2月15日の読売夕刊に末木文美士仏教学者が数年前から、戦争の犠牲者の慰霊施設を少しずつではあるが回るようにしている。ぼく自身の人間としての責務のようなものを感じていると書かれていた。
「今年の1月17日で、阪神淡路大震災から15年になるが、大量の死傷者といえば何といっても昭和の戦争が大きな問題だ。
直接の経験者や遺族が亡くなったり、高齢化して、戦争体験の風化が言われるが、そのまま忘却されてよいものではない。
戦争は震災と違って百パーセント人災であるからその根絶のためにも、過去を忘れることは許されない」というのだ。誠にごもっともであり、自分と同じことを考え、行動している人がいたことに敬意を表するとともに感動したので記しておきたい。
強い感動をもって心に残る慰霊施設として、静岡県熱海市にある興亜観音と知覧の特攻平和記念館を訪れたときのことを紹介している。
恥ずかしながら興亜観音のことは知らなかったので、近いうちに自分もお参りしにいかなければならない。
知覧は、広島・長崎とともに自分もお参りしてきたが、知覧は何と言っても、自分の慰霊の旅の出発地だから格別な思いがある。
「いくつかの施設を訪れて思うことは、戦争犠牲者の慰霊は、戦争の問題であるとともに、戦後の問題でもあるということだ。戦争の死者たちは常に左右両方からの政治に翻弄され、散々に利用され、利用価値がなくなれば見捨てられる。それをひっそりと粘り強く維持し、継承していくたちがいて、はじめて死者たちの声が伝えられていく。略」とも書かれていた。
死者は生きている者が慰霊するしかないし、慰霊することが戦没者への供養と同時に戦争反対への意思表示となるのではないか。
2010年03月03日
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