2024年11月28日

ドイツ兵捕虜慰霊祭 習志野霊園で

 110年前の第1次大戦時、中国で捕虜となり、習志野俘虜収容所で亡くなったドイツ兵の慰霊祭が今月、千葉県船橋市営習志野霊園で営まれた。在日ドイツ大使館の首席公使らが参列する中、習志野第九合唱団約20人がドイツ国歌などを響かせた。県立津田沼高校オーケストラ部約50人は収容所内で作られた曲「閉じておくれ 僕の眼を」も演奏した。と11月28日の東京新聞(保母哲記者)が伝えている。

 ドイツ兵は当時、中国・青島の戦いで旧日本軍の捕虜になるなどし、最大で約千人が習志野俘虜収容所で暮らしたとされる。慰霊祭を主催したのは県日独協会。ドイツでは戦没者を追悼する「国民哀悼の日」が毎年11月に行われることから、同協会も11月、霊園内の慰霊碑前で開催している。

 17日の慰霊祭は約130人が参加し、ドイツ大使館のマルティン・フート首席公使、武官のラルフ・ペルジケ空軍大佐らが献花。収容所内で発生したスペイン風邪などで死亡した50人の名前が読み上げられた。フート首席公使は「起きてしまった歴史を繰り返さない−と思い出すのがこの式典。かつての敵が友になれることを示している」と述べた。

 同協会の木戸裕会長は、近隣住民が収容所内の音楽会や運動会を見学するなど、ドイツ兵と交流していたことを紹介。

 霊園内にはドイツ兵と同様に収容され、死亡した「ソ連軍人戦没者慰霊之碑」と「日本軍人戦没者慰霊之碑」が建立されている。いずれも台座を含め、高さ約1・2メートル。


 語り継ぐ戦争は主に15年戦争、大東亜戦争、アジア太平洋戦争などと立場によって呼び名も様々な先の大戦のことを取り上げてきたが、第一次世界大戦の捕虜、戦争の犠牲者のことは当然、取り上げている。

 徳島にあった坂東俘虜収容所で俘虜を人道的に扱ったのが会津出身の松江重寿所長だったと敬意を表して書いたことがあるくらいだ。
 俘虜(捕虜)の扱いは、1907年にオランダのハーグで調印し、1912年に公布した「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」、所謂「ハーグ条約」に定めがある。
 戊辰戦争で敗者となり、勝てば官軍の薩長軍などから滅茶苦茶酷い目に遭った会津で育った松江重寿所長だから捕虜を虐待することがなかった。
 それでも、当時は欧米諸国にバカにされないように、文化的水準だって低くないという意識があったかして、国際法遵守の姿勢が維持され、全体的に俘虜の扱いは悪くなかったとされている。

 ところが、第一次に対し、第二次世界大戦ともなれば、この頃は俘虜というより捕虜と呼ばれていたが、戦闘の激化に伴い、捕虜を虐待することが目立つ。

 捕虜虐待で明らかな戦争犯罪として悪名高いのはスターリンのソ連によるシベリア抑留、収容所での強制労働である。
 次いで、フィリピンのバターン半島の死の行進は日本軍がやった捕虜虐待の悪事として知られている。
 さらに、満州で731石井部隊がやった中国人など捕虜をマルタと呼んで人体実験をしたことや米軍の捕虜に対する九大生体解剖などがある。

 語り継ぐ戦争で学習した結果、ソ連、ロシアに対してはシベリア抑留、満州での暴虐の限りの略奪、性暴力などで、いつの時代でもいいから復讐したいと願ってしまうようになっている。
 日本とドイツがそうならないでよかった。
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