戦後80年 昭和百年 家族の記憶E最終回、8月18日の読売が伝えたのは日本の三大花火で知られる長岡の花火師嘉瀬誠次さんと長男晃さんが打ち上げる抑留、空襲…鎮魂の花火「白菊」だった。
長岡の花火師嘉瀬誠次さん(2023年に101歳で死去)は、43年に徴兵され、千島列島の重要拠点「松輪島」の守備隊に配属され、地上戦は行われず終戦を迎えた。
ソ連兵が上陸し、武装解除後、シベリアに連行され、抑留生活を送る。氷点下30度の極寒の中、樹木伐採やレンガ積みなどを強制労働させられた。
食事は豆が浮いたスープとパンひと切れ。3年後の帰国が叶い、花火師に復帰した。
90年7月、旧ソ連ハバロフスクでシベリアで斃れた戦友たちに鎮魂の花火「白菊」を打ち上げた。
2003年から長岡空襲の死者の命日にも白菊が打ち上げられるようになった。
父が彼岸の人となってからは、息子の晃さんが取り仕切っている。
「生きたくとも生きられなかった人々への思い。白菊はそれが父の体の奥底からにじみ出て形となったものだ」と語る晃さん。
8月1日、午後10時30分、信濃川の河川敷で打ち上げられた「白菊」。80年前のこの日、125機の米爆撃機B29が焼夷弾の雨を降らせた。市街地の8割が焼け、1489人の命を奪った。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で長岡を訪れたのは2017年8月のことだった。
佐渡金山で働く男たちのカネを巻き上げるためにできた水金遊郭の遊女、女郎たちの供養をするために佐渡に渡り、長岡を訪れて驚いたのは、空襲の犠牲者1489人ということで、全員の名前が明らかになっていることだった。
全国の慰霊碑を周っていて、こんなことは初めてのことだったからびっくりである。
一般的には、「約」と言うことで正確な数字はなかなかわからないからだ。
長岡の花火は日本三大花火だと耳にするが、花火に格別思い入れがあるわけでなし、実際見物したことはない。
それでも、同じ火薬を使うものとしては、爆弾とは異なり、危険は伴うにしても人々の心にそれぞれ思い出を残してくれる。
花火師で抑留経験があるからだろうか、長岡空襲の犠牲者の慰霊の日に「白菊」という特別な花火を打ち上げるというのは忘れがたきイベントである。
抑留はソ連、長岡空襲は米国であるが、抑留にしても、空襲にしても生き抜いてこられ、長岡市民に花火を打ち上げる花火師の嘉瀬誠次さん。その跡継ぎの嘉瀬晃さん。と長岡市民の心は一つ。
平和なればこその花火、掲載された写真で見る「白菊」は見事である。
2025年08月24日
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