2025年01月20日

胎児性水俣病患者坂本しのぶさんの声を聞く

 NHKETV特集「坂本しのぶ 誰か私の声を聞いて」を視聴することができ、激しく心を揺さぶられたので書いておく。
 
 「坂本しのぶさん、68歳。母親の胎内で有機水銀に侵され、生まれながら水俣病を背負った「胎児性患者」。「水俣病の象徴」として生きてきた。私(吉崎健ディレクター)がしのぶさんと出会ったのは34年前。以来、継続して水俣の取材を続けてきた。2024年、しのぶさんから、もう一度自分を撮って欲しいと言われた。しのぶさんが今伝えたいことは何か。坂本しのぶさんの生き抜いてきた半生をたどり、しのぶさんの心の声に耳を傾ける。」と㏋にある。


 チッソ水俣工場が有機水銀が含まれた工場廃液を処理せず、不知火の海、水俣湾に流し、魚を介して、まず、猫に異常が表れ、続いて漁民を中心に魚を日常的に食していた人々に症状が表れるも当初は、原因不明の奇病扱いで、患者は村八分同然の差別を受けた。
 患者が差別されたことは水俣病の語り部として著名な杉本栄子さんが証言している。

 水俣病が公式に確認された日とされているのが1956(昭和31)年5月1日である。
 この年の4月に自分の大事な連れ合いが生まれていて、社会問題に子どものころから関心の高かった自分とは異なり、自分のことだけで精一杯という連れ合いであっても、否が応でも関心を持つようになったのが水俣病である。
 特に、この年に生まれた胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんは同級生ということになるから、「私が水俣に生まれていたら、自分だったかもしれない」などとTVを視聴した感想を述べていた。

 熊本に大地震があった翌年、2017年6月、奇しくも自分の誕生日だったが、水俣を訪れ犠牲者の慰霊碑の前で祈りをささげた。
 水俣駅からタクシーで資料館に連れて行ってもらうとき、慰霊のために東京からやってきたことを話したら百間の排水溝を案内してくれた。
 資料館に着くと、慰霊碑でお参りを済ませたら迎えに来てほしいと頼み、迎えの車に乗ると、慰霊碑は海浜公園とは別の場所、乙女塚にもあると教えてくれた。
 漁村の道を走りながら、住宅で場所を確認し、着いた場所が高みにある乙女塚だった。
 毎年、5月1日に慰霊祭が行われているが、市主催で行われる海浜公園にある慰霊碑に対し、患者会主催で行われる乙女塚での慰霊祭。坂本しのぶさんが支援者の手助けで砂利道を上げてもらっている様子をTVで視聴したことがあるが、乙女塚の慰霊碑の前で開催される慰霊祭に参加していることで、市と患者会がうまくいっていないことが伝わる。
 さらに、患者会がいくつも分かれているのは、被爆者の団体被団協などからすれば、力が弱まってしまうことになるのではないか。

 2021年9月公開『MINAMATA−ミナマタ−』。ジョニー・デップ製作・主演、水俣病の存在を世界に知らしめた写真家ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスの写真集「MINAMATA」を題材に描いた伝記ドラマ。
この映画で彼の傑作「入浴する母子」で被写体となった胎児性水俣病患者上村智子さんが世界の人々に与えた影響力の大きさを知ることができた。
 アイリーン・美緒子・スミスさんが坂本しのぶさんと会話する様子がTVでも放送されていたが、写真の力は上村智子さん、坂本しのぶさん共にインパクトがあることがわかる。

 母親の胎盤には特別の力をあると信じられていたが、このことを覆した原田正純医師は胎児に異常が起きているのは有機水銀によるもので、胎盤でもどうにもならないことを発信してくれた。

 ベトナム戦争で米軍が猛毒のダイオキシン入りのナパーム弾というか枯葉剤を撒いたがために奇形児が多数生まれている。
 ベトチャンドクちゃんに会った坂本しのぶさんが我が身と重なる二人に号泣するシーンに泣いてしまった。
 チッソの幹部たちも米軍もなんてひどいことをしたものだ。
 取り返しがつかない。
 学校教育の教材にすべきだと思う坂本さんの声を聞いた。
posted by 遥か at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題
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