沖縄戦を生き抜き、語り部となった翁長安子さん(95)は戦争の「記憶」が「歴史」に代わりつつある今、命ある限り語り続けることが使命だ。と6月17日の読売(矢野恵祐記者)がその活動を伝えている。
真和志村(現那覇市)で生まれ、1945年3月末、米軍の上陸を目前に、陸軍が住民に組織させた警備隊に看護要員として加わった。通称「永岡隊」。首里城に近い安国寺の住職永岡敬淳住職が大尉となって隊長を務めた。
5月末の夜、隊が立てこもった寺のガマが攻撃され、背中を撃たれて意識を失うも、遺体の山の中で目を覚ますと、応急手当がなされた体にサトウキビの幹を杖代わりに約14`離れた南部のガマを目指した。
身を寄せた糸満市のガマでは滴る水滴と塩で飢えを凌ぐも、包囲もが狭まり、自決を覚悟した時、永岡住職が投降するようにと呼びかけた。「安子、お前は若い。生きてこんな戦があったことを語ってくれ」。
愛用の数珠を託した住職はガマに残って最期を迎えた。
戦後、小学校の教員となり、子どもたちに沖縄戦の悲劇を伝えてきた、地域の住民と共に村民ら約3万5000人の遺骨収集にも力を注いだ。動員された学友たちも「ひめゆり学徒隊」となって若い命を散らした。
小学校の教え子だった沖縄大学の教授に学ぶ学生が沖縄戦の特別講座を企画し講師に招かれた。
語り部も戦後世代中心になっているが、住職から受け取った「命どぅ宝」のバトンを次世代に託したいと願う翁長さん。
「誰よりも命と平和の大切さを知る私のメッセージはきっと次の世代が引き継いでくれる」との希望を抱く。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたとはいうものの全体の数からすれば、ほんのわずかな数しか周れてはいない。
今思えば、小学校、中学校の社会科などの学習でアジア太平洋戦争について、きちんと勉強した記憶がない。
戦後80年、日本の政治を担ってきた自民党政府は親米派がほとんどで、日米安保でいざとなれば、米軍が守ってくれるなどと市民を騙してきた。
米軍が駐留している諸外国に例を見ないほど不平等な日米地位協定の改定を米国に働きかけようとしたことすらなかった。
戦争を企図し、作戦を立案、遂行した軍人たちのほとんどが学業成績優秀であったことと較べ、自分の学業成績は芳しくなかった。
ところが、学業成績優秀な人間の集まりである日本軍が国力が桁違いすぎて勝てる見込みゼロの米国と戦争を始めてしまい、原爆を落とされるまで敗戦を認めようとはしなかった。
勉強ができるだけではだめだということをわからせてくれたのは日本軍の軍人である。
米国はしきりに中国が台湾に侵攻するとばかりに危機感を煽っている。
日本の親米派である自民党や右寄り政党は米国の扇動に乗せられ、本当に自衛隊を派兵してしまいそうで恐怖である。
そこで、頼りにしているのがれいわ新選組から7月の参議院議員選挙全国比例特定枠で立候補することになった毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんである。
日米地位協定を改定し、日本の国は日本の主権で守っていくことを明らかにしている。
平たく言えば米国からの要請があっても、中国のとの戦争はやらず、外交の力、話し合いで解決しようとするものだ。
沖縄戦を語り継いできてくれた翁長安子さんの願いとも一致するし、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で戦没者、死没者の無念の思いに耳を傾けてきた自分としても、戦争に巻き込まれないようにするのは当然のことである。
2025年06月27日
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