日本美を守り伝える TSUMUGU 紡ぐプロジェクト「涼 先人の技と知恵」というタイトルで蒸し暑い日本の夏、エアコンや扇風機がない時代に昔の人たちは、どうやって「涼」を感じていたのだろうか。
時代を超えて受け継がれる清涼感を誘う伝統工芸品や、それらを生み出す職人の技を7月5日の読売が紹介している。
金沢和傘、房州うちわ、京たたみ、江戸風鈴、東京銀器、別府竹細工、そして有松絞りが「見て触れて気持ちも涼しく」という見出しで、見開きの特別面を使って紹介されている。
個人的な好みの問題であることをお断りして、金沢和傘、房州うちわ、そして別府竹細工をまず取り上げる。
共通点は竹が使われていることで、竹製品の一つである尺八が好きだからということで、竹製品を応援したいからだ。
50代半ばを前に退職し、還暦の頃から、頭を丸めたのは、髪が生えなくなり、もともと出家みたいに虚無僧の尺八が好きだったから、未練を断ち切って自らバリカンで頭を丸めてしまった。
ふだん、帽子、それもキャップというのかを被っているが、日差しが強い6月頃から、連れ合いの日傘を借り、使ってみたら日差しを遮るのに最適だということを知った。
目も白内障で畑の草むしりではサングラスをかけて作業しているが、サングラスがなくとも日傘があれば、目の保護にもなる。
和傘は買い求めて使ったことがある。着物でないと似合わないという先入観があったが、古都金沢なら似合いそうだ。
プラスチック製品が便利ではあるが、アンチの立場から、竹と和紙という自分が大好きな素材から和傘の普及を応援している。
紹介されている創業130年の「松田和傘店」の3代目松田重樹さん(67)にエールをおくりたい。
房州うちわは「日本三大うちわ」の一つとして、京うちわ、丸亀うちわと並び称される。
南房総市の「うやま工房」2代目の宇山まゆみさん(64)が紹介されていたのでまずエールをおくる。
わが家にはエアコンがない。
正確にはあったけれど、壊れてしまい使えなくなったまま、買い替えていないのである。
個人的にエアコンのように空気が動くというのか、好きでないから買い替える気持ちがわかない。
扇風機は部屋ごとに置いているが、自分の部屋にはまだ置いていない。これから、津軽三味線の毎日のけいこでは使うかもしれないが、扇風機もまた好きではない。
うちわ、扇子は大好きである。
そのうちわの骨の竹をプラスチックにしてしまったうちわは大嫌いだから、使わないというこだわりがある。
最後が別府の竹細工である。
県立竹工芸訓練センターで技術を習得した宇野冴月さん(30)と岩尾大河さん(32)が市内に共同で工房を構えていると紹介されたので、この二人にもエールをおくりたい。
竹細工といえば、初めて買い求めたのは、京都嵯峨野である。次いで、越前の竹人形で、前者が1970年代前半、後者が70年代後半頃のことである。
高齢になって認知症が社会問題となっているが、竹細工はボケ防止、認知症予防に役立つ優れた細工である。
ただし、視力が衰える高齢になって始めたのでは間に合わず、若い頃から、社会教育として、国が取り組む必要がある。
因みに、手と指先を使う(編む)人間で、ぼけた人はいないことはきちんと調査すればすぐにわかることだ。
竹細工の器は夏の時期、ざるそばや、ソーメンなどを食するのにぴったりで涼を感じさせてくれる優れものだ。プラスチック製品では涼を感じることなどできるわけがない。
今回、取り上げられなかった日本の伝統工芸品はいつか取り上げる機会もあればと願っている。
2026年07月09日
2026年05月29日
分業崩壊危機から産地守る
伝統工芸を支える専門職の分業体制を、どう守り続けるか。江戸時代から続く萬古焼の産地は今春、陶磁器の生産に欠かせない釉薬メーカーの廃業という危機に直面した。地場産業の衰退につながりかねない突然の事態に、窯元「山口陶器」(菰野町)社長の山口典宏さん(51)は、この釉薬メーカーの事業承継を決断した。と5月26日の朝日(鈴木裕記者)と27日の読売(清川仁記者)が伝えている。
山口陶器は産地衰退の悪循環を食い止めようと、窯元10社への釉薬の提供を始めた。
陶器、磁器などの製品は個人的な好みでプラスチック製品とは比べようもないほど愛着がある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、北は北海道稚内から南は沖縄摩文仁まで周ってきた。訪れた場所は数えるほどではあるが、陶磁器の産地が近くにあったり、土産物屋に製品があれば、記念に買い求めたりするなどしてきたくらい、思い入れがある。
知覧に行ったとき、薩摩焼の沈壽官さんの所に行ったみたいにである。
萬古焼が優れた耐熱性で土鍋、さらに急須などで人気が高いことくらいは知っていた。
伝統工芸の多くは複数の専門職による分業で成り立ってきたが、担い手減少でその構造が崩れつつあることも知っていた。
今回の産地を守るための取り組みにはエールをおくりたい。
美濃、瀬戸、常滑という近隣の窯業産地の有志と「東海湖産地構想」というプロジェクトで山口陶器が活動していることを記事で知った。
500万年前、東海地方の産地一帯には琵琶湖の6倍の大きさの湖があったとされ、その恵みで良質な土が産出されるのだということも教えてもらった。
何も知らないで、土鍋を使っていた頃、今から考えれば、萬古焼だったのだろうが、確かに、耐熱性が優れているとは思ったものである。
益子焼の窯元で修業したという陶芸教室に通っていた頃、師匠の製品である土鍋を買い求めて使ったことがある。
耐熱性の違いなど専門的なことはわからないが、手作り製品というのはなぜか愛着が生まれるものだ。
山口陶器は2024年、高齢と後継者不在で継続を断念した「クラフト石川」という萬古焼の窯元の事業も継承し、優れたデザインのブランドを守り続けていることも高く評価できる。
毎日、食後にお茶を飲んでいるが、お茶の葉は金子園の「天下一」で、急須はやはり、萬古焼なのだろうと思い込んでいる。
伝統工芸を守り抜く関係者の努力に頭が下がるが、応援するためにも、消費者が買い求め、使っていくことが支えになるのではないか。
山口陶器は産地衰退の悪循環を食い止めようと、窯元10社への釉薬の提供を始めた。
陶器、磁器などの製品は個人的な好みでプラスチック製品とは比べようもないほど愛着がある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、北は北海道稚内から南は沖縄摩文仁まで周ってきた。訪れた場所は数えるほどではあるが、陶磁器の産地が近くにあったり、土産物屋に製品があれば、記念に買い求めたりするなどしてきたくらい、思い入れがある。
知覧に行ったとき、薩摩焼の沈壽官さんの所に行ったみたいにである。
萬古焼が優れた耐熱性で土鍋、さらに急須などで人気が高いことくらいは知っていた。
伝統工芸の多くは複数の専門職による分業で成り立ってきたが、担い手減少でその構造が崩れつつあることも知っていた。
今回の産地を守るための取り組みにはエールをおくりたい。
美濃、瀬戸、常滑という近隣の窯業産地の有志と「東海湖産地構想」というプロジェクトで山口陶器が活動していることを記事で知った。
500万年前、東海地方の産地一帯には琵琶湖の6倍の大きさの湖があったとされ、その恵みで良質な土が産出されるのだということも教えてもらった。
何も知らないで、土鍋を使っていた頃、今から考えれば、萬古焼だったのだろうが、確かに、耐熱性が優れているとは思ったものである。
益子焼の窯元で修業したという陶芸教室に通っていた頃、師匠の製品である土鍋を買い求めて使ったことがある。
耐熱性の違いなど専門的なことはわからないが、手作り製品というのはなぜか愛着が生まれるものだ。
山口陶器は2024年、高齢と後継者不在で継続を断念した「クラフト石川」という萬古焼の窯元の事業も継承し、優れたデザインのブランドを守り続けていることも高く評価できる。
毎日、食後にお茶を飲んでいるが、お茶の葉は金子園の「天下一」で、急須はやはり、萬古焼なのだろうと思い込んでいる。
伝統工芸を守り抜く関係者の努力に頭が下がるが、応援するためにも、消費者が買い求め、使っていくことが支えになるのではないか。
2026年05月27日
伝統工芸は成長産業、日本の勝ち筋
日本の工芸の海外展開の可能性について考える「工芸シンポジウム2026 工芸は越境する〜日本から世界へ、伝統から未来へ〜」が4月22日、開かれた。読売新聞社の伝統文化振興プロジェクト「Action!伝統文化」の一環で、連携協定を結ぶ日本政策投資銀行に、日本工芸産地協会を加えた3者で主催した。工芸シンポジウムは今年で3回目。議論の内容を伝える。と5月21日の読売が伝えている。
トークセッション1では、「工芸の海外展開からそのビジネスモデルを考える〜」をテーマに広島県熊野町で熊野筆で和筆から化粧筆に事業を展開し、売り上げの7割が外国向けで占めているという会社では、化粧筆の品質を守るという話。
佐賀県で家具作りを営む会社の輸出売上は全体の2割程度だが、ヨーロッパには技術レベルが高い家具産地がたくさんあるので、現地で「地産地消」のような形での事業の展開を模索したいという話。
輪島塗の会社では海外向けの売り上げは全体の1割ほどだが、アート作品、現地のデザイナーとの協働、自社のテーブルウェアという3本立てで海外展開を考えていきたいという話。
トークセッションUでは、工芸は世界の調和を生み出すものだ。立場を超えて分かり合える様式が日本には根付いている。世界が分断されればされるほど日本の文化が最も体現しているのが工芸だと発信していきたい。
日本には文化でカネを稼ぐ金脈ならぬ文脈が眠っている「コピー&ペーストできない」独自性の塊で絶対に文化経済圏を作れる。工芸は成長産業で日本に残された勝ち筋の一つだ。
日本には物を大切にしてきた文化がある。AIに任せたら安かろう悪かろうと同じ事が起きる。AIにできないものづくりを徹底することが大切だ。という貴重な話があった。
日本大好き人間の一人であるが、団塊の世代の一員であることから持ち時間がもうほとんど少ないが、伝統文化、伝統工芸には思い入れがあるので、関係者にエールをおくらないわけにはいかない。
因みに、20代の最後、伝統文化というか伝統楽器の一つ尺八を習い始め、今も吹いているが、努力が足りず、才能もなかったため、一向に上手くならなかったが、一度たりとも、嫌いになったことがない。
伝統文化というか、書道も10年以上は続けたことがある。
日本の伝統文化の一つ、茶道も近くで教えていた高齢の女性の裏千家茶道教室に通ったが、こちらは、長く続かなかった。
伝統工芸の一つ、陶芸も益子で腕を磨いたという陶芸教室などに通ったが、手びねりで自分なりに頑張ったが、同じ土いじりの畑が忙しくなって続かなかった。
古希を過ぎて、わが家に津軽三味線がやってきた。若い頃から、興味があったので、お師匠さんに来てもらい、連れ合いと一緒に習っているが、現在4年半が経過している。
ついでに書くと、連れ合いは箏、三味線をずっと長く続け、合奏グループにも入っている。
とにかく、忙しいが、日本の伝統文化、伝統工芸には大いに関心があり、海外展開し、携わる人々の暮らし向きが佳くなるような事業展開ができることを願ってきた。
吉里吉里国では確か、教育立国だったかと記憶するが、文化、工芸品での立国は自分の一番の願いである。
高市政権がやろうとしている武器を輸出する死の商人にあるのは、やがて、ブーメランとなって、国を亡ぼす未来しかない。
トークセッション1では、「工芸の海外展開からそのビジネスモデルを考える〜」をテーマに広島県熊野町で熊野筆で和筆から化粧筆に事業を展開し、売り上げの7割が外国向けで占めているという会社では、化粧筆の品質を守るという話。
佐賀県で家具作りを営む会社の輸出売上は全体の2割程度だが、ヨーロッパには技術レベルが高い家具産地がたくさんあるので、現地で「地産地消」のような形での事業の展開を模索したいという話。
輪島塗の会社では海外向けの売り上げは全体の1割ほどだが、アート作品、現地のデザイナーとの協働、自社のテーブルウェアという3本立てで海外展開を考えていきたいという話。
トークセッションUでは、工芸は世界の調和を生み出すものだ。立場を超えて分かり合える様式が日本には根付いている。世界が分断されればされるほど日本の文化が最も体現しているのが工芸だと発信していきたい。
日本には文化でカネを稼ぐ金脈ならぬ文脈が眠っている「コピー&ペーストできない」独自性の塊で絶対に文化経済圏を作れる。工芸は成長産業で日本に残された勝ち筋の一つだ。
日本には物を大切にしてきた文化がある。AIに任せたら安かろう悪かろうと同じ事が起きる。AIにできないものづくりを徹底することが大切だ。という貴重な話があった。
日本大好き人間の一人であるが、団塊の世代の一員であることから持ち時間がもうほとんど少ないが、伝統文化、伝統工芸には思い入れがあるので、関係者にエールをおくらないわけにはいかない。
因みに、20代の最後、伝統文化というか伝統楽器の一つ尺八を習い始め、今も吹いているが、努力が足りず、才能もなかったため、一向に上手くならなかったが、一度たりとも、嫌いになったことがない。
伝統文化というか、書道も10年以上は続けたことがある。
日本の伝統文化の一つ、茶道も近くで教えていた高齢の女性の裏千家茶道教室に通ったが、こちらは、長く続かなかった。
伝統工芸の一つ、陶芸も益子で腕を磨いたという陶芸教室などに通ったが、手びねりで自分なりに頑張ったが、同じ土いじりの畑が忙しくなって続かなかった。
古希を過ぎて、わが家に津軽三味線がやってきた。若い頃から、興味があったので、お師匠さんに来てもらい、連れ合いと一緒に習っているが、現在4年半が経過している。
ついでに書くと、連れ合いは箏、三味線をずっと長く続け、合奏グループにも入っている。
とにかく、忙しいが、日本の伝統文化、伝統工芸には大いに関心があり、海外展開し、携わる人々の暮らし向きが佳くなるような事業展開ができることを願ってきた。
吉里吉里国では確か、教育立国だったかと記憶するが、文化、工芸品での立国は自分の一番の願いである。
高市政権がやろうとしている武器を輸出する死の商人にあるのは、やがて、ブーメランとなって、国を亡ぼす未来しかない。
2026年05月10日
技も心構えも教わる 育てる 太鼓
「日本美を守り伝えるTSUMUGU紡ぐ プロジェクト」読売(武田実沙子記者)の連載その5月5日は 「伝統 私たちがつなぐ」で新潟の佐渡市を拠点に活動する太鼓芸能集団「鼓童」の研修生らが発表会に向けて稽古に励む様子を映した写真と共に 取り上げられていた。
伝統芸能や伝統工芸の世界では、代々長く守り伝えられてきた技術や精神を未来へ継承していくことが大切である。各分野の後継者育成に向けた取り組みを紹介するということで、日本大好き人間の一人として興味関心がある太鼓について書いておく。
太鼓芸能集団「鼓童」の拠点佐渡には2017年8月、訪れている。
佐渡金山で働く水替え人足と水金遊郭で働く遊女の心中を描いた津村節子『海鳴』を買い求めて読んでいて、いつか水金遊郭で働いた遊女、女郎たちの供養に行きたいという思いが募り出かけたのだ。
佐渡といえば、「鼓童」の前身「佐渡の國鬼太鼓座」の活動が始まった頃から関心を持っていたし、「鼓童」のリサイタルにも行ったことがあり、CDも買い求めて聴いている。
佐渡という前に越後は、盲目の女旅芸人「瞽女」が活動していたことで興味関心を持っていた。
「瞽女」は三味線を演奏しながら瞽女唄を歌ったことで知られる。
越後と佐渡は新潟県という現在の県名から見れば、一緒のように思えるが全く別の風土の土地のような気もする。
佐渡の郷土芸能「鬼太鼓」は鬼が太鼓の音に合わせて勇壮に舞うことから「鬼太鼓座」が佐渡で活動をしたのだろうと勝手に思い込んでいる。
太鼓は音が聞く人によっては騒音に思われるくらい大きな音が鳴り響くから佐渡ならいくら打っても音の心配がないからかとも思っていた。
連れ合いが親しくしている友人が佐渡の出身ということを耳にしていたから、一度行ってみたいと願ってきた。実際に行ってみて、やはり、越後という雰囲気より、佐渡島という独特の風土であり、雪の季節は暮らしは大変だろうと想像した。
鼓童の研修生は柿野浦集落にある廃校を利用した建物にある研修所に入所して、まずは自ら木を削り、太鼓のバチと箸を作るのが習わしだという。
日々の生活は早朝の5時半起床、床の雑巾がけとトレーニングから始まる。食事は自分たちで献立を考え、調理する。田んぼでコメを作り、校庭で野菜を育てる。
まるで修行僧のような暮らしで培った生活から、体力、気力、演奏技術を鍛えているわけだ。
エールをおくりたくなってしまうではないか。
佐渡金山の近くにあった水金遊郭跡地にも行ったが、売春防止法ができるまで、佐渡には港の近くに遊郭があったことは後から調べてわかった。
事前の調査が不十分であったことが悔やまれる。
佐渡といえば、相川音頭が有名だが、山本修之助編著『相川音頭全集』(佐渡郷土研究会)を相川の北村雅治さんにご恵与いただいた事は終生忘れられないできごとである。
伝統芸能や伝統工芸の世界では、代々長く守り伝えられてきた技術や精神を未来へ継承していくことが大切である。各分野の後継者育成に向けた取り組みを紹介するということで、日本大好き人間の一人として興味関心がある太鼓について書いておく。
太鼓芸能集団「鼓童」の拠点佐渡には2017年8月、訪れている。
佐渡金山で働く水替え人足と水金遊郭で働く遊女の心中を描いた津村節子『海鳴』を買い求めて読んでいて、いつか水金遊郭で働いた遊女、女郎たちの供養に行きたいという思いが募り出かけたのだ。
佐渡といえば、「鼓童」の前身「佐渡の國鬼太鼓座」の活動が始まった頃から関心を持っていたし、「鼓童」のリサイタルにも行ったことがあり、CDも買い求めて聴いている。
佐渡という前に越後は、盲目の女旅芸人「瞽女」が活動していたことで興味関心を持っていた。
「瞽女」は三味線を演奏しながら瞽女唄を歌ったことで知られる。
越後と佐渡は新潟県という現在の県名から見れば、一緒のように思えるが全く別の風土の土地のような気もする。
佐渡の郷土芸能「鬼太鼓」は鬼が太鼓の音に合わせて勇壮に舞うことから「鬼太鼓座」が佐渡で活動をしたのだろうと勝手に思い込んでいる。
太鼓は音が聞く人によっては騒音に思われるくらい大きな音が鳴り響くから佐渡ならいくら打っても音の心配がないからかとも思っていた。
連れ合いが親しくしている友人が佐渡の出身ということを耳にしていたから、一度行ってみたいと願ってきた。実際に行ってみて、やはり、越後という雰囲気より、佐渡島という独特の風土であり、雪の季節は暮らしは大変だろうと想像した。
鼓童の研修生は柿野浦集落にある廃校を利用した建物にある研修所に入所して、まずは自ら木を削り、太鼓のバチと箸を作るのが習わしだという。
日々の生活は早朝の5時半起床、床の雑巾がけとトレーニングから始まる。食事は自分たちで献立を考え、調理する。田んぼでコメを作り、校庭で野菜を育てる。
まるで修行僧のような暮らしで培った生活から、体力、気力、演奏技術を鍛えているわけだ。
エールをおくりたくなってしまうではないか。
佐渡金山の近くにあった水金遊郭跡地にも行ったが、売春防止法ができるまで、佐渡には港の近くに遊郭があったことは後から調べてわかった。
事前の調査が不十分であったことが悔やまれる。
佐渡といえば、相川音頭が有名だが、山本修之助編著『相川音頭全集』(佐渡郷土研究会)を相川の北村雅治さんにご恵与いただいた事は終生忘れられないできごとである。
2026年04月24日
伝統継承へ「和傘塾」岐阜
国の伝統的工芸品に指定され、歌舞伎や日本舞踊など伝統文化に欠かせない和傘の国内生産の約6割を占める「岐阜和傘」の職人を育成する塾が今春開塾し、1期生4人が入塾したことを4月20日の読売(林昂汰記者)が夕刊で伝えている。
2025年11月5日の朝日(松永佳伸記者)によれば、職人の高齢化が深刻になる中、技術継承に取り組む一般社団法人「岐阜和傘協会」は和傘職人を育成する「和傘塾」研修生を募り、2年間かけて職人を育てる。協会は必要な費用の確保のため、クラウドファンディング(CF)で支援を12月6日まで募っている。と伝えていた。
江戸時代に美濃和紙や長良川の水運を生かして生産が始まり、ピークの1945年前後には年間1000万本以上生産され、問屋は約600軒あった。近年は数千本程度に落ち込み、問屋も3軒、個人の製造業者は3軒となってしまった。
和傘製作には100以上の工程があり、学校方式の育成機関としての和傘塾で現役の職人が作業を伝授する。
手作業で作る各地の伝統的工芸品は担い手の確保が課題となっている。とも読売が伝えている。
経済産業相指定の伝統的工芸品は輪島塗や波佐見焼など244品目。伝統的工芸品産業振興協会によると、従事者数は1979年度の約28万7000人がピークで2022年度は約4万8300人に減った。生産額も1983年度の5405億円から2022年度には約1049憶円まで減っている。
福井の越前和紙や越前漆器が職人塾を開設しているし、博多人形も育成塾を開いている。
自民党高市政権が武器輸出3原則を改め、武器輸出できるようにしたことで、戦後80年余守り抜いてきた平和国家日本が崩壊した事を書いたばかりである。
国民と日本の国家のことを考えず、米国に隷従する高市政権、そのこともわからずに支持する有権者が日本をダメにしてきた、
伝統文化、伝統工芸、日本の美である庭園など日本大好き人間の一人で、我こそ真の愛国者だと自負している自分には耐えられないくらい反日反社の旧統一教会とズブズブの関係だった自民党と補完勢力たちに嫌気がさす。
その伝統工芸、そこから生まれる工芸品ほど、外貨を稼ぐ手段としてふさわしいものはない。
芸術作品が高く評価されてきたのは、二つと同じものがない。あるいは他にはないというオリジナリティというか個性があってこそだから、まさにふさわしい。
和傘を例にすると、江戸時代浪人になってしまい、傘張りの内職をする侍の姿を時代劇などで見た覚えがある。
戦争に敗れて、米国から石油製品から生まれるプラスチック製品が入ってくるや、便利なことから日本古来の和紙で作られた和傘が洋傘の普及に敗れた。
そのプラスチックを生み出す原料アセトアルデヒドを作るとき、有機水銀ができて、処理されずに海に排水され、魚が食べ、その魚を食べた猫、人が水俣病になった。
米国がイスラエルと共謀してイランを攻撃し、怒ったイランがホルムズ海峡を封鎖したため、タンカーが日本に原油を運べなくなった。
トイレや水回りの製品を作ることで知られるTOTOが製品を供給できなくなるなど、いろいろな分野で影響が出始めている。
和傘というくらいだから、日本の伝統文化である歌舞伎や日本舞踊では和傘は必需品であるし、花柳界、花街では、和服に洋傘では似合わず、和傘でなければ情緒がない。
ただし、需要ということになれば、政府がプラスチック製品から和物に転換するための対策として意識的に和傘を使うことを奨励し、駅や学校など公共機関に和傘を置かせることなどで増やすことは可能である。
伝統承継で一番の課題は職人の育成である。
ITだAIだと確かにこの分野で後れを取るとこれからの時代外国との競争に勝てないことから重要であることは認める。
しかし、日本の文化、日本の伝統工芸は米国や中国、ロシアという3大国にはないものである。
しかも、世界が富裕層と貧困層に二極化していくばかりだから、その富裕層をターゲットにすれば、日本の伝統工芸の販路拡大の商機はある。
売り上げが伸びれば、従事する職人も当然増える。
ために、技術の継承を怠ってはならず、育成塾のような機関が必要になっている。
軍需産業である大企業を儲けさせることよりも、まじめに働く職人に陽の当たるようにしていくのが真に国民のための政治ではないか。
2025年11月5日の朝日(松永佳伸記者)によれば、職人の高齢化が深刻になる中、技術継承に取り組む一般社団法人「岐阜和傘協会」は和傘職人を育成する「和傘塾」研修生を募り、2年間かけて職人を育てる。協会は必要な費用の確保のため、クラウドファンディング(CF)で支援を12月6日まで募っている。と伝えていた。
江戸時代に美濃和紙や長良川の水運を生かして生産が始まり、ピークの1945年前後には年間1000万本以上生産され、問屋は約600軒あった。近年は数千本程度に落ち込み、問屋も3軒、個人の製造業者は3軒となってしまった。
和傘製作には100以上の工程があり、学校方式の育成機関としての和傘塾で現役の職人が作業を伝授する。
手作業で作る各地の伝統的工芸品は担い手の確保が課題となっている。とも読売が伝えている。
経済産業相指定の伝統的工芸品は輪島塗や波佐見焼など244品目。伝統的工芸品産業振興協会によると、従事者数は1979年度の約28万7000人がピークで2022年度は約4万8300人に減った。生産額も1983年度の5405億円から2022年度には約1049憶円まで減っている。
福井の越前和紙や越前漆器が職人塾を開設しているし、博多人形も育成塾を開いている。
自民党高市政権が武器輸出3原則を改め、武器輸出できるようにしたことで、戦後80年余守り抜いてきた平和国家日本が崩壊した事を書いたばかりである。
国民と日本の国家のことを考えず、米国に隷従する高市政権、そのこともわからずに支持する有権者が日本をダメにしてきた、
伝統文化、伝統工芸、日本の美である庭園など日本大好き人間の一人で、我こそ真の愛国者だと自負している自分には耐えられないくらい反日反社の旧統一教会とズブズブの関係だった自民党と補完勢力たちに嫌気がさす。
その伝統工芸、そこから生まれる工芸品ほど、外貨を稼ぐ手段としてふさわしいものはない。
芸術作品が高く評価されてきたのは、二つと同じものがない。あるいは他にはないというオリジナリティというか個性があってこそだから、まさにふさわしい。
和傘を例にすると、江戸時代浪人になってしまい、傘張りの内職をする侍の姿を時代劇などで見た覚えがある。
戦争に敗れて、米国から石油製品から生まれるプラスチック製品が入ってくるや、便利なことから日本古来の和紙で作られた和傘が洋傘の普及に敗れた。
そのプラスチックを生み出す原料アセトアルデヒドを作るとき、有機水銀ができて、処理されずに海に排水され、魚が食べ、その魚を食べた猫、人が水俣病になった。
米国がイスラエルと共謀してイランを攻撃し、怒ったイランがホルムズ海峡を封鎖したため、タンカーが日本に原油を運べなくなった。
トイレや水回りの製品を作ることで知られるTOTOが製品を供給できなくなるなど、いろいろな分野で影響が出始めている。
和傘というくらいだから、日本の伝統文化である歌舞伎や日本舞踊では和傘は必需品であるし、花柳界、花街では、和服に洋傘では似合わず、和傘でなければ情緒がない。
ただし、需要ということになれば、政府がプラスチック製品から和物に転換するための対策として意識的に和傘を使うことを奨励し、駅や学校など公共機関に和傘を置かせることなどで増やすことは可能である。
伝統承継で一番の課題は職人の育成である。
ITだAIだと確かにこの分野で後れを取るとこれからの時代外国との競争に勝てないことから重要であることは認める。
しかし、日本の文化、日本の伝統工芸は米国や中国、ロシアという3大国にはないものである。
しかも、世界が富裕層と貧困層に二極化していくばかりだから、その富裕層をターゲットにすれば、日本の伝統工芸の販路拡大の商機はある。
売り上げが伸びれば、従事する職人も当然増える。
ために、技術の継承を怠ってはならず、育成塾のような機関が必要になっている。
軍需産業である大企業を儲けさせることよりも、まじめに働く職人に陽の当たるようにしていくのが真に国民のための政治ではないか。
2026年03月24日
韓国で茶道普及へ 日韓の懸け橋に
日曜日の連載「顔 Sunday」。読売(依田和彩記者)の3月22日は、「お茶の魅力 日韓の懸け橋に」という見出しで、韓国で茶道普及に取り組む李春實さん(72)が紹介されている。
日韓の友好に寄与した功績が評価され、2025年秋の外国人叙勲で「旭日双光章」を受賞した李春實さん。
韓国にも独自の茶道文化があり、韓国の茶道関係者から「なぜ、韓国の茶道をやらないのか」と言われたが、「大好きなお茶の世界を多くの人に知ってもらいたかったから」だそうな。
周囲の圧力に敗けないで自らの信念を曲げず、38年間茶道の普及に尽力してきたことを高く評価し、エールをおくりたい。
茶道裏千家との出会いは1988年。ソウルの街での体験行事でのことだった。前年、京都を旅行し、抹茶を頂戴したことがあったから、興味本位ではあったが、「亭主のお茶をたてる美しい身のこなし」に魅了された。
すぐに入門を決めた。
若い頃から舞踊や書道を習っても物足りなさを感じていたが、茶道を始めると「心が安定し、満たされていくのを感じた」という。
韓国で日本文化への関心が高まるのに合わせ、茶道を学ぶ人も増えている。
米国に隷従する高市政権が読売をはじめとするメディアや右寄り勢力のバックアップで選挙で自民党補完勢力も含めて圧勝し、スパイ防止法、緊急事態条項を盛り込んだ憲法の改定がなされる可能性が高くなってきた。
米国がイスラエルと結託し、イランを攻撃し、イランが反撃のためホルムズ海峡を封鎖し、海峡を通過してタンカーで石油を運んでいる日本に艦船を出せとトランプ大統領に要請されたが、日本国憲法を念頭に法律の範囲内という言い逃れができた高市首相。
憲法を改定してしまえば、米国の戦争に巻き込まれることが分かっていながら米国の思惑通りに動くのは売国奴と指摘している人たちの声が的を得ているのかなどと思ってしまう。
しかし、その高市首相は隣国韓国の李在明大統領が来日した時、演出半分だとしても、未来志向の関係を築いて行けそうな雰囲気だったことはよかった。
日本が韓国を併合というか植民地にしたことは大きな過ちで、韓国の人たちに謝らなくてはならない。韓国の人たちが怒って当然のことだが、だからと言って、いつまでも過去に囚われていては、友好関係は結べないし、両国にとって得にならない。
日本と韓国はよく似ていて、隣国中国と朝鮮戦争で金一族と戦った米国との板挟みにあっている。
だからこそ、日韓両国は友好的な関係を構築し、中国、米国とつきあっていかなければならない。
韓国と日本といえば、薩摩焼で知られる沈壽官さんのご先祖は16世紀末朝鮮半島から拉致されて来たことで知られている。
司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』(文春文庫)を買い求めて読んでいるので、父祖たちの望郷の念を思いやることがあるだろうと同情してしまう。
茶道は、「一期一会」とか「和敬清寂」という言葉に表れる心の調和、主客が相手を尊重し、もてなす心のことだから、日韓関係においても、両者が理解しあって、相互を尊重するということで、良好な関係の構築に役立つはずだ。
難しいことを抜きにすれば、両国の市民が親しく交流するとき、互いの文化というものを理解しようとすれば、コーヒーを飲みながらということもあるだろうが、格調高く交流するなら、茶道の抹茶を頂戴することで相互の文化を知り、関係が構築されれば、朝鮮半島でできた磁器を抹茶碗にして、茶を一服するということでもっと友好が深められるというものではないか。
日韓の友好に寄与した功績が評価され、2025年秋の外国人叙勲で「旭日双光章」を受賞した李春實さん。
韓国にも独自の茶道文化があり、韓国の茶道関係者から「なぜ、韓国の茶道をやらないのか」と言われたが、「大好きなお茶の世界を多くの人に知ってもらいたかったから」だそうな。
周囲の圧力に敗けないで自らの信念を曲げず、38年間茶道の普及に尽力してきたことを高く評価し、エールをおくりたい。
茶道裏千家との出会いは1988年。ソウルの街での体験行事でのことだった。前年、京都を旅行し、抹茶を頂戴したことがあったから、興味本位ではあったが、「亭主のお茶をたてる美しい身のこなし」に魅了された。
すぐに入門を決めた。
若い頃から舞踊や書道を習っても物足りなさを感じていたが、茶道を始めると「心が安定し、満たされていくのを感じた」という。
韓国で日本文化への関心が高まるのに合わせ、茶道を学ぶ人も増えている。
米国に隷従する高市政権が読売をはじめとするメディアや右寄り勢力のバックアップで選挙で自民党補完勢力も含めて圧勝し、スパイ防止法、緊急事態条項を盛り込んだ憲法の改定がなされる可能性が高くなってきた。
米国がイスラエルと結託し、イランを攻撃し、イランが反撃のためホルムズ海峡を封鎖し、海峡を通過してタンカーで石油を運んでいる日本に艦船を出せとトランプ大統領に要請されたが、日本国憲法を念頭に法律の範囲内という言い逃れができた高市首相。
憲法を改定してしまえば、米国の戦争に巻き込まれることが分かっていながら米国の思惑通りに動くのは売国奴と指摘している人たちの声が的を得ているのかなどと思ってしまう。
しかし、その高市首相は隣国韓国の李在明大統領が来日した時、演出半分だとしても、未来志向の関係を築いて行けそうな雰囲気だったことはよかった。
日本が韓国を併合というか植民地にしたことは大きな過ちで、韓国の人たちに謝らなくてはならない。韓国の人たちが怒って当然のことだが、だからと言って、いつまでも過去に囚われていては、友好関係は結べないし、両国にとって得にならない。
日本と韓国はよく似ていて、隣国中国と朝鮮戦争で金一族と戦った米国との板挟みにあっている。
だからこそ、日韓両国は友好的な関係を構築し、中国、米国とつきあっていかなければならない。
韓国と日本といえば、薩摩焼で知られる沈壽官さんのご先祖は16世紀末朝鮮半島から拉致されて来たことで知られている。
司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』(文春文庫)を買い求めて読んでいるので、父祖たちの望郷の念を思いやることがあるだろうと同情してしまう。
茶道は、「一期一会」とか「和敬清寂」という言葉に表れる心の調和、主客が相手を尊重し、もてなす心のことだから、日韓関係においても、両者が理解しあって、相互を尊重するということで、良好な関係の構築に役立つはずだ。
難しいことを抜きにすれば、両国の市民が親しく交流するとき、互いの文化というものを理解しようとすれば、コーヒーを飲みながらということもあるだろうが、格調高く交流するなら、茶道の抹茶を頂戴することで相互の文化を知り、関係が構築されれば、朝鮮半島でできた磁器を抹茶碗にして、茶を一服するということでもっと友好が深められるというものではないか。
2026年02月11日
植物染が育む日本の色
江戸時代から続く京都の染色工房「染司よしおか」の歩みと、六代目・吉岡更紗の取り組みを紹介する企画展が、三重県菰野町のパラミタミュージアムで開かれている。と2月9日の三重テレビが伝えている。
「染司よしおか」は、江戸時代から200年以上続く京都の染色工房で、草木や花などから採れる天然の染料を使う日本古来の技法「植物染め」を用いて、麻や絹といった自然素材を染めることを生業としてきた。
企画展では、奈良の東大寺や京都の石清水八幡宮などと「染司よしおか」との関わりや、染色の新たな可能性を追求する六代目・吉岡更紗の取り組みをひも解く作品110点が展示されている。
明治以降、染色業は西洋の化学染料が主流になるが、1960年頃の正倉院展を見て天平の色に感銘を受けた4代目が天然素材による染料の研究を始め、更紗さんの父である5代目が化学染料の使用をやめ、日本の伝統色の再現に生涯を捧げた。
古文書を手掛かりに「源氏物語」の登場人物がまとった衣装を再現した作品では、季節の移ろいを着物の色に取り合わせる平安貴族の色彩世界が表現されている。
染織家・吉岡更紗さんの個展が2月1日まで東京三鷹で開催されていたことを1月28日の読売が文化の紙面で伝えていたとき観てみたいと思ったが行かれなかった。
心身ともに衰えた自分が情けない。
色々という言葉がある。
色にはたくさんの色があるから色々だろうと解釈しているが、絵を描く趣味がない分、色には詳しいわけではない。
「人生いろいろ」という流行歌もあった。
俗にいう色といえば悲喜こもごもで声を潜めて話すことになる。
それでも、色を意識するときがある。
そう、正月の箱根駅伝で出場する大学の襷の色がスクールカラーとして伝えられるときだ。
箱根駅伝に限らず、ラグビーの試合におけるユニフォームにもスクールカラーが取り入れられている。
興味深いのは、所謂伝統校と呼ばれている大学は、例えば早稲田大学はエンジ、明治大学は紫紺、中央大学は赤、日本大学は桃色、東京農業大学は松葉緑とされているのだが、紺色にはこれまた色々あり、東洋大学は鉄紺だとされているし、駒澤大学は紺に似ているが藤色で、青山学院は(濃緑)ダークグリーンと青緑だ。
さて、「植物染 日本の色の探求」という見出しで読売が伝統文化というタイトルで伝える染織家・吉岡更紗さんであるが、植物染といえば、藍染めくらいは知っている。
会津から取り寄せた作務衣が藍染めで、素晴らしいのは虫が食わないのだ。
カシミヤ製品はすぐに虫に食われてしまうのにである。
色で表現するなら、藍染めだから藍色となり、紺色とどのように異なるのか説明できない。
色といえば、花の色がまた色々で自分が好きなのは桔梗の花の色であるが、近年は白色だってある。
植物や果物、野菜などの自然素材から抽出した色素を用いて、布や糸を染める染織に草木染があり、よく知られている。化学染料ではなく天然染料を使用する。歴史がある染織法だ。
紅花、紫根、苅安など色の名称になる植物が生産者の高齢化などで危機で、特に「紫根が心配な状況だ」と更紗さん。
紅花といえば、山形が有名だと思う。紫根がどこが産地が分からないが、街ぐるみというか、需要と供給の関係があるにしても、絶えさせないように行政がバックアップする必要もあるだろう。
「染司よしおか」は、江戸時代から200年以上続く京都の染色工房で、草木や花などから採れる天然の染料を使う日本古来の技法「植物染め」を用いて、麻や絹といった自然素材を染めることを生業としてきた。
企画展では、奈良の東大寺や京都の石清水八幡宮などと「染司よしおか」との関わりや、染色の新たな可能性を追求する六代目・吉岡更紗の取り組みをひも解く作品110点が展示されている。
明治以降、染色業は西洋の化学染料が主流になるが、1960年頃の正倉院展を見て天平の色に感銘を受けた4代目が天然素材による染料の研究を始め、更紗さんの父である5代目が化学染料の使用をやめ、日本の伝統色の再現に生涯を捧げた。
古文書を手掛かりに「源氏物語」の登場人物がまとった衣装を再現した作品では、季節の移ろいを着物の色に取り合わせる平安貴族の色彩世界が表現されている。
染織家・吉岡更紗さんの個展が2月1日まで東京三鷹で開催されていたことを1月28日の読売が文化の紙面で伝えていたとき観てみたいと思ったが行かれなかった。
心身ともに衰えた自分が情けない。
色々という言葉がある。
色にはたくさんの色があるから色々だろうと解釈しているが、絵を描く趣味がない分、色には詳しいわけではない。
「人生いろいろ」という流行歌もあった。
俗にいう色といえば悲喜こもごもで声を潜めて話すことになる。
それでも、色を意識するときがある。
そう、正月の箱根駅伝で出場する大学の襷の色がスクールカラーとして伝えられるときだ。
箱根駅伝に限らず、ラグビーの試合におけるユニフォームにもスクールカラーが取り入れられている。
興味深いのは、所謂伝統校と呼ばれている大学は、例えば早稲田大学はエンジ、明治大学は紫紺、中央大学は赤、日本大学は桃色、東京農業大学は松葉緑とされているのだが、紺色にはこれまた色々あり、東洋大学は鉄紺だとされているし、駒澤大学は紺に似ているが藤色で、青山学院は(濃緑)ダークグリーンと青緑だ。
さて、「植物染 日本の色の探求」という見出しで読売が伝統文化というタイトルで伝える染織家・吉岡更紗さんであるが、植物染といえば、藍染めくらいは知っている。
会津から取り寄せた作務衣が藍染めで、素晴らしいのは虫が食わないのだ。
カシミヤ製品はすぐに虫に食われてしまうのにである。
色で表現するなら、藍染めだから藍色となり、紺色とどのように異なるのか説明できない。
色といえば、花の色がまた色々で自分が好きなのは桔梗の花の色であるが、近年は白色だってある。
植物や果物、野菜などの自然素材から抽出した色素を用いて、布や糸を染める染織に草木染があり、よく知られている。化学染料ではなく天然染料を使用する。歴史がある染織法だ。
紅花、紫根、苅安など色の名称になる植物が生産者の高齢化などで危機で、特に「紫根が心配な状況だ」と更紗さん。
紅花といえば、山形が有名だと思う。紫根がどこが産地が分からないが、街ぐるみというか、需要と供給の関係があるにしても、絶えさせないように行政がバックアップする必要もあるだろう。
2025年12月29日
和紙の史料修理 東京大学史料編纂所
歴史の研究に欠かせない史料。長い年月を経て傷んだ文書を読解して研究するには、まず修理が必要な場合も多いという。その専門職がある東京大学史料編纂所のことを12月27日の読売(片山一弘編集委員)が伝えている。
東京大学史料編纂所に史料保存技術室がある。
絵画など国指定の紙の文化財の補修は主に民間の工房が手掛けている。史料保存技術室は学術研究のために史料を補修している。
担当は技術専門職員の高島晶彦さん(55)と職員の山口悟史さん(44)の2人。
和紙がは保存に優れているが、状態が悪ければ、湿気や虫によって傷む。補修の内容は、汚れを取る、虫食いを埋める、裏打ちして補強するなど様々。手法は伝統技法で修理する。
修復には美濃紙、美栖紙、宇陀紙などが用いられる。
和紙も成分は様々だ。「史料の9割以上がコウゾが原料。ミツマタが多く使われるようになったのは明治時代以降のこと」だそうな。
2人とも大学院までは歴史学を学び、その後、修理の世界に進んだ。
「個々の史料ごとに最適な方法を考える修理は人間を手術するようなものだ」とは高島さん。
2026年2月7日から3月22日まで、茨城県立歴史館で「史料を集め、伝え、そして編む―東京大学史料編纂所の過去と現在―」が開催される。
若い頃は気づかなかったことがある。
自分の出自とかご先祖の有難みについてだ。
後期高齢者になるまでまさか生きられるとは思いもよらないことだった。齢75歳を過ぎると、もう時間がないという意識が強くなる半面、先祖のことが気になってくる。
同様に歴史の出来事とその記録もまたいかに大事であるか、理解していなかったように今思う。
歴史の研究といえば、大事になってくるのが史料の存在である。さらに、その史料の保存状況が問われることになっていく。
保存状態が悪ければ修復が必要になってくるし、佳くてもこれから先のことを考えればより良い状態にしていくことが求められるようになる。
修復といえば、一つの例として挙げておきたい。
冥土にいて死者を裁く10人の王。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の木像が鎮座している十王堂という建築物が某寺にあるのだが、明治の廃仏毀釈で不心得者に首を落とされてしまったというのだ。
知人の住職に仏師を探すから、修復したらどうかと進言したのだが、その住職が亡くなってしまったのだ。
年の瀬の本日、その住職の墓参りをし、般若心経を唱え、線香を手向けてきた。
残念なことである。
和紙の史料の修復について、東京大学史料編纂所での修復について取り上げたが、史料の歴史的価値を知れば知るほど修復作業が大事であることがわかってくる。
こういう縁の下の力持ちの部分にもっと日が当たるようになればと願う。
東京大学史料編纂所に史料保存技術室がある。
絵画など国指定の紙の文化財の補修は主に民間の工房が手掛けている。史料保存技術室は学術研究のために史料を補修している。
担当は技術専門職員の高島晶彦さん(55)と職員の山口悟史さん(44)の2人。
和紙がは保存に優れているが、状態が悪ければ、湿気や虫によって傷む。補修の内容は、汚れを取る、虫食いを埋める、裏打ちして補強するなど様々。手法は伝統技法で修理する。
修復には美濃紙、美栖紙、宇陀紙などが用いられる。
和紙も成分は様々だ。「史料の9割以上がコウゾが原料。ミツマタが多く使われるようになったのは明治時代以降のこと」だそうな。
2人とも大学院までは歴史学を学び、その後、修理の世界に進んだ。
「個々の史料ごとに最適な方法を考える修理は人間を手術するようなものだ」とは高島さん。
2026年2月7日から3月22日まで、茨城県立歴史館で「史料を集め、伝え、そして編む―東京大学史料編纂所の過去と現在―」が開催される。
若い頃は気づかなかったことがある。
自分の出自とかご先祖の有難みについてだ。
後期高齢者になるまでまさか生きられるとは思いもよらないことだった。齢75歳を過ぎると、もう時間がないという意識が強くなる半面、先祖のことが気になってくる。
同様に歴史の出来事とその記録もまたいかに大事であるか、理解していなかったように今思う。
歴史の研究といえば、大事になってくるのが史料の存在である。さらに、その史料の保存状況が問われることになっていく。
保存状態が悪ければ修復が必要になってくるし、佳くてもこれから先のことを考えればより良い状態にしていくことが求められるようになる。
修復といえば、一つの例として挙げておきたい。
冥土にいて死者を裁く10人の王。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の木像が鎮座している十王堂という建築物が某寺にあるのだが、明治の廃仏毀釈で不心得者に首を落とされてしまったというのだ。
知人の住職に仏師を探すから、修復したらどうかと進言したのだが、その住職が亡くなってしまったのだ。
年の瀬の本日、その住職の墓参りをし、般若心経を唱え、線香を手向けてきた。
残念なことである。
和紙の史料の修復について、東京大学史料編纂所での修復について取り上げたが、史料の歴史的価値を知れば知るほど修復作業が大事であることがわかってくる。
こういう縁の下の力持ちの部分にもっと日が当たるようになればと願う。
2025年11月06日
苦境乗り越え三味線づくり
政治部は政府自民党の機関紙化して読む気にもならないからスルーしてる読売であるが、社会部は語り継ぐ戦争に力を入れ、しっかりした仕事ぶりで高く評価してきた。
近年、「日本美を紡ぐ TSUMUGU 紡ぐプロジェクト」というこれぞジャーナリズムという素晴らしい内容の記事を掲載している。
「歴史ある楽器を守る」をテーマに伝統的な楽器を作る職人の技術継承や材料の確保は高齢化や自然環境の変化などによって難しくなっているとして、その11月2日は、邦楽器、洋楽器の中から篳篥(ひちりき)や三味線、グランドピアノ、パイプオルガンなどの製造、修理に携わる職人の働きぶりにスポットを当てている。
楽器の中から自分にとって身近な三味線について、書いておく。
東京八王子市の「東京和楽器」は1885年創業の老舗三味線メーカー。
3代目の王滝勝弘さん(85)は従業員13人と役割り分担しながら三味線作りをしている。
演奏人口の減少とコロナ渦で2020年に一度は廃業を決めた。
栄枯盛衰は世の常なれど、昭和の高度経済成長期には津軽三味線ブーム、民謡ブームで、月350〜400丁作ったこともあったのにである。
廃業を知った小売店や邦楽ファンが同社を救おうと支援に乗り出してくれた。
大瀧さんは奮起し営業を継続することにした。
「国の支援(国による三味線の買い上げなど)があって、何とか経営を維持しているのが実情」だとは大瀧さん。
ご先祖をはじめ、多くの人たちに支えられ、50代半ばを前に早期退職したことで、ストレスから逃れ、炎症性腸疾患クローン病を抱えながらも、後期高齢者になるまで生きられた。
嫁いでいる姉が「あんた、よくここまで生きられたね」と言外にもっと早くに死ぬと思っていたことを明かしたことがあったくらいである。
というわけで、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では、慰霊碑の前で経を唱える代わりに尺八を吹き、供養の祈りを捧げてきた。
古希を過ぎてからのことだが、親族から「母親が大事にしていた形見の津軽三味線を処分したいが、どなたか紹介してもらえませんか」と依頼があった。
連れ合いが箏、十七絃、地歌の三味線を楽しんでいることを知っていての頼みだった。
若い頃、青森を旅し、津軽三味線の高橋竹山さんの渋谷のジャンジャンでのライブを聴いたことがあるので、わが家に津軽三味線一式がやってくるのは何かの縁かもしれないと思った。
楽器には楽器の神様がいるというのが、自分の考えでもあることから、それなら、津軽三味線を習うかということになり、おつきあいのある三味線工房で破れた皮を張り替えてもらい、近くに住む師匠を探してもらった。
意気地なしの自分は一人では習えず、地歌の三絃で三味線に慣れている連れ合いを拝み倒して一緒に始めた。
芸能人並みに多忙な連れ合いは、嫌そうだったが渋々つきあってくれた。
そうして始めたのが、2021年の秋のことだから、古希を過ぎてからのチャレンジであった。
和楽器の指導では、楽譜を使う場合と口伝という楽譜なしでレッスンを受ける方法がある。楽譜のない口伝だったから、覚えるのが大変だったが、時代に助けられた。
そう、スマホで動画を連れ合いに撮ってもらい、自宅で見て、連れ合いのアドバイスを受けながら、おさらいをすることを繰り返し、月に一度のレッスンがこの秋で4年が経った。
この間、津軽三味線の初心者が習う曲、「六段」を何とか弾けるようになった。
三味線は指を使うし、無論頭を使うので、ボケ防止と思って始めたが、なんでも新しいことにチャレンジするのは大変だ。
連れ合いがつきあってくれたから今日まで続けることができたが、一人では絶対不可能だった。
自分の津軽三味線レッスンの顛末を書いたが、津軽三味線はその名の通り、青森県は津軽地方の名前を冠にし、津軽民謡を支えている。
青森に行くと、津軽三味線は土地と風土にすっかり根付いている。
楽器は異なるが、同様に沖縄には三線があり、沖縄民謡を支えている。
日本大好き人間の一人としては、日本の伝統芸能、伝統工芸など日本の美、日本らしさというものを残していきたいと強く願っている。
近年、「日本美を紡ぐ TSUMUGU 紡ぐプロジェクト」というこれぞジャーナリズムという素晴らしい内容の記事を掲載している。
「歴史ある楽器を守る」をテーマに伝統的な楽器を作る職人の技術継承や材料の確保は高齢化や自然環境の変化などによって難しくなっているとして、その11月2日は、邦楽器、洋楽器の中から篳篥(ひちりき)や三味線、グランドピアノ、パイプオルガンなどの製造、修理に携わる職人の働きぶりにスポットを当てている。
楽器の中から自分にとって身近な三味線について、書いておく。
東京八王子市の「東京和楽器」は1885年創業の老舗三味線メーカー。
3代目の王滝勝弘さん(85)は従業員13人と役割り分担しながら三味線作りをしている。
演奏人口の減少とコロナ渦で2020年に一度は廃業を決めた。
栄枯盛衰は世の常なれど、昭和の高度経済成長期には津軽三味線ブーム、民謡ブームで、月350〜400丁作ったこともあったのにである。
廃業を知った小売店や邦楽ファンが同社を救おうと支援に乗り出してくれた。
大瀧さんは奮起し営業を継続することにした。
「国の支援(国による三味線の買い上げなど)があって、何とか経営を維持しているのが実情」だとは大瀧さん。
ご先祖をはじめ、多くの人たちに支えられ、50代半ばを前に早期退職したことで、ストレスから逃れ、炎症性腸疾患クローン病を抱えながらも、後期高齢者になるまで生きられた。
嫁いでいる姉が「あんた、よくここまで生きられたね」と言外にもっと早くに死ぬと思っていたことを明かしたことがあったくらいである。
というわけで、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では、慰霊碑の前で経を唱える代わりに尺八を吹き、供養の祈りを捧げてきた。
古希を過ぎてからのことだが、親族から「母親が大事にしていた形見の津軽三味線を処分したいが、どなたか紹介してもらえませんか」と依頼があった。
連れ合いが箏、十七絃、地歌の三味線を楽しんでいることを知っていての頼みだった。
若い頃、青森を旅し、津軽三味線の高橋竹山さんの渋谷のジャンジャンでのライブを聴いたことがあるので、わが家に津軽三味線一式がやってくるのは何かの縁かもしれないと思った。
楽器には楽器の神様がいるというのが、自分の考えでもあることから、それなら、津軽三味線を習うかということになり、おつきあいのある三味線工房で破れた皮を張り替えてもらい、近くに住む師匠を探してもらった。
意気地なしの自分は一人では習えず、地歌の三絃で三味線に慣れている連れ合いを拝み倒して一緒に始めた。
芸能人並みに多忙な連れ合いは、嫌そうだったが渋々つきあってくれた。
そうして始めたのが、2021年の秋のことだから、古希を過ぎてからのチャレンジであった。
和楽器の指導では、楽譜を使う場合と口伝という楽譜なしでレッスンを受ける方法がある。楽譜のない口伝だったから、覚えるのが大変だったが、時代に助けられた。
そう、スマホで動画を連れ合いに撮ってもらい、自宅で見て、連れ合いのアドバイスを受けながら、おさらいをすることを繰り返し、月に一度のレッスンがこの秋で4年が経った。
この間、津軽三味線の初心者が習う曲、「六段」を何とか弾けるようになった。
三味線は指を使うし、無論頭を使うので、ボケ防止と思って始めたが、なんでも新しいことにチャレンジするのは大変だ。
連れ合いがつきあってくれたから今日まで続けることができたが、一人では絶対不可能だった。
自分の津軽三味線レッスンの顛末を書いたが、津軽三味線はその名の通り、青森県は津軽地方の名前を冠にし、津軽民謡を支えている。
青森に行くと、津軽三味線は土地と風土にすっかり根付いている。
楽器は異なるが、同様に沖縄には三線があり、沖縄民謡を支えている。
日本大好き人間の一人としては、日本の伝統芸能、伝統工芸など日本の美、日本らしさというものを残していきたいと強く願っている。
2025年10月12日
150年の伝統 久留米絣 後継者育成松枝小夜子さん
文化遺産を守り伝える個人や団体を顕彰する「第19回読売あをによし賞」の受賞者が決まった。
「保存・修復」部門には、文化財修復に欠かせない研磨用木炭の製造を続ける「名田庄総合木炭生産組合」(木戸口武夫組合長、福井県おおい町)。
「継承・発展」部門には、「久留米絣」の技術を受け継ぐ松枝小夜子さん(69)(福岡県久留米市)が選ばれた。と10月5日の読売が伝えている。
「漆器の『縁の下の力持ち』」という見出しで紹介されている研磨用木炭の製造を続ける福井県の名田庄総合木炭生産組合の皆さんが読売のあをによし賞を受賞されたことは日本の伝統工芸を応援している日本大好き人間の一人として、大いに喜んでいる。
社会的に陽の当たらない場所で頑張る人を応援したくなる性分だから、炭焼きのようなカネ儲けにならない、食べるだけで精いっぱいの場所で黙々と伝統工芸品の漆器などの製造を支える人たちにスポットが当たったことが嬉しいではないか。
さらに、「150年の伝統 技術次世代へ」という見出しで伝えられる伝統工芸品というか「久留米絣」の技術を受け継ぐ松枝小夜子さんが受賞したことも、継承が年々厳しさを増している織物業界にあって、これまた喜ばしいことである。
熊本市生まれの松枝さんが久留米絣と出会ったのは1982年。岐阜県内で草木染を教わった恩師の紹介で、後の義祖父となる、松枝玉記さん(故人)の工房で修業を始めた。85年に玉記さんの孫哲哉さんと結婚。共に若い世代を指導してきたが、5年前に哲哉さんが亡くなり、「代々受け継いだ技術を守るため、夫と続けてきた」と活動が認められ感無量と喜ぶ松枝小夜子さん。
後継者不足に直面しながらも、「久留米絣技術保持者会」が認める技術保持者や技術伝承者を工房は2人生み出した。
技術継承のため、地元の小学校で総合学習の時間に染めや織りを指導する。卒業後に工房に来て、手を動かしていく若者もいる。
ふだん絣の着物で過ごすような暮らしが理想としてはあっても、現実の生活ではなかなか実現できない。
そこで、普段着る洋服で久留米絣の生地というか、宣伝のコピーに久留米絣とあるものを買い求めている。
具体的には、いつの頃からか不明ながら、中高年女性向けの「ハルメク」という通販カタログを毎月送ってくるようになったので、連れ合いが着るものを自分がカタログで選んで買い求めるようなったというわけだ。
東京にも東久留米という自治体があるが、洋服の生地で久留米絣を使用しているというのだから嘘ということはないだろうということで、実際に買い求めているが、これがなかなか佳品なのである。
織物に限らないが、伝統工芸品の世界では、後継者難が課題となっていることが少なくない。
技術は一朝一夕で身につくものではないが、一度、身につけてしまえば、定年があるわけでなし、仕事としてはある意味安定している。
ただし、出来上がったものが需要と供給の原理からすれば、求められるものでなければならない。ここがかなり重要なポイントになる。
「漆器の縁の下の力持ち」と研磨用木炭の製造者が胸を張るだけの価値に共感するのは、炭作りの大変さを「ぽつんと一軒家」などのTV番組で教えてもらったことがあるからだ。
年輪が詰まった50年以上の原木を探すところから始まる炭作りだから、手間暇かかっているのだ。
こちらも、製造の技術を後継者に伝えていくことが課題であるが、地域で、取り組まないと個人でできることではない。
両者にエールをおくりたい。
「保存・修復」部門には、文化財修復に欠かせない研磨用木炭の製造を続ける「名田庄総合木炭生産組合」(木戸口武夫組合長、福井県おおい町)。
「継承・発展」部門には、「久留米絣」の技術を受け継ぐ松枝小夜子さん(69)(福岡県久留米市)が選ばれた。と10月5日の読売が伝えている。
「漆器の『縁の下の力持ち』」という見出しで紹介されている研磨用木炭の製造を続ける福井県の名田庄総合木炭生産組合の皆さんが読売のあをによし賞を受賞されたことは日本の伝統工芸を応援している日本大好き人間の一人として、大いに喜んでいる。
社会的に陽の当たらない場所で頑張る人を応援したくなる性分だから、炭焼きのようなカネ儲けにならない、食べるだけで精いっぱいの場所で黙々と伝統工芸品の漆器などの製造を支える人たちにスポットが当たったことが嬉しいではないか。
さらに、「150年の伝統 技術次世代へ」という見出しで伝えられる伝統工芸品というか「久留米絣」の技術を受け継ぐ松枝小夜子さんが受賞したことも、継承が年々厳しさを増している織物業界にあって、これまた喜ばしいことである。
熊本市生まれの松枝さんが久留米絣と出会ったのは1982年。岐阜県内で草木染を教わった恩師の紹介で、後の義祖父となる、松枝玉記さん(故人)の工房で修業を始めた。85年に玉記さんの孫哲哉さんと結婚。共に若い世代を指導してきたが、5年前に哲哉さんが亡くなり、「代々受け継いだ技術を守るため、夫と続けてきた」と活動が認められ感無量と喜ぶ松枝小夜子さん。
後継者不足に直面しながらも、「久留米絣技術保持者会」が認める技術保持者や技術伝承者を工房は2人生み出した。
技術継承のため、地元の小学校で総合学習の時間に染めや織りを指導する。卒業後に工房に来て、手を動かしていく若者もいる。
ふだん絣の着物で過ごすような暮らしが理想としてはあっても、現実の生活ではなかなか実現できない。
そこで、普段着る洋服で久留米絣の生地というか、宣伝のコピーに久留米絣とあるものを買い求めている。
具体的には、いつの頃からか不明ながら、中高年女性向けの「ハルメク」という通販カタログを毎月送ってくるようになったので、連れ合いが着るものを自分がカタログで選んで買い求めるようなったというわけだ。
東京にも東久留米という自治体があるが、洋服の生地で久留米絣を使用しているというのだから嘘ということはないだろうということで、実際に買い求めているが、これがなかなか佳品なのである。
織物に限らないが、伝統工芸品の世界では、後継者難が課題となっていることが少なくない。
技術は一朝一夕で身につくものではないが、一度、身につけてしまえば、定年があるわけでなし、仕事としてはある意味安定している。
ただし、出来上がったものが需要と供給の原理からすれば、求められるものでなければならない。ここがかなり重要なポイントになる。
「漆器の縁の下の力持ち」と研磨用木炭の製造者が胸を張るだけの価値に共感するのは、炭作りの大変さを「ぽつんと一軒家」などのTV番組で教えてもらったことがあるからだ。
年輪が詰まった50年以上の原木を探すところから始まる炭作りだから、手間暇かかっているのだ。
こちらも、製造の技術を後継者に伝えていくことが課題であるが、地域で、取り組まないと個人でできることではない。
両者にエールをおくりたい。
2025年07月08日
高橋竹山の津軽三味線
おとなのEテレタイムマシン1998年に放送されたETV特集「最後の舞台〜津軽三味線 高橋竹山の挑戦〜」を再放送するという粋な企画で嬉しくなり、熱が醒めないうちに書いておく。
東京は渋谷にあった小劇場ジャンジャンで1973年12月から高橋竹山の津軽三味線の定期演奏会が開催され、何回か聴きに行っている。
全共闘運動の全盛期に学生時代を過ごしたので、教育をきちんとうけてこなかった、勉強が不十分だった反省から、50代半ばを前に炎症性腸疾患クローン病の加療を理由に早期退職し、通教ではあるが、卒論も書いて還暦の頃には卒業できた。
社会人になって、少しばかり自由にカネが使えるようになり、夏に北海道旅行をし、次いで津軽半島、下北半島など青森を旅行している時、津軽三味線を聴く機会に恵まれた。
波長が合うとでもいえばいいのか。津軽三味線の音色に惹きこまれた。
1977年に公開された新藤兼人監督『竹山ひとり旅』で林隆三が演じた竹山を観たことで、さらに影響を受けて津軽三味線が好きになったような気がする。
津軽三味線は難しそうで、自分で演奏してみようとは全く思わなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年6月、およそ30年ぶりに訪れた青森、弘前では津軽三味線を聴き較べる機会に恵まれた。
20代の終わりに、尺八を始めたこともあって、小濱明人さんのライブにゲスト出演した津軽三味線の山中信人さんの演奏を聴いて驚いた。
若い頃、買い求めてよく聴いていたレコードの竹山さんとは弾き方、音色がまるで違うことに気づいた。
古希を過ぎた頃、親族から形見の津軽三味線を処分したいが、誰か譲り受けてくれる人を知らないか。とわが家に津軽三味線一式がケースごと持ち込まれた。
故人が喜ぶのは楽器を受け継ぐことだから、ということで、連れ合いを拝み倒して一緒に習うことにした。
連れ合いは、箏、十七絃、三味線にピアノと今もレッスンを続けていて、忙しいから嫌だと言っていたが、渋々つきあってくれた。
あれから、もう3年が過ぎ、後期高齢者になっても、何とか続いている。
石の上にも三年というが、初心者が習う入門の曲「六段」が何とか合奏できるようになった。
名人と称えられた竹山さんと一緒に津軽三味線を語るのは失礼な話だが、竹山さんは三味線を弾く、自分が習っている先生は太鼓みたいに叩くのだということで、全く音色が異なるが、津軽三味線がひょんなことからわが家にやってきて、今、習っているのは不思議でならない。
人生というものは縁だと思っているが、まさに、縁があったとしか思えない。
縁といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れた沖縄と本州の最果て青森に縁があるのではないかと気になって仕方ない。
まず言語である。
津軽弁と琉球弁というか沖縄弁はどちらも難解でよくわからない。青森は厳密にいえば、津軽弁と南部弁である。
津軽三味線に沖縄では三線。沖縄の居酒屋では歌に合わせてすぐに客が踊りだすが、津軽でも、手踊りというのか竹山さんの弟子が踊っていたようにすぐに踊りだすのだ。
津軽がこぎん刺しなら沖縄は芭蕉布という具合である。
気分を害したら謝るが、北と南の両県はいずれも貧しい。
沖縄は基地だらけなら、青森には米軍三沢基地があるし、原発の使用済み核燃料の中間貯蔵施設もあるということで、嫌がるものを無理やり押し付けられている気がする。
竹山さんは目が不自由で三味線は生きるための相棒だから、聴く者の魂を揺さぶる演奏を度重なる門つけで身に着けたのであろうか。
生きるのは誰でも大変なことだが、目が不自由となればなおさらのことだから、古希過ぎの手習いとでは比較にもならない、それでも、同じ津軽三味線を弾いているということだけで嬉しくなってしまう、
東京は渋谷にあった小劇場ジャンジャンで1973年12月から高橋竹山の津軽三味線の定期演奏会が開催され、何回か聴きに行っている。
全共闘運動の全盛期に学生時代を過ごしたので、教育をきちんとうけてこなかった、勉強が不十分だった反省から、50代半ばを前に炎症性腸疾患クローン病の加療を理由に早期退職し、通教ではあるが、卒論も書いて還暦の頃には卒業できた。
社会人になって、少しばかり自由にカネが使えるようになり、夏に北海道旅行をし、次いで津軽半島、下北半島など青森を旅行している時、津軽三味線を聴く機会に恵まれた。
波長が合うとでもいえばいいのか。津軽三味線の音色に惹きこまれた。
1977年に公開された新藤兼人監督『竹山ひとり旅』で林隆三が演じた竹山を観たことで、さらに影響を受けて津軽三味線が好きになったような気がする。
津軽三味線は難しそうで、自分で演奏してみようとは全く思わなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年6月、およそ30年ぶりに訪れた青森、弘前では津軽三味線を聴き較べる機会に恵まれた。
20代の終わりに、尺八を始めたこともあって、小濱明人さんのライブにゲスト出演した津軽三味線の山中信人さんの演奏を聴いて驚いた。
若い頃、買い求めてよく聴いていたレコードの竹山さんとは弾き方、音色がまるで違うことに気づいた。
古希を過ぎた頃、親族から形見の津軽三味線を処分したいが、誰か譲り受けてくれる人を知らないか。とわが家に津軽三味線一式がケースごと持ち込まれた。
故人が喜ぶのは楽器を受け継ぐことだから、ということで、連れ合いを拝み倒して一緒に習うことにした。
連れ合いは、箏、十七絃、三味線にピアノと今もレッスンを続けていて、忙しいから嫌だと言っていたが、渋々つきあってくれた。
あれから、もう3年が過ぎ、後期高齢者になっても、何とか続いている。
石の上にも三年というが、初心者が習う入門の曲「六段」が何とか合奏できるようになった。
名人と称えられた竹山さんと一緒に津軽三味線を語るのは失礼な話だが、竹山さんは三味線を弾く、自分が習っている先生は太鼓みたいに叩くのだということで、全く音色が異なるが、津軽三味線がひょんなことからわが家にやってきて、今、習っているのは不思議でならない。
人生というものは縁だと思っているが、まさに、縁があったとしか思えない。
縁といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れた沖縄と本州の最果て青森に縁があるのではないかと気になって仕方ない。
まず言語である。
津軽弁と琉球弁というか沖縄弁はどちらも難解でよくわからない。青森は厳密にいえば、津軽弁と南部弁である。
津軽三味線に沖縄では三線。沖縄の居酒屋では歌に合わせてすぐに客が踊りだすが、津軽でも、手踊りというのか竹山さんの弟子が踊っていたようにすぐに踊りだすのだ。
津軽がこぎん刺しなら沖縄は芭蕉布という具合である。
気分を害したら謝るが、北と南の両県はいずれも貧しい。
沖縄は基地だらけなら、青森には米軍三沢基地があるし、原発の使用済み核燃料の中間貯蔵施設もあるということで、嫌がるものを無理やり押し付けられている気がする。
竹山さんは目が不自由で三味線は生きるための相棒だから、聴く者の魂を揺さぶる演奏を度重なる門つけで身に着けたのであろうか。
生きるのは誰でも大変なことだが、目が不自由となればなおさらのことだから、古希過ぎの手習いとでは比較にもならない、それでも、同じ津軽三味線を弾いているということだけで嬉しくなってしまう、
2025年05月24日
暮らし彩る 手仕事の美 民芸「100年」
語り継ぐ戦争だから、戦後80年ということでメディアの取り上げる回数も例年より断然多い。
アジア太平洋戦争は別名、昭和の戦争とも呼ばれるが、その昭和が100年の2025年は生活道具に美の価値を見出した柳宗悦が提唱した民芸100年でもある。
5月13日の読売(生活部 金来ひろみ)がニュースの門で「暮らしを彩る 手仕事の美 民芸『100年』」というタイトルで、民芸を取り上げていた。
柳宗悦らによって「民芸」という言葉が生まれたのは1925年のことだった。1934年に日本民芸協会設立、1936年日本民芸館設立。70年大阪万博でパピリオン「日本民芸館」(現大阪日本民芸館)、1990年代ビームスが民芸の取り扱いを始めるという歴史を刻む。
民芸は今、おしゃれでモダンな暮らしの道具として若い世代の注目を集める。
1970年代の国鉄(当時)のディスカバー・ジャパンで地方への旅行で手工芸品を買い求めるのが流行って以来のことになる。
民芸人気の中、産地は作り手不足、原材料の調達などの課題を抱えている。
例として、江戸時代に作られ始めた栃木県鹿沼市の鹿沼箒があげられている。
記者は小鹿田焼の皿を愛用するそうな。
民芸運動といえば、柳宗悦は無論のこと、陶芸家の河井寛次郎や浜田庄司の名前がすぐに頭に浮かぶくらいよく知られている。
昨日、書いたナイロン釣り糸が海中で分解する話で、わが家の土蔵を解体した時、お宝の一つや二つくらいないかなと期待したが、アンテイックの品物を集める業者を喜ばせただけで終わった。
欲しい人から見れば、食器や衣類など古いものばかりだから何かしらあったにちがいない。
1970年代の国鉄がディスカバージャパンのキャンペーンをしていた時、自分も北海道や東北を旅して手工芸品を買い求める旅の楽しさに目覚めた。
買い求めたのは津軽こぎん刺しの小物、津軽塗の下駄などである。
興味、関心があったのは陶芸作品で、後年、益子で修業したという陶芸家の教室に通ったことで、益子の陶器市に車で行ったことがあり、陶器を買い求めたことがある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では、訪れた土地の陶器、茶わんやぐい飲みなどを買い求めて土産にしてきた。
そういえば、土蔵を解体した時、祖父が愛用していたという釣り竿があったので手許にとってあるが、戦前の品物として、80年は経っているので職人の手工芸品になるのではないか。
探せば、民芸品はわが家にもありそうな気がする。
手工芸品に価値を見出すのは自分も同じである。
アジア太平洋戦争は別名、昭和の戦争とも呼ばれるが、その昭和が100年の2025年は生活道具に美の価値を見出した柳宗悦が提唱した民芸100年でもある。
5月13日の読売(生活部 金来ひろみ)がニュースの門で「暮らしを彩る 手仕事の美 民芸『100年』」というタイトルで、民芸を取り上げていた。
柳宗悦らによって「民芸」という言葉が生まれたのは1925年のことだった。1934年に日本民芸協会設立、1936年日本民芸館設立。70年大阪万博でパピリオン「日本民芸館」(現大阪日本民芸館)、1990年代ビームスが民芸の取り扱いを始めるという歴史を刻む。
民芸は今、おしゃれでモダンな暮らしの道具として若い世代の注目を集める。
1970年代の国鉄(当時)のディスカバー・ジャパンで地方への旅行で手工芸品を買い求めるのが流行って以来のことになる。
民芸人気の中、産地は作り手不足、原材料の調達などの課題を抱えている。
例として、江戸時代に作られ始めた栃木県鹿沼市の鹿沼箒があげられている。
記者は小鹿田焼の皿を愛用するそうな。
民芸運動といえば、柳宗悦は無論のこと、陶芸家の河井寛次郎や浜田庄司の名前がすぐに頭に浮かぶくらいよく知られている。
昨日、書いたナイロン釣り糸が海中で分解する話で、わが家の土蔵を解体した時、お宝の一つや二つくらいないかなと期待したが、アンテイックの品物を集める業者を喜ばせただけで終わった。
欲しい人から見れば、食器や衣類など古いものばかりだから何かしらあったにちがいない。
1970年代の国鉄がディスカバージャパンのキャンペーンをしていた時、自分も北海道や東北を旅して手工芸品を買い求める旅の楽しさに目覚めた。
買い求めたのは津軽こぎん刺しの小物、津軽塗の下駄などである。
興味、関心があったのは陶芸作品で、後年、益子で修業したという陶芸家の教室に通ったことで、益子の陶器市に車で行ったことがあり、陶器を買い求めたことがある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では、訪れた土地の陶器、茶わんやぐい飲みなどを買い求めて土産にしてきた。
そういえば、土蔵を解体した時、祖父が愛用していたという釣り竿があったので手許にとってあるが、戦前の品物として、80年は経っているので職人の手工芸品になるのではないか。
探せば、民芸品はわが家にもありそうな気がする。
手工芸品に価値を見出すのは自分も同じである。
2025年03月21日
伝統の織物で洋服をデザインする
わが家に素人が作った壊れた尺八があったことから、尺八を習い始めて半世紀近くになる。
絶対音感などとは無縁で、リズム感はないに等しいということでずっと続けてきても、一向に上手くならない。
それでも、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、慰霊碑や供養塔の前で経を唱える代わりに吹くくらいのことはできるようになった。
ところが、一つの楽器との出合いで邦楽に関心を持つようになったばかりか、伝統芸能や伝統工芸に魅せられていく。
「職人の手仕事 ファッションの主役に」という見出しで、日本伝統の織物で洋服をデザインする寺西俊輔さん(45)のことを3月16日の読売が「顔 Sunday」で紹介していた記事が目に留まった。
日本各地の伝統的織物を現代の洋服に仕立てるプロジェクト「MIZEN」の代表を務める寺西さん。
「伝統の技法に目を向けてもらいたい」と1月に「牛首紬』の織元がある石川県白山市に顧客と職人とをつなぐ新たな店を開いた。
28歳で渡欧。「エルメス」でデザイナーとして働いていた2016年、パリの見本市で牛首紬の生地に出合った。
2匹の蚕が作る希少な「玉繭」から引き出される絡み合った糸で織られた独特な立体感と色合いに魅了された。
「素晴らしい手仕事が各地にある日本ではデザイナーではなく、技術が主役になれる」との思いで、2年後の帰国後、独立した。
目指すのは裏方の職人が前面に出るファッションだ。
和服用に織られた反物の形や風合いを最大限に生かして洋服のデザインに落とし込み、紬や絣をジャケットなどに仕立てる。
津軽の「こぎん刺し」、鹿児島・奄美大島の「大島紬」など織元を訪ね歩き、仕入れを拡大してきた。
伝統工芸の伝承に力を入れてきた読売は「工芸の郷から」という連載で、日本各地の伝統工芸品を紹介してきたが、過去、自分もその中から何回か取り上げている。
その2月26日は鳥取県西部に伝わる農民が生んだ素朴な味わい「弓浜絣」だった。
深い藍色に、白く染め抜かれた鶴亀や鱗文といった素朴な柄が映える。と写真で紹介している。
伝統工芸の一つである津軽こぎん刺しという刺し子に出合ったのは、社会人になって、少しはカネが自由に使えるようになったので、若いうちにあちこち行って見聞を広めようとして、北海道に行き、次いで下北、津軽半島に行ったときのことである。
日本の伝統芸能や伝統工芸に詳しかった永六輔さんが身に着けていた袢纏が津軽こぎん刺しだったとは耳にした記憶がある。
かなり高価なもので、伝統工芸品も価格が市民が手に入らないほど高価では普及は難しいかもしれない。
首都圏の田舎町に生まれ育ったので、首都圏では、東京なら八王子は絹織物の町として知られていたし、武蔵村山市は村山紬の町だったはず。
機織りの町、群馬県桐生市や伊勢崎市は、桐生織りや伊勢崎絣で知られている。世界遺産で知られる富岡製糸場がある富岡には富岡シルクがある。
思いつくままに書いても、首都圏だけでも織物関係でかなり伝統工芸品があり、着る人が少なくなった着物ではなく日常的に着る洋服にすれば、売れることは間違いない。
ただし、職人がが作ることを考えれば相当の価格になってしまうことは仕方ないが、需要がなければ供給し続けることは難しいので、工夫がいるだろう。
連れ合い宛に「ハルメク」という通販の会社からカタログが毎月手許に届く。
日本製が少ないのが気に入らないが、偶に日本製の織物を使っていると表示されている洋服があり、連れ合いに薦めて買い求めたことがある。
この通販は高価なものを買い求める客層をターゲットにはしていないみたいで、価格の割に佳いものがあったりもするのだ。
寺西さんが店を開いた石川県白山市はその昔、松任市と言っていた頃訪れたことがある。金沢のベッドタウンのような街で、江戸時代の俳人加賀千代女で知られる。
古都金沢に近いし、店を開くには適している。
寺西さんのようなプロではない自分が見ても、日本の伝統工芸の織物の生地を使った洋服は絶対需要が多いと断言できる。
伝統工芸品の販路が増えることを期待したい。
絶対音感などとは無縁で、リズム感はないに等しいということでずっと続けてきても、一向に上手くならない。
それでも、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、慰霊碑や供養塔の前で経を唱える代わりに吹くくらいのことはできるようになった。
ところが、一つの楽器との出合いで邦楽に関心を持つようになったばかりか、伝統芸能や伝統工芸に魅せられていく。
「職人の手仕事 ファッションの主役に」という見出しで、日本伝統の織物で洋服をデザインする寺西俊輔さん(45)のことを3月16日の読売が「顔 Sunday」で紹介していた記事が目に留まった。
日本各地の伝統的織物を現代の洋服に仕立てるプロジェクト「MIZEN」の代表を務める寺西さん。
「伝統の技法に目を向けてもらいたい」と1月に「牛首紬』の織元がある石川県白山市に顧客と職人とをつなぐ新たな店を開いた。
28歳で渡欧。「エルメス」でデザイナーとして働いていた2016年、パリの見本市で牛首紬の生地に出合った。
2匹の蚕が作る希少な「玉繭」から引き出される絡み合った糸で織られた独特な立体感と色合いに魅了された。
「素晴らしい手仕事が各地にある日本ではデザイナーではなく、技術が主役になれる」との思いで、2年後の帰国後、独立した。
目指すのは裏方の職人が前面に出るファッションだ。
和服用に織られた反物の形や風合いを最大限に生かして洋服のデザインに落とし込み、紬や絣をジャケットなどに仕立てる。
津軽の「こぎん刺し」、鹿児島・奄美大島の「大島紬」など織元を訪ね歩き、仕入れを拡大してきた。
伝統工芸の伝承に力を入れてきた読売は「工芸の郷から」という連載で、日本各地の伝統工芸品を紹介してきたが、過去、自分もその中から何回か取り上げている。
その2月26日は鳥取県西部に伝わる農民が生んだ素朴な味わい「弓浜絣」だった。
深い藍色に、白く染め抜かれた鶴亀や鱗文といった素朴な柄が映える。と写真で紹介している。
伝統工芸の一つである津軽こぎん刺しという刺し子に出合ったのは、社会人になって、少しはカネが自由に使えるようになったので、若いうちにあちこち行って見聞を広めようとして、北海道に行き、次いで下北、津軽半島に行ったときのことである。
日本の伝統芸能や伝統工芸に詳しかった永六輔さんが身に着けていた袢纏が津軽こぎん刺しだったとは耳にした記憶がある。
かなり高価なもので、伝統工芸品も価格が市民が手に入らないほど高価では普及は難しいかもしれない。
首都圏の田舎町に生まれ育ったので、首都圏では、東京なら八王子は絹織物の町として知られていたし、武蔵村山市は村山紬の町だったはず。
機織りの町、群馬県桐生市や伊勢崎市は、桐生織りや伊勢崎絣で知られている。世界遺産で知られる富岡製糸場がある富岡には富岡シルクがある。
思いつくままに書いても、首都圏だけでも織物関係でかなり伝統工芸品があり、着る人が少なくなった着物ではなく日常的に着る洋服にすれば、売れることは間違いない。
ただし、職人がが作ることを考えれば相当の価格になってしまうことは仕方ないが、需要がなければ供給し続けることは難しいので、工夫がいるだろう。
連れ合い宛に「ハルメク」という通販の会社からカタログが毎月手許に届く。
日本製が少ないのが気に入らないが、偶に日本製の織物を使っていると表示されている洋服があり、連れ合いに薦めて買い求めたことがある。
この通販は高価なものを買い求める客層をターゲットにはしていないみたいで、価格の割に佳いものがあったりもするのだ。
寺西さんが店を開いた石川県白山市はその昔、松任市と言っていた頃訪れたことがある。金沢のベッドタウンのような街で、江戸時代の俳人加賀千代女で知られる。
古都金沢に近いし、店を開くには適している。
寺西さんのようなプロではない自分が見ても、日本の伝統工芸の織物の生地を使った洋服は絶対需要が多いと断言できる。
伝統工芸品の販路が増えることを期待したい。
2025年02月10日
東京の伝統工芸 東京三味線
2月1日の東京都の広報で、未来につなぐ 東京には、伝統工芸品42品目、切子、人形、甲冑、仏壇、籐工芸、刃物や洋傘、印章などがあると伝えている。
その一部として江戸木版画、江戸木目込人形、多摩織、その工芸の技が紹介されている。
使うほどに愛着が増す工芸品として「東京銀器」と「東京三味線」があることもまた取り上げられている。
三味線といえば、連れ合いが箏、十七絃そして三味線のレッスンを受け、いくつかの合奏グループのメンバーになっていることから、それなりの数の楽器が集まっている。
ついでに言えば、連れ合いはピアノが好きで、働いて自分で買い求めたというピアノを嫁いでくるとき、持参してきただけでなく、今日までレッスンも続けているが、生来、音楽に適性があるのか、カラオケでも、デュエットソングで上手にハモれる。
楽器には神様が宿っているというのが自分の考えで、どういうわけか、我が家に数年前、津軽三味線一式がやってきた。
親族の形見の品で、誰か大事にしてくれる人に受け継いでもらいたいような話だったので、せっかくだからということで、行きつけの三味線屋の主に師匠を紹介してもらい、古希を過ぎてからのチャレンジであるが連れ合いと一緒に始めてから、3年が経ち、初心者が習うという「六段」を弾けるようにはなった。
さて、東京三味線である。
金土日のNHKマイあさラジオの田中逸人さんは大学の時、邦楽を楽しんでいたとのことで、邦楽器を紹介している。
演奏者を招いて、楽器の演奏と説明をしてくれているので貴重な放送となっている。
東京の広報では、ただ「東京三味線」とだけ紹介していたので、詳しいことがわからなかったが、自分の知っている知識で説明すると、三味線には太棹、中棹、細棹とあって、それぞれ、演奏するものが異なる。
まず、太棹といえば、義太夫と上述の津軽三味線がある。
中棹といえば、民謡で阿波踊りや風の盆で使われているし、地歌で箏などと合奏したりもする。
歌舞伎の常磐津や清元も中棹が使われているのではないか。
細竿は長唄で歌舞伎などで知られているが、芸妓がお座敷で長唄を披露するとき、地方として立ち方の日本舞踊を支える役割も果たす。
三味線は三絃ともいうが、皮が破れることがあるので、保守で注意が足りないとその分費用が掛かるので、カネがないと習い事を続けるのはなかなか骨が折れるかもしれない。
因みに、皮の張替えは松竹梅ならぬ上中下みたいに値段に差がある。
尺八が鳴らしにくいので、製管で著名な人に手を加えてもらった時の代金が片手だったが、まあ、そのくらいは見込んでおけば大丈夫かも。
津軽三味線が3年で2回破れたから、皮は破れる、陶器は割れると考えた方がいい。
東京都の広報が紹介していた「東京三味線」とは中棹あるいは細棹の三味線のことかなと思うが、地歌は江戸時代から続いているはずだし、その意味で中棹もまた江戸時代から伝承されているのではないか。
TVドラマ必殺シリーズで、三味線屋が出ていたし、山田五十鈴が実際に三味線を弾いていたのを眺めていたが、細棹と中棹を弾き比べていないので、詳しい違いについてはそこまで明るくない。
我が家にあるのは中棹であるが、細棹かと思えるような三絃も頂戴したものがある。
伝統芸能として、三絃は欠かせない。
芸妓が三絃なしでは、日本髪でないのと同じで様にならない。
その一部として江戸木版画、江戸木目込人形、多摩織、その工芸の技が紹介されている。
使うほどに愛着が増す工芸品として「東京銀器」と「東京三味線」があることもまた取り上げられている。
三味線といえば、連れ合いが箏、十七絃そして三味線のレッスンを受け、いくつかの合奏グループのメンバーになっていることから、それなりの数の楽器が集まっている。
ついでに言えば、連れ合いはピアノが好きで、働いて自分で買い求めたというピアノを嫁いでくるとき、持参してきただけでなく、今日までレッスンも続けているが、生来、音楽に適性があるのか、カラオケでも、デュエットソングで上手にハモれる。
楽器には神様が宿っているというのが自分の考えで、どういうわけか、我が家に数年前、津軽三味線一式がやってきた。
親族の形見の品で、誰か大事にしてくれる人に受け継いでもらいたいような話だったので、せっかくだからということで、行きつけの三味線屋の主に師匠を紹介してもらい、古希を過ぎてからのチャレンジであるが連れ合いと一緒に始めてから、3年が経ち、初心者が習うという「六段」を弾けるようにはなった。
さて、東京三味線である。
金土日のNHKマイあさラジオの田中逸人さんは大学の時、邦楽を楽しんでいたとのことで、邦楽器を紹介している。
演奏者を招いて、楽器の演奏と説明をしてくれているので貴重な放送となっている。
東京の広報では、ただ「東京三味線」とだけ紹介していたので、詳しいことがわからなかったが、自分の知っている知識で説明すると、三味線には太棹、中棹、細棹とあって、それぞれ、演奏するものが異なる。
まず、太棹といえば、義太夫と上述の津軽三味線がある。
中棹といえば、民謡で阿波踊りや風の盆で使われているし、地歌で箏などと合奏したりもする。
歌舞伎の常磐津や清元も中棹が使われているのではないか。
細竿は長唄で歌舞伎などで知られているが、芸妓がお座敷で長唄を披露するとき、地方として立ち方の日本舞踊を支える役割も果たす。
三味線は三絃ともいうが、皮が破れることがあるので、保守で注意が足りないとその分費用が掛かるので、カネがないと習い事を続けるのはなかなか骨が折れるかもしれない。
因みに、皮の張替えは松竹梅ならぬ上中下みたいに値段に差がある。
尺八が鳴らしにくいので、製管で著名な人に手を加えてもらった時の代金が片手だったが、まあ、そのくらいは見込んでおけば大丈夫かも。
津軽三味線が3年で2回破れたから、皮は破れる、陶器は割れると考えた方がいい。
東京都の広報が紹介していた「東京三味線」とは中棹あるいは細棹の三味線のことかなと思うが、地歌は江戸時代から続いているはずだし、その意味で中棹もまた江戸時代から伝承されているのではないか。
TVドラマ必殺シリーズで、三味線屋が出ていたし、山田五十鈴が実際に三味線を弾いていたのを眺めていたが、細棹と中棹を弾き比べていないので、詳しい違いについてはそこまで明るくない。
我が家にあるのは中棹であるが、細棹かと思えるような三絃も頂戴したものがある。
伝統芸能として、三絃は欠かせない。
芸妓が三絃なしでは、日本髪でないのと同じで様にならない。
2025年02月08日
伝統技法「金継ぎ」で能登の器再生
能登半島地震で割れた被災者の家の陶磁器を、東京の美術家ナカムラクニオさん(53)が伝統の技法「金継ぎ」で無償で修復し、新たな命を吹き込む。
「壊れた器をつなぎ合わせ、地震の記憶を受け継ぎたい」と伝統工芸を通じて見守る。と2月4日の読売(深井陽香記者)が伝えている。
金継ぎは割れたり、欠けたりした花瓶やつぼ、茶わんなどを漆でつなぎ合わせ、金粉で飾る日本の伝統技法。ナカムラさんは東京杉並区でブックカフェを経営し、金継ぎ作家としても活動している。
輪島塗や珠洲焼など「伝統工芸の聖地」でもある能登半島にも制作の場をと古民家を手に入れていた。被災で食器が何十枚も割れていた。ほどなく金継ぎで修復を始めたが、被災したみんなの器を再生するのが自分の使命では」と思い直し、SNSで呼びかけた。
器の修復だけでなく、能登の漆林育成も夢に描く。金継ぎした自らの器を販売し、売り上げで漆の木を輪島に植えるというものだ。
「直せるものなら、大切なものが壊れても落ち込むことはない『直す』作業で人の心を元気にしたい」とナカムラさん。
陶磁器を眺めるのが好きだ。
益子で修業したという自分より一回り上の陶芸家の教室をみつけ、連れ合いと通ったことがあるし、自治体や大学の市民向け講座にも参加したことがある。
生来の不器用な手先で抹茶の茶碗づくりにチャレンジしたが、モノにはならなかった。同じ土いじりの畑が忙しくて続かなかったが、師匠が参加している益子焼の陶器市に連れあいの運転する車で行ったのは楽しい思い出となっている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで周っているので、慰霊碑の近くに陶磁器の資料館や窯元、店などがあれば、立ち寄ったりして、土産に抹茶碗や酒器などを買い求めてきた。
知覧特攻平和会館に行ったときは、薩摩焼の沈壽官さんの資料館に立ち寄ったこともある。
さて、金継ぎの常識程度のことは当然知っていたが、修復を依頼したことはまだない。
手作りの湯飲み茶わんを愛用していたのだが、家族の不注意で割れてしまったときは落胆したが、陶器は割れるものと決まっているので、すぐに諦めるよりなかった。
韓国に行ったとき利川の陶磁器村だったと記憶する。青磁の湯飲み茶わんを土産に買い求めてきたが、使っていた母親が貫入をひび割れと思い、もう使わないと捨てようとしたので、捨てたことにして、しまってある。
金継ぎという伝統工法は編み出した職人の匠の技は素晴らしい。
本来、割れて使い物にならなくなってしまった陶磁器が修復できるのだから嬉しいことではないか。
さらに、金継ぎで漆を使うということで、同じく漆を使う輪島塗の能登に漆の木を植えるというナカムラさんにエールを送らないわけにはいかない。
藤沢周平『漆の実のみのる国』(文春文庫)で米沢藩主上杉鷹山が藩の財政を立て直すべく殖産事業として漆の木を植える話だったと記憶する。
日本各地では、輪島塗のような漆器の生産があり、漆は貴重な収入源になるはずだった。
能登半島では、輪島塗があるくらいだから、漆は必需品でもあるが、震災で割れてしまった陶磁器などはいくらでもあるだろうから、金継ぎの材料としての漆も必要になってくると植林に目を付けたのは流石である。
手作りのものは二つと同じものはないわけで、それだけに価値があることを考えれば金継ぎでの修復もまた価値がある。
「壊れた器をつなぎ合わせ、地震の記憶を受け継ぎたい」と伝統工芸を通じて見守る。と2月4日の読売(深井陽香記者)が伝えている。
金継ぎは割れたり、欠けたりした花瓶やつぼ、茶わんなどを漆でつなぎ合わせ、金粉で飾る日本の伝統技法。ナカムラさんは東京杉並区でブックカフェを経営し、金継ぎ作家としても活動している。
輪島塗や珠洲焼など「伝統工芸の聖地」でもある能登半島にも制作の場をと古民家を手に入れていた。被災で食器が何十枚も割れていた。ほどなく金継ぎで修復を始めたが、被災したみんなの器を再生するのが自分の使命では」と思い直し、SNSで呼びかけた。
器の修復だけでなく、能登の漆林育成も夢に描く。金継ぎした自らの器を販売し、売り上げで漆の木を輪島に植えるというものだ。
「直せるものなら、大切なものが壊れても落ち込むことはない『直す』作業で人の心を元気にしたい」とナカムラさん。
陶磁器を眺めるのが好きだ。
益子で修業したという自分より一回り上の陶芸家の教室をみつけ、連れ合いと通ったことがあるし、自治体や大学の市民向け講座にも参加したことがある。
生来の不器用な手先で抹茶の茶碗づくりにチャレンジしたが、モノにはならなかった。同じ土いじりの畑が忙しくて続かなかったが、師匠が参加している益子焼の陶器市に連れあいの運転する車で行ったのは楽しい思い出となっている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで周っているので、慰霊碑の近くに陶磁器の資料館や窯元、店などがあれば、立ち寄ったりして、土産に抹茶碗や酒器などを買い求めてきた。
知覧特攻平和会館に行ったときは、薩摩焼の沈壽官さんの資料館に立ち寄ったこともある。
さて、金継ぎの常識程度のことは当然知っていたが、修復を依頼したことはまだない。
手作りの湯飲み茶わんを愛用していたのだが、家族の不注意で割れてしまったときは落胆したが、陶器は割れるものと決まっているので、すぐに諦めるよりなかった。
韓国に行ったとき利川の陶磁器村だったと記憶する。青磁の湯飲み茶わんを土産に買い求めてきたが、使っていた母親が貫入をひび割れと思い、もう使わないと捨てようとしたので、捨てたことにして、しまってある。
金継ぎという伝統工法は編み出した職人の匠の技は素晴らしい。
本来、割れて使い物にならなくなってしまった陶磁器が修復できるのだから嬉しいことではないか。
さらに、金継ぎで漆を使うということで、同じく漆を使う輪島塗の能登に漆の木を植えるというナカムラさんにエールを送らないわけにはいかない。
藤沢周平『漆の実のみのる国』(文春文庫)で米沢藩主上杉鷹山が藩の財政を立て直すべく殖産事業として漆の木を植える話だったと記憶する。
日本各地では、輪島塗のような漆器の生産があり、漆は貴重な収入源になるはずだった。
能登半島では、輪島塗があるくらいだから、漆は必需品でもあるが、震災で割れてしまった陶磁器などはいくらでもあるだろうから、金継ぎの材料としての漆も必要になってくると植林に目を付けたのは流石である。
手作りのものは二つと同じものはないわけで、それだけに価値があることを考えれば金継ぎでの修復もまた価値がある。
2025年01月08日
竹工芸の美 米専門家公募展を開催
大分県で2024年5月、竹工芸の米国人専門家2人が若手作家を対象とした公募展を初めて開催した。竹工芸が海外で芸術作品として人気を集めていることを象徴する事例。
活気ある日本の竹工芸界をリードする大分県では10月、県内2人目となる竹工芸の重要無形文化財保持者(人間国宝)岐部笙芳さん(73)も誕生した。と12月25日の読売(井上裕介記者)が伝えている。
公募展の審査は、米国のメトロポリタン美術館やサンフランシスコ・アジア美術館の学芸員らが務めた。
日本の竹工芸を欧米に紹介してきた専門家ロバート・コフランドさんは、大分で開催した理由を「若い志望者からベテランの作家までが多く集まっている。県が運営する授業料無料の竹工芸訓練センターで基礎を学ぶことができ、美術館などで先輩作家の作品を観る機会も多い」と語る。
大分県は竹工芸で主に用いられる真竹の生産量が全国1位。籠などの生活用品や温泉地の土産品として作られてきた歴史は古く、室町時代に遡る。
1967年には竹工芸を「用の美」から芸術の域に高めたとされる生野祥雲齋がこの分野で初めて人間国宝に認定された。
今回受賞した中臣一さん(50)は「時代に流されない原始的な手作業が魅力。限られた人しか作っていない竹工芸のオリジナリティーが、海外では評価される」と実感しているそうな。
中学生の時、修学旅行列車で京都、奈良に行った。
後年、京都は何回か行っている。当時、竹林で知られる嵯峨野に行ったかどうか定かでないが、土産に買い求めた竹工芸作品が60年後の現在も棚にある。
1975(昭和50)年ごろ、仕事で行った福井で越前竹人形を2体土産に買い求めた。
虚無僧と芸妓を模った作品で、芸妓の竹人形はあれから50年経った今も、棚に在って、自分を見つめてくれているが、虚無僧は知人にプレゼントしてしまった。
20代の終わり頃、尺八を始めた。当時、25万円もした尺八を買い求め現在も吹いているが、竹製品は何だか不思議な縁を感じないわけにはいかない。
語り継ぐ戦争で宇佐海軍航空隊の跡地を訪れた時、湯布院に泊まって宇佐までタクシーで行ったときのこと。
温泉の老舗別府に対し、今や観光地としてよく知られた湯布院の土産物店には竹細工がそれこそ多量に販売されていた。
ということで、大分が竹工芸の一大産地であることは知っていた。
しかも、竹工芸で使われるのが真竹だというではないか。
実は尺八も真竹でつくられているのだ。
「竹工芸は海外での評価が高く、浮世絵が19世紀に西洋でジャポニズムを巻き起こした現象に近い」と公募展のコーディネーター米山佳子さんが指摘していることと自分の考えは一致している。
さらに、認知症への予防対策として、竹工芸を筆頭に手工芸を学校教育、社会教育に取り入れることを提案したい。
認知症が滅茶苦茶増えているが、指先と頭を使う竹工芸や手工芸、織物などを続けている人は認知症にならないのだ。
断言できる。
指先を使わない人間はボケることが少なくない。
竹工芸は海外の富裕層をターゲットに輸出すれば、浮世絵の再来の時代がやってくる。
活気ある日本の竹工芸界をリードする大分県では10月、県内2人目となる竹工芸の重要無形文化財保持者(人間国宝)岐部笙芳さん(73)も誕生した。と12月25日の読売(井上裕介記者)が伝えている。
公募展の審査は、米国のメトロポリタン美術館やサンフランシスコ・アジア美術館の学芸員らが務めた。
日本の竹工芸を欧米に紹介してきた専門家ロバート・コフランドさんは、大分で開催した理由を「若い志望者からベテランの作家までが多く集まっている。県が運営する授業料無料の竹工芸訓練センターで基礎を学ぶことができ、美術館などで先輩作家の作品を観る機会も多い」と語る。
大分県は竹工芸で主に用いられる真竹の生産量が全国1位。籠などの生活用品や温泉地の土産品として作られてきた歴史は古く、室町時代に遡る。
1967年には竹工芸を「用の美」から芸術の域に高めたとされる生野祥雲齋がこの分野で初めて人間国宝に認定された。
今回受賞した中臣一さん(50)は「時代に流されない原始的な手作業が魅力。限られた人しか作っていない竹工芸のオリジナリティーが、海外では評価される」と実感しているそうな。
中学生の時、修学旅行列車で京都、奈良に行った。
後年、京都は何回か行っている。当時、竹林で知られる嵯峨野に行ったかどうか定かでないが、土産に買い求めた竹工芸作品が60年後の現在も棚にある。
1975(昭和50)年ごろ、仕事で行った福井で越前竹人形を2体土産に買い求めた。
虚無僧と芸妓を模った作品で、芸妓の竹人形はあれから50年経った今も、棚に在って、自分を見つめてくれているが、虚無僧は知人にプレゼントしてしまった。
20代の終わり頃、尺八を始めた。当時、25万円もした尺八を買い求め現在も吹いているが、竹製品は何だか不思議な縁を感じないわけにはいかない。
語り継ぐ戦争で宇佐海軍航空隊の跡地を訪れた時、湯布院に泊まって宇佐までタクシーで行ったときのこと。
温泉の老舗別府に対し、今や観光地としてよく知られた湯布院の土産物店には竹細工がそれこそ多量に販売されていた。
ということで、大分が竹工芸の一大産地であることは知っていた。
しかも、竹工芸で使われるのが真竹だというではないか。
実は尺八も真竹でつくられているのだ。
「竹工芸は海外での評価が高く、浮世絵が19世紀に西洋でジャポニズムを巻き起こした現象に近い」と公募展のコーディネーター米山佳子さんが指摘していることと自分の考えは一致している。
さらに、認知症への予防対策として、竹工芸を筆頭に手工芸を学校教育、社会教育に取り入れることを提案したい。
認知症が滅茶苦茶増えているが、指先と頭を使う竹工芸や手工芸、織物などを続けている人は認知症にならないのだ。
断言できる。
指先を使わない人間はボケることが少なくない。
竹工芸は海外の富裕層をターゲットに輸出すれば、浮世絵の再来の時代がやってくる。
2024年12月16日
和釘 1000年さびない法隆寺にも使用
日本古来の木造建築には、日本独自の製鉄技術で作った金物「和 釘くぎ 」が使われている。建立から1000年以上がたつ法隆寺(奈良県)や薬師寺(同)からさびていない和釘が発見されて以降、失われた製鉄技術の研究と再評価が進んだ。朽ちない鉄「和鉄」は、どのようにして生まれたのか。という日本の伝統芸能や伝統工芸に関心のある立場から興味深い内容について、12月5日の読売が夕刊で伝えている。
明治時代に西洋の製鉄技術が入ってくるまで、日本で主流だった「たたら製鉄」の技術で作られたのが和鉄だ。和鉄はさびにくく、鉄同士で接合しやすい特徴がある。
和鉄の原料は砂鉄だった。
和鉄が注目されたきっかけは1962年、日本鋼管(現・JFEホールディングス)の梅沢義信氏らが発表した論文だ。法隆寺の金堂にあった創建時(607年)の和釘が、ほとんど腐食していないことを報告。それから和鉄の秘密を探る研究が進んだ。
竹中工務店と日鉄テクノロジーが「朽ちない鉄」の再現に挑戦した。原料は鉄鉱石を使ったが、炉で溶かす時に酸素を残すように調整。途中でリンやニッケル、コバルトを添加した。
両社が現代版の和鉄「REI―和―TETSU」を共同開発した。2023年、福岡県にある国の重要文化財「太宰府天満宮末社志賀社本殿」の修理で、現代版和鉄の釘448本が使用された。
日本の伝統建築で作られている神社仏閣は宮大工と呼ばれる人たちの技術力で建築されてきた。世界で最古の木造建築とされている法隆寺に対し、現代の鉄筋コンクリート建築ではその寿命において勝てないことを知った。
鉄は錆に弱いという弱点があり、克服できていないからだ。
ドイツ人の建築家カール・ベンクスさんが越後の十日町の竹所で古民家を移築し、水回りや暖房器具を現代の最新設備で居住環境を住みやすくした建築が好評である。
古民家は伝統的は工法である木造軸組というのか、柱や梁を釘など使わずに組み合わせることで、釘などの劣化を免れるように建築されてきた。
だから、長持ちするわけだ。
木材は雨に濡らさず、湿気なければ、長持ちするのだ。
日本人ではないドイツ人のカールさんに教えられた日本の古民家の素晴らしさ。
しかし、古民家は生活するには不便であったが、現代と融合させることで住みやすくなるように工夫している。
例えば、水回りはトイレは無論、水洗でシャワートイレに給湯設備でいつでもお湯が使え、冬の寒さにはセントラルヒーテイングならぬ薪ストーブで、間仕切りの少ない建築物は部屋全体が温まるように工夫されている、
さて、和釘であるが、先人の知恵ともいうべきもので、鉄の錆び対策が法隆寺ができた時代になされていたことに驚く。
これからは木造建築物を長持ちさせるために和釘をもっと普及させていかなければならない。
明治時代に西洋の製鉄技術が入ってくるまで、日本で主流だった「たたら製鉄」の技術で作られたのが和鉄だ。和鉄はさびにくく、鉄同士で接合しやすい特徴がある。
和鉄の原料は砂鉄だった。
和鉄が注目されたきっかけは1962年、日本鋼管(現・JFEホールディングス)の梅沢義信氏らが発表した論文だ。法隆寺の金堂にあった創建時(607年)の和釘が、ほとんど腐食していないことを報告。それから和鉄の秘密を探る研究が進んだ。
竹中工務店と日鉄テクノロジーが「朽ちない鉄」の再現に挑戦した。原料は鉄鉱石を使ったが、炉で溶かす時に酸素を残すように調整。途中でリンやニッケル、コバルトを添加した。
両社が現代版の和鉄「REI―和―TETSU」を共同開発した。2023年、福岡県にある国の重要文化財「太宰府天満宮末社志賀社本殿」の修理で、現代版和鉄の釘448本が使用された。
日本の伝統建築で作られている神社仏閣は宮大工と呼ばれる人たちの技術力で建築されてきた。世界で最古の木造建築とされている法隆寺に対し、現代の鉄筋コンクリート建築ではその寿命において勝てないことを知った。
鉄は錆に弱いという弱点があり、克服できていないからだ。
ドイツ人の建築家カール・ベンクスさんが越後の十日町の竹所で古民家を移築し、水回りや暖房器具を現代の最新設備で居住環境を住みやすくした建築が好評である。
古民家は伝統的は工法である木造軸組というのか、柱や梁を釘など使わずに組み合わせることで、釘などの劣化を免れるように建築されてきた。
だから、長持ちするわけだ。
木材は雨に濡らさず、湿気なければ、長持ちするのだ。
日本人ではないドイツ人のカールさんに教えられた日本の古民家の素晴らしさ。
しかし、古民家は生活するには不便であったが、現代と融合させることで住みやすくなるように工夫している。
例えば、水回りはトイレは無論、水洗でシャワートイレに給湯設備でいつでもお湯が使え、冬の寒さにはセントラルヒーテイングならぬ薪ストーブで、間仕切りの少ない建築物は部屋全体が温まるように工夫されている、
さて、和釘であるが、先人の知恵ともいうべきもので、鉄の錆び対策が法隆寺ができた時代になされていたことに驚く。
これからは木造建築物を長持ちさせるために和釘をもっと普及させていかなければならない。
2024年10月01日
輪島思い涙 次世代に先人の志渡したい。
能登半島地震で大きな被害を受けた輪島塗の漆芸家で、「沈金」の人間国宝、山岸一男さん(70)が8月29日、客船「飛鳥U」内で講演会「能登はやさしや土までも」を行った。と9月25日の読売(清川仁記者)が伝えている。
同船は常時、日本工芸会所属作家の作品を展示しており、今回は「夏の金沢・函館クルーズ」に合わせて山岸さんを招いた。
山岸さんは地震で左肩などを骨折し、石川県輪島市の自宅兼工房が全壊した。現在は金沢市内のマンションで制作を再開しているという。山岸さんは、輪島が北前船の寄港地として栄えた歴史を誇らしく語り、「能登の国はつくづく美しい。人は寡黙だが働きもの。粘り強く復興する。私は漆の仕事で、先人の志を次の世代に渡したい」と再興への決意を新たにしていた。
漆の塗面に文様を掘り、金箔や金粉などを埋める「沈金」。山岸さんは2018年に人間国宝に認定された。
「焼け。潰れ。ひび割れた…」輪島思い涙。美しい風景も仕事場、家、友達もなくなったが、次世代に先人の志渡したいと願う。
そこに9月21日からの記録的な大雨ということで記者も「能登の一刻も早い平穏を願わずにはいられない」と結ぶ。
畑の近所の女性、自分より一回り上だから80代後半であるが、お元気、かつ経済的にも恵まれているのだろうか、先般、「飛鳥」(Uかどうかわからない)に乗ってきたと言いながら、土産を頂戴した。
クルーズ船など乗ったこともないし、興味も全くないが、世界一周だったか、そんなことを以前耳にしたことがある。
船旅するような人は経済的に恵まれているだろうから、需要を喚起したいわが国の伝統工芸品を展示しておくのは素晴らしい企画である。
さらに、人間国宝の作家が講演するという企画もまた目の付け所が佳い。
さて、災害列島である日本列島でも、正月元旦の大地震に見舞われた能登地方に秋の彼岸になって、大雨が降り、TVで行方不明の女子中学生が海上で見つかったというニュースが流れていた。
気の毒なことで、かける言葉がみつからない。
いかに災害列島はとはいうもののなぜ、能登の人たちばかり苦しめるのか、大自然というものは。
ライフラインの復旧に時間がかかっていることも政府の取り組み方が甘い気がするし、仮設住宅が雨でやられたという報道にはびっくりである。
自分は今、心身共に体調が優れず、鬱に近いようなところもあるが、大自然に助けられ、畑で草むしりをしていることで、どうにか、心身のバランスをとっている。
作家は作品をつくるのが仕事だけれど、その環境が整わない中での制作だけに安易に頑張れなんていえない。
それでも、人生いい時もあるはずだから、その日のためにも制作を継続してほしい。
同船は常時、日本工芸会所属作家の作品を展示しており、今回は「夏の金沢・函館クルーズ」に合わせて山岸さんを招いた。
山岸さんは地震で左肩などを骨折し、石川県輪島市の自宅兼工房が全壊した。現在は金沢市内のマンションで制作を再開しているという。山岸さんは、輪島が北前船の寄港地として栄えた歴史を誇らしく語り、「能登の国はつくづく美しい。人は寡黙だが働きもの。粘り強く復興する。私は漆の仕事で、先人の志を次の世代に渡したい」と再興への決意を新たにしていた。
漆の塗面に文様を掘り、金箔や金粉などを埋める「沈金」。山岸さんは2018年に人間国宝に認定された。
「焼け。潰れ。ひび割れた…」輪島思い涙。美しい風景も仕事場、家、友達もなくなったが、次世代に先人の志渡したいと願う。
そこに9月21日からの記録的な大雨ということで記者も「能登の一刻も早い平穏を願わずにはいられない」と結ぶ。
畑の近所の女性、自分より一回り上だから80代後半であるが、お元気、かつ経済的にも恵まれているのだろうか、先般、「飛鳥」(Uかどうかわからない)に乗ってきたと言いながら、土産を頂戴した。
クルーズ船など乗ったこともないし、興味も全くないが、世界一周だったか、そんなことを以前耳にしたことがある。
船旅するような人は経済的に恵まれているだろうから、需要を喚起したいわが国の伝統工芸品を展示しておくのは素晴らしい企画である。
さらに、人間国宝の作家が講演するという企画もまた目の付け所が佳い。
さて、災害列島である日本列島でも、正月元旦の大地震に見舞われた能登地方に秋の彼岸になって、大雨が降り、TVで行方不明の女子中学生が海上で見つかったというニュースが流れていた。
気の毒なことで、かける言葉がみつからない。
いかに災害列島はとはいうもののなぜ、能登の人たちばかり苦しめるのか、大自然というものは。
ライフラインの復旧に時間がかかっていることも政府の取り組み方が甘い気がするし、仮設住宅が雨でやられたという報道にはびっくりである。
自分は今、心身共に体調が優れず、鬱に近いようなところもあるが、大自然に助けられ、畑で草むしりをしていることで、どうにか、心身のバランスをとっている。
作家は作品をつくるのが仕事だけれど、その環境が整わない中での制作だけに安易に頑張れなんていえない。
それでも、人生いい時もあるはずだから、その日のためにも制作を継続してほしい。
2024年06月21日
奈良の花街再生に奮闘 凛とした菊乃さん
奈良・猿沢池のほとりにある元林院(がんりいん)は、かつて200人の芸妓(げいこ)や舞子でにぎわう花街だったが、いまでは芸妓の菊乃さんのみに。花街再生を目指し、兼業の芸妓・舞子を認める仕組みをつくり、6月8日、3人が見世出しを迎えた。
写真で伝える日本、「ズームアップ」というタイトル、「奈良の花街 守り抜く」という見出しで、6月17日の読売が夕刊で伝える芸妓。衰退した奈良の花街を再生させようと頑張るお茶屋「つるや」の女将で、奈良県唯一の芸妓菊乃さん(51)が三絃を膝の上にアップした髪、着物の袖から垣間見えるかいなはあくまでも白く、凛とした姿はほれぼれするほどだ。
明治初期に始まる元林院は最盛期の大正〜昭和初期、十数軒のお茶屋が並び、200人ほどの芸妓・舞子がいたとされる。1970年代から徐々に衰退し、コロナ禍の2022年春、芸妓は菊乃さん一人になった。
本来は住み込みで芸を学び、1年ほどかけてお座敷に出るが、厳しい修行ではなり手が来ない。兼業を認め、月数度の通い稽古を経て、半年でデビューする仕組みを作り、23年8月、兼業芸妓・舞子「古都花」の募集を始めた。
応募30人から選んだのは3人、県外の26から37歳。「元林院の㏚につながる」との理由でSNSのフォロワー数を選考の決め手にした。
「芸妓を専業でやりたいという人が現れてくれたら」と願う菊乃さん。
日本大好き人間の一人であるから、伝統芸能、伝統工芸などの担い手を応援している。
伝統芸能の一つである日本舞踊、三絃、地歌などをそれぞれ身につけ、着物姿で接客する芸妓には特に思い入れがあり、応援したくなってしまう。
2018年8月に東京は三多摩で絹織物が盛んだった時代から歴史のある八王子の花街で芸妓が減ってしまったが、置屋「ゆき乃恵」をとりしきるめぐみさんらの尽力で少しずつ後継者が育ちつつあるということを書いた。
同じ歴史があるとはいうものの、較べようがないほどの古都奈良には元林院町に花街があっただけでなく、木辻町や生駒市に宝山寺新地、大和郡山市に洞泉寺などの遊廓があった。
花街には芸妓の所属する置屋と遊女、女郎と呼ばれた女性たちが搾取されながら身を売らされた遊廓があったりしたものである。
時の流れで古都奈良に芸妓一人とは哀しすぎる話であるが、凛とした姿が美しい菊乃さんの尽力で若手が育ちつつあるとのことで嬉しくなった。
兼業を認めるとあったが、需要と供給の関係で、専業では食べていかれないとなれば兼業もやむなしである。
カネがありながら、芸者遊びに興ずる人が少なくなってしまったのは残念なことである。
しかし、カネ持ちが遊ばないなら、一般の人たちにも芸を見せることで、需要を喚起することくらいはできるはずだから、何としても、芸を磨いて、後継者が育つのを応援してほしい。
接客業を論じた芸双書6南博・永井啓夫・小沢昭一『あしらう―接客婦の世界』(白水社)を買い求めて読んでいるが、こちらはどちらかといえば、廓の話が主で、同じ花街で働く女性とはいいながら、接客の内容が少しばかり異なっている。
日本舞踊、三絃、鼓、箏に地歌などに着物姿とくれば、接客のプロ芸妓さんとなる。
日本の伝統芸能の担い手でもあり、世界有数の接客業として、エールをおくりたい。
京都に舞妓がいて、奈良にはいないでは同じ古都としてあんまり寂しすぎるではないか。
写真で伝える日本、「ズームアップ」というタイトル、「奈良の花街 守り抜く」という見出しで、6月17日の読売が夕刊で伝える芸妓。衰退した奈良の花街を再生させようと頑張るお茶屋「つるや」の女将で、奈良県唯一の芸妓菊乃さん(51)が三絃を膝の上にアップした髪、着物の袖から垣間見えるかいなはあくまでも白く、凛とした姿はほれぼれするほどだ。
明治初期に始まる元林院は最盛期の大正〜昭和初期、十数軒のお茶屋が並び、200人ほどの芸妓・舞子がいたとされる。1970年代から徐々に衰退し、コロナ禍の2022年春、芸妓は菊乃さん一人になった。
本来は住み込みで芸を学び、1年ほどかけてお座敷に出るが、厳しい修行ではなり手が来ない。兼業を認め、月数度の通い稽古を経て、半年でデビューする仕組みを作り、23年8月、兼業芸妓・舞子「古都花」の募集を始めた。
応募30人から選んだのは3人、県外の26から37歳。「元林院の㏚につながる」との理由でSNSのフォロワー数を選考の決め手にした。
「芸妓を専業でやりたいという人が現れてくれたら」と願う菊乃さん。
日本大好き人間の一人であるから、伝統芸能、伝統工芸などの担い手を応援している。
伝統芸能の一つである日本舞踊、三絃、地歌などをそれぞれ身につけ、着物姿で接客する芸妓には特に思い入れがあり、応援したくなってしまう。
2018年8月に東京は三多摩で絹織物が盛んだった時代から歴史のある八王子の花街で芸妓が減ってしまったが、置屋「ゆき乃恵」をとりしきるめぐみさんらの尽力で少しずつ後継者が育ちつつあるということを書いた。
同じ歴史があるとはいうものの、較べようがないほどの古都奈良には元林院町に花街があっただけでなく、木辻町や生駒市に宝山寺新地、大和郡山市に洞泉寺などの遊廓があった。
花街には芸妓の所属する置屋と遊女、女郎と呼ばれた女性たちが搾取されながら身を売らされた遊廓があったりしたものである。
時の流れで古都奈良に芸妓一人とは哀しすぎる話であるが、凛とした姿が美しい菊乃さんの尽力で若手が育ちつつあるとのことで嬉しくなった。
兼業を認めるとあったが、需要と供給の関係で、専業では食べていかれないとなれば兼業もやむなしである。
カネがありながら、芸者遊びに興ずる人が少なくなってしまったのは残念なことである。
しかし、カネ持ちが遊ばないなら、一般の人たちにも芸を見せることで、需要を喚起することくらいはできるはずだから、何としても、芸を磨いて、後継者が育つのを応援してほしい。
接客業を論じた芸双書6南博・永井啓夫・小沢昭一『あしらう―接客婦の世界』(白水社)を買い求めて読んでいるが、こちらはどちらかといえば、廓の話が主で、同じ花街で働く女性とはいいながら、接客の内容が少しばかり異なっている。
日本舞踊、三絃、鼓、箏に地歌などに着物姿とくれば、接客のプロ芸妓さんとなる。
日本の伝統芸能の担い手でもあり、世界有数の接客業として、エールをおくりたい。
京都に舞妓がいて、奈良にはいないでは同じ古都としてあんまり寂しすぎるではないか。
2024年05月14日
能登半島地震被災地 生産地復活へ 力強く歩む
能登半島地震は、伝統工芸の産地・北陸地方に大きな被害をもたらした。
なかでも、石川県は国指定の伝統的工芸品10種を含む多くの工房、職人が制作の場を失い、住む場所にも不自由を強いられている。
あれから4か月。「生産地復活へ 力強く歩む」という見出しで、5月5日の読売が紡ぐの紙面で見開きで取り上げているので、日本大好き人間の一人として、応援するために書いておく。
石川県羽咋市の「能登上布」「唯一続く織元 製作再開」、金沢市などの「九谷焼」「若い職人育てる信念不動」輪島市の「輪島塗」「未来に向け作品展 思い一つ」、七尾市「七尾和ろうそく」「手作りの伝統 炎は消えず」珠洲市「珠洲焼」「特別展 健在ぶりアピール」と石川県が誇る伝統工芸品が写真と見出しで紹介されている。
陶芸では九谷焼、珠洲焼のほかに江戸時代から続く金沢の「大樋焼」が「名陶3代の作 一つに」能登地震で破損「大樋焼 破片をつなぐ」 という見出しで、金沢市の陶芸家、11代大樋長左衛門(年雄)さん(65)が能登半島地震で割れた祖父と父,自信の3代の茶碗をつなぎ合わせて新たな作品を創作した。と5月5日の読売が社会面で伝えていた。
2023年10月に亡くなった先代は文化勲章の受章者だというから、破片をつなぎ合わせた創作には興味が湧く。
「天からの試練に対する回答です」とは大樋さんの奮起の言葉だ。
6月5日から10日まで日本橋高島屋に出品しているとのこと。
石川県は松任市、現在は白山市になったと耳にするが、行ったことがあり、このとき金沢にも立ち寄った。
土産は当然のことのように九谷焼の湯飲みを買い求め、母親が使っていたが、割ってしまった思い出がある。
語り継ぐ戦争ということで、北陸では富山に行くつもりだった。富山はイタイイタイ病の資料館があるはずだから、富山の空襲の犠牲者とイタイイタイ病の資料館に行くつもりが、コロナで行かれなくなった。
若い頃、下北、津軽と青森の半島を旅したことがあり、半島は旅人にとっては旅情があるところだけに能登半島にも行きたいとは思っていた。
復興にも協力したいので、とりあえず、石川県にも行くつもりはある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚だけでなく、自由を奪われし民として、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養もしてきたので、差し当たって、小松市にある串茶屋遊女の墓に行くつもりである。
石川県や国、被災工房・職人支援として、再建資金・後継者育成などに乗り出したことも紙面では伝えている。
石川県は県指定の伝統的工芸品などの生産者を対象に、再建資金として、最大1000万円を支援するという。
伝統工芸品の再建には、工芸品を買い求め、使って行くことが一番の支援、応援になることはまちがいない。
旅行に行けば、石川県にいくらかなりともカネが落ちる。
支援、応援はどんな形でもいいので、できるだけ大勢の人が少しでも、そういう気持ちになってもらえたら嬉しい。
なかでも、石川県は国指定の伝統的工芸品10種を含む多くの工房、職人が制作の場を失い、住む場所にも不自由を強いられている。
あれから4か月。「生産地復活へ 力強く歩む」という見出しで、5月5日の読売が紡ぐの紙面で見開きで取り上げているので、日本大好き人間の一人として、応援するために書いておく。
石川県羽咋市の「能登上布」「唯一続く織元 製作再開」、金沢市などの「九谷焼」「若い職人育てる信念不動」輪島市の「輪島塗」「未来に向け作品展 思い一つ」、七尾市「七尾和ろうそく」「手作りの伝統 炎は消えず」珠洲市「珠洲焼」「特別展 健在ぶりアピール」と石川県が誇る伝統工芸品が写真と見出しで紹介されている。
陶芸では九谷焼、珠洲焼のほかに江戸時代から続く金沢の「大樋焼」が「名陶3代の作 一つに」能登地震で破損「大樋焼 破片をつなぐ」 という見出しで、金沢市の陶芸家、11代大樋長左衛門(年雄)さん(65)が能登半島地震で割れた祖父と父,自信の3代の茶碗をつなぎ合わせて新たな作品を創作した。と5月5日の読売が社会面で伝えていた。
2023年10月に亡くなった先代は文化勲章の受章者だというから、破片をつなぎ合わせた創作には興味が湧く。
「天からの試練に対する回答です」とは大樋さんの奮起の言葉だ。
6月5日から10日まで日本橋高島屋に出品しているとのこと。
石川県は松任市、現在は白山市になったと耳にするが、行ったことがあり、このとき金沢にも立ち寄った。
土産は当然のことのように九谷焼の湯飲みを買い求め、母親が使っていたが、割ってしまった思い出がある。
語り継ぐ戦争ということで、北陸では富山に行くつもりだった。富山はイタイイタイ病の資料館があるはずだから、富山の空襲の犠牲者とイタイイタイ病の資料館に行くつもりが、コロナで行かれなくなった。
若い頃、下北、津軽と青森の半島を旅したことがあり、半島は旅人にとっては旅情があるところだけに能登半島にも行きたいとは思っていた。
復興にも協力したいので、とりあえず、石川県にも行くつもりはある。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚だけでなく、自由を奪われし民として、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養もしてきたので、差し当たって、小松市にある串茶屋遊女の墓に行くつもりである。
石川県や国、被災工房・職人支援として、再建資金・後継者育成などに乗り出したことも紙面では伝えている。
石川県は県指定の伝統的工芸品などの生産者を対象に、再建資金として、最大1000万円を支援するという。
伝統工芸品の再建には、工芸品を買い求め、使って行くことが一番の支援、応援になることはまちがいない。
旅行に行けば、石川県にいくらかなりともカネが落ちる。
支援、応援はどんな形でもいいので、できるだけ大勢の人が少しでも、そういう気持ちになってもらえたら嬉しい。