「激戦の面影消えた住宅地 掘り出された遺骨の父 息子、初めて戦没地へ」というタイトルで1月18日の毎日新聞のWEB(比嘉洋記者)が伝えてくれたことを書いておきたい。
18日、那覇市真嘉比。神奈川県逗子市の映画プロデューサー、田寺順史郎さん(81)は第二次世界大戦末期の沖縄戦で亡くなった父光紹さんの遺骨発見現場に手を合わせ、母の遺影を添えた。遺骨が返ってこなければ、おそらくここに来ることも、父が亡くなった日付に思いを巡らせることもなかった。
案内役を務めたのは、沖縄各地の自然壕(ガマ)などで戦没者遺骨の収集を40年以上続ける市民団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(70)。2009年に土地区画整理事業が進む真嘉比地区で光紹さんの遺骨を掘り起こした。両手を組んだ状態で埋葬され、「陸軍少尉田寺光紹」と刻まれた認識票を身に付けていた。
転機は約11年後の24年夏。具志堅さんの活動を追ったドキュメンタリー映画「骨を掘る男」を偶然見た田寺さんは言葉を失った。父の遺骨が発見されるまでに地道な取り組みがあったことを初めて知ったからだ。
100ヘクタールに及ぶ真嘉比の開発現場で具志堅さんは一人で遺骨収集に着手。発見が相次ぐと、行政やマスコミに掛け合い、ボランティアや路上生活者ら数十人を募って規模を拡大し、多くの遺骨や遺留品を重機による損壊や散逸から守った。
思いが込み上げ、連絡先を探ってお礼を伝えると、具志堅さんは言った。「沖縄で会いましょう」。田寺さんは沖縄の苦難の歴史を学び始めた。
真嘉比は激戦地だった。沖縄戦を戦う日本軍第32軍が司令部を置いた首里城地下壕は東にわずか2キロ。丘の形から米軍が「シュガーローフ」や「ハーフムーン」と呼んだ一帯では白兵戦が展開され、シュガーローフでは米軍だけで1週間に2662人の死傷者を出した。日本軍の被害はそれを大きく上回るとみられる。
逃げ惑う住民と軍隊が混在した本島南部では住民の死者が急増した。敗残兵がガマに避難した住民を追い出したり、スパイ(裏切り者)として虐殺したりしたとの証言も残る。田寺さんは南部撤退の直前に亡くなった父を複雑な思いで振り返る。「生きていたら、将校の父が住民を苦しめる側にいた恐れもあったのかもしれない」
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で激しく心を揺さぶられたのは何といっても激戦地沖縄である。収集されていない遺骨の上を自分が歩いているかと思えば死者に申し訳ない気持ちになってしまう。
さらに、語り継ぐ戦争の立場からは、2016年8月23日から25日に訪ねた沖縄でガマフヤーの具志堅隆松さんにお目にかかることができ、遺骨収集に関する話を聞くことができたときのことは忘れられない。
那覇の真嘉比地区にある米軍との激戦地ハーフムーンヒルの公園で待ち合わせたが、このハーフムーンヒルがシュガーローフと共に沖縄戦の激戦地だったことを知らなかった自分に具志堅さんは穏やかな表情で沖縄戦のことや遺骨収集についてご教示いただいた。
当時はまだ元気だった自分が遺骨収集に同行させてほしいと要請すると、1、2月の適期に沖縄に来てもらい、当日、体調がよくなければ見学もOKだと鄭重に応じていただいた。
その後、議員会館での戦没者のDNA鑑定を歯型だけでなく、人体の他の部位でも認めるように要請する会合に招かれて具志堅さんにお目にかかった。
さらに、ポレポレ東中野で上映された具志堅さんの活動を追ったドキュメンタリー映画「骨を掘る男」を観て、スクリーンで元気な具志堅さんを観た。
しかし、2020年からのコロナ渦でどこにも出かけられないうちに、著しく心身が衰えてしまい、沖縄どころかどこにもでかけられなくなってしまった。
それでも、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で大阪でお世話になったガイド師の墓参りに2024年の10月下旬に行くことができたこと。若い頃、大変お世話になった恩人の墓参りに年の瀬に行かれたことで、少しばかり、体調が上向いてきたのではないかと自覚しているので、もう一度、慰霊のための行脚に行けるのではないかと思案している。
2025年01月19日
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