2025年04月19日

戦没少年通信兵812人の名前を刻む銘板

 太平洋戦争中の約2年間、15〜18歳の少年たちが無線や暗号技術などを学ぶ「少年通信兵学校」が新潟県五泉市(旧村松町)と東京都東村山市にあった。この夏の戦後80年を前に五泉市では16日、少年通信兵として戦地に向かい命を落とした犠牲者812人の名前を刻んだ銘板の除幕式が開かれた。と4月16日の毎日新聞【戸田紗友莉記者】WEBが伝えている。

 五泉市にあった「村松陸軍少年通信兵学校」は、戦線拡大による通信兵の需要増加により陸軍が設置した。1943年12月から45年8月の終戦までに全国から15〜18歳の計2400人が入校。中には朝鮮や樺太出身者もいた。2年制だったが、戦況の悪化により43年に入校した一部の315人が繰り上げ卒業し、大半が44年11月フィリピンのルソン島に出陣したという。

 戦地にたどり着く前に少年通信兵を乗せた輸送船が米軍の魚雷攻撃を受けたり、ルソン島に着いてからも集中砲火を受けたりして、その多くが亡くなった。他にも旧満州や朝鮮に配属され、戦後シベリアに抑留されるなどした人もいた。

 同校の教官や生徒らOBは70年に五泉市の村松公園内に慰霊碑を建立。現在は地元有志らで作る「慰霊碑を守る会」会長浅田光雄さん(75)が毎年10月に慰霊祭を開いている。

 一方で、OBや遺族ら関係者が高齢化。記憶の継承が課題となっており、同会では戦後80年の節目に合わせ、犠牲となった少年通信兵の名前を出身都道府県ごとに刻む銘板の設置を企画した。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚は、アジア太平洋戦争で犠牲となった人々のお陰で戦後、平和な日々を過ごすことができた自分なりの感謝の気持ちを形に表そうとして実践してきた。

 300万人超とされる犠牲者のことを考えた時、一人ひとりの人生があったにもかかわらず、戦没者ということで一括りにされていることに抵抗を覚えた。

 犠牲者の数だけの名前があり、数だけの人生があったが、戦争で人生が終わってしまったのだから、彼らの生きた証しを残してやるのは生き残った者、次世代の我々の役割ではないのか。と思うようなった。

 先般、東京大空襲の犠牲者のことを書いたときにも、取り上げたのが沖縄戦の平和の礎であり、澤地久枝さんのミッドウェー海戦における戦没者の数と名前の調査のことである。

 世界に例を見ないのではないかと思うのは平和の礎はラグビーのノーサイドではないが、戦没者の敵味方なく名前を石に刻んでいる。しかも、鉄の暴風と恐れられた米軍の艦砲射撃から礎の配列を考えたと耳にしたことがあるが関係者がお参りできるような形になっている。

 澤地久枝さんの成し遂げた偉業も素晴らしい。日米決戦の天王山みたいなミッドウェー海戦で敗北した日本はここから形勢が一気に不利になったとされるほどの戦いである。
ここでも戦没した一人ひとりの戦士に名前があり、人生があったわけで、もし、仮に自分の家族がその一人だったら、澤地さんにきっと感謝しないではいられない。

 戦争を2度とさせないためには、死者、戦没者の名前を残し、顕彰していくことではないか。
 少年と冠がつくわけだから、まだ、人生これからだった通信兵たちの名前を刻むということは素晴らしい。

 これからは、戦没者にもっと脚光を浴びせていく必要がある。
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