2025年05月20日

「モーセの道」特攻の記憶も 知林ヶ島

 鹿児島県指宿市の無人島「 知林ヶ島」は、毎年3〜10月の大潮や中潮の干潮時、1日に数時間だけ砂州が現れ、薩摩半島と陸続きになる。歩いて渡れる道は長さ約800メートル。同市は道ができる時間を公式サイトで発信している。と5月18日の読売(富永健太郎、伊藤紘二記者)が伝えている。

 真っ青な海の底から現れた砂の道が、島と陸をつなぐ。旧約聖書に記された「モーセの奇跡」を思わせる神秘的な現象を観ようと多い日には600人以上が訪れる。

 美しい景観が広がる砂浜のすぐそばにはかつて、指宿海軍航空基地があった。太平洋戦争末期は水上機の特攻基地として使われ、多くの若者が特攻隊としてこの場所から出撃した。戦後80年が経とうとする今も、水上機の残骸が砂浜で見つかることがある。

 市内の戦跡の調査や語り部活動に取り組む「指宿の戦跡と戦争を考える会」代表の橋野裕明さん(80)は「島の周辺には基地の遺構が数多く残されている。ここから飛び立っていった人たちのことを、次の世代に語り継いでいかなければいけない」と力説する。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのは2008年8月のことだった。2020年からコロナ渦で行かれなくなっていたが、行脚でお世話になった方の墓参りが2024年実現したことで復活の兆しになりそうだ。
 戦後80年の2025年は目的地はともかく行きたいと願っている。

 語り継ぐ戦争だから自分なりに本や映画などで勉強してきたつもりであるが、つくづく思うのは知っていることなんてほんのわずかにすぎないということだ。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚だから、まず、特攻隊の皆さんへのお参りだった。
 特攻隊といえば、知覧特攻平和会館で隣接する特攻平和観音堂でお参りしたまではよかった。

 ところが、勉強が足りないと痛感したのは、知覧は陸軍で、同じ南九州には海軍の鹿屋があったことも知らなかった。陸軍と海軍の航空隊が別々に特攻したたことさえも恥ずかしながら詳しく知らなかった。

 あれから勉強したつもりであるが、指宿の「知林ヶ島」には指宿海軍航空基地があって、水上機の特攻基地として使われ、多くの若者たちがここから出撃したというではないか。

 知覧に行ったとき、指宿に泊まったにもかかわらずである。

 自民党の西田昌司参議院議員が沖縄のひめゆり平和祈念資料館と沖縄線に関する教育に関して、事実とは異なるメッセージを発信し、沖縄県民を怒らせ、本土でも心ある人々から厳しく批判されている。
 そこに、保守派の参政党神谷代表が擁護する考えを明らかにした。
 保守派、右寄りとされている立場の人たちには事実関係を勉強しないで自分たちこそあったことをなかったことにする不都合な真実は伝えないように企図している人が少なくないことが明らかになった。

 語り継ぐ戦争だから、戦没者の慰霊のための行脚を続けてきた自分は戦争の実相を知り、語り継いでいこうと努力している。

 特攻隊でいえば、命令ではなかったと言い訳する立場の保守派に対し、拒否できない雰囲気のなかで行くと返事したことをもって自発的であったとするのは、敗戦後、責任を問われる上官たちの言い逃れに過ぎないということだという認識の自分とは考えが違っている。

 特攻隊として、家族のため、国のために航空機もろとも体当たりすべく敵艦目指して飛び立っていった先人たちに感謝するとともに平和な日々を守っていくことを誓った。

 米国は、米軍に代わって自衛隊を戦争に巻き込もうと画策している。
 戦争をやらない、巻き込まれないようにすることが特攻隊で突撃していった先人たちに報いることではないか。
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