2024年10月10日

10・10空襲・空爆から80年

 アメリカ軍が沖縄などに大規模な空襲を行い、1400人以上が死傷した「10・10空襲」から、10日で80年。この空襲は、日本で初めて民間人が大規模に標的となったとされ、体験者たちは翌年の沖縄戦の始まりとしても語り継いでいる。とNHKマイあさラジオが伝えてくれた。

 10・10空襲は、1944年10月10日にアメリカ軍が沖縄県内各地や奄美諸島に激しい攻撃を行ったもの。

 午前7時前から始まった空襲は5回にわたり、およそ9時間続く。1400人以上が死傷し、当時の那覇市はおよそ9割が焼失、コンクリートの建物を除くほとんどの家屋が焼けた。

 日本で初めて民間人が大規模に標的となった無差別攻撃とされ、668人の死者の多くが民間人だった。

 体験者の多くは翌年の沖縄戦の始まりとしても捉えており、アメリカ軍も空中から沖縄の詳細な状況を撮影するなどして、後の上陸作戦に備えて詳細な資料を作成していた。

 沖縄県平和祈念資料館の学芸員で太平洋戦争や兵器の研究を行っている仲程勝哉さんは、アメリカ軍は木造建築が密集する日本で効率的に打撃を与えることを目的に焼い弾の実験を繰り返していて、初めて日本国内に投下したとされているのが10・10空襲だという。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、2008年から北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで周っている途中、2020年になってコロナ禍に見舞われ、どこにも行かれなくなったことで、5年近くのブランクができた。

 空襲、空爆といえば、当然、軍需工場や大都市東京、大阪などがターゲットとなった。
 その大阪では、大阪城に行ったとき、ボランティアガイド植野雅量師に大変お世話になった。
 その後も、交流が続き、大いに勉強させていただき、わが師と仰いでいたが、2023年11月に亡くなったとのご連絡を頂戴した。90歳だった。
 初めて、案内していただいたのは2009年の11月のことだったと記憶する。
 後期高齢者になってしまった自分と当時の植野雅量師の年齢が同じくらいだったはずだが、それにしてはお元気でバイタリティーがあり、話していただいた自らの空襲体験が忘れられない。
 12歳だったと耳にするが、友達と一緒にいた時、米軍機からの銃撃を浴びたらしい。友達は犠牲となったが、運よく助かった植野少年は、空から銃撃する米軍パイロットの顔が笑っていたように見えたそうな。
 それから、米国が大嫌いになり、英語の勉強に実が入らなかったというのは、冗談だったかもしれない。

 その大阪にこの秋、師の墓参りに行くことを計画している。
 5年近くのブランクで著しく心身ともに衰えてしまったので、不安であるが、お世話になった人には墓参りするのが自分のスタイルだからお参りしないわけにはいかない。

 さて、沖縄の空襲で米軍は木造住宅が多い日本の都市への空襲・空爆には焼夷弾が効果的だとわかり、翌年の東京大空襲・空爆には焼夷弾を空からこれでもかというほど滅茶苦茶に落とした。
 まさに、民間人を狙ったジェノサイドである。

 日本が戦争を始めた時の軍幹部が敗戦後、東京裁判で裁かれ,A級戦犯として処刑された人たちが靖国神社に合祀されたことから、天皇が靖国神社に行かなくなった。
 先般の自民党総裁選挙で、決選投票に残った女性候補は8月15日に靖国神社に絶対行くのだと宣言していたことから、語り継ぐ戦争の立場から、この人が国のリーダーになる資格がないと案じていたら、逆転で総裁に選ばれなかったのでほっとした。

 米国との戦争に敗れた日本はまさに米国の属国に成り下がってしまったが、日米地位協定の改定に意欲を示すと新しい総裁、総理が発言していると伝えられていることを知り、応援している。がどうなることやら。

 とにかく、空襲、空爆は民間人と軍人を区別する術がない以上、皆殺しということで、許されない行為だ
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