人間魚雷「回天」で命を落とした搭乗員らの追悼式が10日、訓練基地があった周南市大津島の回天記念館前で営まれた。全国から遺族ら約250人が参列して慰霊碑に献花。初の出撃から80年を迎え、平和への誓いを新たにした。と11月12日の朝日のDIGITALが伝えている。
回天は、太平洋戦争末期に海軍が極秘に開発した1人乗りの特攻兵器。全長15メートル前後、直径1メートルほどで、潜水艦に搭載されて出撃し、大量の爆薬を積んで敵艦に体当たりした。犠牲者は整備員や訓練中の事故死を含め145人に上り、平均年齢は21・1歳だった。大津島のほか、光市や平生町、大分県日出町にも基地があった。
追悼式は、第1陣「菊水隊」による最初の出撃があった1944年11月8日に合わせ、地元の回天顕彰会が毎年開催。搭乗員や整備員、回天を運ぶ途中で沈められた潜水艦の乗員らをしのんでいる。
式典には2日にあった「平和の島スピーチコンテスト」の上位入賞者3人も出席。スピーチ全文を読み上げて平和を訴えた。
式典では遺族を代表して、小灘裕子さん(71)=神奈川県鎌倉市=があいさつした。
小灘さんは、戦後「全国回天会」の会長を務めた元特攻隊員で、回天の歴史を後世に伝えようと力を尽くした故利春さんの長女。
人間魚雷「回天」の記念館がある周南市の大津島を訪れたのは2011年10月22日のことだった。
朝から雨が降っていて、駅まで行くだけで相当濡れてしまったが、新幹線で徳山の駅に着いた時には雨が上がり、晴れ上がっていたことを思い出す。
あれから13年も経ってしまい、信じられないほど心身共に衰えてしまったが、あの時の自分には活力というか元気があった。
コロナ禍で2020年から2023年はどこにも行かれなかったが、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で北は北海道稚内から、南は沖縄の摩文仁まで周ってきた土地でも、大津島では忘れがたいことがあった。
徳山の駅から港に行き、瀬戸内海の大津島に渡る船に乗船した時、50代くらいの女性と話す機会があり、大津島へ一緒に渡ったのである。
大津島を訪れた2011年といえば、東日本大震災があった年であるが、彼女は原発事故が遭った東京電力福島第一原発の事故処理をする下請け労働者の飯場で働いていたというのだ。
そこで、底辺で働く人達と一緒にいて、何か感ずるものがあったのか。はたまた目覚めたというのか、人間魚雷「回天」の島に行ってみようと決めたらしい。
というのも、山口県の下松市で育ったというから、いくらかなりとも知識はあったのであろう。
原爆ドームに行き、友人と宮島で待ち合わせしている合間に訪れるのだとも言っていた。
慰霊碑の前で、「手向」を吹くときも聴いてくれて、初めて聴く音色で、眠りを誘われたと感想を述べてくれた。
知覧に行ったときのことも話したら、行ってみたいとのことだった。
空の特攻、海の特攻、あれから80年。
平和な日々を過ごしてこられたのは、滅茶苦茶な特攻作戦で犠牲となった人々のお陰であることを肝に命じたい。
その平和な暮らしが脅かされている昨今、それだけに平和の有難みを知る立場として、戦争に巻き込まれないようにするためにも、語り継ぐ戦争の価値を見直していく必要がある。
2024年11月13日
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