2025年06月18日

「鉄の暴風」吹き荒れる地獄の戦場

 80年前、沖縄で「鉄の暴風」が吹き荒れた。孤島を守る日本軍は米軍の火力に突き崩され、住民を巻き込んで敗走する。日米合わせて20万人が死亡した沖縄戦。日本の組織的戦闘が終結した6月23日を前に、生存者が目撃した苛烈な戦火を再現する。と6月17日の読売が戦後80年、昭和百年、沖縄の上として伝えている。

 藤井昭夫さん(92)は11歳のとき、日本軍が司令部を置く首里の北にある前田高地で激戦に巻き込まれた。後の米側の記録に「ありったけの地獄を一つにまとめた」と書かれた「前田の戦い」だ。
 米軍は5月6日に前田高地を制圧して南進。母子祖父母との逃避行中おばあとはぐれた。おじいが砲弾の破片を腕に受けて肉がえぐり取られた。傷口を海水で洗うほか処置のしようがない。やがて激しいけいれんを起こして絶命した。
 母子は本島南端の 喜屋武岬まで追い詰められ、林に身を潜め、やがて米軍に収容された。
 収容所で母は亡くなり、孤児となった藤井さんは勉強して医師となった。

 玉木利枝子さん(91)爆弾で負傷した兄が野戦病院で左腕を切断する応急処置を受けた。優しかった兄が 苦悶の表情を浮かべ、水を求めてあえいでいる。しかし、当時は水を飲ませると出血を招くと教えられていた。兄はそのまま息を引き取った。
 砲撃で倒れた祖父は、この世のものとは思えない断末魔の声を上げて死んだ。足手まといにならぬよう自ら命を絶ったと耳にした。

 又吉武市さん(88)戦火に追われ、母と2人で南へと逃れた。身を寄せたガマ(自然壕)近くに爆弾が落ち、入り口付近にいた母の右肩を破片が貫いた。母は九死に一生を得たものの、ガマの奥にいた20人ほどは吹き込んだ爆風でほぼ全滅した。
 さまよい歩いた戦場では、負傷して倒れた日本兵に「水をちょうだい」と足をつかまれた。「まだ感触が残っている」と声を震わせる。岩の下敷きとなり、腹から胎児が飛び出した妊婦もいた。


 前田高地(標高148メートル、現浦添市)で、5月6日までの戦闘で日本軍は約3000人、米軍にも多大な損害が出た。この戦いは2016年、米映画『ハクソー・リッジ』で描かれたと解説されていたが、残念ながら見逃してしまった。

 沖縄は日本軍が本土の防波堤としたため、沖縄戦では県民に多数の犠牲者が出た。
 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れ、自分なりに勉強したがまだまだ知らないことの方が多い。
 沖縄戦の激戦地として名高いのが前田の戦い、シューガーローフの戦い、ハーフムーンヒルの戦いが知られている。
 ガマフヤーの具志堅隆松さんにお目にかかったのはハーフムーンヒルだったが、2016年当時は、その地が激戦地だったことなど全く知らなかった。
 当時、公園になっていて、具志堅さんが過去のハーフムーンヒルの戦いについて教えてくれた。
 ハーフムーンヒルの近くでの激しい攻防戦があったのが慶良間チージ、シュガーローフだった。

 日本軍が司令部を首里においたから、その近くで激しい攻防戦が起きたのは作戦面からみれば当然のことになる。

 しかし、日本軍にとっては、本土の防波堤にした沖縄での戦いは時間稼ぎみたいなもので、本土への米軍の攻撃を遅らせるのが狙いだった。

 しかも、日本軍は琉球弁というか沖縄方言を理解しなかったため、スパイの嫌疑をかけたり、ガマに隠れている時、赤子が泣くと黙らせろと殺害を命じたばかりか、米軍の呼びかけで、ガマから出ようとすると後ろから県民を撃ち殺した。

 日本軍の兵士は沖縄県民を守る意思を持っていた者は少なかったのではないか。

 日本の自民党や保守派とされている人たちは日本軍の兵士が県民に銃口を向けた事実をなかったことにしようとしているが、事実を正確に伝えなければ、再び戦争に巻き込まれる可能性が高い。

 戦争で、日本軍が日本人の守らなかったのは満蒙開拓団の人たちがソ連軍から逃げ惑っているときもそうだった。

 沖縄戦で、日本の防波堤にされなければ、これほど多くの県民が死なずにすんだ。
 戦争になって苦しめられるのは市民である。

 参議院議員選挙では緊急事態条項を導入しようとしている勢力に投票すると自分の首を絞めることになるから要注意だ。
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