「碑を巡る」というタイトルで、軽井沢町大日向地区にある「御巡幸記念碑が5月13日の読売夕刊で紹介されている。
軽井沢町大日向地区といえば、終戦直後に満州(現中国東北部)から引き揚げてきた人たちが入植、開墾したことで満蒙開拓に関心のある向きなら、知る人ぞ知る一帯であるが、1947年10月、昭和天皇が大日向地区を訪れたことから、「御巡幸記念碑」が立っている。
32年の満州国建国後、日本は、村を二つに分けて片方の農民らを満州に送り出す「分村移民」を推進した。
長野県東部、現在の佐久穂町に位置した旧大日向村は山間で耕地も狭く、貧しかった。
38年、分村して満州へ渡り「満州大日向村」を作った。国策として全国に先駆けて行われたことで、小説や映画にもなった。
村から800人近くが満州に渡り、45年8月9日未明のソ連軍の侵攻で収容所に入れられ、寒さと飢えで、1年後に日本の地を踏めたのは400人にも満たなかった。
帰国しても、すでに土地や家屋は処分していた関係で帰る土地がなく、65戸の165人は47年4月、浅間山麓の原生林が生い茂る地に入植した。
65戸のうち、夫婦が健在な家庭は7戸で、中には子どもだけの世帯もあった。
27万人が満州に渡り、日本軍に見捨てられ棄民とされた結果、8万人が殺されたり、病死した。
長野県からは全国最多の約3万3000人が満州に渡り、約1万5000人が殺されたり、病死や餓死したりした。
先般、イスラエルのパレスチナヨルダン川西岸地区におけるパレスチナ人の土地収奪を描いた『NO OTHER LAND 故郷は他にない』を観た時、関東軍の後ろ盾で、満蒙開拓団が中国人から土地を奪い、入植したのと全く同じことをやったことに愕然とした。
その関東軍に見捨てられ、棄民となってからの満蒙開拓団員は女性はソ連兵などから性的暴行され、男たちは軍隊に召集され、シベリアに抑留されるなど悲惨な目に遭った。
ヨルダン川西岸では米国の後ろ盾で、軍事的に圧倒するイスラエル軍の銃口に守られた入植者が居住しているパレスチナ人を銃撃する様子が映されているのを見て、ユダヤ人が大嫌いになった。
入植というのは言葉だけで、実際は住んでいる人を追放し、土地を奪うのだ。
つまり、満蒙開拓のことは終わった話ではないのである。
長野県から送り出された満蒙開拓民が全国で一番多いからということで、信州は伊那に近い阿智村に満蒙開拓平和記念館ができている。
記念館に行ったとき、買い求めた満蒙開拓民入植図によれば、大日向村の入植地は満州国の新京から拉法経由で哈爾浜に行く途中にあった。
ソ満国境の近くというわけではないが、それでも収容所に入れられ寒さと飢えで亡くなった人が少なくなかったというのだから、もっと北辺に入植した人の苦労は推して知るべしである。
国策で行われた中国人の土地を奪った満蒙開拓と異なり、軽井沢大日向地区の開墾も同じ国策ではあるが、自らが開墾から始めた点、大変ではあったが殺される心配はなかったから救われたのではないか。
2025年05月15日
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