太平洋戦争を語り継ぐため、体験者が個人で設けた私設資料館が各地で姿を消している。生々しい証言や遺品を通して来館者に戦争の悲惨さを伝えてきたが、体験者がこの世を去り、受け継いだ遺族らも高齢化が進んだ。戦後80年に向けて、悲劇の伝承が岐路を迎えている。と9月16日の読売(浦西啓介記者)が伝えている。
大分市の川野孝康さん(68)が元特攻隊員の父、喜一さんが市内の自宅で開いていた「予科練資料館」を8月14日に閉館した。収蔵品は大分県護国神社に寄贈する。
前橋市では空襲体験者の発案で自治会が12年に開いた「あたご歴史資料館」が20年に閉館した。
岡山市では自身も空襲を体験した男性が00年から自宅で開いていた「岡山空襲資料センター」を17年に閉じた。
自治体やNPO法人などが運営するものも含め、平和関連の展示を行う施設は国内に90か所以上あり、全世界の約300か所の3分の1を占めるという。
苦境に立たされる資料館がある一方で、入館者が増えている施設もある。
長崎原爆資料館は2023年度の入館者が22年ぶりに75万人を超え、広島平和記念資料館も198万人超が訪れ、過去最多となった。
「大阪国際平和センター」(ピース大阪)では、前年度から2割増えた。知覧特攻平和会館などの協力を得て、開催した特攻の企画展が好評だった。
旧満州の開拓団の歴史を伝える「満蒙開拓平和記念館」は2020年から語り部のトークをオンラインで配信している。
戦争の記憶をデジタル化することで、紙資料や遺跡の劣化に備える動きが広がっている。と9月17日の読売が夕刊で伝えている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2008年から北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで周ってきた。コロナ禍になってブランクができ、その間心身ともに衰えでしまったが、もう一度復活させたいと願っている慰霊の旅。
当然、資料館があれば、見逃さずに訪れてきたので、こちらも著名な場所は訪れているのではないか。
2022年3月26日、沖縄TVがFNNプライムオンラインで放送した「遺留品10万点は「物言わぬ戦争の生き証人」 一つでも多く遺族のもとへ返す…元新聞記者の思い」で紹介されていたのが沖縄の国吉勇戦争資料館である。
2016年8月に訪れ、国吉さんに話を聞いている。
60年に渡って戦没者の遺骨収集をボランティアで続けていた国吉勇さんが、自宅の一角に作った資料館で、戦時中の薬瓶や水筒や飯盒など約10万点の遺留品が並んでいる。
国吉さんは6歳で沖縄戦を経験し、母親や兄弟、合わせて5人を戦争で亡くした。60年に渡って遺骨収集を続け、約3800柱の遺骨を地中から掘り出し、万年筆など様々な遺留品も遺族に返還してきた。
2016年に収集活動を引退したあとも資料館の案内は続けていたが、2019年からは体力の限界で閉館状態が続いてきた。
青森県から20年前、国吉さんの資料館を訪れた、新聞記者浜田哲二さんと妻・律子さん。
国吉さんに啓発されて、遺骨収集ボランティアを始め、国吉さんの資料館で保管されていた遺品を遺族の許に返すための取り組みをしている。
奥間勝也監督『遺骨を掘る男』でスポットを当てられたガマフヤー具志堅隆松さん。70歳になるまでに40年以上沖縄戦の遺骨収集を続け、およそ400柱の遺骨を探し出した。
その活動に密着したドキュメンタリー映画で遺骨収集がどれ程大変ことか教えられた。
具志堅隆松さんと国吉勇さん。
浜田哲二さんと妻律子さん。
遺骨収集のことを行動的慰霊だと言う具志堅隆松さん。
遺骨、遺品を遺族の許に返すために遺骨を掘る人達。
敬意を表し、エールをおくりたい。
個人で戦争資料館を維持することは考えただけでも気が遠くなりそうだ。
2024年09月20日
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