2012年08月30日

障がい者スポーツ 医師が50年前広める

 オリンピックは終わったが、8月29日、ロンドンでパラリンピックが開幕した。

 大分県の整形外科医だった中村裕医師がわが国のパラリンピック参加に大いに貢献したと読売で知った。84年に惜しくもこの世を去ってしまわれたそうだが、ここに取り上げ、賛辞をおくりたい。

 中村医師は、1960年パラリンピックの起源とされる障がい者のアーチェリー大会を開いたロンドン郊外で研修。当時の日本では、病院や家にこもりがちだった障がい者が、スポーツを通じて生きる意欲を取り戻している様子に感動し、帰国後に日本での普及に取り組んだというから偉い。

 1965年に障がい者が就業訓練を行える工場などを運営する社会福祉法人「太陽の家」を設立。その後、オムロンやホンダ、三菱商事などと大分、京都、愛知に共同出資会社8社を創設。現在1100人の障がい者が働いたり、利用したりしている。

 「アジアパラ競技大会」が4年に一度開かれているが、これも、中村医師がかかわった極東・南太平洋地域の障がい者スポーツ大会を大分で開催、大会が発展したものだという。


 世の中には、実に立派な人がいる。

 自分は中村医師と聞けば、アフガンで頑張る中村哲医師を思い浮かべるが、中村裕医師も世のため人のために頑張った先達だ。とりわけ、一般的に差別されてきた障がい者のために頑張った点を評価したい。

 障がいで中村と聞けば、石見銀山の地で義肢装具をつくっているのが中村ブレイスだ。 

 自分と障がい者とのかかわりは、1981年度公開、松山善三監督がサリドマイドの障がいを持つ、辻典子本人を主演にサリドマイドに負けずに生きる少女を描いた映画『典子は今』を観たことが大きい。

 次いで、子どもの保育園の運動会でのこと。脚に障がいを持つA子チャンが会場として借りた学校の校庭の一部ではあるが、1周を保母(当時の名称)の手を借り、一所懸命に走りとおす姿をみたこと。

 やがて、仕事で障がい者といわれている人と接したことも自分を変えさせられた。

 近年では、家内が両方の人工股関節(チタン製)装着の手術を受け、現実に障がい者手帳を交付されてしまったが、術後、車いすでトイレに行く家内について病院の通路を歩いてみて、その大変さが理解できたことなどがあげられる。

 この家内が映画の典子によく似ているので、何かというと、『典子は今』でのサリドマイドで障がいを負ったあの娘のことを思い出すというわけ。

 語り継ぐ戦争だから、戦争で障がい者となってしまった傷痍軍人のことをこの前書いたし、中村ブレイスのことを知ったアフガンでの地雷で脚をなくした少女に義肢をプレゼントする話を描いた『アイ・ラヴ・ピース』のことも折々取り上げている。

 障がい者は、誰もなりたくてなるわけではないのだから、自分がその立場となったら、と考えれば、健常者が支えるのは当たり前のことだが、これがなかなか難しい。

 顔が不自由だなどとふざけたことをしゃべっていた漫才があったが、これくらいならどうってことはないが、目が耳が腕が脚が…。どこが不自由でも困るのは同じことだ。

 他人は、その立場になって初めて、その人の気持ちがわかるものだが、ここは想像力を働かせて、その立場にならなくとも、大変さを理解し、ともに支えあえる社会を目指したい。

 何故なら、いつ自分が障がい者にならないとも限らないではないか。

 中村裕医師の跡を継ぐような人材が育つことを期待したい。
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