戦没者遺族でつくる日本遺族会(東京)の支部にあたる47都道府県遺族会のうち、4割を超える20団体が高齢化に伴う会員の減少を理由に、一部の活動を中止・縮小したことが読売新聞の調査でわかった。7団体が活動休止や解散を検討していることも判明。戦争の記憶の継承が困難になっている実態を改めて示した。と8月15日の読売が伝えていた。
調査結果などによると、全遺族会の会員総数は、令和が始まった2019年は計約57万世帯で、今年は計約35万世帯に減った。従来の活動のうち一つでも中止・縮小したのは20団体。海外での慰霊巡拝が中止されたり、国内での遺骨収集が休止されたりした。
日本遺族会は「結成当初、組織の中心は戦没者の父母やきょうだいの世代で、会員数が減るのは自然なことだ。遺族の記憶を伝承し、平和を希求する活動を戦後100年まで続けることを目標に掲げており、愚直に『戦争の悲惨さ、平和の尊さ』を訴え続けたい」としている。
山形市に住む寒河江幸子さん(84)の父は先の大戦中、フィリピンで戦死した。出征は寒河江さんが物心つく前だったため、父の記憶はない。
祖父母、母、弟との5人暮らしになった。一家の大黒柱を失い、母は河原の土砂採取や、げたの行商で懸命に働いたが、生活は苦しかった。寒河江さんが小学校に入学する時は、母が自分の着物をほどいて上着とズボンを作ってくれた。食卓に出てきた大根飯はほとんどが大根で、幼い弟は嫌がって泣いた。と毎日新聞の取材に応えている。
寒河江さんは遺族会の集まりで同じ境遇の女性たちと話す時、心が休まるという。「『貧乏したよ』と言うと『私だって』と返してくれる。みんな苦労したから、お互いの気持ちが分かるんです」
その山形県の遺族会に青年部ができ、活動を引き継いでいるという。
戦争ほど矛盾に満ちたものはないのではないか。
昭和100年、治安維持法制定から100年、特高警察が跋扈し、戦争に反対できないようにした上で、自分たちだけ武装している軍人が手柄を立てようと、満州に侵略した関東軍が起こした盧溝橋事件がアジア太平洋戦争の始まりだという説がある。
日本の侵略を容認しない米国に対し、国力のあまりにも違いすぎることを棚上げし、米国との戦争を始めてしまった軍部。
その軍部でも学校の勉強だけは滅茶苦茶に優秀な軍人が戦争を企図、推進する大本営に集められ、作戦を練った。
資源を求める日本は、満州だけでなく、東南アジアにまで戦線を拡大したため、兵站を狙い撃ちする米軍の攻撃で兵士たちへの補給が途絶え、飢餓に苦しむ兵士たちが続出し、餓島と呼ばれたガダルカナル島、兵士同士が殺し合いをし、肉を食べたのではないかと推察されているレイテ島、ニューギニア、そして、白骨街道で知られるインパール作戦と敵との交戦ではなくマラリアなどの感染症や餓死者が多く出た。
ところが、戦争の大きな矛盾として、大本営の軍人は仕出しの弁当を食べていたという説もあるし、国内では軍人たちは食べることに不自由しなかったばかりか、最前線でも、指揮官幹部たちが餓死した話は全くない。
玉音放送後、武装解除してしまった兵士たちはシベリアに連行され、抑留され、飢餓に苦しみながら、極寒の中、伐採や鉄道建設の強制労働をさせられた。
ソ連軍は、抑留中も日本の軍隊の階級制度をうまく利用したため、ここでも、大変だったのは兵士たちだった。
大黒柱を召集、徴兵された家族は銃後の守りなどと呼ばれていたが、大黒柱が帰国できた家庭はまだしも、働き手が戦没してしまった寒河江幸子さんの家庭では、大根飯という「おしん」みたいな貧しさで生きていくのもやっとという有り様だった。
戦争ではだれが何と言っても一番大変なのは親が戦没した子どもと女性たちである。
親がいなければ、清太と節子みたいに子どもだけでは生きていくのは難しい。
女性たちは、戦場であれ、戦後であれ戦争に敗れれば、性的暴行されることはベルリンや満州で証明されているばかりか、進駐してきた兵士たちから性的暴行される。
基地ができれば、小学生の女児だって容赦なく米兵3人に性的暴行されている。
こういう事実を語り伝え、戦争に反対していくのが遺族会の役割りだとすれば、遺族も孫世代につないでいくことが求められているのではないか。
2025年09月05日
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