2025年04月25日

特攻は明言のない命令 志願ではない

 元海軍飛行予科練習生(予科練)の磯野榮佐さん(97)=茨城県鉾田市=が、19日に茨城県阿見町の予科練平和記念館で講演し、約70人が聴き入った。80年前の1945年に特攻隊員に選ばれたという磯野さん。「(志願ではなく)命令だった」と当時を振り返った。と4月24日の朝日新聞のWEB(鹿野幹男記者)が伝えている。

 予科練は、14〜17歳の少年を全国から選抜したパイロットなどの養成制度。記念館の隣にあった土浦海軍航空隊が教育の中心だった。

 磯野さんは旧制鉾田中学(現・鉾田一高)に通っていた時、将校に呼び出され、43年、15歳で試験に合格し予科練に入った。

 45年2月には、予科練卒業後に配属された北浦海軍航空隊(潮来市)で米軍機の爆撃を受けた。格納庫の屋根に戦死者の片足が吹き飛ばされてくるなど、その凄惨さは今も脳裏に刻まれている。

 関東での訓練が難しくなり、磯野さんらは同年5月、第二郡山海軍航空隊(福島県郡山市)に転属した。敗色が濃くなる中、燃料も乏しく、十分な飛行訓練を積めなくなっていた。

 磯野さんや約30人の仲間はある日、分隊長からこう告げられた。「お前たちに2泊3日の休暇を与える。(実家に)帰れる者は帰ってこい。他言無用だぞ」。分隊長は特攻隊と明言こそしなかったが、事実上の入隊命令と受け止めた。
 結局、出撃することはなく郡山で終戦を迎えた。
 磯野さんは6年ほど前から、自分の体験記の執筆やメディアの取材を通じて戦争体験を伝えている。


 戦後80年、戦争経験者がなかなか語ろうとしなかった戦争の実相を語ってから退場するようになったおかげで語り継ぐ戦争ということでは、大いに参考になっている。

 戦争を始めたのは軍人で、治安維持法が制定され、少しでも反戦のそぶりを見せただけで逮捕され、取り調べで拷問され、場合によっては小林多喜二のように殺されてしまうというのが戦前の我が国だった。

 戦争が始まると、市民は嫌でも召集され、戦地に行くことを余儀なくされた。
 磯野榮佐さんの経験から、特攻隊員が明言のない命令、拒否権のない命令で選ばれたことが明らかになるのはとても重要なことである。
 というのは、戦後、部下は死なせても、自分たちは生き残った戦争を企図、命令した側が特攻は志願だったと平然と虚偽の証言をしていたからである。
 志願したように装ったのは、自分たちの責任を逃れるためであることは明白である。

 戦後80年ということで、メディアもしっかり例年以上に戦争に関連したことを語り継ごうとしていることがみられる。

 戦後80年経っても、戦争に敗れたことで、米軍が駐留し、東京の空は横田の米軍基地が制空権を握っている。
 日本はつくづく米国の属国、植民地、保護領だと思う。

 しかし、戦後80年、れいわ新選組の毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんのように日米の不平等な地位協定を改定すべきだとか日本が真の独立国家になるべきだと発言する人物が現れたことが嬉しい。

 語り継ぐ戦争で米国が嫌いになり、米軍は退去してもらい、日本は日本人が守るというごく当たり前のことを議論できるようになってもらいたい。

 戦争で戦没、死没した先人たちのお陰で今の平和があることを考えれば、遺骨収集にもっと力をいれなければおかしい。
 A級戦犯が合祀されている靖国神社にだけお参りし、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑にはお参りしない政治家はどうかしている。
 戦争経験者が生きているうちに、戦争の実相を伝えることは反戦のためにも価値がある。
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