シベリア抑留研究の第一人者で成蹊大名誉教授の富田武さんが19日、急性骨髄性白血病のため死去した。79歳。福島県出身。とメディアが伝えている。
5月27日の産経新聞によれば、東京大法学部卒。予備校講師を経て、成蹊大の助教授、教授、法学部長、名誉教授を歴任。ソ連政治史などが専門。スターリニズムを批判する立場からシベリア抑留研究に取り組み、シベリア抑留研究会の代表世話人を務めた。
ロシアで公文書を発掘・分析するなどの研究を長く続け、シベリア抑留の実態に迫ったとは5月26日の読売が伝える富田さんの訃報である。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周っている最中の2020年コロナ渦が発生、2024年の夏頃までどこにも行かれなくなってしまい、落胆もあったのか心身共に病んでしまい急激に衰えてしまった。
しかし、秋になって、大阪を訪れた際、大阪城のガイドでお世話になった植野師の墓参りというか仏前へのお参り後、年が明けるといくらか体調が回復し、気力も湧いてきた。
富田武さんのことは2014年8月23日に上映会があった『帰還証言ラーゲリから帰ったオールドボーイたち その2前篇(終戦編)』の会場での講演で知った。
映画会を主催したのは日本ユーラシア協会だった。
映画の途中休憩時間に協会員手作りのロシアの軽食でもてなされ、黒パンのカナッペを食することができた。
あれから、早や10年の月日が流れてしまったが、ロシア製法の黒パンを我が国で唯一製造しているという大館のサンドリヨンから取り寄せて、毎朝、連れ合いと一緒に食べている。
サンドリヨンのことを知ったのは、抑留されたとき食べた黒パンのことが忘れられず、サンドリヨンから取り寄せて毎日食べているという首都圏に住む元抑留者のことが読売に紹介されたことがあったからだ。
自分の場合、シベリア抑留者のことを忘れないため、シベリア抑留に大きな関心を持ち続けてきたからにほかならない。
シベリア抑留のことは、舞鶴引揚記念館と新宿にある平和祈念展示資料館が詳しい。
そこでは、抑留者が食していた黒パンの分け方を巡って、奪い合うような抑留者の姿がジオラマで描かれているのだ。
シベリア抑留といえば、抑留者約4万6300人の犠牲者名簿を綴った村山常雄さん。
『命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って』を刊行し、モンゴル抑留死亡者378人全員(現在判明分)の死亡者名簿を公表した読売の記者井手裕彦さん、無論シベリア抑留の研究者である富田武さんのこともであるが忘れてはならない。
10年前の富田さんの講演で、1945年8月9日未明、ソ連軍が満州に侵攻し、満蒙開拓団など日本人女性がソ連兵に滅茶苦茶に性的暴行され、生憎妊娠したり、梅毒に感染させられた女性たちが博多や佐世保などに引き揚げ後、妊娠中絶手術や梅毒の治療を受けた二日市保養所のことを話された。
その時、すでに二日市の保養所跡地にある母子地蔵にお参りを済ませていた自分としては、富田さんは流石だなと感心したものである。
ドイツや日本など400万人以上の将兵、数十万人の民間人が、ソ連領内や北朝鮮などに抑留され、「賠償」を名目に労働を強制された実態に光をあてた『シベリア抑留』を刊行された富田さんが2017年1月20日、中公新書WEBの刊行理由を問うインタビューに「第一は、シベリア抑留というと日本人将兵のソ連抑留しか思い浮かべない一般的な見方を改めるべく、朝鮮人将兵や、南樺太・北朝鮮の日本人居留民の抑留もとりあげたこと。第二は、抑留者の飢え、酷寒、重労働の「三重苦」ばかりが強調されていたのに対し、彼らがいかに生き抜いたかに焦点を当てたこと、第三に、日本人の捕虜・抑留には、ソ連国民の矯正労働収容所送り、ドイツ及び同盟国軍将兵の虜囚生活という前史があったことを示し、世界史的視野から考えるように構成、叙述したことだ」と述べている。
学校教育でもっと取り上げなければいけないことは、非武装の市民を無差別に殺戮した東京大空襲、日本軍が県民を守らず、犠牲を強いた沖縄戦、日本軍が降参するのが遅すぎた故の原爆投下、侵略の加害者とソ連兵の被害者併せ持つ満蒙開拓団そして戦後になってからのシベリア抑留である。
2025年05月29日
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