2024年のノーベル平和賞に被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)が選ばれた。広島生まれで『原爆供養塔』などの著書があるノンフィクション作家堀川惠子さんに寄稿してもらったと10月14日の読売が伝えている。
授賞理由に「核兵器が二度と使われてはならないことを証言にによって示してきた」ことを挙げ、「証言」について思いめぐらせたが、作品で原爆投下の光景を綴る中で、どんな多くの「証言」を連ねても、真実には到底たどり着けぬ限界を感じてきた。
歴史は生き延びた者たちの言葉で綴られるが、原爆投下の実像を真に語り得るのは爆心にいた死者たちだ。
核分裂を用いた市民の大量虐殺は、人間の言葉をはるかに越える所業に違いない。
それでも語らなければ、悲劇はなかったことにされてしまう。言葉には尽くせぬ経験を被爆者たちは世代を重ね、語り継いできた。恩讐を越えた訴えは戦後79年間、為政者に核兵器の使用を思いとどまらせてきた。
ノーベル平和賞は、各国のリーダーに核被害を直視せよと促す警鐘でもあろう。
核廃絶という実現困難に思える理想でも、それを手放せば、現実は易きに流れる。戦争被害と加害の両面を知る日本は「最後の戦争被爆国」であり続けたい。
以上が要約である。詳しくは紙面で。
恥ずかしながら、初めてヒロシマを訪れたのは2009年の11月のことで、この年の8月にナガサキを訪れていたので、どうしても行かなければならないと大阪に所用があって出かけた時に訪れた。もっと若いうちに何故行かなかったのかと悔やむ。
語り継ぐ戦争だから、ナガサキは家族も一緒だったが、ヒロシマには2015年の4月、家族を伴いもう一度行っている。
初めて訪れた広島の平和公園で、見つけたのが原爆供養塔で「手向」を吹く準備をしているとき、たまたま通りかかった保育園児たちを引率していた保育士が何事かと興味を持たれ、園児を座らせ聴いてくれたことが忘れられない。
調べたら、お饅頭のような形をした供養塔の下には犠牲となった被爆者が眠っているとのことで、偶然見つけた場所だったが、何だか導かれたかのようだった。
原爆供養塔に関心を持つようになってから、読売に佐伯敏子さんが亡くなったことと、供養塔の清掃をずっと続けていた人だということを知り、立派な人が広島にはいたんだと感心しきりだった。
その後、ある時、連れ合いともども親しくしている女性から堀川惠子さんの『教誨師』(講談社文庫)のことを教えてもらい、ノンフィクション作家堀川惠子という名前を知った。
ところが、その後、コロナ禍を経て加齢とともに気力が著しく衰えてしまい、かつてのように読書も進まなくなるという不甲斐なさで『原爆供養塔』「『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』という名著を内容は書評などで知っているが、まだ未読という体たらくである。
宇品港は南方の戦地から引き揚げてきたわが父が着いた港であり、当然、読まなければならないことはわかっているのだが・・・。
佐伯敏子さん、堀川惠子さんが原爆供養塔の遺骨を家族に届ける話は、沖縄でガマフヤーの具志堅隆松さんが遺骨を掘り出し、家族の許に届けたいと願っている気持に通じる。
その堀川さんは尊敬する作家の一人として、寄稿の内容が素晴らしかったので、一部紹介させていただいたが、語り継ぐ戦争という立場から、ぜひ、一人でも多くの人に堀川さんの気持ちが伝わることを願っている。
2024年10月16日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/191100289
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/191100289
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック