メデイアのうち、新聞を本格的に読み始めたのは小学生のときからで、付き合いは長い。
小学生のとき、自分の誕生日にサヨナラホームランを打ったあの野球選手が贔屓だったこと、箱根駅伝、東京、青森間、東京、大阪間都道府県対抗駅伝とこの新聞社が主催していた駅伝が大好きだったこと、そして人生案内を読むのを無上の喜びにしていたから、新聞は読売である。
ところが、現在の読売は政治的に偏向した記事しか書かないので、政治がらみの記事は読まない。
それでも、その他では記者ががんばって取材し、優れた記事も少なくないから、大いに勉強になっている。
夕刊にジュニア探検隊という青少年向けの紙面があり、富山のイタイイタイ病資料館を見学し、施設を紹介する誠に優れものの記事をみつけた。
見出しは「公害病に胸詰まる思い」である。
語り継ぐ戦争、犯罪被害者支援という二つを柱に、自分の思いを訴えているが、環境問題とりわけ、公害問題に力を入れてきた。
富山のイタイイタイ病についても、資料館の鏡森定信初代館長のことを読売で知り、取り上げたことを含め、すでに何回となく書いてきたが、今回、資料館にはイタイイタイ病の語り部7人が登録されているとのことで、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚の立場から、7人の語り部にエールをおくるために書いておく。
そのうちの一人、小松雅子語り部(56)が新聞に登場していた。
祖母がイタイイタイ病患者、父がイタイイタイ病対策協議会の初代会長。その父が強い思いを寄せていた資料館のオープンをきっかけに活動を始めた由。
小中学生の頃、毎晩祖母の背中をさすってあげていたそうな。「イタタタ」と声をあげ、なかなか眠ることさえできなかった祖母。部屋中に響くように「イタイ」と叫んだのが最期の言葉だった。
「祖母の姑がイタイイタイ病だったようで、祖母は10年看病した。同じ病状が出たときの気持ちを考えると、心が引き裂かれるような思い」だという。
父は次世代に農業を残したいと願っていたが、稲は育たなくなってしまった。住民は団結して何度も会社に要望書を持っていったが、門前払いされた。
父が裁判を決意したときは大勢の人に取り囲まれ「コメが売れなくなったら責任をとれるのか」と詰め寄られたこともあったとのこと。
判決の日、「感動で鳥肌が立つ思いだった。父の姿をTVで見て誇りに思った」とときおり涙ぐみながら語る小松語り部。
「教訓として語り継ぐことが、生きている私たちの使命であることを父から教えてもらった。二度と悲惨な公害病が繰り返されないよう、何ができるかを見据えながら歩んでいければと願っている」由。
語り継ぐ戦争だから、語り継ぐことがいかに大事なことか、そんなことは十分わかっているが、同じ語り継ぐといっても、体験者にはとても敵わない。
仮に自分が体験していなくとも、家族が体験していれば、説得力が違う。
それでも敢えて言いたい。
自分は語り継ぐ戦争であるが、戦争体験があるわけでもなければ、召集され、南方に送られた父親は運よく無事帰国を果たしている。
そう、戦争体験ばかりか、犯罪被害者支援にしても、公害病の告発に関しても直接の当事者ではない。しかし、考えてみてほしい。直接の体験者でなくとも、自分は人間だから、痛みを想像できるのだ。
体験者が語り継ぐのはある意味当然であるが、自分みたいに体験がなくとも、想像力が磨かれれば、語り継ぐことはできるはず。
とはいうものの、今年、戦争体験を聞きに行った戦艦大和の元乗組員でスクリューをつくったという90代の男性は、大和から降りて、満州から南方に送られ、周囲の兵隊が皆死んだのに自分だけ生きて帰ってきた。少しでも記憶が違っていたら、亡くなった仲間に申し訳がない。間違ったことを話すわけにはいかない。
と語り継ぐことを拒絶。
東京を始めとする米軍による大空襲、沖縄戦、ヒロシマ、ナガサキにおける原爆の惨禍そして、水俣、イタイイタイ病、四日市ぜんそくで亡くなった人たちのためにも、資料館、史料館の建設と語り継ぐことに力を入れていく必要がある。
二度と戦争をしないように、二度と公害で苦しむ人が出ないように。」
2012年08月28日
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