八王子市などで約450人が亡くなった1945年8月2日の八王子空襲から81年。米爆撃機B29約170機が東京大空襲に匹敵する大量の 焼夷弾を投下し、市街地の約8割が焼失した。住宅や市民を焼き尽くした無差別爆撃の残酷さについて、体験者が語った。と8月3日の読売(長谷部耕二記者)が戦後81年のタイトルで伝えている。
八王子市散田町の石井忠明さん(87)は81年前の空襲で九死に一生を得た。「死んでいたのは自分たちだったかもしれない。居た場所が少し違っただけで、生死が分かれるとは」と振り返る。
空襲の前日までに、「数日の内に爆撃する」との米軍の宣伝ビラが市内にまかれていた。
翌2日午前0時45分頃、空襲が始まると、駅の西側にある自宅で、消防団員の父が「西に逃げて、踏切を渡り、南側の桑畑を目指せ」と指示した。
母親のハルさんと子ども5人は家財道具を積んだリヤカーで避難した。八王子駅の方から熱風や火の粉が飛んでくる。
桑畑にたどり着く直前、石井さんたちは米軍機からの射撃に遭ったが、畑に逃げ込んで助かった。同じ桑畑には撃ち抜かれて死亡した母子もいたという。
空襲で自宅は焼失し、道路には焼夷弾による穴があちこちに開いていた。3日後、同市内の極楽寺に行くと、焼けたトタンの上に大勢の遺体が並べられていた。焼夷弾の直撃で死んだ人、真っ黒に焦げた人、もだえ苦しんだ形相の人……。「むごい光景だった。今でも夢に見る」と話す。
石井さんは日テレの報道部で働いたが、脳裏にはいつも、「大きくなったら、こんなにひどい空襲を忘れずに、みんなに伝えなければだめだ」という母ハルさんの言葉があったという。
石井さんは「日本人は戦争の本当の怖さを知らない。戦争で犠牲になるのは庶民だ」と語る。市内を中心に自身の経験を伝える語り部活動も続けており、「平和がいかにありがたいことか。戦争をじかに体験した私たちが、若い世代でも分かるように伝えていきたい」と言葉を強めた。
首都東京には23区と三多摩と呼ばれる地域に市部がある。
その三多摩地域では歴史のある代表的な都市が八王子市だ。とにかく広くて、あの高尾山だって八王子市だ。
今、八王子市といえば、学園都市と呼ばれるほど大学があり、新しい街南大沢にある東京都立大学を筆頭に学生たちで賑やかさを取り戻しつつある。
というのも、その昔、桑都の杜ということで、絹織物、シルクを生産し、シルクロードというか横浜線で運ばれた製品が横浜港から海外へ運ばれていたことから、生糸商人などで賑やかで芸者衆もいたくらいである。
時代の流れで生糸が廃れたが、芸者衆は復活したことを読売が伝えていた。
三多摩を代表する都市だったから、東京地方裁判所の八王子支部があったが、都市計画で立川に後れを取り、八王子支部がいつの間にか立川支部になってしまった。
JR中央線と京王線が乗り入れているにもかかわらず、北口駅前再開発に失敗し、両駅間を歩かなければならないからもう発展しないと思っていたら、近年、南口が駅前再開発でよくなりそうだから、まだまだ八王子は発展しそうである。
余談であるが、隣の町田も駅前再開発に失敗し、横浜線と小田急線がクロスしているにもかかわらず、両駅間を歩かなければならないので、こちらはもう終わったとみている。
さて、自分の知る限りの八王子市について書いた。米軍に狙われたくらいだから、街が賑やかであったことは確かだが、狙われる側に立てば、とんでもないことで、非武装の市民を無差別に爆撃するジェノサイドというのが米軍の空爆だから、攻撃された側からみれば、酷い目に遭ったものである。
「戦争で犠牲になるのは庶民だ」という報道の世界で働いていた石井さんならではの言葉だが、石井さんの語り継ぐ戦争観は、語り継ぐ戦争の自分と全く同じであることから、どうしても八王子空襲のことを書いておきたかった。
戦争を始めたのは軍部だけど、戦争で酷い目に遭うのは庶民というか市民であればこそ、戦争に反対し、平和を守るために自分のできることをやる必要がある。
2026年08月24日
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