「いま風 金曜日」「言葉のアルバム」というタイトルで、テレビマンユニオン会長重延浩さんが「旧樺太で終戦 番組作る原点」だと7月12日の読売夕刊(佐藤淳編集委員)で少年時代樺太での戦争体験を語っている。
海に沈む自分を想像することがある。北の冷たい海でたった一人。足から暗い海の底にゆっくりと吸い込まれていく少年の姿が見える。我に返るとほっとする。生きていることを実感する。という戦争体験者ならではの想像のことは聞いているだけで怖ろしい。
1945年8月9日未明、ソ連軍は自国領の北樺太から日本領南樺太へと侵攻し樺太は戦場となった。
母と4人の兄姉と共に乗るはずだった避難船「小笠原丸」は8月22日、ソ連軍の攻撃で沈んだ。出港する間際、自宅がある豊原に残った医師の父を案じた母が「帰る」といったため、引き返した。
豊原でソ連軍の空爆、機銃掃射で広場には血まみれの人がおおぜい横たわっていたのが8月22日のことだった。
小笠原丸を含む三船が攻撃されて約1700人が命を落とし、豊原の空襲でも100人以上が亡くなった。
一家が北海道に向かう引き揚げ船に乗ったのは46年12月だった。
それでも、ソ連軍侵攻後、ロシア人青年との交流ができ、ソ連兵向けの映画を観ることができたことで、後に、放送界で映像制作に打ち込む原動力になった。
そのロシアの指導者のウクライナへの侵略戦争から目を離せずにいる。
戦火から逃げまどうウクライナの人があの時の自分たちと重なるからだ。
「戦争には勝者も敗者もない。人の尊厳を踏みにじるような権力を決して許してはならない」と結ぶ。
人の生き死について、子どものころからよく考えてきた。
母方の祖母が亡くなったのは、中学生のときだったと思う。
母の実家は旧家というのか屋敷の一角に墓地があり、祖母は土葬された。土葬だと棺箱が腐ると沈むとされているが、墓地で地中から足を引っ張られるように土が沈んだときは怖くなったことを思い出す。
16歳の夏休み、今度は父親が突然、病死したが、この時は火葬になっていて、初めて橋渡しで骨を壷に入れた。この時、父は53歳だった。召集されて、スマトラ島に派兵され、辛くも生きて帰ってきたというのに病気には勝てなかった。
さて、小笠原丸に乗るはずだった重延さん一家が母親の機転というか、偶然、乗船を取りやめたことから、命拾いしたということは語り継ぐ戦争では耳にすることである。
小笠原丸といえば、横綱大鵬が母親と一緒に樺太から小笠原丸に乗ったのだが、稚内で船から下りたことが幸いして命拾いしたことはすでに書いたことがある。
というのは、小笠原丸など三船がソ連に沈められたのは留萌の鬼鹿海岸沖だったからで、1700人超の人が犠牲になった中で、小笠原丸に乗らずに助かった人、乗っても稚内で下船したことで命拾いした人がいたのである。
小笠原丸などの犠牲者の慰霊に訪れたのは2010年の8月のことだった。
増毛の町営墓地にあった小笠原丸の犠牲者の墓は、訪れたのが夕方になろうかという時間帯だったからか、今、思い返しても怖かった。
つくづく思う。
命拾いした人は、天命というか使命として、戦没した人のことを語り継いでいかなければならない。
2024年07月14日
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