2025年07月29日

戦争花嫁「愛と辛抱」差別乗り越え

 終戦後に占領軍の兵士らと結婚して米国へ渡り、「戦争花嫁」と呼ばれた日本人女性の半生を描く舞台「WAR BRIDE」が8月5日から東京大手町のよみうり大手町ホールで上演される。偏見や差別を乗り越え、両国の懸け橋として生きた戦後80年、主人公のモデルとなった桂子・ハーンさん(94)(オハイオ州在住)が読売新聞のインタビューに応じた。と7月25日の読売(真崎隆文記者)が夕刊で伝えている。

 横浜市出身の桂子さんは1948年に女学校を卒業し、米軍基地「キャンプ座間」で事務員として働いていたとき、後に夫となるフランクさん(2006年に77歳で死去)と出会った。
 「愛と辛抱」がなければ生きていけなかった」と周囲からの差別を乗り越えたことを明かす。

 米国に帰化する面談で、「もう一度米国と日本が戦争になったら日本と戦うか」と問われ、「イエス」と答えるしかなかったが、その時、「二度と日米間で戦争が起きないように、両方の国の人から誇りに思ってもらえる女性になりたい」と心に決めたそうな。
 共立女子学園の植木武名誉教授によれば、米国では戦前から日本人の移住が禁止されていたが、1947年に軍人と結婚した日本人女性の入国を特例的に認める「戦争花嫁法」が施行されたことなどで4万〜5万人が海を渡ったと推測されている。
 その多くが厳しい人種差別にさらされた。米兵相手の娼婦と混同され、明治・大正期に渡米した日系人社会からも蔑まれた。


 戦争といえば、勝者と敗者の間で繰り広げられた女性への性暴力、性被害の問題を考えなくてはならない。
 例えば、戊辰戦争で薩長軍などが会津の女性たちに加えた性暴力は、2018年に戊辰150年経っても会津と長州の和解は成立していないことにつながっている。
 勝者の兵士たちが敗者の女性たちに襲いかかり、性暴力を加え、生憎妊娠してしまった女性が肌の色が黒い子ども産み、差別されてきたことは、特攻隊の知覧にある旅館での占領軍兵士による性暴力事件で語り継がれている。
 性暴力の被害が原因となったり、食べるためであったりで敵国だった米兵に春を鬻いだ女性たちのことを「パンパン」と蔑み、差別したのは同じ日本人だった。

 敗戦で働く場がなかった女性たちが生きるため仕事を求めた米軍基地で 仕事にありつき、米兵と親しくなり、オンリーなどと呼ばれていたこともあった。
 戦争花嫁といえば、1950年の朝鮮戦争でも米兵と結婚した朝鮮半島出身女性が軍人の妻となって、70年代、自分が学生時代アルバイトした米軍キャンプの米軍関係者のアパートで見かけた。

 桂子さんのようにキャンプ座間で事務員として働き、米兵と出会い、結婚して米国に渡った女性は幸せな人たちである。

 小学生の頃、同じ分校に通った同級生の女子が本校に移った4年生の時だったか亡くなった。
 彼女の家は子だくさんで周辺でも一番の貧乏で、長姉があるとき、黒人を家に連れてきた。
 長姉と次の姉もまた米軍基地で働いていたとのことで、二人とも相手は黒人だったが、一緒に実家に相手を連れて来たのかは覚えてはいない。
 小学生の時見た光景を今でも覚えているのは黒人を見たのはその時初めてだったからだ。
 姉二人はそのまま、米国に渡ったと風の便りに聞いたが、その後のことはわからない。

 米軍基地の街沖縄。米兵との間で子をもうけながら、離婚や帰国で置き去りにされる女性が後を絶たない。元米軍法務官で弁護士のアネット・キャラゲインさんはそんな女性たちの養育費請求を支援してきた女性たちの味方だ。

 うまく結婚できた人はよいが、GIベイビーと呼ばれる子どもが生まれて、事情があって亡くなり葬られたとされるのがJR山手駅にある根岸外国人墓地である。
 2024年3月31日に墓地を訪れ、経を唱える代わりに尺八を吹いて手を合わせてきた。

 戦争前夜とまで呼ばれている昨今、とにかく、石破首相に頑張ってもらい、米国の戦争に巻き込まれないように願うばかりである。 
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