2025年07月27日

南方での抑留

 7月27日のNHKマイ朝ラジオ著者からの手紙で『南方抑留―日本軍兵士もう一つの悲劇』の著者、作家林英一さんに語られることが少なかった南方での日本兵の抑留について聴いていた。
 戦後になって、満州などからソ連軍によってシベリアに強制抑留された北方抑留はよく知られているが、南方での日本兵の抑留についてよく知られていないのは、資料が少ないことが挙げられる。
 日本軍は敗戦で、幹部がその責任を問われることを恐れ、関係書類を焼却処分したし、兵士が収容所で書いていた日記などは没収されたことが大きい。
 さらに、日本兵には3年半に渡って現地を支配した加害者としての負い目があったことも語られることが少なかったのではないか。
 資料が少ない中で、連合軍が没収した兵士の日記に着目した。
 戦後、書かれた回想録と異なり、日記は帰国できるかどうかさえ不明な抑留中に書かれたことから、兵士の実相が記録されていたからだ。

 抑留中のこととして、食事量が少ないので、飢餓の問題がまず挙げられていること。
 シベリア抑留でも同じことがいえるが、抑留する側が日本兵を管理するために、旧軍組織、階級を利用したため、戦争が終わって収容所にいるにもかかわらず、旧軍の階級制度が存続されていたことへの疑問を挙げていた。

 一番大きいのは、日本軍の将校などは、東南アジア地域での加害者としての日本兵として、負い目を強く意識していたことが特筆される。


 首都圏の田舎町に生まれ育ち、今でこそ街は宅造、住宅建築が進み様変わりした。
 小学校は3年生まで近くの分校に行き、4年生から少し離れた本校に通い、ここで、学校給食を始めて食べた。
 6年生の頃だったと記憶するが、映画館など駅の近くまで行かないとなかったが、近所の寺の境内でだれが企画、上映してくれたのか不明であるが、観た映画がある。
 加藤大介の『南の島に雪が降る』という作品で、あれから60有余年経っても覚えているくらいだから、よほどインパクトがあったのであろう。
 飢餓とマラリアに苦しむニューギニアで、兵士の生きる希望と士気高揚のため、自らの役者としての経験を活かし、故郷日本に降る雪を舞台道具に芝居を見せ、兵士たちを元気づけるのだ。

 さて、語り継ぐ戦争だから、アジア太平洋戦争に関し、加害者、被害者両者の立場から、学んだことを取り上げてきた中で、シベリア抑留に関しては、かなり力を入れて書いてきたので、戦後生まれとしては詳しく知っていると自負している。
 何しろ、毎朝、ロシア製法の黒パンを秋田の大館から取り寄せて食し、シベリア抑留のことを忘れないようにしているくらいだから意識は高い。
 ところが、南方での収容所での抑留生活については、詳しいことは知らなかった。
   
 収容所でシベリア抑留をしたソ連と南方での抑留体験者には大きく異なるのは、ソ連共産主義で日本軍兵士たちを洗脳する教育が行われたこと。
 ソ連に洗脳され、収容所で威張っていた抑留者が帰国する船の中でどうなったか。考えてみればわかるだろう。
 南方では植民地化していた欧米各国と独立を目指している勢力との戦いで両者が日本兵を戦力として考えていたことも特筆される。

 7月17日の新潮社フォーサイトで「南方抑留の悲劇」はなぜ隠されてきたのか?「シベリア抑留」との決定的な違い|吉田裕×林英一 戦後80年特別対談が行われている。
 吉田さんは『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』の著者だから、大変参考になった。

 シベリア抑留は、日本人抑留者の立場からみれば、被害者だと断言してもいいくらいの酷い話である。
 南方抑留は、アジア太平洋戦争の戦線拡大でおよそ3年半くらいは侵略者として、現地住民には酷いことをしてきた立場であり、抑留においては被害者でもある。
 残留日本兵として、欧米の植民地からの独立運動を助けたた人たちがいたが、収容所で抑留生活を送ったのはシベリアが長い人で11年、南方では2年程度だから、そもそも比較にもならない。

 戦争における、加害被害両面から考える必要があるのが南方抑留である。
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