1945年8月22日午前4時55分、北海道・留萌沖。樺太からの引き揚げ者3500人でいっぱいになった特設砲艦「第二新興丸」(約2600トン)の右舷に、ソ連の潜水艦が放った魚雷が命中した。当時9歳の吉田勇さん(90)(東京都国分寺市)は甲板上にいた。衝撃で数メートルはじき飛ばされ、頭を強く打ちつけた。
船が傾き、吸い込まれるように人が海へと落ちてゆく。悲鳴、家族の名を呼ぶ声、貨物が崩れる音。<ドドン>と、ひときわ大きな音が響き、甲板から伸びるマストが折れた。その下にいた男性は見るも無残な姿になった。
証言は11月17日の読売が「戦後80年 昭和百年 混乱上」で伝える語り継ぐ戦争の一コマである。
戦争終結時に海外にいた日本人は、当時の全人口の約1割に当たる660万人に上る。
留萌沖で3隻が攻撃され、1700人余りの犠牲者が出た惨事は「三船遭難事件」として語り継がれる。
撃沈された「小笠原丸」「泰東丸」ではそれぞれ600人超が犠牲となった。唯一沈没を免れた第二新興丸でも400人の死者、行方不明者が出た。
増毛町で小笠原丸の犠牲者を追悼する慰霊祭が毎年、8月22日に行われている。
「三船遭難事件」の慰霊碑にお参りしたのは2010年8月29日のことだった。
コロナ渦を経て、急激に心身が衰えてしまい、今では考えられなくなってしまったが、当時は、還暦を過ぎたくらいで心身ともに元気だったなと懐かしく思い出す。
レンタカーで稚内を出発し、留萌までドライブしたが、クルマの運転は好きでないし、これほどの距離を運転したことなどほとんど記憶にないくらいの距離感だった。
当時の紀行文というか、ドライブの顛末は書き留めてあるが、印象に残っていることだけ書いておきたい。
留萌の鬼鹿海岸だったと記憶するが慰霊碑にお参りし、せっかくだから、増毛に行ってみようということになった。
というのは、高倉健、倍賞千恵子『駅 STATION』を観ていたので、増毛にどうしても行ってみたかったからだ。
増毛駅、風待ち食堂にも行った。
今は、観光案内所兼映画のポスターなどが飾られていたかつての風待ち食堂で、留萌の三船遭難事件の慰霊碑にお参りし、映画が忘れられないことを主に話したら、町営墓地にその小笠原丸の犠牲者の慰霊碑があることを教えてくれたのだ。
3時は過ぎていたと思う。夕方に墓地には行くなと親から言われていたが、せっかくだからお参りをすることにして訪ねた。
霊感なんてあるはずもないのだが、お参りしたら、8月にも関わらず、寒気がしてきて、怖くなって早々に退散してしまった。
戦没者慰霊のための行脚で稚内から沖縄までお参りしているが、稚内、留萌、増毛の旅は忘れらない旅となっている。
これほどまでに衰えてしまうとは信じられないが、死ぬまでに何とか、もう一度、お参りをしたいと願っている。
2025年11月18日
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