戦後79年「戦争の末路」というタイトルでの読売の連載の3回目、8月16日は航空戦史家織田祐輔さん(38)が米国立公文書館の資料から、岩国市沖の瀬戸内海で空襲を受ける「大和」の映像を発見し、戦艦の時代が終わり、航空機が主役となる技術がもたらす戦争の惨禍を考えるだった。
空母艦載機の行動半径は数百キロ以上に及ぶ。海戦の主役が戦艦から航空機になる中で、工業生産力で米国に劣る日本は1944年の生産機数は3万機だが、米国は10万機に上っている。
44年10月のレイテ沖海戦で主力艦はほぼ全滅。45年4月、大和は撃沈され、日本の都市は米軍の新型爆撃機B−29の空襲で焦土と化す。
第二次世界大戦が始った39年からわずか6年。主翼が二重になっている複葉機が第一線で使われていた時代からジェット戦闘機やロケットが登場するというように戦争が技術を進化させた。
以上が1,2面の要旨である。
6面には、空の戦い 遅れをとった日本という見出しで「太平洋戦争の航空機史」が開戦初期から激闘期を経て敗勢期へと時系列で資料が掲載されている。
「豊の国宇佐市塾」所属でもある織田祐輔さんは、米国の航空技術が「海戦」を一変させた。として日本の被害の発掘を続ける。
米国に戦争の準備ができていなかった日米開戦初期こそは日本が優勢だったが、態勢を立て直し、航空機の大増産に乗り出し、形勢は次第に逆転してしまう。
航空機の戦いになるとその国の総合力が正確に反映する。兵器を生産する工作機械の質で日本は劣っていた。
形勢が明らかに不利になった日本は特攻作戦を始める。
地元での戦争被害を発掘することが大切だ。戦争の惨禍は、土地の記憶と結びつくことで、より身近なものに感じるからだ。と結ぶ。
旧日本軍では陸軍と海軍とのせめぎ合いみたいなことがあったのではないか。
大嫌いなことではあるが、空からの特攻で出撃した隊員の所属が陸軍と海軍になっていることから、当時、空軍、現在の航空自衛隊がなかったことから、陸海両者が航空機を持っていたことになる。
空母が大事にされてきたのは、航空機を運搬できるからで、その空母をミッドウェー海戦でその大事なお宝空母を4隻も撃沈させられてしまった。
戦艦大和を建造するくらいなら、航空機を製造すべきだったし、大事な航空機を特攻作戦で無駄に使ってしまったのだから、お前らバカかと言いたくなる。
大和だって、撃沈されるために出撃したようなもので、重ねて命令したお前はバカかと言ってしまう。
口では本土決戦と勇ましいことを言いながら、その実、本土を守るための航空機を特攻作戦で撃ち落とされてしまったのだから、やっていることが納得できない。
米軍が本土を空襲、空爆することなどサイパン陥落以前からわかっていたはずである。
空襲、空爆に来たら、戦闘機で迎撃しなければならない。
語り継ぐ戦争の立場である自分の認識で不十分だったのは、技術革新の速さで、特に、米国の国力と技術力には恐れ入る。
原爆がその最たるものであろうが、国土の面積をみても、はなから敵いっ子ないのである。
制空権を支配されてしまうと、市民は空襲、空爆からいかにして、生き延びるかということで、戦意など高揚するわけがない。
現在、東京の空は、米軍横田基地が制空権を持っているという。信じられないことだが、本当みたいだ。
とにかく、制空権というのがいかに大事かわかった気がする。
2024年08月20日
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