「空母撃沈11隻、撃破8隻」と大ウソの大本営発表がなされたが…のちの「特攻」にもつながる「台湾沖航空戦」の大損害の実態というタイトルで、神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)が現代ビジネスに書いている内容に興味を惹かれた。
2024年は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第3回)
昭和19年10月17日、米軍攻略部隊の先陣は、レイテ湾の東に浮かぶ小さな島、スルアン島に上陸を開始した。
大西瀧治郎中将の一航艦長官就任は10月20日付。
18日の夕刻、連合艦隊司令部がフィリピン防衛のため、「捷一号作戦発動」を全海軍部隊に下令した。
作戦によると、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下、戦艦、巡洋艦を基幹とする第一遊撃部隊が、敵が上陸中のレイテ湾に突入、これを基地航空部隊は全力をもって敵艦隊に痛撃を与え、栗田艦体のレイテ湾突入を掩護する。
大西中将は、一航艦指揮下のわずか数十機の飛行機で、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援し、成功させなければならない。そこで、敵空母を撃沈できないまでも、せめて飛行甲板に損傷を与え、一週間程度使用不能にさせることを目的に採られた戦法が、250キロ爆弾を搭載した零戦もろとも体当り攻撃をかける「特攻」だった。
と神谷尚紀さんが特攻の原点を調べ、教えてくれた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、2008年8月、最初に訪れたのが陸軍特攻隊の出撃基地があった知覧だった。
高木俊朗 『特攻基地知覧』(角川文庫)を買い求めて読んでいるので関心があった。知覧特攻平和会館の敷地内にある特攻平和観音堂内で、施設の責任者の許可を得て「手向」と「みたまに捧ぐ」を慰霊のために吹いた。
訪れた日からもう16年が経ってしまい、後期高齢者になってしまった自分は著しい心身の衰えが目立つ。
それでも、もう一度知覧に行かれれば、その後、語り継ぐ戦争で勉強してきたのでまた違った感慨もあるはずだが、果たして実現するかどうか。
語り継ぐ戦争だから、知覧には連れ合いだけでなく、運転免許を取ってから運転の実績もない家族が鹿児島空港からレンタカーで運転してくれたが、しっかり次世代の一員に特攻隊の悲劇を語り継ぐことができたのではないかと自負している。
特攻作戦といえば、アジア太平洋戦争で最も愚かな作戦だったと断言できる。
後期高齢者になって、もうお迎えが近いことだろうと自覚しているから、若い人を死なせた軍の幹部たちの愚かさ、身勝手さに言葉が出てこない。
若い人は国の宝であり、その人たちを死なせるくらいなら、軍の幹部たちこそ死ねばいいのだ。
特攻の原点のことは知らなかったが、戦った相手の米国との国力の違いに目をつぶるという滅茶苦茶な考えで戦争を始めた軍人はつくづく愚か者たちである。
学校の勉強だけはよくできた秀才たちであるが、人間として賢くないから、愚か者だと断じている。
空母に代表される軍の艦艇、戦闘機、爆撃機など航空機の性能、数すべてで米国の方が上回っているにもかかわらず、虎の子の戦闘機や爆撃機を空母などの艦艇に突撃させるなんてありえない。
作戦を考えた者、実践させた者ともに大馬鹿者である。
軍隊だから命令となれば、若い人だって死なないわけにはいかない。
死んでしまえば、お仕舞いだ。
このことを教訓にするため、A級戦犯が合祀されている靖国神社には自分は行かず、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑に行きお参りした。
2024年10月15日
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