太平洋戦争末期、兵士が爆弾を積んだ航空機ごと敵艦に体当たりした。「特攻」だ。大日本帝国海軍が「神風特別攻撃隊」を編成し、初めて体当たりを実行したのは、80年前の1944年10月25日だった。生きて帰らぬ「十死零生」を前提とした特攻を組織的、継続的に行ったのは日本軍だけだ。推進した指揮官ですら「外道」と認めた作戦に、なぜ踏み切ったのか。戦後、一部の軍幹部たちが主張したように「若い兵士たちの意思」だったのか。10月25日の毎日新聞のWEB【栗原俊雄記者】が語り継ぐ戦争の立場から興味深いことを書いている。
神風特攻隊が編成されたのはフィリピン戦線だった。44年10月25日に戦闘機のゼロ戦に爆弾を積んだ特攻隊「敷島隊」5機が出撃し、米護衛空母を1隻撃沈するなどの戦果を上げた。
最初の特攻隊を送り出した司令官、大西瀧治郎中将は決行前、連合艦隊司令長官の豊田副武大将に語っていた。
「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山ある。こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」(豊田『最後の帝国海軍』)
一方で、大西は特攻を「統率の外道」と断じてもいた。本当はすべきではない「作戦」ということだ。だが通常の作戦で太刀打ちできない。陸軍航空部隊も海軍に続いて特攻を始めた。
特攻は45年8月の敗戦間際まで続けられたが、軍幹部が期待したほどの戦果は得られず、劣勢の戦局を挽回するには至らなかった。陸海軍の航空特攻ではおよそ4000人が戦死したとされる。
特攻には「人間魚雷・回天」などの水中特攻、ベニヤ板製のボート「震洋」(海軍)や「マルレ」(陸軍)による「水上特攻」もあった。最も大規模な水上特攻として知られるのは「戦艦大和」など10隻からなる第2艦隊の出撃だ。
45年4月、連合艦隊は沖縄に上陸した米軍を撃退すべく、第2艦隊に「水上特攻」を命じた。だが、大和以下6隻が米軍機に撃沈され、艦隊全体で約4000人が戦死した。
記者は「大和」から生還した276人のうちの20人を含め、特攻で出撃した30人近くに直接会って取材した。「特攻作戦に参加するどうか」と上官から聞かれた人は、ただの一人もいなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのは、2008年8月21日のことで、知覧特攻平和会館を訪れ、特攻平和観音堂内で、施設の責任者の許可を得て、「みたまに捧ぐ」と「手向」を吹いた。
帆足正童海軍航空大尉が1942(昭和17)年3月戦死された追悼曲として、日本竹道会館兼安洞童創始者が作曲されたのが「みたまに捧ぐ」である。
脱出不能な海の「棺おけ」と呼ばれた特攻兵器人間魚雷「回天」の訓練基地があった瀬戸内海の大津島を訪れたのは、2011年10月22日のことだった。
特攻作戦で命令した側は、戦後もおめおめというか、ちゃっかり生き残っている。彼らのうち、ずる賢い者は命令した側の責任を問われないように、出撃した若者たちの意志であたかも特攻が行われたと弁解したことが許せない。
生き残った特攻隊員30人近くに取材し、誰も命令されていないことを確認した栗原記者は自分の使命がよくわかっている。
特攻を推進した指揮官ですら「外道」な作戦であることを認めているにもかかわらず、若者の命が粗末に扱われたことに対し、教育の怖ろしさを考えないわけにはいかない。
自由を奪われ、奴隷状態の民たちの北朝鮮の姿と軍国主義日本の姿が重なってしまう。
金一族に支配された奴隷たちは、ウクライナに侵略したロシアに戦闘員として移送された由。
彼らもまた、命令ひとつで死ぬことを教育されている。
語り継ぐ戦争で、戦没者の慰霊のための行脚を続けてわかったことは、大日本帝国陸海軍ほど若者たちの命、市民の命を大事にしなかった軍隊はないということ。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が法規範とされた日本は、軍人・民間人による玉砕や自決の要因となったことが明らかとなっている。
辱めを受けたとしても、生きていればこその人生だということが分かってきたのは還暦を過ぎてからのことである。
戦争に巻き込まれないようにしなければならない。
2024年10月30日
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