2025年08月16日

9歳で戦争孤児 各地転々 家族の手紙支え

 「東京で大きな空襲があった。お前のうちでは、お父さんとお母さん、お姉さん3人が亡くなった」

 1945年5月初旬。当時9歳だった永田郁子さん(90)(埼玉県蕨市)は学校の先生からそう教えられ、ぼう然とした。生き残ったのは7歳上の兄だけだという。親のいない戦争孤児になった。と8月9日の読売が伝えている。

 永田さんが通学していた深川区(現・江東区)の国民学校では戦況悪化を受け、3〜年生が新潟県に集団疎開していた。
 深川区で鉄工所を営む両親と兄姉4人の7人家族。疎開先には、毎週のように家族から手紙が届いた。つらい時でも読めば前を向けた。宝物だった手紙は、大空襲が起きる少し前に途切れた。

 46年3月、母方の祖父が来て愛知県の母の実家に引き取られた。
 冷たい仕打ちに耐えられず、3か月で飛び出した。空襲後、金沢の高専に進学していた兄の下宿に居候。
兄が卒業後、男子寮に入ったため、行き場を失い、転々と路上生活を送るも、偶然、兄と再会できたことで浮浪児にならずにすんだ。
 兄と再び暮らし、葛飾区の中学を卒業。学費や生活費が支給される看護学校で寮生活を送り、ようやく生活に困ることはなくなった。
 永田さんは都内の病院で看護師として66歳まで働いた後、戦争孤児でつくる団体の会計事務を手伝った。2017年には団体の仲間が絵を描き、永田さんらの体験をつづった本「もしも魔法が使えたら〜戦争孤児11人の記憶〜」が出版された。しかし、語り部活動などをしてきた仲間は高齢化し、同年に団体は解散。永田さんは数年前から、小学校などで体験を話すようになった。

 同日の読売の紙面では、孤児を救う民営施設として久留米村(現東久留米市)の民営施設「久留米勤労輔導学園のことが紹介されている。


 戦後80年となる8月15日、アジア太平洋戦争の犠牲者に黙とうを捧げた。
 8月15日、玉音放送後に出撃した宇垣特攻のことを書いたので、16日は東京大空襲で親を亡くし、孤児となった女性のことを書いている。
 1948年2月に国が行った「全国孤児一斉調査」では孤児の総数約12万3500人で、うち戦争孤児は約2万8000人。東京の戦争孤児は約2000人。
 TV局が『火垂るの墓』を毎年のように8月に放送してくれている気がするが、2025年の予定はわからないけれど、永田郁子さんと兄との話で、ここにも節子と清太がいたと思った。

 元明星大学常勤教授で社会福祉士の藤井常文さん(76)によれば、孤児を救う民営施設は都内におよそ60、都外にも多数つくられた。
 施設の数からみても、東京の戦争孤児はもっと多かったはずである。

 東久留米の学園の園長を務めた中込友美さん(故人)は詩人で青少年の職業教育もしていた。
 学園では、食料事情改善と職業訓練も兼ねて、畑を耕し、鶏や豚を飼った。
 園生は里親に引き取られるなどして巣立っていった。
 学園は50年5月に閉鎖を余儀なくされた。「GHQから農作業で孤児に労働を強いていると疑われ、解散させられた」という。

 孤児になると世間は冷たい。肉親の縁者はもっと意地悪だ。
 清太と節子をみればわかるはずだ。
 孤児だけでは生きていかれない。

 今、シングルマザーなどの家庭では、夏休みで給食がないから子どもば満足に食べられない。
 子ども食堂で奮闘している心ある人達に救われているが、参議院議員選挙で台頭した極右の参政党の神谷党首は子ども食堂はいらないと言った云々と伝えられている。
 選挙で消費税廃止を真剣に訴えたのはれいわ新選組の山本太郎代表だけだが、選挙の時だけ、消費税引き下げを公約した政党は選挙が終われば、れいわ新選組だけしか消費税のことを言わない。
 
 戦後の食糧事情は孤児ばかりが苦しかったわけではないが、それでも、中込さんのように孤児の力になってくれた心ある人がいたことを語り継ぐとともに、戦争では子どもたちが一番苦しめられることから、戦争にならないように注意していかなければならない。
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