戦後79年「戦争の末路」と題する読売の連載、8月17日の4回目は、空襲、空爆の問題をとりあげている。
東京女子大学教授の柳原伸洋さん(47)が独日両国が受けた都市爆撃の研究を続けてきたのは戦争とは何か。その答を見つけるためだ。
世界大戦の引き金となる1939年のドイツ軍ポーランド侵攻が43年夏にはハンブルクで3万4000人もの市民が死亡する火炎嵐(ファイアストーム)が起きることになる。
戦争が変わった。炸裂弾に大量の焼夷弾を混ぜて投下し、命が維持できない空間を作った。この方法が後に東京、大阪など日本の都市で起きる爆撃だった。
日本では被災した地区の消火活動を義務づけた防空法=空襲対策法があったため、東京大空襲で多数の人が逃げ遅れた。
戦争は市民の暴力性を強化する一方で、誰しもの心の中で、死にたくないが、加害者にもなりたくないという心理が働く。ここに戦争に反対するための重要な想像力があると信じている。
6面では、「都市爆撃 欧州から日本へ」爆撃を受けた日本の都市200超、民間犠牲者50万人という見出し、日本地図で民間犠牲者が出た被災都市などが一目瞭然となるようにわかりやすく解説されている、
多様な被害を知り、多様な恐怖を想像することはできる。戦禍の恐怖を想像することが重要だと言う柳原さん。
多様な恐怖を想像するだけで意味がある。都市爆撃の歴史は今につながっているからだ。
自軍の被害を抑え、心理負担もない戦闘がますます重要になる。
今の世代の方がこうしたことを考え、戦争の歴史と結びつけることができるのではないかと思っている。と結ぶ。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2015年8月、両国にある東京都慰霊堂で犠牲者の供養のために尺八を吹いたことを思い出した。
許可をとろうとしたが、誰もいなかったので、供養のためだから許されるだろうと吹いてしまった。曜日と時間帯にもよるにしても、ふだん、あまり参拝者がいるとは思えなかった。
都の慰霊堂は東京大空襲ばかりでなく、関東大震災の犠牲者も祀られているとのこと。
空襲といえば、姫路城で知られる姫路の手柄山中央公園には『太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔』があり、空襲、空爆を受けた全国の都市それぞれの慰霊碑もあった。
お参りしたのは2010年11月のことだが、慰霊碑は慰霊碑だが、どちらかといえば、沖縄戦があった沖縄で遺骨が収集されていない地区にある慰霊碑とは形式的というか一線を画すような気がする。
空襲空爆があった都市を訪問し、その街の犠牲者のことなどを知り、慰霊碑にお参りする方が気持ちが届きそうだ。
古希から後期高齢者になる間、自分の人生で動けるのもこれが最後というときにコロナ禍で戦没者の慰霊のための行脚に行かれなくなってしまった。
今は、すっかり衰えてしまい、なかなか気力が湧かないが、戦後79年で、自分よりはるかに人生の先輩方が元気に証言しているのを知ったからには自分も、何とか、語り継ぐ戦争を続けていきたい。
空襲、空爆、原爆は空から爆撃機で住民をジェノサイドしても、直接、市民の苦しむところを目撃することがないので、加害者としての痛みは軽くすんでいるだろうが、やられた被害者側にとっては、とんでもないことで、だから、語り継ぐ戦争の自分は反米になってしまったのではないか。
原爆投下による被爆者の苦しみを考えようとしない加害者は戦時中はともかく、戦後になれば、被害者に謝罪して当然にもかかわらず、米国人は謝罪しない。
空襲、空爆の被害者清太と節子のことを米国人に伝えていく必要がある。
軍人でもなんでもない少年と4歳だったか幼い妹が空襲で生きていかれなくなったことを空襲、空爆した人間は知らせなければならない。
2024年08月21日
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