『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫)の直木賞作家新田次郎(藤原寛人)と連れ合いで幼い子ども3人を連れて満州から朝鮮へと逃れた時の1年余を綴った『流れる星は生きている』で知られる藤原てい夫妻の戦後80年の家族の記憶Dが8月16日の読売で伝えられている。
満州国の観象台(気象台)の課長だった寛人さんは、1945年8月9日未明のソ連軍侵攻で職場から呼び出され、家族は鉄路で脱出させるということで、家族とは別離となった。
その後、中国の延吉で抑留されながら、機器修理の仕事を任され、特別な待遇を受けていたらしい。
夫妻の次男で数学者の藤原正彦さんは、『国家の品格』(新潮新書)などたくさんの著作で知られる。当時2歳だったが、戦後の両親を見て、「満州で別離となった母への負い目だけでなく、重労働を強いられ、飢えに苦しんだ抑留者たちへの後ろめたさを、父はずっと引きずって生きた」と話す。
もともとは穏やかな女性だったていさんは、満州脱出で「子を生かす」ための母の戦いを経て「猛女」に変身していたそうな。
五味川純平『人間の條件』(三一書房)を原作にTVドラマ化されたとき、主人公梶を演じたのが加藤剛だった。人間性豊かで、満州に渡って中国人を使う立場になっても、彼らに酷いことができない梶にピッタリの俳優だった。
梶からの影響で満州に関心を持ったのは中学生の時ではなかったか。
『流れる星は生きている』を買い求めて読んだのは満州に関心があったからだが、今思えば、若い頃は知識も浅くて、上っ面のことしか知らなかった。
藤原一家は、梶がそうであったように満蒙開拓団員ではなく、政府機関で働く満州のエリート層にあたるから取り残された満蒙開拓団とは異なり、いち早く脱出もできたと言っても過言ではない。
その後、満蒙開拓団のことを学習するうちに彼らが中国人の土地を奪ったも同然かつ、彼らを見下していたことが分かり、1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻で立場が逆転したのはある意味で当然のことだったといえるかもしれない。
逃避行でやせ細るばかりの子どもたちのために、物乞いをした時、出てきた女性は村八分を恐れながら<日本人をみんな恨んでいる。でも、あなた方には何の罪もない。私がこれからものを捨てるから、それを急いで拾いなさい>
藪に置かれた器にはたくさんのご飯と、漬物と味噌だった。
ていさんは、「私たちを救ってくれたのは、北朝鮮の貧乏なお百姓さんだった」と繰り返し子どもたちに語って聞かせた。とは『流れる星』にも書いてある。
梶のように満州で現地の人を虐めなかった人がいた一方で、虐めた日本人が大多数だった。
それでも、中国人や朝鮮人の中には、逃避行で困り抜いている人に手を差し伸べてくれた人がいたのである。
過去はやはり反省し、友好を深める努力をすることが大切だと教えられた。
2025年08月20日
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