2025年08月13日

被爆の実相を語り継ぐ 投下の瞬間 思いはせて

 戦後80年 被爆の実相を語り継ぐ―ノーベル賞受賞者を囲むフォーラムが7月20日、東京大学安田講堂で開催された。
 ノーベル平和賞を2024年受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中煕巳代表委員、高見沢将林元軍縮会議代表部大使、ノンフィクション作家堀川惠子さんが基調講演を行った。
 「核のタブー叫び続ける」、「立場対立 超える発想を」、「投下の瞬間 思いはせて」という見出しで、それぞれの立場から講演されているが、NHKで放送された爆心地から500b以内で被爆し、生き延びた78人の証言に激しく心を揺さぶられたので、「投下の瞬間、その下にいた人がどうなったか、私たちには想像力がある。ぜひ、思いをはせてほしい」と訴える堀川惠子さんにスポットを当てて紹介することにした。

 広島生まれの広島育ちで広島のテレビ局で記者をしていた堀川さん。小さい頃から原爆や被爆者の話をたくさん聞かされ、辟易というか、嫌だと思っていた。
 記者になって、広島平和記念公園で被爆者の山崎寛治さんに出会い、原爆投下時のことを聞き、被爆証言が「自分につながる人たちに起きた話なのだ」と、心に落ちた。
 生き残った被爆者の証言を追っている時、広島平和記念公園内に原爆供養塔があり、原爆で亡くなった引き取り手のない遺骨が眠っていることに気づき、本当にやらなければいけないのは死者に向き合うことだと思って取材し『原爆供養塔』を2015年に刊行した。
 7万人が眠っている原爆供養塔。その遺骨を家族に返す取り組みをしていた佐伯敏子さん。
 「遺骨になった人は皆、あの日のままなのだ」と言った。
 胸が詰まる思いがしたという堀川さん。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのは2008年のことになる。
 陸軍の特攻隊の基地があった知覧を訪れた。

 炎症性腸疾患クローン病の治療を理由に50代半ばを前に退職し、正規雇用で働いていた連れ合いを頼りに念願の「自由」を手に入れた。
 手始めに、学生時代全共闘運動で卒論も書かずに卒業はさせてもらったが、もう一度、学ぼうと通教ではあるが、大学で勉強することにした。
 卒論も書いて、還暦の頃には何とか卒業できたので、学んだことを活かし少しは世のためになることをやろうと考えた。
 すると、せっかく手に入れた人生で一番大事だと思っている「自由」を奪われた人たちのために、その人たちの声を拾い、彼らに代わって世の中に発信していこうと考えた。
 自由を奪われる一番の出来事といえば、戦争にほかならない。戦没者、死没者の慰霊をすることにした所以である。

 堀川惠子さんが気づいたように、自分も生きている人より、何も言えなくされてしまった戦没者の声にこそ耳を傾けなければならないと気づいた。

 2009年11月にヒロシマを訪れ、広島平和記念公園内を散策している時、導かれたように原爆供養塔を見つけた。
 ヒロシマを訪れた人誰しもが手を合わせる原爆慰霊碑にも無論お参りはしたが、原爆供養塔には人が集まらないので、自分が心を込めてお参りするのはここしかないと思った。
 ここに無縁仏が祀られていることを知り、益々、原爆供養塔の価値が自分にとって高くなった。

 縁者が要れば、誰かがお参りしてくれるだろうが、無縁仏なれば、なかなか手を合わせてくれる人がいないのではないかと思った次第である。

 堀川さんが「私たちには想像力がある」とおしゃっている。
 自分は、いつも想像力を磨けと発信してきた。

 想像力を磨くには、本を読み、映画を観ることが役立つ。

 爆心地から500b以内で被爆した78人。
 彼らが目撃した被爆者の悲惨な姿を想像するに絶対戦争はやってはいけないと思うはずだ。
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