太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍が沖縄県の慶良間諸島に上陸して地上戦が始まってから26日で80年を迎えた。追い詰められた民間人による「集団自決」も起きた同諸島の座間味島(座間味村)ではこの日午前、村主催の慰霊祭が営まれた。と3月26日の読売が夕刊で伝えている。
慰霊祭は5年ごとに開かれてきたが、前回はコロナ禍で中止され、開催は10年ぶり。住民ら約200人に加え、沖縄県の玉城デニー知事も参列した。
1945年3月26日の米軍上陸後、多くの住民たちが手りゅう弾や刃物で命を絶った。県史によると、座間味村では200人以上が集団自決で死亡したとされる。沖縄戦全体の死者は、日米双方で20万人を超えた。
3月27日の毎日新聞のWEBによれば、米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、その西約40キロに浮かぶ慶良間諸島へ侵攻。45年3月26日に阿嘉島や座間味島などに、翌27日は隣の渡嘉敷島に上陸した。当時の日本軍は「捕虜になるのは恥」という戦陣訓を住民にも広め、「捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けて殺される」などと米軍に対する恐怖心をあおった。
渡嘉敷島では山中に身を隠した住民たちが、家族や親しい人同士で殺し合う「集団自決」が起きた。住民たちは島の山中やガマ(自然壕)などに集まって互いを手にかけた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで周ってきたが、2020年からのコロナ渦で中断せざるを得なくなり、2023年までどこにも出かけられなくなってしまっただけでなく、その間、加齢もあったのだろうか、心身共に著しく衰えてしまい、「来年の桜はもう見られない」というのが口癖になってしまったほどのうつ状態といっても過言ではないくらいだった。
白内障、耳鳴り、難聴、歯茎そして炎症性腸疾患クローン病と体のあちこちがダメになってしまったが、食べることに直結するから、歯茎の治療で口腔外科を見つけ、治療を始められてから、いくらか精神的にも持ち直した。
というわけで、戦後80年の2025年はどこかに行ってみたいという前向きな気持ちが芽生えてきた。
さて、沖縄県で起きた集団自決として知られるのは1945年3月26日、米軍が上陸した慶良間諸島の座間味島と同月3月27日に上陸した同渡嘉敷島である。
さらに、沖縄本島では4月1日に米軍が上陸した読谷村チビチリガマでも集団自決があった。
その読谷村のチビチリガマと渡嘉敷島の集団自決のあった場所を訪れ、供養のための祈りを捧げている。
渡嘉敷島を訪れたのは2016年8月のことで、ガイドを引き受けて頂いた米田英明さんの名刺に琉球新報社渡嘉敷村通信員となっていて、集団自決された方々への供養のため、東京から経を唱えるかわりに尺八を吹くためにやってきたことを告げると、珍しいことだから、「新聞社に連絡してもいいか」と言われたので、「売名のためではない。今日の平和の礎としての感謝の気持ちであり、個人的なことだから」と鄭重にお断りしたことを思い出した。
慣れない土地で車を運転し事故ったら嫌だなと思っていたら、運転もお願いできたし、ガイドをなさっているくらいだから大いに勉強させてもらった。
座間味島にはもう行かれないかもしれないが、読谷村のチビチリガマ、渡嘉敷島の集団事件があったとされている場所はいずれもガイドが付き添ってくれたから安心だった。けれど、ガイドなしだったら、怖くて行かれない。
「戦陣訓」で生きて虜囚の辱め…。と言い出したのは、A級戦犯の東条英機だと耳にしている。
自らは自決しないで、敗者として、勝者に裁かれ処刑されているが、他人には死ぬことを求めておいて、自らは自決できないのでは、戦陣訓を持ち出す資格はない。
TVで北大路欣也『子連れ狼』の再放送をしている。
以前視聴した時、インパクトがあったのは、金田龍之介が演じた阿部頼母だった。
毒を盛ったり、人を平気で殺すくせに、いざ、自らが自決を迫られるや、タッポンタッポンの腹をさすり、「痛いじゃろうな!」と躊躇い、「ワシは武士ではない」と逃げ出すのだ。
アジア太平洋戦争の教訓として得たのは、戦争で死んだらお仕舞だということ。
何としても戦争にならないようにしなければならないということだった。
2025年03月28日
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