2025年08月22日

南樺太で電話交換手が集団自決 稚内で慰霊祭

 終戦後も続いたソ連軍の侵攻により、南樺太・真岡(現ロシア・サハリン州ホルムスク)の郵便局で女性電話交換手9人(当時17〜24歳)が集団自決した事件から80年を迎えた20日、9人の慰霊碑がある北海道稚内市で追悼の式典が開かれた。遺族や元同僚の親族、地元の高校生ら約240人が参列し、9人の肖像画が並ぶ祭壇に一輪菊を手向けながら 冥福を祈った。と21日の読売が伝えている。

 9人は1945年8月20日朝、ソ連兵が迫る中でも真岡郵便局に残り、近隣の郵便局に戦況を伝えるなどの職務を全うした後、猛毒の青酸カリを飲んで自決した。沖縄戦の悲劇の象徴となった「ひめゆり学徒隊」になぞらえ、「北のひめゆり」とも呼ばれている。

 参列者の一部は式典後、宗谷海峡を望む稚内公園に向かい、9人を悼む「九人の乙女の碑」(1963年設置)に手を合わせた。

 9人の同僚で当日は非番だった金川一枝さん(2013年に83歳で死去)の次女・中間 真永さんは、自身が事件を題材に脚本・演出を手がけた舞台「九人の乙女〜氷雪の門」の公演を札幌市で3日前に終えたばかり。中間さんは公演が大好評だったことを伝えたといい、「9人に『やりきりました』と報告することを目標に頑張ってきたから……」と万感の様子で語った。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で稚内を訪れたのは2010年8月29日のことだった。
 稚内公園にある「九人の乙女の碑」と1945年8月22日、樺太からの引き揚げ船の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が留萌の鬼鹿海岸沖で、ソ連の潜水艦に撃沈させられた三船殉難事件慰霊碑に手を合わせるためだ。

 2025年の夏、思えば当時は還暦になって1年余だったから、元気だった。
 稚内からレンタカーで宗谷岬にも行き、稚内から留萌までレンタカーで往復したが、衰えてしまった今なら考えられない。

 世界広しと言えども、戦時中のソ連、現在のロシアはどうしても好きになれない国の筆頭格である。
 南樺太真岡の郵便局電話交換手が青酸カリで集団自決をしたことを思えば、さぞや苦しかっただろうと気の毒でならない。
 当時のソ連兵は女とみれば、所かまわず、マンドリンと呼ばれた機関銃をもってレイプしたことが証言されている。電話交換手は青酸カリを飲む苦しさを選択するほどソ連兵にレイプされたくなかったと推察する。

 留萌沖で撃沈された小笠原丸には、元横綱の大鵬と母親が乗船していたが稚内で下船したから命拾いしたと伝えられている。大鵬の父親はウクライナ系だという説があり、そのウクライナに21世紀のヒトラープラススターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンが侵略戦争を仕掛けた。

 なんだかんだ言っても、死んでしまってはお仕舞だから、電話交換手は上司がもっと早くに北海道に引き揚げさせるべきだった。

 毎日、書き続け発信しているのは「自由のため」であるが、語り継ぐ戦争で戦争の性被害について取り上げることが多いのは、戦争では敗戦国の女性は性暴力の被害者にされてしまい、自由を奪われ、尊厳を傷つけられてしまうからだ。

 9人の電話交換手もソ連兵の性暴力を恐れての集団自決だった。 
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