
2018年03月15日
漆工芸の技継ぐ
「ホットぷれいす東京2018」というタイトルで読売が東京で一つのことに取り組んでいる場所や人を紹介する連載をしている。
その3月4日で、荒川区西尾久の漆器職人(塗師)(ぬしと読むらしい)の角光男さん(70)の工房で、職人見習いをしている女性伊藤有加さん(26)に教える様子が写真と共に掲載されている。
「ものづくりをしたかった」という伊藤さん。伝統工芸の職人への弟子入りを荒川区がサポートする事業をインターネットで知り応募。区登録無形文化財保持者である角さんの下で働く。
職人といえば、師匠の仕事を盗んで覚えろとか、寡黙で怖いイメージがあるが、伊藤さんの手元を見つめる角さんの目は優しく、口調は穏やかだ。
「怒ってどうにかなるものではない。自分で考えてやってみて、失敗しながら成長してほしい」と話す。
工房には弟子入りして6年目になる塚本真理恵さん(27)という先輩もいる。
3月14日、昨日の読売の「人生案内」に「就活が上手くいかない」、面接で必ず落ちたという男子大学生からの相談が取り上げられていた。
相談者は、自分が面接官だったら自分のような人間は採用しないだろうと自己分析していたが、「人は必ずハッピーでなければならないのか、友人がいないとダメなのか、働くには熱意がないといけないのか」と自分にはない人としての根本的な問いを抱え込んでいるということで、回答者の哲学者鷲田清一さんは、一人でもできる仕事として、職人や農業、はたまた、動物の飼育員などを就活先にしてみてはどうかと的を得たアドバイスをおくる。
哲学者ならずとも、自分でも、この相談者には農業を勧めたいところだが、職人の世界も実はピッタリだろうと考えた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚ではあるが、全国の慰霊碑を周るうち、日本の風土や、景観、土産などから、日本の伝統工芸への関心が高くなり、ここでも取り上げることが多い。
漆工芸を東京荒川で職人が若い女性に指導している様子で驚いたのは、「怒っても技が身につくわけではない」と思っていたイメージとは異なり、職人がやさしかったことである。
確かに、今どき、怖い顔して、すぐ怒鳴るなどという人なら、誰も、そんな人のところにはいかないだろうけど。
漆工芸のことは以前にも書いたがことがあるし、日本の伝統工芸として、滅びることなど考えられないほど伝統もあり、用途もあるので、将来性もまず心配ない。
あとは、この世界の技を継いでいく後継者をどうやって育てていくかである。
伊藤さんのような若い人にエールをおくりたい。
その3月4日で、荒川区西尾久の漆器職人(塗師)(ぬしと読むらしい)の角光男さん(70)の工房で、職人見習いをしている女性伊藤有加さん(26)に教える様子が写真と共に掲載されている。
「ものづくりをしたかった」という伊藤さん。伝統工芸の職人への弟子入りを荒川区がサポートする事業をインターネットで知り応募。区登録無形文化財保持者である角さんの下で働く。
職人といえば、師匠の仕事を盗んで覚えろとか、寡黙で怖いイメージがあるが、伊藤さんの手元を見つめる角さんの目は優しく、口調は穏やかだ。
「怒ってどうにかなるものではない。自分で考えてやってみて、失敗しながら成長してほしい」と話す。
工房には弟子入りして6年目になる塚本真理恵さん(27)という先輩もいる。
3月14日、昨日の読売の「人生案内」に「就活が上手くいかない」、面接で必ず落ちたという男子大学生からの相談が取り上げられていた。
相談者は、自分が面接官だったら自分のような人間は採用しないだろうと自己分析していたが、「人は必ずハッピーでなければならないのか、友人がいないとダメなのか、働くには熱意がないといけないのか」と自分にはない人としての根本的な問いを抱え込んでいるということで、回答者の哲学者鷲田清一さんは、一人でもできる仕事として、職人や農業、はたまた、動物の飼育員などを就活先にしてみてはどうかと的を得たアドバイスをおくる。
哲学者ならずとも、自分でも、この相談者には農業を勧めたいところだが、職人の世界も実はピッタリだろうと考えた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚ではあるが、全国の慰霊碑を周るうち、日本の風土や、景観、土産などから、日本の伝統工芸への関心が高くなり、ここでも取り上げることが多い。
漆工芸を東京荒川で職人が若い女性に指導している様子で驚いたのは、「怒っても技が身につくわけではない」と思っていたイメージとは異なり、職人がやさしかったことである。
確かに、今どき、怖い顔して、すぐ怒鳴るなどという人なら、誰も、そんな人のところにはいかないだろうけど。
漆工芸のことは以前にも書いたがことがあるし、日本の伝統工芸として、滅びることなど考えられないほど伝統もあり、用途もあるので、将来性もまず心配ない。
あとは、この世界の技を継いでいく後継者をどうやって育てていくかである。
伊藤さんのような若い人にエールをおくりたい。
2018年03月09日
畳縁トートバッグ
「ぶらり街色企業」、「ハンドメイドアイテムHandmadeItem」「畳縁トートバッグ」「(株かぐらや」という広告が3月6日の読売に掲載されている。
日本の伝統工芸である畳の縁を使ったハンドメイドのバッグであるが、畳は伝統工芸でも、畳の縁を使ったトートバッグづくりはこれから伝統工芸になっていけばいいなとの願いを込めて取り上げておく。
読売によれば、この会社のある倉敷市児島地区は、織物や縫製などアパレル産業が盛んなところで、畳縁の生産でも全国トップクラスのシェアを誇る。
特産品の畳縁を使ったこの会社のバッグは山本泰社長の母親が洋服を引き立たせるために作ったのが始まりで、「個性が光るデザインと驚くほどの軽さが魅力」だというコピーが目を惹く。
価格は10800円だとのこと。
子どもの頃、畳の部屋で育ったし、今、自分の部屋も畳が敷いてあるが、本やら資料、CDなどで足の踏み場もないほどで、連れ合いが仕事を辞めたら、一緒に片づけてもらう約束ができている。
片付いたら、本当は畳の表替えをしたいところだが、これまでも、先送りされてきたから、もうわが家に畳職人がが入らなくなってから随分経つ。
畳縁については、若い頃茶道教室に少し通ったことがあり、そのときから畳縁を踏まないことを意識するようになった気がする。
だから、畳縁に関する意識が高く、ハンドメイドの畳縁トートバッグの広告を見つけ、応援したくなったというわけ。
未だ、畳のように伝統工芸というところまでいかないが、肝心な畳が、洋風志向で廃れつつあるから、せめて、畳縁がこんな素敵なバッグに生まれ変わるなら、自分の連れ合いにも持ってほしいと願う。
畳の佳さを知る外国人に教えられ、いずれ、わが国でも、畳が見直されることもあるだろう。
それにつけても、育った環境がその人の人生に与える影響というものは大きい。
家の周りに欅があったり、庭木が多かったから、緑化とか、樹木の有難味を知っているし、畳の家で育ったから、イグサなどの有難味もわかるという具合にである。
日本の佳さを外国人に教えられることが多いが、もう一度、身の回りを振り返って日本の佳さを見直していきたい。
日本の伝統工芸である畳の縁を使ったハンドメイドのバッグであるが、畳は伝統工芸でも、畳の縁を使ったトートバッグづくりはこれから伝統工芸になっていけばいいなとの願いを込めて取り上げておく。
読売によれば、この会社のある倉敷市児島地区は、織物や縫製などアパレル産業が盛んなところで、畳縁の生産でも全国トップクラスのシェアを誇る。
特産品の畳縁を使ったこの会社のバッグは山本泰社長の母親が洋服を引き立たせるために作ったのが始まりで、「個性が光るデザインと驚くほどの軽さが魅力」だというコピーが目を惹く。
価格は10800円だとのこと。
子どもの頃、畳の部屋で育ったし、今、自分の部屋も畳が敷いてあるが、本やら資料、CDなどで足の踏み場もないほどで、連れ合いが仕事を辞めたら、一緒に片づけてもらう約束ができている。
片付いたら、本当は畳の表替えをしたいところだが、これまでも、先送りされてきたから、もうわが家に畳職人がが入らなくなってから随分経つ。
畳縁については、若い頃茶道教室に少し通ったことがあり、そのときから畳縁を踏まないことを意識するようになった気がする。
だから、畳縁に関する意識が高く、ハンドメイドの畳縁トートバッグの広告を見つけ、応援したくなったというわけ。
未だ、畳のように伝統工芸というところまでいかないが、肝心な畳が、洋風志向で廃れつつあるから、せめて、畳縁がこんな素敵なバッグに生まれ変わるなら、自分の連れ合いにも持ってほしいと願う。
畳の佳さを知る外国人に教えられ、いずれ、わが国でも、畳が見直されることもあるだろう。
それにつけても、育った環境がその人の人生に与える影響というものは大きい。
家の周りに欅があったり、庭木が多かったから、緑化とか、樹木の有難味を知っているし、畳の家で育ったから、イグサなどの有難味もわかるという具合にである。
日本の佳さを外国人に教えられることが多いが、もう一度、身の回りを振り返って日本の佳さを見直していきたい。
2018年02月18日
伝統的工芸品日本三大古代布「しな布」
全国各地の伝統的工芸品を集めた企画展「暮らしに寄り添う、ニッポンの美。伝統的工芸品展WAZA2018」が東京は豊島区の東武百貨店池袋本店で2月16日から21日まで開催されると15日の読売がくらしの紙面で伝えている。
詳しくは「伝統的工芸品産業振興協会」へ。だとのこと。
国が指定した伝統的工芸品230品目のうち、岩手県の南部鉄器や東京都の江戸切子、石川県の九谷焼など86品目が展示販売される。
職人による実演や宮城の伝統こけし、長崎のべっ甲などを製作体験できるコーナーもあるみたい。
今朝、18日のNHK「小さな旅」が、選集として、「雪景色の中で」を放送し、新潟県は村上市の山熊田集落を取り上げ、日本三大古代布の一つ、「しな布」を紹介していた。
番組を視聴していたわけでなく、時計代わりに電源ONにしているTVがいつもNHKであることが多く、たまたま、山間の集落の冬の仕事として紹介されていたのが目に留まったというわけ。
この集落は昭和50年代頃までは、冬の4カ月は雪で閉ざされ、孤立した暮らしを送っていたというから、人々の忍耐力は半端ない地域である。
「しな布」はシナの木の樹皮を剥ぎ、糸にし、糸績みするという大変な作業でできるらしいのだが、雪に閉ざされる4か月間、この地区の女性は生き抜くため、必死で作業したのであろう。
雪国の暮らしがどれほど厳しいものかは、2018年になって、日本海側とりわけ、福井や新潟、内陸では、山形の肘折地区などでの豪雪で、雪下ろしなどでの事故で亡くなったという哀しいニュースが流れるたび、想像するだけで、自分なら逃げ出してしまいそうだ。
連れ合いの両親が越後それも信越の豪雪地帯妙高の出身で、亡くなる前に一度、墓参りを兼ねて、行って来てほしいと暗黙の願いに応え、今は限界集落となっている寒村を2回訪ねたことがある。
連れ合いの母親は先年亡くなる直前まで、指先が器用で、手作りの布製品をこさえる特技があり、為に、認知症にもならなかった。
連れ合いが愛用している弁当を入れる布製の袋は、それは素晴らしい出来栄えで、朝、弁当を袋に入れるたび、いつも、連れ合いの母親のことを思い出す。
田舎を訪ね、今も健在な本家を訪問した時、昔は豪雪のとき、2階から出入りしたとか、屋敷の裏手に大きな池があり、雪はそこに捨てたなどと当代の女将さんが話してくれたことも懐かしい。
伝統工芸品は、国指定のモノだけで、230品目もあるとのことだが、職人というか、携わってきた人たちは普通の労働者が定年となったのちも、皆、一様に元気であることから、認知症予防には絶対といっていいほど指先を使うことが役立つはずだ。
伝統工芸品は、クールジャパンとしても、もっと積極的に買い求められるように国が販売促進に力を入れていかなければならない。
東京は池袋に行くことなど滅多にないので、ついでがあれば、立ち寄りたいし、行かれなかったとしても、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、今夏、あるいは秋に行く予定の岐阜県などで、一品買い求めることで、ささやかながら、伝統工芸品を応援していくつもりである。
詳しくは「伝統的工芸品産業振興協会」へ。だとのこと。
国が指定した伝統的工芸品230品目のうち、岩手県の南部鉄器や東京都の江戸切子、石川県の九谷焼など86品目が展示販売される。
職人による実演や宮城の伝統こけし、長崎のべっ甲などを製作体験できるコーナーもあるみたい。
今朝、18日のNHK「小さな旅」が、選集として、「雪景色の中で」を放送し、新潟県は村上市の山熊田集落を取り上げ、日本三大古代布の一つ、「しな布」を紹介していた。
番組を視聴していたわけでなく、時計代わりに電源ONにしているTVがいつもNHKであることが多く、たまたま、山間の集落の冬の仕事として紹介されていたのが目に留まったというわけ。
この集落は昭和50年代頃までは、冬の4カ月は雪で閉ざされ、孤立した暮らしを送っていたというから、人々の忍耐力は半端ない地域である。
「しな布」はシナの木の樹皮を剥ぎ、糸にし、糸績みするという大変な作業でできるらしいのだが、雪に閉ざされる4か月間、この地区の女性は生き抜くため、必死で作業したのであろう。
雪国の暮らしがどれほど厳しいものかは、2018年になって、日本海側とりわけ、福井や新潟、内陸では、山形の肘折地区などでの豪雪で、雪下ろしなどでの事故で亡くなったという哀しいニュースが流れるたび、想像するだけで、自分なら逃げ出してしまいそうだ。
連れ合いの両親が越後それも信越の豪雪地帯妙高の出身で、亡くなる前に一度、墓参りを兼ねて、行って来てほしいと暗黙の願いに応え、今は限界集落となっている寒村を2回訪ねたことがある。
連れ合いの母親は先年亡くなる直前まで、指先が器用で、手作りの布製品をこさえる特技があり、為に、認知症にもならなかった。
連れ合いが愛用している弁当を入れる布製の袋は、それは素晴らしい出来栄えで、朝、弁当を袋に入れるたび、いつも、連れ合いの母親のことを思い出す。
田舎を訪ね、今も健在な本家を訪問した時、昔は豪雪のとき、2階から出入りしたとか、屋敷の裏手に大きな池があり、雪はそこに捨てたなどと当代の女将さんが話してくれたことも懐かしい。
伝統工芸品は、国指定のモノだけで、230品目もあるとのことだが、職人というか、携わってきた人たちは普通の労働者が定年となったのちも、皆、一様に元気であることから、認知症予防には絶対といっていいほど指先を使うことが役立つはずだ。
伝統工芸品は、クールジャパンとしても、もっと積極的に買い求められるように国が販売促進に力を入れていかなければならない。
東京は池袋に行くことなど滅多にないので、ついでがあれば、立ち寄りたいし、行かれなかったとしても、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、今夏、あるいは秋に行く予定の岐阜県などで、一品買い求めることで、ささやかながら、伝統工芸品を応援していくつもりである。
2018年01月21日
和ろうそく
日本の伝統工芸などを紹介する読売の「いま風 水曜日」1月10日に「和ろうそく ぬくもりのある光」という見出しで、和ろうそく職人の田川広一さんがナビゲーターとなり、日本古来の明かりを取り上げていた。
読売によれば、京都にある「中村ろうそく」は、1887年創業の老舗で、田川さんは、ここに88年に入り、2007年に4代目として事業を継承している。
和ろうそくは、神棚や仏壇を置かない家庭が増え、現代の生活からは消えつつあるが、ぬくもりのある光は人々を魅了してきた。
ろうの主原料は、ウルシ科の植物、ハゼの実から搾り取った油。和歌山や九州に自生する木から採取し、現地の職人が油を搾り取って固形のろうに加工する。
芯は細い筒状にした和紙に、イグサの髄を巻き付けたもの。専門の職人がつくっている。
煙や液だれが少なく、汚れもこびりつかないのが和ろうそくの特徴。
京都を中心に多くを神社や仏閣に納めているという田川さん。
「さっと拭き取れ、ろうが残ってもお湯で流せる」そうな。
色や形で用途が異なり、白は日々の明かり、葬儀などで、朱色は正月や盆などという具合である。
四季の花を描いた絵ろうそくは生花の代わりの供え、火はつけず、インテリア小物としても注目されている。
「仏像や掛け軸の絵などに繊細な表情を与え、舞妓さんの白塗りも美しい肌色に見せてくれる光。日本の文化に根付いた趣がある」という田川さんは「忘れられないように守り抜きたい」と語す。
明かり、灯りとも書くが、実に不思議な魅力がある。
暗い所を照らす、明るくするのが役目だが、蛍光灯にも蛍光色というのか昼光色というのか、これと自然な明かりに近い白色があるが、基本的に電気と火を灯すろうそくとは、その趣は全くと言っていいほど異なる。
照明ということで考えてみれば、その部屋で何をするかで、付随して、使用される明かりもかわってくるというもの。
人間のやることというか、嗜好はいろいろあるが、神社、仏閣などは明るければいいというものではないし、証明によっても焼けるというか変色するということだってあるかもしれない。
一方で、大人の男と女が使う場所、出会い茶屋や今は姿を変えたであろう遊廓なども明るすぎては差しさわりもでてくるだろう。
和ろうそくといえば、溶かしたろうをろうそくの芯にまとわせて太くする作業をTVで視聴したことがある。
職人は熱くて大変だろうが、何とかこのまま、生産が続いてほしいと強く願う。
ろうそくといえば、生活が困窮し、光熱水費の支払いが滞ると電気、ガス、水道の順に止められる。
そこで、電気が止まったら、ろうそくの出番である。ろうそくといっても普通のろうそくだ。
水道は公園の水、ついでにトイレも公園で済ませても、電気はろうそくを使用して、その不始末で、火事になったというニュースが流れたことがあった。
神棚や仏壇がなくなるということで、文化が変わっていくにしても、神社仏閣がなくなることはないはずだから、和ろうそくは、必要とされるところで生き続けることはできるだろうとエールを送りたい。
読売によれば、京都にある「中村ろうそく」は、1887年創業の老舗で、田川さんは、ここに88年に入り、2007年に4代目として事業を継承している。
和ろうそくは、神棚や仏壇を置かない家庭が増え、現代の生活からは消えつつあるが、ぬくもりのある光は人々を魅了してきた。
ろうの主原料は、ウルシ科の植物、ハゼの実から搾り取った油。和歌山や九州に自生する木から採取し、現地の職人が油を搾り取って固形のろうに加工する。
芯は細い筒状にした和紙に、イグサの髄を巻き付けたもの。専門の職人がつくっている。
煙や液だれが少なく、汚れもこびりつかないのが和ろうそくの特徴。
京都を中心に多くを神社や仏閣に納めているという田川さん。
「さっと拭き取れ、ろうが残ってもお湯で流せる」そうな。
色や形で用途が異なり、白は日々の明かり、葬儀などで、朱色は正月や盆などという具合である。
四季の花を描いた絵ろうそくは生花の代わりの供え、火はつけず、インテリア小物としても注目されている。
「仏像や掛け軸の絵などに繊細な表情を与え、舞妓さんの白塗りも美しい肌色に見せてくれる光。日本の文化に根付いた趣がある」という田川さんは「忘れられないように守り抜きたい」と語す。
明かり、灯りとも書くが、実に不思議な魅力がある。
暗い所を照らす、明るくするのが役目だが、蛍光灯にも蛍光色というのか昼光色というのか、これと自然な明かりに近い白色があるが、基本的に電気と火を灯すろうそくとは、その趣は全くと言っていいほど異なる。
照明ということで考えてみれば、その部屋で何をするかで、付随して、使用される明かりもかわってくるというもの。
人間のやることというか、嗜好はいろいろあるが、神社、仏閣などは明るければいいというものではないし、証明によっても焼けるというか変色するということだってあるかもしれない。
一方で、大人の男と女が使う場所、出会い茶屋や今は姿を変えたであろう遊廓なども明るすぎては差しさわりもでてくるだろう。
和ろうそくといえば、溶かしたろうをろうそくの芯にまとわせて太くする作業をTVで視聴したことがある。
職人は熱くて大変だろうが、何とかこのまま、生産が続いてほしいと強く願う。
ろうそくといえば、生活が困窮し、光熱水費の支払いが滞ると電気、ガス、水道の順に止められる。
そこで、電気が止まったら、ろうそくの出番である。ろうそくといっても普通のろうそくだ。
水道は公園の水、ついでにトイレも公園で済ませても、電気はろうそくを使用して、その不始末で、火事になったというニュースが流れたことがあった。
神棚や仏壇がなくなるということで、文化が変わっていくにしても、神社仏閣がなくなることはないはずだから、和ろうそくは、必要とされるところで生き続けることはできるだろうとエールを送りたい。
2017年12月28日
伝統工芸品 海外で注目
2017年も年の瀬を迎え、行く年を振りかえってしまうということで、昨日は、犯罪被害者支援の立場から人間が鬼畜になってしまったのかと思わせる事件のことを取り上げた。
語り継ぐ戦争をメインに、犯罪被害者支援を訴えてもいる一方で、日本大好き人間の一人として、農業や林業の振興、さらには、日本の文化、伝統工芸、伝統芸能などの伝承と更なる飛躍を願って書いてきたから、本日は、伝統工芸のことを書いておく。
日本の手仕事が生む工芸品が海外で注目を集めている。と12月25日の読売がクールの紙面で「POPstylecool IloveJpn」と題し、「伝統工芸品 世界へ飛躍」という見出しで伝えている。
伝統を守りながら海外進出に成功した例がある一方、輸出や販路開拓には課題も多い。
今秋には金沢市で、国際化や観光との関わりをテーマにした国際会議も開かれ、新たな工芸のあり方を模索する様子を知らせてくれた。
1902(明治35)年創業の南部鉄器製造の大手、岩鋳(盛岡市)の急須は欧米で人気を集め、「イワチュー」は南部鉄器の代名詞となっているという。
輸出に力を入れるようになったのは平成になってからのことだそうで、フランスの紅茶専門店から、急須にフランス人の好む色をつけてくれないかと依頼があり、職人や塗料メーカーと相談し、試行錯誤の上、ついに樹脂でパステルカラーの着色に成功、安全面でも欧州の厳しい製品検査をクリア。フランスから欧州、米国へと人気が広まった。
さらに、2010年の上海国際博覧会では、中国茶に合うと鉄瓶に注目が集まり、中国輸出が急増し、中国人観客が工房に押しかけるようになっている。
成功例がある一方で、工芸品の海外進出には課題も少なくない。
国もクールジャパン戦略で市場開拓を推進するが、物質規制の障壁など越えなければならない課題もある。
石川県内では今秋、工芸の祭典「21世紀鷹峯フォーラムが開かれた。2年前に京都、昨2016年は東京で開催してきたフォーラムの最終回で、工芸を内外で広め、次世代につなげていく方策を探った。
伝統芸能の一つである邦楽の仲間に入れてもらい、毎月、レッスンを受け、慰霊のための行脚で役立たせてもらっている。
家元制度など、いい面がある反面、よくない面もあるから、自分は、そういうしがらみとは全く離れて楽しんできた。
芸能も工芸も根底にあるものはそう大きく変わらないと思っている。
共通しているのは、需要と供給ということで、需要は多い方がいいに決まっているが、だからといって、座して待っていて、需要が増えることはない。
やはり、工芸品でみれば、販路の開拓が一番大きな問題で、後継者の育成という課題もあるが、需要が伸びれば、必然的に後継者だって増えるようになっていく。
南部鉄器を例にすれば、フランスの人は流石に目が高い。触発されたのかして、欧州、米国の人も南部鉄器のよさがわかっている点で、日本人の方が学ばなければならないだろう。
わが家を例にするなら、わが家のやかんはブリキというか、ふつうのやかんで、南部鉄器ではない。
南部鉄器の鉄瓶を使いたい気持ちがないわけではないが、重たいイメージがあって、敬遠してきた。
鉄瓶は、茶道の必需品であり、囲炉裏に一番似合うことはまちがいないが、石油ストーブの上に置くことを検討してみたい。
これからは、自分も需要喚起に協力していかないといけないかなと反省もしてみた。
語り継ぐ戦争をメインに、犯罪被害者支援を訴えてもいる一方で、日本大好き人間の一人として、農業や林業の振興、さらには、日本の文化、伝統工芸、伝統芸能などの伝承と更なる飛躍を願って書いてきたから、本日は、伝統工芸のことを書いておく。
日本の手仕事が生む工芸品が海外で注目を集めている。と12月25日の読売がクールの紙面で「POPstylecool IloveJpn」と題し、「伝統工芸品 世界へ飛躍」という見出しで伝えている。
伝統を守りながら海外進出に成功した例がある一方、輸出や販路開拓には課題も多い。
今秋には金沢市で、国際化や観光との関わりをテーマにした国際会議も開かれ、新たな工芸のあり方を模索する様子を知らせてくれた。
1902(明治35)年創業の南部鉄器製造の大手、岩鋳(盛岡市)の急須は欧米で人気を集め、「イワチュー」は南部鉄器の代名詞となっているという。
輸出に力を入れるようになったのは平成になってからのことだそうで、フランスの紅茶専門店から、急須にフランス人の好む色をつけてくれないかと依頼があり、職人や塗料メーカーと相談し、試行錯誤の上、ついに樹脂でパステルカラーの着色に成功、安全面でも欧州の厳しい製品検査をクリア。フランスから欧州、米国へと人気が広まった。
さらに、2010年の上海国際博覧会では、中国茶に合うと鉄瓶に注目が集まり、中国輸出が急増し、中国人観客が工房に押しかけるようになっている。
成功例がある一方で、工芸品の海外進出には課題も少なくない。
国もクールジャパン戦略で市場開拓を推進するが、物質規制の障壁など越えなければならない課題もある。
石川県内では今秋、工芸の祭典「21世紀鷹峯フォーラムが開かれた。2年前に京都、昨2016年は東京で開催してきたフォーラムの最終回で、工芸を内外で広め、次世代につなげていく方策を探った。
伝統芸能の一つである邦楽の仲間に入れてもらい、毎月、レッスンを受け、慰霊のための行脚で役立たせてもらっている。
家元制度など、いい面がある反面、よくない面もあるから、自分は、そういうしがらみとは全く離れて楽しんできた。
芸能も工芸も根底にあるものはそう大きく変わらないと思っている。
共通しているのは、需要と供給ということで、需要は多い方がいいに決まっているが、だからといって、座して待っていて、需要が増えることはない。
やはり、工芸品でみれば、販路の開拓が一番大きな問題で、後継者の育成という課題もあるが、需要が伸びれば、必然的に後継者だって増えるようになっていく。
南部鉄器を例にすれば、フランスの人は流石に目が高い。触発されたのかして、欧州、米国の人も南部鉄器のよさがわかっている点で、日本人の方が学ばなければならないだろう。
わが家を例にするなら、わが家のやかんはブリキというか、ふつうのやかんで、南部鉄器ではない。
南部鉄器の鉄瓶を使いたい気持ちがないわけではないが、重たいイメージがあって、敬遠してきた。
鉄瓶は、茶道の必需品であり、囲炉裏に一番似合うことはまちがいないが、石油ストーブの上に置くことを検討してみたい。
これからは、自分も需要喚起に協力していかないといけないかなと反省もしてみた。
2017年12月23日
江戸小紋染色家
昨日書いた追悼抄から、どうしても書いておかなければ気がすまないことがあった。
佐伯敏子さんと同じ紙面に江戸小紋染色家小宮康孝さんが10月24日に亡くなったということが伝えられている、享年91歳。
読売によれば、落ち着いた藍色や茜色に、一糸乱れずに並ぶ白抜きの幾何学文様。遠目に見ると無地に映るほどの細やかな模様が「江戸小紋の特徴」で、江戸時代の武士の裃に使われたのが始まりだといわれる。
東京葛飾の染め職人の家に生まれ、14歳から父の下で修業、1978年、父康助さんに次いで、52歳の若さで重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
木の一枚板に反物を張り、細やかな穴が彫られた型紙の上から、へらで糊を均等に置いていく。模様のつなぎ目がずれないように糊付けを何度も繰り返す。
1人前になるのに10年かかった。
「伝統は改良を重ねて生き残る」が持論で。着物の色が変色しにくい合成染料を初めて取り入れ、糊にも改良を加えた。
空や海の青など自然界にあって、人間には作り出せない天然の色を求めて、様々な合成染料を試した。
「時代を超えて受け継がれる小紋とは何か」と考え抜く。
40歳を過ぎてからは、型紙にも改良にも取り組む。「伊勢型紙」の職人の許に足しげく通い、厳しい注文をつけた。精緻な文様には型紙を彫る職人の技が欠かせないからだ。
型を彫る技、染の技術が揃わないと一流の小紋は完成しない。
日本の伝統文化、伝統工芸の分野でまた一人達人が旅立ってしまった。
しかし、嬉しいことに後継者(長男康正さん61と孫)を育てていてくれたから一安心である。
伝統なんてものは、言葉のとおり一朝一夕でできるわけがなく、代々受け継がれて初めて、伝統が築かれるものだろう。
労働者の雇用の世界では、戦後、労働組合運動が盛んだった時代はまだよかったが、政府が派遣労働など労働者の非正規雇用を認めるため、労働三法をないがしろにし始めたときから、予想されたことだが、格差がどんどん広がり、長時間労働で労働者が自殺に追い込まれるようなブラック企業が跋扈するようになっていく。
一方、職人の世界では、技を身につけるのに最低10年といわれているように、年月がかかるが、その分、身につけた技は定年など関係なく、躰が続く限り、働けるけれど、技を身につける、修行に耐えられない人も少なくない。
伝統工芸では、一子相伝ではないが、親から子へということが一般的ではあるが、子どもがいない場合もあるし、子弟が後を受け継いでもらわないと技が絶えてしまう。
その師弟関係にしても、聞くところによれば、師匠のやり方を盗み見て覚えろと言われた時代から、細部まで師匠が教える時代へと時代と共に変わっている由。
小宮さんも「伝統は改良を重ねて生き残る」が持論だったそうな。
つまり、時代時代で、そのときの職人の工夫が必要だということ。それでも、受け継いできたものは、しっかり受け継いでいかなければ、伝統工芸ではなくなってしまうから、この辺の兼ね合いが難しい。
先日、伝統芸能の分野である自分たちの演奏会のとき、師匠が「伝承された曲を自分の演奏で自分なりに表現するのは許されるが、次世代に受け継ぐときは、伝承されたそのまま、教えてもらわないと困る」と伝承された重みについて語っていた。
伝統工芸でいつも気になっているのは、需要の喚起であり、販路がなくては困るということで、世界に一つの手作り品だから、もっと、必要としている人はいるはずで、この辺は国の力を借りないと作り手だけでは難しい。
佐伯敏子さんと同じ紙面に江戸小紋染色家小宮康孝さんが10月24日に亡くなったということが伝えられている、享年91歳。
読売によれば、落ち着いた藍色や茜色に、一糸乱れずに並ぶ白抜きの幾何学文様。遠目に見ると無地に映るほどの細やかな模様が「江戸小紋の特徴」で、江戸時代の武士の裃に使われたのが始まりだといわれる。
東京葛飾の染め職人の家に生まれ、14歳から父の下で修業、1978年、父康助さんに次いで、52歳の若さで重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
木の一枚板に反物を張り、細やかな穴が彫られた型紙の上から、へらで糊を均等に置いていく。模様のつなぎ目がずれないように糊付けを何度も繰り返す。
1人前になるのに10年かかった。
「伝統は改良を重ねて生き残る」が持論で。着物の色が変色しにくい合成染料を初めて取り入れ、糊にも改良を加えた。
空や海の青など自然界にあって、人間には作り出せない天然の色を求めて、様々な合成染料を試した。
「時代を超えて受け継がれる小紋とは何か」と考え抜く。
40歳を過ぎてからは、型紙にも改良にも取り組む。「伊勢型紙」の職人の許に足しげく通い、厳しい注文をつけた。精緻な文様には型紙を彫る職人の技が欠かせないからだ。
型を彫る技、染の技術が揃わないと一流の小紋は完成しない。
日本の伝統文化、伝統工芸の分野でまた一人達人が旅立ってしまった。
しかし、嬉しいことに後継者(長男康正さん61と孫)を育てていてくれたから一安心である。
伝統なんてものは、言葉のとおり一朝一夕でできるわけがなく、代々受け継がれて初めて、伝統が築かれるものだろう。
労働者の雇用の世界では、戦後、労働組合運動が盛んだった時代はまだよかったが、政府が派遣労働など労働者の非正規雇用を認めるため、労働三法をないがしろにし始めたときから、予想されたことだが、格差がどんどん広がり、長時間労働で労働者が自殺に追い込まれるようなブラック企業が跋扈するようになっていく。
一方、職人の世界では、技を身につけるのに最低10年といわれているように、年月がかかるが、その分、身につけた技は定年など関係なく、躰が続く限り、働けるけれど、技を身につける、修行に耐えられない人も少なくない。
伝統工芸では、一子相伝ではないが、親から子へということが一般的ではあるが、子どもがいない場合もあるし、子弟が後を受け継いでもらわないと技が絶えてしまう。
その師弟関係にしても、聞くところによれば、師匠のやり方を盗み見て覚えろと言われた時代から、細部まで師匠が教える時代へと時代と共に変わっている由。
小宮さんも「伝統は改良を重ねて生き残る」が持論だったそうな。
つまり、時代時代で、そのときの職人の工夫が必要だということ。それでも、受け継いできたものは、しっかり受け継いでいかなければ、伝統工芸ではなくなってしまうから、この辺の兼ね合いが難しい。
先日、伝統芸能の分野である自分たちの演奏会のとき、師匠が「伝承された曲を自分の演奏で自分なりに表現するのは許されるが、次世代に受け継ぐときは、伝承されたそのまま、教えてもらわないと困る」と伝承された重みについて語っていた。
伝統工芸でいつも気になっているのは、需要の喚起であり、販路がなくては困るということで、世界に一つの手作り品だから、もっと、必要としている人はいるはずで、この辺は国の力を借りないと作り手だけでは難しい。