2026年08月31日

モンゴル抑留の惨状

 元読売の記者井手裕彦さんが上梓した『モンゴル抑留 見捨てられた死者たち』(角川新書)を8月9日の文春オンラインが取り上げ、内容を紹介してくれている。
 すっかり衰えてしまい、未読の自分にとっては学習のチャンスなので書いておく。

 シベリア抑留は関心のある向きにはよく知られているが、モンゴルでの抑留のことは知っている人は多くないはずである。
 まず、抑留者の日本兵が収容された施設、収容所についての説明では、東京西新宿にある平和祈念展示資料館にシベリア収容所の模型があるが、モンゴルには所謂収容所をイメージするような建物はなく、ソ連から日本人捕虜約14000人の労役の提供の連絡からわずか2か月で第1陣が到着したことから、収容所を用意できなかったというのだ。
 応急的に建物を収容所に転用しても、まにあわず、窮余の策として、深さ4メートルくらいの穴を掘り、柱を立てて屋根を葺いた穴倉収容所まであったというのだ。
 11月中旬に移送されてきた井上賢は、「穴倉宿舎は冷蔵庫に生活している様なもの」「中にはペチカもあったが、水筒の水は室内なのに凍った。就寝の際は防寒帽に防寒靴まで履いた完全防寒態勢で床に就いた。」と手記を残している。
 モンゴルの寒さは内陸性気候かつ高地にあることから零下30度、40度という日がしばしばあるほどでコップの中のウオッカが凍るというほどで、生きていくだけで容易なことではない。
 友弘正雄は凍傷の手術で両足の膝の上から下を切断されることになる。麻酔薬が足りず、4、5人の衛生兵から体を押さえこまれる。口に布で猿ぐつわをかまされ、のこぎりで骨を切断された。当時のモンゴルに義足をつくる技術はない。友弘は両足の切断部に毛布をあててもらい、帰国まで四つんばいで移動する生活を強いられた。
 モンゴル抑留の死亡率がソ連地域より高くなった要因の一つに「チョモランマのふもとのレベル」とも評される気候条件があったと、井手さんは考えている。

  8月11日の読売「編集手帳」で、モンゴルには戦後、約1万4000人の日本人が抑留され、そのうち約1700人が命を落とした。作家の司馬遼太郎は、首都にある国立中央オペラ劇場だけはまともに見る気になれなかった。と「街道をゆく」に書いている。日本人の労役で建設されたからである。
 戦没者の遺骨を集計した厚生労働省の統計は、抑留による犠牲者について、「旧ソ連邦(モンゴルを含む)とまとめている。
 別の国で最期を迎えた人々をカッコに閉じ込めたまま合算しては、事実が正しく伝わらない。と井手さんの著作を紹介していた。


 モンゴルでの抑留といえば、胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(文藝春秋)を直木賞受賞作品として読んでいるが、本は買い求めて読むのが自分の流儀にしては、手許で見つからないので、探してみることにする。
 タイトルの黒パンが頭に残り、ロシア製法の黒パンを大館のサンドリヨンから取り寄せ、毎朝、食しているのはシベリア抑留を忘れないためだ。
 モンゴルの抑留がシベリアでの抑留より酷かったことを、この本で知った。
 著者の別名は、清水正二郎で多感な思春期に名前を知ったほどのそちら方面の大家である。
 自分が関心を持っていたシベリア抑留それもモンゴル抑留記で巡り合ったことに驚いた。

 井手さんのことは読売の記者だった頃、シベリア抑留のことを担当していたかして、名前は知っていた。
 シベリア抑留のことを調べている知人がいて、参考にと史料を恵与していただいている。
 日々の忙しさにかまけて、学習がちっとも進んでいないのは情けないことだが、井手さんの著書といい、知人の史料といい、自分が進歩するためにも活用しなければと反省しきりである。

 モンゴルといえば、9月には大相撲がまた始まる。
 モンゴル出身の力士では朝青龍と白鳳というビッグネームの横綱がいたが、性格の悪さから好かれていないみたいだが、鶴竜のように人柄が佳いからか、目立たなくとも頑張っていた横綱も致し、膝を痛めて幕下の方まで陥落した照ノ富士が復活して、見事な横綱相撲を見せてくれた。

 日本とモンゴル間に抑留問題があったことはNHKで大相撲中継では取り上げない。
 この問題を多くの日本人が意識をしていく必要があると痛感した次第である。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/191787963
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック