1945年7月29日、京都府舞鶴市の舞鶴海軍工廠に米軍機が長崎型原爆の模擬弾を投下し、動員されていた学徒19人と教師1人を含む97人が犠牲となった。 翌30日にも、舞鶴港に停泊中の艦船が攻撃を受けた。 この2日間で約200人が死亡した。 工廠跡を見下ろす共楽公園には2014年に慰霊碑が建立され、毎年7月29日に慰霊祭が開かれている。とメディアが伝えている。
2024年7月30日の読売が戦後79年の慰霊祭の様子を伝えていたが、空襲体験者は高齢となり、慰霊祭への出席はならなかった由。
総務省の一般戦災死没者の追悼によれば、犠牲となった学徒、教師の所属は次のとおり
京都師範学校、京都市立洛北実務女学校、京都市立第二商業学校それぞれの故人名、そして京都府立舞鶴第二高等女学校教諭の故人名が刻まれている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で舞鶴を訪れたのは2013年の10月下旬のことだった。
満州やシベリア抑留者の引揚港として知られている舞鶴には引揚記念館があり、引き揚げのことを知るためでもあった。
満州からの引き揚げ、シベリア抑留からの帰国に関する資料が豊富なのはここと新宿にある平和祈念展示資料館であるが、同じく、引き揚げ港として知られる博多と佐世保にも資料館があるらしいのだが、行きそびれたままであるのが残念でならない。
海軍工廠が狙われ、勤労動員された学徒に犠牲者が出て、2014年に慰霊碑が建立されたことになっている。
2013年に訪れた時、海軍工廠への空襲の話はよく知らなかった。
戦争における空襲、空爆となれば、まず、軍需工場が標的になるのはごく当たり前のことになる。
軍港だった横須賀では、その軍港と軍艦長門が標的にされた。
軍都だったヒロシマには原爆が投下され、南方の戦地から帰国した父親が宇品港に着き、原爆投下後の街の様子を鉄道の車中で目撃しているはずなのである。
軍需工場や軍の関係施設には学徒が勤労動員されていたから、空襲、空爆では彼らに多くの犠牲者が出ている。
2014年になって、慰霊碑が建立されたが、2024年の慰霊祭には体験者が参加できなくなっており、このままでは慰霊祭も行うことができなくなりそうだということを耳にしたくらいだ。
それでも、舞鶴海軍工廠への米軍の空襲、空爆で犠牲となった勤労学徒の名前が刻まれた慰霊碑は戦争を語り継ぐことができるので、舞鶴市は、維持管理をしっかり受け継いでもらいたい。
2025年07月22日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/191427516
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/191427516
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック